閉じる


<<最初から読む

1 / 10ページ

§ 1 (1)

 俺はぼんやりと自分の爪を眺めていた。
 十枚ある爪はきれいに手入れされていて、突き出した先端部分は刃物のように薄く鋭く研がれている。まるで凶器だ。新聞紙くらいなら簡単にスパッと斬れるだろう。一振りで短冊の出来上がりだ。カッターナイフいらずな俺。図工の申し子。だがしかし、うっかりすると自分をも傷つけてしまう諸刃な俺。じゃあ切れよ爪。そりゃまあ、切れたらいいのだが。
 爪を眺めるのにも飽きたので、俺は窓の外に視線を移した。そこには青いだけの空、白いだけの雲、葉っぱをワサワサと繁らせた個性のない街路樹の行列と、真っ直ぐに横たわった灰色の地味な道路。それしかなかった。特に興味をそそらない。俺はさっさと視線を店内に戻した。
 この店は四人掛けのテーブルが数組あるだけでファミレスとしては規模が小さいほうだ。暖色系でまとめられた内装と、柔らかな照明で必死にリラクゼーション感を演出している。俺はこういった生ぬるい雰囲気が苦手だ。こういった場所でお行儀良くするのも苦手だ。体がムズムズし、意味も無く叫びだしたくなる。
 そんな居心地の悪いホールの中を、一人のウェイトレスが優雅に動き回っている。このウェイトレスがやばいくらいの美人である点こそ、この店の唯一にして最大の醍醐味だ。細長い首と短めのポニーテールが実によい。
 そういえば、あの男もしょっちゅう同じことを言っていたな。あの男と趣味が被らなかったことはただの一度もない。
 ウェイトレスは足音も立てずに俺のすぐ側を通り過ぎ、俺はその後姿を眺めつつ冷めたコーヒーをズズズと啜った。
  店内には俺の他に二組の客がいた。一方は近所で土方仕事をしていたであろう作業着姿のおっさんで、もう一方は暇を持て余している若奥様といった感じの女二人組みだ。
 おっさんのほうはスポーツ新聞を大きく広げ、ユサユサと貧乏揺すりをしながら、緩み切った下品な笑みを浮かべている。どうせヤラシイ記事でも見ているのだろう。飲み終えて氷だけになったグラスのストローを身を乗り出してくわえ、ゾゾゾと音を立てて吸うのが非常に鬱陶しい。おっさん、それもう空だから。おかわりを頼みなさい。
 奥様方はおっさんが奏でる不快な騒音にも気付かない様子でおもしろトークに花を咲かせている。いや、おもしろかどうかは内容が聞こえないのでわからないが、少なくとも彼女らは笑いを絶やさずに延々とトークマラソンを続けている。ネタはなくならないのだろうか。それとも同じネタを何度も繰り返しているのだろうか。話題のリユース、雑談の永久機関。
 人間観察を趣味とする俺としてはもっと彼らをウォッチングせねばならないところだが、この場合に限り、正直言ってしんどいものがある。
 なぜなら、俺の知る限り彼らはいつもこの店にいるからだ。
 いつも同じ席で、いつも同じことをしている。もう見飽きたのだ。何も新しい発見がないことがわかっているのに観察を続けるほど俺はストイックではない。それだったらウェイトレスのカスタードクリームのようにふっくらとした横顔を鑑賞していたほうが数万倍マシだ。しかし肝心のウェイトレスは厨房に下がってしまったのか、ホールにはいなかった。
 あーもう、暇だ暇だ! 
 俺は深いため息をついて、合成皮革の安っぽいソファにぐったりと崩れ落ちた。

 再び爪を眺めたり、砂糖やタバスコの栄養成分表示を熟読するなどの悪あがきを経て、ついにやることが無くなって途方に暮れた時だった。ウェイトレスがコーヒーのおかわりを持ってくるのと同時に、店の入口に一人の男が現れた。
 あの男だ。


§ 1 (2)

