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プロローグ

 窓から射し込む月明かりが少女のうつろな瞳に光を灯す。束の間の輝き。やがて彼女は静かに目を閉じて、深い眠りについた。


1

「扉が閉まります。ご注意ください」
 うとうとしていたわたしの耳に発車を告げるアナウンスが飛び込んできた。
 ハッと目を見開き電車の外を確かめる。
 慣れ親しんだ駅の場景が広がる。
 あっ、降りる駅だ!
 わたしは慌てて座席から飛び上がり、閉まりかけたドアの隙間をすり抜けた。

 わたしは夢を見ていた。
 空にはまんまるのお月様。目の前には女の子。月の明かりに照らされた河原で、ふたり楽しそうに影踏みしてる。
 そんな夢をわたしは見ていた。

 いつの頃からか、わたしは時々このような夢を見るようになった。時々といっても、不思議なことに年に一回、この時期だけに見る夢だ。だから、毎年、繰り返し同じ夢を見ていたことに気付いたのは、かなりあとになってからのことだった。
 どうしてこんな夢を見るんだろう。あの女の子は誰だったかな。
 毎年、取り分け気にならなかったことが、今年はなぜだか頭から離れない。何かを思い出さなければ、大切なものを失ってしまう。わたしは、胸の奥をギュッと掴まれるような憂鬱な感覚にとらわれていた。

 駅の出入り口へと続くなだらかなスロープをゆっくりと上り、駅前の狭い広場へ出たところで空を見上げる。
 東の空には、眩しいほどに輝くまんまるなお月様。足元に視線を落とすと、くっきりと浮かび上がる自分の影。
 わたしの思考は過去に遡る。

 小学校低学年の頃、わたしは今よりもずっと臆病で恥ずかしがり屋だった。
 物心がつくようになってから、人より劣る自分に気付き、それを他人に悟られるのが怖くなった。言葉を口にすることで、なんの取り柄もない自分の本質がばれてしまいそうで、人を避けるようになった。本当は、こんな自分でも受け入れてくれる友達が欲しかったのに、それ以上に嫌われることが怖くて、その一歩が踏み出せなくなっていた。
 そして気が付くと、わたしはひとりぼっちになっていた。
 こんな自分を変えたい。そう思いながらも、わたしはただ誰かが手を差し伸べてくれるのを待っているだけだった。半年が経っても一年が過ぎても、わたしの前には手を差し伸べてくれる人なんか現れなかった。そうして、わたしは、ただ待っているだけじゃ何も変わらない、自分から何かをしなければ変わることなんてないことに気が付いた。
 小学校三年生の夏休み、近所の河原で子供会の花火大会があった。この花火大会に参加すれば何かが変わるかもしれない。わたしは希望を抱き、思い切って参加することにした。しかし、臆病なわたしにとって、知らない人が集まるところへ行くのには、見上げるほどの高さの飛び込み台からプールへ飛び降りるほどの勇気が必要だった。
 花火大会の当日、会場の河原へ向かう道で、何度も何度も引き返そうか迷いながら、ようやく辿り着いたのは、開始時刻から十五分も過ぎた頃だった。河原ではすでに仲の良い子たちがグループを作り、歓声を上げながら花火をしている。そのグループのひとつに、以前何度か言葉を交わしたことがある同級生がいるのを見付けた。わたしは、戸惑いながらも勇気を振り絞り、その同級生に近づいた。しかし、その子は知らない子と花火をしながら会話に夢中で、わたしのことなんか気付かない様子だった。それでもわたしは、その子が気付いてくれるのをじっと待っていた。
 花火を終えた子たちが、徐々に帰り始める頃、わたしはその場に立ちすくんでいた。わたしが知っている同級生はもういない。結局、話しかけることすらできなかった自分に自信を失い、わたしはその場から離れた。そうして、離れたところにぽつんとある小岩を見つけ、情けない自分をかみしめながら腰掛けた。頭の中では後悔の言葉が回転していた。

