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誰も知らないことになっていると知っている常識

 「白人小学校の青い目の人形」を教材として扱った実践も地元紙に掲載されたこともある。

 だが、昭和20年の4月時点であっても「白人小学校の青い目の人形」がこの小学校の理科室のガラスばりの展示棚に堂々と展示されていたことを知るものはもういないであろう。

 当然のことであったであろうが、処分されていなければならないはずの「青い目の人形」が白人小学校のどこに展示され続けており、誰が展示を許し、誰が展示状況を維持し守り通したのかと言う事実はこの地域の常識であったのではなかろうか。

 なぜならば、毎年この小学校の理科室を使いながら学んでから卒業する生徒がたくさん地域に住んでいたであろうし、理科室に「青い目の人形」が置かれていることを聞かされている保護者も少なからず居たのは当然のことだろうからである。

 和田直輝は昭和15年にこの地を離れて小樽市の西にある余市町の旧制中学校に通学した。そして終戦間際の昭和19年にこの地に戻り、昭和20年4月から母校である白人小学校で代用教員を始めた。

 よって地域の住民ならば皆が知っているが、皆が知らないという常識を耳にすることなく代用教員を始めたのである。

 彼は代用教員時代に青い目の人形を発見した時のことを振り返って私に語ってくれた。

「あの頃はなあ。校長と教頭以外はほとんが女教員ばかりだった。ある日、突然に校長に呼ばれ、理科室の教材点検をするように命じられた。そうしたら、子供の頃には年に一度しか見られなかった青い目の人形が理科室の教材棚の一番廊下側の下の隅に飾ってあったのを見つけたんだ。驚いたよ。何せ小学生の時は遠くに小さくしか見られなかった人形が目の前にあったのだから。そしてガラス張りの棚の一番下には引き出しが並んでいてな、青い目の人形の真下の引き出しにはな、愛国婦人会と国防婦人会の旗があった。これにも驚いたよ。学校の女教師は愛国婦人会と国防婦人会で重要な役割を持っていたし、率先垂範して国旗を振って兵士を鼓舞したんだからなあ。そいつらがこの人形を守っていたんだから。」

 今振り返ると、時の校長は代用教員の和田にも「誰も知らないことになっていると知っている地域の秘密の常識」は、口で伝えて教えられないので、直に見せることで教えたのだろう。

 もちろん、時の校長は和田直輝が朝鮮半島出身者を蔑視せずいたこと、敗戦の色が濃い事実も冷静に受け止め、かつ横文字が読める(余市町にはニッカウヰスキー工場がありそこのりんご畑へ援農に出ていたので英語には少なからず触れていた。)ことに気づいた上での判断だったのではなかろうか。

 理科室の整理整頓を終えた和田直輝代用教員からの報告を時の校長も教頭も一切求めなかったそうである。


偶然と運命は同じような意味である

二つの「白人」

 

和田直輝の家は徳島県から北海道に移住してきたのである。

和田の家に伝わる徳島の住所は、徳島県美馬郡美馬町字重清892番地。

白人(しらと)神社の神主の家系だったと聞いている。

だから祖先の戒名は生前の名前に「命(みこと)」を付しただけである。

ただ、今は仏教にて法要を行い、墓地も仏教形式であるので入植してから改宗する前に亡くなった者だけが神道の戒名で仏教形式の墓に弔われている。

 

なぜ、白人神社の者が北海道十勝国幕別村字白人村に移住したのかを問うたことがある。だが、それは「全くの偶然だ」との回答だった。事実、和田直輝の両親は白人村ではなく安骨村で牧場を営んでいた。直輝はその牧場の家にて生まれている。のちに、直輝の両親はその親が住む白人村に移り住む。その白人村も昭和19年には「千住」と改名さている。よって著者である私の最初の本籍地は千住444番地なのである。

 

だが、小学校の名前は白人(ちろっと)小学校のままであった。
もしかすると、白人小学校がある場所と千住地区の場所ではおよそ1Km離れており、その間は農地であった。そこで白人小学校の東側をほぼ南北に走る道路を境に白人地区と千住地区を分けていたのかもしれないと想像する次第である。

まあ、倭人による開拓当初の地名の境界はあまり明確ではなかったようである。今でも開墾当初の文献にある地名の場所を特定できずにいることは珍しくない。つまり北海道はコタンの名前が地名の由来になることが多いが、狩猟採集民族の先住民のコタンは一定の場所に存在し続てはいなかった可能性がある。
まあ、学術的な根拠のない話はここまでにしておく。

