閉じる


<<最初から読む

6 / 10ページ

§ 5 (1)

 最近気になることがある。このファミレスにはどんなメニューがあるのかということだ。
 俺はここでコストパフォーマンスが最大の、おかわり自由なコーヒーしか注文したことがない。もちろんコーヒーはうまいし、毎回おかわりを注ぎに来てくれるウェイトレスは眼福となっている。しかしだ、向こうのテーブルの若奥様二人組がついばんでいるバベルの塔みたいな巨大パフェとか、一度は口にしてみたいではないか。きっと他にもいろいろあるんだろう。
 だがあの男は俺にコーヒーを飲むことしか許さない。金を一銭も持っていない俺の立場の弱さは絶望的だ。ちくしょう、俺が食えないバベルの塔なんて神の怒りに触れて瓦解しちまえ! ぶちまけられたアイスクリームとかコーンフレークとかマンゴーソースが、オーガニックコットンのワンピースにべっとり付着すればいいんだ。そんで奥様方の言葉も通じなくなって、哀れピーチクパーチクさえずることもできなくなってしまえ。
 改めて考えるに、この店での俺の不自由さには再考の余地がある。あの男がすべてを掌握し、俺はあいつが来る前からスタンバイしてないといけないし、あいつが帰っていくのを見守っていなければならない。忠犬のように。俺は猫になりたい。気の向くまま出入りして好きなときにあの男の前に現れて、普段はお気に入りの昼寝ポイントでぐうたらしていたい。
 それが叶ったとき、俺の心はどう変化するんだろう。好き勝手動き回っていても根本ではあの男に依存したまま、縛られたままだろうか。もしあの男から解放されたら、それは幸せなんだろうか。存在意義を失った俺はひょっとすると、そのまま煙のように消えていなくなってしまうんじゃないか? 存在と存在意義はイコールであって切り分けできるものじゃないような気がするぞ。
「お前さ、いつまで考え事してるわけ?」
「ぬおっ」
 いつからか知らないが男が目の前に座っていた。俺の目を盗んで席に着くとは恐れ入ったが、それ以上に俺が物思いにふけって油断していただけとも言える。俺は気が動転して言葉を発することができなかったので、とりあえずコーヒーカップを置いて男が何か言うのを待った。男は読んでいたメモ帳をおもむろに閉じて一言発した。
「だりいー」
 取り立てて言うことはなかったようだ。
「どうした、疲れてんのか?」
「疲れてるよ」
「仕事か?」
「仕事だよ」
 絵に描いたようなオウム返しだ。俺は面倒くさくなったのでそれ以上何も聞かないことにした。というか、話すこともないなら俺の思索の邪魔をしないでほしいものだ。俺はものごとを深く考えるのが得意な方じゃないし、一旦流れをぶった切られるともう何を考えていたか忘れてしまう。運よく波に乗った数少ないチャンスを無意味に台無しされたら、いくら温厚で名の通った俺でも、さすがに、
「怒ってんのか相棒」
「お……怒ってねえよ」
 まるで考えていることを見透かされていたかのように絶妙なタイミングでこの男は突っ込んでくる。気が抜けない。
「つーかさ、お前の考えてることは全部、頭の上の吹き出しに表示されてるんだよ」
「なんだと」
 俺は鳩のような俊敏さで頭上を見上げた。視線の先にはのっぺりとした白い天井があった。他には何もない。俺は己のうかつさを悔いた。
「そんなもんあるわけないのに、何で見てしまうんだ」
「バカだからじゃねえの」
「返す言葉もねえ。だがバカって言う方がバカだっていう俗説もあるぜ」
「じゃあその根拠を論理的に説明してみろよ。そんなもん子供の口げんかの応酬モデルのひとつだろ。他人をバカって言えるのは知性で勝ってる人間の特権だ、覚えとけ」
「ちくしょう、何も言わなきゃよかった」
「そもそも返す言葉もねえって言っといて速攻返してんじゃねえよ」
「今日はやけにつっかかるな」
「別に」
「今日の情報でも聞いてクールダウンするか?」
「悪くねえな」
 虫の居所が悪い男の相手をするのは俺自身骨が折れるし、男にとってもいいことではない。だから俺はいつもの収集情報と例のミュージシャンの噂話を、風刺を利かせたり無駄に韻を踏んだりしながら面白おかしく語ってやった。少しでも楽しい気分にさせるために持てるスキルを存分に駆使した。こんな俺のかいがいしさを、この男が評価することはないだろうが。
「以上、報告終わり。ご清聴ありがとうございました」
「ご苦労。いいレポートだったよ」
「本当か? じゃあひとつお願いがあるんだが」
「俺にか?」
「ご褒美として、コーヒー以外にも何か注文させてくれよ」


