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「何から話しましょうか?」

 それならいっそ姉に徹してしまえと、明姫はいっそう優しげな声音になる。

 「そなたは既に両親がいないと言っていたが、私には母がいる。父は七年前に亡くなった」

 「そう、お母さまはどのような方?」

 「何と言えば良いのだろうな。自分の母親をひとことで言い表すのもなかなか難しいが、強くて脆い女(ひと)だろうな」

 「強くて脆い―、何だか矛盾してない?」

 「確かに」

  彼はそこで、ひっそりと笑った。また、儚げな微笑。その哀しげな微笑みは、いつも明姫の心までをさざめかせ、震わせる。

 「でも、そうとしか言いようがない。私の母は強いのに、とても脆くて弱い一面を持っているんだ」

 「どういうところを見て、そんな風に思うの?」

 「父が亡くなった時、私はまだ十四歳だった。そなたは幼くて知らなかったかもしれないが、九年前に都を震撼とさせた事件があった。誰が考えても不審な火事で、たくさんの生命が失われたんだよ。その火事で、父は信頼する部下を失った。父が精神を病んだのは、その直後だ。一説には、その部下を火事に見せかけて殺した輩が父をも毒殺したのではないかと囁かれている」

 「―」

  明姫は声がなかった。九年前の火事、たくさんの生命が失われた不審な事件。それだけ聞けば、何を意味するか判らぬはずがない。

  では、この男の父親というのは、捕盗庁を統率する更に上の部署―その長官だったのだろうか。思い悩む明姫の耳を真摯な声が打つ。

 「その火事が起こって、二年後、父は狂い死にした。済まないと今わの際まで亡くなった部下たちに詫びの言葉を繰り返していた。誰が見ても明らかに事件性がある火事なのに、愕くべきことに、何の調査も行われなかったんだ。もちろん、ひととおりの形式的な取り調べだけはやるにはやって、後は誰もその夜のことについて口を閉ざした」

 「それほどまでに不審な火事なのに、どうして、入念な調査が行われなかったのかしら」

 「それは決まっている。火事を起こした首謀者が時の最高権力者だったから」

  明姫はやはりと息を呑んだ。間違いない。彼の言わんとしているのは九年前の夜、明姫から一瞬にして、すべてのものを奪い去ったあの火事のことだ。

 「私は父の死後、家門を継いだ。母は幼かった私の後見として、よく私を支えてくれた。そのことには感謝している。だから、強い女だと言った。だが、近頃、思うんだ。母が懸命に家門を守り続けてきたのは、私のためではなくて、自分のためではなかったのかと」

  動揺している明姫の心中など知らないように、男は淡々と続ける。


「最早、私は十四歳の子どもではない。家門を継いだばかりの当時は母の命令を何でも受け容れて従ってきたが、今は到底、そんなことはできない。私には私の考えがあるし、母とは物の見方も違う。母には、それが我慢ならないらしい。私が母の手を離れて一人歩き始めた頃から、母もまた父のように精神に変調を来たすようになってしまってね。急に上機嫌になったかと思うと、いきなりふさぎ込んでしまったり、些細なことに怒り出したりする。子どもの頃は強い女だと思っていた母は、もしかしたら、とても脆い人だったのではないか、最近はそんな風にも思えてならない」 「何て言ったら良いか、よく判らないけど。あなたも色々と大変だったのね」

  返す言葉もなく、逃げを打つしかなかったが、男は明姫から応えを引きだそうとは考えていなかったようだ。ただ長らく自分の中にわだかまっていて吐き出せなかった想いを誰かに聞いて欲しかったのだろう。

 「私が悩んでいるのは、それだけじゃない。私の父が真に殺害されたのかどうか、そのところはいまだに判らない。恐らく永遠の謎だろう。しかし、父の部下たちが火事に見せかけ殺されたのは紛れもない事実なんだ。そして、その卑怯な茶番劇をやったのは私の血の繋がった伯父なんだよ」

 「―では、領相大監(ヨンサンテーガン)の甥というのは、あなた自身のことなの?」

  そこで、しまったと後悔する。今の話では、彼は事件のあらましを語っただけで、具体的に事件に拘わった人物が誰であるかは少しも喋っていないのだ。なのに、事件当時、まだ六歳にすぎなかった明姫がこの話を聞いただけで、すぐに領議政の名を出したのはおかしい。