 俺は全身から力が抜けていくのを感じた。想像以上の脱力感だった。
 男はこっちに来ようとしているようだが、なにやらもたついている。歩き出しても時々立ち止まり、苦労してやっと俺の前に腰を下ろした。男は無言だった。何か言うことはないのか。俺は注がれたばかりのコーヒーを一口飲んでから、この小一時間に溜め込んでいた思いの丈を思い切り男にぶつけた。
「お前さ、帰るのはいいけど、会計も済ませないで出て行くとはこれ、どういうことだ? 俺が金を持ってないのは知ってるだろ。誰がここの支払いをするんですか? なあ。俺はお前が戻ってきてくれるのを子犬のように健気に待つしかなかったんだぞ。この寂しさがお前にわかるか? 今俺が心の中で無様に尻尾を振っているのがお前にわかるか?」
 男は何も言い返さなかった。
 ひょっとして反省しているのだろうか。反省しているとなると一方的に責めるのは気が引ける。というよりも調子が狂う。この男は普段が生意気なだけに、こうやって黙り込まれるとこっちが悪いことをした気分になってしまう。
「いや、いいけどね、戻ってきてくれたんだし。あ、コーヒー飲む? 払うのはお前だけど。すみませーん、お姉さんコーヒーひとつ。それにしてもよく気付いたな。あ、会計を済ませてなかったってことにだよ。そこがお前のすごいところだよ。普通さ、帰ってひとっ風呂浴びて布団に入っていびきかいて寝て、朝起きて便所で一踏ん張りしてるときに気付くもんだろ。その気付きスキル俺はいいと思う。世界に通用する能力だね本当に」
「はいはい」
 俺の怒涛の全力フォローが功を奏し、男はようやく口を開いた。俺はほっとした。
「それで実際のところ、どの辺まで行ったところで気付いたんだ?」
「……気付いたというか、急に雨が降ってきてな。傘はないし、止むのを待ったほうがいいと思って戻ってきたんだ。そうか、会計がまだだったのか。悪かったな」
 俺は窓の外を見た。そこには相変わらず青いだけの空と、白いだけの雲があった。
「そうか。まあいいや。あ、コーヒー来たぜ」
 男はゆっくりと一口だけコーヒーを口に含んでカップを置いた。
 意味不明な言い訳をするところからして相当傷は深いようだ。しかも語り口が異様に重々しい。いつものように軽快にトークを進めるにはまだ時間がかかりそうだが、とりあえずもう少し様子を見るか?
「なあ、何か面白い話ないか?」
 男は不意にトークのオファーをしてきた。
「お、俺の豊富な話題が必要とされているな。だけど今日のネタはお前が出て行く前にもう話しちまったじゃねえか。打ち止めだ」
「同じネタでいいよ。話してくれ」

 それからどれほどの時間かわからないが、俺は最近小耳に挟んだ情報をとりとめもなく語ってやった。男は自分で頼んでおきながら聞いているのか聞いていないのかわからないほどに無反応だが、そんなことは関係ない。俺はしゃべりたかった。話し相手がいることが身悶えするほど嬉しかった。一度話した話題だろうがお構いなしだ。こいつがそれでいいと言ったんだ。話題のリユース、雑談の永久機関。そうか、そういうことか!
「何がそういうことなんだ?」
「うおい、声に出しちまった。いやね、俺は打てど響かぬテンションの低いお前に対して、こう、無心にしゃべり倒すというある種の宗教的な行為を通じてたった今とある女性方の心理を悟ってしまったわけだけれども、言葉で表現するのは非常に面倒くさいというか、どうせお前はちゃんと聞いてくれないので、代わりにコーヒーのおかわり頼んでやるからそれで許してくれ。すみませーん、お姉さん、こいつコーヒーおかわり」
「そうか。まあ別に聞きたくないけどな。あとコーヒーいらないんだけど」
 だいぶ時間は経っているはずだが、男は相変わらずテンションが低い。言葉一つ一つがえらく淡白だ。今日はこのままずっと淡白キャラを貫く気なのだろうか。男はまたゆっくりと口を開く。
「で、しゃべり倒させておいて申し訳ないんだけど、俺、もう行かないと。悪いな」
「え、いや、こちらこそしゃべり倒させて頂き誠に有難うございます。そうか、帰るのか。帰るのはいいけど今度はちゃんと」
「ああ、ちゃんと会計済ませて行くよ。それと、次回は俺もテンションを上げるから」
 そう言って男は伝票を手に取ると、そそくさと席を立って行ってしまった。慌ただしい野郎だ。あの男、次に会うときは本当にテンションが上がっていればいいが。

