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 そこで、明姫はハッと我に返った。

 「ちょっと、今、何時かしら」

 ユンとの話にあまりに夢中になったせいで、刻の経つのも忘れていた。急に立ち上がったので、膝枕をしていたユンは放り出され、露骨に顔をしかめている。

  少し開いた小窓から外を覗いた明姫は悲鳴を上げた。

 「大変、もう陽が暮れてる」

  背後から、ユンも外を覗いている。

 「確かに。これはちと、まずいかな」

  ぼそりと言う彼に、明姫が噛みつくように言った。

 「ちょっとじゃないわよ。物凄くまずいわ」

  家の外ははや、淡い宵闇の底に沈み始めている。陽暮れどころか、下手をすれば宮殿の門が閉まる刻限が近くなっているかもしれない。

 「すぐに帰らなくちゃ」

  明姫は慌てて傍らに置いてあった外套を掴んだ。

 「送っていくよ」

 「要らない」

 素っ気ない返事に、ユンが溜息をつく。

 「だが、昼間のように、無頼の輩に絡まれたら困るだろう」

 「でも、あなたはお屋敷に帰るんでしょ。私は宮殿に戻らなくてはならないから。わざわざ送って貰うほどのこともないし」

 「そなたを無事に送り届けてから、宮殿を出ても良い。まだ門が閉まる時刻には十分余裕がある」

  折角の申し出をこれ以上、断れない。しかも、実のところ、明姫はユンと一緒に少しでもいたいのだった。

  小さな一軒家を出る頃には、町は完全に夜の気配に包み込まれていた。二人はただ黙って人気のない路地を歩く。路地を抜けて大通りに出た途端、嬌声が二人を迎えた。

 「ちょっと、そこの旦那さま」

  最初、ユンは自分のこととは気づかず、足早に歩いていた。

 「ねえ、そこの旦那さまってば」

  後ろから袖を引かれ、漸くユンが振り返ると、二十代前半と見える色っぽい女が佇んでいた。派手な衣装や化粧・髪型から見て、妓生(キーセン)のようである。

 「やっぱり。見れば見るほど良い男。どう? 今夜はあたしのいる妓楼に来ない? あたしの敵娼(あいかた)になってよ」

 「客引きをしている妓生だな」

  ユンは呟き、愛想笑いを浮かべた。

 「済まぬが、今夜は先約があってな」

  極上の笑顔は、女なら一度見れば永遠に忘れられそうにもない魅力的なのものだ。

  ふーん、こんな笑顔もできるのね。

  明姫は醒めた眼で、妓生に爽やかな笑顔を振りまくユンを半ば呆れながら見つめた。

 「先約?」

  妓生の視線がユンの傍らにいる自分に突き刺さるのが判った。何だか親の敵を睨めつけるように険のある視線だ。

 「そう、見てのとおり、私の許嫁者とね。これから、どこか二人きりになれる場所を探そうと話していたところなのだ。な、お前」

  馴れ馴れしく肩を抱き寄せられ、明姫は慌てて〝違―〟と言いかけた。

  ふいに唇を大きな手で覆われ、明姫はうぐぐと、情けない声を出した。

 「早く帰りたいのなら、余計なことは申すな」

  ユンの声が耳朶をくすぐり、刹那、何ともいえない感覚が全身を走り抜けた。

 「あ、そう。これはお邪魔致しました。そんな乳臭い小娘のどこが良いんだか」

  妓生は鼻を鳴らした。

 「いやいや、これで、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んで、なかなか良い身体をしてるんだな」

  ユンは調子に乗って言いたい放題だ。

 「フン、どこの令嬢を拐かしたのかは知らないが、両班のお嬢さんをこんな夜遅くまで連れ回して傷物にしちまったら、旦那、このお嬢さんの親父さんに殺されちまうよ」

 「忠告、ありがたく肝に銘じておこう。それでは、我らは先を急ぐので、これにて」

  またも魅惑的な微笑を妓生に向ける。

 「本当に良い男。惜しいわぁ。旦那~、今度は必ずお一人で来てくださいね。月琴楼の緑月と指名するのを忘れないでねぇ」

  語尾が異常に甘ったるい。

 「ああ、その美しきそなたの面が今宵の月のように淋しさで翳らぬ前に是非、訪れよう」

 明姫は空を見上げた。紫紺の空を飾る満月には雲一つかかってない。何が今宵の月のように翳らぬ前に、だ。  息をするように嘘をつくのは慣れてない?女を口説き慣れてない?

