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§ 5

§ 5 (1)

 最近気になることがある。このファミレスにはどんなメニューがあるのかということだ。
 俺はここでコストパフォーマンスが最大の、おかわり自由なコーヒーしか注文したことがない。もちろんコーヒーはうまいし、毎回おかわりを注ぎに来てくれるウェイトレスは眼福となっている。しかしだ、向こうのテーブルの若奥様二人組がついばんでいるバベルの塔みたいな巨大パフェとか、一度は口にしてみたいではないか。きっと他にもいろいろあるんだろう。
 だがあの男は俺にコーヒーを飲むことしか許さない。金を一銭も持っていない俺の立場の弱さは絶望的だ。ちくしょう、俺が食えないバベルの塔なんて神の怒りに触れて瓦解しちまえ! ぶちまけられたアイスクリームとかコーンフレークとかマンゴーソースが、オーガニックコットンのワンピースにべっとり付着すればいいんだ。そんで奥様方の言葉も通じなくなって、哀れピーチクパーチクさえずることもできなくなってしまえ。
 改めて考えるに、この店での俺の不自由さには再考の余地がある。あの男がすべてを掌握し、俺はあいつが来る前からスタンバイしてないといけないし、あいつが帰っていくのを見守っていなければならない。忠犬のように。俺は猫になりたい。気の向くまま出入りして好きなときにあの男の前に現れて、普段はお気に入りの昼寝ポイントでぐうたらしていたい。
 それが叶ったとき、俺の心はどう変化するんだろう。好き勝手動き回っていても根本ではあの男に依存したまま、縛られたままだろうか。もしあの男から解放されたら、それは幸せなんだろうか。存在意義を失った俺はひょっとすると、そのまま煙のように消えていなくなってしまうんじゃないか? 存在と存在意義はイコールであって切り分けできるものじゃないような気がするぞ。
「お前さ、いつまで考え事してるわけ?」
「ぬおっ」
 いつからか知らないが男が目の前に座っていた。俺の目を盗んで席に着くとは恐れ入ったが、それ以上に俺が物思いにふけって油断していただけとも言える。俺は気が動転して言葉を発することができなかったので、とりあえずコーヒーカップを置いて男が何か言うのを待った。男は読んでいたメモ帳をおもむろに閉じて一言発した。
「だりいー」
 取り立てて言うことはなかったようだ。
「どうした、疲れてんのか?」
「疲れてるよ」
「仕事か?」
「仕事だよ」
 絵に描いたようなオウム返しだ。俺は面倒くさくなったのでそれ以上何も聞かないことにした。というか、話すこともないなら俺の思索の邪魔をしないでほしいものだ。俺はものごとを深く考えるのが得意な方じゃないし、一旦流れをぶった切られるともう何を考えていたか忘れてしまう。運よく波に乗った数少ないチャンスを無意味に台無しされたら、いくら温厚で名の通った俺でも、さすがに、
「怒ってんのか相棒」
「お……怒ってねえよ」
 まるで考えていることを見透かされていたかのように絶妙なタイミングでこの男は突っ込んでくる。気が抜けない。
「つーかさ、お前の考えてることは全部、頭の上の吹き出しに表示されてるんだよ」
「なんだと」
 俺は鳩のような俊敏さで頭上を見上げた。視線の先にはのっぺりとした白い天井があった。他には何もない。俺は己のうかつさを悔いた。
「そんなもんあるわけないのに、何で見てしまうんだ」
「バカだからじゃねえの」
「返す言葉もねえ。だがバカって言う方がバカだっていう俗説もあるぜ」
「じゃあその根拠を論理的に説明してみろよ。そんなもん子供の口げんかの応酬モデルのひとつだろ。他人をバカって言えるのは知性で勝ってる人間の特権だ、覚えとけ」
「ちくしょう、何も言わなきゃよかった」
「そもそも返す言葉もねえって言っといて速攻返してんじゃねえよ」
「今日はやけにつっかかるな」
「別に」
「今日の情報でも聞いてクールダウンするか?」
「悪くねえな」
 虫の居所が悪い男の相手をするのは俺自身骨が折れるし、男にとってもいいことではない。だから俺はいつもの収集情報と例のミュージシャンの噂話を、風刺を利かせたり無駄に韻を踏んだりしながら面白おかしく語ってやった。少しでも楽しい気分にさせるために持てるスキルを存分に駆使した。こんな俺のかいがいしさを、この男が評価することはないだろうが。
「以上、報告終わり。ご清聴ありがとうございました」
「ご苦労。いいレポートだったよ」
「本当か? じゃあひとつお願いがあるんだが」
「俺にか?」
「ご褒美として、コーヒー以外にも何か注文させてくれよ」


§ 5 (2)

