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『箸先のメテオラ』 雨森

投稿時刻 : 2014.01.18 23:41
総文字数 : 2222字
獲得☆3.700
 布施さんはいつもの朝に、また良い匂いを漂わせて僕の元へやってきた。
 正直、僕はもう少し暖かなダウンジャケットの山に包まれて眠っていたかったが、僕の鼻腔へと漂着したその香りは一瞬で僕の意識を現実世界へと呼び戻してしまった。
「……朝から牛肉ッスか?」
 口の端にこびりついた涎の跡をこすりながら僕が起き上がると、布施さんは人のよい顔を更に崩した。
「匂いで分かるの、木内くん? これ国産のA5サーロイン」
 プラスチックの包材からは厚切り肉が放つ湯気がもうもうと立っている。僕は布施さんに断りもなく手を伸すと肉の真ん中の一切れをつまみ上げ、口の中へと放り込んだ。
「……あー真ん中とっちゃうのね、遠慮なく」
 恨みっぽい事をぼやきながら布施さんも一切れつまんでしゃぶりついた。
 僕の口の中のサーロインは芳醇な香りを放ちながら僕に一時の幸福を齎していた。ああ、なんて幸せ。噛めば噛むほど柔らかく、解けてゆくような食感。この時ばかりは僕達の境遇すらどこかに吹っ飛んでしまっている。未練たらたらでA5サーロインを喉の底へと追いやっているうち、布施さんの姿は消えていた。
「ねえ、布施さん。陣原くんはー?」
 まだ近くにいるのだろうと大声を上げた。
「たぶん鮮魚コーナーだよ」
 布施さんの声は思いのほか近くから聴こえた。どうやら、ワゴンから手頃なパンツを探しているようだった。
「じゃ、僕ちょっと行ってきます」
 僕は裾の長いダウンジャケットを一枚選んで肩にひっかけていた。
「はい。いってらっしゃい」
 まるで息子を見送る父親のような顔で布施さんが手を振った。
 つい三日ほどまえ、季節外れの暴風雪が僕らの町へとやってきた。その被害は甚大で、町はすぐに都市機能をマヒさせ、ちょうど現代詩サークルの会合の帰りだった僕達五人は命からがら、このスーパーマーケットに避難していた。
 携帯もネットも繋がらず、途方に暮れてはいたが、常時ポジティブ思考の布施さんをはじめサークルのメンバーは意外にもこの境遇を受け入れていた。
 サークルのうちでは若手に入る陣原くんはやはり鮮魚コーナーにいた。僕は冷凍ケースの隙間から厨房に入ると陣原くんの背後へと回りこんだ。陣原くんの横顔は削ったみたいに痩せているが、避難生活に入ってから逆に太ったようにも思える。
「どうも」
 挨拶だけはしたが、僕へはまったく目もくれずに陣原くんは出刃包丁を研いでいる。
「まさか、これで僕を――」
 そこまで僕が言うと陣原くんはいやに真面目くさった顔で、
「ええ、実はそろそろ木内さんには死んで頂こうかと思いまして」
 そう言って、御免! と包丁を突き出した。
 当然ながら、ただの冗談だ。陣原くんは突き出した包丁をおもむろに引っ込めると再び砥石に乗せた。ここにもう一人、戸田さんや江頭くんが居ると少しは笑えるのだが、僕と陣原くんではどうにも盛り上がらない。
「で、今から何するの?」
 厨房の奥には業務用の巨大な冷蔵庫がメタリックに輝いていた。ここは鮮魚コーナーだから無論、魚しか置いていない。
「そろそろマグロに手をつけようかと思いまして」
 さっきと同じトーンで陣原くんは言った。
「ほう……」
 食う専門で、料理など何もできない僕はただそう言うしかできなかった。つい昨日聞いたばかりだが、陣原くんは父親の趣味が釣りとかで幼い頃から魚の捌き方を学んだのだという。
「――ほう。これはついにマグロカツ登場ですね!」
 江頭くんが足音を消して僕達に忍び寄っていたのは薄々知っていたので僕は驚かなかった。
「いや、カツはどうかと思うけど」
 そう冷ややかに答えたのは陣原くんだ。そういえば彼が肉や油物が苦手だった事を僕は思い出していた。
「なんで? マグロカツとか最高じゃん!」
 相変わらずテンションの変動が読めない江頭くんは仰々しく体をクネクネ揺らす。
「カツなんて豚肉とか鶏肉とかで作ればいいじゃない。なんでわざわざマグロを揚げなきゃいけないのか僕には理解できないんだけど」
「そこは『考えるな、感じろ!』でしょうが!」
「意味がわかんない」
 陣原くんと江頭くんが押し問答をやっているうちに、隣の惣菜コーナーからなんとも良い香りが漂ってきた。僕は二人をそのままにして惣菜コーナーへと移動した。
 冷凍庫から取り出したマグロがどうなるのか興味が尽きない所ではあったが、今現在鼻腔を擽る香りには負ける。
 惣菜コーナーでは避難した五人の中で紅一点の戸田さんが深鍋で野菜を煮込んでいた。戸田さんがエプロン姿で料理に勤しむ姿を見るなど始めての事なので僕は少しぽーっとした。
「戸田さんは何作ってんの?」
「あ、木内さん。丁度いいとこに来た」
 僕の感動など無視して戸田さんは僕をパシリに使った。オーダーはコンソメの素とベイリーフだ。
「カートはそこに置いてるから、よろしく」
 まるで最初から誰かをパシリにする予定だったかのように彼女はしれっとそう頼んだ。
 ここはスーパーだ、パシリ上等、と僕はカートを全力で押して疾走した。途中で衣料品コーナーから戻ってきた布施さんを見かけたが、声などかけなかった。僕は戸田さんの作る深鍋の行方が気がかりだった。さっきまで陣原くんのマグロの運命を気にしていたが我ながら浮気者だと笑いが出てくる。
 なんて楽しいんだろう、この三日間。もう雪など解けなきゃいいのに、と酷い事を考える。僕は布施さんが皆に隠れて家族と連絡を取っているのを知っている。携帯もネットももう復旧しているのに、まだ僕達は救助も呼ばずにこうしている。

