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「明姫」

 「姓は?」

 思わず蘇氏と言いかけて、慌てて言い換える。

 「金(キム)氏よ」

 「金明姫。良い名前だ。先刻、そなたに簪とノリゲを贈った時、玉の色が夜明け前の空のようだと言ったね。明姫という名は、まさに夜明けの空の色を象徴しているように思える。夜明けの空に差す真っすぐなひとすじの光が眼の前に浮かぶようだ」

 「ありがとう。亡くなった父から聞いた話では、光のように眩しく輝いて生きて欲しいと願いを込めて、この名を付けたそうよ」

 ―良いか、たとえ周囲がどれほど暗くても、闇を照らすひとすじの光となり、遍く世を照らす、そんな生き方をしてくれ。光のように眩しく輝きながら生きてゆくのだぞ。

  幼い明姫を膝の上に乗せ、父がよく語っていた。今では容貌すら朧になってしまった父。大好きだった父。国王殿下のためなら、生命を賭けて任務に挑むと言い、言葉どおりに散っていった―。

  父を殺したのは、この男の伯父なのだ。

  だが、彼と領議政はこの際、関係はない。彼は彼で伯父の犯した罪について懊悩しているようだし、彼自身の告白では、どうやら領議政はユンの父までをも毒牙に掛けたらしい可能性もあるという。

  実際に領議政がユンの父を殺したのかどううかはともかく、ある意味、ユンもまた領議政の犯した罪の犠牲になっている一人と言って良い。そして、ユンは領議政が彼の伯父ゆえに余計に悩んでいる。

  そんな彼を憎むことなど、できようはずもない。いや、それはすべて都合の良い明姫自身の言い訳にすぎないと判っている。

 今や、明姫はこの孤独な傷つきやすい心を持つ若者にすっかり魅せられてしまった。恐らく、二日前、宮殿の庭園で出逢ったその瞬間から、明姫はユンを愛してしまったのだ。もしかしたら、強くて脆いのは彼の母だけでなく、彼もまた同じなのかもしれない。

  あるときは頼りになる大人の男の顔を持ち、あるときは頑是ない幼子のように甘えたがる脆くて傷つきやすいという二面性を持つ男、イ・ユン。そして、彼は誰よりも孤独だ。

 「今度は私が話しても良い?」

  明姫がわざと明るく言うと、ユンが笑った。

 「そうだね。私だけが一方的に喋ってしまったから、今度は明姫が話して」

  そなたのことを何でも知りたくなったから―。真顔で下から見上げられ、また意味深な科白を囁くユンだった。

 「マルやソルお爺さんのことよ」

 「ああ、マルのことだな」

  ユンには想定外の質問だったようで、軽い愕きが顔に表れている。

 「ソンドンって、誰? あなたとソルお爺さんの話には何度か名前が出てきたみたいだけど」


「ソンドン、か」

  ユンの端正な面が忽ち曇ったので、明姫は慌てた。

 「気が進まないのなら、無理に話さなくて良いわ」

 幾ら彼についてもっと知りたいと思っても、他人には踏み込まれたくない領域というものがある。明姫自身が九年前のあの事件について誰にも話せないように。

 「もう、止めましょう。この話は」

 「いや」

  意外にもユンが真顔で首を振った。

 「でも、ソンドンの名前を言ったときのあなたは、とても哀しそうだったわ」

  恐らく、これはあくまでも明姫の推量の域を出ないが、ソンドンはもう、この世の人ではないのだ。

  ユンは小さく息を吸い込み、眼を閉じた。それから彼が再び話し出すまでのわずかな沈黙は、やはり彼の迷いを物語っているようにも思えた。

 「ね、もう止め―」

  無理に話す必要はないのだと言おうとした時、ユンが唐突に沈黙を破った。

 「ソンドンは私の親友だったんだ」

  今度は明姫が鋭く息を吸い込んだ。

 「親友―」

 「そう、同年代の友人らしい友人がいない私にとって、唯一かけがえのない存在だった」

  ユンの瞳が遠くなっている。今、彼の記憶はソンドンと共に過ごした楽しかった時代へと遡っているに相違なかった。

 「ソンドンと出逢ったのは、やはり、この都の町中だった」

  ユンはソンドンとの想い出を一つ一つ噛みしめるように話す。彼にとってソンドンという人物がどれほど大切だったのかを知らしめるようでもあった。

  ソンドンとの出逢いは本当に偶然だったという。学問好きなユンが町の古本屋でしこたま書物を買い込み、たくさんの書物を抱えて難儀していたところ、ソンドンが通りかかった。

 「欲張りなものだから、一度に十数冊の書物を買い込んでしまった。この家まで持って帰れそうにもなくて、本当に弱り果てていたら、彼が通り掛かって声をかけてくれたんだ」

―呆れたもんだ、こんなにたくさんの本を何だって一度に買い込むんだ?

