閉じる


<<最初から読む

6 / 22ページ

試し読みできます

1

第14話:隠されたジェイコブ・ブラウンの日誌

 

 

 アスター・フィールドに建つ田舎屋敷、オールストン・ハウスの階下にある執事室。そこで今、繰り広げられているのは女料理人ハリスンと、執事エリオットが数字と帳簿に格闘している姿であった。
 社交の季節であるシーズンも終わり、不在がちであった主人の準男爵サー・リチャードとその夫人レディ・アンダーソンは、本日とくにこれといった予定はないそうだ。長男ジェイムズはいつものクラブに出かけ不在、次男ヘンリーは夏期休暇を終え寄宿学校にもどっていた。
 こんな日はたまりにたまっていた帳簿を整理する絶好日和である。
 が、大きな問題がエリオットを苦しめていた。
 ソファでふんぞり返ったふくよかなハリスンが、鉛筆を揺らしながら言った。
「ねえ、エリオットさん。あたしゃこれから、菓子を焼かなきゃいけないんだよ」
 執務机で帳簿とにらめっこしながら、エリオットは答える。
「それで? いいかげん先週と先々週の材料費をまとめてくれないかな。請求書と照らし合わせて、支払いが滞っているか、金額は合っているか確認しておかないと」
 子どものようにわざとらしく、女料理人は頬をふくらませた。
「どうしてあたしの仕事なのさ。いいかげん、次の家政婦を見つけてもらわないと、夢のなかで数字があたしを苦しめるんだよ。豚野郎の背中に請求書がいっぱい貼られて、あたしをブヒブヒしつこく追いかけてさ。今朝もいやな汗をかいちまったじゃないか」
 またいつもの不満だ。さすがに二年近くも相手をしていると、どうかわしていいのか、若いエリオットにも知恵がついていた。
「奥さまが抜き打ち検査されても、僕は知らないからな」
「……やっぱりそう言うのかい」
「当たり前だろ。帳簿はその都度――最低でも金曜日か土曜日には整理しなきゃならない。なのに三週間も空白。その穴埋めをだれが今、やっていると思ってるんだ、ハリスン夫人」
 自分で口にしながら、怒気がふくまれているのがわかった。どんどん声が低くなり、眼鏡越しに能天気な女料理人をにらんでしまう。
「はいはい。材料費の整理は午後までにはやっておくよ。菓子はメイベルにでも焼かせてもらうことにするからね」
「ああそうしてくれ。今日は客人もいないし、簡単なやつでもだいじょうぶだろ」
「あの生意気な家女中頭、こういうときに役に立つからマークほど嫌いになれないんだよ」
「あー、はいはい」
 自分より一回り以上年上のハリスンは、料理の腕は一流なものの、数字にはめっぽう弱い。そもそも事務的な業務が苦手で、家政婦が引退する前までもっぱら彼女にたよっていた。仕入れは必要な材料を言って、あとは旬の食材を家政婦にお任せしていたのだが。
 帳簿を広げたハリスンは鉛筆片手に、ソファのテーブルでぶつぶつ愚痴をこぼす。
「あーあ。奥さまのこだわりがなきゃ、とっくに新しい家政婦がいるはずなのよねえ。これまで何人――五人かな。面接に漕ぎつけたのに、奥さまと条件が合わないからって。いいじゃないさ、経験がなくても。そんなにベテランが欲しけりゃ、どどーんと給金上げりゃあすむこと。安くこき使われるようなベテラン家政婦なんて、どこを探してもいやしないよ」
「同感……と言いたいところだが、僕がたよりなく見えるのかもしれない。悪いな、ハリスン夫人」
「バカだね。あんたはもう立派にやっているよ。あのブラウンに比べりゃあ、たしかに失敗はまだまだ多いけどさ、そのあとの機転はあいつも顔負けだ。太った白猫のときは大傑作だったしね。あははっ!」
 思いがけず辛口ハリスンに褒められたことで、エリオットは少しうれしくなる。
「よかった。無我夢中できたから、これでいいのかふと、考えてしまうんだ」
「褒められたときは素直に喜びな。謙遜ごっこは階上だけでいいんだよ」
 と、ここで小声になり、彼女は言葉を続けた。
「…………ねえ、エリオットさんは知ってるのかい? 奥さまが若い家政婦をことごとく断っている、ほんとうの理由」
「さあ。経験が浅いからじゃないか?」
 ハリスンは執務机の前に移動し、さらに声をひそめる。
「昔、パーシー夫人からちょこっと聞いたんだけどさ。まだ若旦那さまがちっちゃいころ、旦那さまが育児婦とデキちまってね。すぐにばれたんだけど、そのあと奥さまと離婚するしないの大騒ぎになってさあ。ま、あたしもエリオットさんもそのころ屋敷にいなかったし、マークだって知らない。ヒューぐらいかもね。そのヒューだってこの話題は口にしないんだけどさ。というよりできないのさ」
 さすがにこれは初耳だった。持っていたペンの動きが止まる。
「え? あの旦那さまが……。嘘、だろ」
「あたしもちょこっと耳にしたとき、信じられなかったさ。けどまあ、あの疑い深い奥さまのことだから、用心に用心を重ねて、家政婦は年季の入った婦人がいいんだろう。育児婦も家政婦も、旦那さまと顔を合わせる機会が多いしねえ」
「単なる噂だろ。しかも醜聞もいいところじゃないか。もうこの話はやめよう」
「そうだね。この話は忘れてちょうだい」
 ここで会話が途切れ、ふたりはそれぞれの帳簿整理の続きにとりかかった。
 エリオットは本来、家政婦が管理すべきリネン類や石鹸、食器を担当し、ハリスンも同じように食材を担当していた。ふたりで分担し、作業を少しでも軽くするためだ。しかしシーズンなどで来客が多い週は、帳簿どころではない。エリオットだって本来の業務であるアルコール類と、銀器、グラスの管理もある。
 そんな日々が二年近く続くとは、当初はふたりとも予想していなかった。そのあいだ、エリオットの事務処理能力が上がっていき、渋い顔をしていたハリスンもまともに帳簿をつけることができるようになっていた。
 奥さまのこだわりはともかく、一日でも早く余計な仕事から解放されたい……。
 多忙な上級使用人ふたりの、もっぱらの願いがそれだった。
 そろそろ石鹸が切れるのを思い出し、エリオットはハリスンにきいてみた。
「階上の石鹸はまだあるが、そろそろこっちのが無くなりそうじゃないのか? 浴室用と洗濯用は午後に注文する予定だが、厨房と流し台はどうだい?」
 やや間があって、ハリスンが答える。
「来月でもよさそうだけど、まとめてたのんだほうが、エリオットさんもラクだろう。ついでにソーダもお願いね」
「了解」
 エリオットはぱたん、と帳簿を閉じた。これで完了、と。
 だがハリスンはうんうん言いながら、帳簿とにらめっこを続けている。
「いつもあんたは早いね。あたしは脳みそが沸騰しそうだよ。…………また果物が余っちまった。今週はどうしようか。どうしてすっきり調整できないんだろうねえ。困った、困った」
「また過不足が?」
「うーん、それもだし。どっさりジャムを作りすぎて、ちょっと奥さまに注意されたのさ。午後の茶に古いのをお出ししちまって……。かといって捨てるわけにもいかないし。こう見えて、あたし心配性なのかもねえ。今ごろ気がついても遅いけど」
 一日分のディナーの分量は得意でも、数ヶ月先の保存食の分量はさすがの女料理人もお手上げのようだ。前家政婦、パーシー夫人はうまく引き継ぎができなかったのだろうか。
「パーシー夫人の古い帳簿、参考にしたらいいんじゃないのか?」
「あのころと今じゃ、階下も来客も人数がちがうよ。あまり意味がなさそうだけど」
「帳簿をつけ始めたころはどうだったんだい?」
「数字見るだけでうんざりしてたから、開くのもいやだったね」
 エリオットはがっくり肩を落とす。
「……けっきょく、見てないってことか。せっかくのお手本があるのに」
「あのくそ細かい字、あたしは読む気がおきないんだよ。人さまに見せるには、小さすぎるし、虫眼鏡でも用意しろっていうのかい」
「あー、はいはい……」
 あいかわらずの負けず嫌いなハリスンに呆れながら、鍵束を持ったエリオットはひとり、執事室を出て行った。行き先はもちろん、家政婦室だ。
 鍵穴に鍵を差込み、ゆっくりと回す。パーシーが現役だったころは施錠などしていなかったが、今では空室となって、まだ見ぬあるじを待ち焦がれている部屋でもある。
 小さな居間に入る。リネンで覆われたソファを横目に、執務机の背後にある棚を開けた。
「ええと、帳簿、帳簿……と」
 八年前の西暦が書かれた表紙を見つけた。ぱらぱらとめくってみると、なるほど、ハリスンが言っていたとおり、まるで蟻が這ったような細かい字でびっしりと書き込まれている。日誌代わりにも使っていたのか、日々のできごとまで箇条書きに空欄に記されていた。
 目を凝らしながら、つい昔のできごとに思いをはせる。
「懐かしいな。だれかさんの、怪我が書かれているじゃないか。JEってどう読んでも僕のことだよな。六月って、もしかしてあの転んだ日……。額に傷は、さすがに恥ずかしかったな。あはは」
 と、つい苦笑してしまう。使った塗り薬の量まで書いてあって、かつての家政婦の毅然とした姿が目の前によみがえってくるようだ。
 このレベルの家政婦を奥さまは求めているのだろうか。
 ハリスンの言うとおり、それはそれでなかなか厳しい条件である。
 最近の帳簿が参考になると考え、エリオットは手にしていた八年前のものを棚にもどす。次に取ったのは、三年前の西暦だ。
「お、ちょうどいいじゃないか」
 中を開いてみるが、字体がまったく異なっていた。堂々とした力強い大きめの筆体。ところどころ太くなったその字に、見覚えがある。
「まさか、ブラウンさん……?」
 はっとして、ふたたび表紙を見た。しかしタイトルはなく、ただ西暦が記されているだけ。ならばと、裏表紙を見てみるが何も書いていない。帳簿にしては日付以外、数字らしきものがほとんどなく、日々のできごとを簡単に記しているぐらいだ。
 そうか。これは日誌だ。たしか帳簿は、業務を引き継ぎざるを得なかったとき、自分の手元に置いたはず。
 日誌は見当たらず、なくてもあくまでも個人的な覚書だから、まったく気に留めることはなかった。屋敷を夜逃げするとき、ブラウン自身が持ち去ったのだと勝手に思いこんでいた。
 どうして家政婦室に?
 そんな疑問を胸に抱きながら、エリオットは執事室にもどった。
「あーあ。やっと終わった! よーし、あとは昼寝の時間だねっ!」
「おつかれ。僕も少し休憩するよ」
 鼻歌を疲労しながら、ハリスンは陽気に部屋を出て行った。さっきまで熱にうなされていたような形相が、嘘のようである。
 茶を用意したエリオット。休憩を兼ねて家政婦室から持ち出した、前任の執事ブラウンの日誌をめくった。ソファに身体を沈めたまま、カップを手にする。
 三年前の日々が、淡々と簡潔に記されている。主人であるサー・リチャードの予定と、その結果。階下の予定とその結果。とくにこれといったできごとが無ければ、ページの半分もいかないうちにその日の日誌は終わった。
 当時の記憶がよみがえるものの、肝心のことは書かれていない。
「借金の件はどこにもないな。ま、無理もないか……」
 ぱらぱらとめくり、事務的な日誌はその年の半分も埋まらないうちに、空白が続く。失踪する前日までしか、持ち主は書いていないからだ。この日誌も平常を偽る小道具のひとつにしか思えてならなかった。
 ジェイコブ・ブラウン。かつてアンダーソン家に奉公した元執事であり、犯罪者でもあった。以前から借金があったようで、失踪する数週間前ごろには、屋敷の裏口に取り立てらしき男が何度か顔を出していた。柄の悪い男がブラウンを呼び出すと、ふたりは屋敷を出て行って小声で何やら言い争っていたのを、園丁や門番が目撃している。
 そのときエリオットたち部下は、さほど気に留めていなかったものの、失踪当日、数々の銀器と、部下たちへ支給される予定の給金が無くなっていたことで、事の真相を察したのだ。
 それから屋敷は大騒動になり、主人は警察を呼んだ。もちろんエリオットたち使用人も手分けして、ブラウンの行方を捜した。しかしやつは用意周到だったようで、けっきょく潜伏先も見つからないまま捜索は打ち切られ、銀器も給金ももどってこなかった。
 その後、不在の執事の代わりとして、急遽、第一従僕だったエリオットが業務を代行したのだが、予定していた後任の執事は急病で来ないまま、一ヶ月後、サー・リチャードから平服を身につけるよう指示された。エリオットが正式に上級使用人へ昇進した日でもある。
 その当時は、突然の昇進にとまどうひまもなく、ハリスンに言ったとおり無我夢中で仕事をこなした。もちろん、経験もないから失敗の連続だったが、先輩部下のマークや大ベテランのパーシー、豪胆なハリスンが力になって急場の危機を何度か救ってくれたのだ。
 やっとここ最近になって、仕事に余裕がでてきた。そんな気がした。
「ひと騒がせな上司だったよな、まったく……」
 そんな愚痴がこぼれてきたとき、ふと最終日のページがやけに長いことに気がついた。一枚では終わらず、次頁にまでなにやらくどくど書かれている。反射的に目を通すエリオット。

