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Baby,Goodbye

170

竜牙がいなくなってから、僕はしばらく放心状態だった。
何もせずに、レクにも参加せずにベッドの掛け布団の上に横たわっていた。
これからどうしよう?僕が玲音を守るのか?
いろいろな言葉が、頭で渦巻いては消えていった。

ここにいたら、常に大人である事を求められる。自分よりずっと大人気ない大人もいるし、
守らなきゃならないルールがいっぱいあるじゃん?ルールやそいつらと上手く付き合って
いかなきゃならない。
でも24歳なんてまだガキじゃない?社会とか自然とか地球規模で起こってる事なんか何も
知らないし、大人のふりをしていたって、やっぱりガキはガキだよ。でもガキとして扱われるのも
嫌なんだ。僕はね。どっちかにしろよ。
いずれにしても、僕だけじゃダメだ。玲音には、守ってくれる大人が必要なんだ。
その大人を探す事が、僕の役目なんだろう。

今日の昼過ぎ、守り神様と他の人がケンカしていたようだ。「ようだ」というのは、遠くの部屋から
怒鳴り声と奇声が聞こえてきたからだ。と言っているうちに、守り神様はなんと僕の部屋にまで
侵入してきた!
ざけんなよ、またくたばりたいのか、お前・・・
しかし、廊下で人が見ているかもしれない。僕は首根っこをつかむと、そいつを部屋から追い出し、
戸を閉めるにとどめた。ただの正当防衛だ。
僕の退院の日はもう決まっているんだから。邪魔はいらない。


171

美味いブラックコーヒーは、切ない味がする。お菓子と一緒に食べると、とっても
甘くて切ない。今の気分もあるかもしれないが。
風呂に入ってきた。シャワーだけ浴びて、髪と体を洗って外に出た。着替える場所は
本当に寒かった。
そして、僕が生きている証拠を本当に説明できるもの・・・僕は手に入れた。
ブラックコーヒーの無糖。甘すぎるものは、無糖のブラックと一緒に飲むととても
相性がいいんだ。WONDAのは量が少ないのが残念。他社も同じかもしれないが。
でもアイスコーヒーに敵うような趣味はないよ。
ブラックでも甘いのは何がいいかわからない。

そういえば、僕はミルクティーも抹茶もだいたい飲み物は好きだよ。炭酸飲めるし、
嫌いなのは果汁の少ない砂糖臭い味のジュースくらいだな。

きららから、返事がまだ届かない。入院中で、いつ退院するかわからないから、
送りにくいんだろう。僕はいつも飢えているんだ。何にかは、あえて言わない。


172

いつものように、夕食前窓の外を見ていた。
姉さん・・・あれは幻だったのか?答えてくれよ。
もう一度会いたいよ。もう一度会って、フィリピンでの生活の事、夫の事、
何でもいいから聴かせてくれ。
晩秋の窓の外を、寒い風がただ、通り過ぎる。

そのとき、僕は見つけた。
その女性も、気付いたようだった。少し雨が降っているのか、ナイロンのピンクのパーカの
フードをかぶった、はやみんが大きな瞳でこちらを見ている。
はやみんは僕をみつけるなり、何か大声で叫んでいるようだった。何か必死に、
伝えようとしている。でもここは病院。普通のガラスではないのだろう。何も聞こえない。
「はやみん、聞こえない・・・よ。聞こえない」
もちろん手話など知っているはずもない。
はやみんの目から、そのうち涙がこぼれてきた。何を言っても伝わらない。ドンドンとガラスを叩くが壊せるはずもない。
それに、こんな夕食時、叫ぶこともできない。おっさん達が後ろで見ているだろう。
「はやみん・・・グッバイ」
僕のせめてもの気持ち。僕はガラスに唇をあずけた。ありったけの熱と優しさをこめて。
はやみんも、それには気付いたようで、ガラスに唇を重ねた。唇に残るのは、ただただガラスの冷たい
感触。
僕は、はやみんを卒業したんだ。もうこれが最後のキスさ。
たった2,3秒の冷たいキス。
そのあと、はやみんの口が何か動いた。涙がはやみんの口のところまで来ていた。
「あ、り、が、と、う」
僕にははやみんがそう言ってくれたように感じた。

パーカを再び頭にのせ、はやみんが走ってゆく。
「ありがとう」僕は誰もいない真っ暗なガラスに向かって呟いた。


173

玲音が突然「死にたいです、ヒモをください」といって部屋に入ってきた。
僕はアセったが、こんなとき竜牙ならどうするだろう?と考え、腕を優しく
包むように支えて、ナースステーション前に連れていった。
玲音を苦しめたのは、レノとの会話。レノは普段から玲音を「臭いっす、気持ち悪いっすよ」
と言っていたから、それがどこからか伝わったんだろう。
どうもレノと玲音は合わないらしい。僕は何か明るい話題でも提供しようとしたが、
玲音が文字通り「幽霊のように」落ち込んでいて、何も慰めることもできず、結局
それぞれの部屋へ帰ることとなった。

レノは20代にもなって、「見た目の汚いものは、心も汚い」と思い込んでいるのだろうか。
それはマンガの世界の話だ。
そうじゃない、逆のものがいっぱいあるんだよ。見た目どんなにナルシストで優しそうでも、
心の何と汚いことか・・・そんなのそこら中にいる。僕らはまだ若いから経験が無い。
見分けられないけどね。