§ 5 (2)

 ここぞとばかりに俺は嘆願した。
 男は機嫌がいいときに思いつきで土産をくれることはあっても、俺の要求を呑んだことは一度もない。だからこのお願いが却下されることは目に見えている。だがしかし、仕事の報酬がファミレスのコーヒーだけというのはどうなのか。足元を見られて労働力を買い叩かれて、正常なクライアントとサプライヤの関係と言えるのだろうか。
 逃げたりするんじゃなくて俺が正当に男から解放されるには、まず男と対等に交渉できる立場にならなきゃいけないだろう。だからこういった問題提起をして俺の価値を示してやる必要がある。男は数秒沈黙した。俺は期待をこめて待った。男が口を開いた。
「寝言は寝て言え」
 待った割にはずいぶんな言い様だった。俺は食い下がった。
「だけど俺の働きってコーヒー一杯程度のもんじゃないだろ。もっと役立ってるだろ?」
「コーヒーは無限に飲めるだろうが」
「そういう問題じゃねえ。俺の価値の話をしてんだよ。俺はお前の何なんだよ」
「うるせえな。恋人同士の会話かっつーの」
「真面目に答えろよ」
「お前は俺の大切な相棒だ。アリガトネー」
「じゃあ大切な相棒の働きを認めて、ウェイトレスにメニューを持ってこさせてくれよ」
「いやだね。お前が集めてる情報なんて別に、俺が自分で集めてもいいんだ。だけどお前に仕事をやらなかったら、お前は何のために存在することになるんだ? 俺にとっての価値というよりお前のためなんだよ。お前がお前であるためにお前は仕事をする。俺はそれを手助けしてやってる上にコーヒーまでおごってやってるんだ、感謝しろバカ」
「そうか。でも俺は……」
「つーかお前、コーヒー以外のこと知らねえだろ」
「いや、ほら見ろよあのパフェ、すごくないか」
「クソして寝ろ」
 取り付く島もないとはこのことか。
 男の言っていることが本音かどうかは俺にはわからない。俺にはそこまでの洞察力がない。でも言っている意味はわかる。悔しいがやっぱり俺は男がいないと生きていられないと考えるしかない。でもそのことはもういい。とりあえず、パフェをゲットするには機嫌がいいときを狙うのが賢明だってことは確かだ。
 男はさらに不機嫌さを増してしまったようで、一言も発しなくなってしまった。仕方なく俺は話を替えることにした。
「それにしてもあれだな、あのミュージシャンはすごいな」
「……何がだよ」
「いやさ、執行猶予が付いたとはいえ犯罪者だぜ。それでもこの四年間全くファンは離れてないし、それどころか増えてるし。歌詞はけっこう過激でひどいけど、それが逆にイイんだろうな」
「そうなのかもな」
「逮捕の後も、よく出演してたライブハウスに親しくしてたバンドが集まって、そのミュージシャンの曲だけをやるイベントを定期的にやってるらしいし」
「ふーん」
「お前、実は興味ねえだろ」
 男の口調から不機嫌さが抜ける気配はない。男にとってそのミュージシャンは心の中のかなり重要な部分を占めていると思っていたが、俺の思い過ごしだったのか。いや、単に情報に新鮮味がなかったから食い付きが悪いに違いない。俺が集めている情報は男自身も集められると言っていたが、こいつにも見つけられない情報を俺が見つければ、さすがに俺の価値を認めさせられるんじゃないか。それはいい考えのような気がする。俺がそのアイデアにひとりほくそ笑んでいると、男がぼそっと呟いた。
「あのさ」
「なんだよ」
「俺がさ」
「お前がなんだよ」
「俺がそのミュージシャンだって言ったらどうする?」
「は?」
 突然のカミングアウトに俺はのけぞった。
 こいつがその、例のミュージシャンだって?
 一瞬の空白のあと、俺は持てる情報を総動員して男とミュージシャンの共通点を分析しようとした。しかしすぐに挫折し、男の発言をどう処理すればいいのかわからず困惑した。冗談として笑って受け流すか、真面目な告白として正面から受け止めるか。正面から受け止めてもいいのだが、その場合、それはそれで様々な困難に直面する。もしかして俺は今試されているのか?
「何だよお前、信じないのか?」
 男は詰め寄ってきた。俺は態度を決めかねてしどろもどろになった。
「信じる信じないじゃなくてさ……」
「何が言いたいんだよ」
「だってよ」
「なんだよ」
「だってそのミュージシャンって……女じゃねえか」
 男は黙りこくってしまった。
 俺はつい一番ストレートな突っ込みをしてしまったが、何と答えるのが正解だったのだろうか。もし男が本気で言っていたのなら、頭がどうかしてしまったとしか結論付けられない。やっぱ笑い飛ばすのが正解だったのか。しまったな。
「そうだな」
 男は一言そう言うと、伝票を手に取って帰っていってしまった。