だが、間違いなく徳島県の白人(しらと)神社の長兄ではなかった者が北海道に入植して白人(ちろっと)村に住んだのは偶然なのである。

ちなみに、徳島の白人神社のHPを参照すると白兎(しらと)が出てくる。これはおなじみの日本神話にも出てくる生き物である。
また、北海道の白人(ちろっと)は、アイヌ語の「チロットー」(鳥が多い沼)が語源らしい。

二人の「松田校長」

和田直輝は両親が牧場経営を廃業して和田直輝の祖父母と同居し白人村に住むようになったので、直輝は白人小学校に入学し昭和15年度に卒業している。

在学期間のほとんどが松田芳治校長であった。松田校長は開校記念日に全校児童を講堂に集めて講話を聞かせた。白人小学校児童が昭和2年に白人小学校に贈られた「青い目の人形」を遠くから眺められるのはこの日だけであったそうだ。そして毎年の開校記念日の講堂の演壇に置かれた「青い目の人形」にまつわる話を松田芳治校長は児童に聞かせたそうだ。

「大きな太平洋の向こうには、アメリカ合衆国と言う素晴らしい国があってだなあ。世界の平和は今の大人がつくるのではなく、これから大人になって世界で活躍するだろう君たちのような子どもの平和を願う精神によってつくられる。」

いつもは校長室に保管してあって児童の目に触れることのない「青い目の人形」は開校記念日の朝にだけ児童の目に触れることを許されたと言う。そして松田校長は「青い目の人形」に託された平和への思いや、アメリカ合衆国のギューリックという偉い人が日本に贈る物が人形でなければならなかったのかを児童に聞かせたと和田直輝は回想して筆者に聞かせてくれた。

だが、まさか小学校卒業後の昭和20年に代用教員としてこの人形を目の当たりにするとは思ってもいなかったであろう。

直輝は昭和20年に米軍機の空襲も白人小学校で経験したのだが、代用教員を務めながら夜間高校で学び、その後正式に教諭としての道を歩み始めることになった。

月日は過ぎ、昭和51年4月に白人小学校に教頭として着任する。
その時は児童数の増加などで昭和20年に「青い目の人形」が展示されていた理科室は職員室となり、特別教室や使用されなくなった旧中学校の校舎の教室を臨時に使って授業をしていたという。

直輝はその時に理科室にあった物はいったいどうしたのかと同窓であり気の置けない仲の公務補さんに尋ねたと私に懐かし気に話してくれている。

「あの時のことを知っているのはたったの四人だけだ。だがみんな死んでしまって、もう俺しかいない。」

で始まり語るのである。

この「あの時」とは、和田直輝がまたしても偶然にも「青い目の人形」と期せずして出会った時のことである。

今語り継がれている話は、後世の作り話である「開校80周年を控えそれにまつわる資料を探していて偶然発見」などというまことしやかな話は真っ赤な嘘なのである。

たまたま、昭和52年6月4日(土曜日)の午後に行われた恒例のPTA作業の運動会準備中での思いつきによって偶然にも発見されたというのが真実なのである。
ただ、その年は開校80周年記念大運動会と銘打った運動会の準備作業中でのことだっただけなのである。

そして、和田直輝が期せずして教頭として白人小学校に赴任し、期せずしてまた人形に出会う時の校長も松田校長なのである。

 

二体の「青い目の人形」

また年月が流れ、和田直輝が発見した人形の名前のMARYは直輝が教頭在任中に次に着任した校長により封印されてしまい、「名前は不明」と公にされるところとなった。

そのため、ギューリック氏のお孫さんが札幌に来た際に「名前が不明と聞き及び、白人小学校へ新しい人形の贈呈と古い人形の改名を行った」のである。
こうして、二体の「青い目の人形」が白人小学校に存在することとなったのである。

なぜMARYが封印されたのか。

それを解明する資料は数少ない。
ただ、筆者と和田直輝が昭和54年の秋頃に交わした電話の内容と昭和55年に発行された地元新聞の記事による推測しかできないのである。
そして、多くの白人小学校職員が「MARY」が封印された経緯を直輝を訪ね真実を聞くと、もうそれ以上は解明作業をやめてしまうのである。

 


この本の内容は以上です。


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