174

冬もTシャツ、ジーンズ、カーディガンくらいで過ごせないものだろうか。
寒さに慣れるために、僕はTシャツ一枚でこれを書いてる。でもベストくらい
あった方がいいかな。

ブッチャーがまた仕事の話を始めたので、僕は「もうやめてくれよ」と言ったのだが。
「仕事はしなきゃ食っていけないよ。働かないと死んじゃうよ。いいの?」
もう放っといてよ。僕の将来の事なんか考えさせないでくれよ。お前らにはどうでも
いいんだろ、僕が野垂れ死にしようがしまいが・・・
僕はどのみち、惨めに死ぬんだ。そんな将来しか見えないんだよ。
資格をとれる能力があれば、もうとってる。もう何もかも無理だから、ここに来たんだ。
現実自体を捨ててしまったんだよ。僕はそのころからブッチャーの残酷さを恨むように
なった。

僕は自分に才能がないと思っていたのだけど、違う事に気がついた。才能は
ある。クサい言い方をあえてすれば、僕は人を信じ、愛する事ができる。それって
今時貴重な能力なんじゃないか?
人を信じる事が仮にできなくても、金を稼いだり、一人暮らししたりする事はできる。
いくらでもできる。生きやすいだろう。
でも本当にそれで満足か?と僕は思う。信じ、愛する事のできない人生なんて、
僕は今すぐ捨てたい。信じるしか僕には途は無いんだ。


175

玲音を守るのは、僕だ。
朝食は玲音の向かい側、ちょうど竜牙の座っていた席で食べた。
ここにいつも座っていた、髪の長い大柄な男。
彼は今どこで何をしているのだろう。玲音も今不安定な状態にあるようだった。
昨夜、また叫び泣く声が聞こえてきた。竜牙を失った悲しみからなのか。
レノはやはり玲音と気が合わないのか、僕の隣で、少し席を離して食べていた。
無愛想で、何考えてるか分からない奴。プライドが高い事意外はわからない。

すると、新入りだと思われる茶色に近い金髪の、不精ヒゲを生やした30代くらいの
男が、近づいてきた。レノの前の席を指して、「ここ、いいかい」と言った。
「俺はリードっていうんだ。よろしくな」
そう言うと、真っ先に握手を求めたのはレノでも僕でもなく、玲音。
玲音はとても嬉しそうにしていた。

この男なら、玲音を守ってくれるかもしれないな・・・
僕は直感した。


176

信じた人に裏切られる事はよくある。でも今それをここでして欲しくはなかった。
僕は心が弱っている病人だから、せめて楽な状態でいさせて欲しかった。
でも、何かがそれを許してくれない。結論から言うと、僕は自分の財布を
ブッチャーに盗られた。財布がないのに驚いて、辺りを探したら、ブッチャーの机の上に
あっさり置いてあった。間違いなく、僕の財布だ。
ブッチャーはそれについて謝るどころか、笑って言い訳した。「盗んだんじゃない。
移動させただけだよ」と。
ブッチャーに対する僕の信頼は、粉々に壊れた。もう退院まで、元に戻る
事は無いだろう。

もし入院に憧れた昔の自分に何か一つ教えてあげられるならば・・・
今何て言うだろう。「病院は生き地獄だよ。やめておけよ」そんなところかな。
僕は普通ではありえない体験をいくつもしてきた。幻覚、妄想、救急車、入院・・・
経験が豊かになった事には感謝しているけど、もう一度同じ人生をやりたいとは思わない。
色んな経験を積んで感じた事は、僕の心は汚れるどころか、ヘドロに洗い落とされて磨かれ、
逆にピュアになっている事だった。

 


177

そのリードという男は、年齢不詳だが不精ヒゲにも関わらず薔薇の花が
似合うような麗しいところがあり、立ち居振る舞いも外国人セレブのような上品な
感じのする、閉鎖病棟に似つかわしくない男だった。
ただし、話してみると笑顔の裏に、どうしようもない翳りがある。この男は統合失調症
ではないな、と僕は直感した。話は玲音などのように滅茶苦茶ではなく、受け答えもしっかり
している。しかしどこか陰鬱な感じがするのだ。

「リード、お前みたいにまともな奴が、どうして閉鎖なんかに?」僕は尋ねた。
「それはこっちのセリフだろう。ジュナンのように普通に会話できる奴、ここでは
お前だけだぜ」
「僕は・・・規則を破っちまったから」
「そんなところだろうと思ったよ」リードは長い睫毛を閉じた。ただ話しているだけなのに、
彼の表情には深い哀愁を感じる。「俺は保護室から出てきたばかりなんだ。自殺を図ってさ」
「自殺!?・・・どうして」僕は目を見開いた。「会ったばかりのお前にはやめておくよ。
いつか話すな」
僕の退院日は27日なのに。言おうかと思ったのだが、やめておいた。
「辛かった。苦しかった。ただそこから逃れたかっただけなのに。
何で俺は助かってしまったんだ・・・」
リードは非常に疲れたような顔をしていたので、僕は彼をどの部屋だか知らないが、連れて行こうと
思った。視線がテーブルの上のあたりをいたずらに彷徨っている。
本気で彼は、倒れてしまうかもしれない。そう思った。
「あっリード、ここにいたの」聞き覚えのある、嬉しそうな声。
「レイン・・・」リードの翳のある表情が、少しだけ和らいだ。
「ねえジュナン、リードは僕と同じ部屋なんだよ」玲音は心から嬉しそうに言った。


