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§ 7

 数時間後、また俺はキャバクラの奥まった席に座っていた。水をゴクゴクと飲む。うまい。ただ相変わらず他に客もいないしお姉ちゃんもいないので、暇を潰すのが困難だった。そういえばここには窓がないのか? 壁を見ると一箇所だけ暗幕のかかった窓があった。他に客もいないことだし開けてもいいかとウェイターに尋ねると、快くOKしてくれた。
 暗幕が開かれて太陽の光が店内一杯に広がると、猥雑で妖しげな雰囲気がこそげ落とされ、部屋中を舞うほこりが悲しいまでに浮き彫りになった。艶っぽかった絨毯もミラーボールも色あせて見えた。窓の外にはいつもファミレスで見ていた青いだけの空と白いだけの雲が見えた。男が来たらファミレスに戻りたいと言おう。あっちの生ぬるさのほうがはるかにいい。
 店の入口の重々しい扉が開いて男が現れた。俺が手を挙げると男は俺の前まで来たが、ソファに座らず棒立ちになっていた。
「なにしてんだよ、座れよ」
 俺は席を勧めたが、男は棒立ちのまま呟いた。
「なんだよこれ」
「なんだよって、何がだよ」
「どこなんだよここは」
「キャバクラだろうが」
「何でお前……裸なんだよ」
 野暮なこと言うもんだ、自分で裸にしといて。さすがの俺もパンツ一丁で心中穏やかというわけにはいかないが、人様の役に立つためには己の羞恥心さえかなぐり捨てるこの心意気。そもそも全部こいつに買ってもらったものだから強く言える立場ではないのだが。
「服、どこやったんだよ」
 こいつ自分のしたことを忘れたのか? 頭が変だとは思ったけどボケちまったのか。いちいち説明するのも面倒くさい。
「お前が全部持っていったんだろうが」
「いつだよ」
「数時間前」
「んなわけねえだろ! どうなってんだよ!」
 男はウェイターを捕まえ、管理人を呼べと詰め寄っている。呆然とそれを眺めていると、すぐさま入口から執事っぽい雰囲気の老人が入ってきて男のそばに駆け寄ってきた。
「どうしました、お客様?」
「相棒の服が盗まれたんだよ!」
「ただいまお調べいたします。少々お待ちください」
 老人は手帳を取り出すとページをめくって何かを調べ始めた。
「お客様が最後に来店されたのはいつでしょうか?」
「おととい」
「昨日および四時間ほど前に来店の記録がございますが、いらしていないということで間違いありませんか?」
「いらしてないよ!」
「ここに直近一ヶ月の来店記録がございます。ご確認いただけますか?」
 男は老人から手帳を引ったくり、ページをあちこちめくって内容を確認している。
「なんだこれ、この日は残業で忙しくて来てないんだけど、来たことになってる」
「ログには何か残っていらっしゃいますか?」
「ログ? そんなのあんの?」
「いつもテーブルに置いてあるメモ帳です」
 老人にそう問われて男はテーブルからメモ帳を拾い上げ、ガシガシとページをめくった。
「その日だけなんにも書いてない」
「その前後で何か変わったことはございましたか?」
「あ、その日よりあと、久しぶりに来たときに相棒がウィルスに感染してた!」
「普段はどちらから来店されていました?」
「職場のパソコン」
「なるほど」
 老人は男から手帳を返してもらってなにやら書き込みながら、現時点でわかる状況を説明し始めた。
「アカウント情報が盗まれて何者かが『成りすまし』を行っていた可能性があります。不正アクセスされていた残業の日のログはウィルスによって抹消されたのかもしれません。近頃、ガム状のウィルスが流行しているんですよ」
「ちょっと待って、最近何人かの友達が個人情報流出したかもって言ってたんだけど」
「断定はできませんが、アドレス帳から抜き取られた恐れはありますね」
「意味わかんない!」
 男は怒りのやり場に困ったのか、今度は俺のほうに突っかかってきた。
「相棒、あんたニセモノに全然気付いてなかったわけ?」
「なんだよニセモノって。俺はお前としか会ってねえだろうが」
「ああもう、なんで平気でニセモノに気を許してんの? 心底バカなの? ねえ、バカなの?」
 男に理不尽にまくし立てられて俺は狼狽するほかなかった。見かねた老人が間に割って入った。
「お客様、『相棒』はアカウント情報でしかお客様を認識することはできないのです。『相棒』にとって向こう側に誰がいようと同一人物なんですよ。責めるのは酷です」
「じゃあなに、管理人のあんたは何してくれんの? あたしは相棒の服とかカツラとかに結構お金かけてんだけど。全部返してよ」
「申し訳ございません。『相棒サービス』においてお客様のアカウントで行われたことはお客様自身がなさったこととみなし、当方では一切補償いたしかねます」
「ふざけないでよ!」
 男と老人の会話の内容はいまいちよくわからなかったが、俺は男がこんなに激しく怒って乱れているのが新鮮でおかしかった。手に持ったライムキャンディを床に叩きつけたりしている。確かに普段から生意気だが、リミッターが外れるとこんなことになるんだな。
「なあ」
「なによ?」
「何でお前、そんな女みたいなしゃべり方なんだよ」
「ちょっと黙っててよ!」
「落ち着けって、ほら、窓の外見てみろよ。さっき思ったんだけどあの雲さ、グラマラスなギャルが反復横飛びで足を滑らせてシリモチをついた瞬間を上下逆さまにした姿に見えないか?」
 男はもはや俺の言葉を完全に無視し、老人に対してもう二度と使わないだとか退会処理がどうとか口うるさく喚いた挙句、俺に一言もなしに店から出て行ってしまった。老人もいなくなり、店内には俺とウェイターだけが取り残された。
 なんとなくだが、これでもうあの男とは会うことはない気がする。つまり今後一切あの男に縛られることはない。突然のことでこれからどうなるかわからないが、自由になることへの期待もあり不安もある。ただ、事実は案外つまらないものなのだろうという予感だけは確信に近いものがあった。

End

この本の内容は以上です。


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