 ここぞとばかりに俺は嘆願した。
 男は機嫌がいいときに思いつきで土産をくれることはあっても、俺の要求を呑んだことは一度もない。だからこのお願いが却下されることは目に見えている。だがしかし、仕事の報酬がファミレスのコーヒーだけというのはどうなのか。足元を見られて労働力を買い叩かれて、正常なクライアントとサプライヤの関係と言えるのだろうか。
 逃げたりするんじゃなくて俺が正当に男から解放されるには、まず男と対等に交渉できる立場にならなきゃいけないだろう。だからこういった問題提起をして俺の価値を示してやる必要がある。男は数秒沈黙した。俺は期待をこめて待った。男が口を開いた。
「寝言は寝て言え」
 待った割にはずいぶんな言い様だった。俺は食い下がった。
「だけど俺の働きってコーヒー一杯程度のもんじゃないだろ。もっと役立ってるだろ?」
「コーヒーは無限に飲めるだろうが」
「そういう問題じゃねえ。俺の価値の話をしてんだよ。俺はお前の何なんだよ」
「うるせえな。恋人同士の会話かっつーの」
「真面目に答えろよ」
「お前は俺の大切な相棒だ。アリガトネー」
「じゃあ大切な相棒の働きを認めて、ウェイトレスにメニューを持ってこさせてくれよ」
「いやだね。お前が集めてる情報なんて別に、俺が自分で集めてもいいんだ。だけどお前に仕事をやらなかったら、お前は何のために存在することになるんだ? 俺にとっての価値というよりお前のためなんだよ。お前がお前であるためにお前は仕事をする。俺はそれを手助けしてやってる上にコーヒーまでおごってやってるんだ、感謝しろバカ」
「そうか。でも俺は……」
「つーかお前、コーヒー以外のこと知らねえだろ」
「いや、ほら見ろよあのパフェ、すごくないか」
「クソして寝ろ」
 取り付く島もないとはこのことか。
 男の言っていることが本音かどうかは俺にはわからない。俺にはそこまでの洞察力がない。でも言っている意味はわかる。悔しいがやっぱり俺は男がいないと生きていられないと考えるしかない。でもそのことはもういい。とりあえず、パフェをゲットするには機嫌がいいときを狙うのが賢明だってことは確かだ。
 男はさらに不機嫌さを増してしまったようで、一言も発しなくなってしまった。仕方なく俺は話を替えることにした。
「それにしてもあれだな、あのミュージシャンはすごいな」
「……何がだよ」
「いやさ、執行猶予が付いたとはいえ犯罪者だぜ。それでもこの四年間全くファンは離れてないし、それどころか増えてるし。歌詞はけっこう過激でひどいけど、それが逆にイイんだろうな」
「そうなのかもな」
「逮捕の後も、よく出演してたライブハウスに親しくしてたバンドが集まって、そのミュージシャンの曲だけをやるイベントを定期的にやってるらしいし」
「ふーん」
「お前、実は興味ねえだろ」
 男の口調から不機嫌さが抜ける気配はない。男にとってそのミュージシャンは心の中のかなり重要な部分を占めていると思っていたが、俺の思い過ごしだったのか。いや、単に情報に新鮮味がなかったから食い付きが悪いに違いない。俺が集めている情報は男自身も集められると言っていたが、こいつにも見つけられない情報を俺が見つければ、さすがに俺の価値を認めさせられるんじゃないか。それはいい考えのような気がする。俺がそのアイデアにひとりほくそ笑んでいると、男がぼそっと呟いた。
「あのさ」
「なんだよ」
「俺がさ」
「お前がなんだよ」
「俺がそのミュージシャンだって言ったらどうする?」
「は?」
 突然のカミングアウトに俺はのけぞった。
 こいつがその、例のミュージシャンだって?
 一瞬の空白のあと、俺は持てる情報を総動員して男とミュージシャンの共通点を分析しようとした。しかしすぐに挫折し、男の発言をどう処理すればいいのかわからず困惑した。冗談として笑って受け流すか、真面目な告白として正面から受け止めるか。正面から受け止めてもいいのだが、その場合、それはそれで様々な困難に直面する。もしかして俺は今試されているのか?
「何だよお前、信じないのか?」
 男は詰め寄ってきた。俺は態度を決めかねてしどろもどろになった。
「信じる信じないじゃなくてさ……」
「何が言いたいんだよ」
「だってよ」
「なんだよ」
「だってそのミュージシャンって……女じゃねえか」
 男は黙りこくってしまった。
 俺はつい一番ストレートな突っ込みをしてしまったが、何と答えるのが正解だったのだろうか。もし男が本気で言っていたのなら、頭がどうかしてしまったとしか結論付けられない。やっぱ笑い飛ばすのが正解だったのか。しまったな。
「そうだな」
 男は一言そう言うと、伝票を手に取って帰っていってしまった。

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