  だが、自分の想いに囚われてしまっている男には、そこまでは思い至らなかったようだ。彼は頷いた。

 「そう。私の伯父が火事に見せかけて、大勢の人の生命を奪ったんだよ」

  町で両班の放蕩息子から明姫を庇ってくれた時、彼は自分が領議政の甥の友人だと言った。だが、彼は友人などではなく、甥その人だったのだ。

  領議政には現在、国王の母として尊崇を受けている妹の他にも同腹、異腹の弟妹がたくさんいるという話だ。この男もその数ある異母弟妹の息子なのだろう。

 「今更だけど、あなたの名前は?」

  さりげなく訊ねると、すぐに〝イ・ユン〟と返ってきた。ペク氏ではなく、李氏を名乗るということは、彼は少なくとも領議政の弟たちの息子ではないと判る。ならば、既に他家に嫁した妹たちの誰かが生んだ息子なのだ。

 「そういえば、そなたの名前もまだ訊いていなかったな。名前も知らないのに、何か色々なことを喋ってしまった。名前、何ていうの?」


「明姫」

 「姓は?」

 思わず蘇氏と言いかけて、慌てて言い換える。

 「金(キム)氏よ」

 「金明姫。良い名前だ。先刻、そなたに簪とノリゲを贈った時、玉の色が夜明け前の空のようだと言ったね。明姫という名は、まさに夜明けの空の色を象徴しているように思える。夜明けの空に差す真っすぐなひとすじの光が眼の前に浮かぶようだ」

 「ありがとう。亡くなった父から聞いた話では、光のように眩しく輝いて生きて欲しいと願いを込めて、この名を付けたそうよ」

 ―良いか、たとえ周囲がどれほど暗くても、闇を照らすひとすじの光となり、遍く世を照らす、そんな生き方をしてくれ。光のように眩しく輝きながら生きてゆくのだぞ。

  幼い明姫を膝の上に乗せ、父がよく語っていた。今では容貌すら朧になってしまった父。大好きだった父。国王殿下のためなら、生命を賭けて任務に挑むと言い、言葉どおりに散っていった―。

  父を殺したのは、この男の伯父なのだ。

  だが、彼と領議政はこの際、関係はない。彼は彼で伯父の犯した罪について懊悩しているようだし、彼自身の告白では、どうやら領議政はユンの父までをも毒牙に掛けたらしい可能性もあるという。

  実際に領議政がユンの父を殺したのかどううかはともかく、ある意味、ユンもまた領議政の犯した罪の犠牲になっている一人と言って良い。そして、ユンは領議政が彼の伯父ゆえに余計に悩んでいる。

  そんな彼を憎むことなど、できようはずもない。いや、それはすべて都合の良い明姫自身の言い訳にすぎないと判っている。

 今や、明姫はこの孤独な傷つきやすい心を持つ若者にすっかり魅せられてしまった。恐らく、二日前、宮殿の庭園で出逢ったその瞬間から、明姫はユンを愛してしまったのだ。もしかしたら、強くて脆いのは彼の母だけでなく、彼もまた同じなのかもしれない。