178

「レイン、お前の部屋か」
「うん」だからあのとき、最初に握手したのは・・・
「リードが今にも倒れそうだから、支えて連れていってあげてくれないか」
リードの息遣いが荒くなる。ソファにもたれ、息ができないようだ。
パニック発作だろう。だから死ぬ事はないはずなのだが。
「ジュナンも一緒に来てよ」玲音が僕の裾を引っ張った。

僕は特別に、玲音の部屋に入れてもらった。
玲音は自分の3人部屋の真ん中のベッドにリードを横たえると、掛け布団を
かぶせた。リードがはあはあ、と荒い息をするのが聞こえる。
「僕もよく前は起こしたけど、これはたぶんパニック発作だ。看守に言わなくても
問題ない」
「リスパダール、もらったほうがいいかな、どうしよう」玲音は判断しかねている様子だった。
「自分で取りに行かないと、出してもらえないだろう。看守はそういう奴らだ。
少し落ち着いたら、僕がリードを支えて、連れていく」
「じゃ僕も行く」

こんな時、自分だったら一番してもらいたかった事は・・・
あの時、母さんがしてくれたように。
僕は、リードの右手を強く握った。握って、放さなかった。
リードは、疲れ切ったような目で、僕を見た。
「あ、りが・・・とな」
その悲しそうな表情が、未だに僕には忘れられない。


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ブッチャーは一人っ子と自分で言っていたが、本当に一人っ子らしく、わがままで
お坊ちゃまだ。ああ言えばこう言う。言い訳ばかりして、欲しいものが人のものなら
必ず奪う。努力しようともしないで、いつも嘆いている。僕はああいう風にはなりたく
ないな。

気がつけば、自分の部屋の戸のところにリードと玲音がいた。
「たまにああなるのさ、俺は。気を遣ってくれてありがとうな」
「だいぶ良くなったみたい。あとは僕がなんとかするから、ジュナンは心配しないで」
レイン・・・
お前、強くなったな。殴り合いのケンカして、竜牙にくっついて守られて、
泣き叫んで・・・ずっとそんなだったのに。玲音が人を守るなんて、
いつの間に成長したんだ、お前・・・
「ちゃんと一緒にリスパダールももらってきたし。ねえ」
「あっ、忘れてた」僕は赤面した。
リードの顔が暗いながらも、少しほころんだ。

「ところでリード、そろそろジュナンが退院するんだって、知ってた?」
「マジかよ」リードはそれしか言葉がなかった。「せっかくこれから色々話そうと思って
たのに」
僕らには、もう時間がないんだ。

 


180

閉鎖の看守って、何でこうもキレ気味な人ばかりなんだろう?話しかけるとたいてい
「はあ?何ですか?」と返ってくる。キレ気味な人ばかりだ。結構怒る時の声がデカいし。

竜牙が退院してから、部屋にエルという30代後半くらいのおっさんが入ってきた。
気がつくと僕はここのベテランになっていたので、色々と説明した。関わってはいけない
連中の事とか。

缶コーヒーの匂い。いい香りだ。鼻を近づけてそのほろ苦い香りにきゅんとなる。
僕のコーヒーちゃん。3時のおやつで何か食べようと思ったら、待ちきれずに
結局コーヒーを買ってしまった。ブラックの小さめの缶のやつだ。
冷たい缶が僕の心を不思議と温めてくれる。恋の魔法だね。とか言っちゃったりして。
コーヒーの飲める所ならどこでも暮らしていけるような気さえもする。

今日はカラオケをやった。エルレのSpace Sonicを歌った。歌い終わったら
玲音やリードが拍手してくれた。名前も知らないみんなも。そんなに上手かった
とも思えないのだが。
B'zの曲を歌ったおっさんがとてもたくましく、みんな大爆笑してた。
そのうち別の一人がエアギターを始めた。
みんな笑ってた、久しぶりにいいな、この雰囲気。


181

待ちに待ったあの日が近づいてくる。水の月27日。
僕の誕生日。偶然、その日が退院の日になった。
ここともそろそろお別れだ。

僕は家に帰るんじゃない、新たな場所に旅立つんだ。
とかカッコいい事を言っておいて、僕は少し寂しい思いでいる。
家に置いてきたものがいっぱいある。父さん、母さん、連絡のとれない姉さん、
僕の部屋、積み重なったアルバム、小さい頃からの思い出・・・
でもここに置いていくものもまた、たくさんある。解放と閉鎖のみんな、叫び声、
閉じ込められた生活、その苦い思い出。
苦い思い出も、思い出は思い出として帰りの車に持ち込めたらいいのに。
できないんだよ。

叫び声が聞こえて、誰かが「すみませんでした!」と怒鳴る!幻聴か?
怖いけど、誰も僕を傷つけようとする人なんかいない。そう信じて少し早いが寝る
事にしよう。就寝薬はもちろんもらうけど。その時は君が起こしてよ。

 


182

月日が何事もなく過ぎてゆく。今日の朝は何もないのでヒマだ。
ここの人々の生活は、規則正しいが、どこか狂っている。
病室の戸を蹴る人。床に寝転がる人。独り言をぶつぶつと言って自分の世界に入って
しまってる人。突然奇妙な声で大爆笑しだす人。廊下に全部の荷物を置いてずっと
座ってる人。キ○ガイばかりだ。

