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Survival Game

120

廊下で、はやみんとばったり会った。
はやみんはなぜか、涙をぽろぽろこぼしながら泣いてた。
「みんな、嫌い。みんな、大っ嫌い!!」それ以上、言葉にならなかった。
ジュナンを見るなり、はやみんはジュナンを抱きしめていた。

「ど・・・どうした」焦る僕。
「ねえ、あたしを抱いてよ。早く、早く!」
「わ、わかったよ」僕は言われたとおりにした。そのとき、はやみんの髪の香り、
やわらかい猫っ毛、ふんわりした真珠のような白い肌、長い睫毛、ちょうどいい
大きさのあたたかい胸・・・いろんな記憶が絡み合って、僕の中で弾け飛んだ。
僕は自分の呼吸が怪しくなっているのを感じた。なにかが僕の中でフラッシュバック
して、はやみんとこのまま一つになってしまいたいとさえ感じた。
2回、キスをして何も話さずもう一度強く抱きしめた。はやみんは涙をぬぐって、僕の腕から
はなれ、最後に「ありがとう」とだけ言って、寂しそうに廊下を通り帰っていった。

今日は運動会だった。出られる競技が少なく、つまらない事この上なかった。
そのうえ、キスの後で緊張していた僕は、弁当が喉を通らず、あまり食べる事が
できなかった。競技も何も、見えなかった。腕に残るわずかな感覚だけが、
僕を焦がしていた。

あまりにも落ち着かないので、看護師に相談してみた。その看護師は驚いて
言った。
「えっ・・・それ閉鎖行きか強制退院になっちゃうよ」
「げっ・・・(マジかよ)」
「今後はやらないでくださいね。強制退院になっちゃうかもしれないので」
「は、はい」もうどうしていいかわからなかった。

間もなく、先生に呼ばれた。「規則は規則だから、閉鎖病棟に
移ってもらいます」
僕は言葉を見つけられなかった。看護師が言った。
「蒼月さんが行くのは、第一病棟ですよ」
マジかよ・・・やってはならない事を、僕はやってしまったようだった。
緊張と不安で、冷や汗も出ない程、震えていた。

 


121

荷物をまとめ、カーゴのような大きな鉄の荷台に乗せて、第一病棟に入った。後ろで
金属製の重い扉のガチャンと閉まる音がした。ああ、僕の人生は終わった。
規則を、よく知らなかった。行為はもちろんダメだと分かっていたが、キスまでダメ
とは知らなかった。それとも誤解されているのだろうか。
看護師に「どっちが最初に?」と聞かれた。僕は迷ったが「僕です」と答えた。
はやみんにまで罪をかけたくなかった。
たぶん、僕が悪かったんだ。
そして僕は閉鎖に降り、はやみんはどうなったんだろう・・・

時計をなくしたので時間がわからないが、夕方であるようだ。
ここにはカーテンがあり、閉まっている。外の景色は分からない。
僕はついに家畜になったのだ。
カフェテリア前でコップを蹴りまくって怒鳴っているオヤジがいて本当に怖かった。

部屋はブッチャー、レノ、竜牙、僕の4人部屋だった。リハビリ室ですでに顔見知りの
メンバーだったので、自己紹介をする必要もなかった。
というより、僕は心労で疲れてしまっていて、書く気力が失せてしまったので、
今日はこのあたりでやめておこう。


122

「なんだ、お前ら全員同じ部屋だったのか」僕は安心して言った。
「おうよ、俺が解放(病棟)に行くって話が出てたけど、俺は始めからその気無かった」
竜牙が空いてる隣のベッドに来る話は、確かに一度出ていた。僕は来ないと知って
やけに残念だったのを覚えている。
「もう少し早く来ればよかったのによ。あんなジジイだらけのところにいたんだろ、
お前」
竜牙は、30代半ばくらいのがっしりした体型の長髪の男で、この病室ではほぼリーダーの
役目を持っているようだった。
「かわいいやつだな」
「やめてくれよ」僕はいつの間にか、竜牙のベッドに一緒に座って会話していた。
話しやすい。誰の兄貴にでもなってしまう。そんな男なのだ。

カフェテリアに行くと、意味のわからない事を叫んでる人はいるし、大爆笑してる
人はいるし、怖い。でも数日前の僕もきっとあんなだっただろうな。
これが、僕の仲間のキ○ガイたち。なんとか夕食を飲み込み、クスリを飲んだ。
ずっと震えてた。竜牙のベッドに座って、恐怖をまぎらわすために必死で話しかけた。
時折聞こえる叫び声にビクッとする。僕は、何かの罰を受けているようだ。
リスパダール飲んで、早く寝たい。さっきからカフェテリアで誰かがケンカばかりしている。
聞きたくないよ。

アゲハもこんな所の中に閉じ込められて苦しんでるんだよな。なら僕も耐えてみせる。
もやしから雑草になってやる・・・!おやすみ

 


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僕は、このキ○ガイ病棟の中ではマシな方の患者であるようだった。
前の病棟のレベルが高過ぎたのか。
でもこのくらいが意外とあっているのかもしれなかった。昨日の午後はわけの
わからない4人部屋にぶち込まれ、どうなるかと思ったが、3人は今のところ
他人行儀でも優しくしてくれている。現に僕は今のところ正気で、生きている。
クスリの飲み方も簡単になったし、掃除もないと聞いた。

リハビリ室で顔をあわせていたブッチャーはかなり年上のおっさんで、変わった
髪型をしていた。レノは物静かで表情に乏しいが、かなりのイケメンだ。まだ20代
だろう。
僕と一番気が合いそうなのが、竜牙。
しばらくすると、誰か知らない若者が部屋に飛び込んできたのでげっ、と思ったが、
竜牙の友人であるらしかった。玲音(レイン)という名前だと教えてもらった。
玲音はいつも相談する時、部屋に飛び込んでくるらしい。
玲音は竜牙の事を親しげに「リュウ」と呼んでいた。
「僕も『リュウ』って呼んでいいか」僕は尋ねた。
「いいぜ、何とでも呼びな」竜牙の表情はまさに兄貴そのものだった。

ここに、第一病棟三兄弟が成立することになった。
一番上が竜牙、次兄が僕、弟が玲音。年齢順ではないが、いつの間にか
僕らは兄弟になっていた。

 


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物を干す場所が少なく、外を散歩もできない。窓は10センチしか開かない。
廊下は鉄格子。誰かが戸を蹴りまくっている。
これが、閉鎖病棟。人間動物園の観賞用グッピーになった気分だ。
が、今日の気分はこれでも安定している。
トイレの大の方に行くと、トイレットペーパーが16個積んであった。
さすがに、こんなにはいらないだろう。

今日の朝食は、クロワッサンで美味かった。昨日より他の同室の人々も
落ち着いた雰囲気だった。
ムカつく看護師がいると、僕は逆にやる気になるようだった。売店で菓子を
買ったら「名前を書きなさい!」とサインペンを渡されて怒鳴られ、不思議と
生きてる感じが一瞬だけ戻るのは、僕がMだからなのだろうか。

解放病棟に入院すると言ったのは、僕だ。でも閉鎖までは望んでいなかった。
何で今は閉鎖病棟のベッドの上でこれを書いているのだろう。ここは地の果て、
地獄だ。
叫び声が聞こえるなんて当たり前、暴れる人がいたり、看護師がやたら厳しかったり・・・
僕も家畜だよ、父さん、母さん、姉さん・・・


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夕食前の閉鎖病棟はまるで人間動物園だ。家畜が「放送入った!?」と繰り返し
怒鳴る。叫ぶ。恐ろしいことこの上ない。そのうえ、老人が暴言を吐いてケンカが
始まる。コップの水が辺りに撒き散らされる。
竜牙のあとをずっとついていった。席も隣に座った。僕は今までの生活で、こんなに
ひどい叫び声を聞いたのは初めてだった。遠くの病棟から悪魔のような高笑いが
聞こえてくる。

入院患者には、すさまじく汚いコップを持っている人もいる。
でも僕はわりと几帳面なので、毎日コップをティッシュで拭いている。もったいないので
2枚に分けてね。
前のベッドのブッチャーが死んでるように見えて、リアルに怖かった。