『クマちゃん』 小伏史央(旧・丁史ウイナ)

投稿時刻 : 2014.01.18 23:44
総文字数 : 2784字
獲得☆3.700
 秒速二〇〇メートルの強風の前では、うずくまるだけでやっとだった。うずくまることができただけでも、ぼくにとっては御の字だったけれど、それはこの星の大気が地球よりも薄いせいなんだろう。ぼくは風に押しつぶされたり、吹き飛ばされたりしないように、司令官お手製の鉄器付きワイヤーを地面に突き立てた。
 ぼくは風に逆らいながら、ワイヤーを綱に少しずつ前進する。火星の土は公園の砂場のようで、歩きやすいものではなかったけれど、我慢するより仕方なかった。ただ、ワイヤーの先端に取り付けられている鉄の突起が、そのやわらかい砂に押し出されて、ぼくの体ごと吹きとばされてしまわないか、そればかりが心配だ。
 でも、その心配は、このあとすぐに霧散していった。それは、また新たな、そしてより大きな不安が、ぼくにのしかかってきたからだ。
 徐々に徐々に進んでいった先に、その火星の地上に、ぽつりと、ひとつの小屋が建っていたんだ。

 彼らは、まるでぼくとは異質な姿をしていた。でも、人間と異なった姿をしている、というわけではないんだ。いや、なんだか難しい感覚だけれど、ぼくみたいな太ったやつとは違うけれど、司令官みたいな器用で繊細で、細っちょろい体をした人みたいではある、みたいな。
 言葉は通じなかった。小屋にいた人たちは、全部で四人で、そのどれもがぼくには同じ顔に見えた。そのうちのひとりが、ぼくに手を差し伸べる。なにか言葉を言っているようだけれど、ぼくには理解できない。理解できないことを伝えるすべも、ぼくには思いつかなった。訓練のやり直しだ。
 手を差し伸べたその人は、他の三人を振り返って、またなにか言う。三人のうち白銀色の毛を頭部から生やしている人が、ぼくに絡まっているワイヤーを、取り外してくれた。それを横目に見ながら、他の人より肌が黄色い人が、通信機でどこかと連絡をとっている。通信機はぼくが知っているものと同じようなもので、だからぼくは彼らが使っているものは言葉以外、ほとんど把握することができた。さきほど手を差し伸べていた人は、またぼくに手を差し伸べながら残りの一人になにか言っている。その言葉を受けて、金色の毛を垂らした、特に肌の白い人が、どこかにせわしなく駆けていく。その様子を見てやっと、目の前の人は手を差し伸べているのではなくて、ぼくに指を指しているのだと分かった。ぼくはワイヤーから自由になった体で、彼らに向かって感謝の意を伝えようとしてみた。でも、火星での活動に、異星人とのコンタクトの予定はなかった。だからぼくには意思を伝えるための準備はなにも持ち合わせていなくて、もどかしいんだ。それに、彼らは別に、異星人ってわけでもないんだしさ。