 嘘もたいがいに言って欲しい。明姫は腹が立ったので、絹の刺繍靴で思いきりユンの向こうずねを蹴り飛ばしてやった。


「い、痛ッ」

 ユンが脚を押さえて、涙眼になっている。

 「何故、こんなことをする?」

 「この女タラシ!」

 「誰が女タラシだって?」

 「あなたよ、あなた」

  他に誰がいるっていうのよ。明姫はぷりぷりと怒りながら一人、先に立って歩く。

 「まあ、そう怒るな、怒るな」

  ユンがまだ痛むのか、脚を引きずりながら追いかけてくる。

 「良い加減なことばかり言って、本当にもう!」

 「私が良い加減なことを口にしたというのか?」

 「そのとおりでしょ。さっき、身体がどうのこうのって」

  流石にそれ以上は言えず、頬を赤らめる。

  あれでは、まるで二人が既に男女の関係になっているような言い方ではないか。

 「ああいう誤解をされるような言い方は止めて欲しいの」

 「満更、嘘でもないぞ」

  え、と、明姫が顔を上げた刹那、ユンの魅力的なあの笑顔とまともに遭遇した。

 「膝枕をして貰った時、そなたの身体が物凄くやわらかいのに愕いた。女の身体は確かに男に比べてやわらかいものだが、そなたの膚は白磁のようにすべらかで、抱き心地もさぞ良かろうと―」

 「知らない! 絶対にもう膝枕なんかしません」

  明姫は真っ赤になって憤った。

 「怒ったのか? 済まん、別に他意はないんだが」

  ユンが慌てて追いかけてくる。

  と、明姫の前に突如として二人組の男が立ち塞がった。

 「可愛い娘さん、これからどこに行くの? おじさんたちと良いところに遊びに行かない?」

  見れば、商人風の二人連れの男がニヤニヤしながら立っている。ともに三十代そこそこくらい、顔が紅く相当酔っているのだと判る。

 「―」

  酔っぱらっている男たちは眼が座っていて、かなりの迫力がある。

  明姫が怯えたような瞳で後ずさると、二人組はずいと迫ってくる。そこにウォッホーンとわざとらしい咳払いが聞こえた。

  ゆっくりとした足取りでユンがやってくる。

 「失礼だが、私の許嫁者に何か用か?」

 余裕で現れたユンは、どこから見ても上流両班の子息といった風体である。

 「い、いや。旦那さまのお連れとは存じませず」

 「失礼しました。なあ、行こうぜ」

  二人は忽ち態度を変え、幾度も頭を下げながら逃げるように去っていった。

 「何なの、あの男たち」

 明姫はまだ小刻みに身体を震わせていた。

 「ここは色町だからな。妓房には妓生もいれば呑みに来た酔客もいる。別段、不思議はないさ」

 ふいに強い力で引き寄せられ、明姫は狼狽えた。

 「なっ、何のつもり?」

 「少し静かにしてくれ。早く帰りたいのなら、ここで余計なことに刻を費やしたくはないだろう?」

  ユンはいかにも仲睦まじい恋人同士のように明姫の肩を抱き、ぴったりと寄り添って歩き始めた。

 「こうしていれば、誰も私たちに構おうとはしない」

 現に、ユンの男ぶりを見て近寄ってこようとした妓生たちも、傍らの明姫を見ると舌打ちして去ってゆく。

  明姫はユンに肩を抱かれたまま、怖々と周囲を見回した。両脇には煌々と輝く灯りが軒からぶら下がって道を照らしている。

  夜というのが嘘のように、ここは明るい。

 「これが全部妓楼なの?」

 「そうだ。ここは女と男が一夜の夢を売り買いする場所だからな」

 「一夜の夢を?」

 「ここでは夜毎、幾つもの恋が花開く。でも、すべてが紛い物だ。金をやりとりして、女は男に夢を見させてやる。男も最初から女の言葉に真はないと承知で夢を買う。そういう色恋もこの世にはあるということだ」

 「ここで働く妓生たちは、皆、何を考えて生きているのかしら」

  ユンが物問いたげに見つめてくる。明姫は沈んだ声音で言う。

 「夢を売るって、それは結局、身体を売ることでしょう。もちろん、皆、ここに来たくて来たわけじゃないだろうし、妓生になりたかったわけでもないと思うけど」


 九年前、自分だって妓楼に売られてくる可能性もあったのだ。火事で両親も何もかも失った。あの時、母方の祖父母に引き取られていなければ、女官にはならずに妓生になっていたかもしれない。

