目次

閉じる


1

 理由は分からないが、自分には人の気持ちとか感情を感じ取れる能力があるようだ。能力といっても、そんな大げさなものではなくて、自覚している自分自身の気持ちや感情と同じように、他人の気持ちや感情が分かる程度だ。頭の中で考えていることが分かるわけではない。
 もし、人の考えていることが手に取るように分かったとしたら、とても平常心を保てそうにないと思う。知りたいことならいざ知らず、知らないほうがいいことなんて沢山ある。まじめそうな友人が、レンタルショップのカーテンで仕切られた一角に入っていくのを見掛けたときのような、また、優しくしおらしい女子が親に向かって暴言を吐いているところに遭遇したときのような、そんな気まずい瞬間が延々と続くようなものだからである。
 この程度は、まだましなほうだと思う。自分自身を振り返ってみれば分かるだろう。人には絶対に知られたくない不埒な思いは山ほどあるはずだ。他の人だって同じだろう。その不埒な思いを秘め隠すことによって、俺たちは良好な人間関係を築いているわけである。
 他人のどろどろした思いを知ってしまったら、そうしてその思いが自分に向けられていたとしたら。たぶんそんな思いなど受け入れ続けることなんてできないと思う。すべての人間に恐怖を抱き、知りたくない思いが決して届くことのない、人里離れたところへ逃亡してしまうに違いない。
 かといって、人の気持ちを感じ取れる能力が無くなってしまえばよいだなんて、毛頭思っていない。自分にとっては、この能力が、良好な人間関係を築く上で、重要なファクターとなっているからだ。良く言えば、気遣い、悪く言えば、人の顔色を窺う。人の気持ちや感情が何となく分かるから、余計な摩擦を防ぐことができる。自分はこの能力のおかげで、どこへ行っても人を恐れることがなく、すぐに人の輪の中にとけ込んでいくことができた。
 
 梅雨のまっただ中の七月初頭。空には斑のあるネズミ色の雲が重くのしかかり、まっすぐに伸びる道の両脇に広がる水田は、くすんだ緑色に染まっていた。その水田からは、雨を待ちわびるカエルの大合唱が響き渡っている。俺はその道を自転車に乗って新しい学校へと向かっている。
 今日は、転校の初日。中途半端な時期の転校だ。
 普通、よほどの事情がない限り、七月に転校なんてしないだろう。前の学校で何か大きな問題を引き起こして、いられなくなったとか、借金取りに追われて夜逃げしてきたとか、誰しもそんな邪推をするに違いない。俺はできればこんな変な時期に転校なんてしたくなかった。だけど転校せざるを得なかったのである。
 父の突然の転勤が決まったのは、約一ヶ月前のことだった。当初は、俺が高校を卒業するまで、父には単身赴任してもらい、俺と母は前の家に残ることになった。その後、父の会社からお得な情報が入った。父が転勤するタイミングで引っ越しをすれば、その費用を会社が全額負担してくれるというのである。ぎりぎりの状態で家計を切り盛りしていた母は、「私はお父さんと一緒に引っ越すことに決めたわ。学校のことは、あなたにすべて任せた。あなたももう小さな子どもじゃないんだし、自分で好きなようにしてもいいわよ」と、笑顔で俺に告げ、自分たちはさっさと引っ越しの準備を始め出した。なんて冷たい親だ、と不満を垂れたくなったが、そんな表面上ののほほんとした態度とは裏腹に、母の悲痛な気持ちが流れ込んできて、俺は何も言なくなってしまった。おそらく相当資金繰りでは苦労していたのだろう。俺のことは俺が何とかしなきゃ。いつまでも親に頼ってられねえと、早速担任の先生に相談し、友達の協力もあって、何とか無事に転校できたというわけである。
 
 東側の校門を入って右のほうにある駐輪場に自転車を止め、俺は職員室へと向かう。まだ登校時間には早いせいか、生徒の数はまばらだ。職員室の場所がはっきりしなかったので、とりあえず南側の正面玄関に回った。どうやら職員室は、玄関ホールの先を左曲がってすぐのところにあるようだ。案内の立て札に、職員室の方向を示した紙と簡単な地図が掲示されていた。
 職員室の引き戸を開けると、すぐに先生と思われる若い女性が駆け寄ってきた。
「おはようございます。戸野翔平君ね。私は担任の宮津祐子です。よろしくお願いしますね」
 身長は、百五十センチくらいと小柄で一見、生徒と間違えるような幼さが残っている。肩までの黒髪を無理矢理ポニーテールに結っていて、束ねた髪がポニーのしっぽというよりは、消しかすをさっと掃く小さなほうきのように見える。そのまま避暑地に行ってもおかしくないような白いワンピースが職員室の中でひときわ目立っていた。麦わら帽子をかぶったら完璧かも。
「えっと、戸野君、どうしたのかな? 初めての学校で緊張してるのかな?」
「あ、すみません。なんか、不釣り合いだなって思ったものですから」
 言ってしまってから、余計なことを口走ったことに気が付き、口に手を当てる。
「それ、先生方とか、生徒たちにも言われるのよね。私、どこか変なところがあるのかしら?」
「変ではないと思います」
 先生の気持ちは至って穏やか。言葉にも裏がなく、本当にそう思っているようだ。俺に対しても警戒心は抱いていないようである。
「これから、高原にでもお出かけですか?」
「滋賀高原までね」
 と、にっこりと微笑む。冗談が分かる先生で安心した。先生も好感的に思ってくれているようである。
「では、早速、この学校の説明をしようかしら。応接室まで付いてきて」
 軽くステップを踏むように軽やかに歩く先生の後を追って、俺も応接室へ向かった。
 
 教頭先生からひととおり学校についての説明が終わると、ちょうどホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。俺と担任の先生――宮津祐子先生は、校長先生と教頭先生を応接室に残し、二人で教室へと向かった。二年五組が俺のクラスだ。
 この学校は、東西に延びる四階建ての校舎が二棟、平行に並んでいて、渡り廊下が棟の真ん中辺りで二つ校舎をつないでいる。一階は一年の教室、二階は二年の教室、三階は三年の教室で、四階には図書室や理科実験室など、皆が共用で使う教室があるようだ。俺のクラスの二年五組の教室は、南側の校舎の一番西側だった。
 先生の後に続いて教室に入ると、クラス全員の視線が一斉に降り注いだ。
 これからクラスメートになるメンバーの一人一人の気持ちを窺うと、快く受け入れようとしているメンバーは、ほんの一握りで、警戒心を抱いているメンバー、良くは思っていないメンバーが大半だった。
(まあ、こんなものだろうな)
 先生が、黒板に名前を書いて、自己紹介を促してくる。大半のメンバーが、俺を注目している。
「はじめまして。戸野翔平と言います。東京から引っ越してきました。ここへ来る前は、東京の公立高校の普通科に通ってました。父親の転勤で、ここに引っ越してきました。事情があって、変な時期の転入になりましたが、どうぞよろしくお願いします」
 ここまで話をして一呼吸。みんなの様子を窺う。やはり、まだ納得していないような雰囲気が漂っている。
「変な時期の補足です。決して、前の学校で問題を起こしたからとか、夜逃げとかじゃないです。俺自身は、卒業するまで前の学校にいたかったんですけど、家計の事情でやむを得ずです。せめて、二年が終わるまで、一学期終了までと考えていたんですが、無理だったんですよ。本当は、試験中に家族は引っ越してしまったんですが、ここへの転校は、前の学校で試験を受けることが条件だったので、一週間ほど友達の家に泊めてもらいました。それで、何とか高校中退は免れることができました。昨日の夜遅くこちらに来たばかりで、分からないことだらけです。授業の進み具合もきっと違うでしょうから、不安も結構あります。みなさんいろいろ教えてください。よろしくお願いします」
 俺は、きりっとした動作で、深々と頭を下げた。
 皆の不安が少し緩和したようで、重い雰囲気が軽くなった。
「戸野君はなんだか可哀想な子なので、みんな、仲良くしてあげてね」
「可哀想なんかじゃないです。普通です」
 即、反応すると、クラスの中から笑い声が上がった。担任がほんわかした人だから、クラスの雰囲気も感化されているのだろう。新しいところへ来ても不安はなかったものの、こういうクラスに転入できて良かったと思う。
「じゃあ、窓際の一番後ろの席に座ってください」
 俺はもう一礼して、席へ向かった。
 
 席に着くと、すぐに、前の席の男子と女子が振り向き、笑顔で声を掛けてきた。男子のほうは、短髪体育会系を思わせるがっちりとした体格をしている。整ったすっきりとした顔立ちは、近寄り難い感じではなく、人なつっこい表情を作っていた。きっと男女問わず人気があるに違いない。女子のほうは、ショートヘアーで背の小さい、可愛らしい女の子だった。ニコニコしている表情が、とても人なつっこく感じられる。二人ともとても好意的だ。俺も笑顔で、「よろしくお願いします」と応えた。
 隣は、後ろ髪は肩の辺りで切りそろえた、きれいな黒髪の女子だった。真剣に先生のほうを注視している横顔は、少々きつく取っつきにくく感じられたが、俺に対しては、何か力になりたいみたいな、気持ちでいるようだ。取り合えず、そういう人には声を掛けておかなければ。俺は、その女子に向かって、声を掛ける。
「隣の席で、いろいろと迷惑をかけるかもしれないけど、よろしくお願いします」
 すると、その女子の表情は、みるみるとこわばり、
「今は、ホームルーム中よ。静かにしなさい」
 と、きつい表情で睨まれた。
 前の席の男子は苦笑いをしながら肩をすくめ、前の女子は気の毒そうな表情をして前を向いた。
 俺は予想外の展開に、一瞬何が起こったのか分からなかった。彼女の気持ちは、先ほどと変わりなく好意的だ。にもかかわらず、表情も口調も、俺に不快感を示しているようにしか思えない。
 人は一人では生きていけない。一人でも生きていけそうなものだが、それはごく短期間のことであって、残念ながら、ずっと一人で生きていくことはできないものなのである。だから、必然的に、人と関わらなければならない。生き延びるために、最低限の人たちとは、いい関係で居続けなければならない。それ故に、心と態度にギャップがあっても普通なのである。顔はニコニコしているのに、はらわたが煮えくり返っている。関係を崩すのが怖くて、思っていることを口に出せない。そんなことはごく普通のことで、表面に表れる行動に対しての善し悪しはまた別次元の話である。
 基本的に、人は関係を崩したくない相手に対しては、関係を崩さないような言動をとる。当たり前と言えば当たり前のことである。しかし、俺の感覚に狂いがないとすれば、彼女の場合は気持ちと態度が普通とは逆だ。好きな食べ物を敢えて顔をしかめながら拒否するようなもの。自ら不幸を呼び寄せているようなものだ。もちろん、照れ隠しでそのような態度を取るケースはあるが、彼女の場合はそうとは思えない。
 俺はしばらく様子を見ることにした。
 
「一緒に飯食おうぜ!」
「私もいいかな?」
 険悪な雰囲気になった隣の女子――田菜部伸枝が、教室を出て行った後、前の席の二人が振り返り声を掛けてきた。男子の名前は高渡章久、女子の名前は京野美弥子だ。二人とも、自分に対して好意を持ってくれていて、昼休みになる頃にはすっかり仲良くなることができた。
 一方、田菜部伸枝のほうは、休み時間になっても、あからさまに俺のことを無視し続け、誰とも口を利かず、次の授業の予習に励んでいた。彼女に関して少なからず分かったことと言えば、このクラスの学級委員長らしいことだけだ。それは、授業の始まりと終わりに号令をかけていたことで分かった。
 表面上は俺を無視し続けていた彼女だが、今も最初感じたのと同じように、気持ちの上ではずっと俺のことを気にかけていてくれる。なのにどうして、俺のことを無視するような態度をとるのか、理解に苦しんでいた。
「戸野、おまえなに頭を抱えているんだよ。転校早々悩み事か?」
 高渡が興味深そうに俺を見ている。京野も同じだ。
「田菜部っていつもああなのか?」
「なんだ、無視されていることを気にしているのか? あいつは、誰に対してもああいう態度なんだ。あいつが口を利くのは、クラスの連中に注意するときと、ホームルームのときくらいだ。それ以外のことで話しかけても、無視される。運が悪ければ、ひどい言葉が返ってくるだけだ」
 高渡はしみじみと語る。
「田菜部はそんな奴なのか? 俺には、そうは思えないんだが……」
 高渡は目を見開いた。
「おまえ、どこに目を付けてるんだ?」
「だって、田菜部は学級委員長をやってるんだよな。そんなんじゃ、学級委員長も勤まらないだろ?」
「それはだな、誰も学級委員長をやる奴がいなかったからだ。だから、あいつがやっている」
「そうなのか?」
「あいつがどんな奴なのか、おまえもすぐに分かるって」
「やっぱり俺には、悪い奴には見えねぇんだけど……」
 視線を隣に向けると、京野が複雑な表情をしている。高渡の言うことに同意しているわけではなさそうだ。
「京野は、どう思ってる?」
 京野は少しためらった後、口を開いた。
「私はね、田菜部さんは悪い子じゃないと思ってる。正直、口が悪いし、人のこと、すぐ攻撃してくるし、私、田菜部さんはものすごく苦手。関わりたくなかった。でもね、新学年になって、学級委員長を決めるとき、誰も立候補とか推薦する人がいなくて、宮津先生が困っていたとき、田菜部さんが手を挙げたんだよ。学級委員長になっても、口が悪いのは変わりないけど、一生懸命なんだよ。他の人に何を言われようが、しっかりとやるべきことはやっていると思う。そういうことがある前は、ただ嫌な子だなって思っていたけど、今は違う。本当の田菜部さんは、嫌な子なんかじゃないような気がする。だから、少し仲良くなってみたいなと思っているんだけど、どう接していいのか分からないんだ」
 京野がふぅーっと溜め息をついた。京野の気持ちを覗くと、その言葉は嘘ではなく、心から友達になりたいと思っているようだ。
「京野も、どこに目を付けてるんだよ。戸野は、今日あいつと初めて会ったんだし、まあ仕方がないとしよう。だけど、おまえは、一年のときから一緒だろう。あいつの言葉の暴力の被害者を沢山見てきただろ?」
 京野が微妙な表情で頷いた。
「確かに、私、田菜部さんと言い合いになった子達を見てきたよ。でも、今思い返してみると、全部が全部、田菜部さんが悪かったんじゃないと思うんだ」
「いや違うな。あいつが全部悪いんだ。口は災いの元って言うが、あいつがいい見本だろ?」
 京野の言葉を制止するように、すぐさま高渡が口を挟んだ。
 高渡と京野の間に険悪なムードが広がる。このままだと、喧嘩になるかもしれない。
「まあまあ、この話はここまでにしようぜ。変な話を振って悪かったな。高渡の話も京野の話も参考になったよ。ありがとう」
 高渡も京野も、この件について、何か言いたそうだったけれど、俺は無理矢理、この話題を終わりにさせた。
「飯食おうぜ!」
 俺がそう言うと、まだ不服そうではあるが、高渡が自分の机を俺の机につけてきた。
 俺たちは昼食をとりながら、転校前の学校とこの学校の違いの話題で盛り上がった。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴ると、田菜部が教室に戻ってきた。
 
 その日の放課後。
 ホームルームが終わり、帰り支度をしていると、高渡が席から振り返り声を掛けてきた。
「今日、何か予定はあるか?」
「特にないけど」
 あるとすれば、引っ越しの片づけくらいだ。
「じゃあちょっと買い物に付き合ってくれないか?」
「いいけど」
「じゃあ行こう。引っ越してきたばかりじゃ、この辺の店、何も分からないと思うから、ついでにこの辺を案内してやるよ」
 高渡はそう言うと席から立ち上がった。そしてまだ残っている京野に向かって、
「おまえはどうする?」
「私は今日バイトだから。ごめんね、戸野くん。今度付き合うね」
 京野は申し訳なさそうに顔を伏せ、軽く両目を閉じた。
「バイトなんてすごいな。どんなバイトをしてるんだ?」
「事務所に行って、調査とかのアシスタントをしているの」
「調査って……探偵とかか?」
「ちょっと違うけど、似たようなものかな」
 京野は、帰り支度を終えると「じゃあね。また今度ね」と言いながら教室を出て行った。
「オレたちも帰ろうぜ」
「おお」
 高渡と俺は、つるんで教室を出た。
 
 高渡は、音楽鑑賞が趣味らしい。高渡の父親も若かりし頃は、音楽鑑賞にはまっていたらしく、最近のミニコンポの倍ほどもある、ごついステレオコンポーネントと言うものを譲り受けたそうである。ごついけど、それなりに良い音がするらしい。
 そのステレオコンポーネントのスピーカーが突然壊れたようで、今日は、スピーカーを買いに行くのだという。ただし、お金がないので、行き先はリサイクルショップだ。
 高渡が連れていってくれたのは、京都と奈良をつなぐ国道沿いで、お好み焼き屋や中華料理屋といった食べ物屋や、スーパー銭湯とゲームセンター、ボウリング場、カラオケがくっついた施設、マンガ図書館、古本屋、家電量販店、そしてリサイクルショップが、密集というほどではないが、店が狭い範囲内に集まっている一角だった。ここから大久保駅のほうへ少し向かうと、大型スーパーもあるようだ。
 まず、高渡の用事を済ませてから、古本屋にでも行こうと自分で勝手に予定を組んでいたものの、リサイクルショップで見つけた、高渡のお気に入りのスピーカーは予想を遥かに超えて巨大なものだった。
「これ、どうやって運ぶんだ。一人じゃ無理だろ?」
「だから、おまえを誘ったんじゃないか。おまえとオレの自転車の荷台に一個ずつ積めば運べるだろ?」
 高渡は、「ほれ、これおまえの分な」と、ロープを放り投げてきた。俺はロープを受け取ると、渋々と荷台にスピーカーをくくりつけた。
(まぁいいか。別に古本屋は今日じゃなくてもいつでも行けるしな。場所も分かったことだし、今日は高渡のお手伝いをすることにしよう)
 自転車にまたがり、振り返りながら尋ねる。
「高渡、どっちに向かえばいいんだ?」
「国道に向かって右だ。オレが先導するからちょっと待ってろ」
 もう一つのスピーカーを積み終えた高渡は、先頭を切って走り出した。
 
 高渡の家は、学校から田圃を突っ切った最初の住宅街の中にあるらしい。おそらく俺が今朝、学校へ行くときに通った住宅街の中にあるのだろう。方角的に言えば、学校から東北東である。俺たちが寄り道したリサイクルショップは、学校から南東方向にあるので、高渡が住んでいる住宅街の方向はリサイクルショップからほぼ北北東というところだろう。俺も高渡も同じ田圃道を通学路に使っているが、その田圃道から帰ると遠回りになるようなので、回り道などせず素直に高渡の家の方角へ向かうことになった。
 似たような家屋が建ち並ぶ住宅街の、似たような交差点を右に左に折れたり直進したりを繰り返す。
「俺、どちらの方角に進んでいるのか、ぜんぜん分からねぇ」
「大丈夫だって、そのうち覚えるさ。この近くで遊ぶところといったら、あのリサイクルショップの一角しかないからさ」
 複雑そうに思えても、慣れてしまえば単純なのかもしれない。やがて、左側が開けて、田圃と田圃の間を突っ切る国道が見えてきた。その国道の向こうには、俺たちが通う学校がシルエットになっている。雲の合間から顔を出す日はまだ少し高いが、西に傾き黄昏時を迎える準備をしている。腕時計を見ると、五時前だった。
「やっと分かったよ。あの西のほうから国道を突っ切って手前に向かっている田圃道って、俺たちが通学に使っている道だろ?」
「おまえ、どこにいるか分からないと言っておきながら、意外と土地勘、あるじゃねえか」
 高渡は感心しているようである。田圃道には下校する生徒たちが、一人あるいは二三人の固まりとなって、自転車をこいでいる姿が見えた。すでに下校第一段は終わっている。あれらはおそらく部活を終えたメンバーなのであろう。
 ゆっくりと自転車をこぎながら、田圃道を眺めていると、猛スピードでこちらに向かう自転車が目に入った。高渡も気付いたようである。急に表情をしかめる。
「あれ、あいつだ」
 確かに田菜部だ。風に髪をなびかせ、スカートの裾をひるがえさせながら、ペティコートが見えているのに気にもせず、必死で自転車をこいでいる。車が急に飛び出してきたら、きっと事故を起こすに違いない。そんな勢いである。
「田菜部、何を急いでるんだろう?」
「何かしでかして、逃げてんだろうよ」
 高渡の気持ちは、敵意に満ちている。
「田菜部はそんな奴なのか?」
 高渡は表情を堅くした。
「そんなことオレは知らねえし、知りたくもねえんだよ」
 高渡は強く言い放つと、田菜部から目を逸らした。
 田菜部は、目の前の交差点を、俺たちが向かっている北の方向に、角の住宅の塀にぶつかりそうになりながらもかろうじて方向を変えた。バランスを崩し、右に左に蛇行している。とても危なっかしい。そして体勢を取り直したかと思うと、またもや塀にぶつかりそうになりながら、三本ほど先のT字路を右に曲がっていった。
「おまえ、何をぼーっとしてるんだよ。早く帰ろうぜ!」
 気付いたら高渡は交差点を右に曲がろうとしているところだった。俺は慌てて高渡の後を追った。

            ◇    ◇    ◇

 次の朝、はっと目を覚ますと、枕元に置いた目覚まし時計の時刻はすでに八時を回っていた。七時にセットしていたはずなのに、ベルの音が聞こえなかった。
(うぁ、やばい。どうして誰も起こしてくれねえんだ!)
 畳に敷いた布団を上げている余裕はない。俺は飛び起き、すぐに着替えにはいった。
 始業開始は、確か八時三十五分だ。ここから学校への所要時間は、急いでも十五分はかかると思う。八時二十分までに、家を出ないと間に合わない計算だ。現在の時刻は、八時七分。残り十三分で、着替えをして、朝食をとって、身支度を調えなければならない。教科書、ノート、筆記用具の準備は、昨晩眠る前にしておいて良かった。だけど、すべての準備をするには時間が足りない。
(朝食を抜きにするか、持って行くしかないな)
 着替えを済ませ、自分の部屋から洗面所へ向かう。残り十分。鏡には、頭を爆発させた自分の姿が映っていた。眠る直前に風呂に入り、髪を十分に乾かさず、眠ってしまったのが原因だ。
(整髪料を使うのは嫌だが仕方がない)
 透明なゼリー状の整髪料を手に取り頭に塗りたぐる。櫛を通すと何とか寝癖は収まった。残り五分。リビングへ向かう。母がのんびりとソファーに腰掛け朝の連続ドラマを見ていた。
「やっと起きたわね。今日は遅刻なのかしら?」
 ゆっくりとした動作で母がのんきに振り返る。一言何か言ってやりたいところだが、そんな余裕など今はない。
「弁当どこ?」
「カウンターキッチンの上に置いてあるわよ」
 そう言ってカウンターキッチンの上に置いてある弁当箱を指さした。それを見てさらに焦った。まだ弁当箱を包んでいないじゃないか。残り後三分。
「弁当包みはどこにある?」
 母はちょこっと首を傾げた後、
「あ、包むの忘れてた。弁当包みはベランダに干したままだったわ」
 と言うと、またゆっくりとした動作でソファーから立ち上がった。
 母に任せていたら確実に遅刻だ。
「分かった、後は俺がやる。テレビ、見てていいよ」
 俺は素早くベランダの窓を開け、洗濯ばさみで吊してある弁当包みを取り外すと、急いで弁当箱を包んだ。そして鞄に放り込むと、駆け足で玄関を飛び出した。腕時計の時刻は八時二十分を少し過ぎていた。
 