 どれくらいの時間が経ったのか分からない。
 ふと我にかえって振り向くと、わたしひとりだけが河原に取り残されていた。
 一瞬、自分の置かれた状況に怖じ気を感じたが、すぐに周りが明るいことに気が付いた。
 辺りを見渡して思わず息を呑む。
 わたしの目の前には、やわらかな光に照らされた幻想的な光景が広がっていた。見上げると、眩しいほどに輝く、まんまるのお月様。その明るい月は、漆黒の空を藍色に変え、地上に存在するありとあらゆるものに優しい光を投げかけている。そして、建物や木々の輪郭や静かに波立つ川面を白く浮き上がらせている。空は暗いのに地上は明るいという、とても不思議な感覚に感動を覚えた。
 なんて綺麗なんだろう。なんて不思議なんだろう。
 わたしは呆然となってその光景に見入っていた。
 そして気が付いた。
 今まで夜は暗く怖いものだと思い込んでいた。でも、それは夜の一側面にすぎないんだってこと。それと同じで、わたしの情けないところも、わたしの一側面かもしれない。あの満月が夜の美しい一面を見せてくれたように、わたしも何かきっかけさえあれば、きっと変われるはず。今はそのきっかけがなんだか分からないけど、あきらめないでがんばり続ければ、きっと見つかるはず。
 わたしはなんだかじっとしていられない気分になり、勢いよく小岩から立ち上がった。足元を見ると、くっきりと浮かび上がる自分の影。その影を無性に踏みたくなって、わたしは影に向かって飛び跳ねた。何度も何度も繰り返し飛び跳ねた。繰り返すたびに少しずつ自分が変われるような気がして飛び跳ねた。
 わたしは月の出ている夜が好きになった。夜にできる影が大好きになった。そして、このことをまだ見ぬわたしの友人に伝えたかった。

 懐かしい思いに駆られながら東の空を見上げる。
 今日の月は、あの頃と同じように輝き、暗い堤防の道を明るく照らし出している。
 あの夢に出てくる女の子って、きっとあの子に違いない。

 夏休みが開けて最初の日の放課後、図書室から教室へ戻る途中のこと、明かりが消えた教室の中で、じっと机に伏せている女の子を見かけた。
 その姿がいつもひとりぼっちだったわたしの姿と重なり、その場から動けなくなった。そして気付いたらその子のもとへ歩み寄っていた。
 どうしたの? と、話しかけると、その子は静かに顔を上げ、驚いたようにわたしを見つめ返している。
 きっとこの子もわたしと同じように誰かを待ち望んでいたに違いない。直感的そう感じたわたしは、なにか親近感のようなものを感じ、あの月夜の晩のことを語っていた。その子は、目を輝かせながらわたしの話を聞いてくれた。それが嬉しかった。わたしの話を聞いてくれる友達ができたことが嬉しかった。わたしたちは打ち解け合い、次の満月の夜に、河原で影踏みをしようと約束した。

 ……だけど、次の日からその子を見かけなくなった。

 もしかしたら、約束の日には来てくれるかもしれない。そのときにわたしがいなかったら、あの子、きっと悲しい思いをする。わたしの大切なお友達にそんな思いは絶対にさせたくない。そう思ったわたしは、約束の日の約束の時間に、待ち合わせ場所に出向いた。
 その日も、わたしが初めて感動したときと同じように澄んだ夜空で、満月の光が太陽のように眩しかった。あの子に見せればきっと感激するに違いない。わたしは、あの子が喜ぶ姿を思い浮かべ、心を弾ませ、ひとり影踏みしながら待ちわびた。

 しかし結局、あの子はここに来ることはなかった。
 次の日、あの子が転校したという噂を耳にした。

 あの子、満月の夜の幻想的な光景を見てくれたかな。夜の不思議な影で影踏みしてくれたかな。
 あの夢のように、ふたりで影踏みしたかったな……。

 堤防の道を左に折れ、橋の右側の歩道を進む。
 ふと、右手に見える河原に視線を移す。
 あの子と約束したのはこの河原だった。その河原に、月の明かりに照らされて、ぽつんと浮かび上がる思い出の小岩。あの子と待ち合わせしたのもあの小岩だった。
 懐かしい気持ちで小岩を眺めていると、その近くで何かが動いているのに気が付いた。
 何かが飛び跳ねている。
 目を凝らすと、それは子どものようだった。
 わたしは、すかさず欄干に駆け寄り河原を見下ろす。
 間違いない。子どもがひとりで遊んでいる。
 子どもの周りには、保護者らしき人の姿はない。
 わたしの周りにも、人影はない。
 どうしよう……。でも、あの子どもを見過ごすことはできない。
 わたしは、臆病な気持ちをふりほどき、急いで河原へと向かった。