唯一マシなのはリードだけに思えた。リードが青ざめた顔で言ってた。
「どうにかしてくれよ。前に俺がいた病院には鬱の奴もいっぱいいたのに、ここの病院は
まともに会話通じるのがお前しかいないんだよ。どうにかしてくれよな」
つまり、彼は「怖い」と言いたかったのだろう。年下に向かっては言いにくいようだった。
だから前からいたジュナンに救いと癒しを求めにきたようだ。
「前の病院はこんなんじゃなかったさ。病棟に鍵がかけられるなんて、そんなの」
「家畜、だな」僕はもはや余裕で返した。僕の表情はきっと、微笑んでさえいただろう。
「それに・・・レイン。あいつも可哀想な奴だよな。唯一の親族にも見捨てられてんだろ」
「レインか」僕は話題を変えた。「前お前のカフェテリアで座ってる席には、竜牙っていう
男が座ってたんだ。その話は聞いたか」
「そういえば、あいつリュウがいなくて何とかって言ってたな。そのリュウの事か」
「そうだ。そのリュウは、なぜレインが2年もここから出られないかを正確に見抜いてた」
「なぜ?」
「レインは被害妄想も強いけど、それ以上に繊細で、そしてもう一つ・・・」

 


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僕はリードの目をまっすぐ見た。影をたたえた、陰鬱な目。どこかぼんやりした目。
でも、この男、それだけじゃない。
「リュウは言ってた、レインは自分が見えてないって。自分が人の目にどう映るか、
見えていないって。だから、ガキみたいな殴り合いをしたり、人前で尻を見せたり
するんだって」
「それを俺に言うかい」リードがうつむいて、ますます寂しげになった。「俺は鬱だから
、普通に喋れるが、けど誰かを守れる余裕なんてないさ」
「別に、守れなくても構わないんだ。ただ、あいつは確実に、一人ではやっていけない。
僕の退院は27日だ」
「!」リードが目を見開いた。「すぐじゃないか」
「そう。だからその後は、お前が・・・せめて、レインの友達になって、支えあって
やっていってくれないかな」
リードはとても苦しそうな表情をしていた。僕はリードがまたパニック発作を
起こすかもしれないな、と思った。やはり、ここに来たばかりの病人には重過ぎる
のだろうか。
でもレインには、誰かが今すぐ、必要だ。

「リード、点呼の時間だから帰るよ」玲音が呼びにきた。「ここでは8時が点呼なんだ」
「ああ、待ってくれ」
「点呼か」僕はベンチを立って、廊下へコップを持って歩き出した。
「待ってくれ、ジュナン」リードの悲痛な声が聞こえる。

行かないで・・・


184

朝、外でしまぞうが鳴いている。僕はタバコの時間で部屋に誰もいない事を確認し、
勝手に水色のカーテンを開けた。ミャーオ、ミャーオ・・・
悲しそうな声だった。しまぞう、どうしてそんな風に鳴くんだ?お前と出会った時の
事、抱き上げた時の事、思い出してしまうじゃないか。

病気の事をエルと話していたら、「君って、中卒?それとも、高卒?」なんて
聞かれた。大卒だよ!バカにしやがって。この男、40近くにもなって礼儀というものを
知らないようだ。
他にも、エルは言った。「あれ見てみな。絶対洗濯してないよ」
ブッチャーのぐちゃぐちゃに丸めてあるTシャツの山を指差しての事だった。確かに
僕はエルは嫌いだが、あのTシャツの山が洗濯を一度でもしてあるようには見え
なかった。ブッチャーは洗濯の仕方を本当に知っているのか?それすら疑問に
思える。

寒い。手がかじかんでくる。手に息を吐いて温めても、また冷えてくる。北日本は
もう雪が降るころかな。寒いけど、ここはコタツとか暖房はないのだろうか。
家に帰りたいな。ここにコタツや暖房を求めるわけじゃなくて、ただ家に帰りたい。
家に帰って、誰かと喋りたい。ここの人は温もりがないから。
と書いて驚く。僕にも喋りたい時があったのだなあ。

 


185

午前中はバレーをやって、その時に3病棟のタイラーやケヴィンと会った。
「タイラー!」僕はタイラーを見つけるなり、駆け寄った。「元気でやってるか」
「ぼちぼちだよ」白髪交じりのタイラーの、心穏やかな笑顔。久しぶりに見て、
本当に僕は嬉しくてたまらなくなった。
「ケヴィンも!元気か」
「ま、まあな」ケヴィンは僕の元気さに少し驚いたように言った。
そういえば、僕ははじめ鬱だったのに、鬱はどこへ行ったのだろう。
こんなに笑って会えるなんて。

「タイラー、そろそろ僕、退院するんだ」
「おめでとう、何日だい」
「27日」誕生日とかは、別に言わなかった。
「だから、これで最後だ。ありがとう」
「僕のほうこそ。君と喋れて、楽しかったよ。人間動物園とか、そういう話したの、
覚えてる?」
「もちろんさ、閉鎖で話のネタにしたよ」リュウがいた時に・・・
「これでお別れになっちゃうの、寂しいね。仕方ないね。ここ、精神病院だもの」
「ハガキくらい、送ってくれないか」僕はタイラーの手を握ってせがんだ。
「・・・」タイラーは黙って首を振った。「僕は文書くの下手だから、送らないと思う」
タイラーと握手して、別れた。
手を強く、強く握って。