 学校の駐輪場に着いたのは始業開始の三分前だった。タイミング良く、信号に捕まらなかったおかげである。しかしまだ予断を許さない。呼吸は荒く、心臓の鼓動は激しいが、転校二日目から遅刻では、変な噂が立ちかねない。ここは踏ん張って間に合わせるしかないだろう。
 俺は頭の中が真っ白になりながらも、何とか教室へ辿り着いた。
 ふらつく足取りで席に着いたとたん、黒板の上のスピーカーから、チャイムの音が鳴り響いた。
(何とか間に合った)
 ほっとしていると、
「おはよう」
 と前の二人――高渡と京野が振り向いた。なんだか大変だなって思っているようだ。
「お、おは、よう」
 息が切れてうまく話せない。
「おまえずいぶん、急いできたんだな。まだホームルーム開始まで五分あるぞ」
「い、いま鳴ったの、は、チャイム、じゃ、ないのか?」
 京野がクスクス笑っている。
「チャイムには違いないが、あれは予鈴だぞ。本鈴の五分前に予鈴が鳴る。前の学校にもあっただろ?」
「もしかして、戸野くんの通ってた学校には、予鈴はなかったのかな?」
 うー、あまり意識してなかったが、確かあったような気がする。それにしても不覚だった。そうと知っていれば、こんなに慌てることもなく普通にこられたかもしれない。でも、始業時刻を勘違いしたおかげで、間に合ったような気もするので、良しとしよう。
 ふと気になって隣を見ると、田菜部の姿がない。
「田菜部はまだ来ていないのか?」
 二人は急に神妙な顔つきになった。
「あそこだ」
 高渡は、教室の前のほうに顎を向けた。その先には田菜部がいた。入り口に一番近い机の前に立ち、横柄に腰掛けている男子に向かって何か言っている。男子は、ふてくされた顔つきで、口を一文字にして奥歯をかみしめている。机の上に投げ出された男子の手は、拳を作り小刻みに震えているのが分かる。田菜部に対して、かなり激しい怒りの感情を抱いているようだ。
 田菜部が相手を睨みつけながら何か言った。
 男子の体は大きく震え、
「いい加減にしろ!」
 と、机を叩いて立ち上がった。クラスの視線が二人に集まる。
 その男子は、机に手を据えたまま、前に立つ田菜部のほうに身を乗り出し、田菜部の顔に顎を突き出す。しかし田菜部は身じろぎもしない。
「汚い顔を近づけないで!」
 冷めた口調で言葉を投げかける。男子はひきつった顔をさらに近づける。
「なにを!」
 男子は怒りに堪えている。
「あなたは、罵迦なようだからもう一度言ってあげる。携帯電話の使用は校内では禁止。禁止という意味は分かるかしら? 使っちゃいけないということ。電話するのも駄目。メールも駄目。インターネットにつないでサイトを見るのも駄目なの。分かっていただけたかしら?」
「授業中じゃなきゃいいじゃんかよ。休み時間だったら誰が迷惑すると言うんだよ!」
田菜部は間髪を入れずに言い返す。
「生徒手帳の校則を読んだことがある? あなたはこの程度の文字も読めないほど、罵迦なのかしら?」
 と言って、ブレザーの内ポケットから自分の生徒手帳を取り出し、校則が書いてあるページを男子の鼻先に突き出す。
「さっきあなたは、休み時間だったら迷惑する人は誰もいないと言ったけれど、このあたしが迷惑なのよ。言うことを聞かないんだったら、あたしがあなたの携帯電話を没収するわ」
 田菜部は、机に投げ出された男子生徒の携帯電話に右手を伸ばす。それに気付いた男子生徒は険しい表情でその手をはたきのけた。田菜部は、右手を慌てて引っ込め、左手ではたかれた部分を撫でている。
「もう我慢ならねえ!」
 携帯電話を没収されそうになって、男子は切れてしまったようだ。さっきまでは、まだ、彼から後悔の念が少しは感じられたが、今はもう怒りの感情しかない。
(誰か止めに入らないのかよ……)
 教室を見回しても、誰も止めに入ろうとする者はない。中には止めに入ろうか葛藤しているメンバーの気持ちも感じられるが、その気持ちは弱い。このままでは、田菜部は殴られてしまうに違いない。ふと、田菜部の気持ちが流れ込んできた。言葉では、あんな暴言を吐いているにもかかわらず、怒りでもなく、恐れでもなく、哀れみでもなく、男子生徒を包み込むような気持ちで満たされている。
 田菜部は悪い奴じゃない。
 そう思うと同時に、俺は田菜部のほうへ駆け出していた。
 男子生徒が拳をふり上げた。田菜部は、目を固く閉じ、拳がくるであろう方向を手のひらでかばう。男子生徒が拳を振り下ろす。
 
 静まり返った教室に鈍い音が響き渡った。
 
 誰かが「あっ」と声を上げた。俺の右肩に鈍痛が走った。先ほどまで怒りに支配されていた男子生徒の心に、別の感情が戻ってきた。
「わ、悪い……」
 我に返った男子生徒は、気まずそうに突っ立っている。
 ちょうどそのとき、チャイムが鳴り、宮津先生が教室に入ってきた。
「本鈴が鳴ったわよ。みんな席に着いてください」
 俺たちは、先生に促されるままに席に着いた。
 田菜部は何事もなかったように号令をかけた。
 
 田菜部は、俺のことが気になっているようで、休み時間になると、目線だけでちらちらとこちらの様子を窺っている。気持ちの上でも、昨日と変わらず――というよりかは昨日よりも強く俺のことを気に掛けてくれている気持ちが伝わってきた。
「田菜部、大丈夫だったか?」
 次の授業の教科書を開いて、黙々と予習をしている田菜部に向かって声を掛けた。
 田菜部は、こちらを振り向き目をつり上げた。
「呼び捨てってどういうことなのかしら?」
 思いがけない反応に言葉が咄嗟に出てこない。
「親しくもないのに呼び捨てなんて失礼じゃない? あなたは、そんなふうに教わってきたのかしら?」
 俺を睨みつけ口を尖らせる。親しく話しかけたほうがいいと思った俺の判断が間違っていたようだ。俺が悪い。
「田菜部さん、申し訳ない。俺が悪かった」
 と頭を下げた。田菜部は、表情を変えないで、小さく頷く。
「それと、余計なことはやめてくれるかしら? あたしは学級委員長の役職を全うするために、校則を破っている彼に注意しただけ。あなたは部外者でしょ。あたしの仕事を邪魔しないでくれるかしら?」
 こいつは何を考えてるんだ? あの状況で俺が止めに入らなかったら、確実に校内暴力に発展してたぞ。
「俺は、邪魔した分けじゃねぇ。今にも殴られそうだったから止めに入っただけだ」
「だからそれが余計だと言ってるのよ! あなたは一般人でしょ。一般人が校内で喧嘩をしたら、即停学よ。あなたはなんて罵迦なの。余計なことは絶対にしないで!」
 そう言い放つと、ぷいっと前を向いてしまった。
 俺はムシャクシャした。正直、田菜部を殴ってやりたいと思うほどムシャクシャした。悔しくて口元がゆがんだ。何事もなかったように、予習を再開した田菜部を見ていると、憎い感情があふれ出してきた。良心と邪心が葛藤する。その良心がもう少しで打ち破れそうになったとき、高渡が俺の肩を叩いた。
「まぁまぁまぁ……」
 まるで、動物をあやすように、どうどうと数回肩を叩かれる。高渡の顔を見ると、ご愁傷さま、というような微妙な表情をしている。高渡も同じような経験をしているのかもしれない。俺は何とか冷静さを取り戻した。
「ありがとうな」
「いいってことよ」
 二時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
 
 俺は大きな勘違いをしていたのかもしれない。俺に備わっている人の気持ちや感情を感じ取る能力。この特殊な能力があることを信じて疑うことはなかった。俺は今までこの能力を使って、相手の気持ちを感じ取り、相手に対する言動を決めていた。その言動が今まで間違っていたことはなかったし、それ故に能力に疑いを持つことがなかったのである。しかし、田菜部伸枝という人間に出会ってからは、人の気持ちと行動との関係に疑問を持ち始めてしまった。俺がこの特殊能力を持っていることさえ本当かどうか怪しい。単に能力があると思い込んでいるだけではなかろうか? 今までは、偶然に幸運が続いただけなのではなかろうか?
 もう一度、隣にいる田菜部の気持ちを感じ取ってみる。
 今は授業に集中しているためか、特に感情の動きは感じられない。もはや、感じ取る能力が無くなったのではないだろうか。いや元々感じ取る能力なんて無かったのではないだろうか。俺はそれを確かめるために、さらに精神を集中させて田菜部を見つめた。
 ふと、田菜部の視線を感じた。俺は我に返る。
 田菜部はまた前を向いたまま横目でちらちら俺の様子を窺っているようだ。
 俺はなんだか気まずくなった。
 視線を外そうとしたとき、田菜部の感情が動いた。正しく感情を感じ取れているかには疑問が残るが、どうやら何かを感じる力はあるようだ。
 悲しみと拒絶の感情。田菜部からはそんな気持ちが流れ込んできた。
 俺は完全に嫌われてしまったようだ。高渡が言っていたように、俺がどうのこうのできるような相手ではないのかもしれない。話は通じないし、本当の気持ちが読めないし、京野が言っていたように、どう接していいのか分からないのである。
(仕方がないよな)
 気にはなるが田菜部に関わるのはここまでだ。自分の感情を押し殺してまで、特別な感情を持っていない相手と友達になろうだなんて思えない。あんな暴言を吐くような奴とは無理に友達にならないほうが身のためだ。馬が合わない奴とは友達になれないものだ。
 俺は自ら進んでかかわり合いになることはやめにした。
 
「戸野、おまえ〈七夕音楽祭〉って知ってるか?」
 昨日と同じように、高渡と京野の三人で、机を向かい合わせて弁当を食べていると、高渡が急に思い出したかのように口を開いた。
「いや、知らない」
「やっぱそうだよな。この学校では、毎年七月十五日に、音楽祭があるんだよ」
 なるほど、学校のイベントか。
「さっき、〈七夕音楽祭〉と言ってたけど、七夕だったら七月七日じゃないのか?」
 京野が答える。
「七月十五日は、旧暦の七夕祭りの日なんだよ。地方によっては、旧暦でお祭りをするところもあるんだよ。この学校、七月七日は期末試験のまっただ中でしょ。だから、旧暦でやることになったらしいよ。試験のお疲れさま会の意味合いもあるみたい」
「ふーん、そうなのか。で、どんなイベントなんだ?」
 高渡は面倒くさいのか、話を振るだけ振っといて、ひとり黙々と弁当を食べ始めた。
「吹奏楽部と軽音楽部の演奏会みたいなものだよ。でね、最後に短冊をつけた笹を燃やして終わり。それだけなんだけどね」
 演奏を聴いて笹を燃やす? 演奏と七夕を一緒にやるなんて、なんかピンとこない。とってつけたような感じだ。それに、七夕の笹って、燃やすもんじゃなかったよな?
「内容はどうであれ、イベントは楽しいもんだ」
 俺の顔に疑問符が浮かんでいるのを感じ取ったのか、高渡が口にものを入れながら言った。行儀が悪い奴だ。
「でも、イベントが嫌いな奴もいるよな?」
「オレは好きだ。おまえは嫌いなのか?」
「まあ、嫌いではないな」
「じゃあ、いいじゃねえか。オレたちは楽しもうぜ」
 高渡は嬉しそうにそう言った。
「短冊にしっかりと願い事を書かねえとな。おまえ短冊持ってるか?」
「持ってねえし。でも、小学生じゃあるまいし、短冊を書いても楽しかないだろ?」
 高渡はいったん目を見開いて、ゆっくりと目を細めた。
「これが意外と楽しいんだな。高校生という立場で願いを書くのがいいんだよ」
「そういうものか?」
「そういうものだ」
 高渡の隣で京野もうんうんと頷いている。
 小学生じゃまだしも高校生になって、七夕の日に願い事を書いた短冊をぶら下げれば、その願いを織り姫と彦星が叶えてくれるなんて、マジで思っている奴なんていないだろう。だったらなぜ、参加者が多いんだ。たぶん音楽演奏が目当てなんだろう。
「参加者が多いって言うのは、短冊に興味があるんじゃなくて、演奏に興味があるからなんじゃないのか?」
「そうでもないと思うぜ。教室内を見てみ」
 ざっと見渡して驚いた。弁当を食べながら、短冊を書いている奴がちらほらいるではないか。
「今日、五時間目のロングホームルームで回収なんだ。強制じゃなくて、自由参加だけどな」
 自由参加ということを聞いてまた驚いた。それだけの魅力があるというのか。
「もしかして、本当に願いが叶うのか?」
「おまえ罵迦か? そんなことが起こるわけないじゃないか!」
 高渡があきれている。
「たぶんみんな、願いを文字にすることで、自分のことを見つめ直しているんじゃないかな」
 京野が食べ終わった弁当箱を淡い桜色の布で包みながら、口にする。
「やっぱり私たち、青春のど真ん中でしょ。悩み事が多い年頃なんだよ。こうなりたい、こうしたい、と思うけどそれがうまくいかないから悩むんじゃない。悩みは吐き出すと楽になるって言うでしょ。だから短冊に願いを書くのもそういうことじゃないのかな」
「よくわからねえ」
 悩みと願いがどうつながるんだ。
「だからね、間接的なわけ。悩みがあるから、願いもあるわけでしょ。願いを書くという行為は、間接的に悩みを打ち明けていることになるんだよ。もちろんすべて願いが、悩みの間接的な表現っていう訳じゃないけどね。分かった?」
 なんかこんがらがることをいう奴だな。つまり、願いは悩みの結果、現れる。悩みを外に出すことは、楽になること。願いは悩みによって生じるから、願いを外に出すことで、悩みが楽になるっていうことなんだろう。
「分かった?」
 自信なさそうに問いかけられる。
「何となく……」
 京野は、さらに解説を続けようとしたが、聞いてもさらに混乱しそうだったので、無理矢理話題を変更した。
 
 昼休みが終わる約五分前、田菜部が教室に戻ってきた。彼女が戻ってくると、高渡は慌てて机を前に向けた。
 高渡は田菜部のことを相当嫌っているようだ。
 転校してこの二日間、自ら進んで彼女に近づく生徒は一人もいなかった。実際、彼女が近くにいるだけで周りが緊張した空気に包まれる。ほとんどの男子生徒は、彼女に敵意の感情を抱き、ほとんどの女子生徒は、彼女に恐れの感情を抱いていた。不憫ではあるが、彼女が自ら招き入れた不幸だから仕方がない。
 ふと視線を感じ、田菜部のほうを見る。まるで怒ったように表情をこわばらせている。しかし、気持ちを見るに怒っていない。どうせあやふやな能力だから、また狂っているのだろうと、視線を逸らした。
「この短冊、あなたのよ」
 視線を戻すと、田菜部は俺の目の前に笹色の短冊を差し出した。きょとんとしていると、
「あなたは、七夕音楽祭のことは聞いているかしら?」
 彼女は抑揚のない言葉を続ける。
「昼休み、友達から聞いた」
「そう」
 彼女の表情は変わらない。
「今日が回収日だけど、あなたは転校してきたばかりだから、二日後の木曜日まで待ってあげるわ。強制ではないから、別に書かなくてもいいけど、出したければ受け取ってあげるから、声を掛けて」
 短冊を受け取らないでいると、彼女はぶっきらぼうに短冊を俺の手に握らせた。そして席に戻り、ぷいっと前を向いてしまった。彼女は学級委員長としての責務を果たしたに過ぎなかったのだろう。彼女の気持ちは、先ほどの緊張感と裏腹。落ち着いた気持ちになっていた。
 そして、五時間目のロングホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。
 
 まず最初に、宮津先生から、夏休みまでの短縮授業のことや答案用紙の返却についての話があった。
 続いて田菜部に代わり、七夕音楽祭の話が始まった。今年の旧暦七夕は、日曜日になるので、前倒しで十三日の金曜日に開催するらしい。例年よりも準備時間が少ないということで、緊急に各クラスから一名ずつ役員を増員することになったそうだ。
「ということで、私たちのクラスからも、一名、役員を出さなければなりません。どなたかお手伝いしてくれる方はいませんか?」
 田菜部は呼び掛けるが、クラスの中は静まり返り誰も手を挙げようとする者はいなかった。彼女は教室の中をまんべんなく見渡すが、目を合わそうとする生徒もいない。クラス中が、彼女に向かって発せられる苛立ちと恐れの雰囲気で一杯になった。そして彼女の苛立ちも極限を迎えた。
「あなたたち、それでも、クラスの一員と言るの?」
 田菜部は眉間にしわを寄せ激しい口調で言い放つ。彼女に対して憎悪の感情が教室内を染めていく。
 逃げ出したくなるような、嫌な沈黙の時間が流れる。
「あなたたちがそんな気だったら、もうお願いしません。あたしが、二人分働きます。あなたたちは、このクラスにいる必要はありません。すぐに出て行ってください」
 クラスの中にどよめきが起こり、田菜部を非難する声が飛び交った。
(あいつ、クラス全員に対してもああいう悪態をつくのかよ。俺にはまったく理解できない……)
 慌てて先生が止めに入る。
「みんな、ちょっと聞いて!」
 みんなには先生の声が届いていないようだ。
 先生は何度か同じ言葉を繰り返した。そして、言葉が届いていないのが分かると、激しく教壇を叩き、金切り声を上げた。
 先生の豹変ぶりに驚いたのか、クラスが静寂に包まれた。そして、厳しい表情で田菜部を見据えた。
「田菜部さん、そのような態度はいけません。クラス代表として、このクラスをまとめあげるのがあなたの仕事でしょ。その物言いはなんですか。慎みなさい!」
 先生は、先ほどとは打って変わって毅然とした態度で言った。さすがは先生だ。田菜部はふてくされた様子だが小さな声で「……はい」と返事した。それを確認すると今度はみんなのほうに向きなおる。
「改めてみなさんに聞きます。他のクラスも、一名ずつ増員しているんだし、私たちのクラスだけ、役員を出さないわけにはいかないわ。ちょっと大変だけれども、企画側に携わるわけだから、参加だけするよりもきっと別の楽しみが見つかるはずよ。どうかしら、誰か手伝ってくれる人はいないかしら?」
 先生がそう言うと、クラスの雰囲気が変わった。やってみてもいいかも。そんな気持ちでいるメンバーも出てきた。でもみんな一歩を踏み出せないでいる。それはおそらく、田菜部と一緒になるのを避けているからだろう。田菜部はふてくされた表情のまま下を向き、先生の横に佇んでいる。手のひらをぎゅっと握りしめ奥歯をかみしめている。
 と、そのとき、どこからか声が聞こえた。
『お願い、誰か助けて……』
 ふうーっと息がかかるほどの耳元で聞こえたような気がした。思わず周りを見渡すが声の主は分からない。ふと前に向きなおると、一瞬、田菜部と目があった。彼女はすぐに下を向き視線を逸らした。
 そして彼女から、痛々しいほどの孤独な気持ちが流れ込んできた。
 この感覚、俺は確かに味わったことがある。
 それは……俺がまだ小学校低学年の頃、まだ気持ちを感じ取れる能力なんて自覚していなかった頃だ。他の誰しも、俺と同じように他人の気持ちを感じ取っているものだと思っていた。しかし、俺は他の人たちとは違っていると自覚した。俺に対する周りの気持ちが、あるときを境に、変わり始めたからだ。言葉にするものしないもの。それは皆それぞれだったが、周りのみんなが一同に俺のことを気味悪がり、俺のことを避け始めたのだ。そのときに俺自身が感じた心の痛み。それと同じものが、今の田菜部からも伝わってくる。
 このままでいいのか? 俺はただ傍観していればいいのか? 関わることはただのお節介になりはしないか? そもそも俺の感覚は正しいのか?
 田菜部からは、冷えきった悲しみの感情が伝わってきた。あの頃の消えて無くなってしまいたいほどの辛い記憶がどんどんあふれ出す。求めても求めても誰も手を差し伸べてくれず、何も見えない暗闇の中をさまよっているような孤独と絶望感。あのとき、光があれば、それがほんの小さな光だったとしてもずいぶん楽だったはずだ。
 もし俺の感覚が確かだったとしたら? 今このときに、手を差し伸べなかったことを一生後悔するだろう。
 もし俺の感覚が間違いだとしたら? 俺が田菜部から煙たがられるだけだ。これからの長い人生の中で、人に嫌われることなんて多々あるはずだ。一人に嫌われたってどうってことがない。それを考えると、何もしなかったときの後悔のほうが比べものにならないくらい大きいように思えた。
 顔を上げ視線を先生に向ける。
 先生の声が耳に入ってくる。
「……これだけ言っても駄目なのね。私は立場で人を強要したくありません。そんなことしたって、誰のためにもなりませんからね」
 先生は大きな溜め息をついた。
「みんなの気持ちはよくわかりました。役員は先生の私がやります。異論はありませんね?」
 クラスの中に、ほっと安堵の雰囲気が広がった。
「先生!」
 俺は手を上げ椅子から立ち上がった。
「それも、誰のためにならないんじゃないですか?」
 再びクラスの中に重い空気が広がる。余計なことを言いやがって、みたいな空気だ。
「でも、これしかもう他に方法がないでしょ。先生の最終手段です」
「俺がやりますよ」
「えっ!」
 先生が目を見開く。
 隣の田菜部がびっくりしたように顔を上げる。
「せっかくの先生の役をとってしまって申し訳ありませんが、俺がやりますよ。俺にやらせてください!」
 先生の表情が安堵に変わった。田菜部の半分閉じたような目が一瞬大きく見開き、その瞳に窓の光が反射した。そして彼女からは、先ほどの孤独な感情が消えていた。
「何かご不満でもおありでしょうか?」
「戸野くん、是非お願いします」
 田菜部はいつもの近づき難い表情に戻ったが、その感情は先ほどとはまったく違っていた。


