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登場人物紹介


1

レントゲン、体重測定、心電図、血液検査をやって、その後カフェテリアで
食事をして、病棟に通された。第3病棟。それが僕の病棟の、ごくシンプルな
名前だった。317号室に通された。
部屋に着いて、看護師からこれからの説明を受けた。しかし少しも頭に入ってこない。
アフリカの言葉を使っているのかと思うほど頭に入ってこない。
終わりには、半狂乱になっていた。

苦しくて、苦しくて・・・2013年はそういう、最低最悪の年だった。
今までにこんなに苦しかった年はない。
とりあえず、病院の自販機で缶コーヒーを買って、飲んだ。
生きてる感じがするのは、こんなとき。それ以外は、しない。


2

カーテンがないのにびっくりした。今までどんな部屋にもカーテンがあるものだと思っていた。
ブラインドしかない。
外は金網が張り巡らされている。

シャワーを浴びたら、水しか出なかった。おまけにバスタオルを忘れてしまった。
タンクトップで体を拭いて、部屋で着替えた。

窓の外に広がるのは、N市の街。やや町外れだが、あこがれていたN市の街並み。
こんな形で入りたくはなかったが。

数ヶ月前までは、自分が統合失調症なんてただのジョークだと思っていた。
『治療計画書』のコピーを見る。担当の看護師が置いていったものだ。
『幻聴・妄想』にマルがつくのは自分でもどういうわけかわかる。でも『自閉・無為』にマルがつくのは
なぜだ?自閉って何なのだろう?僕は普通に人と話しているじゃないか。引きこもったりしてないぞ。

 


3

時々、ナースステーションのあたりをうろうろして若い女の子でもいないかウォッチングするんだけど、
誰もいない。僕より若いのは二つか三つ隣の部屋の女の子だけで、あとはみんな三周り以上年上の
人ばかりだ。

窓のところに金網があって、天井まで続いている。死のうとしても、死ねないようになっている。
最も、僕はもうそこは諦めてしまったけど。

この病院、若い人に人気がないのかもしれない。前の病院には自分より若い人がちらほらいた。
内装は、誰もが考えるような普通の昔からの病院の雰囲気で、古い棚とベッドが一つ、おしゃれな感じが
少しもなく、古い。
僕はとりあえずコーヒーが飲めたらいいか、と思う。自販機の、それも病室から一番近いやつに
微糖のコーヒーがあるんだ。

 


4

看護師の男女三人と患者三人でトランプを始めたものの、
気が向こうの方へ飛んでいて集中できない。簡単なルールがわからない。

入院がこんなにいいところだったとは知らなかった。僕の燃えかすのようだった
生きる気力に、火はつかなかったが、少し煙が立ったように感じる。
何かよく知らないものに、大きな手で守られているんだ。
その力は、凄い。目に見えないくせに頭痛も幻聴も今日はおさまっている。

もうこのまま何もせずに眠っていたい気分。食事もいらない。起きたくもない。ただ、寝ていたい。
本を持ってきたが、読みたいとも思えない。
疲れたのかどうかもわからない。ただ、寝させてほしい。

 


5

僕は破瓜型なのか?「なのか?」とはよく知らない事柄について
使う言葉だと思う。でもこの場合、僕も周りの人も言わないだけで知っている。
僕ももちろん知っていたが、認めたくないから言ったのさ。
それに、僕は破瓜型だと実際どうなるのか、よく知らない。幻聴が少なくて、
例の「無為・自閉」が出てくるタイプなんだろうと思う。

それと関係があるかはわからないが、僕の『無為』症状はけっこうひどい。
気がつくとぼんやり白いベッドに座っている。その前に何をして、
何を考えてたかがまるでわからない。家にいたときはいつの間にか風呂に
入ってたり、寝たりしていた。

夕食。僕は野田というおっさんと喋っていた。といっても彼が何を言っているかは
98パーセントわからない。辛うじて単語が聞き取れることがある。
それをもとに推測して会話するんだ。本当は若い人がよかったが、ここにいるのは
7割型おっさんだ。それも極端に年の。

 


6

外から鍵はかけられない。だから、「誰か後をつけて襲ってくるんじゃないか」と
不安になる。不思議だ、大学のひとり暮らしの頃はそんな事気にしちゃいなかったのに・・・
看護師をつかまえて訴えると、「大丈夫ですよ」と言われる。
ああ、今日の薬はいったい何を飲んだのだろう。不安でたまらない。

いつの間にかぼんやりと立って、、やっていることを忘れてしまっている。
明日も自販機でコーヒーを買おう。微糖で。
そういうと、なんだか虚しいような、切ないような気分に襲われる。
僕は今、一缶のコーヒーのために生きているんだ。

 


7

夜の薬を飲んだ。コップに水をいれて、持って並んで、
袋に入ってる謎の薬を飲む。それだけ。
何か効果があるのかわからないが、明日は寝れるだろうか。

今日の午後の事。
「蒼月ジュナンさん」と呼ばれて、自分がいつの前に名前を教えたのだろうと
思った。
看護師の女性が言った。「都会的な感じの患者さんって珍しいですよね」
「都会的・・・?」
もう一人の看護師が言った。まだ20歳過ぎに見えた。「都会的というか、かわいい感じかな」
かわいい・・・?僕には理解ができなかった。
彼女らとトランプをやった。誰もが知ってる、ババ抜きと7並べ。
少しも理解ができなかった。心がここじゃない遠くへ飛んでいってしまってる
みたいだった。看護師たちがなぜ笑っているのかわからない。
あげくの果てには「大丈夫ですか」と気遣われた。