  生きるために、自分の身体を切り売りする。それはどんなにかやるせなく辛いことだろう。しかも好きでもない男を相手に夜毎、身を任せなければならないなんて。まだ生娘にすぎない明姫にも何となくではあるが、想像ができた。 「女って哀しい生きものだわ。こんなことを言っては畏れ多いけれど、ここにいる妓生と国王殿下の後宮にいる私たちもたいして変わらないのよ」

 「女官と妓生が同じだというのか?」

  ユンが心外そうに眉をつりあげる。

 「女官は一生、籠に閉じ込められた鳥のままなの。飛べない鳥、咲いても誰も見てくれない花。誰にも生涯嫁がず、花の盛りを愛でてくれる人もいないまま散ってゆく。私たち女官は表向きは国王さまのものということになっているから、誰とも恋愛はできないのよ。だから、誰もがいつかは国王殿下の眼に止まり、側室になって寵愛を頂きたいと願う」

 「明姫も国王の側室になりたいのか?」

  明姫はゆっくりと首を振った。

 「私はそんなことを考えたことも夢見たこともないの。だって、側室といえば聞こえは良いけれど、結局はここにいる妓生たちと同じ立場よ。国王さまにとっての妻は王妃さまただ一人。側室はその他大勢の一人に過ぎないんだもの。それに、たくさんの女たちと一人の男をめぐって凌ぎを削るのなんて、到底耐えられない。良人の愛をたくさんの妻たちと分かち合うのも無理だわ、私には」 「そう、か。たくさんの女たちと一人の男の愛を分け合うのは無理か」

  その瞬間、ユンの端正な面がすっと翳ったのを明姫が気づくはずもない。

 「だが、明姫。これだけは忘れるな。男だって、皆が皆、大勢の女を侍らせて歓んでいるとは限らない。例えば私なら、ただ一人の女を見つけて、生涯、その女人だけを愛し抜き守りたいと思う。そんな男だっているんだぞ」

  明姫が肩を竦めた。

 「ユンが口にしても、あまり真実味がないわ」

 「なっ」

  唖然としている彼に、明姫が笑う。

 「だって、見かけによらず、随分と女性経験があるようだし。妓房のことだって、よく知ってるわよね」

 「そ、そんなことはないッ。断じて、ない。私は」

 「来てるわよね。ここに」

 「私も男だ! 妓房にだって来たことはあるさ」

  開き直ったように言うユンがまた〝うっ〟と呻いた。またしても明姫に蹴りを入れられたのである。

 「妓房で妓生遊びをしておきながら、ただ一人の女人を生涯愛し抜くですって? ちゃんちゃら、おかしいわ」

  明姫は今度こそ、呻いているユンを置き去りにして色町を一人で歩いていった。

 「あー。笑ったり怒ったり、よく表情の変わる娘だ」

  ユンは半ば呆れたように言い、脚を撫でた。

 「それにしても、痛いな、もう。見かけは可愛いのに、とんだじゃじゃ馬ではないか」

  だが、そこも可愛い。ユンは他人が訊いたら惚気(のろけ)にしか思えないようなことを言い、慌てて明姫の後を追いかけた。

  放っておくと、また、あの娘は災難に巻き込まれかねない。正義感も強く優しいが、どこか眼を離せない危なっかしいところがあるのだ。

  だからこそ、余計に惹かれる。もしかしたら、自分はやっと見つけたのかもしれない。漸くめぐり逢えたのかもしれない。生涯にたただ一人の女人に、一生掛けて愛し守り抜きたいと願ってやまない女に。

  既に明姫の小柄な後ろ姿は小さくなりつつある。

 「仕方ないな」

  ユンは苦笑し、〝待ってくれ〟と声を張り上げた。

 

  


   逢いたくて~恋ごころ~

   逢いたくて~恋ごころ~

 

 脚を何気なく踏み出そうして、明姫は思わず顔をしかめた。

 「痛―」

  これもすべては、あの男―ユンのせいである。ユンと町で半日を過ごしたのは、もう数日前になる。あの日、明姫はかなり遅い時間に宮殿に戻ることになった。

  ユンと一緒にいると楽しくて、彼との時間に我を忘れている中に、気がつけば陽暮れどころか夜になっていた。慌てて宮殿に戻ろうとしたものの、途中の色町で客引きの妓生に引っかかったりして、思いの外時間を取られてしまったのである。