2

「戸野くん、田菜部さんが学級委員長になったときと同じだね」
 田菜部が先生と一緒に教室を出て行った後、京野がニコニコしながら言った。
「さすがだね」
「そんなことはねぇよ。誰もやる奴がいないから、しょうがなしだ。先生に役員させるわけにはいかないしな」
「それがたいしたことなんだよ? たぶん戸野くんだったら大丈夫だと思う。戸野くん、偉い!」
 京野のテンションが妙に高い。高渡が振り向く。妙に表情が暗い。
「おまえさー、オレの言うことちゃんと聞いてなかったろ? 何を考えてるのか知らねえけど、あいつとうまくやれる奴なんているわけねえんだよ。おまえ絶対に後悔するぞ!」
 俺が名乗り出たことを快く思っていないのか、俺のことを心配して言っているのか、心を覗いてもはっきりとしなかった。
 いずれにしても、周りがどう言おうとも、俺は今までの田菜部を知らない。俺のとっては、今、目の前にいる田菜部がすべてだ。
「俺は、田菜部を信じる」
「オレは十分忠告したぞ」
 高渡は眉をしかめた。
「あなたはまだこんなところで油を売っているの? あなたが手を上げたのは、みんなに良く思われたいだけの見せかけだったのかしら?」
 田菜部はいつの間にか教室に戻って来て、俺の右横に立っていた。高渡と京野は前に向きなおった。
「ちょっと帰り支度してた。悪い」
 田菜部の目がつり上がる。
「あたしのことは信じなくていいから、あたしにあなたを信じさせてもらえるかしら? あたしを失望させないで」
 田菜部は容赦なく憎まれ口を叩く。ムカつくけど我慢だ。やるといった手前、後には引けない。
「わかったよ。俺は何をすればいいんだ?」
「あなたは、まずあたしと一緒に美術室へ行くこと。そして、あたしの言うことをどんなことでも素直に聞くことよ。じゃあ行きましょ」
 田菜部はきびすを返し、教室の前の出入り口へ、急ぎ足で向かった。
 帰り支度がまだ終わっちゃいないけど、すぐについていかなきゃもめそうだ。京野が心配そうに俺を見つめている。高渡が、ご愁傷様、というような表情で苦笑いしている。俺は「じゃあ」と二人に手を振り、田菜部の後を追った。

 美術室に入ると、二十人前後の生徒たちが、七夕音楽祭の準備をしていた。どうやらここが準備の場所になっているらしい。垂れ幕や立て看板なんかをグループに分かれて作っている。
 田菜部は俺を中心者と思われる上級生のところへ連れていき、ようやくお手伝いのメンバーが決まったことを告げ、俺のことを紹介した。
 黒縁の眼鏡をかけ、髪の毛を整えた、いかにも優等生っぽい男子は、三山木と名乗った。生徒会副会長のようである。三山木は、俺をみんなに紹介すると、田菜部の指示に従うように言った。
 
「で、俺は何をすればいいんだ?」
「笹を取りに行ってくれるかしら?」
 教室を見渡すと、後ろのほうに笹が立て掛けてある。
「教室の後ろにある笹をここに持ってくればいいのか?」
 彼女の目が半眼になる。
「あんた、罵迦じゃないの? あの笹は、昨日届けてもらった笹。数えたら一本足りないわけ。足りない一本をとって来てって頼んでいるわけ。おわかり?」
 やはりいちいち神経を逆立てる物言いをする奴だ。しかし俺はこんなことでは、腹を立てない。
「罵迦で悪かったな。それでどこへ取りに行けばいいんだ?」
 田菜部は学校周辺の地図を机の上に広げ、隅っこのほうを指さした。俺は指した先を確認する。この地図は、この学校が中心に位置を据えている。ということは、東の方角――俺の家の方角か。まだ土地勘がないので、とりあえず自分の家を探してみる。帰り道を地図でたどる。
 家が見つかった。田菜部が指さしたところを確認する。俺の家のすぐそばじゃないか。
「そこ、むちゃむちゃ遠いんじゃないのか?」
 俺の家の側だと、自転車でゆうに十五分はかかる。そこへ行って笹を取ってこいというのか?
「遠いよ? だからあなたに頼んでるんじゃない?」
 訳が分からねえ。俺じゃなきゃいけないのか?
 俺が渋っていると、田菜部は目をつり上げた。
「あなたにはここの状況が見えないのかしら? みんな自分の役割をこなすことで精一杯なの。この場所に、あなたの他に行けそうな人はいるのかしら。いたら、あなたから直接頼んでちょうだい。ほんと、使えない奴ね」
 確かに、適役は俺しかいない。しかし腹が立つ。
「分かったよ。俺が取りに行く」
 田菜部の表情が心持ち緩んだ。
「いい? ここの駒田さんのお宅を訪ねるのよ。なるべく早く、お願い。分かった?」
「なるべく早くったって……なんだかんだで一時間はかかるぞ」
「返事は?」
「はあっ?」
「返事は?」
 こいつ、なんかムカつく。
「返事は?」
「はいはい分かりました!」
「『はい』は一回!」
 あまり反発してたら、どんどんムカついてくるから、言うとおりにしておこう。
「はい、分かりました。お嬢様」
 田菜部は固まってしまった。俺が思わぬ反応をしたから、混乱しているのだろう。そうだとしたら、俺のしたたかな意地悪は成功だ。彼女の思考が回復したら、きっとムカつくような言葉を吐くに違いない。
 俺は、彼女が我を取り戻し悪態が堰を切らないうちに、急いで美術室を後にした。
 
 駒田さんの家はすぐに見つかった。俺が住んでいるマンションを通り過ぎ、一つ目のT字路を右に曲がった突き当たりだった。周りの家に比べて、この家だけがレトロな雰囲気を醸し出している。この木造平屋建ての家の前には、道を挟んで小ぢんまりとした竹林があった。これがおそらく、駒田さん所有の竹林なのだろう。俺は、木製の柱に取り付けられた、旧式の呼び鈴のボタンを掴むようにして押し上げた。
 家屋の中で、機械式の呼び鈴の鳴る音が響き、引き戸から白髪の老人が現れた。
「こんにちは。久御山高校の者です」
「ああ、笹を取りに来たんじゃな。ちょっとお待ちなさいよ」
 老人はそう言うと庭の納屋に入って行った。そうしてしばらくすると、右手に手斧を持ち、ゆっくりとした足取りで玄関先まで戻ってきた。
「待たせしてすまんのう。では早速、笹を切りに行くとするかのう。ついておいでなさい」
 老人は、家の前の小ぢんまりとした竹林へ向かった。その後を俺が続く。竹林は、竹でこしらえた大雑把な柵で囲まれていた。家の庭にある塀のように、竹を縦に幅をそろえて切りそろえ、きれいに敷き詰められたものではなく、切った竹をそのまま縄でざっくりとくくりつけただけの簡単な作りの柵だった。
 老人は、柵の隙間から竹林へ入っていく。五十メートル四方くらいの小さな竹林だったが、中に入ると意外と広く感じられた。
「これなんかどうじゃな?」
 老人は足を止め、背丈が三メートルくらいの竹の幹を握った。
「ちょっと大きいですね」
 これだと自転車で運べそうにない。美術室に置いてあった笹は、これほど大きくなかったような気がする。
「じゃあ、これはどうかね?」
 今度のは小さすぎる。一本の笹には三クラス分の短冊をくくりつけるので、この大きさだと、笹が短冊で埋め尽くされ、短冊の木のようになって、格好がつかないような気がした。
「あれなんてどうでしょう?」
 太い竹と竹との陰に、背丈が二メートルほどの笹を見つけた。
「手頃な笹は、みんな切ってしまったと思っておったが、こんなところに残っておったんじゃな」
 老人は慣れた足取りで、その笹に向かうと、勢いよく手斧を振り下ろした。
 笹にしては、少し太めだったが、手斧にはかなわない。笹の葉全体が一瞬ザザっと震えたかと思うと、次の瞬間には笑顔の老人に抱えられていた。
「おじいさんすごいですね。プロの技を拝見させていただきました」
 老人は、所々抜け落ちた歯を見せ、にったりと笑った。
 
「ありがとうございました。俺はこれで」
「待ちなされ、少し休んで行きなさい」
「俺、急いでるんですけど」
「そういうときほど、ゆっくりするもんじゃょ。急いでいてはろくなことはない。急がば回れと、古のお方は良く言ったもんじゃ」
 笹をわけてもらっているんだし、このおじいさんは無下にはできないな。少しくらいならいいだろう。
「じゃあ少しだけ」
 俺がそう応えると、老人は顔をくしゃくしゃにして、縁側に案内してくれた。
 夏の縁側は暑いに決まっている。そんなふうに思っていたが、この家の縁側は予想外に涼しかった。南側に竹林があるせいなのだろうか。それとも庭に茂る木のせいだろうか。心地よい深緑の香りがする落ち着いた空気が漂っていた。
 老人は、お湯が入った急須と湯呑み茶碗、それと茶筅と抹茶が入った缶を渋い漆塗りの丸いお盆に乗せて運んできた。
「待たせたのお」
 老人は、茶碗を一つ、目の前に置き、小さじで粉茶を入れた。そして急須を手に取り、お湯を注ぎ、茶筅でしゃかしゃかとかき混ぜ始めた。
「ここの竹林は、現在はこんなに小さくなってしまったが、昔はこの辺り一面、竹林じゃったんだよ。わしの家は、その竹林のちょうど真ん中辺りにあったんじゃ」
 老人の気持ちは至って穏やかだ。ゆっくりとした動作で、茶筅をお盆の上に置くと、俺の前に茶碗を差し出した。
「どうぞ、お飲みなされ」
「ありがとうございます。いただきます」
 お茶を口に含む。熱くもなく、ぬるくもなく、ちょうどいい温度だ。口に広がる仄かな甘みと苦み。それが夏の疲れている体にはちょうどいい加減だった。
「おいしいですね!」
 老人は相変わらずにこやかだ。
「若いものは、こういうお茶は、あまり飲んだことがないじゃろう? ちょっと手が掛かるが、お茶はこうして飲んだほうがおいしいんじゃょ」
 俺は、そうですねと相づちを打った。老人は自分のお茶を淹れ始めた。
 それから話は再び元に戻り、竹林の話題となった。おじいさんの家は、別のところではなく、昔からここにあったらしい。周りの家や俺が住んでいるマンションは、竹林を切り開いて建ったということが分かった。それで、この家だけが古かったのだ。
 柱時計が時を打ち始めた。針を見るともう五時だ。
 やばい、三十分以上も油を売ってしまった。
「おじゃましました」
 おじいさんは、まだ話をしたそうにしていた。
「また遊びにおいで」
 別に遊びに来たわけじゃなかったんだけど、居心地の良い場所が見つかった。ここは俺の家の目と鼻の先だし、また改めて来るとしよう。
 
 学校の駐輪場へ辿り着いたときには、時刻はすでに午後五時半を回っていた。
 荷台に駆使してくくりつけた笹を丁寧に取り外すと、俺は急いで美術室へと向かった。
 きっと田菜部には悪態をつかれると思う。彼女のことだから言い訳は通じないだろう。何を言われても、ひたすら我慢するしかない。
 美術室に着いた。
 もう残っているメンバーはまばらだった。田菜部を目で探していると、三山木先輩が駆け寄ってきた。
「ご苦労さん。その笹は、教室の後ろの笹と一緒のところに立て掛けてといてくれる?」
「はい、分かりました。他にお手伝いすることはありますか?」
「今日のところは、もう大丈夫。明日またお願いするよ」
 教室を見渡してみるが、田菜部の姿はないようだ。
「戸野君、どうかしたのかい?」
「田菜部さんはどこですか?」
「彼女はもう帰ったよ。彼女に何か用事でもあった?」
 そう言われると特に用事といわれる用事はない。ただ、普通、用事を頼んだ相手が帰ってくるまで待っているものじゃないのか?
「いや、特には……」
 三山木先輩は俺のことを気の毒に思っているようだ。でも、表情には表さない。
「そうか。じゃあ明日また頼むよ」
 三山木先輩はそれ以上、田菜部のことには触れなかった。

            ◇    ◇    ◇
 
 翌日、登校して教室へ入ると、田菜部はすでに席に着いていて、一時間目の予習をしていた。俺は席へ着き、ボストンバッグから教科書やノートなどを取り出し、机の中へ移動させた。俺が登校してきたのが分かっているはずなのに、彼女は一向にこちらを見ようともしない。そんな彼女の態度を見ていると無性に腹が立ってきた。
「昨日はどうして早く帰っちゃったんだよ」
 田菜部はぴくっと眉を動かし俺のほうを向いた。
「おはようは?」
「…………」
 鋭い目で睨まれる。
「おはようは?」
「俺はそんなこと聞いちゃいねえ」
「あたしは、おはようは? ってあなたに訊いているのよ。そのお返事はいただけないのかしら?」
 こいつはめちゃめちゃなことを言う奴だ。なぜ俺の問いかけに素直な反応を示さないのだろう。最初に俺が訊いているのに、それには応えようとしない。
「あなたは、朝のあいさつを教わったことがないのかしら? 常識がない人ね」
 そう言うと、前に向きなおり再び予習を始めた。
 なんだかものすごく悔しい。腹が立つ。でも俺は、決意したはずだ。こいつの力になってやろうと。ここは我慢だ。
「田菜部さん、おはようございます」
 俺は感情を必死にこらえ、ひきつる声で話しかけた。田菜部は驚いたように、目をまん丸にして俺のほうを見た。
「おはようございます」
「お、おはよう」
 彼女はなぜか動揺しているようだ。俺の反応がよほど予想外だったのか、俺のほうを見ながら固まっている。そんな田菜部の様子を見ていると、先ほどの腹立たしい気持ちも消え去っていた。
「今日も、俺、がんばるからさ、何でも用事を言いつけてくれ。放課後よろしくな」
 思ってもみない言葉が自然に出てきて俺自身も驚いた。田菜部は我に返って、
「分かったわ。あなたがさぼらないように、ちゃーんと考えておくわ」
「じゃあ、頼むぞ」
 俺が言い終わらないうちに、田菜部はぷいっと前を向き、また予習を始めた。田菜部の気持ちは揺らめいていた。
 
 お昼休み。高渡は、今日は用事があるからと教室を出て行った。京野と二人でお弁当を食べる。
「戸野くん、今日はどうしちゃったの? 朝、喧嘩になりそうで冷や冷やしたけど、よく我慢したね? 田菜部さんと喧嘩にならなかった男子って初めて見たよ」
京野がニコニコと話しかけてくる。
「そうなのか?」
「うん、そうだよー。それに、言い返さなかった田菜部さんも初めて見た。戸野くんと田菜部さん、意外と相性いいのかもね」
 京野は嬉しそうに微笑んだ。
「そんなことはないだろう。あのとき、俺はあいつに、激しく苛立ちを感じてたんだ。だけど、昨日、あいつのために何かしてやろうと決めたばかりだし、一日で折れるなんてみっともないし。だから、ちょっと我慢しただけだ」
 俺はまだ、一歩を踏み出したばかりだ。そんな状態で一喜一憂なんてしてられない。俺が目指すのは、彼女の悪態と、そのちぐはぐな気持ちの謎を解くことだ。その謎は、友達の関係にならなければ解けないような気がする。彼女は相当なくせ者だ。こんなことで目的に近づいただなんて、俺にはまだそう思えない。
「どちらかが我慢して成り立つ友人関係って変だしな。まだまだこれからどうなるか分からねえし」
「私のバイト先の師匠が言ってたよ。気持ちがどこにあるのかが大事だって。表面では同じでも、気持ちが違えば、百八十度違う結果が出るんだって。私は、戸野くんの想いのベクトル、間違ってないと思う。私、応援する」
「俺は京野が考えているような立派な人間じゃねえけど、できるだけがんばってみるよ」
 京野はお昼休み中、ずっと笑顔だった。お昼休みが終わる頃、田菜部が教室に戻ってきた。
 
「今日、リサイクルショップに寄って行かねえか?」
 放課後、帰り支度をしていると、高渡が声を掛けてきた。
「悪い、俺、今日も七夕音楽祭の準備があるんだ」
 田菜部は先に行ったようで、もうここにはいない。
「そうか、音楽祭は金曜日の夜だもんな」
「そうなんだよ。実質、今日と明日しか準備できないから大変なんだよ。付き合えなくて、悪いな」
「いいよいいよ、気にするな。だけど、田菜部と一緒だとしんどいだろ? ねちねちといじめられているんじゃないか?」
「確かに、あの悪態は厳しいね。うっかり切れてしまいそうになっちまう」
 高渡は、そうだろうそうだろうと頷いている。
「我慢できないようだったら、いつでも穴をまくって役員を降りろ。キレて処分を受けた男子が結構いる。いつだって、手を出したほうが悪者だからな。少なくともこの学校では言葉が暴力だってことを認めている奴はいないからな」
「おお。我慢できなくなったらそうするよ」
 高渡は拳を作った右手を胸の前に差し出し親指を立てた。
「じゃあ行ってくるよ」
「がんばってこい」
 俺と高渡は教室の前で別れた。

 美術室では、田菜部が入り口を凝視していた。室内に入ってきた俺に気付くと鋭い視線を投げかける。来るのが遅い。彼女の目はそう訴えていた。
 俺は慌てて田菜部の元へ駆け寄った。
「あんた、遅い。今がどういう状況なのか理解してるのかしら? そんなことも分からないぐらい、あんたは罵迦なのかしら?」
 作業していたメンバーは手を止め、俺たちを注目する。生徒会の三山木先輩が駆け寄ってきた。
「言い訳はしません。遅れてすみませんでした」
 心の中では、ちょっとくらい遅れてきたっていいじゃないか。いちいちうるさいんだよ。そんな腹立たしいネガティブな気持ちが芽生えていたが、その言葉を口にすることは、くすぶり始めた小さな火に油を注ぐようなもので、一言でも口にすると、お互いの感情が制御できなくなるものだ。俺は努めて言葉にしないように気をつけた。
「悪いと自覚してるんなら、いいわよ。だけど、また同じようなことをしたら今度は容赦しないわよ」
「はい、分かりました」
 俺は大きく頷いた。
 三山木先輩は少し離れたところから、俺たちのことを表情をこわばらせながら静観していたが、大きな問題に発展しそうにないことを悟ると、表情を和らげ持ち場へ戻っていった。周りのメンバーも、手を動かし始めた。教室の中は、安堵の感情と期待を裏切られてがっかりしたような感情が入り交じっていた。
「あんたの今日の仕事を申し渡すわ。今日もお使いに行ってくれるかしら?」
「今日は、何を仕入れてくりゃいんだ?」
「ホームセンターへ行って来て。垂れ幕の重石にするための細長い木材を買ってきて欲しいの。寸法とかはこのメモに書いておいたから」
 田菜部は、ぶっきらぼうにメモを差し出した。俺は受け取り確認する。このぐらいの大きさだったら、自転車で運べる。
「わかった。それで、ホームセンターってどこにあるんだ?」
 田菜部は、昨日に見せた校区内の地図を机の上に広げ、「ここよ」と指さした。
 学校から東南東の方向。大久保駅を越え、府道六十九号線を右に曲がってすぐのところだ。
「場所は分かった。結構遠いな」
「そこがここから一番近いホームセンターよ。だから、頼んだわよ。昨日みたいに油を売っていないで、できるだけ早く帰ってくるのよ」
 昨日は別に油を売っていたわけじゃないんだが。こいつには、義理とか人情が分からないのかもしれないな。まあいい。急ごう。
「じゃあ行って参ります。お嬢様」
 俺はそう言い放って教室を飛び出した。
 
 梅雨の空は泣き虫の子どものように、昨日は晴れたと思ったら今日はもう低い雲で覆われていた。いったんは凪いでいた風が仄かに雨の香りを運んでくる。これは、田菜部に言われるまでもなく、早く行って帰ってこなけりゃ雨に降られてしまいそうだ。
 久御山団地を右手に見ながら、古川の橋を越えて国道二十四号線に出る。右へ曲がりリサイクルショップ、京都新聞の印刷工場、日産学園の前を通り過ぎ、高架下の府道との交差点へ向かう。ここまでの所要時間はほんの十分くらいだったが、先ほどまではまだ少し明るかった空が、今はもう暗いなまり色に染まり始めていた。
 交差点を左に折れ、任天堂の工場、家電量販店、イオンを越える。ここからは緩やかな登り坂になっていた。少しの距離なら何ともないくらいの傾斜だが、意外と長く続いていて、坂を上りきるまでにはかなりの体力を消耗してしまった。近鉄の高架をくぐり抜けマクドナルドの交差点についた。右手を見ると、ホームセンターの看板が見える。すぐに仕入れて学校に戻れば、何とか雨に降られなくて済みそうだ。
 材木売り場に到着すると、その場にいた男性店員に田菜部がくれたメモを見せた。
「お客様、大変申し訳ございません。このサイズの丸木ですが、ちょうど切らしてまして……。すぐにお入り用でしょうか?」
 店員は困ったような表情を作っている。まじめな店員のようで、表情と同様の申し訳ないというような気持ちでいるようだ。
「明日の夕方、使うんですよ。何とかなりませんか?」
 店員は、近くの店舗に聞いてみますと言って、その場を離れていった。
 待っている時間に、この一角を改めて眺めてみると、様々な木材が並べられていることに気が付いた。多少形状が異なっていても、使えそうな木材はいろいろとありそうだ。さらに言えば、木材じゃなくても、紙が丸まらないようにする重りになりそうなものがあれば事足りるのではないか。たとえば、金属のパイプなんかでも良いんじゃないかな。格好は悪いが、洗濯ばさみのようなものでも、十分にその目的にかなうような気もする。
 店員が戻ってきた。
「申し訳ございません。近くの店舗もその木材は切らしているようです。見つかるかどうか分かりませんが、少し離れた店舗にも問い合わせてみましょうか?」
「いえ、いいです。他のものでも代用になりそうですから。そこにあるその木材をください」
 店員が問い合わせている最中に見つけた、使えそうな木材を指さした。
「これは角材ですが、切り口が丸くなくて大丈夫ですか?」
 誰にでも言う、店の保身のための台詞なんだろうけど、本当に心配しているようである。まじめな店員だ。
「大丈夫です。垂れ幕の重石にするだけですから」
「だったらいいんですけど。このサイズのものを二本でしたね。ひもで縛りますのレジでお待ちください」
 俺はレジで支払いを済ませ店から出た。
 