  あるときは頼りになる大人の男の顔を持ち、あるときは頑是ない幼子のように甘えたがる脆くて傷つきやすいという二面性を持つ男、イ・ユン。そして、彼は誰よりも孤独だ。

 「今度は私が話しても良い?」

  明姫がわざと明るく言うと、ユンが笑った。

 「そうだね。私だけが一方的に喋ってしまったから、今度は明姫が話して」

  そなたのことを何でも知りたくなったから―。真顔で下から見上げられ、また意味深な科白を囁くユンだった。

 「マルやソルお爺さんのことよ」

 「ああ、マルのことだな」

  ユンには想定外の質問だったようで、軽い愕きが顔に表れている。

 「ソンドンって、誰? あなたとソルお爺さんの話には何度か名前が出てきたみたいだけど」


「ソンドン、か」

  ユンの端正な面が忽ち曇ったので、明姫は慌てた。

 「気が進まないのなら、無理に話さなくて良いわ」

 幾ら彼についてもっと知りたいと思っても、他人には踏み込まれたくない領域というものがある。明姫自身が九年前のあの事件について誰にも話せないように。

 「もう、止めましょう。この話は」

 「いや」

  意外にもユンが真顔で首を振った。

 「でも、ソンドンの名前を言ったときのあなたは、とても哀しそうだったわ」

  恐らく、これはあくまでも明姫の推量の域を出ないが、ソンドンはもう、この世の人ではないのだ。

  ユンは小さく息を吸い込み、眼を閉じた。それから彼が再び話し出すまでのわずかな沈黙は、やはり彼の迷いを物語っているようにも思えた。

 「ね、もう止め―」

  無理に話す必要はないのだと言おうとした時、ユンが唐突に沈黙を破った。

 「ソンドンは私の親友だったんだ」

  今度は明姫が鋭く息を吸い込んだ。

 「親友―」

 「そう、同年代の友人らしい友人がいない私にとって、唯一かけがえのない存在だった」

  ユンの瞳が遠くなっている。今、彼の記憶はソンドンと共に過ごした楽しかった時代へと遡っているに相違なかった。

 「ソンドンと出逢ったのは、やはり、この都の町中だった」

  ユンはソンドンとの想い出を一つ一つ噛みしめるように話す。彼にとってソンドンという人物がどれほど大切だったのかを知らしめるようでもあった。

  ソンドンとの出逢いは本当に偶然だったという。学問好きなユンが町の古本屋でしこたま書物を買い込み、たくさんの書物を抱えて難儀していたところ、ソンドンが通りかかった。

 「欲張りなものだから、一度に十数冊の書物を買い込んでしまった。この家まで持って帰れそうにもなくて、本当に弱り果てていたら、彼が通り掛かって声をかけてくれたんだ」

―呆れたもんだ、こんなにたくさんの本を何だって一度に買い込むんだ?

  ソンドンは心底呆れ果てたように首を振りながらも、荷物を持つのに手を貸してくれた。

 「―それが彼との始まりだったんだ」

  ユンは聞いている明姫が妬きたくなるほど愛おしげに語った。

  縁というのは不思議なものだ。ソンドンは何と宮廷に仕える武官であった。それも捕盗庁の下官である。共に宮廷に仕えている官吏ということで、二人はすぐに意気投合して親しくなった。

 「マルはソンドンの息子で、ソルさんは父親。ソギョンは奥さんだよ」

 「そう―だったの」


 ソギョンがソンドンの妻だと聞いて、どこかでホッとしていた。それはやはり、ソギョンがユンを見つめるまなざしに切ない恋情をかいまみたからに他ならない。

  間違いなくソギョンはユンに対して〝良人の友人〟以上の感情を抱いているはずだ。

  明姫は頷き、気になることを訊ねてみた。

 「当時から、あの家に住んでいたの?」

  下級官吏といえども、位階を持つ官吏であれば、もう少しマシな住まいに暮らしている方が自然に思える。  ユンは明姫の疑問を正確に読み取ったようである。

 「いや、あそこはソンドンが亡くなってから、引っ越してきたんだ」

  やはり、と、明姫は納得した。最初に感じたように、ソンドンは既に亡くなっているのだ。ソンドンには申し訳ないが、彼の死を知って落胆しているのは、きっと、ソギョンのせいだ。ソンドンがいなければ、ソギョンがユンにどのような気持ちを抱こうと自由なのだから。

  人ひとりの死に対して、そのような感じ方しかできない自分に、明姫は嫌悪感を憶える。

  誰かを好きになり恋することは、こんなものなのだろうか。その男を手に入れるために、醜い嫉妬に胸を焦がしたり―。

  つまりは、かつての親友の遺族に対して、ユンは彼等を放っておけなくて度々、訪ねては世話を焼いているのだろう。そのことで、ユンという男の見かけどおりの優しさ、誠実さが判る。

  でも、本当にそれだけなのだろうか。かつての親友の残した家族だから? 再びソギョンのユンに向けたまなざしの熱さを思い出す。今、ソギョンは未亡人なのだ。彼女とユンが愛し合ったところで、何の問題もない。

  ユンが腕に抱えきれないほどの桜草を持って町外れのあの家を訪ねるのは、ソギョンに逢いたいからではないのか。

  明姫の苦悶に気づくこともなく、ユンはやりきれないといった風に呟いた。

 「あれほど止めろと止めたのに、ソンドンは」

  明姫はユンの様子が尋常でないことに初めて気づいた。

  ソンドンは死んだ。一体、何が原因なのだろう。ユンの今の様子では、普通の死に方でないことは想像できた。が、こんな状態の彼にソンドンの死因について訊ねられるものではない。

 「明姫、九年前のあの怖ろしい謀(はかりごと)はいまだにまだ誰かに確実に影響を与え続けているんだ」

  ソンドンの死の理由について考えていたときだけに、思いがけない言葉は明姫を烈しく動揺させた。 「それは、どういう意味なの?」

  何故か胸騒ぎがして、明姫はユンの整った面を凝視した。

 「まさかソンドンは九年前の事件が原因で亡くなったとでも?」



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