フラフラしながら眼鏡ケースを探す。僕はコンタクトは持ってこず、黒ブチ眼鏡で
来ていた。睡眠薬が効いてきたらしい。

 


8

寝れねえ。とにかく寝れなかった。
睡眠薬は入っていたのに少しも寝れない。午前4時半に起きてこれを書いている。
始めは、頭の中が声でいっぱいになって寝れなかった。こんなにたくさんの
声を聞いたのは初めてだった。次は、とにかく目がさえて寝れなかった。
それに、N市の街は明るい。窓にカーテンがないから、電気を消しても
十分すぎるほど明るい。

本を持ってきた。でも読む気にならない。ただ寝たいというのがあるだけで。
あ”--本も音楽もない生活より、コーヒーのない生活のほうが耐えられない。
コーヒーをよこせ。

ええと、朝食の前にまずコーヒーを飲んで・・・だめだ、
昼間の楽しみが減ってしまう。でも飲みたいや。

結局、コーヒーを買ってしまった。
朝日はまだ見えないんだけど、朝の雰囲気の中で冷たい微糖コーヒーを
飲むとやっぱりおいしい。
まっとうに生きる気力もないけど、なんとか今日一日だけなら
やれそうな気がしてきた。

 

 


9

ラジオ体操に行ってきた。入院して長そうな女性について行った。
スリッパで来てしまったので、階段はスリッパを脱いで降りた。スタッフの30代くらいの女性に
「次からは靴で来るといいね」と言われる。

看護師が病室に入ってきて脈を計り、トイレの回数や食欲を尋ねた。
「ほとんど食べてないです」と告げると、彼女は
「食べ物は薬で、ガソリンみたいなものだから食べなきゃだめよ」とメガネを上げながら言った。
そのとおり、そうなんだけど僕はどうも食べられない。頑張って食べなければ。
生きる力が燃えようにももうガソリンがないぞ。
「あと・・・」僕は尋ねた。「看護師さん、コーヒーは飲んでもいいですか」
「あまり飲むと胃にもたれるけど・・・許してあげるわ」
よかった、僕の生きる意味は守られた・・・


10

朝食は、ほとんど手につかなかった。入院患者の
タイラーという男と話して、自分が彼より重症であることに気がついた。

僕は、とことんウザイ奴になってやろうと思う。キツい看護師、そういうものに
負ける気がしない。いろいろナースステーションに訪ねに行った。
うるさがられた。高校や中学校よりずっとマシな世界だ。

心の痛みは、なぜか消えてなくなった。そして、生きる気力に火がついた。
あの生意気な憎たらしい看護師が、逆に生きている感じにさせてくれる。
あまり食べてないのも、逆にいいのかも知れなかった。

 


11

僕が入れられたのは解放病棟だった。だから階段を降り、下で
植物を育てている医療スタッフと話をすることができた。
何という植物だったか忘れてしまったが、初めて見た変わった花だった。
僕は植物オンチだ。キキョウと言われたが、キキョウがどれなのかわからない。
植物に関する知識が必要だな。

カフェテリアでタイラーと喋りながら食べた。タイラーに「夢遊病?」と言われる。
僕が「いつの間にか座ってる」話をしたからだ。
やっと胃に少し食べ物が入って、重い。
その後は僕の何もせずに寝たい気持ちが復活して、寝ることにした。

 


12

抗精神病薬が変わったらしい。頭がほわーんとして、笑い出したく
なるほど気分がいい。何も考えられないけど。
僕はいつも鬱だけど、今日は少し笑った顔をしてる。空っぽで虚ろな、
笑顔。虚ろなのはここの人皆そうだ。
廊下に座り込んで、ずっと笑ってた。

太陽は、鉄格子越しに見ても、いい。虚ろな心を暖めてくれるものだ。
そして、そこで飲むコーヒーはまた格別に美味い。コーヒーがなかったら
自殺を図っているのではないかと思うほどうまい。

財布を開けるが50円と10円玉しかない。
ぼけた頭でなんとか120円を計算し、自販機にチャリチャリ入れ、微糖のコーヒーを
買う。何か、達成感がある。

タイラーがカフェテリアで何か考え事をしていた。僕が尋ねたが、
「秘密」といって何か教えてくれなかった。冷水を飲んで部屋に帰った。


13

「思うよりあなたはずっと強いからね」というエルレの歌詞がある。
僕はエルレが好きでずっと聴いていたので、音楽がなくても十分
思い出せた。僕は、実は強かったのかもしれない。弱っちい、弱い、と
昔から言われ続けて、そう思っていたが、入院してどんな気分になるだろう、
辛くないかなと思ったら、意外に馴染んでしまった。
強くなくても、適応能力があるのだろうか。