 店を出ると、ひんやりと湿った空気が鼻に流れ込んできた。
(これはもう降り始めるかもしれない。とりあえず、急ごう)
 自転車の車輪一つ分くらい後ろに飛び出るような形になったが、何とか荷台に材木をくくりつけることができた。これくらいのはみ出しなら、周りを気にしていれば問題ないだろう。
 自転車にまたがり来た道の逆をたどる。近鉄の高架を越えれば、今度は下り坂だ。楽に学校まで辿り着けるに違いない。
 しかし、坂を下りきったところで、運悪く信号に捕まってしまった。信号がなければ、二十四号線の交差点までこがずに行ける勢いだったのに。仕方なくブレーキを握りしめ、交差点手前で自転車を止めた。
「すみません、ここへはどう行ったらいいのか教えてもらえないかのう」
 突然小柄な白髪交じりの老人から声をかけられた。
「すみません。俺は、こちらに越してきたばかりなんで、まだこの辺りのことはぜんぜん分からないんですよ。他の人に聞いてもらえませんか?」
 老人は、がっかりした表情で途方に暮れている。気の弱そうな雰囲気から、やっとのことで俺に声をかけたのかもしれない。おどおどしている姿を見てると、とても見過ごせなくなってしまった。
「分かるかどうか自信ないですが、その地図、見せてもらえませんか?」
 おじいさんはいったんは取り下げた地図を俺の目の前に差し出した。
 まず、現在地を確認する。ここは大久保方面から西へ下った道だ。ちょうどイオンの前なので、現在地はここ。おじいさんの目的地――新田駅は……ホームセンターをもっと東に行ったところじゃないか!
「なんでまた、こんなところで迷っているんですか? ここは駅から逆方向ですよ」
「大久保駅で降りたんじゃが、地図通りに行っても新田駅に着かんのじゃょ」
 おじいさん、きっと北と南の方角を間違えてるんだ。必然的に東と西も逆だ。
「おじいさん、地図通りとおっしゃいましたけど、本当に地図通りでしたか? 西と東を間違えたとしたら、道がぜんぜん違うと思うんですけど?」
「何十年ぶりかでここに来たらすっかり変わっておったんじゃよ。昔の記憶は当てにならないもんじゃな」
 昔のことは知らないが、この辺りはものすごく変わっているような、そんな気がする。大通りに面した建物は、築数年といったところだろう。最近建ったばかりというほどでもないものの、数十年経った建物の汚れに比べれば、遥かにきれいである。道路や歩道は最近舗装したばかりのようで、あか抜けた雰囲気が漂っている。もしかしたら道路自体が変わってしまったのかもしれない。
「逆方向に行けば、たぶん目的の駅へ辿り着けると思うんですが、おじいさん、一人で行けますか?」
 おじいさんは俺の顔をちらちら見ては、何やら考え込んでいる。
「分かりました。俺、駅まで送りますよ」
 おじいさんは、満面の笑みを浮かべて、感謝の言葉を口にした。
 
 おじいさんと新田駅で別れた後、ちょうど坂を下りきったところで、霧のような雨が降り出した。こういう雨は、身体全体をじわじわと濡らしていく。学校に帰りつく頃には、ずぶ濡れ状態になっていた。
 美術室へ辿り着くと、時刻はすでに五時半を回っていた。
 髪の毛からポタポタ落ちる滴に気が付いた三山木先輩は、慌てて駆け寄ってきた。
「戸野君、どうしたんだい。ずぶ濡れじゃないか!」
「そうなんですよ。傘を持って来るのを忘れちゃって」
「それは災難だったね。すぐタオルを持ってくるから、ここで待ってて」
 三山木先輩は、美術準備室の中に消えていった。
 今日は昨日よりも人が残ってる。通路に広げられた『第七回七夕音楽祭』の垂れ幕の文字はすでに書き終わり、星の形に切り抜いた色画用紙を女子が中心となって貼り付けていた。
「おまたせ。タオルを持ってきたよ」
 いつの間にか戻ってきていた三山木先輩は、俺の胸の前にタオルを差し出した。
「ありがとうございます」
 俺は手に取り、ふわりと頭に乗せた。
「先輩、まだ梅雨が明けていないので、七夕音楽祭の天候が心配ですね」
「そうだね。一応、雨が降ったら、体育館で開催するんだけど、やっぱり七夕なんだから外でやりたいね。空が晴れて、彦星と織り姫、二人を阻む天の川が見えたら最高なんだけどね」
 そう言えば、田菜部の姿が見えないんだけどどうしたんだろう。俺がきょろきょろしていると、
「あっ、田菜部さん、もう帰ったよ。五時前までは、残っていたんだけどね。まだ帰って来ない、まだ帰って来ないと、かなりイライラしてたよ。準備はまだ明日一日あるから大丈夫、とフォローしておいたけどね」
「そうですか。イライラしてましたか」
 やばい、また機嫌を損ねちまったな。明日は心して彼女と接しないとな。
「まあ、いつものことなんだけどね。戸野君は大変だ」
「他人事みたいに言わないでくださいよ。三山木先輩は、生徒会の副会長なんでしょ。何とかしてくださいよ」
 三山木先輩は顔をしかめた。
「彼女は特別。他人事だよ」
 と、冷たく言い放った
 生徒会でも手に負えない田菜部って。
「田菜部さんことは君に頼んだからね。君は、田菜部さんに気に入られているようだから、大丈夫だよ」
「なんでそんなこと言えるんですか? 俺、いつも田菜部にけちょんけちょんに言われてるですよ。耐えるのがやっとですよ」
 三山木先輩は俺のことを鼻で笑った。
「君はまだ転校してきたばかりだから気付いていないんだろうけど、あの子とまともに話せる男子なんていなかったんだ。君は素質があると思うよ」
 俺に素質が? もしそんなのがあるんだとしたら嬉しいんだけど。
「じゃあ、明日も頼んだよ。明日は準備の最終日だから気合い入れていくぞ!」
 妙にテンションの高い先輩の叫び声を聞きながら、その場を後にした。

            ◇    ◇    ◇

 あまり納得はしていないが、丸く収めるために、言い訳は絶対になし。本当は、言い訳じゃないけど、一昨日のこともあるし、きっと田菜部は理解してくれないだろう。彼女は、根は優しいのかもしれない。でも外面が駄目だ。強面のおじさんが、優しいおじさんかもしれないと想像するよりも、見た目通りの怖いおじさんだったらどうしようと、まず最悪の事態を考えるのが自然だ。それは、一種の自己防衛本能なのだろう。人は見掛けによらない、なんてことは、いったい誰が言い出したのだろう。それは、一昔前の人情があふれていた時代にしか通用しない言葉なのかもしれない。
 おそらく田菜部は、困っている人から声をかけられたことはないのだろう。だとしたら、誰かに道を尋ねられることが、意外と日常茶飯事に起きることなんて理解できないはずである。だから昨日の出来事を話しても、きっと言い訳にしか聞こえないと思うのである。まずは余計なことは言わずに、ただ謝ろう。
 重い足取りで教室に入ると、田菜部はすでに席に着き、黙々と予習にいそしんでいた。
 意を決して彼女に近づく。俺は人の気持ちを感じることができる分、人に対して緊張などしないのだが、彼女に対しては、体がこわばって足が震えた。
「田菜部さん、昨日は遅くなって悪かった。本当にごめん」
 田菜部は、きれいに整えられたセミロングの黒髪をふわりと逆立てながら俺のほうに顔に向け、嫌なものでも見るように目を細めた。
「あんたは、あたしが言うことなんて聞けないって言うのかしら?」
 やはり、昨日、早く戻って来なかったことを怒っているようだ。
「あたしの言うことが聞けないんだったら、七夕音楽祭の役員、やめていいわよ。いたっていなくたって一緒だから」
 なぜ人の神経を逆立てるような言い方しかできねえんだよ。理由を聞いてくれるような心優しさがねえんだよ。田菜部のふてくされた態度と人を小馬鹿にした物言いが俺の神経を逆撫で、耐え難い怒りの感情をわき起こさせた。
「あんた、あたしに何か文句があるのかしら? さっきの謝罪の言葉は、本心じゃなかったのかしら?」
 もう我慢の限界だ。あれくらいのことで、俺はなんでここまで言われなきゃならねえんだ。思いっきり噛みしめた奥歯がきしみ、こわばった身体が小刻みに震え出す。
「田菜部さん……それは言い過ぎじゃないのかな?」
 耳元で震える声が響いた。
 振り向くと、表情を堅くした京野が立っていた。俺の中に、畏怖と優しさが入り交じった感情が流れ込んできた。俺は危ないところでなんとか冷静さを取り戻した。
 田菜部は、驚いたように京野を見つめている。
「私、戸野くんが遅くなったのには理由があると思うの。戸野くん、まじめだし、約束を破るような人じゃないと思う」
 田菜部がようやく口を開いた。
「あたしは、そういうことを言っているんじゃないの。何があったかなんて関係ない。あたしは早く戻って来てってお願いをしたの。それは昨日、準備したかった作業があったから。でも、彼が遅れたせいで昨日はできなかった。それによって、予定は狂ってしまうし、他の人の作業も滞ってしまった。そんなに迷惑をかけてでも、京野さんが訴える彼の理由って大事だったのかしら? 準備の作業を軽く見てるんじゃないのかしら? あたしは、真剣にやれないんだったら、手伝って欲しくないと言っているだけ。あたしは何か間違ったことを言ってるかしら?」
 京野は口をつぐんでしまった。
 田菜部が言っていることは正論だ。言いかたは腹立たしいが、決して間違ったことは言っていない。反省すべきは俺だ。田菜部の言うとおりだ。あの謝罪の言葉は、突き詰めれば本心から思った言葉ではなかった。彼女のきつい言葉を交わすためだけのものだった。それを見抜かれていたわけだ。あのおじいさんを駅まで案内したこと自体は良い行いだと思う。しかし、それは状況によるのではないか。俺はあのとき、早く帰ることとおじいさんを駅へ案内することを天秤に掛けた。そうして、俺は案内することを選んだ。あのときの俺は、学校へ戻ることが遅れることで、準備のメンバーが影響を受けるなんてみじんも考えなかった。おじいさんの対応は、いくらでも代わりがいたはずだ。しかし、お使いの代わりは、俺しかいなかったはずだ。なんでそんな大事なことに気付かなかったんだろう。良い人間を気取ってきた自分が心底情けなくなった。
「田菜部さん。俺の考えが間違っていました。本当に申し訳けありませんでした」
 俺は、ただ頭を下げるだけでは気が収まらなくて、床に手を突いて頭を下げた。
 俺の姿は周りから、みっともなく見えているだろう。だが、それ以上に俺はみっともない考えでいたのだから、これでもぜんぜん足りないくらいだ。
「あんた、頭を上げなさいよ。あたしがあんたをいじめているように見えるじゃない」
 先ほどのきつい口調が少し和らいだ。
「分かればいいのよ」
 田菜部は、前に向きなおり、再び予習を始めた。
 
 昼休み。田菜部が教室を出て行った後。
「おまえ、情けなくないか?」
 机を後ろに向けながら、高渡があきれた顔で言った。
「なぜ言い返さないんだ。あいつに向かって土下座はないだろう。おまえって本当に情けない奴だな」
 京野が鞄からお弁当を取り出し椅子を俺の机に向ける。
「私は、戸野くん、偉いと思う。普通あの状況だったら、大喧嘩になっちゃうよ。そう思って助け船を出したつもりだったんだけど、私なんにも役に立たなかったね。ごめんね」
 京野は、自分の頭をちょこんと殴り、片目をつぶって舌を出した。
「いやいや、本当に助かったよ。実はあのとき、頭に血が上って、キレる寸前だったんだ。京野のおかげで、冷静さを取り戻せたんだよ。ありがとな」
 京野は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「甘いな、あんな奴に対して、気を使う必要は、ぜんぜんないと思うぜ。押しても駄目なら引いてみな、って言葉があるが、あいつにはそういう普通のことが通用しないんだ。押したらそれを上回る悪態で押してくる。引けば引いたで、あいつは引く以上の速さで押してくる。あいつの中には駆け引きって概念がないんだよ」
 高渡は、奥歯をかみしめるようにしてほざいた。その気持ちは恨みで覆い尽くされている。
「それは言い過ぎじゃない。高渡くん」
 京野が反論した。
「本当にどうしようもない人はいるよ。バイト先でそういう人に出会ったことがあるから分かる。その人は、他人に理不尽なことを強要して結局は自分を良く見せるために他人を利用してたの。表面上は他人のためを装って、人のことなんてぜんぜん考えていなかった。でも、田菜部さんはそうじゃないと思う」
「どこが違うんだ。田菜部だって理不尽なことばかり言ってるだろ? そのどうしようもない奴の同類だと思うんだが」
 高渡は、田菜部をどうしても悪者に仕立てあげたいようだ。激しい憎悪の思いがぴりぴりと伝わってくる。
「俺も違うような気がするんだ」
「いいや、違わねえ。被害にあったオレが言うんだから間違いはねえ」
「被害って、何かあったのか?」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。オレは、あいつが他人のことなんかこれっぽっちも考えない極悪非道な奴だってことが言いたいんだ!」
 行き場を失った高渡の苛立ちが、貧乏揺すりへと変わる。
「ちょっと待てよ。京野が言う、どうしようもない奴は、他人を利用するために、理不尽なことを吐くわけだろ。もし、田菜部が同じだとしたら、目的は何だ? 少なくとも、他人を利用しようと思っているとは思えない」
 京野はうんうんと頷いている。
「あいつはおそらく人間が嫌いなんだよ。だから誰でも自分から遠ざけようとする。それがあいつの目的だろう」
「やっぱり、何か違うような気がする。もしも、人間が嫌いなら、人と関わりを持とうなんてことしないだろ? 俺が見る限り、田菜部は悪態といういびつな形だけど、自分のほうから人と関わりを持っているように見えるんだよ。高渡は、そういうふうに見えないか?」
 高渡の表情が曇った。
「この話はもうよそう。おもしろくねえ」
 高渡はぼそっとそうつぶやくと、向かい合わせていた自分の机を元に戻した。それっきり、誰とも口を利かずに黙々と弁当を食べ出した。俺と京野も険悪な雰囲気に飲まれ、黙ったまま食事を終えた。
 
 放課後の美術室。
「あんた、これってどういうことなの?」
 部屋に入ると、田菜部が血相を変えて駆け寄ってきた。
「あたしが昨日、あなたに頼んだのは、丸い木だったはずよ。なのにこれは何? 使いものにならないじゃない」
「田菜部さんがメモしてくれた木材はなかったんだよ。垂れ幕の重石にするんだから寸法さえ合えば、良いと思って買ってきたんだけど。それじゃいけないのか?」
 彼女は眉間にしわを寄せ、両端にテニスボールくらいの丸いものがついたロープを俺の胸元に差し出した。
「あんたが買ってきた木材を垂れ幕の上下に巻物の端っこみたいな感じで固定するの。そして、木材の両側にこの丸いものをはめ込んで、ひもの部分でフェンスに固定するというわけ。風で飛ばされないように、上下ともしっかりとね……。あなたが買ってきた木材の両端にこの丸い部分がつけられるのかしら?」
 テニスボールみたいな丸い部分には、丸い穴が貫通している。俺は球付きロープを持って、穴を木材の端に合わせてみた。
「……入らねえ」
 田菜部が要求したのは、切断面が丸い木材。俺が買ってきたのは、切断面が正方形の木材だ。直径と辺の長さが同じでも、正方形の対角線の長さは、直径を超えるのは当たり前。対角線が直径になるような木材を買えば良かったんだ。
「お分かりかしら?」
「……はい」
 でも、角を削れば使えないことはない。
「申し訳なかった。俺、その球の穴に入るように、角材を削るよ」
 田菜部の表情が氷のように冷たく、肝の辺りがうずくような感情が伝わってきた。
「あんたは、あたしがお願いしたことを二つとも守らなかった」
 不気味に抑揚のない声が、痛く胸に突き刺さる。
「今朝のあんたの反省はいったいなんだったの? 結局、本心じゃなかったのね。あたしをだまして、裏で罵迦にしてるんでしょ?」
「そうじゃない。俺は……」
「結局――」
 俺の言葉をヒステリックな声が遮る。
「結局、役員をやるのだって、格好をつけるためなんでしょ! 誰もやりたがらない中で、勇ましくやるなんて手を上げれば、誰もが、あの人はすごい、って思ってくれるものね。あなたは結局、他人から良く思われたいだけなんでしょ? あなたの醜い私欲のために、あたしを利用するのはやめてちょうだい!」
 俺は頭の中が真っ白になった。何も考えられず、ただ怒りの感情に支配さた。
 ただ俺にも、少しばかりの理性が残っていたようだ。田菜部に手を上げそうになりつつも、教室を飛び出すことで、かろうじて彼女を傷つけることは避けられた。
 それから俺は、どこをどうたどったのか分からない。
 気が付くと、木津川の堤防をひとり自転車で走っていた。
 
 重い雲がのしかかる空。それに呼応して、地上の鮮やかさも消えている。梅雨の雨で増水したせいだろうか。川にかかる木の橋が、真ん中辺りから川に流され消えている。橋へと続く堤防を下る道の手前には、通行止めの看板と赤色のパイロンが並べられていた。
 無心でこいだせいで、加熱した頭が冷やされ少しは気持ちが落ち着いてきた。
「……行き止まりか」
 俺は、田菜部とどのように接してよいのか、分からなくなってしまった。俺は今まで彼女と接してきた経験からある仮説を立てていた。彼女から時々こぼれ落ちる気持ちの断片から、表面上の彼女と内面の彼女は違うんじゃないかと考えていた。だから、あの役員を決めるホームルームで、彼女のことを理解している奴なんて、誰もいないと考えて名乗り出たのである。しかしそれが本当に正しかったのだろうか? 皆が感じているように、彼女の表面上の行動が彼女のすべてではないのだろうか?
 彼女のために何かしてやりたい。
 あのとき誓ったのに、急速に冷めている自分に気が付いた。俺の目指す道も、あの木の橋のように途中で流されてしまって、先に進めなくなってしまった。
 もうよそう。
 すべての人間とうまくやっていくだなんてことは、単なる理想でしかなかったのだ。最善の状態なんてものにはどうやっても辿り着けない。世の中を見たって、平和という理想を掲げながらも、実際は未だに戦争や抗争が絶えないではないか。他にも理想と現実が違うことなんて数え切れないほどある。田菜部の力になろうなんて考えることも、そのうちのちっぽけな一つなのかもしれない。
 俺がいなくたって、もう後は大丈夫だろう。明日、自分にはもうできない、と田菜部に伝えよう。
 俺の胸の下辺りが、冷たい手で鷲掴みにされたようにうずいた。


3

 翌日朝、俺は重い足取りで教室の引き戸をまたいだ。始業開始の予鈴を聞いたのは、校門前。予鈴に背中を押され、ようやく教室へ辿り着いたが、顔を上げることはできなかった。
 できないってちゃんと告げよう。
 意を決して顔を上げ、田菜部に席を見る。
 俺もぎりぎりなのに、田菜部はまだ来ていなかった。なぜだかほっとしている自分に気が付くとともに、先ほど以上に気持ちが重くなるのを感じた。
「おはよう、戸野くん」
 席に着くと真っ先に、京野が声をかけてきた。
「……おはよう」
 京野は眉根を寄せて俺の顔をのぞき込む。
「何かあったの? 顔色が悪いよ?」
 俺は京野から顔を逸らし、うつろな目で窓の外を見た。
 今日も、自分の心を象徴するように、低い灰色の雲が空を覆い尽くしていた。
 やがて本鈴が鳴り始める。
 横を見てもやっぱり、田菜部の姿はなかった。
 ぼーっと田菜部の席を見ていると、本鈴が鳴りやむかギリギリのタイミングで、後ろの扉が静かに開くのに気が付いた。半分ほど引き戸が開いたとき、それは下を向いた田菜部だと分かった。俺の心臓が高鳴り、胸が息苦しくなる。田菜部は静かに扉を閉め、下を向いたまま着席した。俺は、田菜部を見ていることができなくて、視線を逸らした。
 前の扉が開き先生が入ってくるのが分かった。
 田菜部の号令が響き、前も見ないで一礼し着席する。
「田菜部さん、その傷、どうしたの!」
 先生の声が教室に響いた。
 その声の驚いて、俺は田菜部の横顔を直視する。田菜部の右頬を隠すように大きなガーゼが覆っている。
「何でもありません。学校の帰り、ちょっと転んだだけですから」
 声の調子はいつもと変わらない。しかし気持ちは焦りを隠せずにいる。転んだというのは嘘なのかもしれない。
 
 休み時間。俺は田菜部が悪態をついてくるだろうと想像していた。俺は、彼女が口を開く前に、昨日の俺の決断を伝えようと待ち構えていた。田菜部からは、昨日とは違う雰囲気が漂っている。
「あの、田菜部さん、話があるんだけど……」
 俺は田菜部のほうに身体を向けながら、抑揚のない調子で切り出した。
「…………」
 答えが返ってこない。
 一分、二分と待っても返す様子を見せない。
「あの、田菜部さん……」
 答えが返ってこない。
 思い起こせば、昨日、俺は作業を投げ出して、教室を飛び出したのである。田菜部はあの性格だ。笑って許してくれるような奴じゃない。きっとものすごく怒っているに違いない。田菜部からなんの反応もないまま、二時間目の開始のチャイムが鳴った。
 俺は、次の休み時間も、その次の休み時間も彼女に声をかけ続けた。今日が最後となる放課後の準備とイベントの運営、それに撤収作業。きっと俺は頭数に入っているだろう。このまま何も告げずに黙ってさぼることも、正直言って頭の隅をかすめたが、やっぱり俺にはそんな無責任なことはできない。かといって、田菜部と一緒に作業するなんて、もうできそうにない。せめて、自分の決断を彼女に告げてから、辞退したかった。
 午前中、結局なんの進展もないまま、時間は無駄に過ぎていった。
 