  まあ、それも所詮、言い訳しかならない。あの時、明姫はユンを振り切って帰ろうと思えば帰られたのだ。なのに、少しでも長い間、彼の側にいたくて明姫自身が長居をしてしまったのだから、理由にはならないのだ。

  あの夜、ユンは宮殿の正門前まで明姫を送ってくれた。そして、物陰から

 ―私はここで見ているから、行きなさい。

  と、保護者ぶって言った。

  明姫は背後のユンを気にしながら、何度か振り返ったけれど、ユンの姿は見えなかった。物陰からひそかに見ているのか、既に帰ってしまったのかは判らなかった。

  別に門兵に姿を見られても構わないのにと思うのだが、彼の用心ぶりは度を超しているようにも思えた。

 「本当についてないわね、このところ」

  明姫は独りごち、溜息をつく。

  ついてないのはユンに出逢ってからだと思いたいところだが、その実、溜息の原因は当のその男に逢えないからだとは死んでも認めたくない明姫であった。

  今、ユンは何をしているのだろうか。また、ソル老人の見舞いに訪れている?

 側にはマルや美貌の未亡人ソギョンもいて?

 ユンが美しい微笑みをソギョンに向けているところを想像しただけで、胸がキュッと振り絞られるように痛む。

  ああ、私ってば、一体何を考えているのかしら。明姫はまたしても大きな吐息を吐き出し、痛む脚を庇うようにして歩く。

  宮殿は広大で、国王の住まう大殿を初め、幾つもの殿舎が並び立っている。今、明姫は殿舎と殿舎を繋ぐ石畳の通路を歩いていた。極彩色の建物が春の陽射しに眩しく輝いている。

  明姫はまた立ち止まり、脹ら脛をさすった。そっとチマの裾をめくると、痛々しく腫れ上がった脹ら脛が現れた。数日前、約束を破り門限を守れなかった罰として、崔尚宮に鞭でしこたま打たれた跡である。

 ―どうして、そなたは約束が守れぬのだ。私がどれほど心配したか、判っているのだろうな。

 崔尚宮にしてみれば、明姫が一向に帰ってこないので、災難に巻き込まれたのかと心配したらしい。表沙汰にはしていないが、実の伯母と姪だけに、やはり案じてくれたのだろう。

 その心配が高じて大きな怒りとなり、その日の鞭打ちはいつもよりも力が入っていたような気がする。伯母の心配は嬉しいが、鞭でぶたれるのは嫌だ。

  この傷が治るには、かなりの時間がかかりそうだ。明姫は今日、幾度めになるか知れぬ溜息をつき、また歩き始める。そのときだった。

  ふいに背後から大きな手で口許を塞がれ、明姫は身を強ばらせた。

  なに? どうしたの?

 極度の混乱状態に陥り、渾身の力を出して抗う。王宮は格段に広いのだ。賊の一人が例えば下働きになりすまして入り込んだところで、見抜けられるものではなかった。

  だが、領議政のように時の権力者というのならともかく、一介の下っ端女官を殺害したところで得をする者がいるとは思えない。国王の妃というのならまだ判るが―。

  それとも、生命が狙いではなく、別のものが目的だとか? しかしながら、後宮の女官を陵辱したりしようものなら、その者は断罪に処せられるのが通例である。女官は国王の所有物だから、国王の女に手を付けたと見なされるのだ。