午後は母と面会し、最終面談が行われた。緊張したが、先生はわりと笑顔で、
終始和やかな雰囲気だった。
緊張して損したな。
「じゃあ、蒼月君は27日退院という事で」
「はい」僕は誇らしげに頷いた。

 


186

これは僕が、その日見た夢だ。

リュウと僕が、なぜか学ランを着て自転車を引き、横に並んで道路を歩いてる。初雪が
歩道をうっすら白く染めている。
「もう、卒業か。お別れかな」
「ああ」僕は遠くの雪山を見ながら言った。
「お別れなんて、嘘みたいだな。なんか、実感わかないよ」
「俺も」竜牙は一回あくびをした。
「ジュナン、お前って急に大人になったよな。そう思わないか」
「僕のどこが大人なんだい?」僕には解らなかった。
「お前は、今必要とされている。誰かに必要とされている。違うか」
「そうなのか」僕は眠い目をこすって、必死に考えた。
「ずっと透明人間だと思ってただろ、でも今はお前は透明なんかじゃない。
レインやリードがお前を必要としてるのがわかるだろ」
学ランの襟を凍えるような風が通り抜ける。僕は自分がマフラーをしていない事に
気付いた。
「マフラー、貸してやるよ。いつまでもお前のそばにいる」竜牙が僕の肩をポンと叩いて、
茶色のマフラーを僕の両手にのせた。
「いいのか、本当に。お前だって寒いだろう」
「いいんだよ。俺はお前のところにはもう行けないんだ。これでお別れだ。
俺は邪魔しちゃいけない。お前達の生活をな。
もう二度と出会う事はないだろうけど、お前はきっともっと大切な人とこれから出逢うぜ。
俺の事はもう卒業しろよ。俺に縛られちゃいけない。そいつらを大切にしろよな。
俺はここで、夢の中にいて、いつまでもお前を見守ってる。
早く起きろよ。レインとリードがお前の帰りを待ってるぜ」

 


187

僕は飛び起きた。辺りは真っ暗。寝息だけが聞こえる。
相当汗をかいていたらしい。
リュウ・・・残酷な夢。でも僕はもう、リュウやはやみんから卒業しなければ。
現実を見るんだ!
玲音とリードに、僕は必要とされている。もう透明なんかじゃない!
誰かを守るのは、僕だ。

朝方、戸の所に顔色の悪いリードがふらふらと立っているのに気がついた。
泣き叫ぶ声がかすかに聞こえてくる。
「ジュナン、来てくれ。レインが・・・レインが・・・」

「お母ちゃん、お母ちゃん・・・」
レインが顔を真っ赤にして、白いベッドの上にうずくまり、泣いている。
不憫に思うが、どうしようもない。僕は人の命を生き返らせたりできない。
30代にして両親を失くした、統合失調症で喋ることもままならない玲音。
彼は今、地獄の血の海の中にいるようだった。
「どうして死んじゃったの・・・どうして誰も、誰もかも、僕を置いていくの!!」
リードが床にうずくまり、顔を伏せる。「真夜中からこれで、寝る事もできなかった・・・」
リードの方まで、少し具合が悪いように見えた。
「ぎゃああああああああああああああああ!!!!!」玲音がもう吠えるような声で
叫んだ。
「ジュナン・・・助けてくれ、助けて」リードは不精ヒゲを放置したままで、寝起きそのままの
髪型で、僕にしがみついた。リードは必死だった。

 


188

大切な事を伝えたい時。僕にはこれしか思いつかなかった。
「レイン・・・ちょっと顔をあげてくれ」
「ジュナン・・・よくも、よくもお母ちゃんを殺してくれたな」玲音の中ではそういう妄想に
なっていたらしい。
「恨むぞ・・・死ね、この野郎!!!」
僕は、顔をあげてベッドから下り、ぐちゃぐちゃの赤い顔で、涙と鼻水だらけの顔で
僕に手を上げようとする玲音の手を下ろさせ、ぎゅっと抱きしめた。
大切な事を伝えたい時、僕ならハグをする。
リュウとはやみんと、してきたように。これが答えだ。
僕の体温が自分に伝わるのを玲音は変な表情で見ていた。辺りをきょろきょろ見回して
いた。
「うう、ジュナン、申し訳ないがあとは頼む。鬱で死にたくなってきた・・・リスパダール
飲んでくる」
リードはふらつきながら部屋を出た。
「でも、おまえが、おまえが・・・!」玲音はまだ理解していないようだった。
「それは違うんだ。よく話を聞いてくれ、レイン」
Tシャツ一枚で冷え切っていたレインの体があたたまってきた。
「両親を失くしたのは、本当に辛い事だと思う。そういう経験のない僕みたいな
ガキに慰められるものじゃない。でもこれだけは分かってほしい。僕は関係ないよ、
何もしてない。絶対に何もしてない」
「・・・じゃあ、何で死んだの?」玲音が半信半疑で言った。
「その話は僕は知らないけど。少なくとも僕が殺したんじゃないよ、僕はお前を守ろうと
してんだ。分かってくれ」
こんなに抱きしめているのに。
まだ、分からないのか・・・?