竜牙のベッドの脇に座って話している時間だけが、僕のささやかな癒しだった。
「入院して困ったことって、何かあるか。俺は浴槽に入れねえことかな。
浴槽の中で便を漏らしやがる奴がいるらしい。それを聞いてから、一度も
入ってねえけど、更衣室が寒いぜ」
「僕は、・・・そうだなあ、ぶっちゃけ、4人部屋だとオナニーできないこと」
「ははは」竜牙は僕の肩をポンと叩いた。「お前、上品そうな顔して面白れーな。
いいぜ、何やってても。向こう向いてるからよ」
「僕は理性的な人間でありたいんだよ。失敗ばかりしてるけど。
プライドというものが・・・」
「はっはっは、俺までオナニーしたくなってきたぜ。お前本当面白れーな!
これからよろしく頼むぜ」
「おう、よろしく頼む」


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 腹に緊張感があり、吐き気がする。でも今日はよく寝た方だと思う。
4人部屋が知らない高齢者ばかりだったら嫌だけど、顔見知りなので
よかった。
僕は不器用で正直だから、隠すことなどできなかった。すべてを隠すことなど。
こうなるのは当然の成り行きだった。はやみんが悪いんじゃない。僕がはやみんの
温もりを忘れられなかったんだ。

今日は風呂の日。風呂に入るのはいつも怖いし、浴槽に入れないので寒い。
何とか保護室に行かないようにしたいのだが・・・
一日が、とっても短く感じる。車なら、こんな速度で捕まらないのかな?
と思うほど速い。もう昼の12時30分。短すぎる。
淡い水色のカーテンの隙間から光がこぼれて、ブッチャーのベッドのあたりに
反射する。きららは今頃何してるかな?病院の仕事ってどんなものだろう。
いつか、壊れてしまった僕を治してくれるかな・・・?

 


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閉鎖はトイレは綺麗だけど、人間というか一人の大人としては扱ってもらえない。
カフェテリアに食事に入ったとたん、鍵が閉められる。病棟の方へは戻れない。
小屋に閉じ込められる鶏や牛みたいな生き物だ。
カミソリも、使わせてくれない、面会のときにしろ、と言われた。

いつものように、廊下から叫び声が聞こえてくる。僕はキツい看護師をもう看守と
呼ぶことにした。つまり、看守に怒鳴られて、少し凹んでる。何かもう、嫌になる。
でも不思議な事に、それは死にたい気持ちと違った。生きたくてもがいてる小さな
小さな虫のような気持ちになった。ふざけんなよ、と叫びたくなるけど、コーヒー
でも飲んでゆっくり考えよう。

モーニング・ショットというコーヒーを買ってみた。病棟が変わってみたら、金の
微糖のアイスコーヒーがなかった。頭がぼんやりしていてホットを買ってしまった。
金の微糖には及ばないが、コーヒーを飲んでいる気にはなる。


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リハビリ室に行ったとき、はやみんと会った。あのとき「僕のせいなんです、全部
僕が悪かったんです」と言ったら、はやみんにはおとがめが無かったようだ。
そして、僕は嬉しくてたまらない。はやみんが閉鎖(第二病棟)に行かなかった事に。
恨んでなんかいないよ、できるだけ長くいてくれ。

カフェテリアで3人掛けのソファに座る時、必ず竜牙は真ん中に来る。それを挟んで
座るのが玲音と僕だ。玲音はずいぶん前から閉鎖にいるらしいが、数ヶ月前入ってきた
竜牙と兄弟になっていた。「ねえリュウ、今日の夕食何かねえ」玲音が尋ねた。
「たしか魚のあんかけと・・・汁物は忘れたな。ジュナンはわかるか」
「僕は字が揺れて献立表が読めないんだ」
「そうか、お前さんも大変だな。でも保護室行った事ないって本当かよ。あそこは
ひでえぜ。俺は最初の一週間は保護室だった」
「僕はそこまで暴れたりしないからな」
「僕も何度か保護室入ったよ」玲音が年齢より幼いような、頼りないような声で
言った。「人間の扱いじゃないよ、あれは」
「レインはケンカしすぎだろ。もうちょっと冷静になれよな。じゃないと出れねえぞ」
この男は顔に似合わず、優しい。僕は直感でそう思った。そしてどこまでも温かい。

考えている事をすぐに忘れてしまう。末期だなあ。メガネケースを取りに来たんじゃ
なかったっけ。思い出した。メガネなんて毎日使うの中学生の時以来だな。あとは
コンタクト。
気がついたらコップにお茶が汲まれている。誰がやったんだろう?これも僕が忘れて
しまったのか?
飲んでいいものかも分からないので、とりあえず口をつけて、味を確かめて飲んだ。
普通のお茶だった。僕が思い出せないだけなのか?末期だなあ。

 


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今日の夜の気分は最悪。エルレでも聴いて気を紛らわしている。
玲音に「僕をいじめる人に見える」と言われた。弱いけど正直な僕の
どこがそう見えるんだ。玲音はそういって、きかない。最初は兄弟のようだったのに、
どうしたんだろう。
竜牙に尋ねると、「あいつはちょっと被害妄想が激しいからよ、気にしないのが一番だぜ」
と言われたので、少し安心した。
「おっ、タバコの時間だ。行ってくる」
僕は不安なまま竜牙を見送った。ヤケでリスパダールを飲んだ。
もう寝るよ。おやすみ

(一日後)

今日は、「トイレの守り神様」に起こされた。いつもトイレで来る奴を見張っている
から、一部でそう呼ばれているらしい。
彼は大声で叫ぶ。「浣腸します!?浣腸します!!?」
あと半時間だけ寝たかったのに。しかもそいつは廊下で「眠れた?」などど
話しかけてきやがった。おまえのせいだよ!
モーニング・ショットを飲んだが、少しも美味しく感じられなかった。やっぱり
金の微糖が恋しくてならない。


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閉鎖は、解放よりずっと大変なところのようだった。昼夜叫び声が聞こえるし、独り言を
延々と喋り続けるボケ老人みたいな人もいるし。
女性はもちろん一人もいない。暑苦しくて臭いようにすら思える。
虚ろな目をして、飯をだらだらこぼして、保護室に叫びながら連れていかれて・・・
僕の仲間なんだ、僕はこういう人達と同じなんだ・・・

外は金網ではなく、窓自体がほんの少ししか開かないようになっている。金網の
時は安心したが、今度は寂しさでいっぱいだ。もう外のさくら商店にも行けないし、
しまぞうにも会えない。
目の前にあるのは、辛い現実。そして、もう一人・・・

「俺は謎の組織に狙われていてな」竜牙は頭の後ろで腕を組んで、ベッドに寝ながら
独り言のように言った。「黒い車に挟まれ、逃げ場がなくなったから橋から飛び降りた。
気がつけばベッドの上にいたぜ」手を伸ばして白いシーツをつかむ。
「でもよ、今思えば全部夢だったのかな、って。そんなもの本当に存在してたのか、
よくわかんねえ。とりあえず俺は病気らしい」
「そうか、色々あったんだな」僕はこんな普通そうな奴が何でここに入ってんだろうと
思ってた。でも、話を聞いてみたら紛れも無い仲間じゃないか。

「僕は、電柱に罵られたのにキレて頭ぶつけたり、プリンターに話しかけられて怖く
なって窓から投げたりしてたら、ある朝父さんの車に乗せられた。着いたらここだったよ」
竜牙と話をしてると、ミルクティーを飲んでるみたいな気分になる。

寝たい。もう起きたくもないから、安楽死病院でもあったらいいのになあ。
寝てる間に死ぬんだ。一度でも「生きたい」と願った心は、早くも消え失せようとしていた。


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はやみん。きららにどこか似た、ふんわりした女性。追いかけるべきじゃなかった。
きららじゃないのに。似てるだけなのに。どんどんそこからおかしくなっていった。
やってはいけない事を、やってしまった。失敗から学んだと思っていたのに、何も
学べていなかった。僕はバカだ。どうしようもなく愚かで・・・

でも僕にはどうやら適応能力があるようだ。昔の偉い誰かが言ってた、「最後まで
生き残るのは強い者ではなく、適応能力のある者だ」と。ある意味僕は、そういう理由で
強いのかもしれない。こんな環境でも十分やっていける。

看守に「ハンドソープ置いてないんですか」と聞いたら「自分で置けや、バカヤロー」(と
僕の脳には聞こえた)と言われて超腹が立った。もうあいつらには話しかけるのをやめよう。
時間の無駄だ。
憂さ晴らしにエルレを聴いてる。ジターバグ。いい曲だなあ。コーヒーの金の微糖も取り上げられて、
一体何を夢見て生きていけばいいというのだろう。死にたいよ!なんて言わないって約束
したはずなのに・・・