2

 こんな夜遅くに、あの子はひとりで何をしているんだろう。
 堤防の階段を下りきったところで、わたしは子どもの様子を窺った。
 歳の頃は小学校低学年くらい。パジャマ姿の女の子だ。パジャマは上着の裾がふわっと広がっていて、袖口は軽く絞り込まれている。襟元や袖口にはフリルがついていて、いかにも女の子らしい可愛い雰囲気を醸し出している。腰まで伸びた長い髪が横顔にかかり、表情はよく見えない。けれども、ひとりになって悲しんでいる風ではなくて、その状況を楽しんでいるように見える。自分の影に向かってはぴょんと飛び跳ねる。まるでうさぎのよう。夢中になっているせいか、わたしには気付いてない。こんな状況で声を掛けづらいなと思いながらも、そのまま放っておくわけにはいかないので、わたしは少しためらいながらも声を掛けた。
「こんばんは」
 女の子は、わたしの顔をちらっと見たが、別段驚いた様子もなくひとり影踏みを続けている。どう言葉を続ければよいか戸惑っていると、女の子は下を向いたまま飛び跳ねながら口を開いた。
「月夜の影ってこんなにも不思議だったんですね。あたし、ずっとこの月明かりの景色を見たいと思っていたんです」
 女の子はとてもにこやかで楽しそう。
 この子も、月夜のファンなんだ。年齢に開きはあるけれど、月夜の晩が好きだなんて、なんだか妙に親近感がわくのを感じた。
「わたしも月明かりの風景、大好きなんだよ」
 わたしがそう言うと、女の子は動作を止め振り向いた。目と目が合うふたり。わたしが微笑みかけると、女の子もにっこりと微笑んだ。なんだか嬉しい。
 共感できる仲間に出会ったのが嬉しくて、軽やかな気持ちで見渡してみる。目の前には、月の光に照らされた河原が広がっている。その所々にススキが固まって生えていて、逆光になった穂の部分がふわっとした光で包まれている。そして根本から伸びるくっきりとした影。振り返ると自分の足元から伸びるくっきりとした影。真っ暗な空の下で、ただ地上だけが明るくて、影を落としている。わたしは下を向いて夜の影を見つめていた。

「あたし、何故ここにいるのか分からないんです」
 不意に女の子がそうつぶやく。
 顔を上げると、さっきまで楽しそうにひとり影踏みをしていた女の子が不安そうにじっとわたしを見つめていた。
「何故ここにいるのか分からないってどういうこと?」
 女の子は川の畔にたたずむ、この辺りでは大きな病院を指さした。
「あたし、さっきまであそこにいたんです」
「あそこからここまで歩いてきたの?」
 わたしがそう尋ねると、困惑した表情になった。
「信じてもらえないかもしれませんけど、目を開けたらこの場所にいたんです」
 女の子からは嘘をついている素振りは微塵も感じられない。それに、足元を見ると靴を履いていなかった。
「ここに来る前、どうしてたのか、話してもらえないかな」
 わたしがそう言うと、女の子はコクリとうなずいた。
「あたし、さっきまであの病院のベッドで横になってたんです。
 二三日前からなんだか身体に力が入らなくなって、ベッドから起き上がれなくなっちゃったんです。今日なんか、朝から声も出せなくなっちゃって、あたしどうなるんだろう、本当に良くなるのかな、もうだめなのかなって、ぼんやりと考えていたんですよ。
 夕方暗くなって、お母さんとお父さんが先生に呼ばれて病室を出ていったあと、窓の外を見たら、まんまるのお月様が昇るところだったんです。あたし、その月を見て、今日は友達との約束の日だったことを思い出したんです。そうしたら急に身体が楽になって、ふーっと意識が遠のいて、気が付いたらここに立っていたんです……」
 女の子は、しばらく思い詰めたような表情で考え込んでいたが、
「あたし、今日ここに絶対来たかったから、夢遊病の人みたいにここに来たのかもしれないですね」
 と、にっこり微笑んだ。
「病院に戻りましょう!」
 すぐさまわたしは、その小さな手を引いた。しかし、女の子は動こうとはしない。
「あたし、もう、身体は大丈夫ですから、もう少しここにいさせてください。今晩、ここで大切な友達と会う約束をしているんです」
 潤ませた目で懇願するようにわたしの顔を見上げている。
 この子が今、身体をこわしてしまったら取り返しのつかないことになる。
 そんな悪い予感が頭をよぎる。
 でも、この機会を逃したら、その友達にももうこの場所では会えないような気がした。この子にとって、それが一番大切なこととのように思えた。
「あなたの思いはよく分かりました。もう少し、ここで友達を待っていいです。だけどお姉さんも一緒にいますからね」
 沈んでいた表情に明るさが戻る。
「はい、お姉さん」
 お互いににっこりと微笑み合った。