気持ち悪さに耐えながら、推理小説を読む。まだ内容に入ってないところだ。
細かい文字を必死に追う。どうにか2ページ読めた。
もう寝よう。当分はクスリ飲んで寝る。統合失調症もインフルエンザも
基本は同じなんだ、食べてクスリ飲んで寝る。というわけでおやすみ。
クスリの時間が待ち遠しいなあ。

 


14

僕は何も知らない。新しく入ったあの大きなクスリが何のクスリで
名前を何というのか、全く知らない。今度診察の時に聞いてみよう。
何だか頭が不快な感じでフラフラする。クスリが切れてきたんだろうか。

鉄格子を見ると、僕は嬉しい。なぜ嬉しいのかと思われるだろうが、
守られている実感があるんだよ。早くクスリの時間にならないかなあ。
家のベランダにも鉄格子取り付けたいよ。僕はいつかあそこから
落ちてしまう気がする。

夕食をタイラーの隣で食べた。わりと美味しかったのでほとんど全部
食べた。胃が痛くなってしまった。でもクスリは飲んだ。
食事は、家よりおいしい。家でこんな手のこんだメニューが毎日出たらいいよな。

僕は、認めたくないが寂しがりだと自覚している。でも今日はほんの少しも
寂しさを感じなかった。ここの仲間に、いつの間にかなっていた。

 


15

寝れなかったので、午前一時頃、ナースステーションに睡眠薬を
もらいに行く。カフェテリアでお茶を飲む。もう完全に
「入院患者ジュナン」になっている。


クスリを飲むと、頭がほわーんとして気持ちいい。笑い出してしまいそうな
感じだ。でも衆人環視の中で笑っていたら気持ち悪いのは確かだ。
久しぶりに、朝食は完食だった。

ゴミを捨てに行くと、タイラーがお茶を持って山の方を見ていた。
N市の片隅は、あまり山に近いわけではない。でも、それでもこの
田舎町の風景が落ち着くのだと言っていた。
笑いながら寝ていたい気分。クスリが効いてきた。

 


16

たまにはミルクティーを飲むのもいいな。微糖じゃなくてミルクティーにした。
スチール缶だった。
僕は滅びゆくアルミ缶。エアコンと鉄格子に守られているだけの
押したらすぐつぶれる、アルミ缶。観賞用の、アルミ缶。
なんだ、それ?役に立たないし、すぐつぶれる・・・

昼食はまあまあ食べた。
顔中ボロボロ、中身もボロボロ。こんな男のどこに生きる価値があるというんだ。
看護師はよく飯をくれるなあ。
顔がボロボロで、頭壊れて、責任者を出せ!とでも言いたくなる。
誰に怒ればいいんだ。

「L2」とかいてある大きめのクスリをロナセンだと思って飲んでいる。
でもロナセンだろうか。不安になってくる。抗不安薬なども入っているかもしれない。

 


17

「僕は預言者なんだ」タイラーに言った。「未来を見てあげようか」
「へえ、預言者なの?」タイラーは言った。「時々現実離れしたこと言うよね。
あとは普通の人っぽいのにね」
「僕は、本当に預言者なんだよ。未来を見る能力を突然、神から
授かったんだ」
「ふーん」
タイラーは僕に初めてできた、年上の友人だった。病気の人とは思えないほど
穏やかで温厚な奴だった。彼は僕のことを「誇大妄想狂で夢遊病のジュナン」と
思っている。それでもいい、つきまとってやろう。
ウザがられるまで。

コップを持って並ぶ列の隣のテーブルに、どこかで見たような女の子が
腰掛けている。ええと、誰だったけな。確か「アゲハ」っていうきららの親友・・・

何でこんな所にいるんだ!?

 


18

「あ・・・ジュナンさん」
その女の子はこちらを見て、少し顔を赤くした。
「まさか、こんなところでジュナンさんと会えるとは思っていませんでした」
「僕はメンヘラだからな」本当にアゲハなのか?
「あたし、紺野アゲハっていいます。ジュナンさんの大ファンだったんです。
まさか、同じ病院の同じ病棟だなんて思わなくて・・・」
「きららの友達でしょ、知ってるよ。でも偶然だね」
「それも同時期に。あたし、いろいろあってちょっと病気になっちゃった
けど、なんかやる気出ちゃうな」
彼女はクスリを飲み終えるなりうれしそうな顔で黄緑色のコップを持って
女子寮の方へ歩いていった。
僕は思った、(こういうことってあるものかな)


19

カフェテリアに来たアゲハが、「ジュナンさんの服、素敵ですよね」
と言う。「昨日から同じ服なんだけどな」
「あれ、着替えないんですか?」
「面倒だから、洗濯サボってる。金いるし。サボってコーヒー代にまわしてる」
「そうですよね、お金いりますよね」
アゲハが僕のななめ前の席に座る。黄緑色の新しいコップが
太陽の光を受けて眩しい。
平和だなあ。ここは。今までいたどこより平和で、真っ白な漂白したような
時間が流れる。
「でも、あたしは洗濯しますよ。毎日おフロ入れないなんて最低」
なんで笑顔で言うんだろう。僕まで笑顔になる。
午後二時頃のカフェテリアにて。