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といても、いつでも、どんな場合でも、孤独。
医者は、クスリしかくれない。この孤独感はどうやったら埋まるんだろう。
僕はここであといつまで暮らさなければならないのだろう。生きたいよ、
でも生きる気力を与えてくれるものなんて何もない。僕はどんどん階段を
転落していっているようにすら感じる。
「おい、聞こえるか」竜牙が肩を叩く。「イヤホン聴いてる場合じゃねえぜ。
風呂の時間だ」
「・・・」僕は思わず、少し泣いてしまった。

戸の向こうで、玲音と合流した。
一時の被害妄想がよくなって、玲音はようやく僕を受け入れてくれてきているよう
だった。それにしても、皆さん自分のシャンプーとリンスを持ってきているんだな。
僕は入院が初めてだったから、病院にあるものを使えばいいと思っていた。
「お前ら、入院何度目だ」
竜牙が指を折って答えた。「3度目かな。いや、4度目かもな。
俺の親は精神病院が好きなのさ。普通の親は、わが子を精神病院になんて
入れたくないと思うのが普通だろ?うちの親はな、突然息子を車に乗せて、
着いたら精神病院なんだ。せめて息子に一言言えよ」といって笑う。
玲音は物静かに、「1年か2年で再発しちゃうから、もう何度目かわからないよ」
と暗い顔で言った。
「そうか」僕も将来そうなるのか・・・?


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正直なところ、僕がホームシックになりかかっているのはここ数日の事で、
解放(病棟)ではそれなりに楽しかったから、少しも寂しさを感じなかった。
たぶんタイラーの存在が大きかったんだろう。家よりいい暮らしをしていたとも
言える。美味しい食事があって、仲間がいて、はやみんがいて・・・だから少しも
寂しいなんて思わなかったのに、・・・ここには怒鳴る人、殴り合いのケンカする
人、キ○ガイばかりで、本当に嫌になる。そして皆、本当に暗い顔をしている。
目の焦点があってない、誰もが。
食事の前には、必ず怒鳴り声が聞こえる。「放送入った!!?」
僕の病気、逆に悪くなりそうだ・・・

唯一暗い顔をしていない男がここにいる。
「おいジュナン、持ってたら菓子くれよ」
物静かで何を考えてるかわからないレノも、手を出してきていた。
「何か菓子くれっす」
僕はたかられているのか・・・
「いや、持ってたらでいいんだぜっ」竜牙が少し笑った。
「必ず返すからよ」


134

きららに送る手紙の返事を書いた。
『入院生活は、最悪だ。僕は看守たちの家畜』
『看守に人間扱いされてない』
書くだけで自分がかわいそうでたまらない。
『逃げ出したいよ、ここから外へ出たいよ・・・』
『生きている意味が、見つからない』
そんな事を書いた気がする。

はやみんの事は書かなかった。書いてもろくな事がないから。
僕が大好きだったアイドルの、抜け殻。ただそれだけじゃないか。
はやみんの温もり、涙が頬に落ちたこと、こんなに覚えてるのに。
僕はやっぱり、幻を見ただけだったのかな。

金の微糖を取り上げられた僕のやる気はもう無いに等しい。何のために生きて
いるのかよくわからない。死ぬ勇気が無いから生きているだけ?死ぬやる気が
無いからかもな。

午後2時頃、ぼんやり金の微糖の冷たいのが消えた自販機を見つめてた。
ソファに座っているのは竜牙と玲音。そしてまだ名前も知らない若者達。
僕が来る数ヶ月前からここにいたのだから仕方ないが、それにしても竜牙の周り
には人が集まってくる。羨ましいな。僕のそばには誰も来ないから。


135

洗面所でブッチャーと会った。ブッチャーは「この病気の人ってたくましいよねぇ」
と言った。「ああ、ひどい扱いに慣れてるからな」
ブッチャーは顔をくしゃくしゃにして笑い、こっちを見た。「こんな扱いに耐えてきてんだから、
働けるよ、どんな困難も乗り越えられるよ。きっと」
ひどい扱い。足をうるさい音で踏み鳴らしてるボケ老人とかいつも奇妙に大爆笑
しまくってる奴とか、そういうものに慣れていくことが、僕に与えられた試練なのかも
知れなかった。あと、キツすぎる看守・・・

玲音は一人で立ち上がれない。まだ30代で、いったいどんなに重いものを背負って
しまったのだろう。彼を支えていると、看守に「蒼月さん、いい人ですね」と言われる。
僕はもともといい人だよ。というかそうでありたい。
だって、強くもなくて、賢くもなくて、優しくもなくて、可愛くもない人間なんかこの世に
必要ないだろう。だから僕はせめて優しくなろうとしてる。何か文句ある?
人を愛する事ができる人間なら、まだ意味もあるだろう?

じゃ消灯時刻だからもう寝るね。ここにはスイッチもない。勝手に電気が消えるんだ。
明日の準備を消灯までにしておかなければ。じゃおやすみ!

 


136

最近、同じ部屋の連中が僕におやつをねだってくるようになった。
僕はたかられてるんだな。特にレノ。
「それおいしそうっすね、くださいっす」
「もう残り少ないからダメだよ」僕はいい加減断るようになった。
竜牙はそんなに欲しがるようでもないが、ブッチャーもやっぱり僕のおやつを
狙っているようである。盗まれないように気をつけなければ。

作業療法中に僕は机に伏せて寝てしまった。とても眠かったから。
気がついたら椅子ごと床に倒れていた。ほっといてくれよ、寝たいんだから・・・
作業療法士に起こされた。
塗り絵をやった。サイケデリックな感じにしてやろうと思って、思い切りストレス
と怒りをぶつけた。毒々しい花の絵ができた。

金の微糖が第一病棟にはホットしかないので、ホットを買ってみた。
やっぱり、美味いね。金の微糖が僕に「生きろ、なんとか耐えろ」ってエールを
送ってくれてる気がする。


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僕は年取ったら、叫んでるおっさんや漏らしてるおっさんのようになるのか?
紙おむつをはいて・・・うう、将来の事は考えたくもない。いい夢見たいね。
きららとドーナツ食ってる夢とかいいね。きららって何となく彼女でもあるし、
僕の失くした姉さんのようでもあるし・・・僕はいつも迷惑かけてる。
いつか、僕を介護してくれるかな?おやすみ

(1日後)
雨が降り、この季節としては珍しく雷が鳴っている。台風が近いんだろう。
第一病棟に唯一ある曇りガラスでない窓から、外の荒れた天気を見ていた。
すると、降りしきる雨の中に見覚えのある女性が立っている。
髪は外国風にかたく編まれていて、肌は浅黒くなっていて、でも、姉さん・・・
あれは間違いなく姉さんの姿だった。
「姉さん・・・姉さん」何でこんな所に?僕を迎えに来てくれたのか?
それとも、嘲笑いに来たのか?
「姉さん」は、何も言わずに微笑んで、アジアのような柄のカラシ色のロングスカートを
手でつまみ、雨音の中を走り去っていった。木々のざわめく音に
かき消されて、何もそれ以上は見えない、聞こえない。
「姉さん・・・僕だよ」大粒の涙が左目からこぼれた。「今、地獄にいるよ」

必ず、生きて帰るから・・・
そこから、僕が見える?