3

「あたし、こんな夜遅くにひとりで外出したのは初めてなんですよ」
 女の子が嬉しそうに言う。
 わたしが初めて夜の不思議な光景に出会ったとき、ひとり腰掛けた小岩に、今日はふたり並んで腰掛ける。対岸の堤防の先には街並みが広がり、その先の低い山並みの上には、まんまるの月がぽっかりと浮かんでいる。隣を見ると、女の子も満足そうに目の前に広がる不思議な光景を眺めている。神無月初旬の心地よいそよ風が女の子の長い髪をかすかに揺らしていた。
「わたしも、初めて夜に外出したのは、あなたと同じくらいの歳の頃だったよ。
 わたしね……友達を作りたくて、町内会の花火大会に出たんだけど、情けないことに、勇気が出なくて誰にも話しかけられなかったんだ。それで、すっかり落ち込んで、この岩に座って考えごとをしていたら、もう誰も周りにいなくなっていて、一瞬どうしようかと思ったけれど、その日も今日みたいに満月の綺麗な夜で、今まで見たことがなかったような不思議で幻想的な光景を発見したんだ。それ以来、月夜の晩が大好きになったんだよ」
 隣を見ると、女の子は目を輝かせながらわたしのことを見ている。
「あなたはどうして、月夜の景色を見たいと思ったの?」
「お友達から聞いたんです」
 女の子はひとつひとつゆっくりと記憶の糸をたぐり寄せるように言葉を紡いだ。
「あたし、小さいときから体が弱くって、入院と退院を繰り返していました。入院してないときでも、家から出るとすぐに調子が悪くなっちゃって、学校にもほとんど行ってないんです。だからあたしは、いつもひとりぼっちで友達なんていなかったんです」
 女の子は、しみじみと話す。友達がいないなんて悲しい話をしてるはずなのに、その様子からは淋しさは感じられない。
「夏休みが終わって、最初の日。その日はすごく体の調子がよくて、学校に行きました。その学年になって、初めて学校に行ったんです。勇気がいりましたけど、ひとりぼっちにも慣れていましたけど、ひとりでいるほうがずっとずっと楽だったけど……あたし学校に行って友達が作りたかったんです」
 自分も同じだったので、とても気になる。
「どうして、友達が欲しいなんて思ったの?」
「あたし、たくさん本を読みました。楽しいお話や悲しいお話、胸の奥がギュッとなったり暖かくなったり、いろんなお話を読みました。お話の中では、あたし主人公で、ちっとも淋しいとか思わなかった。本を開けば、いつもそばにお友達がいる。時には喧嘩をしたり、気まずい雰囲気になったりするけれど、本当は心優しくてあたしのことを助けてくれたりする。
 ……だけど、お話の中の友達は、主人公のお友達で本当のあたしのお友達じゃない。それがだんだん分かってきて、本当のわたしのことを分かってくれて、お友達のことも分かってあげられる。そんなお友達が欲しくなったんです。なんかややこしいですね」
 女の子はそう言うと楽しそうに微笑んだ。
「ううん、それってよく分かるよ。でも、多分普通はそんな前向きに考えられないと思うよ。すごいね」
 わたしがそう言うと女の子は恥ずかしそうに首を横に振った。
「あたし、張り切って学校に行ったんですけど、結局、勇気が出なくて、足がすくんじゃって、隣に座っている人にさえ一言も声を掛けることができなかったんです。はじめは声を掛けようとがんばったんですけど、もういいやって気持ちになって、帰りの会の頃には、もうすっかりあきらめていました。あたし、こんな状態でした」
 女の子は、背中を丸めて目を伏せた。下を向いた横顔には長い髪がかかり、顔が見えなくなっている。顔が見えないというのは何とも不気味で、こんな雰囲気では親しい子だって、声を掛けるのをためらうに違いない。
「そんな状態じゃ、誰も近づかなかったんじゃない?」