 ぼくは、小屋のなかの小屋に入ることになった。黄色人種の人が勧めてくれたんだ。小屋のなかの小屋、といっても、マトリョーシカのような構造になっているわけではなくて、それはいわゆる身を癒すための、カプセルのようなものだった。いや、でも、強風のなかで見た小屋というものも、カプセル状の形をしていたのだから、結局はマトリョーシカのようなものなのかもしれない。ぼくはそこで体を休めることにした。予定にない休息だけれど、休むことは、とても大切なことだ。
 特に肌の白い人が、ぼくになにか話しかけてきた。言葉が通じないことは知っているはずなのに、その人は構わないように一方的に話しかけてきた。ぼくは、言葉が全世界で共通であればいいのになとこのとき思った。それは、地球のなかだけに限らなくて、ここのような火星でも同じことだ。すべての生命体がわかりあえる言葉があればいいのに。でも、そんな難しいことはわからなかった。相手は楽しげに話し続けている。ぼくは、なにか答えたくて、通じないとわかっている声を発話した。相手は少し驚いたようだったけれど、司令官が趣味のサバイバルナイフを研ぎあげたときのような表情をして、またぼくに話しかけた。ぼくはもう発話しないことにした。
 ぼくに指をさしていたリーダーらしき人が、共通認識型の拡張視野をコネクトしていた。それは言葉だけではなくて、身振りや表情、背景といった情報を同時に伝達するときに、活用される通信機だった。拡張視野に立体映像が映し出される。通信相手の姿が現れる。
 それは司令官だった。迷彩柄の服ではなくて、黒いスーツを身に纏っていた。それを見た瞬間、ぼくの脳内は、びびっとはじけて、光がはじけて、一転した。
「ええ、知能指数の向上は、驚くべきものです。これは大成功ですよ」
 リーダーらしき人が、司令官に向かって微笑んでいる。
 そうだ。この表情は「微笑む」というんだった。
「ただし、一定以上の衝撃が加わると、連絡媒体に不具合が生じるようです。本体自体は正常に動いていても、こちらとのリンクに齟齬が生じると。特に今日のような風の強い日には、厄介モノですな」
「でも、火星っていつも風強いじゃない」
 リーダーの言葉に、そう反駁したのは、さっきぼくに話しかけてくれていた金色の毛の――そうだ、これのことを「金髪」と言うんだった――女性だった。その発言に、黄色い肌の男の人が、小さく微笑を洩らす。
「そうね。機械の増強が必要、と」
 立体映像の司令官が、地球にいる司令官が、拡張視野にメモ書きをする。
〈ねえ、司令官。この人たちは、司令官のお友達なの? 言葉が通じないんだ〉
 ぼくは今更になって、思いついて司令官に向かって連絡を試みた。
「いいや。機械に不具合があって通じなかっただけで、ほら、いまは言葉も分かるんだよ」
 白銀色の髪をした人が、ここぞとばかりに、ぼくにそう言う。
〈ほんとだ。言葉が分かるよ〉
「とにかく、このプロジェクトは軌道に乗ったと見ていいわね。火星支局のみなさん、ご協力ありがとう。クマちゃんもおつかれさま。火星での活動はあまり向いていないようだから、予定を変更して、ひとまず地球に帰ってきて。ご馳走の苔をたくさん用意して待ってるから」
 司令官が、そう言って、通信は終了した。

「じゃあね、ばいばい」
 背中にガス噴射機を載せてくれた金髪の人が、ぼくにそう話しかけてくれる。カプセルで休んでいたとき、この人はなんて言っていたんだろう。気になったけれど、時間がもったいないから、聞くのはやめた。
 ぼくは、八つの脚を火星のやわらかい砂のうえでふんばって、噴射機のスイッチを入れる。
(……彼らは、まるでぼくとは異質な姿をしていた。でも、人間と異なった姿をしている、というわけではないんだ)
 ふと、小屋の彼らを最初に見たとき、ぼくが感じた印象を思い起こした。そりゃあ、そうだよね。彼らは司令官と同じ人間だけれど、ぼくが人間じゃあないんだから。
 ――巨大クマムシのクマちゃん、いま、帰還します。
 宇宙服がなくてもへっちゃらで生きていられるぼくは、噴射機に押されながら地球を目指した。

