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§ 1

§ 1 (1)

 俺はぼんやりと自分の爪を眺めていた。
 十枚ある爪はきれいに手入れされていて、突き出した先端部分は刃物のように薄く鋭く研がれている。まるで凶器だ。新聞紙くらいなら簡単にスパッと斬れるだろう。一振りで短冊の出来上がりだ。カッターナイフいらずな俺。図工の申し子。だがしかし、うっかりすると自分をも傷つけてしまう諸刃な俺。じゃあ切れよ爪。そりゃまあ、切れたらいいのだが。
 爪を眺めるのにも飽きたので、俺は窓の外に視線を移した。そこには青いだけの空、白いだけの雲、葉っぱをワサワサと繁らせた個性のない街路樹の行列と、真っ直ぐに横たわった灰色の地味な道路。それしかなかった。特に興味をそそらない。俺はさっさと視線を店内に戻した。
 この店は四人掛けのテーブルが数組あるだけでファミレスとしては規模が小さいほうだ。暖色系でまとめられた内装と、柔らかな照明で必死にリラクゼーション感を演出している。俺はこういった生ぬるい雰囲気が苦手だ。こういった場所でお行儀良くするのも苦手だ。体がムズムズし、意味も無く叫びだしたくなる。
 そんな居心地の悪いホールの中を、一人のウェイトレスが優雅に動き回っている。このウェイトレスがやばいくらいの美人である点こそ、この店の唯一にして最大の醍醐味だ。細長い首と短めのポニーテールが実によい。
 そういえば、あの男もしょっちゅう同じことを言っていたな。あの男と趣味が被らなかったことはただの一度もない。
 ウェイトレスは足音も立てずに俺のすぐ側を通り過ぎ、俺はその後姿を眺めつつ冷めたコーヒーをズズズと啜った。
  店内には俺の他に二組の客がいた。一方は近所で土方仕事をしていたであろう作業着姿のおっさんで、もう一方は暇を持て余している若奥様といった感じの女二人組みだ。
 おっさんのほうはスポーツ新聞を大きく広げ、ユサユサと貧乏揺すりをしながら、緩み切った下品な笑みを浮かべている。どうせヤラシイ記事でも見ているのだろう。飲み終えて氷だけになったグラスのストローを身を乗り出してくわえ、ゾゾゾと音を立てて吸うのが非常に鬱陶しい。おっさん、それもう空だから。おかわりを頼みなさい。
 奥様方はおっさんが奏でる不快な騒音にも気付かない様子でおもしろトークに花を咲かせている。いや、おもしろかどうかは内容が聞こえないのでわからないが、少なくとも彼女らは笑いを絶やさずに延々とトークマラソンを続けている。ネタはなくならないのだろうか。それとも同じネタを何度も繰り返しているのだろうか。話題のリユース、雑談の永久機関。
 人間観察を趣味とする俺としてはもっと彼らをウォッチングせねばならないところだが、この場合に限り、正直言ってしんどいものがある。
 なぜなら、俺の知る限り彼らはいつもこの店にいるからだ。
 いつも同じ席で、いつも同じことをしている。もう見飽きたのだ。何も新しい発見がないことがわかっているのに観察を続けるほど俺はストイックではない。それだったらウェイトレスのカスタードクリームのようにふっくらとした横顔を鑑賞していたほうが数万倍マシだ。しかし肝心のウェイトレスは厨房に下がってしまったのか、ホールにはいなかった。
 あーもう、暇だ暇だ! 
 俺は深いため息をついて、合成皮革の安っぽいソファにぐったりと崩れ落ちた。

 再び爪を眺めたり、砂糖やタバスコの栄養成分表示を熟読するなどの悪あがきを経て、ついにやることが無くなって途方に暮れた時だった。ウェイトレスがコーヒーのおかわりを持ってくるのと同時に、店の入口に一人の男が現れた。
 あの男だ。


§ 1 (2)