 

涙がバケツをひっくり返したように、外の天気みたいになり、僕はホールのベンチで
声をあげて泣いた。分からない。姉さんがなぜあんな所にいたんだ?幻を見た
だけだったのか?それとも、今日本にいて・・・
「コーヒー、飲むか」差し出されたかたい、大きな手とUCCのインスタントコーヒー。
「リュウ・・・」僕は涙と鼻水でめちゃくちゃの顔をあげた。
「お前の好きなコーヒーと違うけどな。ないよりマシだろ」

 


138

「で・・・ジュナン、何があったんだ」
「姉さんが・・・姉さんが、そこにいたんだ。あの透明な窓のところに」
「会いにきてくれるとは、いい姉さんじゃねえか」
「でも、姉さんは僕を捨てたんだ。フィリピンに行って、そのまま連絡が取れなく
なった。日本にいるとは思えない」
「それは・・・」竜牙は眉毛の角度を少し変えた。「残念だけど、それは幻だぜ。
諦めるよりしゃーねーな。もしその姉ちゃんが日本に帰ってきてたとしても、この
第一病棟前で窓を見てるお前を発見できるとは思えない」
「幻・・・うああ」僕は悲鳴をあげそうになって、なんとか耐えた。「でもあれは姉さん
だ・・・姉さんだったんだ」
ガラガラン、と大きな音で雷が鳴った。少しずつ雷が近づいている。
「過去よりも、現実さ。俺達は玲音と三人で一つなんだ、違うか?俺を信用してくれ。
お前には姉ちゃんがいなくても」竜牙は親指で自分を指した。「俺がいるだろうが」

今日は玲音も暗い顔をしている。玲音は30代にして両親を失くしてしまった。
今は兄に入院費を払ってもらっているらしいが、近頃は連絡があまり取れないらしい。
「リュウ・・・まだお金が入ってない。僕はここから追い出される・・・強制退院に
なる!」玲音はソファに体操座りし、竜牙のとなりでずっと震えていた。

 


139

ブッチャーは別に悪い人ではないと思う。でも感情の起伏が激しい。
床やベッドや壁をすごい勢いで叩いたり、廊下で寝たりする。それも真夜中に。
レノはいびきの音が大きい。耳栓をしてもまだ聞こえてくる。もう嫌だ。
解放に帰りたい。というか家に帰りたい!
どこかで誰かが叫び、怒鳴っている音が一日中している。ストレスのたまる環境だ。
竜牙がなぜ落ち着いていられるのか不思議でならない。よくこんな所で「療養」
できるものだ。
耳栓をひとつ失くしてしまった。これからは気をつけないと。スペアがもう一組
あるからよかった。

どうやら、僕は今地獄にいるらしい。地獄の鬼(看守)が僕を風呂に引きずって
行こうとする。僕は必死で抵抗して、、最後には土下座でなんとか帰ってもらった。
もうこれ以上書きたくない。辛すぎる。
人の怒声が飛び交っている。ストレスは明らかにたまってきている。風呂を休んだ
のはもう体力が残っていなかったからだ。ずっと寝ていたい。僕を起こさないで。

 


140

きららから返事があった。嫌いな看守が手紙を持ってきた。
『家畜・・・きっと、看護師さんたちはそんな風に思ってないよ。ストレスがたまって
たんじゃないかな』
違うよ、僕は本当に家畜なんだ。狂いそうなんだよ・・・
『私ね、新しい夢ができたの』
夢・・・そんなものない。この地獄にはない。
『夢見がちになるのはもう諦めたよ。世界中の人を癒すなんてできっこないもの。
でもささいな事だけど、私、あなたを癒せる人になりたいの。
絶対、あなたの病気を癒すわ。
まだ正式じゃなくて、学生だけど、頑張るね!』

僕を癒してくれるのか?きらら、なぜ・・・
価値のない僕なんかを、なぜ選んだんだ?将来ある美しい女性が・・・
不思議でたまらない。
それとも僕にそれほどの価値があるというのか?
『生きてる意味はね、探すものじゃなくて、見えるものなの。
必死で探そうとしてるから、心が苦しいのよ。
あなたの地平線に、早く太陽が昇りますように』

タイラーに言われた通り、僕は泣き虫であるようだった。
正直、読みながら泣いた。手紙にしみをつけてしまった。

手紙の最後は、こう締めくくられていた。
『いつか、その意味が見える時が来るわ・・・』


141

ホールで、朝食を待っていた。朝食の前には、必ず病棟の方に鍵がかけられる。
家畜並みの扱いだ。
玲音が座り込んで苦しそうな音を立てていたので、背中をさすってあげた。

朝食後、玲音が手招きして言った。
「ジュナン・・・やっと僕『ジュナン』って言えた気がする。
ジュナンって優しい人だったんだね。竜牙が来る前は、あんなに冷たかったのに」
「おーい、妄想の世界に入りなさんな」竜牙もいつの間にか来ていた。
「俺の方が先に入ってたよ。ジュナンは元から優しい奴さ」
「そうなの・・・?」玲音は信じられない様子だった。いや、信じようか信じるまいか
迷っているような表情をしていた。
「年は下だけどよ、お前よりずっと分別があって、お前の新しい兄貴だぜ。
きっとお前を守ってくれる。信じろ」
「う、うん」玲音はよくわかっていない様子だった。

僕に、分別があるだと・・・?
僕は、竜牙に頼りにされている・・・?

閉鎖になって変わった事といえば、茶わんを分けて返却しなくてもよくなった事、
トイレが綺麗になった事、掃除をしなくても良くなった事、叫び声や怒声がしょっちゅう
聞こえる事。それくらいだ。
解放の方がずっと楽しかったよ。あと、小遣いが制限される事。自販機に金の微糖の
冷たいのが無い事。
でも昨日はよく寝た。耳栓のおかげだ。
なぜか、ここに来る前からポケットに耳栓を入れていた。本当に偶然だ。
それが役に立つとは思わなかった。


142

今日の午後は、中止になっていた運動会の残りがあった。
クイズで7問目まで生き残った。気分がいい。
というか僕はレノにずっとついていっただけなのだが。彼はなんとなく無表情だが
悟りすましているような超人的なところがあり、適当についていったら
なんと7問正解してしまった。ちなみに最後の最後でレノと違う方を選んだ
ら、外れた。レノは全問正解だった。もっと信用すればよかったな。

いつもはまるで見えない未来というものが、今日は青空のすぐ下あたりまで来ている
ように思えた。ひさしぶりに浴びた太陽のあたたかみ。もちろん看守の監視の
下だけど。僕は空に太陽がある事さえも忘れかけていた。
景品がいくつかもらえたけど、いつ僕の手元に来るのだろう。看守が箱に入れて
持って行ってしまった。

「おやつ、くださいっす」
いつものレノは決まってこれだ。なのに今日のクイズでは人格が変わったようだった。
おやつをねだる以外は、おとなしい無口な青年なのだが。

 


143

日のリハビリ室での勉強会では、幻聴や妄想について話し合った。眠かったけど、頑張って
発言した。自分の心の中の声が幻聴に近いものである事を聞けてよかった。
疲れてトイレに入ろうとしたとき、「トイレの守り神様」に服をつかまれた。
そんなに強い勢いでひっぱられたら、お気に入りのセーターが伸びてしまう。はじめ、
「やめて、やめてください」と言っていた僕も、ついに堪忍袋の緒が切れた。
僕は体術を習ったことがないので回し蹴りなんかはできないが、守り神様を両手で
つき飛ばし、更に繰り返し蹴った。手をグーにして殴った。「こいつになら勝てる」
という勝算があった。
守り神様をボコボコにしたところで、ようやくトイレに行く事ができた。

疲れて、しかもボケ老人にしがみつかれてヘトヘトな状態の僕だけど、僕は
何かしらの夢を見つけられるような気がしている。
閉鎖病棟。そんな所にも光は少ないながらも届き、僕はなんとか生きてるよ、
きらら、はやみん、G,アゲハ・・・!


144

まだ若い、経験のない僕は入院すればすべて楽になって、穏やかに療養できるのだと
思っていた。ところが全然違うんだよ。

こうも休めないうるさい環境で、怒鳴り声と罵声、奇声ばかりの環境で、何が療養
だよ。ノイローゼになりそうだよ。クスリは僕に合ったけど、それだけ。家に帰りたい・・・

あの雷の日から、外は快晴のときも、どんよりした曇り空のときも、僕は夕方になると
透明な窓の前のベンチに座って、外を眺めるようになった。あれは、姉さんだったんだ。
姉さんだったんだ・・・!僕を忘れないでいてくれたんだ!
立ち上がって窓の外を見回すが、今日も誰もいない、日が沈み、辺りは少し暗くなりかけて
きていた。
林がざわめいて、音は聞こえないが、冷たい風が吹いている事は容易に想像できる。
こんな寒いところを、しかし解放病棟の人はたまに上着を着て通るのだった。
顔見知りもいたが、タイラーにはまだ一度も会えていない。会いたいな・・・

タイラーとずっと、このまま退院までいられると思ってた。しかし、入院はそんなに甘くなかった。
タイラー、寂しいよ・・・
窓の外は群青色になって、ほぼ誰も見えなくなった。夕食のアナウンスが入ったので、
トイレへ行って鍵の中に閉じ込められよう。夕食の時間だ。