 


20

外来に来る誰かの目。目的を持っているように思える。患者の目。
僕が思っていたよりもずっと、未来を見据えているように思える。
虚ろなのは、僕だけなのだ。

階段を降りて、さくら商店を探し、辿り着く。迷った挙句、ビスケット
を買う。部屋で、水をカフェテリアのウォーターサーバーから
持ってきて食べたビスケットは何ともいえない味だった。
ビスケットってこんなに美味しかったっけ。
生きてる感じってどういうものか、本気で忘れかけてた。いいじゃないか、
鉄格子や金網の中でも。生きてる感じがするのはこういうとき
だけなんだよ。

 


21

ナースステーションの周りをうろうろしていた。今は中に
誰もいないようだ。Gの幻聴が「万引きしてるのか」とからかう。
僕は無視して清掃中の看護師を呼び止めて、輪ゴムを1個もらった。
「ちぇっ」部屋のエアコンの音を聞くだけで舌打ちが聞こえてくる。

現在、午後3時10分過ぎ。
カフェテリアで4時25分までタイラーと話した。もう退院したおっさんも
なぜか来ていて話が盛り上がった。「病室に閉じこもってちゃダメだよ。
積極的に治そうとする意思を持たないと」
今、僕は思い切り寝たい感じだ。寝てはいけないのか?
「寝ることも食べることもしなかったら、死んじゃうよ」誰の言った言葉
だったかな?
そうか、僕は・・・
やっぱり寝ることにしよう。


22

僕は、体育がそんなに得意ではない。でも運動会には参加するつもりだ。
一体どうなるのだろう。

ああ、夕食前、ちょっとマッドになってきた・・・きららはどこにいるんだ?
僕は前にも言ったが、頭が変になって120円を数えるのにも苦労している。
クスリが切れてきた時間なのかもしれない。夕食・・・夕食・・・夕食・・・

夕食はまたタイラーと並んで食べた。何も喋らず、黙々と。
アゲハの視線を感じた。

そういえば、父さんと母さんが面会に来た。「元気でやっとるか」
いつもよりちょっと控えめな感じで言った。僕は眠かったので
「う、うん」と答えてさっさと終わらせた。眠い。ただ寝ていたい。
まぶたが重い。もう二日も寝ていないんだ。


23

夕食後のクスリが効いてきた。頭がほわーんとなってこれ書くのも
やっとだ。とりあえず笑った顔になる。
コップを水色にしたら、他の人も水色の人がいて間違えかけた。かといって黄色も
多い。ピンクは誰もいなかったけれど、それも嫌だ。紫とか
変わった色にしたらよかったかもしれない。

精神科の高齢の皆さん、滑舌が悪いな。僕も年取ったらそうなるのかな。
寂しいな。
あまりにも寂しいので、部屋を出た。この寂しさは高齢のイメージとは違う。
誰か人に会いたい気分だ。タイラーは、Gは、こんなとき何て言うだろう?
寂しいな・・・誰か人に会って、トランプでもして、昔話をしたい。
そんな寂しさだ。


24

カフェテリアに行った。病室の冷たさに比べ、カフェテリアの温もりある
見た目が好きだ。いつまででもここにいられる。ぐるりとゆっくり一周して、
コップを持って病室に帰った。
きっと、家族じゃない。友人がいないと消えない寂しさだろう。
家族がいても、一人。友人がいても、孤独。
早くクスリの時間になればいい。昨日の頓服の睡眠薬、出してもらえる
ように頼みたい。ここは明るくてたまらない。

カフェテリアで温かいお茶を飲んでホッとしていたら、オヤジがジロジロと
こっちを見てくる。ゲイか?


25

ゲイときいて思い出したのは、G。彼はなんだか表情が読めなくて、そのうち
僕をそういう目で見ているのでは、と思うようになった。
・・・そんなこともあったな。遠い昔の話みたいだよ。
おやすみ。その前に一回クスリがあるな。頓服頼むの忘れないように
しなければ。診察もあると思う。この虚しさを。50円と10円握りしめて泣きそうになる
悔しさを、何と表現すれば伝わるんだろう。
僕はこの程度の計算もできないのだ。

まずい僕だけど珍しく蚊やダニに刺されてしまった。そのダニや蚊は今頃死んで
いるだろう。バーカ。虫刺されの薬をナースステーションでもらう。
睡眠薬はどうしても眠れないときだけらしい。クスリ、うまいのになあ。残念。


26

今日の朝食の甘納豆はうまかった。全部食べてしまった。
しかし、話はそれで終わらない。コップが残飯入れの中に落ちてしまった。
何とか手を突っ込み取り出したが、クスリのとき「コップが残飯入れの
中に落ちました」と言ったら
「向こうに洗剤があるので洗っておいで」ということで
必死に洗った。

「爽やかな朝、というが、少しも爽やかじゃない。爽やかな朝なんて・・・
それ以上は、劣等感を感じるからやめておこう。ああ、
爽やかな朝なんて・・・


27

雨の中、頭にタオルをのせて外へクリーミーラテを買いに行ったら
全部売り切れていた。仕方ないので朝専用缶コーヒーというのを買った。
金の微糖には及ばないが、低糖くらいの甘さで、意外といける。
こうして、朝からずぶぬれになってしまった。金網の下の洗濯物は
大丈夫だろうか?ラジオ体操は超真面目にやった。

さっき下で黒っぽいしまネコ(僕はしまぞうという名前をつけた)を追いかけ
まわして、泥まみれ、ネコまみれの僕をかわいいという年上の女性達。
感覚が、よくわからない。女性は、自分より大きいものに対しても平気で
かわいいと言うものらしい。

今や、震える手で細々と日記を書き、独りで空笑するのが僕の日課となってしまった。
リハビリの時間なので担当の看護師が呼びにきた。行ってくるよ!