189

「いいから聞け!」僕は怒鳴り声に近い声で言った。怒鳴り声に近い、ありったけの優しさ
をこめた声で。「お前は愛されるだろう。お前は大切にされるだろう。でも今のままじゃ
無理だ。病気のせいだけじゃない。お前が・・・」
玲音が僕の腕をすごい勢いで払いのけた。「黙れ、人殺し!!!!僕はちゃんと知ってんだぞ、
おまえがどうやってお母ちゃんを殺したか・・・」
「説明できるものなら、してみるんだな」僕は負けじと言い放った。
「やめろ!!」少しかすれた声。後ろから聞こえた。
「リード・・・」大声を出すのもやっと、という感じの、弱ったリード。戸のところに手をつき、
何とか立っている。
「もう何でもいいだろ。そのくらいにしておけ。まだわからないのか。ジュナンはそんな
事、決してしない」
「リード・・・わかったよ」玲音が頭を抱えて、床にうずくまった。「じゃあお母ちゃんは、
何で死んだの・・・?」
「それはお前しか知らないはずだ。お前は何も言わなかったから」リードは真ん中の
ベッドに倒れるように寝た。

「可哀想に、こいつは裏切られてばかりきたんだな」
リードのベッドの横で、僕は子守唄でも歌うように言った。
リードはぐったりしていた。話などあまり聞いていないようだった。
玲音は泣きじゃくって、「ごめんね、ジュナン、ごめんね」と繰り返していた。
「裏切られて、騙されて、また裏切られて。それで人をとことん疑うようになったんじゃない
かな。僕の勝手な推測だけど」
水色のカーテンから入ってくるやわらかい光が心地良い。

 


190

今日はレノの様子が夜になってから変だ。
突然部屋の連中に自己紹介をしてきたり、よくわからない。
「俺、レノ。よろしくっす」
玲音の件で疲れ果てていた僕は、よく眠れた。

(一日後)

今日は買い物があったが、牛乳一本しか買わなかった。
どのみち冷蔵庫は無いし、牛乳が恋しいから買っただけ。小さい頃に捨ててて
本当にごめん。
あと何日も残っていないから、別にお菓子はいらない。

今日カフェテリアで会って、美貌の貴公子にびっくりした。
リード。ヒゲを剃っただけじゃなくて、いつものただのグレーのパジャマから、細身の
ジーンズに着替えていた。虚ろな目もなんとなく、いつもよりは力があるように思えた。
あとから玲音も来た。よく見ると、リードと腕を組んでいた。うらやましいな。
いつの間にそんなに仲良くなったんだ?
「病気はだいぶ良くなったみたいだな、リード」
「おお、ジュナンじゃないか。おはよう」リードが微笑んだ。
「ジュナン、おはよう」玲音も昨日の妄想はどこへやら、元気になっていた。

閉鎖だから虚ろというわけじゃないんだな。
閉鎖にもまだ諦めない人達がいっぱいいて、それぞれに個性があって、ケンカも
するけど、毎日を不自由ながらもなんとかして楽しもうとしてる。雑草だな。
水路の。水かさが増えると簡単に水没するような、雑草。でも生きようとしてる。壊れて
しまった毎日をなんとか組み立てようとする人々。たくましいな。力強いな。


191

そういえば、最近僕の心の中の声が何も言わなくなったな。以前はよく僕を
殺そうとして善の声と闘い、僕の頭の中をぐちゃぐちゃにしていたのに、そういう
事は自然となくなった。順調に回復してきているのか。実感はないけど。

トイレの守り神様が話しかけてくるけど、何を言っているかまるでわからない。
どう答えたらいいのだろう。
内容じゃなく、滑舌が悪くて何を言っているかわからないお年寄りが多い。
古い抗精神病薬を使っていたせいかな。それとも僕もいずれそうなるのか?
でも、内容が分かっても怖いだけかもしれないけれど。

僕のベッドはエアコンに一番近く、暑い。我慢しなきゃな。
他の人は丁度良いと言っているから、僕一人の都合で温度は変えられない。
僕はもう24歳なんだ!自分の都合だけ主張していればいい時代は終わったんだよ。

とかいって暖房に耐えていたら、具合が悪くなってしまった。
熱があるかと思って、体温計をナースステーションに借りにきた。
「ようジュナン、大丈夫か」玲音といつも一緒にいるようになってから、リードの目には
力がいくぶん戻ってきていた。
部屋の人に暖房を切ってもいいかと尋ねたところ、OKだったので切ってもらったが、
8時過ぎにいつの間にか入っていた。看守、裏切り者・・・

 


192

「お前なんか、嫌いっす」レノに嫌われた。キッカケは書くのも馬鹿馬鹿しいような事だった。
別に僕にはどっちでも良かった。僕はどうせすぐ退院するのだから。
今は、事務的に彼に接するようにしている。
誰に嫌われてもいいや。僕はもう透明人間じゃない。竜牙が夢の中で教えてくれた。
僕は、誰かを守る事のできる人間だ。

エルが言うようには、「この部屋で一番まともなのは、ジュナンだと思う」という事だった。
きっとレノがいかれてるんだな。僕は正気みたいだ。
エルは新入りだが、わりと冷静に観察していたようだ。

レノがまた住所を教えて欲しいだの、馬鹿馬鹿しい事を言ってきた。僕は犬のしつけ
みたいに、「ダメ」と言って断った。もうこれ以上、お前のワガママには付き合ってやれ
ないんだよ。僕は何かに依存するとか、振り回されるとか、そんなの嫌なんだ。