 一九〇×年五月×日。晴れのち曇り。
 朝から奥さまのご機嫌が悪い。
 昨日、奥さまの妹ぎみのアースキン夫人と、若旦那さまが縁談の件で口論されたからだ。
 階上のごたごたは階下のわれわれには関知できず。
 旦那さまは朝食を召しあがったあと、クラブへお出かけになられる。
 帰宅予定は明日の午後。
 若旦那さまは昨日から、とうにロンドンのクラブへお出かけ。
 この方は気ままだから、帰宅予定は不明。
 とうぶん、戻られはしないだろう。
 本日から明日にかけて、屋敷に残っておられるのは奥さまのみ。
 というわけだ、ジョン。
 おまえには悪いことをしたな。
 俺の後任は来るのかどうか知らんが、空白の期間があっても旦那さま一家がお困りにならないように、おまえを一年間みっちり教育してやった。
 それがせめてもの、俺の旦那さまへの罪滅ぼしだ。
 正直なところな、俺も後任はマークがふさわしいと思っていた。
 あいつのほうが経験も長いし、要領もいいし、少々のことには動じない冷静さが特にいい。
 しかし大きな懸念があった。
 するどいあいつのことだ。
 つねにともに行動していると、俺の計画が発覚するおそれがある。
 俺もだが、あいつもなかなか疑い深いし、素直さが足りない。
 それにくらべ、おまえだったら俺の指示を疑うことなく、素直にきいてくれる。
 だからおまえたちが不本意なのを承知で、一年前、順位を入れ替えた。
 こうしてマークを遠ざけ、とっとと転職させようとしたのだ。
 だがあいつはあいつで、やっぱり何かがおかしいと感じていたんだろう。
 俺がここを出る直前も、まだしぶとく屋敷で奉公していた。
 慎重に計画を進めていったが、いつ発覚するか冷や汗ものだ。
 これを書いている今も同じ。
 それでも俺は、おまえに言い残したことがあるから、あえて危険をおかしてでも日誌を残している。

 ここまで読んで、エリオットは血の気が引いた。
「なんだって……?」
 この日誌の持ち主だった男は、自分に宛てたメッセージを残していたというのか!
 業務を引き継ぐとき、日誌も読まれることを大前提に書かれていたとしか考えられない。
 しかも一年前から、逃亡する計画を立てていたとは。
 第一従僕だった先輩ロブが結婚を機に屋敷を去ったあと、順当に第二従僕だったマークと第三従僕だったエリオットが繰り上がってひとつ上に昇進した。しかしある日、マークとブラウンが休暇のことで口論になったあと、エリオットはマークとともに執事室に呼び出されこう告げられたのである。
――明日からジョン、おまえが第一従僕だ。俺の仕事を手伝ってくれ。その代わり、マークには降格してもらう。理由は、告げなくてもわかるな?
――どうして僕なんですか? もちろんマークもですが、僕だって納得できかねます。
――俺が決めたことだ。納得できないのならば、とっとと屋敷を出て行け。紹介状は旦那さまにたのんで、良く書いてもらうから安心しろ。
 その後、しばらくマークとエリオットが非常に気まずい仲になったのは言うまでもなかったが、ついにマークは転職しなかった。今でもそれが気がかりのひとつだったものの、今は先輩部下のことより、目の前の日誌のことで頭がいっぱいだ。
 日誌の続きを目で追った。