「おまえ、田菜部と何かあったのかよ」
 昼休み、高渡が何も考えていないような軽い乗りで話しかけてきた。
「ちょっとな」
「何がちょっとなんだ? おまえ完全に田菜部に無視されてるじゃんかよ」
 こいつには言われたくねえが、事実は事実だ。
「……こんなこと言うのは情けないんだけど、俺、もう駄目だわ」
 京野が驚いたように振り返る。高渡は、ほら言ったことが、と言うような顔をして、
「やっと、分かったか。だけどおまえは偉かったよ。たいていの奴は、あいつに手を上げて、最悪の結末を迎えるんだけど、おまえはよくがんばった」
 高渡は、俺の肩をぽんぽんと軽く叩いた。高渡には、嫌なところを付かれそうだと思っていただけに、なんだか肩の荷が下りたようで、沈んでいた気持ちが少し軽くなった。
「戸野くん、それじゃ駄目!」
 いつも冷静でありながらも茶目っ気がある京野が、感情的に叫んだ。
「京野。おまえ何熱くなってんだよ。相手は田菜部だ。戸野もこれでよかったんだよ」
 高渡が口を挟んだ。
「私は、あなたに言ってるんじゃないわよ。戸野くんに言っているの! 口を挟まないで!」
 京野ってこんなに熱くなる奴だっけ?
 高渡は、左右の手のひらを上に向け、苦笑いして、席を立った。
 京野は俺に詰め寄り、悲しい目をして、
「戸野くん、それじゃ駄目なの!」
 と、もう一度叫んだ。
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
 俺の行動を否定する京野に向かって思わず叫び声を上げた。京野は急に大人びたまなざしになり、席に腰掛けている俺のことを見下ろした。
「戸野くんはどうしたいの?」
 まるで小さい子を諭すかのように、微笑みを浮かべ優しく俺に問いかける。
「俺は……もう必要ないだろう。準備はほぼ終わってるから、俺が手伝わなくても、もう大丈夫だ」
 京野は静かに頷き、質問を続けた。
「もう役員としての役割は十分に果たしたって言うことかな?」
「そうだ。後は残りのメンバーだけで十分に運営していけると思う」
「戸野くんって責任感がある人だと思うから、そのことについては、たぶん大丈夫なんだね」
 京野は、誰もいない俺の隣の席を見た。
「でもね、田菜部さんはどう思ってるのかな?」
「俺のこと、うっとうしい奴だと思っているんじゃないかな。準備に行っても、お使いに出されるし、学校に戻ってきてもあいつはいつもいないし。話しかけても俺の話なんて聞かないし、揚げ足を取られて、悪態をつかれるし……この扱いから考えれば、自ずから、嫌われているのは分かるだろ? 嫌われているのが分かっていながら、それでもあいつの力になってやろうとは俺にはとても思えない」
 京野はゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「田菜部さん、本当にそう思っているのかな? 前にも話したけど、戸野くんが転校してきてから、田菜部さんの雰囲気が何となく変わったんだよ。本当に嫌われているのか、戸野くん、田菜部さんにちゃんと聞いてみたの?」
「それは……」
 京野に面と向かって言われてはっとした。京野の言うように確かめた訳じゃない。だけど、表面的に見れば、俺に対する態度は単なる嫌がらせで、それは嫌われているからこその言動だとしか思えない。
 だけど俺は、そうじゃないんじゃないかとも思っていた。今もまだ確信は持てないが、彼女の気持ちはいつだって食い違っているのだ。しかし、もし本当に行動と思いが百八十度違っているとしても、人は普通、表面上の言動に捕らわれてしまう。それだけ表面上の言動は、人に大きな影響力があるということだ。たとえ彼女の気持ちを確かめて分かったとしても、表面上の行動が違っているのなら、そんな心なんてないも同然だ。
「……聞かなくても分かる」
「嫌われていても、嫌われていなくても、戸野くんにとっては同じってことなの?」
「柿には渋い柿と渋くない柿があるのは知っている。だけど、俺には、渋い柿と渋くない柿は見掛けは同じで見分けがつかねえ。目の前に柿を出されても俺はいつも食べないほうを選ぶんだ」
 京野は右手の人差し指をほっぺに当てて、少し黙り込んだ。
 開けた窓から湿気を含んだなま暖かい風が静かに流れ込んできて、俺の身体にまとわりついた。
「じゃあね、戸野くん。その柿が世界に一個だけしかなくて、この先食べたくても決してもう口にすることができない最後の最後の一個だったとしたら、どうする? それでも決して食べようとは思わないのかな?」
「俺は柿は好きじゃねえ。だから何とも思わん」
 リスクを冒してまで、食べたいとは思わない代物だ。
「だったら、おなかがペコペコで、いま手に入れられるものが、渋いか渋くないか分からない一個の柿だけだとしたら?」
 砂漠の真ん中で、のどがからからな状態でさまよっている。そんな状況が頭に浮かんだ。そんなとき、目の前に水たまりがあったら、俺はいったいどうするのだろうか? 間違いなく口にするだろう。その中に得体の知れない恐ろしい細菌が入っているかもしれないのに、そんなことを考えている余裕なんて少しもないだろう。だったら柿のほうがましだ。
「俺……、その柿を食うかもしれない」
 京野はうんうんと頷いた。
「戸野くんは、なぜ食べようと思ったの? 渋い渋い柿かもしれないんだよ」
「渋くても、死ぬことはないじゃん。甘いかもしれねえし」
 京野はケラケラと笑った。
「さっき言ってたことと違うね? 何か違うことを考えてたんでしょ?」
「なんか、京野の話を聞いてたら、砂漠の中で水を求めてさまよい歩いている自分の姿が思い浮かんで、ようやく見つけた水を、どんな細菌がわいているのか分からないのに、そんなこと確かめもしないで飲んでいた。のどの渇きが収まって落ち着いてくると、ものすごく後悔する気持ちが吹き出してきて、それだったら、まだ柿のほうがましだと思ったんだよ」
 京野は微笑んだ。
「前にも話したけど、私、田菜部さんは悪い人じゃないと思う。戸野くんが転校してくる前は、正直なところ、いい子かどうか分からなかった。でも、戸野くんがここに来てから、田菜部さんの雰囲気が変わったんだよ。私が知ってる限り何があろうと同じスタンスだったのに。その原因は、間違いなく戸野くん。あなただよ」
 こんなのは驕りかもしれないけれど、田菜部は変な意味じゃなく、仲間みたいなものとして、俺のことを必要としているのかもしれない。だとしたら、俺が離れていったら、彼女はどうなるのだろうか。俺は彼女の昔のことは知らないが、京野の言葉から想像して、どんな奴に対しても悪態をついて心を開かず孤立している彼女の姿が思い浮かんだ。彼女自身が変わりたくないと思えば、俺が現れたくらいで周りの人から見ても分かるくらいの変化なんて現れないだろう。俺のような奴でも、彼女が変われる手助けになるんだったら、それは光栄なことじゃないのか? 例え、俺の判断が間違っていたとして死ぬことはない。
「わかった。俺もう少しがんばってみるよ。また何か折れそうなことあったら、手助けを頼むぞ。かたじけない」
 俺は頭を下げた。
「私、戸野くんのことを応援しているから。本当は、私が、田菜部さんに手を差し伸べたかったんだけれども、田菜部さんは私の手を掴んでくれなかったんだ。戸野くんに託すよ」
 京野は丁寧にお辞儀をした。
「戸野くんに良いことを教えてあげる。牛乳を飲むといいよ。田菜部さんの攻撃にはとても有効だと思うよ。不思議とね」
 俺がイライラしていることを感じていて、遠回しに言ってくれたのだろう。本当にイライラに効くかどうかは、試したことがないから分からないが、京野の気遣いに応えよう。
「ああ、わかった。ありがとな」
 京野はすっきりとした表情で優しく微笑んだ。

 放課後、早速、購買部の自動販売機で紙パック入りの牛乳を買い、ストローを差し込み一気に飲み干した。何となく牛になった気分で、ゆったりした気分になった。
 俺は両手のひらで両頬をパチンと一回叩き、美術室へと向かった。
 
 美術室へ入ると、設営物の運び出しが始まっていた。
「よかった、戸野君、来てくれたんだ。助かるよ。早速だけど、田菜部さんの作業を手伝ってくれるかな。昨日、遅くまで作業をしてくれたんだけどうまくいかなくってね。頼んだよ」
 三山木先輩はそう言って、すぐに違うグループの元へ駆け寄り何か指示を出していた。
 教室を見渡すと、田菜部が後ろの隅っこのほうで、昨日、俺が買ってきた材木を手に取り、一人で何やら作業をしていた。
 近づいてみると、角材を球の穴にはめようとして苦労していた。どうやら角を削りすぎて、すぐに球が角材から外れてしまうようである。何度もやり直したのか、角材はかなり短くなっていた。これ以上短くなったら、垂れ幕の幅よりも短くなって、せっかくの丸い飾りが台無しになってしまう。
「木材の先にビニールテープを巻けばいいんだよ」
 思わず口走ってしまった。田菜部は肩をビクリと震わせて、後ろを振り返った。とたんに目をつり上げ険しい表情に変わる。だが、いつもの悪態が今日は出てこなかった。俺は材木を取り上げ、削りすぎた部分にビニールテープを巻き付けた。そして、球の穴に通して具合を確認し、再びテープを少し足す。二三度繰り返すと、しっかりと固定できた。その作業をしている間、田菜部は俺の手元をじっと見ていた。
 加工が終わると、田菜部は俺を見ようともしないで、木材を掴み取り、慌てて教室を飛び出していった。あっけにとられていると、
「戸野君ありがとう。助かったよ」
 実は誰も手助けできないでとても困っていたんだよ、と、ほっとした表情で三山木先輩が言った。
 
 その後、三山木先輩に設営物の搬出を頼まれた。田菜部のことが気にはなったが、七夕音楽祭が始まるまであまり余裕がない。とりあえず、運動場へ設営物を運び出すことを優先した。
 運動場に出ると、すでに舞台の設営は終わっていて、吹奏楽部のリハーサルが始まっていた。舞台は、バックネットの前に作られており、垂れ幕はそのフェンスにかけるようである。横断幕の設営も終わっていて、田菜部は右側の垂れ幕の設営に取りかかるところだった。
(あの作業、田菜部一人でやるつもりか?)
 田菜部の周りには、役員はいない。他の役員はそれぞれの担当で手いっぱいの様子だった。慣れない作業のせいか、おぼつかない手つきで戸惑っているのが遠目でも分かる。
(あの垂れ幕を一人で設営するのは難しいだろう。手伝ってやらないとな)
 とりあえず、俺が任された搬出作業を終わらせないと手伝えない。俺は田菜部を横目に見ながら、物の運搬を急いだ。
 最後の物の運搬が終わり、ふとバックネットを見ると、こともあろうに田菜部は垂れ幕を片手に危なっかしくフェンスをよじ登っていた。今にもバランスを崩して落っこちそうな田菜部の元へ急いで向かう。その途中放置されていた脚立が目に入り、俺は小脇に抱えてバックネットの下へ急いだ。
「おまえ、何やってんだよ!」
 俺は、脚立を梯子のようにまっすぐに開き田菜部のすぐ横に立て掛ける。
 田菜部は、振り返り、目をつり上げて俺のことを睨んだ。
「あたしはあんたに、手助けを頼んだかしら? 余計なお世話よ」
 いつものように威勢よく悪態をつくつもりなのだろうが、アワワと声がうわずっている。フェンスを掴んでいる右手を軸に、顔だけじゃなく身体までもが翻った。
「危ない! とりあえず、いったん垂れ幕から手を離せ! そして、両手でしっかりとフェンスを掴むんだ!」
 田菜部は何やら悪態をついていたが、俺の耳には届かなかった。
「そうだ! 慌てないで梯子に掴まれ!」
 まだ何やら悪態を続けている。
「後から何でも聞いてやるから、今は手に神経を集中させろ!」
 彼女は観念したのか、おぼつかない手つきで、梯子になった脚立に掴まった。
「ゆっくりと降りてくるんだ!」
 今度は、素直に無言で降りてきた。
「俺が上に登るから、サポートして欲しい」
 彼女は気持ち悪いくらい素直に俺の指示に従った。

 無事に垂れ幕を設営し終えた頃には、他の準備作業はすべて終わっていて、参加者が集まり始めていた。舞台の左右に設営されている笹には、色とりどりの短冊がかけられていて、笹の緑にアクセントをつけている。参加者が舞台脇に駆け寄り、ケラケラと笑いながらさらにアクセントを加えている。この中には、まじめに祈りを込めている人もいるのだろうか。
 太陽が山の向こうに姿を隠し、西の空に一番星が輝き始めた。今夜は梅雨の合間では珍しく晴れ間が広がっている。もう梅雨明けが近いのかもしれない。北の山の端からは、真っ赤に染まった夏の雲が顔を覗かせていた。この天候だときっと、織り姫と彦星が再会を果たせるに違いない。空が紅から徐々に暗い藍色へと変わり始める。

 そして、司会の第一声。
 七夕音楽祭が開幕した。
 
 舞台前には、観客席は用意されておらず、参加者が思い思いに地べたに座って、演奏を聴いたり、空を見上げたり、友達同士、恋人同士が楽しそうに会話したり、みんなそれぞれに年に一度のこのひとときを楽しんでいた。そんな連中を後ろから眺め、警備することが俺の役目だ。田菜部は、舞台袖について、立て板に吊した演目が書かれた紙をめくる役をしている。
 音楽は人の感情に似ている。それ故に感情は、音楽に影響されるのだろう。それと同じような感じで、俺には他人の気持ちや感情が伝わってくるのである。田菜部の今の気持ちは、ここから遠く離れているので直接感じることはできないが、小さく見える姿から、近くにいるときは見えなかった彼女の本質がここからは見えるような気がした。
 田菜部の役割は演目がかかれた紙をめくること。にもかかわらず彼女は、笹の葉から外れた短冊をつけ直したり、ゴミを拾ったり、観客席の様子を見ては、スピーカーの音量を気遣い音響担当のメンバーに駆け寄ったり、具合が悪そうなメンバーに声をかけたり、普段の彼女からは想像ができないほど細やかにメンバーを気遣い、休むことなくあちこち駆け回っている。
 ここでも、普段、他人に対して悪態をついている彼女と、他人を思いやる彼女との違和感が妙に気になった。それは、俺が感じる彼女の気持ちと悪態をついている彼女の違和感と同じものである。
 吹奏楽部の演奏が終わり、続いて軽音楽部の演奏が始まった。
 演奏に聴き入る観客に対して、田菜部は先ほどと変わらぬ気遣いを周りに向けている。
 乗りのよいアップテンポの演奏から、目を閉じて聴き入るような、バラードの演奏に変わる。織り姫、彦星に願いをかけるような、七夕の夜にふさわしい曲が流れ、みんなそれぞれに、短冊に書いた願いを祈るように聴き入っている。空を見上げるもの、目を閉じて祈るような仕草を見せるもの。女性ボーカルのメンバーが観客に呼び掛けている。その呼び掛けに応じて、田菜部もまた、胸の前で手のひらを組み合わせ目を閉じていた。
 俺の願いは、すべての人の心が理解できるようになりたい。開会直前に笹の枝に結びつけた俺の短冊にはそう書いた。しかしその願いの『すべての人』の中では、とりわけ田菜部のことが気になっていた。空を見上げると、雲の合間に織り姫と彦星が明々と輝いている。俺は目を見開いたまま心の中で祈りを捧げた。
 と、そのとき、湿気を帯びた肌寒い大風が吹き、会場内が喧噪となった。
 設営した笹が倒れてしまいそうなくらい大きく揺れ、枝にくくりつけた短冊が枝から離れ空一面に舞い上がった。
 舞い上がった短冊が運動場のライトを浴びて、空がカラフルに染まる。
 やがて風が収まると、紙吹雪のようにひらひらと舞い降りてきた。
 役員のメンバーたちは、我に返り、地上に落ちてきた短冊の回収を始めた。
 田菜部はすでに回収を始めている。俺も周りに落ちてきた短冊を一つ一つ手に取り回収を始めた。
 相当の数の短冊が空へ舞い上がったのであろう。ひらひらと回転しながら降りてくる短冊は、拾っても拾っても次から次へと地上に舞い降りてくる。強い風はやんだものの、地上に舞い降りた短冊をそよ風が風下に追いやるため、回収作業はなかなか骨の折れる作業だった。
 周囲の短冊の回収を終えたメンバーは、再び笹の枝にくくりつけている。風に吹かれて学校の敷地外へ飛んでいったものを除いて、グランド内の短冊の回収はほぼ終わりに近づいた。俺の周辺の短冊ももう残っていないようだ。俺はもう一度周囲を確認すると、舞台脇に設営された笹のほうへ向かおうとした。
 ふと空を見上げると、一枚の短冊がまだ空を遊覧していて、くるくると回転しながらゆっくりと俺の前に降りてきた。
 そして拾おうとしたとき、『田菜部伸枝』の文字が目に入った。他人の願いを見るのは、悪いと思ったが、田菜部が何を考えているのか知りたくて、書かれている文字を目で追った。
『助け出してください』
 弱々しい薄い文字でそう書いてあった。
 以前、役員を決めるときに聞こえた言葉が不意に脳裏をかすめる。あのとき、まるで本当に聞こえたかのように伝わってきたのは、田菜部の心の叫びだったのだろうか?
 俺は短冊に書く願いとしては違和感のあるその願いが妙に引っかかった。これは願いとして書くことじゃない。人にお願いするときの言葉だ。彼女の性格的に、冗談を書くような奴じゃないというのはわかる。だから、何かから『助け出して欲しい』と願っていることは間違いないと思う。
「あんた何くずくずしているのかしら? みんなあんたが拾った短冊を待ってるのよ。あんたが持って行かなくちゃ、終わらないでしょ!」
 気が付くと目をつり上げて険しい表情をした田菜部が目の前にいた。
「あ、悪い悪い」
「早くしなさい。まったくのろまなんだから」
 田菜部が、俺の右手の短冊を見た。
 やばい、俺が彼女の短冊を見ていたのを気付かれたかも。
 俺は、なんでもなかったかのように左手に持っていた短冊の束に重ね合わせようとした。しかし、田菜部は俺の両手の短冊を奪い取った。
「まったく、辛気くさいわね。あたしが持って行く!」
 田菜部は俺も見ないで、くるっと身体の向きを変え、舞台のほうへ駆け出した。その瞬間、彼女から焦りと期待の気持ちが流れ込んできた。
 助け出して欲しい。
 彼女はずっと何かからの救出を待ち望んでいたのだろう。わずかな可能性をかけて、思いを短冊に託したのかも知れない。そして今、その思いを俺に賭けているように思えた。
 まじめに役を全うしようとがんばっている姿。出演者や観客への気配り。毒の言葉が聞こえなければ、彼女の本質が見えてくる。
 そのとき、はっと気が付いた。
 教室でのいざこざ――校則を守らない男子に注意しただけ。七夕音楽祭の準備での使いっぱしり――あのとき、俺が他の仕事を任されたとしたら、今までの経緯を知らない俺に対応できたのだろうか? 他の人がお使いに行ったとしたら、準備が滞ることになったに違いない。
 目の前の霧がぱっと消え去り、彼女の本当の思いが伝わってきた。
 俺は何を見てきたのだろう。
 俺にお使いを頼んだのは、彼女の気遣いだった。男子に食ってかかったのも気遣い。他の誰よりも他人のことを思い気遣っていたのは彼女なんだ。
 俺は気付いたら、一人で舞台脇の笹に短冊をくくりつけている彼女の元に駆け出していた。
 彼女の元に辿り着き、大きく肩で息をする。彼女の後ろ姿に顔を向け、声を掛けようとするものの、息が苦しくて声が出ない。早く何かを伝えないと。具体的伝えることが思い浮かばないが、何かを伝えたいという押さえきれない思いがふつふつとわいてくる。何かを伝えたい相手が目の前にいるのに伝えられないもどかしさ。
 田菜部が気付いて振り向いた。
「何、死にそうな顔をしてるのかしら。早く手伝って」
 いつもと同じ調子だったが、眉がかすかにこわばっているのが分かった。田菜部は、俺の前に何枚かの短冊を差し出し、
「あんたは、そっちの笹をお願い」
 と、隣の笹を指さした。その言葉は以前と同じように乱暴だった。しかし、攻撃的ではなく照れ隠しのように聞こえた。
「俺、おまえに伝えたいことがあるんだ」
 短冊をくくりつけながら、左隣の笹を見た。
「おまえって何よ! 失礼じゃない!」
 田菜部はぷーっとほっぺを膨らませ、口を尖らせた。
「あっ、ごめんごめん。俺の中では、田菜部は親しい友達だから」
 彼女は俺から自分の表情が見えないようにうつむいた。
「で、何よ」
「昨日は悪かった。ごめんな。俺は田菜部のこと誤解してた。俺は、今まで嫌がらせをされているんだと思ってたんだ。本当にごめん。悪かった」
 俺は頭を下げた。
「わかればいいのよ」
 彼女はそう言ったきり黙り込み、笹の枝に短冊をくくりつける作業に没頭していた。
 
 準備が整い、再び演奏が始まる。ボーカルの女子が、吹奏楽部の参加を呼び掛け、合同で『七夕祭り』の演奏が始まった。先ほどは突風のため中断してしまったので仕切り直しである。ボーカルの女子が一番をソロで歌いあげ、参加者にみんなで歌おうと呼び掛ける。それに呼応して、『七夕祭り』の大合唱が始まった。みんなそれぞれの思いを抱きながら、空を見上げていた。舞台脇に付いた田菜部も空を見上げて大きな口を開けていた。
 また突風が吹くと危険なので、笹を燃やすイベント中止となった。
 