145

おはよう、朝だよ・・・こんな僕の所にも日が昇る。
夜明けとかは無論、見えない。カーテンをブッチャーたちが閉め切ってしまっている。
一人部屋のようにはいかないんだ。
朝は平等だな・・・外で見上げて空気を吸い込むなんてできないけど。

ラジオ体操をおバカな小学生よりずっと真剣にやった。
僕は真面目にやるのが好きで、かっこつけた中学生がたらたらやってるのを
見るのが嫌いだ。みっともないな。

話題変わるけど、何か一つを選ぶ事ってすごく勇気のいる事でないかい?
健常者のフリを捨てて、入院する事。世間の目を捨てて、障害者になる事。
凄く勇気の要る事を僕はすべて乗り越えてきた。そのかわりに得られたものも大きいし、
捨てたものについて後悔はしてないよ。僕はたくさんのものを捨てて、別のものを手に入れた。
まだ入院の途中だけど、なんとかなりそうだ。

昼食の頃、玲音がまた泣き叫んでいた。正直、自分の部屋にいても聞こえた。
何事があったのかと思って、玲音の部屋まで行ったが、他人の部屋には勝手に
入ってはいけない事になっている。それが、規則。
ベッドの上にうずくまる玲音を見ていた。「ジュナン、来てくれたの・・・?」
玲音は大声を出しつくして枯れた声で答えた。

竜牙にあとでその話をすると、「あいつ、実はな、障害年金もらってねんだよ・・・
大声ではいえないけどな。兄さんがいなきゃ本当に強制退院になるぜ。
申請が手遅れなのか、頭がやられててやり方が分からないのか、どっちかだな。
不公平だよな。あいつの方が障害重いのに。
せめて、両親がいりゃなんとかなったのにな・・・」

 


146

あの障害の重さで、年金をもらっていない・・・!ジュナンには想像がつかなかった。
両親もいない。兄と連絡がとれない。こんな小汚いブタ箱の中で苦しそうな息を
して生きてる。本当なんだ、たまにシューッっていう苦しそうな息の音が聞こえる・・・
まともに喋る事もできない。聴いているだけで、健康な人の頭が混乱してくる
ような喋り方しかできないのだ。

嗚咽の止まらない玲音の肩に手をまわして、何も言わない竜牙。本当に心が
通じ合っているのだろう。僕はあんな風にはなれない。玲音のぼさぼさの茶色い
髪の毛とガサガサの肌を「汚い」と思ってしまう僕がどこかにいて、でも「助けて
あげたい」と思う心も一方でどこかにあって、せめぎ合っている。
竜牙の退院日が決まったらしい。後に残された僕は、本当に玲音を守れるのか?
僕が誰かを守る?そんな事ができるのだろうか。

さて、今日はお金の事ばかり考えていたから、お金の幻聴が聞こえるように
なってしまった。「おい、金出せ」みたいな。
事務所に金を振り込む手続きもあって、相当疲れてしまった。
そんな事イカれた奴にできるわけないだろ!早く寝るね。


147

誰かにしょっちゅう名前を呼ばれるんだけど、誰もいない。
振り返ってみると誰もいない。どうしてだろう。
一気に寒くなってきたな。テレホンカードで公衆電話から電話して、母に
服の冬物を持ってきてくれるように頼んだ。

自分がしっかりしなきゃ。ここでは誰も支えてくれない。
二本の足で、しっかり立つんだ。
そう言いながら、食事の並ぶ列のところでいつも座り込んでしまう僕。
本当に自立できるのか?

とりあえずRed Hotを大音量で聴いてみた。昔の曲なのに古くないのは
どうしてだろう。僕の頭が2000年代でストップしているからかな。
アイドルにははやみんを除いてついていけないや。キャピキャピしてるの嫌いだ。
同性の曲の方が落ち着く。

一週間ぶりに風呂に入った。前回はサボタージュしていたから。着替えもいい加減な
感じで、下着は替えてるけど、上の服を替える気力がないほど鬱なときがよくある。
下もね。
今日は入浴にすべての気力を使い果たしてしまった。もう寝たいよ。
午後3時だけど。

 


148

薬剤師と面談があり、長い時間かけて失ったものを再構築するために、
筋力が落ちているだろうから少しずつ運動を始めろと言われた。
なるほど、僕は筋力がないので、列に並んでいても座り込んでしまう。
それを何年もかけてまた作れというらしい。アホか。
やる気の失せるありがたーいお言葉だったわけだ。

部屋にいた時だ。しまぞうが外から鳴いてる。高いコンクリートの塀があり、どの
猫かまではわからないが、あれはしまぞうに違いない。
しまぞう、もう僕はそこには行けないんだって。ここは閉鎖病棟。外へは出れない。
お別れなんだよ。二度とおまえに会う事はできないんだ。ここは開かない窓の中
だから。本当に悲しいね、残酷だね。

水色のカーテンを開ける。ブッチャーやレノがタバコの時間でいないので、思い切り開けた。
塀の向こう側は見えないが、しまぞうは今日もどこかで鳴いている。
もう一度お前を抱き上げたいよ。でも、できないんだ。


149

エルレのSalamanderはいつ聴くのが一番いいかと思ったら、夜聴くと一番しっくり来る気が
した。朝とか明るい時間帯にはあまり向かないようだ。
Salamanderを聴いて一日が終わる。今日はいろいろあったけど、楽しい事もあったな。全体的に
生きてる感じがあった。ただ寝てるだけじゃ、生きてる実感なんてないよ。色々と
不愉快な事も含めて起こるから、それが僕を目覚めさせ、やる気にさせてくれる。
明日も充実した日になるといいな。

神様から与えられた宿題なんてさ、やればいいんだよ。
赤点でもいいんだよ。ただ最後までやらないと。
僕はこういう、ごく当たり前の事に今まで気付かずにきた。
投げ出して逃げることばかり考えてたさ。でも逃げられなくなってようやく
気付いたんだよ。認めて乗り超えなければならない宿題がたまってるって。
完璧にできなくてもいいから、逃げちゃいけないんだよ。

ブッチャー、レノ、竜牙の3人が、タバコから帰ってきた。
「お前、何聴いてんだ」竜牙が言った。
「エルレだよ、ELLEGARDEN」
「それって有名なの?」ブッチャーがまばたきした。レノは「なんとなく知ってるかもしんないっす」
竜牙は「もしかしてお前、洋楽ロックとか好きな方?」
「ああ、洋楽も聴くな」
「俺、リンキンパークとかグリーンデイ好きだぜ」竜牙がフフッと笑った。
「僕もリンキンパーク好きだ。Numbとか」
「おお、それカラオケで歌った事ある」竜牙が目を輝かせて言った。
「I become so numb! あとなんだっけ」竜牙が笑うと、僕も楽しい。
「続き忘れたけどな」
「いろいろ知ってるっすね。ウォークマン見せてくれっす」レノが覗きこんだ。
「うわぁ・・・洋楽ばっかり、こんなにたくさん」ブッチャーも仰天していた。
「すげえっす。ある意味尊敬するっす。何曲になるんすか」
「容量いっぱいまで入ってるよ」
「紙に書いてメモっとくから、いいバンド教えてよ」
ブッチャーたち三人は紙に何かメモしたようだった。

竜牙・・・
ほんとにあと数日で、いなくなっちゃうんだな。
こんな夜は永遠に続きそうに感じるのに。
いつの間にか別れの朝が来て・・・

まだ、僕にはやり残した事がある。

 


150

今日は同室のブッチャーと竜牙の調子が悪いようで、ブッチャーは何か
必死に質問をしてしがみついてくるのだが、まるで意味がわからないし、
竜牙は頭が痛いといって朝からずっと寝ている。休日なので、遊ぶ相手も
いないし、朝からずっとヨガでもやっていた。あんまり覚えてないけど、
他のみんなもそうだろう。
あとはストレッチ。言われた通りに、徐々に筋力を取り戻していこうと思う。

一番年長のブッチャーがさっきから布団に伏せて泣いているのだが、
どうすればいいのだろう。僕みたいなガキが軽々しく慰めたところで、怒られる
だけじゃないだろうか。

久し振りにコーヒーを飲まなかった。ミルクティーを買った。コーヒーを飲むように
なる前、子供の頃は自販機でミルクティーしか買わなかったほど、好きだった。
コーヒーの美味しい微糖のやつが閉鎖の自販機には無い。でもミルクティーが
美味しかったので、僕はコーヒーなしでもやっていけるのかな、と少しだけ思った。