  明姫が予想外に抵抗したため、不埒者も慌てたようだ。後ろから羽交い締めにされた手に更に力がこもった。

 「おい、落ち着け。頼むから、暴れるな」

  賊の声が耳許で囁く。なおも全力で抵抗する明姫の耳に潜めた声が飛び込んできた。

 「明姫、私だ」

  この聞き憶えのある声は。

 明姫はハッとして抵抗を止めた。

 「あなた―」

  思ったとおり、眼前にあるのはユンの整った顔である。


「何で、こんな馬鹿げたことを―」

  言いかけた明姫に向かって、〝シッ〟と自らの唇に人差し指を当ててみせる。

 「今夜、二人きりで逢おう」

「なっ―」

 あまりの展開に言葉も出ない。

 「後宮の一角に、桜草が群れ咲いている場所がある。今は使われなくなって久しい殿舎の庭園だ。その殿舎で待っていてくれ」

  言うだけ言うと、ユンは何食わぬ顔で明姫から離れた。後は振り向きもせずに通路を足早に歩き去っていく。今日も、蒼の官服を纏っていたから、仕事の途中なのだろうか。

  まったく、何の部署にいるかは知らないが、昼日中から逢い引きをしようと迫ってくるとは、見かけによらず大胆な男だ。

  だが、明姫は心が弾むのを抑えられなかった。ユンとまた逢える。しかも、二人きりで。

  夜であれば、時間をさほど気にする必要もない。明姫は後宮生活も長く、いっぱしの女官として認められているから、一人部屋を与えられている。相部屋であれば、人眼や時間を気にする必要があるけれど、一人なら、ある程度の自由がきく。

 極端な話、夜明けまでに自室に戻れば良いのだ。もっとも、幾ら何でも、そこまでユンと一緒に過ごすつもりはないが。

 その日は夜になるのが待ち遠しくてならなかった。我ながら、現金なものだ。

  一日の勤めを終え、やっと自分の居室に戻れた。明姫は更に時間が過ぎるのを待った。ユンは刻限の指定まではしなかったが、常識的に考えて宵の口ではないはずだ。夜更けでなければ、誰かに二人で逢っているところを見つけられる可能性があるからだ。

 なので、かなり夜が更けるのを待ってから、明姫はそっと部屋を抜け出した。足音を忍ばせ、廊下をひた歩く。万が一のときを考えて、着ているのは女官のお仕着せだが、編んだ髪にはユンが買ってくれた灰簾石(タンザナイト)の簪を挿し、チョゴリの紐にはお揃いのノリゲを付けていた。

  既に部屋を出る前、鏡を覗き込んで何度も確認済みなので、おかしいところはないはずだ。女官は中殿と呼ばれる王妃や側室より目立ってはいけない。だから、普段は地味な装いを義務づけられている。間違っても華美な装飾品で身を飾ることは許されない。

  しかしながら、人眼のない真夜中まで、それをとがめ立てられはしない。せめて好きな男に逢うのだから、これくらいのオシャレはしておきたい。

  好きな男に逢いにゆく。その事実に明姫は今更ながらに心躍らせていた。心臓は嫌が上にも鼓動を速めている。 「桜草が群れ咲いている殿舎、かなり遠いのね」

  明姫はユンが待ち合わせ場所に指定した殿舎の前に立ち、周囲を落ち着きなく見回した。ここは後宮の外れに位置する。また住む人もおらぬ今は、昼間でも滅多に近くを通る人はいなかった。

  更に、この殿舎にはいわくがある。先代の王の側妃の一人がここに暮らしていたのだが、自ら自害したと伝えられているのだ。

  その妃は国王の寵愛も厚かったが、低い家門の出身で後ろ盾となる後見人もいなかった。力のある後見がいないというのは、後宮の妃たちの勢力図にそのまま影響する。つまり、錚々たる後ろ盾のある妃たちの間で、肩身の狭い想いをするということだ。

 自害して果てた当時、妃は身籠もっていた王の御子を流産した直後であったことから、死を選んだ動機はそれゆえだろうと憶測された。ただ、その頃、妃の許に幼い世子が頻繁に出入りしていたという。まだ七歳ほどの幼い少年であった世子は生母である王妃よりも、この寡黙で儚げな妃を母のように慕っていた。

  そのため、王妃が ―あの妃は我が幼き王子を誑かしている。世子を手なずけて味方にしようとしているのだ。  とノイローゼ状態になったことあるほどだったとか。

  もちろん、成人した王子ならばともかく、わずか七歳の幼子が妃の許に出入りしたからといって、国王もそれを咎めだてするはずもかった。  が、王妃の妃に対する風当たりは次第に強くなり、ついに妃が王の何人目かの御子を懐妊したと判るに至って、妃を呼びつけて鞭打つという事態にまで発展した。

  たとえ王妃といえども、国王の御子を宿した側室を鞭打つのは許されることではない。国王は王妃のあまりの嫉妬深さを嫌悪し、その心はますます妻から遠のいた。

  そんな酷い所業が許されたのも、王妃が時の朝廷で重きをなす左議政ペク・ヨンスの実妹だったからだといわれている。果たして鞭打たれたのが原因かどうかは判らないが、妃はその事件後、ショックで寝込みがちになり、一ヶ月後に流産した。彼女が自ら殿舎の梁に紐をかけて首をつったのは流産後まもなくのことだった―。



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