⇒ Next § 6

§ 6 (1)

 調べれば調べるほど、興味深いっちゃあ興味深い。例のミュージシャンのことだ。
 ファンによる地裁での公判のレポートを読むと、彼女は心を入れ替えて一旦音楽活動を休止し、しばらく福祉活動に従事した後、実家の仕事の手伝いをすると述べたらしい。人気はあったのでしばらくマスコミも彼女の動向をウォッチしていたようだが、真面目にやっていてネタがなかったからかあまり報道はされていない。実家は輸入雑貨の店をいくつか経営していて、彼女は事務とか雑用とかをやっているようだ。さすがに雑貨の買い付けに国外へ出ることはないようだが、国内出張ならなくもないだろう。
 そこから意外な結び付きを見せるのが、これまでずっと俺が集めてた情報だ。最初に男に会った時から依頼されていた情報収集の中身というのは、世界中の珍しい小物とか、人気の輸入雑貨店の口コミとか、彼女の仕事の内容にかなり近いのだ。これだけで判断するのは危険だが、もしかすると、男と例のミュージシャンは本当に何かしら関係があるのかもしれない。
 顔を上げると、男は俺の正面でまだメモ帳を読みふけっていた。コーヒーは一口啜っただけで冷めてしまっている。俺は自分のコーヒーのおかわりだけを頼み、窓の外を眺めた。空は珍しく曇っていた。
「今はどう思ってるんだ?」
 男はメモ帳を置いて俺に尋ねた。
「なんのことだよ」
「きのう俺が言ったことだよ。俺が例のミュージシャンだってこと」
「そんなもん、お前のクソつまんねえ冗談だろうが」
「正直に言っていいから」
「正直に言ってるよ」
「正直に言ってくれれば、ウェイトレスにメニュー持ってきてもらうぜ相棒」
「マジでか」
 ついうっかり口を滑らせ、慌てて首を振った。俺は正直に言っている。正直に言っている。
「なんでそんなに隠すんだ。どうせお前の考えてることなんて筒抜けなのに」
「そうなのか?」
「俺が集めるように依頼してた情報が、例のミュージシャンの実家の仕事に関係している。そうだろ?」
「お前はエスパーか? それともほんとに吹き出しが?」
 俺は頭上で手を振り回した。手は何も触れず、ただ空を切った。男はため息をついた。
「バカには見えない吹き出しだよ」
「またバカバカ言いやがって」
「でな、お前の考えてる通り、関係してる。もう一度言うが、俺が本人なんだよ」
「意味がわからん」
「お前の知ってる俺の性別って、そんなに確かなものかよ?」
「だから意味がわからんって。それより正直に言ったんだからメニュー」
「俺が当てただけだからダメだ」
 なんだか俺は男の手のひらで踊らされてるだけのような気がする。そして男の言っていることが本気でわからん。性別を詐称してるってことか? そんなことできるのか?
「相棒、俺は――ここで言う俺ってのは彼女じゃなくて俺なんだが――彼女のちょっとしたファンだったよ。だから彼女を見かけたときは嬉しかった。実家の手伝いをしてるって知って応援もしてた。でもな、思っちまったんだ。彼女も一応は前科者だ。それでもファンは大勢いるし、仕事もして平和に暮らしてる。音楽活動を再開できるのかどうかは知らないけど、どっちにしてもそこまで不幸じゃないさ。でも俺は何の罪も犯してないしずっと真面目に生きてきたのに、いつまで経ってもただのバイトだし友達もいないし、そんなに根性の曲がったこと言いたいわけじゃないけどやっぱ何がこの差を生むんだろうとは考えちまうよ。ちゃんと働いてるのに店長はなんで俺ばっかいびるんだよ。俺よりミスってるやつはいっぱいいるし、俺はサボってもいねえのに。だから彼女がここで『会計を忘れた』ときに魔が差したのは俺だけが悪いんじゃねえんだ」
 男はいつもと違って暗く落ち込んだ口調で語っている。俺はじっと聞いているが、前回以上にどうリアクションすべきかわかりかねる。思わず口を挟んだ。
「お話し中悪いんだけど」
「ああ」
「俺にも理解できる話と理解できない話ってあってな。今のお前の話は残念ながら、理解できない側の世界から発信されてるようだぞ」
「そうかよ。まあバカだから仕方ないな」
「身も蓋もねえな」
「そうだ。彼女風に言うとバカなんだよお前は。まあこの場合に限っては、バカって言う方がバカってのは当たってるのかもな」
「すみません。また意味がわかりません」
「諦めろ」
「なあ、お前があのミュージシャンなら、彼女ってのはお前のことだろ。えーと、お前が彼女を見かけたってのはお前がお前を見かけたんであって、つまりそこには鏡があって」
「好きなだけ考えろ。どうせわかんねえよ」