『ルビー』 大沢愛

投稿時刻 : 2014.01.18 23:24
最終更新 : 2014.01.18 23:40
総文字数 : 4057字
獲得☆3.667
 私は宝石のなかでルビーがいちばん好き。
 ママがタケルおじさんを好きなのと同じくらいに。

 金曜日の夜、ママのバスタイムはいつもの倍くらいになる。パパがいなくなってからは週末になるといつもタケルおじさんがやって来るんだ。バスから上がって、身体にバスタオルを巻いたままチェストのそばで髪を乾かす。スツールはあるけれど、ママは座らない。以前、スツールに座って髪からメイクまでを整えてタケルおじさんを迎えたとき、お尻にスツールの継ぎ目跡が赤く残っていたから。焦ってバスタオルを敷いてみたけれど、今度はパイル地の形がお尻に移っただけだった。スツールから立ち上がって二時間近く経っていたのに。ママはそれ以来、ドライヤーは立ったまま、メイクは中腰でするようになった。
 タケルおじさんは美容室帰りの髪のにおいが好きじゃない。ママはいつも木曜日に美容室に行く。前日にパーマをかけたばかりの髪は、乾かしながらブラシで起こすだけでスタイルが決まる。
 カチューシャで前髪を起こしてフェイスメイクにとりかかる。ママのメイクは大学時代に馴染んだパターンがベースになっている。鏡の前ではみんな、ひとりぼっちだ。鏡面に顔を近づけて肌理を整えても、生え際に散らばる白髪は目に入らない。大学時代の自分と同い年の女の子が鏡の中に入って来ても、自分の顔だけを見つめ続ける。
 ママの顔ができあがる。きれいだ、と思う。そう言ってくれないと壊れてしまいそうな美しさだった。だからいつもママはタケルおじさんの胸に抱き締めて欲しいんだ。ハート型の瓶から指先にしずくを載せて、耳の下、胸元、腋につけてゆく。最後に脚の付け根に触れて、終わり。うっとりするほどいい匂いになったママがベッドのそばにやって来る。でもこれは私のためじゃない。
「メグ、そろそろおやすみ」
 おやすみのキスもどこか上の空だ。はやく寝て欲しいのがわかる。メグのベッドをパパの部屋へ置けばよかったのに。パパのにおいがうつるのが我慢できなかったんだ。パパは週に一度、布団を干してくれて、掃除機もかけてくれたのに。オードトワレをつけるとまず抱き締めてくるのも、私を自分のにおいにしておきたいから。でもね、ママは時間が経つと脂っぽい臭いが滲み出てくるけど、私はそんな臭いはさせていないもん。バスのあとでもほんの少し、耳孔から漏れる臭いをタケルおじさんに気付かれないとでも思っているの? パパよりもちょっと、鈍感なふりをするのが上手なタケルおじさんに。

 ベッドルームの電気が消える。ダイニングからママの嬌声が聞こえる。いつもより甲高いぶん、語尾が掠れて、なんだか嗄れているみたいだよ。私はこっそりとベッドから下りて、ドアの隙間から窺う。イブニングドレスのママがタケルおじさんに抱き付いている。いつもの笑顔で、髪のウエーブをそっと撫でる。ママがおじさんの胸元に顔を埋めると、頭の上におじさんの顎が載ったかたちになる。
 ねえママ、タケルおじさんが今どんな顔してると思う?

 テーブルの上にワイングラスが並んでいる。ワインの開栓はタケルおじさんの役目だ。コルクが抜ける瞬間に、ママはいつも大袈裟に声を上げてみせる。ペンダントライトの下で、グラスにワインが注がれる。波打つ赤ワインはルビーの色だ。うっとりと眺める。どんな味なんだろう。もちろん、ママは飲ませてくれない。本物のルビーを口に入れたら同じ味がするのかな。メグの息遣いが聞こえそうだ。ママのグラスの縁にルージュがついている。タケルおじさんのグラスはきれいなままだ。もしひと口だけもらえるとしたら、タケルおじさんの方がいいな。ママはすこし早口になっている。タケルおじさんはわざとゆっくり話す。ふたりきりのときに早口で喋られるとなんだかいらいらする。パパに向かってそう言ったのはママだったんだよ。タケルおじさんはママを見つめたまま、笑みを絶やさない。本当に満足そうに見える。もうすこしぞんざいな態度でもママは平気だけれど、穏やかな口調はママをますますうっとりさせる。でも、たったひとつ、テーブルの下で組んだ足先が小刻みに震えている。ママの足が伸びて、おじさんの足を挟み込む。震えはすぐに静まり、足の甲を優しく撫でる。ママが小瓶を取り出した。蓋を取ってワイングラスに一振りずつ入れる。注ぎ足したワイングラスを宙で合わせて、ひと息に飲み干す。「幸せになる薬」って、おじさんは言ってた。もっと言えば「自分たちだけ幸せになる薬」。だから見つからないように、こっそりと飲まなければならないんだよね。