 そうだ、ジョン。
 これからおまえは、人の上に立つ者として職務を遂行しなくてはならない。
 旦那さまのご機嫌をおうかがいするのも、おまえの大切な仕事だ。
 無論、階上の大切な客人にもしかり。
 それに必要不可欠なものは何かわかるか?
 おまえのことだ、あるじには常に正しく忠実に、部下には厳しくしかし公平に、と思い込んでいるのじゃないのか?
 たしかにそれらも大切だ。
 だがな、もっとも重大なことをおまえは忘れかけている。
 どんなにアンダーソン家の人々と親しくなろうが、しょせんただの使用人。
 ご一家のご都合が悪くなれば、無情な判断が下される。
 上流階級は何より体裁を重んじる世界だ。
 あるじたちがいっときの情にほだされようが、取り返しのつかない失態をおかしてしまえば、屋敷を追い出され、まともな紹介状は決して書いてくれやしない。
 そうなってしまうと、あとは転落の人生だけが残っている。
 おまえはいやだろう?
 俺だっていやだ。
 酒と汗臭い労働者にまじって、薄暗い工場で延々と胸くそ悪い作業をするのは。
 執事とは上級使用人であって、低賃金の連中より上の世界に生きることを許された立場だというのに。
 かといって分相応な生活を忘れた俺のようになるのも、困りものだ。
 じつは俺の女房はな、昔、家庭教師をしていた。
 あとから話を聞いて知ったのだが、ある不祥事で没落した貧しい弁護士一家のお嬢さまだったのさ。
 一七年前に奉公していたある屋敷で、俺たちは知り合った。
 女房は若い家庭教師、俺は新任の執事。
 ああ、たしかに身分違いかもしれないが、金のない女房の実家――そのころはイースト・エンドの片隅に暮していた貧乏弁護士より、俺のほうがずっと稼ぎがあったぐらいだ。
 ちなみに階下の連中には秘密のまま付き合って、俺が転職すると同時に籍を入れた。
 週末には女房と息子のいる町の下宿先へもどっていたのは、おまえも知っているはず。
 女房は女房で育児のかたわら、息子に教鞭を取っていたのだが、問題が起こった。
 息子をパブリック・スクールへ行かせたいと、熱心に説きふせてくる。
 俺は呆れた。
 俺の給金だけで、そんな大それたことを言うんじゃないと、な。
 だが女房も負けない。
 息子を何がなんでも法廷弁護士に出世させて、没落した一家を再興させたい。
 女房はそれが結婚の約束だった、とまったく折れない。
 そういえばそうだった、女房に惚れて口説いたのはよかったが、息子が生まれたら出世させるのが条件だったと。
 のぼせ上がっておったから、すっかり忘れておったのさ……。
 仕方なく俺は女房にひみつで、息子の学費のためについに借金に手を出してしまった、というわけだ。
 一年前、借金を返せなさそうだと判断したとき、転職も考えたが、どのみちこのままだと息子は学校どころじゃない。
 俺だって、借金だらけの身だと主人に発覚すれば、失職してしまうし、いい紹介状も期待できない。
 最悪、不履行債務者として裁判所に呼ばれてしまう。
 だから女房に土下座して、ことの次第を打ち明けた。
 そのあとはここに書くのもはばかられるが……。
 一家で揉める時間があるぐらいなら、海の向こうでやり直したほうが早いと決めた俺たちは、慎重にある計画を立てた。
 そのひとつが、密かにおまえを俺の後任にすること。
 さきにも書いたように、旦那さまへのせめてもの罪滅ぼしのつもりだ。
 話はそれてしまったが、俺が言いたかったのは、おまえが無意識のうちに淡い希望を、まだ抱いているんじゃないかということだ。
 淡い希望、とはなんなのか、胸に手をあててよく考えてみろ。
 例の慈善劇のときから、なんとなく察してはいたがな。
 たとえどんなに昔の情が湧いても、アレだけにはなるなよ。
 噂となって、その話が旦那さまや奥さまの耳に入れば、おまえの順調な人生はそこで終わりだ。
 しょせん、ふたつの世界が交じり合うことなど、決してありえないのだから。
 愛弟子のようにかわいがったおまえが、悲しむ姿を俺は見たくない。
 ……と書いても、二度と、会うことはないだろうが。
 ジョン、海の向こうのどこかで健闘を祈っている。
 ああ、書き忘れそうになったが、読み終えたら、これは燃やして処分しろ。
 いいな。

 エリオットは手がかすかに震えるのを感じながら、すっかり冷めた紅茶を飲んだ。しかし味がしない。
 そしてある懸念が脳裏によぎった。
――パーシー夫人が先に見つけて、日誌を家政婦室に隠していたのか?
 だがなぜ?
 レベッカお嬢さまとの件は、マークと転職した家女中のアリス以外、知らないはず。
 たとえ知られたとしても、証拠などどこにもない。
 根も葉もない噂だと言い切ってしまえばすむ。
 ああ、でもヘンリーさまは?
 鍵のかかった執務机の引き出しのなかの手紙は?
 慈善劇でブラウンが察していたぐらいだから、ほんとうは自分が知らないだけで、ほかの連中にも勘付かれていたのではないか?
 それは今でも同じ……なのだろうか?
 動揺したエリオットは、いてもたってもいられず、パーシーのもとへ出かける支度を始めた。
 外出着に袖を通しているエリオットのもとに、マークが怪訝な顔をしてあらわれる。
「使用人ホールにまだ来ないと思ったら、どうした?」
「悪い、これから出かける」
「え? これから? いったいどこへ」
「どこでもいいだろ。大切な用事だ」
「おいおい。その前に階下の茶と、階上の茶と、晩餐の支度がまっているだろ。出かけるひまなどない」
「おまえに任せる」
「私情をはさむな!」
 エリオットはマークに力強く両肩をつかまれ、そのまま強引にソファに座らされた。
「何があったか俺は知らんが、その前に鏡で自分の顔を見ろよ」
 そう言われ、いくらか興奮が鎮まる。
「そんなにひどい顔をしているのか、僕は」
「ああ、ひどいね。まるで雪山で遭難しかけた、あわれな登山者だぜ」
「そうか……」
 大きなため息をつき、スーツの上着を脱いだ。同時にブラウンが残していた日誌に視線がうつる。
 処分しろ、とブラウンは書いていたが、事情を知っているマークには時効だろう。お嬢さまとの件を承知しているのだから、読ませても不都合はないはず。
 ひとりで不安を抱えるのが怖かったのもある。
 ブラウンやパーシーまでも、秘めていたはずの苦しい恋を勘ぐっていたとは。
 自分たちは隠してきたつもりでも、はるか年長者たちの目から逃れることはむずかしかったのだろう。
 男爵家の次男である将校のもとへ嫁いでいった、レベッカお嬢さま。さすがにインドにまでは醜聞は届かないだろうが、彼女のためにも昔の思い出を隠し通しておく必要がある。
 仕事着である黒いフロックコートを身にまとうころには、冷静になったエリオット。その日はいつものように屋敷での仕事をこなし、就寝前の空き時間、パーシーへ手紙をしたためておくことにした。
 お嬢さまとの件は遠まわしに書いておき、ブラウンの日誌の件ははっきりと事情を説明してもらうように。
 便箋を折りたたみ、封筒に入れ、しっかりと封をし、翌日、郵便局へ投函する予定である。
 そして眠りにつくのだが、ブラウンの日誌に記されていた『慈善劇』の単語が、エリオットを過去の世界に連れて行った。
 それは八年前の青空のもとで始まる――。


◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇


 アンダーソン家の領地内にある森は、秋が日に日に深まってきた。ざざっと風が吹いたら、黄色くなりかけた広葉樹の葉っぱが、一枚、二枚と幼いあるじの上に降ってくる。
「ねえジョン、お腹すいたよ」
 まだ八歳のヘンリー坊ちゃまが、小枝を振り回す手を止めながらそう言った。屋敷に閉じこもって勉強するのが嫌いな坊ちゃまは、毎日のようにお供のエリオットを連れ回しては、森で遊んでいた。
「そうですね。そろそろお茶の時間にしてもよろしいでしょう。アーサー王ごっこの続きは、また明日にでも」
 持参したピクニックの道具を広げ、家政婦パーシー夫人お手製の菓子と、水筒に淹れたお茶を用意した。思う存分はしゃぎ回ったヘンリーは、たちまちサンドウィッチとスコーンを平らげ、敷物の上でうたた寝を始める。
「風邪を召しますよ。もどりましょうか」
「……いや、だ。ミス・ゲイル……きらい」
 早春から屋敷に奉公している初老の女家庭教師を、ヘンリーは嫌っていた。厳格すぎて、面白みがないのだろう。ミス・クラフトがよかったとごねられても、その場が凍り付いて困るだけだ。
「そうおっしゃらずに」
「命令だ、ぞ……ジョン」
 そしてそのまま気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「困ったあるじだな。あとから叱られる僕の身になって欲しいよ……」
 ついエリオットの口から、そんな愚痴がこぼれた。そのとき、だれかの足音が近づいてくるのが耳に入る。
「あ、やっぱりここにいたのね、ジョン」
 レベッカお嬢さまだった。一六歳のお嬢さまは、夏からひとりの淑女として髪上げをされているものの、あいかわらず大人しく屋敷に閉じこもるような性格ではない。弟のヘンリーが森へピクニックにでかける姿を見つけては、ためらうことなくいっしょに遊ぶのだ。
 そしてそんなお嬢さまとエリオットが、密かに手を繋いで森を歩くのも日課のひとつになっていた。
「あれ? 今日は慈善劇のお稽古じゃなかったのです?」
「そうなんだけど……。従姉のエミリーとロミオ役の人が、急用で来られなくなってしまったの」
「主役おふたりがですか? これじゃ稽古になりませんね」
「だからお茶だけにして、あとの参加者さんにはご帰宅いただいたわ。そうしたらひまになっちゃって」
「そうでしたか。それはがっかりですね」
「いいえ、その反対。慈善劇が今年こそぶっつぶれますようにって、神さまにお祈りしていたのにね。憂鬱だわ」
「あはは……それは、また、ずいぶんとはっきりした……」
 エリオットは苦笑せずにいられなかった。
 アンダーソン家とその親戚一家、そして近隣の領主館や牧師館の若者たちは、毎年一一月になると、クリスマス前の慈善劇を開いていた。その名のとおり、孤児院への募金を目的にした、素人劇の披露である。
 兄のジェイムズは大学にいるため、不在。弟のヘンリーはまだ幼いから、劇に借り出されず、長女レベッカだけが劇の稽古だ。それがよけい面白くないらしく、まともに台本を読んで練習している姿を見かけたことはない。
「それで今年はいったい、なんの役を?」
 明るい茶色の髪の令嬢は、紫色の瞳を細めて嫌そうに答える。
「乳母よ、乳母。ああーもうっ、どうしてクジ運がないのかしら! すっごい台詞が多いんだから!」
「よかったじゃないですか。去年は使用人と夜警。端役の男役より素敵ですよ」
「もう呑気でいいわね、ジョンは。お芝居なんかしたことないから、言えるのよ。たくさんの人たちに見られる前で、くどくど暗記した台詞を披露するのって、一年に一度の悪夢なんだから」
「仕方ないでしょう。それがお嬢さまたちのお役目なのですから。そのお芝居ひとつで、大勢の孤児たちがご飯を食べられるのですよ。もう少し誇りに思われても……」
 レベッカに頬をつねられた。思いっきり。
「真面目すぎてつまんない」
「痛ててっ! す、すみません……つい出すぎた真似を」
「そうよ。出すぎた真似よ。父さんと同じこと言うんだもの。ジョンは出来た人でも、わたしは……」
 レベッカの指先がふたたびエリオットの頬に伸び、今度は優しく触れられる。思いがけないお嬢さまの行動に、鼓動が早まらずにいられない。
「ごめんなさい。痛かったでしょう?」
「い、いえ……失言した僕が悪いんです」
「ジョンがわたしよりずっと大人だから、ちょっと妬いちゃったの」
「……」
「わたしって子どもでしょう? なのに来年からは、社交界に出なきゃいけないわ。大人になりたくないって思うの、わがままかしら。だって――」
 エリオットはレベッカの真意を読み取り、彼女の手を優しく握りしめる。
「僕だってわがままです。いつまでもこうしていたいと、心の片隅で願っているのですから」
「……」
 ふたりは熱く見つめ合い――。
 だが、すばやく理性が働いたエリオットは、手を放して立ち上がると、赤くなった顔をそらしながら話題を変えた。
「よろしければその、僕が台詞合わせをいたしましょうか。これでも以前、奉公した貴族が演劇好きで、読書の代わりに僕が枕元で朗読していたんです。シェイクスピアなら、だいたい暗記していますよ」
 ぱっとレベッカの顔が輝く。両手を組み、言った。
「お願い、ぜひそうしてちょうだい! 助かるわ!」
 こうして、エリオットとレベッカは翌日から、森のなかで『ロミオとジュリエット』を朗読することになる。


『いい加減になさい。少し黙ったらどうなの。』
『はい、奥様。でも、お嬢ちゃんが泣きやんで「はい」と言われたんですもの、考えただけでもうおかしくて、おかしくて。あ、そうだ。あのとき額に瘤ができましたんですよ、そう、ちょうど雄鶏の雛の睾丸ぐらいの』
 ここでレベッカが耐えきれないようにふき出した。
「あはは。睾丸だなんて……わたし大勢の前で言うのよ。まったく節操のない乳母だと思わない?」
 木の幹にもたれかかったエリオットは、またため息をついた。今日はこれで何度目だろう。
「……僕が真面目に、稽古に付き合ってさしあげてるというのに。やる気を削ぐつもりですか?」
 台本を開いたまま、レベッカはそれを口もとへやった。
「だってジョンって、すごくうまいんですもの。真面目に稽古していたら、わたしまた妬いちゃいそう。どうしたらそんなに上手に演技ができるのかしら」
「簡単なことですよ。その人物になりきればいいんです。演じると思わずに、ね?」
 エリオットは素直に助言したのだが、ますますレベッカは眉をしかめてしまった。
「そんなこと承知してるわ。でも、でも、なりきれないのよ。乳母の気持ちなんて、わかるわけないでしょ」
「では未婚のお嬢さまのジュリエットは? 立場が同じですし、お歳も近いですから、役になりきる練習にはふさわしいと思いますよ。台詞合わせをしてみますか?」
 やや間があって、答えが返ってきた。
「そうね。ひどい棒読みだから、このままじゃ、披露するのは恥ずかしいわ。去年は端役だったし、そんな心配なかったけど……」
 勇気付けるようにエリオットはにっこりと笑みを作った。
「決まりですね。どの場面にいたしましょうか」
「今、読んでいた場面の次にしましょう。練習したばかりだから、やりやすいわ」
 レベッカがぱらぱらと台本をめくり終え、ジュリエットの台詞を口にした。
『巡礼様に申します。こうやって私の手を握り、立派に務めを果たしたあなたの手を、あんまり詰ってはかわいそう。聖者の像にも手があって、それに手を触れるのが巡礼の勤めというもの、手と手とをぴったり合わせるのが巡礼の接吻でございましょう。』
『では、聖者にも唇があり、巡礼にも唇があるのはなぜでございましょう。』
『祈りのときに用いるための唇でございます、巡礼様。』
『では聖者様、手で行う勤めを今度は唇で行わせてください、私の唇の祈りを聞きいれてください、さもなければ私の信心も絶望へと変わりましょう。』
『祈りに応えて願いを聞きいれても、聖者の像は動きはいたしませぬ。』
『では、祈りを求めたものを私がいただきますゆえ、動かないでいただきましょう。こうやって私の罪もこの唇からあなたの唇によって拭い清められました。』
 と、ここまで台詞を言って、次の行動にとまどった。
――そしてキスするんだよな、ロミオはジュリエットに……。
 台本どおりいけば、そうなのだが、今はただの台詞合わせ。何もなしにやりすごしたほうが――。
 向かい合わせに立っているレベッカの頬が赤くなっている。視線が合うと、すぐにそらされてしまった。
「ごめんなさい、ジョン……」
 そのひと言で、お嬢さまが自分を謀ったのだと悟った。
――ああ、なんてかわいらしい僕のジュリエット!
『では、その罪を私に戻していただきましょう。』
 ロミオになりきったエリオットは、その台詞を口にしながら、そっとレベッカの顎を手で持ち上げる。眼鏡をはずし、顔を近づけた。少しずつゆっくりと。
 レベッカが目を閉じた。
 ほんの少し、恋人同士のくちびるが触れたとき。
「お姉ちゃん! 大きなどんぐり見つけたよっ!」
 森の茂みからヘンリーが出てきた。
 反射的にふたりは距離を置き、あわててヘンリーのどんぐりを褒めちぎった。
「ほんとうね、大きいどんぐりね!」
「すごいですねー、坊ちゃま。森のリスも顔負けですよ!」
「だろー、でもこれは僕のだからな」
「さあ、さあ、風も冷たくなってまいりましたし、そろそろお屋敷にもどりましょう。これ以上遅れると、ミス・ゲイルがご機嫌ななめになりますよ」
「そうね、そうしましょう!」
 エリオットとレベッカはピクニックの道具を手早く片付け、互いのあせった顔を見ながら、ヘンリーとともに森をあとにするのだった。


6
最終更新日 : 2014-02-02 22:57:43

試し読みできます

1

第15話:きらきら星は不調和な夢を奏でる

 