⇒ Next § 2

§ 2

 俺は今日もおっさんがスポーツ新聞にくびったけなのを眺めている。グラスは当然空だ。そういやあそこにコーラが入っているのを見たことがあったかな。ないな。いつもあの一杯でみみっちく粘ってやがるんだ。まあ俺もおかわり無料のコーヒーだけだから強くは言えないが。
 入口のドアが開いて、あの男がやってきた。いつもどおり俺の正面に腰を下ろし、ウェイトレスにコーヒーを頼んでから話しかけてきた。
「久しぶりだな相棒。きのう以来か?」
「そうだよ。今日はテンション高そうだな」
「わかるか相棒、実はお前にいいもん買ってきてやったんだ」
 男はそう言ってテーブルの上に黒くてでかくてモジャモジャしたブツを置いた。
「これが何か当ててみろ」
「当てるも何も、どう見てもこれアフロヘアーのカツラだろ」
「正解! お前に似合うと思ってな」
「まさかとは思うけど、ひょっとしてこれ俺に?」
「もちろん」
「マジか……超かっけーじゃねえか! いいのか、てか、いいのか本当にこれもらって? 何? ドッキリ?」
 俺は浮かれ気分で早速頭に装着してみた。完璧なフィット感だ。
「やっぱり似合うな。最高だぜ相棒」
「悪いな。いつもありがとうな」
「それよりカツラの毛がパラパラ落ちるのが気になるな」
「それは俺の鋭い爪で斬れちまうからだろ。そうだ、この爪切っちゃだめか?」
「それがあってこそアフロが生きるんだろうが。次はその爪黒く塗ろうぜ」
「ナイスアイデアだな。どっからそんな発想が出てくるんだよ。あ、そろそろ今日の情報聞くか? 今日はおもしろいネタが四件も入ってるぜ」
「おう、聞かせてくれ」
 サプライズプレゼントで上機嫌な俺は、かなり飛ばし気味で集めた情報を披露した。やはり男は俺が話している間は基本的に無反応だが、それはもうそういうものだと割り切ることにした。一通りしゃべり終えた時、いつもは無音の店内に騒々しい音楽が流れ始めた。
「なんだこの曲? かっこいいな」
 俺は尋ねるともなく呟いた。男が反応した。
「いいだろ。最近お気に入りのミュージシャンの曲なんだ。ベースラインがぐっとくるよな。目覚まし代わりにすると、めちゃくちゃシャキっと起きられるんだ」
「へえ。俺はボーカルがいいと思うな。このなんというか、幸福感とイライラがせめぎあう感じ。違うな、表向き幸福感を満載してるんだけどそれがいまいち自分で信用できなくて、イライラを適度に練り込むことでバランスを取ってる感じ」
「おもしろいこと言うな」
「俺のいちばんの特技は音楽の分析だからな、プロフィールにも書いてあっただろ。ところでこれ何人編成のバンドなんだ?」
「いや、ボーカルの個人名義だ。いわゆるシンガーソングライター」
 しばらく二人で音楽に耳を澄ませた。その分野には詳しくないがにぎやかでファンキーな感じだ。俺は曲の音の成分をきっちりと聴き分け、低音も高音もリズムも、すべての要素を分析しながら記憶に刻み込んでいった。曲が終わると男が口を開いた。
「相棒、明日からはこの曲のミュージシャンの情報も集めてくれよ」
「お安い御用だな。それどころか、似たような曲調の他のミュージシャンもいくつかピックアップしておくよ」
「頼もし過ぎるぜ。俺は明日から仕事で出張だから、次に会うのは五日後だ。それまでよろしく頼む」
「任せろ」
「じゃあな。飴でもなめてがんばってくれ」
 男はライム味のキャンディを投げて寄越すと、伝票を持って席を立って行ってしまった。次は五日後か。寂しいもんだ。
 念のためさっきの曲を頭の中で再現しておさらいした。このノリノリの曲であの美人のウェイトレスが踊りだしたら、どんだけ楽しいことになるんだろうか。おっさんもご婦人方も踊りだして、ファミレスは汗の飛び散るダンスフロアに変身か。いいなそれ。