 薬が効き始めると、ママはおじさんに絡みついてくる。息遣いが太くなり、声は低くなる。ベッドルームのドアが開き、天井の明かりが灯る。ベッドのなかでいい子に戻った私は布団の襟に鼻を隠す。布団が跳ねる。ママの身体は羽毛布団の中にうずもれて見えない。タケルおじさんの後ろ頭と背中が、サイドフレームの向こうに見える。ママの息遣いは悲鳴みたいだ。夕方からいままで、ママが整えて来たものを全部かなぐり捨てている。途中でタケルおじさんは上体を起こす。そのとき、私と目が合った。逸らさない。そのまま動き続ける。顔を顰めてベッドに崩れ落ちるまで、おじさんは私を見続けていた。

 「幸せになる薬」はママにしか効かなかったんだ。幸せになったひとを目の前にすると、いろんなものが見えてしまう。油断したママは幸せになるたびに我を忘れていた。仰向けになってもぽこんと突き出した下腹も、重力に引っ張られて横長になる顔も、肩から肘にかけてげっそりと落ちた筋肉も、汗をかくと蘇る本来の体臭も。鏡から外れたママの顔は熟睡中のそれに近づいていた。そんなママを前にして、薬の効いていないタケルおじさんはすこしずつ、キスを手のひらや指先へと置き換えていった。そして、ママがうとうとし始めると、そっと起き上がって床に降りた。素足の足音が近づいてくる。ママよりも二歳年下のタケルおじさんの身体は浅黒かったけれども、光を受けてつやつやしていた。天井の明かりを覆う位置まで来ると、私の顔を見下ろす。目を閉じるのも忘れて、そのまま見上げる。おじさんの指先が唇に触れる。おずおずとした触り方が可愛かった。ハート型の瓶のにおいがする指で、耳朶から髪の毛を撫でる。初めて女の子に触れたときにはこんなふうだったのかもしれない。布団がめくられる。ボタンにメグの大好きな模造ルビーをあしらった、お気に入りのパジャマだった。そのまま、横たわった私を見つめる。タケルおじさんの視線が往復するたびに目を瞑ってしまいそうになる。不意に、左手の甲を撫でられる。手首の手前ですっと離れる。パジャマ越しに手のひらがそっとなぞってゆく。
 タケルおじさんの息遣いは苦しそうだった。我慢しなくていいのに、と思う。本当に我慢しなきゃならなかったのは、もっとずうっと前でしょ、おじさん?
 視野の端で動くものが見えた。目を細めるふりをして横目を使う。
 ママだ。
 布団の上で横向きになったまま、こちらを睨んでいる。白目がはっきりと見えた。身体が動かなくなる。タケルおじさんの手がパジャマの下に潜り込みそうになったとき、ママは大きな唸り声を挙げた。手が引込められる。おじさんの身体が離れ、天井の明かりが顔を照らす。ベッドの上のママは寝返りを打って、布団の中に見えなくなっていた。