 


28

僕は寂しい。リハビリ室に来てたのは全然知らない人ばかりで、
同じ方向へ帰ってった。話には入れないのに、無駄に名前を聞かれた。

カフェテリアで一人で茶を飲んでいたら、むせてお気に入りの濃い水色の
ジーンズにシミをつけてしまった。みっともないな。恥ずかしいな。
そのとき、隣でアゲハが音楽を聴いてるのに気がついた。
「何聴いてるのかな」僕は尋ねた。
「バンプとか西野カナ。ジュナンさんは何聴くんですか」
「エルレとか。あとは言っても知らないだろうな」
何となく微妙な雰囲気になって、会話が途切れた。僕は部屋に帰った。

「思うよりあなたはずっと強いからね」どこかの歌詞にあったな。
うるさい。うるさいな。みっともない。恥ずかしい。それだけだ。


29

明日まで風呂はないな。もう一日同じ服にしよう。金髪の根元あたりが
伸びてきた。ああ、寂しい。
いびきが苦手だった。なのに今度は、古いエアコンがうるさくて眠れない。

僕はウザイ奴になってやるって決めたから、何かよくわからない集団が
カフェテリアの中に入って来た時、その中に堂々と入って行った。
「今食事中だから。デイケアだから、出てくださいね」
なるほど。デイケアだったのか。
ああ、クスリが効いてきた。悪い言い方だけど、漏らしちまいそうなほど
いい気分だよ。しないけど。

 


30

とっても意味のない幸福感に包まれ、笑いながら売店へ行った。
なぜか嬉しくて外来の方まで行ってしまった。売店のおばさんに「あなた
買ったものを忘れてるよ」と言われた。買ったものを忘れるほど、
幸せな気分でいっぱいだった。
病棟に帰ってからある人とポーカーとウノをやって余裕勝ちした。
部屋で、ベッドに横向きに丸まって寝ていた。さっきから汚い例えで
申し訳ないのだが、よだれが止まらないほど気持ちいい。
何で?

今日は4時から診察かードキドキだなあ。暇なのでカフェテリアの辺りを
うろうろする。
やっぱりコーヒーはいいな。症状が進んで、どれだけマッドになっても
コーヒーは飲むんだ。ならないといいけど。

 


31

「回復へのしおり」なるものを書かされる。希望?やりたいこと?特にない。
ただ、寝たい。寝たい。希望?何だそれ?
しおりを見て落ち込む。希望が何だって?もうやめてくれよ。そんなものがどこに
あるというのか?希望:寝たい。それだけ。
一週間の予定を書いた。月寝る、火寝る、水話す、木寝る、金寝る。
水曜日も10分話したら寝よう。

そのあと、案の定めっちゃ凹んだ。希望。そんなもの僕のどこにあるというのだろう。
白いベッドにくるまって、泣きながら眠りについた。

 


32

「『回復へのしおり』知ってる?」僕は窓の外を見ているタイラーに尋ねた。
「知らないね」タイラーの声はいつも穏やかだ。
「今後の週間予定を書かされるんだけど、あるわけないだろ。
やる気に満ちてここ来る人いないじゃん」
「確かにな」タイラーはまだ夕暮れの方を向いていた。
「月寝る、火寝るって書いたよ。書きなぐって大泣きした。そのしおりによればどんどん
回復してくことになってるけど、そんなわけないぜ」
タイラーは僕に背中を向けていたが、少し笑ったように感じた。
「次はどん底かもね。どこまで落ちていくんだろうね」
「ここ来てる時点でどん底だよ」

しかし、タイラーの予言は的中する・・・

 

 


33

夜もタイラーと話していた。
「電車が空を飛ぶのを見た人がいるらしいよ」
タイラーはいつも決して荒くなく、穏やかな声で言う。
僕を見ているようでも、さりげなく窓の方を気にしていた。
「へえ、そうなの」
あとは思い出せない。認知機能が麻痺している。

僕を刺した蚊が、まだ生きているようだ。もう一ヶ所刺された。
電気を朝4時からつけて待ち構えているが、意外と寄って来ない。
はあ、朝に早くならないかなあ。売店で消しゴムが欲しいんだけど。
新しい朝が来た。 希望の朝なんて来ねえよ。
鉄格子ごしに赤い朝日を見た。