193

ついに、退院の日の一日前。
午前中は塗り絵と書道をやった。コーヒーを飲み忘れて寝ぼけていた僕は、机の上に
伏せて寝てしまった。
午後、これではいけないと思い、すぐUCCのインスタントコーヒーを飲んだ。カフェイン中毒だな、
これは。
鍵を預けていたので、もらいに行ったら、看守に「お前が勝手に失くしたんじゃないか」と言われ、
部屋中を捜索された。無論、鍵は出てこなかった。鍵は看守が違う場所にかけ間違えて
いたのだから!ろくに調べもせず、患者を疑う看守。最悪だ。

ブラックコーヒーってただ苦い味がするだけなんだけど、そのクリアで切ない味がするのがいいんだよ。
何も牛乳で濁らす必要なんか無いんだ。
ん、外でしまぞうの声がする。僕は、真昼間から寝ているレノやエルに見つからないように、
そおっと水色のカーテンを開けた。窓のコンクリートの塀の上に、なんとしまぞうがいる。
こんなにそばにいるのに手を伸ばすことさえできないのが切ないけど。会いに来てくれたんだな、
僕が退院するのを知って。
しまぞうは「ミャア」と鳴いて塀を下りて行った。僕は窓の外をいつまでも見ていた。


194

玲音の長話を聴くと、疲れてしまう。それは僕だけかと思っていたが、「悪いな、長い
話を聴くと疲れんだよ」と玲音に言うと、リードが横から人差し指で僕をつついた。
リードは声をひそめて、「それはお前だけじゃないよ。俺だってそうさ。レインが支離滅裂な
話をしてるだけなんだよ。一応聴いてるふりしなよ」
と言って、ため息をついた。

長話を聞くと、すぐ疲れてしまう。玲音のせいもあるが、僕のせいでもあるだろう。
目薬をさすときみたいに、無理矢理目を病気に向けられる。見たくもないものを
見せられる。
知りたくもないのに、自分が病気である事を知らなければならない。それは何て勇気の
いる事なんだろう。

今日は、ブッチャーもレノも機嫌が悪いようで、戸を凄い勢いで閉めたり、落ち着かない
日だ。退院が明日に決まっている僕に、嫉妬しているかもしれないな。僕も夢と現実と
の境にいるような気がしてきた。家にいたのが夢なのか、ここに入院しているのが
長い夢だったのか。

ここに来る時は、頭が完全に逝っちゃってて、荷物の事など考える事ができず、全部
母さんがやってくれた。でも今荷物を詰め、明日の準備をしていると、自分が非常に
落ち着いた状態にある事に気付いた。今ならなんとか荷物を整理できそうだよ。


195

入院は、これで最初の最後にしよう。もう入院なんかしない。
病気を悪くさせないために、ストレスを処理し、薬を飲み、規則正しい生活を
身につけるつもりだ。
解放で過ごした、儚い恋の思い出。
閉鎖で過ごした、家畜としての生きざま。
どちらも今までに無いような、素晴らしい貴重な体験だった。
でももう2度とやりたくないね。僕は病気に勝てる、強さを身につけたと思う。
自立して生きていくための強さを。
もう僕は観賞用でも家畜でもない。リュウが教えてくれた。
誰かを守れる強い人間だ。

(水の月27日)

扉の向こうに広がるおだやかな青を見つめている。僕は頬杖をついて考えこんでいる。
このカフェテリアの、朝食が済んで人のいなくなったテーブルで。
もう数時間で、この旅も終わりだ。
家に帰って、咳も叫び声もない所で、ゆっくり休みたいな。
いろいろ後悔もするけど、それは取り返しのつかないものではない、と信じたい。
まだ、僕には未来があるはずなんだ。


196

「ジュナン、待ってくれ」
椅子に手をついて振り向くと、カフェテリアにいつの間にかリードと玲音がいた。
「ジュナン、今日で退院しちゃうんだね。僕・・・僕・・・」玲音は下を向いて悲しそうに言った。
「ずっと謝りたかったの。ごめんね。『人殺し』なんて最低だよね。ごめんね、ごめんね・・・」
涙が次々と溢れだしてきて、止まらない。僕は慰めようとしたが、
「もういいんだ。俺はこいつを守るよ。いつまでいるかわからないけど、俺がいる限り、
俺はこいつを守る」リードの具合は、初めて会った頃より大分良くなっていた。クスリが
効きはじめたのだろう。「話してみりゃ、かわいい奴じゃん。でもひとつだけ、不安がある」

リードはジュナンの耳のそばで、小声で言った。
「お前がいなくなったら、ここに普通に会話できる奴がいなくなるんだよ。これから
どうして暮らしていけばいい」リードの目が、また曇りはじめていた。
「どうしてって・・・」
そのとき看守が来て、作り笑顔(僕にはそう見えた)で言った。「ジュナンさん、お迎え
が来てますよ」


197

(ちっ、思ったより早くお迎えが来たな・・・)僕は思った。(10時だと聞いていたのに)
時計を見る。9時46分。僕は病棟の方に走って行った。
重い三つのバッグと洗面器、コップを抱え廊下を通る僕。「ジュナン、ジュナン・・・!」
カフェテリアの方から声がする。
「さよなら・・・」

久しぶりに病棟の重い扉の鍵が開き、僕は外に出た。重い三つのバッグと洗面器とコップを
抱えて、いい意味で途方に暮れる。これが、外の世界。外の空気・・・!
そのとき、「ミャア、ミャーア」と懐かしい鳴き声がした。しまぞう。
しまぞうとももうさよならだ。
僕は重い荷物を下に降ろして、しまぞうを抱き上げた。
「ん?お前、少し大きくなったんじゃないか」解放で会ったときは、もう少し小さめの
猫だったような・・・?
「大きくなった。よかったな、しまぞう。僕にも身長わけてくれよ。
僕は発育不良なんだよ」
しまぞうは「フギャア」と変わった鳴き方をして、僕の顔をひっかいた。
「いてっ」
しまぞう、お前もか・・・!