§ 6 (2)

 律儀に筋道立てて考えようとするが、男の言うとおりどうせわかんねえような気がする。ひょっとすると、俺を混乱させて楽しむためにでたらめを言ってるだけかもしれないし。こいつは根性が曲がってるからな。だとしたら考えるだけ無駄だ。どっちにしろ事実なんてのはたいていつまらないんだ。男の頭が変になってるのだとしても、それもつまらない。俺が頭の変な男のためにあくせく情報を集めてるんだとしても、それがどうした。つまらん。俺が考えるのもつまらん結果のためのつまらん作業であって、まったくもってナンセンスだ。俺の存在意義がなんだ? 男から自由になったらどうなるかなんてのも、知ったら知ったでつまらないのに、じゃあどうして俺は存在していなきゃならねえんだってのもわからねえ上に、どうせわかってもつまんねえんだろちくしょう!
「そう悲観的になるなよ相棒」
「うるせえ」
「俺のネガティブさが移っちまったのかな。言っとくが、お前はそんなに不自由じゃねえよ」
「鎖に繋がれたアワレな番犬だよ」
「どこか行きたい所はあるのか?」
「このファミレス以外だったらどこへでも」
「じゃあ行こうぜ」
 男はそう言うと立ち上がり、俺にも起立を促した。俺は戸惑いながらノソノソと腰を上げ、男の後について店の入口へ歩いていった。いつも男が現れ消えていくあの入口だ。
 まさかの急展開に心の準備ができていなかったが、入口が近づくにつれ、自分の世界がジワジワと拡張していくのを実感した。それは身震いするような興奮だった。その先に何があるのか、それはつまらない事実だったとしても、そこに到る度に俺の世界は少し変わるんじゃないかという期待もあり、それを求めるのも悪くないなという気がした。
 入口を抜けると長い廊下に出た。ファミレスの入口と同じように、廊下に沿っていろんな店の入口が並んでいた。ハンバーガー屋、定食屋、居酒屋、バーなどの看板が見えた。どれも基本的に飲食店だった。
「相棒、どれがいいんだよ」
「おお、そうだな……」
 俺は右へ左へ目移りしながら品定めをしていった。そもそもどれも未体験ゾーンなので、欲を言えば全部入りたい。謙虚に言えばどれでもいい。
「すまん、俺には選べねえよ」
「しょうがねえな。じゃあそこにするか」
 男はファミレスの隣のきらびやかな店に入っていった。男の後ろにくっついて入口をくぐると、薄暗い店内にはソファが所狭しと並べられており、天井にはくす球みたいなミラーボールが吊り下げられて壁や床を細かく色鮮やかな光で照らしていた。
「なんだよここ」
「キャバクラだな」
 俺らはいちばん奥のL字型の席に、お互い九十度の位置で座った。
「相棒、俺は金がないからお姉ちゃんは呼べないし、ドリンクも水だけだ」
「構わねえよ。ただ俺の乏しい知識で言わせてもらうと、こういう店って時間制で全部込みの料金なんじゃないのか。入るだけならタダってことあるのか」
「本来ならそうだな。ここは特別なんだよ」
 男前のウェイターが水を持ってきてテーブルに置いた。店内には俺ら以外の客はいなかった。もちろんスポーツ新聞を読む土方のおっさんも、延々としゃべり続ける若奥様方もいない。お金のかかるお姉ちゃんもいないのでしんと静まり返っている。賑々しい内装が対比となって一層寂しさを増している。これならファミレスのほうがよかったな、とちょっと思った。
「こんなもんだよ事実ってのは」
 男はため息と同時にそうこぼした。
「金があれば別なんだろ?」
「だから、金がないとこんなもんだって言ってるんだよ」
 俺は水を一口飲んだ。キンキンに冷えていてうまかった。金がないと寂しいが、金がなくても水はうまい。男に金がないとファミレスで俺らが会うこともままならないが、男に金があろうとなかろうと俺は好きなことを考えていることができる。金ってのは不思議なもんだ。金でできることとできないことって、どこでどうやって決められてるんだろう。
「なあ、相棒」
 男が俺に話しかけてきた。俺は耳を傾けたが、男はそのまま黙り込んでしまった。俺は次の言葉を待った。辛抱強く待った。
「俺は金が必要なんだ」
 男は搾り出すようにその言葉を吐いた。
「ああ、だから働いてるんだろ。出張に行ったりして。大変だな」
「それは俺じゃないが、まあ俺ではあるけど、それ以上にもっと金が必要なんだよ」
「よくわからんがそうか。しかし俺じゃ金に関しては役に立てねえよ。俺は情報を集めるだけだ。すまんな」
「わかってる」
 男はまた黙り込んでしまった。どうも今日はしんみりしてしまう。俺は水をもう一口飲んだ。男は一気に一杯飲み干してから言った。
「相棒、お前は俺から自由になりたいんだな。俺の自由とお前の自由は根本的に違うんだが、俺の場合、自由には金が必要なんだ」
「厳しい世の中だな」
「お前は情報を集める以外にも、俺のために役立てることがあるんだよ、実は」
「そうなのか。だったらなんなりと言ってくれ」
「お前は最高の相棒だ」
「照れるぜ」
「じゃあ、着ているもんを全部脱いでくれ。そのアホみたいなアフロヘアーもだ」