 アンダーソン家の青年執事ジョン・エリオットは、先代当主が使っていた寝室の整理に追われていた。
 先代が没してはや二〇年。あるじのいない部屋のカーテンは閉めきられ、テーブルやソファ、書き物机、棚や箪笥のうえには白布がかかったままだ。
 サー・リチャードの計画では、若主人であるジェイムズが日当たりの良い大きな部屋に移る予定だったのだが、いつまでたっても子どもはおろか、長男が結婚していないために新たな家族が増える気配はなかった。だがそれは表向きの理由。子どもがいようがいまいが、いつでも引越は可能なのだから。
――私はお祖父さまがあまり好きじゃなかったんだ。
 いつまでたっても部屋を変わろうとしないジェイムズが、そっとエリオットに打ち明けた事情だった。とても厳格な当主だったらしく、まだ幼かった若主人にとってはあまり良い思い出が残っていない空間でもある。
 しかしさすがに二〇年もの時間は、ジェイムズに気まぐれを起こさせるには充分だった。ある日、エリオットは呼ばれ、先代の寝室を片づけるように命じられた。
「かしこまりました、若旦那さま。すぐに女中に掃除をさせます。空き時間のある日に、調度品はわたくしめが整理しておきますので、のちほどご要り用なものを申しつけてください」
「ああたのんだぞ、エリオット」
 短いやりとりがあった三日後、エリオットは意気揚々と先代の寝室に入った。今日はすがすがしいほどの秋晴れで、カーテンと窓を開けると爽やかな風が吹き抜け、心地良い日差しが出迎えてくれた。
 埃はすでにメイベルたち家女中が払ってくれていたから、むせることもなく、白い手袋をつけてあれこれ遺品を整理する。箪笥の中身に吊るされていたガウンと寝間着を取り出し、安楽椅子のクッションをはたき、サイドテーブルに置かれたままのオイルランプを点検した。まだ使えそうだが、デザインが古すぎる。当時は斬新だった、非対称の蔦模様が目につく。若主人が使っている物をそのまま移動させればいいだろう。華やかな調度品は彼の好みではない。
 マントルピースの上の置物をすべて箱に入れ、壁にかかった写真や絵画をいくつか外す。あらかじめどれを残しておくか、指示されたとおりに。
「うーん、壁紙も貼り替えたほうがいいかな。もう少し落ち着いた色に」
 赤いゴブラン模様が部屋の威圧感を増しているから、シノワズリ調の青い壁紙がいいんじゃないか、と想像する。これもあとで若主人に相談しておこう、と頭のなかでメモをとったとき、あるものに目が釘付けになった。
 柱時計の隣に置かれた細長い陳列ケースに、ヴァイオリンが飾られていた。そういえば先代は演奏が趣味だったのだと、主人から聞いたことがある。しかし演奏家としての血は受け継がれなかったようで、息子のサー・リチャードはもちろん、孫のジェイムズ、レベッカ、ヘンリーも子ども時代をすぎたらヴァイオリンに見向きもしなくなった。夫人であるレディ・アンダーソンも同様だ。
 エリオットの記憶に、ヴァイオリンを肩に乗せ、弓を引く実父の姿がよみがえった。母親の愛人だったブルック氏は、ある日、楽器片手にエリオット母子の住むフラットにやってきて、心地良い演奏を披露してくれたのだ。
 幼いころからたしなんでいただけあり、プロの奏者とまではいかなくても、充分に楽しませてくれた。下町の居酒屋やミュージックホールで聴いた軽やかで陽気な音楽ではなく、荘厳で繊細な音色は、少年だったエリオットに感動をあたえたものだ。
――ねえ、ブルックさん、なんていう曲名なの?
 父は優しく笑みを浮かべて、答えてくれた。
――バッハのパルティータだよ、ジョン。
――ぼくも弾けるようになるかな?
――すぐには無理だ。僕だってこの曲を弾けるようになるまで、一〇年以上かかった。それでも、サマンサがいいって言ってくれたら、おまえに音楽の教師をつけてやろう。
 だがその願いはかなわなかった。母が「これ以上、好意に甘えるわけにはいかない」と却下したのだ。それでもあきらめきれなかったエリオットは、父との散歩の合間に、ヴァイオリンを習いたい、と訴えてみた。
――よし。ならばもう少しまっていてくれ。近いうちに先生を探して、楽器も購入しておくから。
 その夢もはかなく破られてしまった。なぜなら、当時、ブルック氏の父が亡くなってしまい、多忙になった氏はヴァイオリン云々どころの話じゃなくなったからだ。忘れていたわけではないのだろうが、フラットにもあまり訪れなくなってしまい、催促しづらくなったまま、父は蒸発してしまった。
 それっきり、ヴァイオリンに触れる機会はなかったのだが……。
 エリオットはガラスケースの扉を開け、そっとヴァイオリンを取り出す。いっしょに飾られていた弓を持って、弦を弾いてみた。
「あ、あれ?」
 音が出ない。それどころか、弓がうまく滑らない。力を入れるのも怖くて――雇用主の宝物を傷つけるわけにはいかず、ここであきらめた。
 ため息をつき、元の位置にもどそうと、ふたたびガラスの扉を開けたとき。
「弾く前に、しっかり松脂をつけておかないと、音は出ないぞ」
 声のぬしは若主人、ジェイムズだった。
 エリオットはあわてて謝罪する。
「も、申しわけございません。その決して、遊びではなく……」
 水色の瞳を細め、愉快そうにジェイムズはふき出す。
「くくくっ……。おまえがヴァイオリンに興味があったなんて、知らなかった。でも演奏はできないようだな。基本中の基本も知らないようじゃ」
 エリオットは顔を赤らめ、白状する。
「まあ、おっしゃるとおりです。子どものとき、父の演奏を聞いて、いつか自分も――と、夢見ていたこともあったものですから。教えてくれる約束だけで終わってしまいましたけどね」
 そう答えて、失笑するしかなかった。
「今でも習ってみたいか?」
「そうですね、機会があれば。ただいい歳をした大人からはじめても、大してモノにならないともいわれますし。たとえ才能があっても年齢はとりもどせません」
 今度は若主人がため息をみせた。
「はあ。才能ねえ。残念なことにうちの家族、お祖父さま以外、まるで楽器が苦手だ。叔母さんだけがうまくて、親父はいつも教師に叱られていたって言ってたぞ」
「さようですか。もったいないですね」
「ああ、もったいないさ。なんせ、このヴァイオリン、わざわざイタリアで購入した逸品らしいからな。えっと、なんて言ってかな。ステ、じゃない……ストラデ」
「もしかしてストラディヴァリでございますか」
「ああ、そんな名前だったような気が」
「大変な名器にございますよ。有名な奏者が使いこなすような」
 ジェイムズは眉根を寄せ、まじまじとエリオットが手にしているヴァイオリンを見つめた。
「……まさしく、宝の持ち腐れだな。いっそコレクターか奏者に売ったほうがいいかもしれない」
 エリオットも同意せずにいられない。
「ええ、それがよろしゅうございましょう。ヴァイオリンがお好きな方の手元にあったほうが、先代さまも喜ばれます」
「まずはマニラ叔母にでも話してみるか。それより、おおかた部屋は片付いたようだな」
 ぐるりと部屋を見回したジェイムズに、エリオットは脳内にメモしていたことを言葉に出した。
「よろしければ、壁紙も貼り替えましょうか。爽やかな青のシノワズリ模様なんていかがです。もしくは柳模様の緑とか」
 顎に手をやり、若主人はうなずく。
「そうだな。おまえのいうとおり、青色にしよう」
「はい、かしこまりました。さっそく、そのように手配いたします」
 ここでジェイムズが退室し、少し時間を置いて木箱を抱えたエリオットも部屋を出た。不要となった置物を倉庫にしまうために。