  ソンドンは心底呆れ果てたように首を振りながらも、荷物を持つのに手を貸してくれた。

 「―それが彼との始まりだったんだ」

  ユンは聞いている明姫が妬きたくなるほど愛おしげに語った。

  縁というのは不思議なものだ。ソンドンは何と宮廷に仕える武官であった。それも捕盗庁の下官である。共に宮廷に仕えている官吏ということで、二人はすぐに意気投合して親しくなった。

 「マルはソンドンの息子で、ソルさんは父親。ソギョンは奥さんだよ」

 「そう―だったの」


 ソギョンがソンドンの妻だと聞いて、どこかでホッとしていた。それはやはり、ソギョンがユンを見つめるまなざしに切ない恋情をかいまみたからに他ならない。

  間違いなくソギョンはユンに対して〝良人の友人〟以上の感情を抱いているはずだ。

  明姫は頷き、気になることを訊ねてみた。

 「当時から、あの家に住んでいたの?」

  下級官吏といえども、位階を持つ官吏であれば、もう少しマシな住まいに暮らしている方が自然に思える。  ユンは明姫の疑問を正確に読み取ったようである。

 「いや、あそこはソンドンが亡くなってから、引っ越してきたんだ」

  やはり、と、明姫は納得した。最初に感じたように、ソンドンは既に亡くなっているのだ。ソンドンには申し訳ないが、彼の死を知って落胆しているのは、きっと、ソギョンのせいだ。ソンドンがいなければ、ソギョンがユンにどのような気持ちを抱こうと自由なのだから。

  人ひとりの死に対して、そのような感じ方しかできない自分に、明姫は嫌悪感を憶える。

  誰かを好きになり恋することは、こんなものなのだろうか。その男を手に入れるために、醜い嫉妬に胸を焦がしたり―。

  つまりは、かつての親友の遺族に対して、ユンは彼等を放っておけなくて度々、訪ねては世話を焼いているのだろう。そのことで、ユンという男の見かけどおりの優しさ、誠実さが判る。

  でも、本当にそれだけなのだろうか。かつての親友の残した家族だから? 再びソギョンのユンに向けたまなざしの熱さを思い出す。今、ソギョンは未亡人なのだ。彼女とユンが愛し合ったところで、何の問題もない。

  ユンが腕に抱えきれないほどの桜草を持って町外れのあの家を訪ねるのは、ソギョンに逢いたいからではないのか。

  明姫の苦悶に気づくこともなく、ユンはやりきれないといった風に呟いた。

 「あれほど止めろと止めたのに、ソンドンは」

  明姫はユンの様子が尋常でないことに初めて気づいた。

  ソンドンは死んだ。一体、何が原因なのだろう。ユンの今の様子では、普通の死に方でないことは想像できた。が、こんな状態の彼にソンドンの死因について訊ねられるものではない。

 「明姫、九年前のあの怖ろしい謀(はかりごと)はいまだにまだ誰かに確実に影響を与え続けているんだ」

  ソンドンの死の理由について考えていたときだけに、思いがけない言葉は明姫を烈しく動揺させた。 「それは、どういう意味なの?」

  何故か胸騒ぎがして、明姫はユンの整った面を凝視した。

 「まさかソンドンは九年前の事件が原因で亡くなったとでも?」


 満更、あり得ない話ではないと思った。現にソンドンは亡くなった父と同様、捕盗庁の官吏だったのだから。  ユンの顔に微苦笑が浮かぶ。

 「やはり、そなたは可愛らしい外見とは裏腹に鋭いな」

  明姫は知らず勢い込んでいた。

 「ねえ、教えて。ソンドンは何故、亡くなったの? 領相大監に殺されたの?」

  夢中になっていたために、明姫は自分がまたしても重大な失言をしてしまったことに気づかなかった。  ユンが綺麗な瞳を細めた。その切れ長の双眸には見たのことない剣呑な光が宿っている。