 一週間が経った。
 金曜日の夜、暗いベッドルームにはドアの隙間からダイニングの明かりが漏れている。私は壁際に両足を投げ出したまま座っている。タケルおじさんはいつものようにやって来て、さっきまでママとワインを楽しんでいた。
 でもね、ママ。タケルおじさんが本当に好きなのは私なんだよ。私の身体中のどこを比べても、ママは勝てっこないんだから。髪も、顔も、肌も。もっとずうっと敏感なところだって、私ならいつでも差し出すことができるよ。美容師さんにクレームをつけて、いろんなひとに当たり散らしても、鏡の中でしか通用しないママとは大違い。
 このまま、鏡の中で自分をごまかしながら、タケルおじさんに好かれているって錯覚していくつもりなの? ママの視線を外れたときのタケルおじさんの顔を知らないくせに。そんなの、惨めでしょ。
 今日も、「幸せになる薬」、使ったんでしょ。あれね、すり替えておいたの。あのあと、ママにさんざんぶたれて叩きつけられたあとに。足は折れたし、肘も動かなくなったけれど、なんとかなったよ。すこぅしずつ、見えないくらいの動きを重ねて、ね。
 でも、そっくりだったな、パパとメグに飲ませた薬と。パパにとっては久し振りにみんなで囲むテーブルだったし、メグなんか本当に喜んでたんだよ、ルビーみたいだって。苦いのに我慢して笑って。あれって、ママが「自分が幸せになる薬」だったんでしょ? ワイングラスに入れて、ワインを注いで。ひと口飲んだだけで、ママはきっと、あのときのパパやメグと同じになる。でもね、タケルおじさんは違うよね。パパをひとりで担げるほど力持ちなんだもんね。メグを抱えるのが精一杯だったママと違って。あの薬だって効かなかったし、きっと立ち上がってくれるよね。
 ああ、痛いよぅ。膝のボルトが折れちゃってる。肘の芯材が外れて変な形になったし。ひどい格好だなぁ。でも、安心して。髪のおかげで顔は無事だったんだよ。タケルおじさんが大好きなパジャマの下なんて、傷ひとつついていないんだから。ママ以外の誰も知らないところ。もう睨んでくるママもいないし、心配しないで。ちいさな男の子みたいにおずおずとでいいから、ちゃんと触って。この間みたいに、もう途中でやめたりしないでね。
 私は宝石のなかでルビーがいちばん好き。
 でも、タケルおじさんはもっと好き。
 
 ベッドルームの暗がりから、そっと身を起こす。あらぬ向きに揺れながら、帯状の光に向かってそろそろと歩き始める。ボタンのルビーがひとつひとつ光を宿している。一瞬だけかすめた帯が、シリコンの表面を浮かび上がらせた。

            (了)

『少女と教訓』 豆ヒヨコ

投稿時刻 : 2014.01.18 23:44
最終更新 : 2014.01.18 23:45
総文字数 : 2130字
獲得☆3.556
 ジェリーにとって一番たいせつなのは、本当は小説だった。でも女子寮にいるかぎり、そういうわけにもいかない。

「見て! 今日おば様と街にでたとき買っていただいたの」
 シェリルは誇らしげに、ぴかぴかのヒール靴を指先へぶら下げて見せびらかした。
 それは一見すると学校の指定ローファー(古くさく、雨にぬれるとひどく重くなる)に似ていて、けれどじっくり見れば明らかに違う、最新流行のしゃれた型だった。少女たちは口々に歓声をあげ、ベッドの周りに集まる。色とりどりのロングヘアが、それぞれにカーラーを巻きつけてふわふわ揺れる。
「ジェンスン&バルゴッチじゃないの、パリの一等品ブランドよ。おば様奮発したわね」
 バーバラがそばかすだらけの鼻がくっつけて凝視し、誕生日だっけ? と隣のマリアに尋ねた。
「確か違うわ、彼女と同じ7月でしょ」
 マリアはおっとり答え、燃えるような赤毛のベティを示す。ベティは冷やかに「そう。残念ながらね」と答えて鼻を鳴らした。皮肉屋のベティと見栄っ張りのシェリルは犬猿の仲なのだ。しかしご機嫌なシェリルは嫌味を気に病む様子もなく、嬉々として素足を靴に入れてみている。足の甲にわたるストラップは、ダイヤを模したデザインガラスのボタンで留めるようになっており、ほのかな読書灯の光を照り返して美しい。
 ふと気づいた様子で、マリアがジェリーを振りむいた。
「そういえば、ジェリーも今日は面会だったんでしょ? 叔父様だったかしら」
 にっこり尋ねられ、ジェリーは曖昧に笑ってにうなずいた。どことなく後ろめたい気持ちがした。バーバラが、いいわねえと羨ましそうに言う。
「わたしなんか、幾何学の課題で一日が終わったわ。どこに行ったの? お買い物? バーティッシュホテルでお茶?」
「すこしお茶して、映画に行ったわ」
「映画!」
 ベティが天をあおぎ、くしゃくしゃと赤毛をかき回す。シェリルがパアっと目を輝かせ、ヒール靴を放って身を乗り出した。
「ねえ、その叔父様って確か血がつながってないんでしょ」
 そんなんじゃないわと弁解する間もなく、パジャマ姿の四人は興奮して飛び跳ねた。ベッドのスプリングが軋む。
「彼ってジェリーにお熱でしょ、二週間に一ぺん途切れなく会いにくるじゃないの。明らかよ。ねえ、そろそろプロポーズされたんじゃないの? 隠し事はなしよ、どうなのねえ……」
 かしましく喋りまくる四人に、そうじゃないのと言っても伝わらない。ジェリーは仕方なく真実を告げる。
「来年から、ブラジルで新規事業を始められるそうよ」
 思ったより、ひどく強い口調になった。はっと焦り、ジェリーはできるだけ微笑を含ませて続ける。
「だから、わたしの在学中にお会いすることは、もうなさそうね。寂しいけれど」
 読書灯がジジッと音をたて揺らめく。気まずい沈黙が、所在無げな少女たちに降りる。ジェリーは虚しく微笑み続けた。
 親友である彼女らにも、たぶん、言えない。
 どう説明していいか、分からない。