◇◆◇◆◇


 屋敷の裏口に配達された郵便物を仕分けていると、三年前に引退した家政婦パーシーの手紙があった。宛名はエリオット自身である。
「えらく早い返信だな」
 パーシー宛に投函してわずか三日だ。いつもの彼女なら、半月から一ヶ月かかって手紙が返ってくるのがつねだ。エリオットが仕事で多忙なのと、すぐに返事を書かずにいられない性分をおもんばかって遅らせてくれるのだろう。
 そんなパーシーが急いで書いた返信。
 いやな予感がしたが、さきに主人一家へ郵便物を差し出さなくてはならない。銀盆に手紙や葉書を乗せ、まずは階上へあがった。役目を終え、ふたたび階下の執事室へもどると、さっそくペーパーナイフでパーシーの手紙を開封する。
 …………ざっと目を通してみたが、とくに急を要するような内容ではなかった。
「なになに。『せっかくのよい機会だから、ヴァイオリンを習ってみてはいかが? お隣さんの先生へわたしからお願いしてみましょうか』か」
 この前の手紙に書いた、先代のヴァイオリンの話題からつながっているのはわかるが、そう急くことでもなかろうに。それにだ、習おうにも肝心のヴァイオリンがない。
――あれを借りればいいじゃないか。
 ふと大それた案を思いつくが、すぐに否定する。
「だめだ、だめだ。ストラディヴァリなんか僕にはもったいない。だいたい旦那さまだって許可されるわけがない」
 そんなひとり言が口をついて出た。
 そのときドアがノックされ、返事をするとビリーだった。
「エリオットさん、壁紙の貼り替えが終わりました。不備がないか、確認してください」
「ああ、すぐ行く」
 椅子から立ち上がり、裏階段を使って二階へあがる。新たな若主人の部屋へ入っていった。
「ほう、なかなかいいじゃないか」
 眼鏡を上下させ、エリオットは真新しい糊の匂いがする部屋を見渡した。当初はシノワズリ模様と決めていたが、屋敷に届いたデパートのカタログをめくっているうちに、アラビア風の幾何学模様がいいんじゃないか、という考えになった。
 細かく青い模様が規則正しく配置されているものの、遠目で見ると青と白の濃淡がいい具合に溶け合っている。存在感があるようでないその壁紙が、ジェイムズの心を落ち着けてくれるであろうことはまちがいなかった。
「さっぱりしてるから、若旦那さまにお似合いだな」
 エプロン姿のマークが誇らしげに言った。片手に刷毛、もう片手に糊の入ったバケツを持っている。
「これ、エリオットさんが選んだんだろ。さすがだなあ。俺たちよりずっとセンスがいいですぜ」
 男手が足りないからと呼び出された御者のヒューも、自慢げに撫で刷毛を握りしめている。
「あはは。そう褒めなくても。こそばゆいじゃないか」
「いやいや、ヒューの言うとおりだぜ。俺だったら無難な流行柄にするだろうな。あとでぶつくさ言われちゃ面倒だし」
「そうだよな、『なんでもいい』っていう主人にかぎって、いざ終わると『これはなんだ』という話になるんだもんな。それでも独断で貼り替えた勇気を称えてるんですぜ」
 ヒューがさらにうまいこと言ってくれるものだから、エリオットの背中がさらにかゆくなってしまう。
 そのときちょうどよい具合に、家政婦のシモンズ夫人も部屋に入ってきて、真新しい壁紙を見物した。
「まあ、素敵ね。すがすがしい風が吹いてきそう。そしてごくろうさま。道具を片付けたら、使用人ホールにいらっしゃい。お茶とお菓子をたっぷり用意したわ」
 すぐさまマークが反応する。
「やった! うまいパイやタルトがいっぱい食えるぞ!」
 そそくさとヒューとビリー、下男のトムが持っていた道具を集め、裏庭の倉庫へと駆け出した。シモンズ夫人が来る前は、毎日、焦げた固いパイや、生焼けのケーキ、不可思議な味のクッキーばかりだったから、最近のマークの喜びようは尋常ではない。婚約者の家女中頭メイベルが嫉妬するほどだ。
 シモンズとビリー、トムが部屋を出るが、エリオットは立ち止まったままヒューと顔を見合わせ、苦笑する。
「あいつ、ああ見えて甘党なんですぜ。ブラウンさんがいたころは、遠慮してたからわかんなかっただけで」
「僕もびっくりだよ。でもぎゃくに考えれば、うまい菓子があればいつもきげんがいいってことだ。メイベルには朗報だな」
「ですね。あのマークが堅物嫁に調教されるのが、楽しみですぜ。昔は女友だちと、うはうはやってたのが信じられねえほどに」
「子だくさんのパパになって、ロブ先輩みたいにパブで愚痴ってる姿が、今から目に浮かぶようだよ」
 ここでふたりは声を出して笑うのだが、ぴたりと止む。若主人ジェイムズがやってきたからだ。
「おお、なかなかやるじゃないか。おまえに任せて大正解だ」
「お気に召されたようでなによりです。カタログとにらめっこした甲斐がありました」
 頭を下げるエリオットに、ジェイムズは続けて言った。
「ついでにストラディヴァリも倉庫に納めておいてくれないか。私はヴァイオリン教師にいい思い出がないから、毎日、ながめる気になれん」
「叔母さまに譲られるのではなかったのですか?」
 ジェイムズは肩をすくめる。
「それがなあ。要らないとそっけなく断られた。リューマチに罹って、ヴァイオリンはもう無理だという話だ。歳だから無理もないが、寂しいものだな……」
「さようでございますか。それは残念なお話です。しかし倉庫より、居間や書斎に飾っておくほうが見栄えがしてよろしいと思うのですが」
「ちなみにそのヴァイオリン教師、親父も習っていた。お祖父さまのお墨つきの腕だったからな。私が習うころはかなりの老紳士だったが、妹もきらっていたほどだ。ヘンリーだけは教師が亡くなっていたから、受難をまぬがれたが。あいつも楽器が苦手なのは、おまえも知っているだろう」
 エリオットは乾いた笑いが出てきそうになった。
 つまりアンダーソン家が雇っていた教師は、腕はたしかだが指導方法は過酷だったのだろう。なにせあのサー・リチャードですら、ヴァイオリンを見るのもいやになるほどだというのだから。
 そういうことならば、買い手がつくまで倉庫に――――。
 が、無意識のうちにエリオットの口をついて、不躾な言葉が出てきた。
「そういうお話でしたら、ぜひ、わたくしにお貸しいただけないでしょうか?」
 はっとわれに返って口と閉ざすものの、時すでに遅し。ジェイムズの冷たい瞳が、エリオットをとらえている。
 部屋の隅で様子をうかがっていたヒューも、青い顔で事の成り行きを見守っていた。
「ほう、おまえがストラディヴァリを弾くと? まったくの初心者のおまえが?」
「先日、パーシー夫人からお手紙が届きまして、知り合いの教師を紹介していただけると言われました。せっかくの楽器を倉庫に眠らせておくよりは、僭越ながら…………」
 と、ここまでしゃべって、あとは言葉がなくなった。
 練習用のヴァイオリンならともかく、かの名器である。もし売れば目玉が飛び出るほどの値段にちがいない代物を、一介の使用人である自分ごときに貸していただけるはずはない。ずうずうしいにもほどがある。
 そう、若主人は思っているはず。
 ジェイムズの視線が床に落ち、ふたたびエリオットを見つめる。まっすぐに。
「よし、決めたぞ。おまえに貸す」
「よ、よろしいのですか……?」
「よろしいもなにも、おまえが言い出したんだろう。その代わり――」
 エリオットはごくりとつばを飲みこむ。
「クリスマスに演奏会を開く。そのときまでになんでもいいから、一曲弾いてくれ。なにせせっかくの名器なんだからな。親父も喜ぶぞ」
――ええ? クリスマスって、あと三ヶ月ないじゃないか!
 おもわずそう反論したくなったが、貸してくれと言い出した手前、無理とは言えない。承諾するしかなかった。
「かしこまりました。がんばって弾けるように努力してみます」
「楽しみにしているぞ、エリオット」
 口もとが弧を描き、イタズラっぽい視線とともに、ジェイムズは退室の合図を出した。


◇◆◇◆◇


 親愛なるレベッカお嬢さま。

 先日、ささいなきっかけから、先代さまが所有しておりましたストラディヴァリが、今、僕の手元にあります。
 まったくの初心者である奏者には、あまりにももったいないほどの名器。
 ヴァイオリン教室の先生であるミス・デイヴィスも、目を丸くしておどろかれたほどです。
 しかし悲しいかな、縁のない僕には名器の良さが理解しがたいのも事実。
 ともに教室に通っている生徒のミスター・ホガースが使われている、名もない楽器のほうが音が鮮明に聞こえて扱いやすいのですから。
 あ、お嬢さまはご存じですよね、マイケル・ホガース氏を。
 ピッチャム村にある牧師館の長男です。
 牧師のホガース氏のあとを継がれるご予定で、今は牧師補として教区を回られて奉仕活動をなさっているとか。
 そのマイケル氏なんですが、その、なんていいましょうか。
 かなりの熱血漢でございまして、ときどきヴァイオリンが真っ二つに割れそうな雰囲気になってしまうのが、悩みの種でもあります。
 絶対に割られないように、ストラディヴァリを死守するのも僕の大切な仕事。
 まあ、その原因は僕にもあるといえばあるのですが。
 どうしてこうなったんだ、とやっかいごとに巻きこまれた自分が情けなくもあります。
 それでも逃げ出すわけにはまいりません。
 そう、ジェイムズさまと約束したクリスマスまでに、『きらきら星』を最後まで演奏できるようにならなくては。
 週に一度しか通えないわが身が、いらだたしくもありますが、シモンズ夫人がいるおかげで休暇が思うとおりに取れるようになりました。
 神に感謝しています。
 やっと自分の時間をとって、ゆっくり考えごともできる日々になったのですから。
 と、ここまで書いて、肝心なことに触れてないのを思い出しました。
 ヴァイオリンの初歩の初歩から開始した僕ですが、初日はさんざんでしたよ。
 楽器を構えて、弓を手にして、弦をこすったのはいいですが、見学していたパーシー夫人が逃げ出してしまいました。
 グギャー、ブギョー、フンギャアアー、グゲゲェ!
 世にも恐ろしい化け物が大合唱しているさまを披露してしまいました。
 次週にはまともな音が出せるようになったものの、今度は音程がまったくだめで、まともなドレミを出せるようになったのは四週目。
 この調子で果たして、クリスマスまでに演奏できるようになるのでしょうか。
 非常に不安です。
 しかし一番気の毒なのは、名器ストラディヴァリです。
 こんなど素人のために、高貴な身を弾かれているありさまなのですから。