⇒ Next § 3

§ 3

 翌日も俺は窓の外を見ていた。空は青いし、雲は白かった。雲の形は、グラマラスなギャルが反復横飛びで足を滑らせてシリモチをついた瞬間を上下逆さまにした姿に見えなくもない。このことも報告に含めようか。五日かける予定だったから今日はあんまり情報集まってないし。俺って気が利くよなあ。
 そう、本来なら今日はファミレスに来る予定はなかったのだが、俺はここにいる。そして土方のおっさんも氷を噛み砕いてるし、マダムたちは甲高い笑い声をホールに響き渡らせている。まったく不思議なことだ。言っておくが不思議なのは俺がここにいることじゃない。俺がここにいる理由はただひとつ、あの男に会うためだ。不思議なのは、なんで今日呼び出されたのかということだ。
 何気なく店の入口に目をやると、男が突っ立っていた。男はあちこちウロウロしてから俺のテーブルにやってきて、俺の向かい側に腰を下ろした。
「待たせたな、相棒」
「構わねえよ。しかし今日もまた会うことになるとはな」
 男はそれには答えず、テーブルの上のメモ帳を開いて読み始めた。メモ帳にはこれまでの二人の会話が一字一句違わず記録されている。男と会った後に書き留めておくのが俺の義務なのだ。面倒くさいっちゃあ面倒くさいが、思い出し笑いをしながら書くのも案外悪くない。
 俺は男が読み終えるのを黙って待った。俺は気が利くからだ。読み終えてメモ帳を閉じた男は、ぼそっと呟いた。
「汚い字だな」
 余計なお世話だ。そんなことより俺には聞きたいことがある。唯一にして最大の疑問を直球でぶつけてみることにした。
「というかお前、出張じゃなかったのか?」
 数秒の間があった後、男は不機嫌そうに答えた。
「ああ……急にキャンセルになったんだ。やってらんねえよ」
「なんで」
「そりゃ仕事がなくなったからだ」
「どこに行く予定だったんだよ」
「言ってわかるか知らんが、カトマンズだ」
「ネパールかよ! マジ半端ねえな!」
「嘘だよ」
「なんだ嘘か」
「どうでもいいが、そのアフロ似合いすぎだな。全盛期のたいやきの人みたいだ。そっちのほうが半端ねえよ」
「よせよ、照れるだろ」
 たいやきの人がピンと来ないので照れた振りをして誤魔化した。それよりも結局この男がいるのは出張がなくなったからで、俺が抱えていた不思議はあっさり片付いてしまった。
 事実なんてのはたいていつまらないものだ。俺が男に頼まれて集めている情報も、本当のことを言うと何が面白いのかさっぱりわからない。男にとっては価値があっても俺にはなく、俺が知りたいのは男が何を考えて何を欲しているかということだけだ。人間観察が趣味とか言いつつ、興味の対象は実のところこの男のみだ。そのためだけに俺はここに存在している。のだと思う。なにせ俺の仕事は、男が欲しがってる情報を集めて報告することだし。さあ仕事するか。
「悪いけど、昨日の今日だからほとんどネタないぜ」
「そうか。残念だな」
「あ、でも、例のミュージシャンのことなら少しあるんだけど、聞くか?」
「あるんじゃねえか。早く聞かせろよ」
「まあ焦るなって。あのミュージシャン、四年前に大麻所持でお縄になって活動停止してるな。きのうの曲が最後に出したシングルなんだな」
「きのうの曲ってなんだっけ?」
「なんだっけってお前、目覚まし代わりにしてるんだから忘れるところじゃねえだろ」
「つっこみが冴えてるな、相棒」
「でもあれだ、鼻歌なら歌えるぞ。一度聴いて覚えちまったよ」
 俺はそう言って、男がぐっとくると褒めていたベースラインを口ずさんだ。特徴的なスラップベースを完璧に再現して見せた。
「上手いけどそれベースだろ。確かにぐっとくるとは言ったけどなんでそこなんだよ。普通は歌のメロディーだろうが」
「気を利かせたつもりなんだけどな。あとは、そうだ、さっき窓から空を見てたんだけどさ」
「もう情報はいいよ。それよりさ、お前に預けてたアドレス帳見せてくれ。そろそろ残暑見舞い書かないといけないからな」
「割と律儀なんだな。ほれ」
 話を途中で止められたのは不満だったが、いらないと言われたらどうしようもない。それが俺の立場だ。懐から薄っぺらなアドレス帳を取り出して男に手渡した。男はその場で中身を写し取り、俺に放って返した。
「サンキュー。じゃあ俺もう行くけど、置き土産にこれやるよ」
 何をくれるのかと期待したらガム一枚だった。俺はその場で口に放り込んだ。強烈なミントの香りが鼻を抜けた。
「きついなこれ」
「うまいだろ。じゃあ、次に会うのはたぶん四日後だな」
 男は立ち上がりながらそう言うと、伝票を取って帰っていった。その後姿を見送りつつ、俺はガムのミントパワーで頭が異様にすっきりしていくのを感じていた。

