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タイラーがぽろりと言った。結局、他に喋る人がいなかったので、僕は
どこまでも付きまとうことにした。
「そういえば、紺野アゲハって知ってる?」
「知ってるよ」
「あの子、自殺図って閉鎖に移ったらしいよ」
「えっ」心がここにない僕も、さすがにこれには驚いた。「君とよく話してた子だよね。
何かヤバい事言ったんじゃない?」
「ヤバい事…?」僕はぼけた頭で、昨日の献立も思い出せないような頭で、
必死に考えた。
「キレイだよ、とかかわいいよ、みたいな事を言ったような・・・」
「もしかしてそれかもよ。健康な人だったら大丈夫だけど、入院してるような子だったら、
それを悪くとる場合もあるじゃん。知らないけど」
「そうなのか・・・?」

僕がアゲハを壊してしまった・・・?何となく実感がわかない。本当にそうなのか?
しかしその真偽はともかく、アゲハはこの病棟のもうどこにもいない。
寒気がした。僕は震えていた。そんなにも簡単に、閉鎖に落とされる?
「ねえ、聞いてるかい」
「ああ」
「あの子、鬱なんだけど、顔に出すのが苦手で、ずっと人前では笑ってたって聞いたよ」

 


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アゲハ、アゲハ、・・・アゲハって誰だったっけ?どんな人?
それすら、知らなかったような気がする。
僕は、壊してしまったのか、よく知らない女の子を・・・


エアコンはときどき、喋る。遠すぎるラジオのように小声で喋るので、
気になって仕方がない。もっとも大声で喋られても困るが。
今日は休ませてくれるのかと思ったら、運動会の総練習があるようだ。
ああ死にたいな。輪廻なんて信じたくもない。

「こんにちは・・・」僕が明らかに沈んだ声と顔で言った。
「こんにちは、どうしたの」男の医療スタッフが優しそうに言った。
「運動会の総練習、全員が出なきゃいけないんですよね・・・」

 


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「ええと、待ってよ」医療スタッフが紙を見た。「君は出なくていいよ。午後から
別のプログラムに参加してもらうから、疲れちゃうでしょ」
「もう十分疲れてますよ。ええと・・・何言うか忘れました」
スタッフはふふっと笑った。「思い出したら言って」
部屋に肩を落として帰った。帰ってもまだ思い出せないのが辛かった。
午前中は思い切り寝てやろう。

自販機で、カルピスソーダを買って飲んだ。僕は炭酸は苦手だったが、
自販機に並んでいると挑戦したくもなるものだ。
部屋のポンコツのエアコンがあまりに静かにしてくれないのがいまいましくて、
おかしくなりそうだ。もうおかしい奴の言う事じゃないけどな。


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タイラーと久しぶりに廊下でばったり会い、話をした。前回話した時が
もう遠い昔のように思えた。
「ここに来て一週間位は、独房に入れられた。何をしてんだろうなと思ったよ。
他の人は働いて、自動車乗り回してさ、世間の役に立ってんのに。自分は
何をしてるんだろうなって」
僕は言った。「ここに来る奴はみんなそう思ってるさ」
タイラーが遠い目をして言った。「ああ」

二人でカフェテリアに入り、無表情で席についた。
タイラーほど穏やかな奴が、独房に入るなんて一体何をやらかしたのだろう
と思ったが、尋かなかった。
タイラーは珍しくその夜は饒舌だった。「家族なんて、姉がときどき面会に来るだけでさ、
父さんも母さんも死んじまった。運命を呪ったこともあるけど、今はもういいよ、って
思えるようになった。僕は始めから、天に見捨てられた存在だったんだよ。天に
見捨てられたから、生まれてきたのさ」
僕は頬杖をついて言った。「僕も20年後はそんな感じだろ」
タイラーが少し涙目になった。「とりあえず、ろれつが回らないのがイラッとくるよ。
死にたい。窓を破って飛び降りたくなるよ。そっちの方向に引っ張られる。
ジュナンは?」
「僕も、無性に死にたくなる」僕らの意見は一致した。

 

 


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アゲハについては、何の痛みも感じない。感覚が麻痺している。
現実感がなくて、自分の事じゃない感じ。空も、木も、街も、
みんな寝ている。そんな気がする。

10時になったので、売店にプリンを買いに行った。買った事で満足して
しまって、食べながらぼんやりしていたら、あっという間に食べ終わってしまった。
美味しいかどうかもわからなかった。

ここの食事は、食欲を失くしている僕にとっては、少し多い。無理矢理食べたら、
胃が久しぶりに食べ物を受けつけて、悲鳴をあげている。クスリを胃に流し入れるのに、
やっとだった。
「グゥ」と胃が鳴る。僕に生きる気などまるで無くても、胃は生きようとしているのだろう。
その必死の抵抗を、僕は曇りガラスの向こうから眺めている。
偉いなあ、胃は。僕の脳ミソの何て腐っている事だろう!



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