 ジョン・エリオット


◇◆◇◆◇


 土曜日の午後。
 ヴァイオリン教室は教師の自宅の居間でおこなわれていた。小さな一軒家だったが、村の特徴でもある美しい花が庭園を彩っている。晩秋だったため花の数は少ないものの、夏には赤や黄色が緑のなかで咲き誇る景色が目に浮かぶようだ。
 隣家のパーシー夫人はひまつぶしをかねて、ときおり教室を見学していた。そしてレッスンが終わると、菓子とお茶をごちそうしてくれるのも習慣になっている。
 甘い菓子の香りを心待ちにしながら、エリオットは弓を動かすのだが、何度、挑戦しても音がメロディになることはなかった。教師のジャネット・デイヴィス嬢は、それでも不安な顔ひとつみせず、丁寧に指導してくれる。
「弓に力を入れすぎているんですわ。……そう、もっと流れるように弾いてごらんなさい。無理に音を出そうとするんじゃなくて、振動を止めないことが大切よ」
 言われるまま、肩の力を抜いて腕を動かしてみた。すると音に調和が生まれる。石のように固くなっていた、子ども向けの楽譜の音符が、やっと生き物のように動いてくれた――そんな気がした。
 エリオットがデイヴィス嬢に指導されている横で、牧師補のホガース氏が初心者用の練習曲を弾いていた。ときおり教師に指示をもらうだけで、ほとんど自習状態である。それが面白くなかったのか、エリオットと視線が合うたびに鋭い目で一瞬、にらまれる。
 そのホガース氏だが、ヴァイオリンを習い始めて三年目。氏はお世辞にも上達しているとはいえない。初級用の練習曲を弾いているものの、何度弓を引いても途中で、音が外れてしまう。直情らしい氏の演奏は、エリオットが奏でる音よりずいぶん力強い反面、きれいとはいえなかった。
 無理もないだろう。子どものときから習っていた実父だって、十年以上の年月を経てバッハのパルティータを弾けるようになったと言っていた。三年目なら初心者の域を出ていないのも変ではない。ましてや、ホガース氏は三〇歳をすぎてから、習い始めたというのだから。
――それになあ。明らかに向き不向きがあるような……。
 自分も他人のことは言えないが、ホガースにヴァイオリンの神が微笑んでくれないのは、ど素人でも理解できた。
 そんな不器用な生徒でも、お金をいただく以上、デイヴィス嬢は丁寧に教えてくれる。さすが教室を開くだけあるな、と感心せずにいられないほどだ。
 時計が午後三時の音を告げたところで、今週の授業は終了した。まっていましたとばかりに、パーシーが盆を提げて居間に入ってくる。デイヴィス家のキッチンで淹れた紅茶を、まずは教師のカップに注いだ。
「おつかれさま。今日はカボチャのパイを焼いてみたのよ」
「いつもありがとうございます、パーシーさん。菓子を焼く時間がないから、助かりますわ。いつも缶入りビスケットじゃ味気ないですもの」
 元家政婦の老婦人は微笑みを返す。
「いいえ、遠慮はいいのよ。わたしだって昔は、毎日、たくさんのお菓子を焼いていたんだけど、今はその腕を生かせなくて寂しいんだもの。喜んで食べてくれる方がいるだけで、とても楽しいの」
 芳香な茶を味わいながら、エリオットが応える。
「ええ、そうでしたね。昔は僕もパーシー夫人のパイが楽しみでした。今でもそれは変わりません。クッキーもケーキもタルトも。アイスクリームだって」
「まあ、アイスクリームも召しあがっていたのです? うらやましいわ。パイだってこんなにおいしいんですもの」
「いえ、そうは言っても、ご主人さまの残り物だから、たいてい液状一歩手前でしたけどね。それでも絶品でした」
「食べてみたいけど、冷氷器がないとむずかしいんでしょうね。大きなお屋敷だけあるわ」
 そう感想をもらすデイヴィスに、すかさずホガースが提案した。
「よかったら今度、牧師館の晩餐に招待しましょう。アイスクリームぐらいなら、いつでもお出しできますよ。もちろん固まったままのです」
 誇らしげに胸を張る彼だったが、エリオットは眉をひそめた。
――おいおい、パーシー夫人のまえで言うセリフかよ……。
 しかし失言をまったく気に留める様子もなく、パーシーは笑みを崩さないまま、ホガースのカップに二杯目の茶を注いだ。
「あらまあ、晩餐会なんて素敵じゃない。ねえ、デイヴィス先生?」
「え、ええ。そうね。でも着ていくドレスがないから……、かえって失礼になってしまいます。お気持ちはとてもうれしいですわ」
「ドレスがない心配ならご無用。妹が持っているのをお貸ししましょう」
「妹さんは小柄じゃなくて? 入らないわ、きっと」
「じゃあ母の古いのを作り直せば、問題ないですよ。アンダーソン家までとはまいりませんが、困ったご婦人の装いぐらいなんとでもなります」
「まあ……」
 ホガースの熱心さと、デイヴィスの苦笑する表情から察するに、ふたりの関係は一方的な片想いに見えた。小学校の教師もしているジャネット・デイヴィス嬢はエリオットと同じ歳。マイケル・ホガース氏はそれより五歳上。年齢的には問題ない。
 ただやっかいなのは、デイヴィスが小学校の教師である点だ。牧師館の長男であるホガース氏は将来、教区の教会の牧師になることは決まっていて、エリオットとデイヴィスより住む世界は上である。
 そんな令嬢でもない、ましてや労働者でもあるデイヴィスをホガース氏の父は受け入れてくれるのだろうか。いや、そのまえに彼女自身、三年目の生徒にまったく気がないようである。
 前途多難な片想い。マイケル・ホガース氏の現在の状況だった。
 空気の流れを変えるように、エリオットが話題をふってみた。
「失礼ですが、以前からほかのご家族をおみかけしないのですが。ひょっとしておひとりで暮してらっしゃるのです?」
 カップを持ったままデイヴィスはうなずいた。
「ええ。八年前に父を亡くして、去年、母も亡くしました。弟がふたりいるのですが、中等学校へ進学させるために、わたしが働いてお金を作りましたの。親戚から借りたお金がまだ残ってまして……それで副業も」
「弟さんはどうされていらっしゃるのです?」
「ひとりはお役人になってインドにいます。もうひとりは父以上にヴァイオリンが上手くて、ウィーンに留学していましたの。今は楽団に入って、ヨーロッパ中を回ってますわ」
「へえ、じゃあ父上がヴァイオリニストだったんですか。だからあなたも上手いんですね」
 デイヴィスは小さく笑う。
「うふふ。そうは言っても、弟ほどじゃないわ。それに……」
 遠い目をして、パーシーと視線を合わせる。彼女には話しているようで、代わりに答えてくれた」
「ねえ、エリオットさん。あなたは女性がヴァイオリニストを続けていくことを、どう思っているのかしら」
「むずかしい問題ですね。結婚したら舞台にあがることは無理です」
「家事よりも音楽が好きなご婦人は、どう思うかしら」
「どう思うっておっしゃられても、僕はなんとも言えません」
「なぜ?」
「だって、世の中は主婦になるために、女性は生まれてきているんです。女中仕事が娘たちにすすめられるのも、将来はそうなることを望まれているからでしょう。だからといって無理に結婚するな、とも言えませんし……」
 ここまで口にしてあることを悟った。
――まさか、初めからそのつもりで、パーシー夫人は僕にヴァイオリンを習うように。
 今度はエリオットとデイヴィスの視線がぶつかる。さっとそらされるが、すぐにまた濃い茶色の瞳が自分をとらえる。
 その直後、憤然とした口調でホガースが場を支配する。
「借金がなんだっていうんです! ひどい話だ」
「いえ、いいんです。ふたりともまだ給金も少ないですもの」
「弟さんは働いているのに、返済の肩代わりをしないとは! それに家事なんて女中に任せればいいことだし、僕はですね、音楽が大好きなご婦人はぜんぜん問題ありませんよ!」
 あまりの剣幕でエリオットもなだめずにいられない。
「あの、ホガースさん、そういう意味で僕はお答えしたんじゃ」
「あります! 僕だったら家事なんてまったく気になりません。妻にさせる必要もない。しかしあなたはちがう。答えは簡単だ」
 一方的な決めつけに、さすがのエリオットも気分が悪くなる。眼鏡を小さく上下させ、釘を刺すように言った。
「いいですか、ミスター・ホガース。僕たちはヴァイオリンを習うために、ここに来ていることをお忘れなく。ご婦人を困らせるような言動こそ、牧師補たる者の務めから逸脱しているとしか思われませんが。ちがいます?」
「……」
 何か言いたそうな表情をしていたが、それっきりホガースが発言することはなかった。


◇◆◇◆◇


 ストラディヴァリを借りた代わりに、クリスマスパーティで一曲披露しなくてはならないエリオット。あと六週間しか時間が残されていないにもかかわらず、ヴァイオリンの腕前はさんざんな状況だった。
 週に一度しか練習しないからだ、と結論を出して、奉公仕事の合間をぬっては弓を手にとる。初めは執事室で演奏しようとしたのだが、部下たちにからかわれそうな悪寒がしたため、屋敷の近くの森に入った。ここならいくら不調和な音を出してもとがめる者はいない。
 枯れかけた落ち葉が舞い散るなか、オーバーコートを着たままヴァイオリンを弾く。何度も目を通した『きらきら星』の音符の位置を思い浮かべながら、弓を横へすべらせた。

 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are!