34

午前早くに運動も兼ねて階段を降り、自販機まで走った。
ついに念願のクリーミーラテを手に入れ、一人で乾杯。
味はそこそこだったが、まあいいとしよう。

今日は、自分が凄く惨めに感じた日だった。吐き気をこらえながら
掃除をしていたが、ついに限界が来て、モップを置いて座ってじっと耐えていた。
そのうちに、涙がこぼれてきた。僕ほど惨めな人間は、この世界にいないんじゃ
ないかと思った。「金の微糖」で隠し、飲み干してしまう。
この後から運動プログラムがある。頑張らなければ。

 


35

鏡を見ると、僕も彼ら、彼女らと同じ虚ろな目をしている。いやそれ以上かな。
いつか、印象は薄いって言われてたけど、後輩の女子に告られたこともあったかな。
遠い昔のようだ。いま、こんな僕を見てくれるのはアゲハくらいだ。
アゲハは僕のファンなのかもしれない。男子用の洗面所は女子のそれより大きいらしいので、
女性もたまに来るのだが、僕が顔を洗っているとき、たまに後ろにいる。
「こんにちは」と軽い挨拶をしたり、微笑み合ったりするだけなのだが、何か特別な目で
僕を見ているようだ。
こんな虚ろな僕に何の魅力があるというのだろう。


36

金髪もだんだん根元が黒くなってきた。プリン。切ないなあ。
お気に入りのカラコンも持ってこなかったから、今は何のおしゃれ感もない。
おまけに消えてしまいそうなほど、印象が薄い。
女子に自分から話しかけられない。ただの黒ブチ眼鏡のおっさんだ。
入浴は週二回。汚いことこの上ない。

男のくせにすぐ泣くし、筋肉とか、力もない臆病者。
アゲハは変わった女性だと思う。
僕はアゲハのことをよく知らない。きららの友人で、わりと友達同士では強気な
女の子のような気がしていた。それだけだ。
僕の何がいいのだろう。少し聞いてみたい気もする。


37

そういえば、きらら、は・・・?

(きららをご存じない方は「寂しがりやのジュナン8」以降をご覧ください)

きららは僕の何が好きなのだろう。僕は昔は見た目だけよくて、中身は
無能で鬱で、弱かった。まあ言ってしまえばの○太くんみたいな感じか。
いやし○かちゃんとか、世の女性は、案外そういうのも好きなのかもしれなかった。
弱くて、守りがいがあるから?

「きららに、手紙でも書こうかな」
住所はうろ覚え、郵便番号もなんだっけな?しかし、携帯が使えないし、
電話番号など完全に知らないから、他に連絡手段がない。
文通というのは、苦手だ。字が汚い。何を書けばいいかわからない。
が、数行くらいなら書けそうな気がした。
きららに、何も言わずに入院してしまった。今どこで何してるのだろう。
寂しく思っているだろう。
「葉書にでも、何か書いてみるか・・・」


38

売店に行ったら、葉書が偶然売っていた。2,3枚だけ買った。

『今○×病院に入院している』

こんなんで良いのか?

 

『何かききたいことでもあったら、返事してくれ』
だめだ、これじゃ文が終わってしまう・・・

 

寂しく思っている、とかは書かなかった。

『ここの連中は皆、虚ろな目をしてる』
そうだ、ちょうど入院前の僕みたいにさ・・・

きららが見ていた、僕の目。
きっとお互いに寂しさに耐えていたんだろう?
愛する人の目が死んでいく寂しさってどんな感じなんだ?


そして、そんなわけないけど。
『今、元気か・・・?何してる?』


39

リハビリ室に集まったメンバーでは、どうやら僕が一番重症患者らしかった。
他の人が真面目に体操しているのに、僕ときたら座り込んだりすぐに疲れて
椅子に腰掛けたりしていて、周りにも重症に映ったと思う。

そういえば、住所を書くのが面倒で、手紙をそのままにしていた。
『アゲハがなぜここにいるんだ?』と書いて、下のポストに入れに行った。
その後は、どっと変な疲れが襲ってきて、倒れるように寝た。

生きてる感じがしない。ブラインド越しの夜空をただ見る。
きららやG、トラックのGの親父、小さい方のきららちゃん、そういう人達も
この空の下のどこかにいるのだろうか。全然感じないけど。
全てが200年も前のことみたいだ。誰もいない部屋。時間に首があるなら、
そいつを絞めてやりたいほど、時間はただ虚しく過ぎる。


40

レストランでアゲハに後ろから話しかけられた。「隣ちょっといいですか」
「ああ」僕は心をなくしてしまった人のように応えた。
「何考えてたんですか、頬杖ついて、ぼんやりしちゃって」
「何も・・・鬱なこと以外は何も」
死ぬ。生きる。そういう言葉もゴミ箱の中に突っ込んだように乱雑で、
滅茶苦茶になって僕の頭の中に押し込まれている。頭がダメになってしまってる。
「ふふっ」アゲハが何故か笑った。「知らないんですね、ジュナンさん。
蒼月ジュナンさんでしたっけ、ここでは結構人気ありますよ」
「人気なんかないよ」僕は溶けてしまったみたいな眼球を動かす。
「僕のどこに人気があんだよ」
「そ・う・い・う・と・こ・ろ。 いつも浮かない顔してて、顔伏せたりしてて、
ときどき誰も予想しなかったところにひょっこり現れたりするところ。そういうのに
女子は弱いんですよ。
あっ、女子っていうか私以外はオバサン連中ですけどね」
「アンケートでもとったのか?匿名で投票でもしたんだ?」わけわからん。
「いえ、聞いただけですけどね。一番人気みたいですよ。ほら、ときどき廊下に座り込んで
クッキー食べながら沈んでたりしますよね。このロマンがわかりますか」
「全然わからんな」
「ジュナンさんらしいですね」アゲハがまた笑った。