「やっぱり、そう思いますよね? あたし、すごく落ち込んでたから、今よりもずっとずっと話しかけられる雰囲気じゃなかったんだと思います。顔を上げたら、誰も教室に残ってませんでしたから。
 あたし、帰る気力もなくて、そのまま机に伏せて残ってました。
 勇気を出して話せばよかった。
 そんな後悔の言葉をいつまでも頭の中で繰り返していました。自分のことが情けなくて涙があふれてきました。
 そんなとき、『どうしたの?』と声を掛けてくれた人がいたんです」
 女の子は目を見開きぱっと顔を上げた。
「目の前に、本を抱えた同い年くらいの女の子が笑顔であたしのこと、見つめていたんですよ! あたし、びっくりしちゃって、口をぽかーんと開けちゃって、言葉を返せずにいたら『満月の夜ってすごいんだよ』っていきなりに話し始めたんです」
 あれ、なんか引っかかる。
 女の子が話すこの場面。わたしは何故だか知っているような気がした。
「あたし、誰かが声を掛けてくれたのは嬉しかったけど、それよりもどうしていいのか分からなくて、そのまま目を伏せてしまったんです。でもその子はそんなことお構いなしに、満月の出ている夜は全然怖くないこととか、昼間見る景色からは想像できないほど幻想的な光景だということとか、夜にできる影はとても不思議な感じがしてずっとひとりで影踏みしてたことを話してくれたんです。
 あたし、その子があまりにも楽しく話すものだから、気が付いたら、その子のことを見つめていました。
『あたしも見てみたいな』って自然に言葉が出ていました。
 そうしたら、その子、とても嬉しそうに、『じゃあ、来月の満月の夜に河原で会いましょう。影踏みしよ』って誘ってくれたんです。
 その約束の日が今日なんですよ」
 女の子は大きく深呼吸した。
「でも、今日その子が来てくれるかどうか、ちょっと不安なんです」
 女の子は、足をぶらぶらさせながら、ため息混じりに言った。
「あたし、次の日から体調を崩して、また入院しちゃったんです。その子と連絡が取りたかったけど、別のクラスの子だし、またすぐに会えると思ったから、電話番号とかよく聞かなかったんです。ちゃんと聞いておけばよかったな」
 わたしの身体に緊張感が走った。
「お姉さんはその子の雰囲気にすごく似てますよ。きっと来たらびっくりしますよ」
 と無邪気に笑いかける女の子。その言葉が緊張感を後押しし、わたしの身体は硬直した。わたしは、震える唇を制してやっとのことで言葉を口にした。
「その子が持ってた本のタイトルって……『だれかにあったはずなんだ』じゃなかった?」
 女の子は驚いた様子で答えた。
「そうです! 主人公のうさぎが空を見上げて、自分でも分からない誰が来るのを一晩中待っているというお話です。お姉さん、どうして分かったんですか?」
 間違いない。この女の子はわたしの知っている子だ。過去の記憶がよみがえり、目の前にいる女の子と重なる。少しやつれているようだけど、わたしが小学校のとき、九月の初日の放課後、図書室から本を借りたあとに、通りかかった暗い教室の中で、たったひとり机に伏せていた女の子に間違いない。でも今、目の前にいる女の子は、八年も経っているのにあの頃と同じ姿をしている。それが何故なのか分からない。でも今目の前にいるのは確かにあのとき声を掛けた女の子だ。あの満月の夜、ほのかな期待を抱いて、いつまでもこの場所で待ち続けた女の子だ。そうと気付いたとき、わたしの鼓動は高まり、胸が詰まって言葉が出なくなった。
「お姉さん、どうかしたんですか? 気分が悪いんですか?」
 眉根を寄せて心配そうにわたし見つめる女の子。
 わたしは込み上げてくる涙を隠すように、女の子の肩を抱き寄せた。
「うさぎちゃん、待っていてくれてたんだね」
 女の子の身体が一瞬びくっと震えた。
「……久美ちゃん?」
 わたしは彼女を強く抱きしめた。