            ◇    ◇    ◇
 
 七夕音楽祭の後片づけが終わり、美術室で三山木実行委員長からの解散宣言あった。
「帰ろうか」
 田菜部が弱々しく頷いた。疲れているのか彼女は無言のまま俺の後を付いてくる。
 駐輪場でいったん別れ、校門前で彼女を待つ。一時は晴れ上がった空は、また低い雲で覆われていて、星が見えなくなっている。湿気を含んだ空気は重く、夜が深くなるほどに気温は少しずつ下がってきているはずなのに、汗が滲みだし、蒸発しない汗が不快な気持ちにさせた。前方の麦畑の中からは梅雨の虫の鳴き声が聞こえていた。
 振り返ると、自転車を押しながら近づいてくる田菜部の姿が映った。
「じゃあ帰ろう」
 田菜部は頷き、スカートの裾をひるがえして自転車にまたがった。
 この高校は、当時、この周辺の高校だけでは収容しきれなくなった生徒のために、畑の真ん中に新設された公立高校らしい。新設されて、もう三十年以上も経つというのに、近隣の風景はほとんど変わってないらしく、敢えて変わったところといえば、市民プールがグレードアップされて体育館が増設されたのと、学校の南側の通りにコンビニが建ったくらいだということだ。畑や田圃は、住宅地に開拓されることもなく、創立当時のまま姿を変えていない。そのせいで、俺たちの通学路は農道のままだ。街灯が整備されておらず、日が沈むと真っ暗になってしまう。街では無灯火の自転車なんてざらだが、この通学路を通る限り、無灯火なんて命取りだ。用水路の転落して流されるやもしれない、危険な道なのである。
 俺は自転車のダイナモをタイヤに接触させ、ペダルをこぎ始めた。田菜部は、俺に合わせて後ろから付いてきた。校門の電灯でちらっと見えた顔は、不機嫌そうに口を尖らせていた。
 通学路は、右にカーブを描く。カーブを曲がりきったところの小さな橋を渡る。道の右側には小学校、左側には田園が広がっている。小学校の照明はもうすでに真っ暗になっていて、田圃からはカエルの大合唱が聞こえていた。
 田菜部は相変わらず、黙ったまま俺の後に続いている。まだ、昨日のことが気になっているのだろうか。
「昨日は本当に悪かったな。俺が飛び出したから、後は田菜部が全部準備したんだろ? 本当に悪かった」
 前を向いたまま田菜部に話しかける。
 彼女からは返事がない。
 祭りが終わった後は、どういうわけか感傷的になる。俺は構わず独り言のように話を続けた。
「俺は周りからどう思われているのか探りながら、波風立てないように生きてきたんだ。物心が付いてからずっとそういうふうに生きてきた。小さい頃に少し嫌な経験をしたから、他人に好かれることが唯一自分を護る方法だと思い込んでいたんだ」
 周りの奴らが俺を避けて遠ざかってしまったあと、辛く悲しい日々が続いたが、自我が芽生え始めた頃から、俺はその能力を利用して、人から好かれるようになろうと努力した。周りの人間も、まだ自我が確立されていない低学年だったことが幸いして、俺は何とか周りに受け入れられることに成功した。そうして、人に好かれることが、唯一自分を護る方法だと気が付いた。
「でも俺は、田菜部に出会ってから、俺の考えは間違っていたんじゃないかと思い始めてる。人の顔色を気にしながら人に合わすというのは、自分の気持ちを抑えるということだから、ため込んだ本当の気持ちの行き場がなくて、ものすごくつらいときがある。だけど、俺はそのつらさよりも、他人に嫌われるほうがずっと嫌だったんだ」
 自分だけが我慢すれば、すべてがうまくいく。誰にも迷惑は掛けない。自分だけが我慢すればいいことだから。
「だけど、田菜部は、周りの奴らがどう思おうと、そんなことお構いなしに、自分の意志を貫いているだろ。一人っきりになることを恐れていない。俺は、そんなおまえがうらやましいよ……」
 人気のない農道で、沢山のカエルが大合唱を繰り広げている。
「……あんたはあたしのようになっちゃ駄目」
 つぶやくような小声だったが、訴えるような強さがあった。俺は思わず後ろを振り返った。
「あたしみたいな人間は、クラスで一人――ううん、学校で一人いればいいのよ。それで均衡が保たれているんだから。あんたが、あたしみたいになったら均衡が崩れてしまうじゃない……」
 田菜部の自転車が急に速度を上げ、俺の横に並ぶ。そして俺のほうに顔を向けた。
「もっとも、あたしのようになろうたって、あんたのように情けない性格だった絶対に無理よ。そんなこと、あたしのように図太い性格になってから言いなさい」
 一瞬街灯の淡い光に、まだ一度も見たことがない田菜部の笑顔を見たような気がした。
「じゃあ、あたし先に行くから」
 田菜部の自転車は速度を上げた。少し先に進んでから、彼女は長い髪の毛を翻しながら振り返り、俺に告げた。
「今までありがとう。気をつけて帰るのよ」
 そうして、ものすごいスピードでその場を去っていった。
 俺はその場所にとり残されてしまった。


4

『今までありがとう』
 田菜部が別れ間際に言った言葉が気になった。
 まず、彼女の感謝の言葉に耳を疑った。彼女の口からそんな言葉が聞けるなんて考えてもてもみなかったことだ。彼女の口から吐き出されるのは、悪態以外は予想してなかったからだ。初めて、心と言動が一致している場面に出くわして、決して壊れそうにない硬く幾層にも為した強靱な殻にも、小さな穴が開いていて、その穴をこじ開けていけば、彼女の本質が現れてくるのではないか。そんな仄かな希望がわき上がってきた。
 しかし、その言葉の意味は、どう捉えればよいのだろう。『ありがとう』の頭に『いままで』というたった四文字が付け加えられただけなのに、『ありがとう』という言葉に深い意味を付け加えている。
『いままで』の言葉にうずめられた意味。俺の役員としての任務は、七夕音楽祭が終わるとともに解かれた。『今まで、作業を手伝ってくれて、ありがとう』ということなのだろうか? それなら、俺と彼女の関係の中で役員同士という関係が抜け落ちるだけだ。
 もう一つ考えられるのは、彼女との関わりのこと。『今まで、あたしに付き合ってくれて、ありがとう』
 俺は彼女のあの言葉の意味はこちらではないかと不安に陥っていた。彼女は、俺との関係も断ち切ろうとしているのだと読み取れるからだ。しかし、『助け出してください』と短冊に願いを込めた彼女のことを思うと、せっかく掴んだ彼女との関係を断ち切ることなんてできない。徹底的に嫌われているのなら、手の打ちようがないが、おそらくそうじゃないと思う。俺は腹を決めた。
 
「俺に、副委員長をさせてもらえないか?」
 月曜日、俺は教室へ着くなり、予習している田菜部の前に駆け寄り、頭を下げてそう告げた。田菜部は目を丸くして俺を見つめた後、不機嫌に目を細めた。
「おはようは?」
 いつもと変わらない、冷たい声が響く。
「あんたは、何回、あたしに注意されたらわかるのかしら? 罵迦な人に、副委員長は務まらないわよ。失格ね」
 田菜部は、冷たく言い放ち、机の上に広げた教科書に目を落とす。
「……ごめん」
 彼女の悪態にむっとしなかったわけではないが、彼女の言葉は、彼女の殻を通して聞こえる言葉に思えて、腹立たしい気持ちは一瞬で消えた。
「おはようございます。田菜部さん」
 彼女がまたもや目を見開いて顔を上げた。
「田菜部さん、おはようございます」
 彼女は何か言おうとしているのか、口がもごもごと動いていた。
「お、おはよう」
 かなり戸惑っているのだろう。そんな彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
「改めて言うぞ。俺に副委員長をさせてもらえないかな?」
 田菜部は、すぐに普通の調子に戻った。
「どういう理由か教えていただけるかしら?」
 田菜部の側にいて力になりたいなんてとても言ない。
「俺は七夕音楽祭の役員をさせてもらえて、とても充実感があった。だから、これからもみんなのために何かをやっていきたいと思ったんだ」
「でも人の顔色ばかり窺っている、あなたにできるのかしら? クラスの規律を守るためには、言いたくないことも毅然として言う必要があるわ。あなたに嫌われる覚悟ができているのかしら?」
 規律を守るのに、敢えて嫌われる必要はない。嫌われない方法なんていくらでもあると思ったが、敢えて口には出さなかった。俺の目的は、彼女を助けるために側にいることだから。他の人に嫌われても、田菜部に嫌われてしまったらおしまいだ。
「もちろんできてるぞ。自慢じゃないけど、俺は昔、嫌われ者だったんだ。そんなことには慣れている」
 田菜部の表情がほんの少し和らいだような気がした。そして、俺を哀れんでいるような気持ちが流れ込んできた。昨日も感じたが、田菜部はやはり根はいい人間なんだろう。
「本当にやりたいのかしら?」
「俺の意志は硬い。やらせてもらえないか?」
「副委員長になったからと言って、あたしは態度は変えないわよ。それでもやりたいの?」
「大丈夫だ。まだ一週間ほどの付き合いだけど、おまえは悪い奴じゃないことがわかった。むしろ偉いと思ってる。おまえを見ていて、俺も、クラスのためにがんばりたいと思ったんだ。駄目かな?」
 田菜部は考え込んでいる。期待と不安の気持ちが行ったり来たりしている。そして、かすかに頷く仕草を見せたかと思うと、
「いいわ」
 と、初めて俺の目を見てそう答えた。田菜部の黒い瞳の中に、俺の顔が写っていた。
「まず先生に話してみるわ。クラス全員の承認も必要よ。だから、まだ期待したら駄目よ」
「よろしく頼む」
 授業開始のチャイムが鳴った。
 
 短縮授業のショートホームルーム。
「というわけで、三分の二以上の賛成で、戸野君の副委員長の立候補を認めます。田菜部委員長の補佐をしっかりと頼みますね」
 宮津先生が笑顔で任命する。
「よろしくお願いします」
 俺は先生と田菜部の間に立ち、クラスのメンバーに深々と頭を下げた。
 
「おまえ、いったい何考えてんだよ!」
 田菜部が教室を出て行ったのを見計らって、高渡が振り向いた。
「おまえはまだ懲りないのかよ!」
 高渡はかなりイライラしているようだ。
「俺は、先週ずっと田菜部を見てきたけど、高渡が言うような悪い奴とはどうしても思えないんだよ。きっと田菜部は誤解されやすい奴なんだと思う」
 高渡は奥歯をかみしめクッと息を漏らした。相変わらず俺の考えには反対のようだ。でも仕方がない。人の嗜好に違いがあるように、感じることも同じとは限らないものだから。意見の食い違いはあるもので、簡単に受け入れられないこともあるものだ。
「自分の決めたことは、どんな結果になろうと、誰も恨んだりはしねえ。高渡に迷惑とか掛けねえから、俺のやりたいようにさせてくれないか?」
 高渡はふんっと鼻を鳴らし、教室を出て行った。高渡には悪いが、今は田菜部のほうが大事だ。別に高渡が大事じゃないというわけではないが、物事にはチャンスというものがあって、それを逃すと二度と巡ってこない場合だってあるものだ。今がそういう時なんだ。わかって欲しい。
 
 職員室へ行って、宮津先生にお伺いをたてる。
「さっき、田菜部さんには言ったんだけどね、明日、『夏休みのしおり』の原稿ができあがるのね。それをクラスの人数分、輪転機で印刷して、綴じて欲しいの」
「わかりました。じゃあ明日の放課後ですね」
「悪いけどお願いね」
 先生はそう言うと、ノートパソコンに向かった。どうやら、そのしおりの原稿を作っているようである。
「ところで、田菜部はもう帰ったんですか?」
 先生は俺のほうを見た。
「教室へいったん戻って帰るって言ってたわよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 そう言って教室へ戻ろうとしたところ、先生がまじまじと俺の顔を見ているのに気が付いた。
「なんですか?」
 先生は微笑んだ。
「戸野君は偉いわね」
「何がですか?」
「田菜部さんが本当は良い子だってこと、ちゃんとわかっているんだね。私のような大人の女性だったらね、彼女の気持ちが何となくわかるんだけれど、同学年だったらたぶん理解できないと思うよ。女性だったら可能性があるかもしれない。でも若い男性の君が気付くだなんて、不可能に近いわ。戸野君はたいしたものだ」
 先生は上機嫌で、カフェオレをすする。
「もうわかってると思うけれど、あの子は気持ちを表現するのが、人並み外れて下手なのね。たぶん、ご家庭の事情があるように思うんだけれど、プライバシーに関わることだからちょっと話せないけど。
 あんな感じだから、今まで彼女のことを理解しようとするクラスメートもいなかったのよ。だから、田菜部さんのことは戸野君に頼んだわよ」
 そう言って、先生はにこりと微笑んだ。この先生、見掛けは俺たち高校生と同じように幼く見えるのに、本人からは俺たちのことが小さい子どものように見えているようだ。なぜかこの先生と接していると、忘れていた子供心がよみがえってきて素直になってしまう。田菜部もきっとそういう先生の包み込むような雰囲気に触れて、素直な自分をさらけ出しているのだろう。俺は、なんだか恥ずかしくなって、その場を去った。
 教室に戻ると、机の上にメモ書きがあった。
『明日は、夏休みのしおり作りのお仕事があります。お手伝い頼んだよ』
 田菜部からの伝言だ。
 楷書の教本に載っているような整ったきれいな文字だった。
 今までずっとかみ合わなかった歯車の一つが、ようやくかみ合ったような嬉しがこみ上げてきた。まだほんの始まりに過ぎないが、俺には大きな前進のように感じられた。

            ◇    ◇    ◇

「おはよう、田菜部」
 田菜部は真剣な顔でメモ書きのようなものを見ていたが、俺が声を掛けると、紙を机の中にしまい込んで、驚いたように俺の顔を見た。
「また勉強か? 偉いなあ」
 田菜部は口を尖らせた。
「あんたはあたしを罵迦にしているの?」
「そういう意味で言ったんじゃない。誉めてるんだよ。人に誉められたら、素直に喜ぶもんだぞ。そうしてれば、みんなが幸せになれる」
 彼女は首を傾げた。それに合わせて、肩まである艶やかな黒髪が反対側に揺れる。
「わけが分からないわ。それより、あんた何か変。気でも違ったんじゃないかしら?」
 田菜部の悪態なんかなんでもない。気に掛けてくれると思えば、ありがたいくらいだ。
「俺は生まれ変わったんだよ。昨日までの俺は死んだと思ってくれ。放課後の仕事、がんばるぞ」
 彼女はあきれた顔をしている。
「あまり張り切らないで。そんなに浮ついた気分でいたら必ず失敗するわ。失敗したら許さないわよ!」
 なんだ、田菜部とはこう接すればいいのか。今までザクザクと突き刺さっていたナイフがことごとく外れているような感じだ。痛くも何ともない。むしろ楽しいくらいだ。
「わかったわかった、気をつけるよ」
 田菜部は、俺のことを恨めしそうに睨むと、ぷいっと前を向いてしまった。
 
「戸野くん、どうしちゃったのかな?」
 四時間目の授業が終わり、教科書を片づけていると、京野が目を輝かせながら振り向いた。
「なんのことだ。俺はどうもしてねえぞ」
「田菜部さんのこと」
 なるほど、今朝のことか。
「そのことについては、今朝、田菜部に言ったとおりだ。俺は生まれ変わったんだよ」
 京野は「何、それ!」と、ぷっと吹き出した。
「そんなにおかしいか?」
「ううん、そうじゃなくて、誰も崩せなかった砦をよく崩せたなって思って。戸野くんにしかできないと思っていたけど、それはあくまで可能性の話。やっぱり戸野くんはすごいね」
 高渡は急に席を立ち、俺たちを一瞥すると、教室を出て行った。京野は、あれっという表情をして、出て行く高渡を目で追っていた。
「高渡くんどうしたんだろう?」
 たぶん昨日のことでまだ怒っているのだろう。
「昨日、あいつと田菜部のことで意見が合わなくて喧嘩という程のものじゃないけど、気まずい雰囲気になったんだ」
「高渡くん、田菜部さんのこと、良く思ってないから」
 俺は以前高渡が言っていたことを思い出した。
「あいつ、ひどい目にあったって言ってたな。京野は何か知らないのか?」
 京野は、首を横に振った。
「高渡くん、ああ言う雰囲気だから何でも話してくれそうなんだけど、そうじゃないみたいなんだよ」
 まあ、誰でも人に話したくないことはあるし、逆にそういうことをぺらぺら話す奴なんていないよな。
「私が知っている範囲で言うとね、少なくとも、新学期が始まった頃は、そうじゃなかったよ。むしろ、戸野くんと同じような考えだったと思う。田菜部さんはきっと悪い奴じゃないって言ってたことがあるの。でも、ゴールデンウィークを過ぎた辺りから、様子が変わったかな。田菜部さんのことを話さなくなった。そしてね、戸野くんが転校してきた頃から、田菜部さんのことを悪く言うようになったんだよ」
「やっぱり何かあったんだな」
 京野は頷いた。
「本人は何も言わないけど、高渡くんの様子からそうだと思う。どんなことがあったのかはわからないけれど……」
「ありがとう。何となくわかった。それだけで十分だ。まあ、これ以上、高渡のことを詮索するのはよそう。俺も変に詮索されるのは好きじゃねえし」
「そうだね」
 京野も同調した。
「元々悪い人間なんていねえしな。田菜部だって、本当は良い奴だと思うし、高渡だって良い奴だ」
 そう言って京野を見ると、何やら神妙な顔をしている。何かを言おうとして戸惑っているようだ。
「どうした?」
 京野は、顔を心持ち伏せながら、上目遣いで、ちらちらと俺の顔を見ている。何やら心配している気持ちが伝わってくる。
「何か言いたいことがあるのか? 気にせずなんでも話してくれていいぞ」
 京野はぐっと頷いた。
「さっき、戸野くんは、元々悪い人間なんていないと言ったけど、元々悪い人間っているんだよ」
 京野は何を言い出すんだろ? 高渡や田菜部のことを言ってるんだろうか?
「どういうことだ」
「高渡くんとか田菜部さんのことを言ってるんじゃないんだけど、戸野くんって、すごくまっすぐで、人を疑うのは良くないって思っているでしょ?」
 京野はやんわりしているようで、時々、人の心を見透かしたようなことを言う。
「確かに俺は、そうかもしれねえな。俺は性善説を信じている。人は元々善良で、育った環境や付き合う人によって影響を受けて善悪が変わると思ってる」
「それも一つの考えかただけど、私は違うと思ってるの」
 京野のバイト先の尊敬する先輩が話してくれたことらしい。
「性格のことを考えてみるね。育った環境とか関わった人で性格付けされるという考えかたもあるけど、たとえば同姓の双子の姉妹か兄弟がいたとするね。その二人がまったく同じ性格になると思う?」
 今まで出会った双子のことを思い起こしてみる。
「姿は似ていてもまったく性格が同じ奴に出会ったことはねえな。だけどそれは、たとえば友達とかが違って、その影響で変わってきたんじゃねえのか?」
「『三つ子の魂百まで』ということ聞いたことある? 小さいときの性格は歳を取っても変わらないということなんだけど、三つ子と言うくらいだから三歳のときの性格を言っているんだよ。そんな低年齢のときに、双子の姉妹や兄弟で明らかに違う環境で育つことってあると思う?」
「特殊なケースってもんはあるかもしれねえけど、普通はそんなこともなさそうだな」
 京野は、そうだというように頷いた。
「だからね、人は元々生まれながらに性格が違うんだよ」
 なるほど、そうかもしれねえ。
「単純に悪いと感じることも、それを行為にするのも性格に因るものだから、やっぱり生まれながらに違うんだよ」
「京野の言いたいことはわかったよ」
 京野はまた頷いた。
「だからね、良い人ばかりだと思わないで。思いが強ければきっと伝わる。それは美しいことだけど、それが通じない人もいる。戸野くんには間違って欲しくないから、これは私からのアドバイス」
 つまり京野は、人間というものは綺麗事だけで済むような、そんな単純なものではないと言いたいのだろう。俺のことを考えて、親切心で言ってくれているのだと思う。
「理解してねえかもしれないけれど、気をつけるよ。ありがとな」
 京野は雛菊のような笑顔を見せた。

 ショートホームルームが終わると俺は早速、田菜部に声を掛けた。
「田菜部、授業が終わったぞ。さあ行こう!」
「ちょっと待ちなさい」
 彼女は不機嫌そうに、眉間にしわを寄せた。
「どこへ行けばいいんだ? 職員室か?」
 片づけする手を止め、口を尖らせながら俺を睨む。
「あんた、落ち着きがないわね。片づけが終わるまで、ちょっと待ちなさい」
 そう言ってぷいっと向き返った。今まで、こんなちょっとした仕草にも、いちいち気分を害していたが、今はもう気にならない。こういった態度でさえ、なぜか親しみを感じるようになった。
「さあ、行くわよ。付いてきなさい」
 田菜部が鞄を持ち、立ち上がる。そして俺を見ると、首を傾げた。
「あんた、帰りの用意は?」
「鞄ぐらい用事が終わったら改めて取りにくりゃ良いだろ?」
 彼女はまた口を尖らせた。
「今、準備をして持って行けば、お手伝いが終わってから教室に戻らなくてもすぐに帰れるのよ。時間がもったいないと思わないの? それに、誰かに盗まれたらどうするの? 誰も責任とってくれないのよ。あんたには、物事を効率的にこなそうっていう気も、危機感もないのかしら? ぼんやりしてたら、足下すくわれるわよ」
 俺は盗られて困るようなものなんて持ってねえし、終わってから教室へ鞄を取りに来ることなんてぜんぜん苦にならねえ。しかし、こんなしょうもないことで雰囲気を悪くしたくねえし。
 俺は、はいはいと答えて、急いで帰りの準備をした。
 
「じゃあこの原稿を輪転にかけてくれるかな」
 宮津先生がプリンターで打ち出した原稿を田菜部に手渡した。
「田菜部さんは、輪転機の使いかたはわかるよね?」
「はい、わかります。先生」
 田菜部は、先生の前では、憎まれ口も聞かずに意外と素直だ。田菜部が悪態をつくのは同年代だけなのかもしれない。
「じゃあ、戸野君は、田菜部さんが刷ってくれたプリントを机に並べてくれるかな?」
 印刷室の中央には、二つずつ向かい合わせた立ちトレニアが四つ並べてある。それを作業机として使っているようだ。
「はい、わかりました」
 田菜部は、原稿一枚一枚をクラスの人数分、輪転機で印刷する。俺は刷り上がったプリントをページ順に作業机に並べる。宮津先生は人数分のステープラーと針の準備をして、テーブルの端に置いた。
 その間に田菜部はてきぱきと作業を進めている。刷り上がったプリントを受け取り、テーブルに並べ終わって、輪転機のところへ行くと、すでに次のプリントが刷り上がっているという案配で、あっと言う間に印刷が終わってしまった。
「田菜部、その手際良さはプロ並みだぞ。すごいな」
 俺がそう言うと、
「これくらいできないと、学級委員は務まらないわ」
 と、ぶっきらぼうに答えた。
「田菜部さん、本当にすごいでしょ。学生にしておくのはもったいないくらい。この学校の事務のバイトをしてもらいたいくらいだわ」
 宮津先生は、目を細めて誇らしげに言った。
「学校でバイトなんか聞いたことがありません。あたし、バイトじゃなくてもちゃんと手伝いますから」
 田菜部は冗談が通じないのか、必死でバイトのことを否定した。
 七夕音楽祭のとき、田菜部の行動を遠目に見ていたけど、何でもできて細かいことに気が付くすごい奴だと思った。今日もその気遣いが感じられる。刷り上がったプリントを俺に渡すとき、俺が最小限のアクションで受け取れるように吟味してくれているようだ。これで、本当に、口さえ悪くなければ、完璧な奴なのに。本当に残念だ。
「あんた、何ぐずぐずしているの? 早く綴じ作業を手伝いなさいよ。まったくのろまなんだから」
 見ると田菜部も宮津先生ももうすでに綴じ作業を始めている。
「あっ、ごめんごめん」
 俺は慌てて綴じ作業の輪に加わった。しかし、彼女たちのプリントを重ねる手際は想像を遥かに超えて素早く、俺はすぐに追いつかれた。田菜部の提案で俺は重ねたプリントを綴じるだけの担当に回った。そのおかげで、作業はスムーズに進み、びっくりするくらいの速さで準備を終えることができた。
「ね、田菜部さん、すごいでしょ? 私は彼女の担任をしていて誇らしいわ」
「いやはや、本当にすごいですね。俺も彼女のクラスメートで誇らしいです」
 宮津先生と俺は一緒に田菜部の顔をのぞき込んだ。田菜部は、恥ずかしそうに口を尖らせた。