⇒ Next § 7

§ 7

 数時間後、また俺はキャバクラの奥まった席に座っていた。水をゴクゴクと飲む。うまい。ただ相変わらず他に客もいないしお姉ちゃんもいないので、暇を潰すのが困難だった。そういえばここには窓がないのか? 壁を見ると一箇所だけ暗幕のかかった窓があった。他に客もいないことだし開けてもいいかとウェイターに尋ねると、快くOKしてくれた。
 暗幕が開かれて太陽の光が店内一杯に広がると、猥雑で妖しげな雰囲気がこそげ落とされ、部屋中を舞うほこりが悲しいまでに浮き彫りになった。艶っぽかった絨毯もミラーボールも色あせて見えた。窓の外にはいつもファミレスで見ていた青いだけの空と白いだけの雲が見えた。男が来たらファミレスに戻りたいと言おう。あっちの生ぬるさのほうがはるかにいい。
 店の入口の重々しい扉が開いて男が現れた。俺が手を挙げると男は俺の前まで来たが、ソファに座らず棒立ちになっていた。
「なにしてんだよ、座れよ」
 俺は席を勧めたが、男は棒立ちのまま呟いた。
「なんだよこれ」
「なんだよって、何がだよ」
「どこなんだよここは」
「キャバクラだろうが」
「何でお前……裸なんだよ」
 野暮なこと言うもんだ、自分で裸にしといて。さすがの俺もパンツ一丁で心中穏やかというわけにはいかないが、人様の役に立つためには己の羞恥心さえかなぐり捨てるこの心意気。そもそも全部こいつに買ってもらったものだから強く言える立場ではないのだが。
「服、どこやったんだよ」
 こいつ自分のしたことを忘れたのか? 頭が変だとは思ったけどボケちまったのか。いちいち説明するのも面倒くさい。
「お前が全部持っていったんだろうが」
「いつだよ」
「数時間前」
「んなわけねえだろ! どうなってんだよ!」
 男はウェイターを捕まえ、管理人を呼べと詰め寄っている。呆然とそれを眺めていると、すぐさま入口から執事っぽい雰囲気の老人が入ってきて男のそばに駆け寄ってきた。
「どうしました、お客様?」
「相棒の服が盗まれたんだよ!」
「ただいまお調べいたします。少々お待ちください」
 老人は手帳を取り出すとページをめくって何かを調べ始めた。
「お客様が最後に来店されたのはいつでしょうか?」
「おととい」
「昨日および四時間ほど前に来店の記録がございますが、いらしていないということで間違いありませんか?」
「いらしてないよ!」
「ここに直近一ヶ月の来店記録がございます。ご確認いただけますか?」
 男は老人から手帳を引ったくり、ページをあちこちめくって内容を確認している。
「なんだこれ、この日は残業で忙しくて来てないんだけど、来たことになってる」
「ログには何か残っていらっしゃいますか?」
「ログ? そんなのあんの?」
「いつもテーブルに置いてあるメモ帳です」
 老人にそう問われて男はテーブルからメモ帳を拾い上げ、ガシガシとページをめくった。
「その日だけなんにも書いてない」
「その前後で何か変わったことはございましたか?」
「あ、その日よりあと、久しぶりに来たときに相棒がウィルスに感染してた!」