41

レストランでアゲハに後ろから話しかけられた。「隣ちょっといいですか」
「ああ」僕は心をなくしてしまった人のように応えた。
「何考えてたんですか、頬杖ついて、ぼんやりしちゃって」
「何も・・・鬱なこと以外は何も」
死ぬ。生きる。そういう言葉もゴミ箱の中に突っ込んだように乱雑で、
滅茶苦茶になって僕の頭の中に押し込まれている。頭がダメになってしまってる。
「ふふっ」アゲハが何故か笑った。「知らないんですね、ジュナンさん。
蒼月ジュナンさんでしたっけ、ここでは結構人気ありますよ」
「人気なんかないよ」僕は溶けてしまったみたいな眼球を動かす。
「僕のどこに人気があんだよ」
「そ・う・い・う・と・こ・ろ。 いつも浮かない顔してて、顔伏せたりしてて、
ときどき誰も予想しなかったところにひょっこり現れたりするところ。そういうのに
女子は弱いんですよ。
あっ、女子っていうか私以外はオバサン連中ですけどね」
「アンケートでもとったのか?匿名で投票でもしたんだ?」わけわからん。
「いえ、聞いただけですけどね。一番人気みたいですよ。ほら、ときどき廊下に座り込んで
クッキー食べながら沈んでたりしますよね。このロマンがわかりますか」
「全然わからんな」
「ジュナンさんらしいですね」アゲハがまた笑った。


42

最近、舌のろれつが回りにくくなってきた。ああ、寂しい。
僕はあの何言ってるかわからない入院患者たちと同じなんだ。
明日救われるとかないかなあ。おやすみ。天上から何かスバラシイ
力が降りてきてさ。


(一日後)

 

毎日5時に起きている。どうも今日は寝ていたらしい。でも、暑かったり寒かったりで
温度調節がうまくいかないんだよ。4時間くらい寝たんじゃないかな。

鉄格子越しに見える朝日が綺麗すぎて泣いた。閉じ込められて初めて気付くことも
あるのだった。後悔がこみあげてきて、よけい鬱になった。何で、空は、雲は、こんなに
赤いんだ?もっと広い場所にいて、どうして気付かなかったんだろう。

タイラーとは、最近うまくいってない。何だかそっけなくて、僕のことをただの空気か
カフェテリアの椅子みたいに扱う。無視されるのには慣れてるけど、誰も喋る人がいない
生活というのは、正直寂しい。

 


43

タイラーがぽろりと言った。結局、他に喋る人がいなかったので、僕は
どこまでも付きまとうことにした。
「そういえば、紺野アゲハって知ってる?」
「知ってるよ」
「あの子、自殺図って閉鎖に移ったらしいよ」
「えっ」心がここにない僕も、さすがにこれには驚いた。「君とよく話してた子だよね。
何かヤバい事言ったんじゃない?」
「ヤバい事…?」僕はぼけた頭で、昨日の献立も思い出せないような頭で、
必死に考えた。
「キレイだよ、とかかわいいよ、みたいな事を言ったような・・・」
「もしかしてそれかもよ。健康な人だったら大丈夫だけど、入院してるような子だったら、
それを悪くとる場合もあるじゃん。知らないけど」
「そうなのか・・・?」

僕がアゲハを壊してしまった・・・?何となく実感がわかない。本当にそうなのか?
しかしその真偽はともかく、アゲハはこの病棟のもうどこにもいない。
寒気がした。僕は震えていた。そんなにも簡単に、閉鎖に落とされる?
「ねえ、聞いてるかい」
「ああ」
「あの子、鬱なんだけど、顔に出すのが苦手で、ずっと人前では笑ってたって聞いたよ」

 


44

アゲハ、アゲハ、・・・アゲハって誰だったっけ?どんな人?
それすら、知らなかったような気がする。
僕は、壊してしまったのか、よく知らない女の子を・・・


エアコンはときどき、喋る。遠すぎるラジオのように小声で喋るので、
気になって仕方がない。もっとも大声で喋られても困るが。
今日は休ませてくれるのかと思ったら、運動会の総練習があるようだ。
ああ死にたいな。輪廻なんて信じたくもない。

「こんにちは・・・」僕が明らかに沈んだ声と顔で言った。
「こんにちは、どうしたの」男の医療スタッフが優しそうに言った。
「運動会の総練習、全員が出なきゃいけないんですよね・・・」

 


45

「ええと、待ってよ」医療スタッフが紙を見た。「君は出なくていいよ。午後から
別のプログラムに参加してもらうから、疲れちゃうでしょ」
「もう十分疲れてますよ。ええと・・・何言うか忘れました」
スタッフはふふっと笑った。「思い出したら言って」
部屋に肩を落として帰った。帰ってもまだ思い出せないのが辛かった。
午前中は思い切り寝てやろう。