151

竜牙は、ベッドにうずくまっていて、掛け布団で顔をかくしていて動かない。
「おい、起きろよ・・・夕食の時間だよ」僕は恐る恐る声をかけた「大丈夫か?」
竜牙は突然ぬっと顔をあげて、「もうそんな時間かよ」といって伸びをした。
「いや、頭痛はもういいんだけどよ、手が・・・」
左手を左側にいる僕に差し出す。「震えて止まんねえんだ、さっきからずっと」
確かに竜牙の大きな手は、見て明らかにわかるほどガタガタ震えていた。
「何だろ?クスリの副作用かな」僕は考えてみたが、副作用くらいしか原因が
思いつかない。「今度の診察で言ってみたらどうだ」
「ああ、そうする」そう言う間にも、竜牙の手は白いシーツの上でずっと震えていた。

「太陽が昇って、朝日が来る事。貴重だよねえ」ブッチャーがため息交じりに
つぶやく。「どうせここじゃそんなに見れないけどな」僕が返す。
過ぎていく時間ほど貴重で、残酷なものはないよ。
でも、時間ほど美しいものを見たこともない。
きらめきは一瞬だから綺麗なんだよ。流れ星が毎日毎日流れて、空に四六時中
オーロラが出てたなら、誰も夜空を見る人などいなくなるだろう。

「空より美しいもの、なーんだ」僕は玲音に尋ねてみた。夕食は終わっても、全員が
クスリを飲み終わるまでは、病棟への鍵が開かない。ホールに閉じこめられて、
竜牙と僕と玲音がベンチに並んで座っている時のことだ。
「なんだろう・・・音楽とか」玲音は答えたが、僕は人の作った音楽が空を越えられる
とは思わなかった。
「知らね。頭痛てーよ」珍しく竜牙は非協力的だった。「早くベッドで寝たい」
「正解は、ないんだ。特に答えはないんだけど、僕が考えたのは」

時間。

「レインは音楽って言ったろ。でもその気持ちを高ぶらせていく、あるいは癒して
いく美しい時間がなければ、音楽は成り立たない。静寂も、音楽にとってなくては
ならないもの。それを作り出すのは、時間」

そして、この世でもっとも残酷なもの。

 


152

風邪が流行ってるようだから、みんな気をつけて!
ではおやすみ。

(一日後)

インスタントのUCCは、まずまずな味だ。しかし金の微糖には遠く及ばない。
将来の話をブッチャーや竜牙として、ますます暗くなってしまった。夢?希望?
そんなのどこにもない。あるのは将来も精神病院の中、という現実。
「将来の話するのはもうやめようぜ。希望がなくて、ますます暗くなっちゃうから」
僕はそう切り出した。「希望はあるよ」ブッチャーが答えた。
「そんなものないよ。どこにもない!」
僕はそう叫んで、床にうずくまり泣き出していた。手と手で覆った顔。指の隙間から
次々と涙が溢れてくる。
父さん、母さん、姉さん、きらら・・・こんな大人になってごめんな、ごめん・・・
ブッチャーが立ち上がって、部屋の戸を開けた。「希望はあるよ。必ずね」
と言い残して廊下の方へ歩いて行った。

 


153

ブッチャーがまた泣いていた。僕はまた慰めようとして、「どうした?」
と聞いた。彼は父親が「汚いやり方ばかりする最低な奴」と言っていた。原因の詳しい
ことはその話ではわからなかったが、「聴いてくれてありがとう」と言ってくれた。
そうだな、相手が理解しているか不明でも、話を聴いてくれたら嬉しいもんな。

面会があって、カフェで母と話した。面会の時だけ、病棟の外に出る事が許される。
コーヒーフロートを飲んだ。ブラックはここのが一番美味しいな、と思った。
マックのもおいしいけど、自販機の前飲んだやつは物足りなかった。それにアイスが
乗ってる。誰が考えたんだろう?大発明だね。
母は、自分の話はあまりしなくて、僕が自分のブタ箱での生活を一方的に話すという
感じだった。少しろれつが回らなくて、話しにくかったが、だいたいの意味は伝わったと
思う。「家畜」「看守」という言い方には引いたようだった。でも本当にそうなんだよ。
逃げないように、小屋に鍵かけられて、閉じ込められるなんて人間じゃない、豚だ。
二重の金属扉があるんだよ、閉じ込めるために。


154

いじめに遭っている(と本人が言っている)いつも虚ろで寂しげな玲音を最近、
守ってやろうと思うようになった。僕はお人よしなのか・・・今月洗ったのかもわからない
ぼさぼさの髪、ガサガサの肌、目はクスリの副作用でおかしな方向に黒目が動いて
しまっている。いじめに遭わない方がどうかしている、とでも言いたくなる。
でも、竜牙はそろそろいなくなるんだ・・・玲音は、見た目こそあれだけど、本当は
優しい奴なんだろう。竜牙がいなくなったら、誰が玲音を慰める?誰が玲音を
かばってやれる?僕しかいないはずだ。新しく誰かが入ってくるまでは・・・
いつも何かに怯えているような顔をしている。過去に何か辛い事があったのだろう。
僕に誰かを助け、守るような力はあるだろうか。

いつも男子トイレ前に座っているボケ老人がいて、時にはどこのトイレを使うかを
指示してくる。初め来た時にはうっとうしいと思っていたが、今は僕は彼が自分を
トイレの守り神様だと思っているのだと確信している。
彼はここのトイレを守りたいのだろう、いつも入り口のところに立っている。
本当にいつもいつも、点呼の時と真夜中以外はいるので、何だか哀れになってしまう。
通る時に水をかけたり、殴ったりする人もいるという。僕は前は殴ったが、何だか
可哀想で今は無視するだけだ。


155

今日、トイレに行った時、入り口でかがんでいたトイレの守り神様が立ち上がり、
なんと、いきなり僕の首を絞めてきた。「う・・・うわ・・・ゲホ、ゲホ」僕は全身の
力を使って意外と強いその両手を払うと、守り神様に対する憐れみよりも、怒りが
こみあげてきた。この男には理性がないのだ。
僕は思い切り右手で守り神様の頬をはり倒した。守り神様は衝撃で少し吹っ飛び、
汚れた壁に頭をぶつけてうずくまった。僕はもう許せなかった。さらに腹を2、3発
蹴った。看守に見つかると悪いので、さっさと用を足し、逃げた。どうせあいつなら
僕から受けた被害を看守に伝える事もできないだろう。
守り神様に、同情などいらない。僕はそう思った。

僕は将来、あのボケ老人のようになるのか?ボケるってどんな気持ちなんだろう?
わからないが僕はそうなったらおしまいだ。あんな風になりたくないよ。

もし僕がボケたら、守り神様のようになったら、殺してくれ・・・死んだ方がマシだ。
精神病院に幽閉され、治る見込みもないのにクスリを飲まされ、いじめられて、
叩かれて、蹴られて、首を絞めて・・・なんて寂しい人生なんだろう。

 

 


156

朝一にある人に「お前って意外とキツいね」と言われ凹む。
自分ではキツいと思わないけど。

昨夜は、僕はよく眠れなかった。ブッチャーが物を叩いたり、声をあげて泣いたり
してた。僕はよく母さんが小さい頃僕にしてくれたように、ずっとブッチャーの
手を握っていた。
僕の中に、「誰かを守る」という新しい気持ちが生まれようとしていた。

朝のインスタントのUCCは正直カフェのコーヒーには劣る。でも何もないよりは
マシだ。朝、今日も何かしてやろう、という気持ちになる。
今日は休日なのでヒマだ。折り紙で箱を作る作業をやっていた。

玲音は入院してもう2年になるという。まさにベテランなのか、箱を作るのも
速く、意外と上手かった。僕はなかなか作れない竜牙の方を手伝っていた。
「もう嫌だぜ、こんな作業」僕は少し笑ってしまった。竜牙の箱はどこで
間違えたのか、風船の膨らみそうにないやつ、何とも言い難い形状に
なっていた。何もかもできるように思える頼れる男の意外な弱点。
手先が不器用だったのだ。