⇒ Next § 4

§ 4

「熱でもあるのか相棒?」
 男が心配している。ここ数日どうも調子が悪い。夏風邪だろうか。ウェイトレスの横顔にときめかないばかりか、男と話してる間も上の空になりがちだ。
「ちょっとだるいだけだ。問題ない」
「だったらボケッとしてんなよ。まあいいや、コーヒーでもおかわりするか。おーい姉ちゃん」
 男は自分の分と俺の分のコーヒーのおかわりを頼んだ。ん、いつの間に一杯飲み終わったんだ。時間の感覚がどうもつかみづらい。今日は確か……あれだ、この男が出張から帰ってきたんだ。
「それで出張はどうだったんだよ」
「だから行ってねえって。さっきから何回言わせる気だ」
「そうだっけか」
「ああ。先方の都合で中止になって、新規出店準備のヘルプに回されて毎日深夜まで残業して、結局出張したのと変わんねえくらい忙しかったっつーの。帰って寝るだけだからここにも来れないし。マジでやってられん」
「ご苦労様ですこと。しかしまあ額に汗して社会に奉仕するのが男の本懐……ん、おお、いつの間にか俺の爪が黒くなってるぞ」
「気付くのが遅い。目が腐ってんじゃねえのか」
「かもしれん」
「俺が塗ってやったんだ、感謝しろよ相棒」
「すげえな。ますます俺が毒々しくなっていくな。次は一体どうなっちまうんだ」
「それは追々考えておくさ。ところであのミュージシャンの情報は集まったのか?」
「もちろん、やることはやってるわけよ」
 俺は得意げに一枚のリストを差し出した。この数日で必死にかき集めた、例のミュージシャンに似た音楽をやるやつらの一覧だ。新旧問わず国境をも越えてリストアップした渾身の大仕事だ。これで文句が出るようなら俺の首を差し出してもいいってもんだ。
 男は時間を掛けて念入りにリストを読み込んでいる。そりゃ俺の苦労に見合うくらいじっくり味わってもらわないと。そしてついに男はリストを置いて口を開いた。
「相棒、やっぱ熱あるだろ」
「は?」
 男は俺のことを褒めちぎるどころか、内容に触れずに改めて俺を病人扱いしている。意味がわからず呆けていると、男はリストを俺に突きつけてきた。
「このリストのどこが似たような曲なんだよ。リストの上半分が演歌と軍歌で、下のほうはマレーシア歌謡とかポーランド民謡とか言われてもピンと来ねえし、最後は『とっさの英会話フレーズ集・リストラ編』ってお前、音楽ですらねえじゃねえか」
「何言ってんだよ。どれもお前が目覚まし代わりにしてシャキっと起きられるような感じだろ」
「こんなんで起きたら一日ブルーになるわ。相棒、この前聴いた曲覚えてるか?」
「忘れるわけがございませんよ。よし、いっちょ俺の美声で忠実に再現してやろう。鼻歌でな」
 頭が少しふらふらするが、他の客に構わず悠々と鼻歌でベースラインを奏でた。にぎやかでファンキーな、特徴的なスラップベースの……スラップベース? なんとなくバリトンの声を響かせたコーラスラインを歌ってるような気がするぞ。こんな朗々とした、合唱コンクールみたいなのだったか?
「もういいよ相棒。病院行ってこい」
 男の判断で俺はその場で病院送りにされた。
 診断の結果、どうもウイルス性の流行病だったらしい。そりゃ調子が悪いのも当然だ。俺はここ数日の調査がふいになったことを男に詫びた。それこそ土下座に迫る勢いだったが、男は稀に見る寛大さをもって不問に付した。あまつさえ無事に治ってよかったなと温かい声までかけてくれ、ほんの少しの不気味さとそれを数兆倍上回るありがたさで俺はむせた。男は笑った。
「相棒、似たような曲もいいが、例のミュージシャンに関する噂とか評判を重点的に集めてくれよ。世間でどう思われてるか知りたいんだ」
「断る理由はないな。謹んでお受けします」
「持つべきものは相棒だな。じゃあほれ」
 男はキャンディを一個、ぞんざいにテーブルに置いた。俺はサンキューと言ってすぐさま口に放り込んだ。甘いライムの香りが口の中に充満した。

⇒ Next § 5


読者登録

イガラシイッセイさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について