しまぞうを逃がしたら、しまぞうは駐車場の車の下に入っていってしまった。
そのとき、通路を歩いてきたモコモコのパーカを着た、懐かしい女性。


198

はやみん。
少し具合がよくなったのか、髪はどこまでも美しく繊細で、メイクなどしていなくても、
十分に美しい格好をしていた。
僕は気付かないふりをして、あえて目をあわせず、荷物を抱え歩き出した。
「ジュナン、待って」
「・・・何だ」
「あたしも連れていって。君と一緒にいたいの。君の世界へ連れていって」
僕は少し泣きそうになって、耐えた。そして首を振った。「できないんだ。どうしても」
「なぜ!?」はやみんは抱えていたコップを落とした。
「君はあたしの事が好きなんでしょう?」
「それでもできないんだ。僕には、・・・僕には、別に恋人がいるから」
はやみんはとても苦く、辛そうな表情をした。「別に恋人さんがいたんだね。
じゃあ、あのキスは何だったの?」
はやみんの、歌声にも似た甘い声が、かすれている。
「ここでお別れだ、もう最後だよって言いたかったんだ。あれは。
誤解を与えてしまってたらごめんね」

「そうか・・・」はやみんは通路を少し走って、こっちを向いて、大声で叫んだ。
「大っ嫌い。あんたなんか大っっ嫌い!!!」
僕は耳を塞いで、でも耳を塞ぐと荷物が持てない事に気付き、荷物を持って
早足で歩いた。
わずか数週間の悲恋。
ベイビー、グッバイ。


199

僕が受付まで行こうとすると、その途中に僕が解放のとき暮らしていた部屋が見えた。3階の左から
2番目の部屋。どの部屋か確かめようと思って、目立つ衣類を吊るして外を散歩したから
知っている。懐かしいなあ。
と思っていたら、駐車場に銀色の車が入ってきた。母さんの車か。そう思った。
いやそれは、まぎれもなく母さんの車だった。
しかし、窓から見える女性。少し母さんと違うような気がする。

窓を開けて出てきたのは、異国風にかたく編まれた髪、カラシ色の長いスカートを
風になびかせた、姉さん・・・
「・・・」僕には言葉がなかった。僕の言いたかった事が、一気に涙となって溢れ出した。
姉さんはあの雷の日、見たのと同じ髪型、同じ服装をしていた。
あれはやはり、姉さんだったのだ。

何も言えず涙にくれる僕を優しく包む姉さん。
「連絡がとれなくなってて、心配かけたわね。でもあんたが退院するっていうから、
なんとか帰国してきたのよ。明後日またフィリピンに帰るわ。だからそれまで・・・」
僕は自分より少し背の高い姉さんの胸の中で眠りに落ちた。重い荷物、病院での
気苦労・・・何もかもが僕を疲れさせてしまっていた。

 


200

僕が目をこすって目覚めると、見えるのはカビだらけの天井。
ここは家だ。僕は確信した。
しかし病院にいたのは何だったのだろう?夢か?幻か?

母さんがケーキを買ってきてくれて、僕の退院祝い・誕生日パーティーが始まった。
父さんがマッチでロウソクに火をつけて、電気が消される。
僕はそれを一気に吹き消した。拍手がまき起こった。
久しぶりの家族の賑わい。こんな事も忘れていたな。
「おたんじょうびおめでとうジュナンくん」と書かれたチョコのプレート。
僕が当たり前だと思っていた生活がここに、すぐ目の前にある。
心が痛いほど、優しい日常。
僕は病院に入るまで、なんて幸せな生活をしてきたんだろう。
もっと日常に感謝すればよかった。
「お誕生日おめでとう!!」みんなが言った。
「そして退院おめでとう!!」クラッカーの糸が飛び交い、僕の涙を染め上げた。
これで、僕も24歳。

あとでリビングで姉さんと二人だけになった時、僕はあの事を尋ねてみた。
ある雷の日、第一病棟前の窓のところにいたかどうかという事。
「そんなわけないじゃん。私はその頃フィリピンにいたわ。帰ってきたのだって、まだ3
日前よ」
「じゃあ、僕が見たのは幻だったのか?迎えにきてくれたときの服装、本当にそのまま
だったんだ・・・」
「わからないわね。そういう事もあるのかしら。あんまりあんたが会いたがってたから、
神様が今の姿を見せてくれたのかもね」姉さんは笑った。


最後になりましたが、登場人物のモデルとなって下さった皆様、支えてくださった家族に
心から感謝します。 すとりーと


姉さんがフィリピンへ出発する日の朝、僕は思い切り姉さんを空港で抱きしめた。
人目とか何も気にしなかった。これが僕のやり方だ。
大切な人に大切な事を伝えたい時、あなたなら何をしますか?