4

 わたしたちは、川面に反射するきらきらした月の光を眺めながら、お互いのことを語り合った。
 毎晩、欠けては満ちていく月を病室の窓から眺め、窓のすぐそこにある河原に降り立った自分のことを想像してわたしとの約束の日を楽しみに待っていたこと。日を追うごとに体調が悪くなっていくのを感じて、約束の日に外出できるかどうかがとても不安でたまらなかったこと。うさぎちゃんはそんな気持ちを語ってくれた。
「わたし、てっきりうさぎちゃんは転校しちゃったのかと思ってた。先生がそうおっしゃってたんだよ。ひどいよね」
 わたしがそう言うと、彼女の表情が曇った。
「……それ、本当のことなんだ。東京にね、いい病院が見つかって、転院することになったんだ。その日が明日だから、今日はどうしてもここに来たかったの。最後に久美ちゃんに会えてよかった」
 彼女は切なげにそう答えた。
 わたしのことを友達だと思ってくれて、こんなにも待ちこがれていてくれたなんて。うさぎちゃんのその想いに応えなきゃ。
「うさぎちゃん、影踏みしよっか?」
 わたしは、腰掛けていた小岩から立ち上がり、彼女に手を差し伸べる。彼女は恥ずかしそうに手のひらを重ねた。

 楽しそうに駆け回るふたりに満月のやわらかな光が降り注ぎ、地面に夜の不思議な影を落とす。その影に向かってひとりは飛び跳ね、もうひとりは影をそらす。思い出の中のあのとき、わたしはたったひとりっきりだった。彼女もひとりっきりだった。河原に浮かび上がるふたりのシルエット。ふたりの思いが共鳴し、あのときの記憶の中にとけ込んでいく。
 わたしは彼女と同じ小学生だった。
 わたしと彼女の願いが叶った瞬間、ふたつの別々の思い出がひとつにつながり、月の光がふたりを優しく包み込んだ。

「楽しかったね」
「うん、楽しかった」
 ふたり並んで土手に腰を下ろす。
「はしゃぎすぎちゃったね。うさぎちゃん、身体は大丈夫?」
「ちょっと疲れちゃったけど、大丈夫。平気だよ」
 ふたりとも息遣いが荒い。
「よかった、久美ちゃんに会えて。なんかね、もう会えないんじゃないかと思ってたんだよ」
 彼女はとても満足そうな表情をしている。
「わたしもうさぎちゃんに会えてよかった」
 彼女はどうして、あの当時と同じ姿のままなんだろう。抑えていた疑問が急にわいてくる。その言葉を口にすると、その瞬間に彼女が目の前から消え去ってしまいそうな不安感が、わたしの中を駆け巡る。知らなくてもいい、うさぎちゃんとこのままでいたいから。わたしはずっとこの夢が終わらないようにと心の中で祈っていた。
 でも、このままじゃいけない。
「うさぎちゃん、そろそろ病院へ戻ろうか」
 わたしは川面に反射する月の光をぼんやりと眺めながら、ずっと一緒にいたいという我が儘な気持ちを抑えて言った。
 月はすでに見上げるくらいの高さになっている。先ほどまで心地よかったそよ風が少し肌寒く感じられた。
 そのとき、彼女がわたしにもたれ掛かってきた。
「うさぎちゃん?」
 隣を見ると、激しく息咳き切ってぐったりしている彼女がいた。
「うさぎちゃん、しっかりして!」
 声を掛けるが、彼女は目をつぶったまま反応はない。身体がすっかりと冷えきっている。
 慌てて彼女を抱き上げ背中に乗せる。彼女は、びっくりするくらい軽く、そのことがさらにわたしを不安にさせた。



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