            ◇    ◇    ◇

 田菜部との距離が徐々に近くなってきたことは実感するものの、まだその距離は遠く自分が彼女のために何ができるのか見当が付かなかった。彼女との会話は、事務的な域から越えることはなく、彼女自身のことはほとんど分からない状態だ。彼女が自分のことを語り出すには、まだ時間も浅く距離も遠かった。時間をかければ距離も近づくに違いなかったが、その仮定を達成するには、ただ側にいればよいということではない。どちらかが距離を縮めようとしなければ、いつまでたっても平行線から抜け出せない。それを田菜部に期待しても無理であろうことは、彼女の普段の態度から容易に察することができる。ここは俺が距離を縮める努力をするしかないだろう。
 翌朝、教室に入ると、彼女はすでに席に着き、一時限目の教科書を開いて黙々と学習していた。
 俺は彼女の側に近寄った。
「おはよう、昨日はお疲れさまでした」
 彼女はビクっと肩を震わせ、驚いた様子で俺のほうを見た。そうして、すぐになーんだとつぶやいて、いつもの不機嫌そうな表情に戻った。
「あまり役に立たなかったけれど、あんたはあんたなりにがんばったと思うわ。今回は大目に見るけど、次回はちゃんとやりなさいよ」
 田菜部はそう言いながら、ちらちらと机の上を気にしている。ふと机の上を見ると、赤と紫のチェックの便せんが広げられていて、真ん中辺りに文字が印刷されていた。気になってのぞき込む。田菜部は、俺が見ていることに気付くと、素早く便せんを折りたたみ机の中に隠した。彼女からは、不安な気持ちが流れ込んできた。
「何か心配事でもあるのか?」
「あんたなんかに心配されたくないわよ。なんでもないわ」
 彼女は、机の上に手を取り出し立ち上がった。
 そのとき、机の中から便せんが花びらのようにひらひらと舞い落ちた。二人は床に落ちる便せんを見つめる。立ち尽くす田菜部。その表情は焦りであふれていた。床に落ちた便せんに印刷された文字が目に入る。
『誰とも親しくなるな。さもないと、おまえにも、おまえと関わった人間にも不幸が訪れるだろう』
 田菜部の顔を見る。表情がひきつっている。田菜部は便せんを鷲掴みにしてくしゃくしゃにした。
「これってどういうことだ」
 田菜部は何か言いたげに唇を震わせていたが、目を逸らし無言のまま、自分の席に着席した。田菜部に詰め寄ろうとしたちょうどそのとき、
「戸野、おまえ、突っ立って何してるんだ? そろそろ授業が始まるぞ」
 教室へ入ってきた高渡が声をかけてきた。
「おお、おはよう」
 月曜の意見の食い違い以来、俺を無視し続けていた高渡が、昨日とまでは百八十度態度が違う。腑に落ちないと言った感じで高渡を見ていると、
「戸野、オレが悪かった。今日の放課後は暇か? お詫びにコーヒーでもおごらせてくれ」
「いったい、なんのことだ?」
「月曜日のことだよ。つまんないことで熱くなってしまった。悪かったな」
 田菜部のことで言い合いになった件だな。あのときはわがままで手に負えない奴だと思ったが、案外物分かりの良い奴だったのかもしれない。根に持つタイプじゃなさそうなので安心した。しかし、念のため、気持ちを感じ取ってみる。確かに詫びるような気持ちでいるようだ。しかし、少しぼやけているのが気になった。
 今までの経験から、気持ちがぼやけているときは、本当の気持ちを押し殺しているケースが多かった。気持ちが表情に表れないようにするために、嘘の気持ちを作っているときだ。しかし、高渡は裏表がない人間のようだし、俺の勘違いかもしれない。田菜部の件で、俺の気持ちを感じる能力も限界があるのではないかとも感じていたからだ。高渡に関しては、警戒することはないだろう。
「いいよいいよ、俺も感情的になって、悪かった」
 俺の返答を待っているときの高渡は、緊張の面もちを見せていたが、俺の答えを聞いて表情を緩めた。
「で、放課後は何か用事があるのか?」
「とりあえず、今日は予定はないが……」
 ちらっと田菜部に視線を向ける。田菜部は無視し続けている。まあ、何か仕事があれば言ってくるだろう。
「……今日は今のところ大丈夫だ」
「じゃあ、放課後一緒に帰ろう」
 高渡はいつもの笑顔を見せた。
 
            ◇    ◇    ◇
 
 いったい誰が田菜部にあんなメモを寄越したのだろう?
 ああいう性格の奴だから、少なからず彼女に対して恨みを持っている奴はいるはずだ。案外日常的に起きていることなのかもしれない。だからといって、許されることではない。
「田菜部、今朝の便せんのことなんだけどさ、差出人の心当たりはないか?」
 休み時間、隣の田菜部に問いかける。
「あんたには関係がないことでしょ」
 彼女は口を尖らせている。
「大いに関係ありだ。俺はこのクラスの副委員長だ。副は正をサポートする義務がある。田菜部が職務を全うできるように俺は問題は排除しなきゃならないんだ」
 田菜部は、あきれた表情で大きく溜め息をついた。
「わかったわよ」
 俺は彼女の顔をのぞき込み、言葉を待った。
「具体的な差出人の心当たりはないわ。だけど、たぶん、この学校の生徒全員が差出人になる可能性があると思う。だって……あたしは……みんなに嫌われているから」
 なんだ、田菜部はちゃんと自覚してるじゃねえか。俺は、てっきり意識していないのかと思ってた。
「俺は、田菜部のこと嫌ってなんかないぞ」
「あんたは、こそこそ嫌がらせするような卑怯な奴だと思ってないわ。犬にそんなことできるわけないでしょ?」
 俺を犬呼ばわりかよ。少しムカッとしたが、こんなことでいちいち腹を立てていたら前進しない。逆に嫌われていないことが分かるだけいいじゃねぇか。俺は田菜部の言葉を聞き流した。
 彼女はこの学校のすべての生徒が怪しいと言った。でもあのようなメモを書いて寄越す奴は、相当恨みを持っている奴に限られるんじゃないだろうか? 俺がこの学校に転校してきて以来のことを思い起こしてみる。登校二日目の始業前に田菜部ともめていたあいつじゃないだろうか? 俺は周りに聞こえないように小声で田菜部に伝えた。
「誰だっていいの。あたしは、どんな嫌がらせだって平気だわ。どうせ誰もあたしを殺すことなんてできないんだから」
 もっと小さな声で話せよ。こいつは何を考えてるんだ!
「そんな挑発的なこと言うもんじゃねえだろ。自分で災いを招いてるもんだろうが」
「だってイライラするんだもの。この学校って、まともな人はいないの? 校則を平気で破る。破っても、悪いとも思っていない。学校でみんなが平等に気持ちよく学べるように校則があるのよ。そんなことを理解しようともしないで、自分たちの勝手な考えで守ろうとしない。なぜ他の人のことを考えようとはしないの? あたしたちは高校生で子どもじゃないのよ。いつまでも子どもみたいな考えじゃ情けないわ。他人に迷惑をかける。一生懸命学ぼうともしない。将来のことも考えないでヘラヘラしてる。みんな罵迦じゃない。この学校には罵迦しかいないの? だからあたしはイライラするのよ!」
 なんてことを言うんだ。これじゃますます敵を作るばかりじゃねえか。
「ちょっと、落ち着け」
 俺は立ち上がった彼女の肩を押し下げ席に座らせる。
「落ち着いてなんていられないわ」
 机を拳でドンと叩き、不服そうに口を尖らせた。俺は、まあまあと田菜部をなだめようとすると、ぷいっと横を向いてしまった。
「頭を冷やせ。田菜部のそんなところがいけねえんだ。自制したほうがいい」
 彼女はいったん俺を見上げて睨むと、またぷいっと横を向いてしまった。
 
            ◇    ◇    ◇
 
 ふーっと大きな溜め息をつく。
「おまえ、どうしたんだよ。せっかく誘ってやったのに、溜め息ばかりついているじゃねえか」
 高渡がハンバーガーをぱくつきながら、つまらないようなものを見る目で俺を見ている。
「田菜部のことなんだけどね……」
「恋わずらいか?」
「罵迦やろう、そんなんじゃねえ!」
「冗談だよ、おまえがそんな嗜好があるなんて思ってねえよ」
 高渡はヘラヘラと笑った。
「で、どうしたんだ?」
「休み時間のあの田菜部の態度、どう思う?」
「この学校には罵迦しかいない。だからイライラする、って奴か?」
「そうだ」
「あいつの本性がとうとう現れたってわけだ。戸野、よくやったぞ!」
 なんか話がぜんぜんかみ合わねえ。
「そうじゃなくって、田菜部は悪い奴じゃないんだよ。だけど、あんな態度をとるだろ。それが、誤解を生んでいるんだと思うんだよ。何とかならねえものかな」
 高渡も溜め息をついた。
「もうおまえのことをとやかく言うつもりはないけど、性格はちょっとやそっとの努力で直らないぜ。おまえが言うように、あいつが仮にいい奴だとしよう。だが、人が見るのは表面上のあいつだ。根が良くても内面は外からは見えねえ。他人にとっちゃ見えねえことはないも同然だ。あいつは、性格を変える努力なんてしているように見えねえし、助けを求めていない奴に敢えて手を差し伸べるのも変だろ。あいつは、今のままでいいんじゃねえのか?」
 先ほどのヘラヘラした態度とは一変して、真剣な表情をしている。少し違和感を抱いたが、月曜日の一件以来、高渡の中で何か変化があったのかもしれない。
「俺は、田菜部を変えてやりたいんだよ。まじめにやっている奴が損をするってことが許せないんだ。田菜部は口は悪いが、間違えなくまじめで正義感が強い人間だ。口さえ悪くなきゃ、誰もが認める学校一の学級委員長になると思うんだ。俺は、そんな田菜部になって欲しいんだよ」
 高渡は、そうか、と微妙な表情をした。
「おまえの考えは、オレは納得しないまでも何となくわかった。オレなりに手を貸そう」
 どういう風の吹き回しだろう。高渡は俺に協力してくれるというのか? 今まで田菜部に関しては、批判的なことしか言わなかった高渡が急に態度を翻したことにはまた違和感を抱いたが、何か考えるところがあったのかもしれない。そう思うことにした。
 田菜部の話はこれでおしまい。その後、他愛ない雑談をしてから高渡と別れた。

            ◇    ◇    ◇

 次の日。田菜部は学校を休んだ。
 体調を崩したからだと、先生から説明があったが、昨日のあの一件で学校に来づらくなってしまったのではないだろうか。
 ふとそんなことを考えたが、田菜部は、そんなことぐらいで学校に来られなくなるような柔な奴じゃないということも何となくわかっていた。
 だとしたら、本当に調子が悪いのかもしれない。
 四時間目のロングホームルームで、田菜部と俺が手伝って完成させた、『夏休みのしおり』がクラス全員に配布され、宮津先生から内容の説明があった。
 終了後、宮津先生に呼ばれた。
「これ、帰りに、田菜部さんに届けてくれないかしら?」
 と、学校名が印刷された封筒を俺に差し出した。
「いいですけど、明日、田菜部に渡せばいいんじゃないですか?」
 先生は困ったような表情をした。
「そうなんだけどね、明日も田菜部さん、お休みかもしれないし」
 宮津先生は、小声で、これはみんなに言わないんで欲しいんだけど、と言いながら、
「田菜部さんのお母さんね、ちょっと難しい人でね、配ったプリントはその日に渡さないと、いろいろと言ってくるのよ。そのほかにも小さなことをほじくり返して、苦情を言ってくるから困っているのよ」
 先生は他の生徒から見えないように顔をしかめている。
「だったらなおさら、先生が届けたらどうですか? 俺が行って苦情を言われても困りますし」
 先生の顔が青ざめる。
「先生、あのお母様、ちょっと苦手なのよ。戸野君、お願い」
 先生は片目をつぶって、顔の前で手を合わせた。
「俺なんかが行っても大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫よ!」
 と、嬉しそうに俺の肩を叩いた。先生の肩にのっかっていた荷物が俺の肩に場所を変えただけである。
「しょうがないですね」
「ありがとう、さすが戸野君ね」
 先生はまだ俺の肩をぽんぽんと叩いている。
「なにが、さすが、なのかわかりませんが、何かあったら助けてくださいよ」
 俺は『夏休みのしおり』が入った封筒を受け取り自分の席に戻った。

「どうしたんだ。先生に何か頼まれていたみたいだけど」
 席へ着くと高渡が話しかけてきた。
「今日のロングホームルームで配られた、『夏休みのしおり』を、田菜部の家へ届けるようお願いされた」
「それを持って行くのか?」
 高渡は机に置いた封筒を指さした。
「そう。これ。高渡も一緒に持って行くか?」
「オレはパス。オレは、あいつんちの母親、苦手なんだよ。おまえに任せた」
 と、俺の肩を軽く叩いた。
 高渡も田菜部の母親が苦手なのかよ。なんだか急に心配になってきた。
「戸野君、ちょっと」
「戸野、先生が呼んでるぞ」
 高渡が後ろのほうを見て言った。高渡の視線を追う。先生は、教室の出口から顔を覗かせ、俺に手招きしていた。
「ちょっと行ってくる」
「おお。大変だな」
 俺は封筒を自分の机の上に置いて教室からから廊下に出た。
 
 廊下に出て見ると、今度は渡り廊下の角から顔を覗かせ、手招きしている。
「先生、俺をからかってるんですか? ふざけているんだったら、俺、もう帰りますよ」
 先生は顔を真っ赤にして手に一生懸命力を込めてグイグイと手招きしている。声は出していないものの口元が、早く来なさい、と動いているのが分かった。俺はしょうがなしに、先生のほうへ駆け寄った。
 渡り廊下は意外と人がいなかった。俺はさらに手招きされ、渡り廊下の中間辺りで、校庭を見る形で先生と肩を並べた。
「先生、戸野君にお願いしちゃったけど、ちょっと心配になっちゃった」
 と舌を出した。
「さっきは、大丈夫、大丈夫って言ってたじゃないですか?」
「それはね、自分に言い聞かせていたの。戸野君なら大丈夫、大丈夫って。暗示のようなものね」
「なんですかそれ! 俺は生贄ですか! 俺、やっぱり田菜部んちに寄るの、やめます」
 俺は危険を感じた。相当難しい母親なのかもしれない。
「ちょっとややこしいことになるかもしれないけど、先生は、戸野くんに行って欲しいの」
 ややこしいことに巻き込まれるのは嫌だ。俺はそこまでお人好しじゃないし、嫌なことを言われて平気いられるほどの精神力を持ち合わせてもいない。
「俺はややこしくなるところへなんか行きたくありません。どうしても、先生が行きたくないんなら、他を当たってください」
 俺はそう吐き捨てると、きびすを返した。
「田菜部さんのために行って欲しいのよ!」
 俺は振り返る。先生は真剣な表情で俺を見つめている。
「どういうことですか?」
 俺は戻って先生の顔を見た。
「田菜部さんね、きっと戸野くんを待ってるから」
 田菜部が俺を待ってるだって? 先生は何を勘違いしてるんだ。そんなわけないだろ。
「俺と田菜部は、学級委員長と副委員長の関係ですよ。それだけの関係なのに、俺を待ってるはずがないじゃないですか」
 先生は、少し表情を崩した。
「戸野君も、もう気付いていると思うんだけれども、田菜部さん、いつもああいう態度だから、友達がいないのよ」
 それはよくわかる。
「俺はあの悪態さえ直せば友達ができると思いますよ。根はいい奴なんだから」
 先生はゆっくりと頷いた。
「やっぱり、戸野君は分かっているんじゃない。でもね、友達ができない理由は、他にもあるのよ」
 悪態の他に何か理由があるというのか?
「これはご家庭の方針なので先生は何もできないんだけど、田菜部さんのお宅はとても厳しいのよ。学校以外の一人外出は禁止。門限もあって、それが夕方の五時なんだよ。それじゃ友達を作る時間なんてないよね。根が良い子だけに、田菜部さんが可哀想で可哀想で」
 なるほどそうだったのか。七夕音楽祭のときも、俺にあきれて帰ってたわけじゃなくて、門限があったからなのか。一言、言ってくれりゃいいのに、あいつは本当に不器用な奴だな。田菜部にとっちゃ俺が唯一の友達のようなものってわけか。
「わかりました。俺、行きますよ」
 先生は拍子が抜けたような表情をしている。『意外』というような気持ちが流れ込んでくる。
「本当に行くの?」
「俺自身が自分の意志で行くと言っているんですよ。先生は俺に行って欲しいんですよね?」
「本当に?」
 くどい先生だ。俺を行かせたいのか行かせたくないのかわからねえ。
「俺、行くのやめますよ」
「是非行ってください」
 先生は満面に笑みを浮かべて俺の頭を撫で撫でした。
「戸野君も良い子だね。先生は、良い生徒に恵まれているわ」
 何か満足そうに窓の外の空を見上げている。
「じゃあ、俺、行ってきます」
「何かあったらすぐに連絡するのよ」
 ニコニコと手を振る先生を背にして、俺は田菜部に届ける封筒を取りに教室へ戻った。
 
 梅雨が明けた空の遠い山向こうには夏のくっきりとした雲がわき上がっている。じりじりと強い日差しが汗を滲ませる。
 最近の梅雨は知らない間に明けてしまう。
 田圃の真ん中を突っ切る通学路。
 自転車を走らせると顔に当たる風が心地よい。
 田圃道が終わると住宅街の西通りと交差する。その交差点を左に曲がり三本目の通り――『三番通り』を右に曲がるとすぐ左側に、田菜部の家があった。通りに沿って横に長い、少し小ぢんまりとしたアパートを連想させるような家だった。玄関から延びる通路が、縦列駐車を思わせるような駐車場を抱き抱えるように延びている。見上げると、二階の手前にはベランダがあり二つの部屋が左右に並んでいた。どちらかの部屋が田菜部の部屋なのだろうか。
 駐車場脇の門に備え付けてあるインターホンのボタンを押すと、少し遅れて返事が返ってきた。
『どちら様かしら?』
田菜部より少し甲高いような声質だった。おそらく問題の母親だろう。
「田菜部さんのクラスメートの戸野と言います。先生に頼まれて、プリントをお持ちしました」
 俺がそう言うと、インターホンがガチャッと切れて、玄関扉のレバーが動いた。
 扉が開き、中から現れたのは、ベージュ色のワンピースを着た婦人だった。愛想のない表情を浮かべて門のほうへ近づいてくる。やはり、この婦人と田菜部は親子に違いない。不機嫌な表情が田菜部とうり二つだった。
「こんにちは」
 俺は不機嫌の固まりに向かってあいさつをする。両目を眇め、俺のことをなめ回すように見ている。
「あなたは、うちの娘とどのようなご関係なのかしら?」
 不審そうな目つきのまま低い声で尋ねられる。相当警戒されているようだ。
「学級委員長と副委員長の関係です」
 まだ不審そうにしている。張りつめたような空気がつらい。
「あのクラスに副委員長がいただなんて、あたくし、知りませんよ。それにあなたは初めて見る顔ね。本当にあのクラスの生徒なのかしら」
 と、まだじろじろと俺を見ている。
「父親の急な転勤で、まだ引っ越してきたばかりなんですよ」
 ご婦人は、まだ疑い深く、こんな時期に転校なんて変ね、とつぶやいた。
「あまり立ち話をしても時間の無駄ですし、受け取りますわ」
 俺は、ご婦人に学校名がプリントされた封筒を差し出した。
 ご婦人は、受け取るとすぐに中身を確認し始めた。
「『夏休みのしおり』が入っています」
 俺は簡単に中身を説明した。
 ご婦人は中身を取り出した。
 そのとき、二つ折り便せんがご婦人の足下に舞い落ちた。
 赤と紫のチェック柄の便せん。見覚えがある。先日、田菜部に宛てられたのと同じ便せんだった。なぜこんなものが。何か嫌な予感が頭をよぎり、便せんを拾おうと手を伸ばす。しかし、ご婦人のほうが少し早かった。ご婦人は手に取ると、便せんを広げて読み始めた。
 ただでさえ険しい表情がみるみるうちに、さらに厳しい表情を重ねる。便せんが震え出す。
「あ、あなた、これはいったいどういうことですの!」
 ご婦人は便せんを俺の前に突き出した。俺は黙ったまま便せんを受け取り、文面を目で追った。
『田菜部伸枝様
 今日はお休みなのでとても心配しています。
 俺の想いは伸枝さん一筋です。俺の気持ちを察して欲しいです。明日は元気になって登校してください。伸枝さんとお会いできるのを楽しみにしています。
                                 戸野翔平』
 いったいなんなんだ、これは。書いた覚えのねえ手紙だ。
「俺はこの手紙には心当たりがありません。書いた覚えもないですし、見覚えもありません。俺が先生からプリントを受け取ったときは、こんな手紙は入っていませんでしたし……」
「先生から受け取ったときに無かったと言うのなら、犯人はあなたしかいないでしょ。ごまかしなんて、あたくしには通用しませんわよ」
 完全に俺を疑っている。俺は筆跡が明らかに違うと訴えたが、筆跡なんて意識すれば変えられると、まるでだだっ子のように突っぱねられた。
「あなたがあくまでも認めないようでしたら、あたくしにも考えがあります」
 田菜部のために問題は起こしたくないという気持ちはあったが、それ以上にこんなことで誤解されるのが許せなかった。
「俺はその手紙を書いた覚えはありません」
 俺はもう一度きっぱりと言った。
「あなたはあくまでも認めないわけですね。素直に認めるのであれば、ここだけで留めておこうと思いましたけど、強情を張る不埒な学生は許しておけません。それ相当の対応をとらせてもらいますわ。それでいいですわね?」
「はい、結構です。さようなら」
 俺は一礼して自転車にまたがった。

            ◇    ◇    ◇

 翌日、終業式の朝。
 田菜部は登校していた。
 教室へ入ると、すぐに田菜部に声をかけるが、まったく反応しない。俺のことが見えていない様子で、今日は授業もないのにいつものように教科書とノートをチェックしていた。俺はしばらくめげずに声をかけ続けたが、何を言っても梨の礫で、完全に無視されている。俺は話しかけるのを諦めた。
 あの後、母親に何かを言われたのだろうか。態度の急変ぶりは、そうとしか考えられない。明るい兆しが見え始めていただけに、俺は落胆の色を隠せなかった。あのとき、例え間違っていたとしても、ご婦人の言葉を受け入れていれば、また違った結果だったのではなかろうか。田菜部に対する気持ちは、あの手紙に書いてあったような恋愛感情ではないけど、それに近い感情を持っていたことは否定できない。彼女の力になりたい、彼女を助けたい。そんな想いを抱いていたのは確かなことだ。それが恋愛感情ではないと、完全に否定することができるだろうか。
 俺は放課後にもう一度田菜部に話しかけようと決意した。
 
