閉じる


<<最初から読む

126 / 202ページ

125

夕食前の閉鎖病棟はまるで人間動物園だ。家畜が「放送入った!?」と繰り返し
怒鳴る。叫ぶ。恐ろしいことこの上ない。そのうえ、老人が暴言を吐いてケンカが
始まる。コップの水が辺りに撒き散らされる。
竜牙のあとをずっとついていった。席も隣に座った。僕は今までの生活で、こんなに
ひどい叫び声を聞いたのは初めてだった。遠くの病棟から悪魔のような高笑いが
聞こえてくる。

入院患者には、すさまじく汚いコップを持っている人もいる。
でも僕はわりと几帳面なので、毎日コップをティッシュで拭いている。もったいないので
2枚に分けてね。
前のベッドのブッチャーが死んでるように見えて、リアルに怖かった。

竜牙のベッドの脇に座って話している時間だけが、僕のささやかな癒しだった。
「入院して困ったことって、何かあるか。俺は浴槽に入れねえことかな。
浴槽の中で便を漏らしやがる奴がいるらしい。それを聞いてから、一度も
入ってねえけど、更衣室が寒いぜ」
「僕は、・・・そうだなあ、ぶっちゃけ、4人部屋だとオナニーできないこと」
「ははは」竜牙は僕の肩をポンと叩いた。「お前、上品そうな顔して面白れーな。
いいぜ、何やってても。向こう向いてるからよ」
「僕は理性的な人間でありたいんだよ。失敗ばかりしてるけど。
プライドというものが・・・」
「はっはっは、俺までオナニーしたくなってきたぜ。お前本当面白れーな!
これからよろしく頼むぜ」
「おう、よろしく頼む」


126

 腹に緊張感があり、吐き気がする。でも今日はよく寝た方だと思う。
4人部屋が知らない高齢者ばかりだったら嫌だけど、顔見知りなので
よかった。
僕は不器用で正直だから、隠すことなどできなかった。すべてを隠すことなど。
こうなるのは当然の成り行きだった。はやみんが悪いんじゃない。僕がはやみんの
温もりを忘れられなかったんだ。

今日は風呂の日。風呂に入るのはいつも怖いし、浴槽に入れないので寒い。
何とか保護室に行かないようにしたいのだが・・・
一日が、とっても短く感じる。車なら、こんな速度で捕まらないのかな?
と思うほど速い。もう昼の12時30分。短すぎる。
淡い水色のカーテンの隙間から光がこぼれて、ブッチャーのベッドのあたりに
反射する。きららは今頃何してるかな?病院の仕事ってどんなものだろう。
いつか、壊れてしまった僕を治してくれるかな・・・?

 


127

閉鎖はトイレは綺麗だけど、人間というか一人の大人としては扱ってもらえない。
カフェテリアに食事に入ったとたん、鍵が閉められる。病棟の方へは戻れない。
小屋に閉じ込められる鶏や牛みたいな生き物だ。
カミソリも、使わせてくれない、面会のときにしろ、と言われた。

いつものように、廊下から叫び声が聞こえてくる。僕はキツい看護師をもう看守と
呼ぶことにした。つまり、看守に怒鳴られて、少し凹んでる。何かもう、嫌になる。
でも不思議な事に、それは死にたい気持ちと違った。生きたくてもがいてる小さな
小さな虫のような気持ちになった。ふざけんなよ、と叫びたくなるけど、コーヒー
でも飲んでゆっくり考えよう。

モーニング・ショットというコーヒーを買ってみた。病棟が変わってみたら、金の
微糖のアイスコーヒーがなかった。頭がぼんやりしていてホットを買ってしまった。
金の微糖には及ばないが、コーヒーを飲んでいる気にはなる。


128

リハビリ室に行ったとき、はやみんと会った。あのとき「僕のせいなんです、全部
僕が悪かったんです」と言ったら、はやみんにはおとがめが無かったようだ。
そして、僕は嬉しくてたまらない。はやみんが閉鎖(第二病棟)に行かなかった事に。
恨んでなんかいないよ、できるだけ長くいてくれ。

カフェテリアで3人掛けのソファに座る時、必ず竜牙は真ん中に来る。それを挟んで
座るのが玲音と僕だ。玲音はずいぶん前から閉鎖にいるらしいが、数ヶ月前入ってきた
竜牙と兄弟になっていた。「ねえリュウ、今日の夕食何かねえ」玲音が尋ねた。
「たしか魚のあんかけと・・・汁物は忘れたな。ジュナンはわかるか」
「僕は字が揺れて献立表が読めないんだ」
「そうか、お前さんも大変だな。でも保護室行った事ないって本当かよ。あそこは
ひでえぜ。俺は最初の一週間は保護室だった」
「僕はそこまで暴れたりしないからな」
「僕も何度か保護室入ったよ」玲音が年齢より幼いような、頼りないような声で
言った。「人間の扱いじゃないよ、あれは」
「レインはケンカしすぎだろ。もうちょっと冷静になれよな。じゃないと出れねえぞ」
この男は顔に似合わず、優しい。僕は直感でそう思った。そしてどこまでも温かい。

考えている事をすぐに忘れてしまう。末期だなあ。メガネケースを取りに来たんじゃ
なかったっけ。思い出した。メガネなんて毎日使うの中学生の時以来だな。あとは
コンタクト。
気がついたらコップにお茶が汲まれている。誰がやったんだろう?これも僕が忘れて
しまったのか?
飲んでいいものかも分からないので、とりあえず口をつけて、味を確かめて飲んだ。
普通のお茶だった。僕が思い出せないだけなのか?末期だなあ。

 


129

今日の夜の気分は最悪。エルレでも聴いて気を紛らわしている。
玲音に「僕をいじめる人に見える」と言われた。弱いけど正直な僕の
どこがそう見えるんだ。玲音はそういって、きかない。最初は兄弟のようだったのに、
どうしたんだろう。
竜牙に尋ねると、「あいつはちょっと被害妄想が激しいからよ、気にしないのが一番だぜ」
と言われたので、少し安心した。
「おっ、タバコの時間だ。行ってくる」
僕は不安なまま竜牙を見送った。ヤケでリスパダールを飲んだ。
もう寝るよ。おやすみ

(一日後)

今日は、「トイレの守り神様」に起こされた。いつもトイレで来る奴を見張っている
から、一部でそう呼ばれているらしい。
彼は大声で叫ぶ。「浣腸します!?浣腸します!!?」
あと半時間だけ寝たかったのに。しかもそいつは廊下で「眠れた?」などど
話しかけてきやがった。おまえのせいだよ!
モーニング・ショットを飲んだが、少しも美味しく感じられなかった。やっぱり
金の微糖が恋しくてならない。



読者登録

あめのこやみ(おけちよ)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について