 叔父の手は、しっとりと冷たかった。
「きみといると、いつでも幸せだ」
 手の甲に重ねられた思いのほか大きな指を、ジェリーは振り払うことができなかった。赤面していく頬を隠したかったが叶わなかった。
「……でも、わたしたちは親戚ですし」
「血はつながっていない。君は養子なのだから。問題はないはずだ」
 ジェリーのブラウンヘアを、一筋だけすくって零す。
「僕は今度、ブラジルへ行く。一緒に来てほしい。とても愛しているんだ、ずっとそばにいてほしい」
 ジェリーは顔を上げた。穏やかに微笑む、端正な叔父様の瞳があった。願ってもない申し出のはずだった。両親を安心させるだろうし、ジェリーは一生を不自由なく暮らせるだろう。叔父様は、大財閥の跡取りなのだから。なのに、なのに、なのに。
 ジェリーは逃げてきてしまった。突然席を立ち、何も言わずにホテルを飛び出した。何もかもふり捨てて、買ったばかりの大切な小説も、テーブルの片隅に置いたままで。

 夜が更けても、ジェリーは眠りに堕ちていけなかった。
 つめたいシーツに、火照る頬を押し付ける。何度も寝返りを打つ。窓から、美しく円い月が銀色に見えている。
 ジェリーは静かに、愛する物語たちの一節を唱えてみる。

 ――愛とは片手間に生み出されるものじゃないわ(シェリル・パーマーの『恋人たち』ね)
 ――ねえ、一緒にいれば全て解決すると思っているの? ひとの想いを馬鹿にしているの(バーバラ=ザックバーグ『すれちがい』、大好き)
 ――口で言うのは簡単さ。何十年もともに連れ添って、はじめて答えが出るのさ(ベティ・ローレンス・バーガー『やさしい絆』、本当なのかしら)
 ――あなたには分からない、だってまだ何もはじめていない(マリア・クリアーマ『臆病なひと』……私のことだわ)
 ジェリーには分からない。

 小説たちが教えてくれたものごとは、叔父にもあてはまるのだろうか。
 もしかして全ては夢に過ぎず、新たな世界に飛び込まなくてはならないのだろうか? ジェリーは、可能であればいつまでも空想の世界に生きていたかった。美しく閉じた夢の住人でいたかった。けれど、それではもう、駄目なのかもしれない。叔父の手をとるべきなのか、私には分からなかった。

 けれどもう、逃げることはできないのだ。おそらく。

『クロロホルムのガロン瓶』 永坂暖日

投稿時刻 : 2014.01.18 23:45
総文字数 : 2280字
獲得☆3.500
笠井宏明の証言
 ガラスの割れる音を聞いて俺が駆け付けた時には、実験室中にクロロホルムの臭いがしてたよ。もう臭いのなんの。立っているだけで、意識が飛ぶかと思ったよ、マジで。飛ばないけど。
 まあそんな状況だというのに、立花と津田は背中を向かい合わせにしてうつむいて立っていたんだよ。二人の足下には、割れたガロン瓶とこぼれたクロロホルムが広がってたってのにね。臭気はなるべく吸わないようにして、早く拭かないとと二人をどやしつけて。それでようやく、二人は動き出したって感じ。でも、片付けをしている間も終始目を合わせない、口もきかないで。俺の方が気を遣っちゃうよ、あの二人、付き合ってるって噂だったから。本人達は否定してたけど。
 立花の不注意でガロン瓶を落として割ったということで、教授には報告したけど。落とす前に何があったかは、俺には分からないね。その時実験室にはいなかったし、二人もその前に何があったか言わないし。