「そういえば、リュウ、手の震えはもう直ったのか」僕が言った。
見たところ震えている感じではない。
「おお、それなら診察でクスリ変えてもらったらよくなったぜ。
心配かけたな」
「リュウ・・・」僕は竜牙の心遣いに少しときめいてしまった。
「ジュナン、どうしたの」玲音が覗き込んで言った。
「いや、なんでも・・・」
「クスリって、恐ろしーぜ」竜牙が腕を組んで言った。

 


157

何だか、あっという間に昼になってしまった。レノとブッチャーと竜牙は
何も言わずカーテンからもれる水色の光に包まれ、寝ている。
そしてすぐに夜がやってくる。
退院の日が、実はもう決まっている。この入院生活も、あっという間に終わって
しまうのかな。
ここから出たくて仕方ない時もあったけど、今はもう何か昔から住んで育ってきたような、
懐かしい気持ちでいっぱいだ。

夜、大の方のトイレを出ると、例のボケ老人に「今日は下痢便だった?」などと
訳のわからない、根も葉もない事を尋かれた。僕はまったく目もあわさずに
通り過ぎた。
そうだ、明日はブラックコーヒーを飲もう。甘い物にはブラックが一番さ。

「レイン・・・」
退院の日を控えて、その日の晩、竜牙がつぶやくように言った。独り言のようでもあった。
ベッドから半分体を起こして、何か考えに沈んでいるようだった。
「どうかしたか」僕はなんとなく気になって、尋ねた。
「俺がいなくなったら、レインはどうなるんだ?また元の生活に戻るのか?
知らないだろ、元々あいつがブタ箱でどんな生活をしてたか。俺も聞いたから
知ってるだけだけど」
竜牙は何か悲しそうな顔でずっとベッドの上を見ていた。

 


158

「あいつはずっと、俺達じゃ考えられない程の孤独に耐えてきたんだ。わからねえよ、
どうしてあいつだけがあんな目に遭ってるんだ?俺には『希望をもて』なんてとても
言えねえ。無責任すぎるからさ」
竜牙の目に、何か光るものが動いたようだった。「だから、あいつは守ってくれる
誰かを必要としてるんだ。一人で生きていけないから」
僕はベッドサイドに移動してその独り言のような話を聴いていた。
「なあ、僕じゃダメか」
「ジュナン、とんでもないぜ。お前が必要なんだ」竜牙の大きな両手が伸びてきて、
僕の小さな手のひらを包んだ。
「レインに伝えてくれ。あいつは物事を客観的に見れてねえんだよ。自分が
公衆の面前でケツ出してても、分からねえんだ。自分がどう見られてるかって事を。
そのまま言うんじゃ、繊細なあいつを傷つけちまう。オブラートに包んでな」

鍵のかかったホールの中で、僕は玲音を見つけた。確かに、彼は床に座る時
股上の浅いジーンズを履いていて、尻が丸出しになっている。そしてその事に
気付いている様子がまるでない。
「レイン・・・ちょっといいか」僕は手に汗をかきながら尋ねた。
「何?」
「その、後ろが・・・丸出しになってる」
「!」玲音は、事に気付いたようだった。そして・・・
看護師の元へ大声を出しながら走って行った。
「看護師さーん!いじめです!ジュナンが僕をいじめてきます!!」
「・・・」僕はあっけにとられて、何も言えなかった。

 


159

「そうか、やっぱりダメか・・・」竜牙が険しい顔をした。
「被害妄想が強すぎて、俺らがどんな思いでレインを守ろうとしてるか、
まるで分かってねえ。肩を落としなさんなよ。俺でもきっと同じようにしか
言えなかったはずだ」
竜牙の優しさは、今僕のささやかな癒しになっていた。リュウのベッドの脇に
座っている時が、僕の一番幸せな時間。
「寝ますので、静かにしてくださいっす」レノが無表情な声で言った。
「あ、俺も寝るわ」僕は自分のベッドに帰った。消灯時間が近い。

(一日後)

朝食を終えた僕は、なんだか妙に寂しくなってしまった。
誰かに、抱かれたい。あるいは、抱きたい。でもそんな事してくれる人は
どこにもいなくて、温もりに飢えていた。
部屋の戸の外で、守り神様が何か汚い事を叫んでいる。食事中に便の話など
止めてほしいものだ。でもそれ以外には何の音も無い。無音。息が詰まるような
気さえもする。


160

朝一にブラックコーヒーを飲んで、頭がスッキリした。何か生きてる事をしよう。
何でもいいや、生きてると感じられる事なら何でも。

竜牙の退院まで、あと3日となった。僕にはまだ、やり残した事がある。
竜牙が受け入れてくれるかどうか、わからないけど。最高のプレゼントだ。
竜牙がいなかったら、閉鎖でやっていく事などとてもできなかったはずだから。

リハビリ室で塗り絵をやった。思い切り変な色使いにしてやった。
僕を生かしてくれるものは、死んだり消え失せたりすることがある。
でもまた現れるんだ、別に。生かしてくれるものがずっと、失せたままでいたことは、
ない。タイラーの次に竜牙と出逢えたように。
それは、友人だったり、趣味だったり、コーヒーだったり、何でもそうだ。
死んでも、再生するんだよ。

今日のヨガと準備体操を部屋でやっていたら、ブッチャーに大爆笑された。
僕には意外と向いているようだった。
ここに来てから2週間が経った。大抵誰がいい人で誰が関わっちゃいけない怖い人か
分かるようになった。怖い人なんて、世間にはどこにでもいるようだ。それもいい人の
顔をして。それに、いいと悪いの中間の人もいるようだ。

 


161

今日の夜、ナースステーション前で同室のレノが泣いていた。彼は遠いところから
この病院へ連れてこられたらしい。
「おかしいっすよ。絶対おかしい。不平等っすよ。
天罰すか。俺は悪い事何もやってないっすよ。
どうして誰も面会にすら来てくれないんすか。俺なんかいらないんすか。
おかしいっすよ」
かなり取り乱していた。それにしてもまだ面会は一度もないらしい。
遠い県から来ているから、そう簡単に来れないのだろう。
僕も少し切なくなってしまった。面会があるとはいえ、父さんや母さんや
姉さんと暮らしていた小さい頃を思い出してしまう。

あの頃は自分が幸せなのだと、恵まれているのだと思った事も無かった。どん底を
通り抜けてこないと、光のありがたさは分からないようだ。
北海道に旅行に行って、牛の乳を搾ったり、馬に乗ったり、カヌーを姉さんと漕いだり・・・
姉さん、本当はどこにいるんだ?返事してくれよ。
窓のところにいたのは、幻だったのか・・・?

 


162

今日は防災訓練があった。グラウンドで並んでいる時、遠くにタイラーの懐かしい顔が
見えた。たぶん、第三病棟の列だろう。
声をかけようとしたが、タイラーは全く僕の事など気付いていないようだった。そのまま
看守に言われるままに、閉鎖病棟に帰されてしまって、鍵をかけられ、結局何も
言えなかった。
野田は?ケヴィンは?どうなったんだろう。僕の知らない事が、知らない間に過ぎて
ゆく。

ここは救急救命士になるための学ぶ場所にもなっているようで、僕より4つくらい下の
学生さん達が学びにきている。精神障害者とはどのような存在なのかを。
解剖で使われるカエルみたいなものか。学校の大きめの水槽に土を入れて飼う
カブトムシ?とにかく僕らは彼ら、彼女らの実験台なのだ。
まあ、もっとも統合失調症は差別の残る病気だから、若い子達が学んでくれるなら
僕はカエルやカブトムシである事を誇りに思わなければな。

 


163

もっと学んで、見て、聴いて、肌で感じて、そして知ってくれよ!こんな怖ろしい病気が
ある事を。ずっと差別され続けてきた歴史を。
統合失調症が理解され、治る病気として世間に認知されれば、こんなクソ入院
なんて少なくなるだろう。本当にクソだな。

いつも救命救急士の卵達とこんな会話をする。
「ジュナンさんって、病気に見えないですよね。どこが悪いんですか」
「頭が悪いんだよ」僕は自分のプリン頭を指差す。
「そんな」その20歳の女の子はびっくりしていた。「頭に病気があるようになんて
全然見えないです。驚きました」
「イカれてるからだよ」僕は今日のごはんを聞かれたのと同じように、平然と
答えた。
「えっ、どこがイカれてるの・・・?スタッフさんかと思いました」
「統合失調症さ」
「へえ~見えないです」
見えなくても僕の頭はイカれてんだよ。それが、現実。
ただし僕の目は典型的なクスリ飲んでる人の目じゃなくて、普通らしい。
目の焦点が、あってきたのだろうか。なぜかわからないけど、
誰にも指摘されなくなった。