 俺は全身から力が抜けていくのを感じた。想像以上の脱力感だった。
 男はこっちに来ようとしているようだが、なにやらもたついている。歩き出しても時々立ち止まり、苦労してやっと俺の前に腰を下ろした。男は無言だった。何か言うことはないのか。俺は注がれたばかりのコーヒーを一口飲んでから、この小一時間に溜め込んでいた思いの丈を思い切り男にぶつけた。
「お前さ、帰るのはいいけど、会計も済ませないで出て行くとはこれ、どういうことだ? 俺が金を持ってないのは知ってるだろ。誰がここの支払いをするんですか? なあ。俺はお前が戻ってきてくれるのを子犬のように健気に待つしかなかったんだぞ。この寂しさがお前にわかるか? 今俺が心の中で無様に尻尾を振っているのがお前にわかるか?」
 男は何も言い返さなかった。
 ひょっとして反省しているのだろうか。反省しているとなると一方的に責めるのは気が引ける。というよりも調子が狂う。この男は普段が生意気なだけに、こうやって黙り込まれるとこっちが悪いことをした気分になってしまう。
「いや、いいけどね、戻ってきてくれたんだし。あ、コーヒー飲む? 払うのはお前だけど。すみませーん、お姉さんコーヒーひとつ。それにしてもよく気付いたな。あ、会計を済ませてなかったってことにだよ。そこがお前のすごいところだよ。普通さ、帰ってひとっ風呂浴びて布団に入っていびきかいて寝て、朝起きて便所で一踏ん張りしてるときに気付くもんだろ。その気付きスキル俺はいいと思う。世界に通用する能力だね本当に」
「はいはい」
 俺の怒涛の全力フォローが功を奏し、男はようやく口を開いた。俺はほっとした。
「それで実際のところ、どの辺まで行ったところで気付いたんだ?」
「……気付いたというか、急に雨が降ってきてな。傘はないし、止むのを待ったほうがいいと思って戻ってきたんだ。そうか、会計がまだだったのか。悪かったな」
 俺は窓の外を見た。そこには相変わらず青いだけの空と、白いだけの雲があった。
「そうか。まあいいや。あ、コーヒー来たぜ」
 男はゆっくりと一口だけコーヒーを口に含んでカップを置いた。
 意味不明な言い訳をするところからして相当傷は深いようだ。しかも語り口が異様に重々しい。いつものように軽快にトークを進めるにはまだ時間がかかりそうだが、とりあえずもう少し様子を見るか?
「なあ、何か面白い話ないか?」
 男は不意にトークのオファーをしてきた。
「お、俺の豊富な話題が必要とされているな。だけど今日のネタはお前が出て行く前にもう話しちまったじゃねえか。打ち止めだ」
「同じネタでいいよ。話してくれ」

 それからどれほどの時間かわからないが、俺は最近小耳に挟んだ情報をとりとめもなく語ってやった。男は自分で頼んでおきながら聞いているのか聞いていないのかわからないほどに無反応だが、そんなことは関係ない。俺はしゃべりたかった。話し相手がいることが身悶えするほど嬉しかった。一度話した話題だろうがお構いなしだ。こいつがそれでいいと言ったんだ。話題のリユース、雑談の永久機関。そうか、そういうことか!
「何がそういうことなんだ?」
「うおい、声に出しちまった。いやね、俺は打てど響かぬテンションの低いお前に対して、こう、無心にしゃべり倒すというある種の宗教的な行為を通じてたった今とある女性方の心理を悟ってしまったわけだけれども、言葉で表現するのは非常に面倒くさいというか、どうせお前はちゃんと聞いてくれないので、代わりにコーヒーのおかわり頼んでやるからそれで許してくれ。すみませーん、お姉さん、こいつコーヒーおかわり」
「そうか。まあ別に聞きたくないけどな。あとコーヒーいらないんだけど」
 だいぶ時間は経っているはずだが、男は相変わらずテンションが低い。言葉一つ一つがえらく淡白だ。今日はこのままずっと淡白キャラを貫く気なのだろうか。男はまたゆっくりと口を開く。
「で、しゃべり倒させておいて申し訳ないんだけど、俺、もう行かないと。悪いな」
「え、いや、こちらこそしゃべり倒させて頂き誠に有難うございます。そうか、帰るのか。帰るのはいいけど今度はちゃんと」
「ああ、ちゃんと会計済ませて行くよ。それと、次回は俺もテンションを上げるから」
 そう言って男は伝票を手に取ると、そそくさと席を立って行ってしまった。慌ただしい野郎だ。あの男、次に会うときは本当にテンションが上がっていればいいが。

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