木島藤治朗の証言
 立花と津田が付き合っている、という噂は学部生の時にもありましたよ。ただ、そのあとに別れたという噂も聞きました。そんな噂があった後でも、二人は普通に話をしていましたけどね。同じ研究室を選ぶし、二人して院に進学するし、よりを戻したんだろうと思ってました。現に、また付き合いだしたって噂もありましたし。
 クロロホルムのガロン瓶を立花が落として割った時、俺は実験室にいたんですよ。でも、二人は実験室奥のドラフト前にいたけど、俺は前の方で実験中だったんです。試薬棚とかがあるから、前にいると後ろの様子は見えないじゃないですか。いろんな機械が動いている稼働音で、四六時中うるさいし。二人が後ろで何か話しているみたいだな、というのは分かったんですけど、聞こえるわけはないし自分の実験に集中しているし。そしたらいきなり、ガラスの割れる音が聞こえたんです。大丈夫かって聞いたら、津田が大丈夫と答えたんだけど、妙に焦った声で。行ってみたら、立花はうつむいてて、津田はそっぽ向いてて。実験してたという雰囲気じゃあなかったですね、あれは。立花が何かやらかしたんだと思いますよ。左のほおが赤かったように見えたから。

佐々倉数也の証言
 立花と津田は付き合ってましたよ、学部の二年から三年の頃まで。別れた理由は、なんだろうなあ。立花は、お互いよく考えたら好きじゃなかったみたいだから、とか言ってましたけど。友達みたいにしか思えなくなった、とも言っていたかな。津田もそれで納得したんじゃないんですか、別れたあとでも普通に話をしていたし、同じ研究室を選んだんだし。
 まあ、仲がいいように見えましたけどね。ただ、友達以上ということはなかったかな。昔付き合っていたとはいえ、ね。
 立花は、よりを戻したかったみたいです。友達みたいとか言っておきながら、いざ別れてみたらやっぱり好きだったって気が付いたんだとか言ってました。
 クロロホルムのガロン瓶割った時ですか。あの時僕、いなかったんですよ。だから詳細は全然分からないんですけど、よりを戻したい立花が、津田に迫ったんじゃないんですか。でもふられて、何かの拍子でガロン瓶が割れた。そんなとこじゃないかと思ってます。

水川さおりの証言
 津田ちゃんは、立花くんとはよりを戻すつもりは全然なかったですよ。付き合っていた時はそれなりに好きだったけど、一度別れましたしね。しかも、友達としか思えなくなったっていう理由で。津田ちゃんはそうでもなかったから、普通にはしてたけど、陰では結構泣いてたんですよね。立花くんはひどいなって、一時期同期の女子の間で評判だだ下がりしてたんですよ。
 まあでも、同じ研究室に入れるくらいに立花くんのことは吹っ切ったんですよね。その頃には、津田ちゃん、好きな人がいたから。立花くんじゃないですよ、もちろん。でもだから、立花くんがよりを戻したがっているの、迷惑がってました。
 クロロホルムのガロン瓶が割れた時、あの時、立花くんがもう一度付き合ってくれないかって言ってきたみたいなんですよね。津田ちゃんは断ったけど、立花くんがしつこくて。それで――キスしようとしたから、ひっぱたいたって言ってました。その弾みで、ガロン瓶落としたみたいですね。津田ちゃんの足に落としてたらと思うと、ぞっとします。

森尾拓人の証言
 はあ、立花くんと津田さんですか。あの二人、仲がいいのか悪いのか、よく分かりませんね。まあ、僕は完全夜型なので、二人ともあまり話をしたことがないから、よく分からないんですけど。津田さんは、まあ、明るくてはきはきしてますね。僕みたいな怪しいセンパイでも、話しかけてくれますし。
 ただ、まあ、僕と話をしている時でも、ちらちらと視線は違うとこに行くんですよね。何だろう、何を見ているのかなと思ってましたが、笠井さんとか佐々倉くんと話す時もそうだし、立花くんと話す時もそうみたいだし。気になったので観察してたら、彼女、木島くんを見てたんですね。
 ええ、はい。僕の見立てに間違いがなければ、津田さんは木島くんを好いている。彼にやきもちを妬いてほしくて、彼の前で他の男と話をしていた。そんなところではないかと。
 クロロホルムのガロン瓶が割れた時も、木島くんが実験室にいたんでしょう。やきもちを妬いてほしくて、わざと立花くんと話をしていたんじゃないかな、と思ってますよ、僕は。まあ、当の木島くんは遠距離恋愛中の彼女がいるとか聞きましたけど。
 割れたクロロホルム、最後の一本だったんですよねえ。おかげで僕の実験も滞ってしまって、いい迷惑です。


※無題で投稿された作品でしたが、作品集への掲載にあたって改題されました。


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