自販機で、カルピスソーダを買って飲んだ。僕は炭酸は苦手だったが、
自販機に並んでいると挑戦したくもなるものだ。
部屋のポンコツのエアコンがあまりに静かにしてくれないのがいまいましくて、
おかしくなりそうだ。もうおかしい奴の言う事じゃないけどな。


46

タイラーと久しぶりに廊下でばったり会い、話をした。前回話した時が
もう遠い昔のように思えた。
「ここに来て一週間位は、独房に入れられた。何をしてんだろうなと思ったよ。
他の人は働いて、自動車乗り回してさ、世間の役に立ってんのに。自分は
何をしてるんだろうなって」
僕は言った。「ここに来る奴はみんなそう思ってるさ」
タイラーが遠い目をして言った。「ああ」

二人でカフェテリアに入り、無表情で席についた。
タイラーほど穏やかな奴が、独房に入るなんて一体何をやらかしたのだろう
と思ったが、尋かなかった。
タイラーは珍しくその夜は饒舌だった。「家族なんて、姉がときどき面会に来るだけでさ、
父さんも母さんも死んじまった。運命を呪ったこともあるけど、今はもういいよ、って
思えるようになった。僕は始めから、天に見捨てられた存在だったんだよ。天に
見捨てられたから、生まれてきたのさ」
僕は頬杖をついて言った。「僕も20年後はそんな感じだろ」
タイラーが少し涙目になった。「とりあえず、ろれつが回らないのがイラッとくるよ。
死にたい。窓を破って飛び降りたくなるよ。そっちの方向に引っ張られる。
ジュナンは?」
「僕も、無性に死にたくなる」僕らの意見は一致した。

 

 


47

アゲハについては、何の痛みも感じない。感覚が麻痺している。
現実感がなくて、自分の事じゃない感じ。空も、木も、街も、
みんな寝ている。そんな気がする。

10時になったので、売店にプリンを買いに行った。買った事で満足して
しまって、食べながらぼんやりしていたら、あっという間に食べ終わってしまった。
美味しいかどうかもわからなかった。

ここの食事は、食欲を失くしている僕にとっては、少し多い。無理矢理食べたら、
胃が久しぶりに食べ物を受けつけて、悲鳴をあげている。クスリを胃に流し入れるのに、
やっとだった。
「グゥ」と胃が鳴る。僕に生きる気などまるで無くても、胃は生きようとしているのだろう。
その必死の抵抗を、僕は曇りガラスの向こうから眺めている。
偉いなあ、胃は。僕の脳ミソの何て腐っている事だろう!


48

きららから返事が来た。面会に来た母が渡してくれた。ハサミがなかったので、
そっと破った。

『そっか・・・入院していたのね。ケータイがつながらなくて、もしかして、
とは思ってたけど・・・
ジュナンのことだから、元気じゃないだろうけど、どうしてる?
心配だよ。』

『ジュナン・・・アゲハはどうしてる?彼女、鬱で最近ひどいってきいてたから、
入院したってきいたら、あっ、ジュナンと会ってるかもしれないなって。違う病院だったら
ごめんなさい。
同じ病院だったら、仲良くしてあげてる?あの子、ジュナンの事大学の頃から
ずっと好きだったんだよ・・・でもジュナンには私がいたから、ずっと耐えてたの。
だからどうなったのかすごく心配で・・・
結構前から鬱で、でも人前では笑ってて、無理して、つらかっただろうな。
ジュナンも今苦しいだろうから、わかってあげて。』

『アゲハの話ばかりして悪いわね。ジュナンのことはもっとずっと、心配してる。
私の名前、かわいいって言ってくれた、最初の人だもの。
いつも仕事帰りに夜空を見て、ジュナンといた大学の頃のこと考えてる。
ベッドにもぐって泣くこともあるけど、大丈夫だよ。
虚ろな目・・・そうだよね。でも覚えてるよ私、ジュナンと出会ったときの、あの目・・・
空より綺麗なものがあるなんて知らなかったんだ。
大丈夫、辛いのは今だけよ。虚ろな目をしてる人たちだって、一生そうじゃないでしょう?』

 


49

『私はね、看護師をやってるのよ。まだ学生だけどね。言ってなかったらごめん。
ジュナンの病院とは違うわ。汚いこと、辛いこと、いっぱいある。言ったでしょ、
どんな人にも、闇はあるって。
でもね、ジュナンと過ごした思い出と、これからまたいつか出逢えるドキドキ、そういうものを
たよりにして頑張るよ。
だから、死なないで。私が守るよ。遠い空から祈ってるよ』


僕は手紙をくしゃくしゃと丸めて、ゴミ箱に捨てようとして、手をとめた。
さすがにそれはやりすぎだ。

何をキレイ事をぬかしているんだろう・・・?きらら、僕はろれつが回らなくなって、
社会のお荷物になって、死ぬだけの運命さ。
他に何があるというのだろう?

まるめた赤いチェックの便箋をもういちど広げる。
「ごめんな、きらら・・・」

申し訳ない、僕の存在自体が。


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