 たどたどしいながらもなんとかここまで弾いてみた。
 しかし曲を知っているだれかが自分が奏でた音を耳にしても、『きらきら星』だとわかってくれるのかどうか。それだけ自信が持てない。
「うーん。前半だけまともに弾けるようになるか、がんばって下手くそでも全部弾けるようになるようにするか。どちらにしても、不恰好なのは変わりないよな」
 弓を肩の位置から下ろすなり、そんなぼやきが口をついて出た。
「あら。がんばっていただければ、全部弾けるようになりますわよ。すじは悪くないですもの」
 登場するには意外すぎる人物の声で、エリオットは背後をふり返った。目を見開いて。
「ミス・デイヴィス……」
「ちょうど近くの村に用事があったついでに、訪問しようと思い立ちましたの。いつも悩ましい顔で、ヴァイオリンを弾いていらっしゃるから、ずっと気になって。そうしたら聞き覚えのある音色がしますでしょう」
 外出着姿のデイヴィス嬢は、そう言ってほほ笑んだ。仕事で見せる堅いものとはちがう。
 エリオットはヴァイオリンを肩から外すと、あらためてあいさつをした。
「こんにちは。情けない姿を目撃されて、お恥ずかしいかぎりです。せっかくの名器をむだにしないよう、がんばっているつもりでこれですからね」
「いいんですわ。この調子で練習なさってくだされば。……じつを申しますと、今年いっぱいでヴァイオリン教室は辞めるつもりですの。だからわたしが指導しなくても、そうやって独学で上達してくだされば、教えた甲斐があったものです」
「辞める? どうしてです? 丁寧に教えていただいてますし、生徒さんだって集まるのでは?」
 デイヴィスは視線を落とす。教師のときは決して見せなかった、迷ったような悲しい眼をして。
「苦情がありましたの。本職は小学校で教師をしているのはご存じでしょう」
「ええ」
「わたしがヴァイオリンを教えているのを生徒たちも知っていて、『弾いてみたい』って言ってくる子もいるわ。そのなかには女の子もいて、教えてみたらとても才能のある子だったの。まれにみるほどの逸材。だから、ご両親にお話したのはいいんですけど……。あとはご想像できますでしょう、エリオットさん」
 先日、パーシーが投げかけてきた質問が、エリオットの脳裏によみがえった。
――あなたは女性がヴァイオリニストになることを、どう思っているのかしら。
 そのとき自分はこう答えた。
 女性は家庭の主婦として生きることを世間は望むのだと。
 だから女子生徒の親も同じ価値観を持っていて、娘の将来に大層な夢を持たせてしまった女教師を責めたのだろう。
 どう言葉を返していいのかわからない。ほんの少し前まで当たり前と認識していたことが、デイヴィスというヴァイオリニストの存在で揺らいでしまっているのだから。
 その場を取り繕うように、彼女が言った。
「ヴァイオリンを習うような生徒さんも限られています――ほら、軽い音楽ならともかく、クラシックをたしなむような御仁や貴婦人は、村にそうたくさんいらっしゃるものではありません。親戚から借りていたお金も、夏には返し終えてましたのよ。だから心配なさらなくても、だいじょうぶですわ」
「それはよかったです。けれどさみしいものですね。せっかくの腕をお持ちなのに」
 結局、それだけしか言えない自分だったが、ふとあることを思いつき、提案してみる。
「そうだ、デイヴィス嬢。よろしければ、アンダーソン家のクリスマスパーティで、演奏なさってみては? 僕だけの演奏会にしてしまえば、あまりにもお粗末すぎて、大失笑が目に浮かぶようです。毎日、悪夢のように悩んでいまして……」
「まあ、それでいつも悩ましい顔をされていらしたんですね」
「そんなところです。はたから見ると、面白おかしいようですが、僕はそんな気分になれません。森で練習していたのもこれが理由なんです」
「そんなに真面目におっしゃらなくても……ぷ、ぷ、ぷ……」
 明らかにデイヴィス嬢は失笑をこらえていた。おそらく惨憺たるお粗末な演奏会を想像しているのだろう。
――あーあ、どうしていつも、笑われるんだろうか。
 喜劇役者ではないというのに、情けない自分がその場を和ませているのも、いつもの現実だった。いいのか悪いのかエリオット本人には判然としないものの、今回は良しと思うことにした。


 森で偶然、出会ったのをきっかけに、エリオットは土曜午後のレッスンに加え、個人的に指導してもらうようになった。場所はトゥーリー村のはずれの丘である。
 教師をしているデイヴィスの負担を少しでも軽くしたくて、彼女の住まいに近い場所を選んだ。しかしレッスンをしている居間は、避けている。
 理由はどちらからともなく口にしないものの、ある人物の顔が浮かんだのだ。
――あの牧師補に知られてはよくない。
 彼はどう見てもヴァイオリンそのものでなく、教師目当てに通っているようなものだ。クラシック演奏をたしなむような紳士は限られていることもあって、エリオットがやって来るまで、生徒は彼ひとりだけだったそうだ。これまでの独占欲から、一気に嫉妬へかられたのも無理なかった。
 パーシーが証言するには、実際、エリオットが生徒になる前のホガース氏は、堅物そのもので口数が少なかったという。そういえば、第一週目の練習時、氏の対応にデイヴィス嬢がとまどっていた様子だったのを思い出す。
 数日前にしたためたレベッカへの手紙にも、原因が自分にあるようだ、と遠まわしに書いていた。あのお嬢さまのことだから、いろいろ想像して面白い返事をよこしてくれそうなのが楽しみだ。送り先はインドなので、早くても返信が届くのは冬の終わりだろう。もしくは春の初めか。
――きっとあれは、ホガース氏の初恋なんだろう。
 ずっと昔、アンダーソン家の慈善劇のロミオ役だって、とても熱心に取り組んでいた。それに比べ、ホガース氏の弟ふたりはどちらかというと軽薄な面があって、愚痴をこぼしながら適当に役をこなしていた記憶がある。
 真面目さゆえの熱血か……。
 これ以上、話がややっこしくなる前に、ヴァイオリン教室が幕を閉じるから、かえってよかったのかもしれない。なにせ相手は身分のある牧師補。サー・リチャードまではいかないとしても、上流に近い身分の御仁であることには変わりない。
 きらきら星のねじまがった旋律が、冬の丘を駆けて抜けていった。
 草を食んでいた羊たちがいっせいにふり向く。が、あまりにも不安定な音律が不快だったのか、ぞろぞろと足並みをそろえて遠ざかってしまった。遠くから猟犬が警戒するように吠える。
「羊にもきらわれた……」
 最後まで演奏を終えて、ため息をつくと、デイヴィス嬢の笑い声が聞こえた。
「まあ、そうがっかりなさらないで。この前より上達してますもの」
「そうです?」
「ええ、最後まで途切れずに弾けましたわ。これがふつうの大人の生徒さんでしたら、もう少し時間がかかるはず」
「そうなのか。比べる相手がいないもんですから、自分ではさっぱり実感できなくて。でも、これではっきりしました。僕はちゃんと実父の血をひいているんだと」
 デイヴィス嬢は目をぱちくりさせた。
「あら、お父さまが?」
「ええ、酒場の歌手だった母の愛人でした。だからクラシック・ヴァイオリンを習いたくても、不相応だと母に反対されましてね。興味があったものの、こうして弾けるだけでも夢のようです」
「じゃあお父さまは、いい身分の御仁ですのね」
「そんなところです。バッハのパルティータを優雅に弾いていたのが忘れられません」
「そうでしたの。だからわたしのもとにいらしたんですね。そのストラディヴァリも喜んでるんじゃないかしら」
「まさか。下手な奏者なのに?」
「ヴァイオリンが好きだったお父さまを思い出して欲しかったのよ。あ、もしかして、エリオットさんのお父さまのところへ行きたい、と言っているのかも」
 エリオットは苦笑せずにいられなかった。ありえない、と。
「残念ながら、父は行方知れずのままです。もう二〇年近くもたっていますし、再会することもないでしょう。会っても迷惑をかけるだけです」
 やや間があって、デイヴィス嬢の答えがあった。
「余計な思いつきを話してしまったようね。ごめんなさい」
「いえ、いいんです。この話は親しい人はみな、知っていますし、よくあることですから」
 ここで話が終わり、エリオットはふたたびヴァイオリンを弾きだす。冬の空に重い色の雲がたちこめてきたが、ふたりが丘を降りるのはもう少し先の時間だった。


8
最終更新日 : 2014-02-02 22:57:43

試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格100円(税込)

読者登録

早瀬千夏さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について