 終業式が終わり、教室でのショートホームルーム。先生から、再度夏休みの注意が徹底された。
「それでは、次回みんなと会えるのは、八月六日ね。登校日を忘れたら駄目ですからね。また元気でお会いしましょう」
 一学期が終了した。
 早速、田菜部に話しかけようと隣を見ると、彼女はもうすでに席にはいなかった。しまった、遅かったか。と、一瞬、思ったが、よく見ると机の横に鞄が下げられたままだ。待っていれば戻ってくるだろう。ほっと一息ついて、席に腰掛けた。
「ちょっと、戸野くん、いいかな」
 見ると先生が席の横に立っていた。
「申し訳ないけど、ちょっと応接室に来てくれるかな」
 いつもは朗らかな先生の表情がこわばっている。何か俺の本心にそぐわない事態が発生していることが想像できた。
 校長室の右隣の部屋に入り先生に勧められるままにソファーに腰掛けた。先生は言葉のきっかけが見つからないのか、口を開く素振りを見せては、言葉を飲み込んでいる。
「昨日のことでしょうか?」
 俺が口火を切る。先生はまだためらっている。
「田菜部の母親から何か言われたんですね?」
 先生は困ったように眉根を寄せて頷いた。
「昨日、何があったの?」
「それがですね……」
 俺は、プリントを入れた封筒に、心当たりがない手紙が紛れ込んでいて、誤解を受けたことを先生に伝えた。
「その手紙が問題なのよね。あそこの家は、男女のお付き合いは禁止なのよ。だから、そんなことができないように、門限が決められていて親を同伴しない外出は禁止なのよ。お母様のお気持ちはわかるけれど、過保護すぎるわね。いずれにしても困ったことになったわ」
 先生は大きく溜め息をついた。
「あの手紙ですが、俺は書いていませんから。昨日、先生と話をしたときに、プリントを入れた封筒を机の上に置きっぱなしにしてたんです。誰かがそのときに入れたとしか思えないんです。たぶん誰かの嫌がらせですよ」
「戸野君のことは、疑ってはいないんだけど……」
「先生には話してなかったんですけど、一昨日、田菜部に嫌がらせの手紙が届いてたんですよ。『クラスメートと仲良くなるな。言うことを聞かないんだったら、不幸が訪れる』っていうような内容だったんですよ。誰かの嫌がらせに違いありません」
 先生は、そんな嫌がらせの手紙が来ても不思議なことではないわね、とまた溜め息をついた。俺は、そんなことをする奴の心当たりはないですか? と先生に問いかけたが、先生は微妙な表情で首を横に振るだけだった。
「いずれにしても、その手紙で大変なことになっちゃった。先生もどうすることもできなかったのよ。ごめんなさい」
 先生は目を固く閉じて頭を下げた。
「あの母親の剣幕だったら、何もないのは不思議なことですから。何があったんですか? 話してください」
 普段から、先生言うことなんてとてもまともに聞きそうな人じゃないようだから、相当な要求をしてきたのだろう。先生は言いにくそうに口を詰まらせた。
「副委員長を辞めさせて欲しいとおっしゃるの。そして、今後いっさい娘に関わらせないことを約束させられちゃった。それができないようだったら、退学させて欲しいって。戸野くん、力になれなくて本当にごめんなさい」
 きっと、田菜部も同じようなことを母親に言われたのに違いない。今朝のあの態度もその結果だったのだろう。田菜部の本当の気持ちは分からない。しかし俺のことを少しでも友達だと思ってくれたとしたら、あの態度はないのではないのだろうか? 少なくとも俺のことは悪く思っていないだろう、と考えていたことは、俺の驕りだったのだろうか。こういうことになろうことは、薄々予想していたが、実際に先生の口から聞かされると動揺の色は隠せなかった。
「俺が副委員長を辞めればいいんですね。それで、田菜部と関わりを持つのをやめればいいんですね」
 それで、先生や田菜部に迷惑がかからないのなら、俺はいったん引いてやろうと思った。熱くなって、俺が引かないなら、かえって話がこじれていくだけだ。その結果、俺が退学になるだけなら、どうってことがない。だが、俺のわがままで、周りの人を巻き込むようなことだけはしたくなかった。田菜部にだけは迷惑は掛けたくなかった。急がば回れだ。きっと、また時は巡ってくるだろう。
「わかりました。先生に従います」
 先生は、眉根を寄せたまま悲しそうに頷いた。
 
 教室へ戻ると、高渡の他にはもう誰も残っていなかった。夏休みを前にして、みんな浮かれているのだろう。田菜部の席を見ると、幸いにも鞄がそのままだった。よかった。田菜部には、『またな』の一言だけでも伝えたかった。
 席に着くと、高渡がヘラヘラと声をかけてきた。
「元気ないじゃねえか? どうかしたのか?」
 俺は、昨日の放課後のこと、そして先生から申し渡されたことを高渡に打ち明けた。
「そうかそうか、それはよかったじゃねえか」
 高渡は、にやにやと上機嫌だ。
「よかったじゃねえよ。俺がどうしたいか高渡もわかってるだろ。高渡は俺の味方じゃなかったのか?」
「オレがおまえの味方だって? オレはそんなこと一言も言った覚えはないぜ」
 にんまりと不敵な笑みを浮かべる。高渡が何を考えているのかわからなくなった。
「オレはな、田菜部の奴もおまえも気に入らないんだよ!」
 今までの高渡とは違う、陰湿な感情が流れ込んできた。人が本当の感情を隠していることは珍しくないことだが、高渡は裏表がないと思っていただけに、俺にとってはショックなことだった。
「俺にはおまえの考えてることがわからねえ……」
 高渡から笑みが消え、険しい表情になる。
「オレもあいつと同じクラスになって、おまえと同じことを考えたんだ。きっとあいつは、根はいいやつで、単に気持ちを表現するのが苦手なだけなんだと思った。そしてオレは、あいつの味方になってやろうと考えたわけだ。しかしあいつは、そんなオレの気持ちを察することもなく、会話するたびにオレのことを罵り続けたんだぜ。オレに感謝することはあっても罵る理由なんてないのにも関わらずだ。そんなの不条理じゃねえか。オレは嫌な気持ちを味わっているのに、あいつは知らん顔。マイペースで気にする素振りも見せない。だからオレは……オレにしたことの意味を分からせてやるために、敢えて孤立させるように仕組んできたんだ。今のおまえだったら、オレの気持ちがわかるだろ?」
 高渡からは、さらに強い陰湿な恨みの感情が流れ込んでくる。
「やっぱり、おまえの言ってることはわからねえ……」
 高渡は眉間にしわを寄せた。
「おまえの言ってることは、自分のことばかりじゃねえか? 俺も最初は、悪態をつく田菜部にうんざりした。でも、うんざりするのは、田菜部じゃない。田菜部と接する俺たちのほうだ。目的は田菜部の力になることだろ? だったら、どんな嫌な思いをしても、田菜部を最優先に考えなければと思うんだ。俺はまだ諦めちゃいねえ。どうしていいのかまったく見当もつかない状況になっちまったが、ここで諦めたらおしまいだろ。高渡も俺と同じ思いだったんだから、考え直して一緒に田菜部を助けてやろうぜ」
 高渡の表情がますます曇る。
「……だからおまえも気に入らないんだよ!」
 高渡は、机をバンっと叩いて立ち上がった。
「あいつが孤立するように手紙を書いたがひるまない! おまえを田菜部から引き吊り離そうと画策したが、まだ諦めようとしない!」
 教室中に高渡の声が響く。
 高渡の恨みと怒りの感情がはじけた。
「高渡、おまえ……」
 一瞬、教室内が無音になる。
 がたっという音が響く。
 音がしたほうを見ると、田菜部が顔面蒼白で目を見開き立ちすくんでいた。
「おまえに関わった奴にも不幸が訪れるって、警告してやっただろ?」
 高渡は冷静さを取り戻し、不敵な笑みを浮かべながら田菜部に言葉を投げた。
 田菜部は一瞬、俺に視線を向けた後、きびすを返し、急ぎ足で教室の出口へと向かった。その後ろ姿に向かって、高渡はさらに言葉を継ぐ。
「おまえ自身にも不幸が訪れることを忘れるなよ」
 田菜部は一瞬足を止めたが、再び駆け足で教室を出て行った。
「高渡、もうよせ! 自分自身が傷つくだけだぞ」
 高渡は不敵な笑みを続けている。
「もう遅い。誰もオレを止められねえ。あいつは無事に家まで辿り着けるかな」
 フフフと笑い声を漏らした。
 高渡は狂ってる。
 俺は嫌な予感がして、田菜部の後を追った。
 
 下足置き場でスニーカーにはきかえ、生徒の通用口から外へ出る。すぐ右側に校門があり、正面奥に自転車置き場がある。自転車置き場に向かおうとしたとき、正面から自転車に乗った田菜部が向かってきた。
「田菜部、ちょっと待て!」
 田菜部を制止しようと、両手を広げる。しかし、校門前はその程度で制止できるほど狭くはなかった。田菜部は、俺の左側を大回りして難なくすり抜けた。
 自転車と生身の人間とじゃどう考えても生身の人間のほうが分が悪い。すぐに追いかけたい気持ちを抑えて、俺は駐輪場へ向かって全速力で駆け出した。
 田菜部と俺は家の方角が同じなので通学路も同じだった。校門から出て、左のほうを見ると、まだ距離がそんなに離れていないところに田菜部の姿が確認できた。これなら、少しスピードを出せば、十分に追いつくことができそうだ。
 よぉーし。
 俺は気合いを入れて田菜部を追いかけた。
 古川にかかる橋を越えた辺りで、田菜部の自転車が射程に入った。
「おーい、田菜部、ちょっと待ってくれ!」
 彼女は俺に気付いたのか、振り向きもしないで急に速度を上げ出した。慌てて追いつこうとするが、彼女の自転車は意外と速く距離が縮まらない。
 高渡の言葉が頭をよぎる。
『あいつは無事に家まで辿り着けるかな』
 ここからは、田菜部が住んでいる住宅街まで見通しのよい一本道である。田菜部を遮る障害物なんて見あたらない。敢えて障害物と呼べるのは、この道と国道が交差している信号くらいだ。しかし、側道を行けば、国道の下をくぐり抜けられる。障害を避けられる。
『無事に家まで辿り着けるかな』
 悪い予感が頭をよぎる。
 もしかして、高渡は田菜部の自転車に細工したのではないか?
 小学校の前に差し掛かる。小学校を通り過ぎれば、交差点までもう数十メートルだ。田菜部はものすごいスピードで自転車をこいでいる。
「田菜部、聞いてくれ。その自転車、細工されているかもしれない。とりあえず止まってくれ!」
 交差点の信号が青から黄色に変わる。
 田菜部はブレーキを握る。
 プチンと嫌な音が聞こえた。
 田菜部の自転車の速度は落ちる気配を見せない。ブレーキのワイヤーが切れたようだ。
 信号が赤に変わり、停車していた車が動き出した。
「側道だ! 側道に行くんだ!」
 田菜部は右側の側道に進路を向ける。しかし、進路を変えるには、側道までの距離が短すぎた。速度を出すぎていたせいで、間に合わなかった。田菜部は交差点に向かって驀進している。
 このままでは大変なことになる。
 田菜部は固まってしまって、目を閉じている。
 あいつを掴んで俺の自転車のブレーキで止めるしかねえ。
 田菜部の自転車に追いつこうと、俺は自転車のスピードを上げた。
 田菜部の自転車の荷台に手を伸ばす。
 交差点まであと十メートルのところで俺の右手が田菜部の自転車の荷台に届いた。
 右手で思いっきり荷台を掴み、左手で思いっきりブレーキを握りしめる。
 プチン。
 ……俺の自転車も細工されていたのか。
 田菜部の自転車は、速度が落ちないまま国道へ飛び出した。
 白い乗用車がスローモーションの映像を見ているようにゆっくりと田菜部の自転車に近づく。
 自転車が車の下に巻き込まれていく。田菜部は、自転車から投げ出され宙を舞い、反対側車線に投げ出される。それに気付いた黒い乗用車が急ブレーキをかける。すんでのところで、田菜部の着地地点手前で乗用車が停車した。しかし、後続車が黒い乗用車に追突する。田菜部は乗用車のフロントガラスに頭から落ちていく。その瞬間、田菜部と俺の目が合った。
『ごめんなさい』
 彼女の唇がそう動くのがわかった。
 そうして、ガラスが真っ白になるのが見えたかと思うと、俺の視線を車のタイヤが遮り、田菜部の姿が見えなくなった。かつて味わったことがないほどの衝撃と激痛が走り、俺の意識は遠のいた。


5

 心地よく優しい風が頬を撫でる。とても気持ちがいい。目をゆっくりと開けると、まぶしい月の明かりが目の中に飛び込んできた。上半身を起こす。俺は川縁の草むらの中で足を川に向けてすっかりと眠りこけていたようだ。宵の口を思わせる空には、なぜか星は一つもなく、ただ丸い月だけが低い山の上にぽっかりと浮かんでいた。
 視線を地上へ落ちす。月と反対側の川下には、桟橋が一本だけ延びた船着き場があり白装束を着た人たちが静かに船の到着を待っている。船着き場から続く道は、堤防の上へと続き、堤防の上には古風な瓦屋根の屋敷を思わせるような旅宿がそびえ立っていた。屋根瓦の上には筆文字でかかれた『月見館』の看板が掲げられていた。白装束人の列はそこから船着き場まで続いている。誰も言葉を交わすことなく存在感が薄い。船着き場の上には、風情ある木造の橋がかかっているが、その橋を歩く人の姿はない。川の流れはゆっくりと、山に囲まれた上流から、開けた下流へと続いている。そのほかには何もない。河原では、小学校修学前と思われる幼児たちが、石を積んで遊んでいた。
 俺はいったいなぜこんなところにいるのだろう。ここへ来る前は、俺はどこで何をしてたっけ? ずっとここにいたような気がするし、別のところにいたような気もする。今が夢の中のような気がするし、別のところにいたような気がするのが、夢の中の出来事だったのかもしれない。頭の中にもやがかかり、思考が霞の中に漂っているようで、はっきりとしない。
 とりあえず、あの旅宿へ行ってみよう。
 俺はその場で立ち上がり、旅宿のほうへ身体を向けた。体がものすごくだるくて、ふわふわする。地に足が着いていないような感覚だ。ぼんやりと堤防の上のほうに目をやると、河原から月見館へと続く道筋には人がまばらに列をなしていた。
 俺もあの人たちに連なろう。どういうわけか、そんな気持ちになった。
 俺は背の低い草むらから一歩踏み出した。そして次の一歩を踏み出そうとしたとき、何かが左足に絡みついているのに気が付いた。絡みついたものの正体を身体を屈めて確かめる。細い蔓草の蔓が左足首が見えなくなるくらいに絡みついていた。細い蔓草なので、すぐにとれるだろうと甘く見ていたが、絹のひものような蔓が何本も硬く巻き付いていてとれそうにない。無理に外そうとすると、余計に絡みつき、どんどん硬くなっていく。これは切るしかなさそうだ。蔓を切るのに適当なものはないか辺りを見回す。目に入るものは、川に流され角が丸くなった石ばかりで、そのままでは使えそうにないものばかりである。石を割ったらどうだろうか? 足下に手頃な大きさの石を置き、硬そうな石を右手にとって、勢いよくたたきつけてみた。足下の石は見事に鋭角に割れて、尖った角がナイフのようになった。一回でうまく割れるなんて幸運なことだ。出来立ての石のナイフを左足の蔓に押しつけながら、思いっきり引いてみた。
「うっ!」
 まるで左足に直接ナイフを突き当てたかのような激痛が走った。意識が遠くなるほどの痛みだ。手元が狂って皮膚に刃をたててしまったのかと思い、今度は左足首から、完全に離れていることを確認して、注意深くゆっくりと石のナイフを引いてみた。
「うっ!」
 痛みが脳髄を直撃し、思わす石のナイフを放り投げてしまった。左足首を両手できつく押さえて、痛みが治まるのをこらえる。しばらく目をつぶり我慢をしているとやがて痛みは嘘のようにすっと引いた。この蔓はいったいなんなんだ。蔓の中に神経でも通っているかのようだ。閉じた目を開け、蔓が伸びている先に視線を這わせる。そのとき、別の視線を感じた。
 視線を目でたどると、斜め後ろから田菜部が俺のことを見つめていた。
 そのとたん、頭の中のもやのようなものが晴れ、彼女が車のフロントガラスに突っ込む光景が鮮明に浮かんだ。そして、車の下に巻き込まれる俺自身の記憶がよみがえってきた。
「田菜部、大丈夫なのか?」
 田菜部は、あれほどの事故に遭いながらも、傷一つない。俺も自分の身体を確かめてみたが、俺にも傷らしいものがないどころか、制服さえ破れていなかった。田菜部の足下を見ると、彼女の左足にも俺の左足ほどではないが細い蔓が絡みついていた。
 嫌な予感が頭をよぎる。旅宿から船着き場へと続く、白装束の人たちの列。人を上流の川向こうへと運ぶ屋形船。船着き場へと着岸する誰も乗っていない船。
 俺たちは今、生死の狭間にいるのではないだろうか。俺は血の気が引いていくのを感じた。どうすれば元の世界に戻ることができるのだろうか? おそらく上流の向こう岸に渡ってしまったら一巻の終わりだろう。こちらが此岸だとすればあちらは彼岸だろう。だとしたら、こちら側の堤防を越えれば元の世界に戻れるかもしれない。しかし、左足に絡みついた蔓が邪魔をして堤防の上まで行くことはできない。蔓を切ろうとすると激痛が走り、とても無事にいられないような気がする。何か助かる方法はないのか?
「会えてよかった……」
 田菜部が安堵の表情で口を開いた。
「あたし、あなたにお礼を言いたかった。ずっとずっと言いたかった」
 田菜部は、普段の彼女からは想像できないくらいに、唐突に、そして淡々と自分の思いを語り出した。
 出会って初めて口を利いたとき悪態をついて、他のみんなと同じように離れていってしまうかと思ったけど、七夕音楽祭の役員に名乗り出てくれて、あたしのことを助けてくれたこと。
「嬉しかった」
 七夕音楽祭のとき、文句を言いながら準備を手伝ってくれたこと。
「嬉しかった」
 そのとき意地を張って喧嘩したこと。その後、準備が終わらず、門限に間に合わなくなって、母親にひどく怒られたこと。でも七夕音楽祭の当日、それでも何事もなかったかのように手伝ってくれたこと。
「嬉しかった」
 七夕音楽祭が終わって、もうお別れだと思って諦めていたとき、副委員長に名乗り出てくれて、あたしをサポートしてくれたこと。
「とても嬉しかった」
 終業式の前日、体調を崩して学校を休んだとき、プリントを家まで届けてくれたこと。
「嬉しかった」
 田菜部は言葉を区切った。
「そうして、ごめんなさい。あたしの悪い性格のせいで、あなたにも迷惑を掛けちゃったね。本当にごめんなさい。付き合ってくれて本当にありがとう」
 田菜部が申し訳なさそうに顔を伏せた。
 おかしい、なぜ田菜部がそんなことを言う。おかしい。おかしい。やはりこれは夢なのだろうか?
「おまえ、なんでそんなに素直なんだ。別人みたいだぞ」
 彼女は少しうつむき顔を赤らめはにかんだ。
「なんかね、気持ちがすっきりとして、思ったことをストレートに出せるの。今なら何でも伝えられそう」
 こんな田菜部の表情は見たことがない。やはり俺は、生死の狭間か、もしかしたらもうとっくに死んでしまって、消えて無くなってしまうまでの束の間を、この世に未練を残さないために、生涯で最期の夢を見ているのかもしれない。だとしたら、消えて無くなってしまう前に、俺の想いも吐き出しておこう。目の前にいるのが本当の田菜部じゃなくても構わない。
「俺もおまえに言っておきたいことがある。信じてもらえねえかもしれないけれど、俺にはどういうわけか人の気持ちや感情を感じる能力があるんだ。おまえの初対面の印象は最悪だった。けど、おまえの気持ちは悪態をついている表面とは裏腹だった。だから、俺は本当のことが知りたくて、おまえに近づいたんだ」
「わかってくれる人がいたんだ……」
 田菜部に驚きの表情が浮かぶ。そしてその表情がさらに優しくなった。
「俺にとっておまえは初めてのタイプだったから。素直な気持ちでいるのに、とげのある態度しかできない人間なんて、今まで出会ったことがなかったから、どちらが本当の田菜部の姿なのか判断できずに、ずっと迷っていた。だから分かってなんかいなかった。だけど、分かりたいと思ってた。今ここにいるおまえが、夢の中の田菜部じゃなくて本物の田菜部だったら、俺の感性は間違っていなかったということになるのかな」
「あたし、本当のあたしだよ」
 本当の田菜部かどうか、どうして確かめることができるだろうか。この状況を抜け出して、現実で目を覚まさなければ確かめようがない。
「あー、生きているときにもっと素直になればよかった」
 俺もそうだ。本当の田菜部がそうだと知っていたら、感情に振り回されることが、もっと少なかったのではなかろうか。気持ちを探ることに、こんなにも時間を費やすこともなかったのではなかろうか。もしも、目覚めることができたなら、今度こそ絶対に彼女を護って彼女に何を言われようが、絶対に力になってやる。『助け出して欲しい』との、彼女の切なる願いは、気持ちの泥沼からの救出なのかもしれない。
「ここから抜け出そう」
「あたしは……もう駄目だと思う……」
 彼女がすぐさま溜め息混じりにつぶやいた。
「あたし、行いが悪いから。沢山の人を嫌な思いにさせちゃったから。たぶんここからは抜け出せない……」
「何を言っているんだよ! おまえはこんなにも良い人間じゃないかよ! ここから抜け出して、やり直そう。変わればいいじゃないか。俺は、おまえのためにがんばるぞ」
「駄目だよ、あたしなんか」
 突然、俺の左足が強い力で引っ張られた。身体に激痛が走る。田菜部が俺に向かって手を差し出すが、俺の手はもう届かない。すさまじい勢いで下流のほうへ引っ張られ、田菜部の姿があっと言う間に小さくなっていった。もっとこの場に居たい。そんな願いはもう届かなかった。身体の痛みはさらに激しくなり、息もできない。苦しい。苦しい。田菜部は手を差し出したまま表情が悲しみに崩れていた。苦しい。俺は意識が遠のいた。



読者登録

wakyuさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について