「普段はどちらから来店されていました?」
「職場のパソコン」
「なるほど」
 老人は男から手帳を返してもらってなにやら書き込みながら、現時点でわかる状況を説明し始めた。
「アカウント情報が盗まれて何者かが『成りすまし』を行っていた可能性があります。不正アクセスされていた残業の日のログはウィルスによって抹消されたのかもしれません。近頃、ガム状のウィルスが流行しているんですよ」
「ちょっと待って、最近何人かの友達が個人情報流出したかもって言ってたんだけど」
「断定はできませんが、アドレス帳から抜き取られた恐れはありますね」
「意味わかんない!」
 男は怒りのやり場に困ったのか、今度は俺のほうに突っかかってきた。
「相棒、あんたニセモノに全然気付いてなかったわけ?」
「なんだよニセモノって。俺はお前としか会ってねえだろうが」
「ああもう、なんで平気でニセモノに気を許してんの? 心底バカなの? ねえ、バカなの?」
 男に理不尽にまくし立てられて俺は狼狽するほかなかった。見かねた老人が間に割って入った。
「お客様、『相棒』はアカウント情報でしかお客様を認識することはできないのです。『相棒』にとって向こう側に誰がいようと同一人物なんですよ。責めるのは酷です」
「じゃあなに、管理人のあんたは何してくれんの? あたしは相棒の服とかカツラとかに結構お金かけてんだけど。全部返してよ」
「申し訳ございません。『相棒サービス』においてお客様のアカウントで行われたことはお客様自身がなさったこととみなし、当方では一切補償いたしかねます」
「ふざけないでよ!」
 男と老人の会話の内容はいまいちよくわからなかったが、俺は男がこんなに激しく怒って乱れているのが新鮮でおかしかった。手に持ったライムキャンディを床に叩きつけたりしている。確かに普段から生意気だが、リミッターが外れるとこんなことになるんだな。
「なあ」
「なによ?」
「何でお前、そんな女みたいなしゃべり方なんだよ」
「ちょっと黙っててよ!」
「落ち着けって、ほら、窓の外見てみろよ。さっき思ったんだけどあの雲さ、グラマラスなギャルが反復横飛びで足を滑らせてシリモチをついた瞬間を上下逆さまにした姿に見えないか?」
 男はもはや俺の言葉を完全に無視し、老人に対してもう二度と使わないだとか退会処理がどうとか口うるさく喚いた挙句、俺に一言もなしに店から出て行ってしまった。老人もいなくなり、店内には俺とウェイターだけが取り残された。
 なんとなくだが、これでもうあの男とは会うことはない気がする。つまり今後一切あの男に縛られることはない。突然のことでこれからどうなるかわからないが、自由になることへの期待もあり不安もある。ただ、事実は案外つまらないものなのだろうという予感だけは確信に近いものがあった。

End

この本の内容は以上です。


読者登録

イガラシイッセイさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について