164

今日は2回も水をかけられた。
一回は、みそ汁をこぼしてトレーナーがびしょびしょになってしまった。
2回目は、人とぶつかってクスリのコップが揺れ、水が着替えた服にこぼれて
服がますます寒くなってしまった。部屋に帰るまで凍えていた。

玲音はいつも竜牙と向かい合って食事している。僕はいつも竜牙の隣の
席で食べるのだが、もうそろそろ竜牙の席は空になるのか、と思うと虚しい。
今日は、玲音が「英会話をやりたい・・・通ってみたい」と言うので、僕は
「いいんじゃないか」と言って励ましたつもりだったのが、
「!」玲音が目を見開いて言った。「ジュナンは僕にお金を使わせようと
してるんだな、よくも・・・」

僕は、もう玲音を見捨てる事にした。竜牙を挟んで、玲音と反対側のソファに
座った。あいつなんか嫌いだよ。だってろくに会話もできないじゃん。そんな恨みにも
似た思いが僕の中で渦巻くようになった。髪はぼさぼさで、不潔で、人をすぐに疑い、
自分ひとりがみじめだと思ってる。誰が救ってやるものか!
「ねえリュウ、・・・」
「何だ?・・・」
何か二人だけで会話しているのが、余計に惨めで辛かった。


165

竜牙はきっと、朝に出ていくだろうから、実質、今日が最後の一日。
朝方は、竜牙は眠そうで、髪の毛はファッションもあると思うのだが、いつもに
増して立っていた。
僕は玲音になんか負けるつもりは無かった。熱いものを両手にかかえ、目をこする
ベッドに半分体を起こした竜牙に手渡した。「おっ、コーヒーか。気がきくな。ありがとよっ」
コーヒーを意外にもちびちびと飲む竜牙。僕は彼は猫舌なのかな、と思った。もっと
一気飲みのイメージがあるのだが。

「なあ、リュウ」僕は後ろ手に紙とペンを用意していた。「住所、教えてくれないか。
何か出すかはわからないけど」
「ごめん」竜牙はうつむいて、悲しげに目を閉じた。「それはできないんだ」
「家に押しかけたり、なんてしない」誓ってもいい。
「申し訳ない。でも、それだけはできないんだ。本当にごめん」

そうか、竜牙・・・

「でも俺は、お前と出会えた事、二度と忘れないぜ。年取って、ハゲて、ボケ老人に
なっても。それだけは、誓える」
ははは。竜牙はそういって笑った。僕も笑った。
笑いすぎて、涙が出てきた。
「僕もお前と出会った事、忘れられそうにないよ。残念だけど、どんなに脳がやられ
ちまっても。インパクトがすごかったから」
「インパクトって何だ」
「さあな」笑いは消え、あとに流れる涙だけが残った。


166

涙をグレーのトレーナーの袖で拭いて、僕は言った。
「誰もいないな」
「そうだな」
今はブッチャーはどうせいつもの公衆電話の前にいるだろうし、レノは
どこかわからないが、ベッドにはいなかった。
外は快晴。美しい朝。

「リュウ、ひとつ、僕の願いを叶えてくれ」
「おい、何だ何だ?」その少しかしこまった態度に、竜牙はいつもと違うものを
感じたようだった。
「リュウ」僕は両手を20cmくらい広げた。「僕とハグしてくれないか」
「何だ、そんな事か。俺の力は強ぇぜ。いいんだな」
先に竜牙を抱きしめたのは、僕。竜牙の大きなてが後から僕をしっかり
抱いた。「お前、ちょっと今日ヘンだよな。何だ、そんな事だったのか。
泣いたりして」
竜牙の腕の中は、痛くも何ともなくて、むしろ暖かく、どこまでも優しかった。
目から次々と、伝えたかった事があふれ出して、止まらない。
僕の頭は、竜牙の胸くらいまでしかない。それが、居心地のいい原因かもしれなかった。

「あと、玲音が言ってたぜ」
「何て?」僕は少し正気に戻った。
「数日前はごめん、って」


167

実はな、まだ他人に話した事はないんだ。お前だから言うんだが」
「話してみろよ」
「俺は某市で包丁を振り回してたんだぜ、昔」
「それはやべえな、本当か」今の落ち着いた竜牙からは想像できない、過去の姿。
「よく訳の分からない、得体の知れないものに襲われる気がしてな。必死で包丁で
そこら中を切りつけて、パトカーのサイレンがそのうち聞こえて・・・」
「すごい過去だな、それは」

「いや」竜牙は言った。「それはレインだけじゃないって事さ。今あいつはたまたま
そういう状態にいるけど、俺も昔はそうだったんだ。お前なんて軽症すぎるから
逆にわかんねんだよ。
それでもレインを見捨てられるか?あいつは俺の過去の姿そのままなんだ。
訳のわかんねえものにいつも怯えてる。でも治れば違うんだよ、あいつはいい奴
なんだよ!」
僕はまた涙が出そうになって、必死で抵抗した。玲音と竜牙が通じ合ったのは、
結局二人とも、同じような過去だったからなのだ。竜牙が一方的に救おうとしていたの
ではなくて。
竜牙がやっとコーヒーを全部口に入れ、微笑んだ。
白い太陽の光に照らされて。


168

レクで習字をやった。昔習っていたが、かなり腕が落ちていた。小さい
文字が綺麗に書けなかった。残念だな。

今日の午後は、ハードスケジュールだった。竜牙の退院の事を考えている暇もなくて、
こんな生活してたら一生治らないんじゃないかと思った。
夕食の時になって、鍵が閉められて、ようやく少し時間ができた。

玲音はクスリの副作用で変な方向に曲がってしまった黒目をなんとか
竜牙に向けて、寂しそうな表情をしていた。僕は竜牙の隣で黙々と夕飯を
食べた。誰も、何も言わなかった。僕らを繋いでいるのは言葉なんかじゃなくて。
玲音は突然立ち上がって「ジュナン、ごめん。本当にごめん」と言って
自分の頭を叩き始めた。竜牙はその腕をつかんで、
「お前は何も悪い事してないよ。病気のせいさ。
それに、もう過ぎちまった事だろ」もう最後になるかもしれない、笑みを浮かべた。

その日は早めにベッドに入った。まだ消灯までに30分近くあったけど、竜牙がどうも
頭が痛そうにしているので、そっとしておこうと思った。

もう永遠に、会えなくなるんだな。
どんな顔して、別れたらいいだろう。どんな顔しても、泣いてしまうのは分かっていた。


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そして、その「永遠」の朝が来た。

朝食の時までは、竜牙は一緒にいた。無論、隣で食べた。
「なあ、あとでちょっとトイレに来いよ」僕が提案した。
トイレは一枚大きな壁があって、入り組んでいる。人に見つかりにくい。
監視カメラなどあるのかもしれなかったが、僕にはどうでもよかった。
「トイレ?何だよ急に」竜牙は少し驚いたようだった。
玲音は正直、ちょっと嫌そうな顔をしていた。僕ら二人だけの秘密がある事が。
「じゃ、僕も行く」
しゃーねーな。玲音もついてくる気まんまんのようだった。

誰もいない、白い無機質な壁のトイレ。
壁のこちら側で、僕は思い切りもう一度、竜牙を抱きしめた。
竜牙は素直に受け入れてくれた。そこにあるのはもう包丁を振り回すイカれた病人の
姿ではなく、何もかも乗り越えた僕らの憧れのリーダーの姿。
「リュウ、僕もお前みたいになりたいよ。二度と入院なんかしない」

リュウの胸は、どこまでも広く、温かい。おまけに、竜牙は僕の背中を少し
さすってくれた。僕の目からもう一度涙が溢れ出た。「リュウ・・・」
「ぼ、僕も、僕も!」玲音も竜牙のそれより少し小さい両手を広げた。
竜牙は同じように、玲音を抱きしめた。この男は玲音を「汚い」などと決して思わない。
心の通じ合った、わずか数秒の抱擁だった。

荷造りを終え、看守が珍しく嬉しそうな顔で迎えに来ると、竜牙はどこかへ
旅立っていった。