 「明姫は何ゆえ、この事件の黒幕が領議政だと知っている?」

 「それは―」

  口ごもり、視線を泳がせた。

 「九年前といえば、そなたはまだ六歳の幼子だった。そんな幼い女の子が世間を騒がせたあの怖ろしい事件を知っているというのもおかしな話だけど、更に、その黒幕が領議政だと確信を持った言い方をするのはますます妙だ」 「あ、私―」

  しどろもどろになった明姫を見て、ユンが少し淋しげに笑った。

 「良いよ。別に私は明姫がどこの誰かなんて、気にしない。今日、そなたは私に言ったね。私の正体を暴くつもりはないって。ならば、私も同じ科白をそなたに言おう」

  ユンはやるせなさそうな顔で明姫を見つめていたかと思うと、また訥々と続けた。

 「ソンドンの死については、明姫の想像どおりだ。二年前、彼が突然、こんなことを言い出した」

 ―九年前のあの二つの火事は、どう考えてもおかしい。  当時、ソンドンは二十六歳になっていた。九年前といえば、ソンドンはまだ官吏にもなっていない。少年にすぎず、あの不審火で亡くなった長官や副官とはまったく面識もなかったのだ。

  しかし、火事で亡くなった長官と副官はともに剛胆で知略に富み、任務と国王殿下への忠誠のためには生命をも惜しまなかったと捕盗庁の役人たちの間では伝説の英雄として語り継がれていた。

  若い下士官たちの間では、殊に憧れの対象として崇められていたのだ。そんな背景もあってか、ソンドンは九年前の事件について極秘に個人で再調査を進めていたのだそうだ。

  その話を打ち明けられた時、ユンは真っ先に止めた。

―止した方が良い。あの件は取り調べも終わり、偶然、同じ夜に起こった火事として片が付いている。今更、あの事件について蒸し返すのは、そなたの身に危険を及ぼすだけだ。

  誰もが訝しみながらも、時の権力者の威光の前に口をつぐみ、闇から闇へと葬り去られた事件だ。たかだか一介の下級官吏に何ができるとも思えず、かえって目障りだと消される可能性があった。


 しかし、ソンドンはユンの忠告を受け容れず、単独調査を進めていた。それが、領議政の耳に入らないはずがなかった。

 「それでソンドンは殺されたのね」

  明姫が言うと、ユンは頷いた。

 「九年前の事件は今も禁忌だ。ソンドンは、その禁忌に触れてしまった。私は自分がつくづく情けない。どうして、ソンドンをもっと強く引き止めなかったのだろうかと今でも後悔ばかりだ」

 「あなたのせいじゃないわ、ユン。九年前、誰もが明らかにおかしいと思っても、領相大監を糾弾することはできなかったのよ。そして、それは国王殿下でさえ同じだった」

  幾度、顔を見たこともない国王を恨めしく思ったか知れない。王命によって隠密裡に動いていた最中、長官も副官である父も生命を失ったのだ。なのに、国王は我が身可愛さに動こうとはしなかった。

  領議政に真っ向から刃向かえば、今度は自分も消されると怖れたのかもしれない。あの時、どれだけ思ったことか。無念の死を遂げた父や巻き添えになった母や弟、多くの奉公人たちの罪なき生命のためにも、国王自らが立ち上がり、領議政の罪を暴いて欲しいと。

 「そうだ、いちばん不甲斐ないのは国王なんだ! でも、言い訳のように聞こえるかもしれないが、先の国王が動かなかったのは何も保身のためではないんだよ」

  ユンが静かな声音で言った。

 「先王はこれ以上、犠牲者を出したくなかったんだ。明姫、あの火事は領議政からの警告であることは間違いないが、二つの意味があった。一つは、また妙な気を回して嗅ぎ回ったら、今度は国王自身の生命もないぞという脅し、二つめは、王命によって事件を暴こうとした者たちがまた犠牲になる―、その二つの警告でもあったんだ」 「確かに、そういう考え方もできるわね」

「あの時、王は徹底的に闘おうと思えば闘えたはずだ。けれど、そのためには確実に大量の生命が失われただろう。事は王ひとりの生命だけで済む問題ではなかった。だから、王は血の涙を呑んで口を閉ざし、領議政を糾弾しなかった」

 ユンの表情は苦渋に満ちていた。

 「でも、今の国王は違う。今の王は本当に情けない国王だ。母后や領議政たちにとって、若い国王はただの傀儡にすぎないからね。王も血の繋がった伯父や母親だから、手荒いことはできない。その上、中殿は領議政の娘で、領議政は伯父であると同時に舅にもなる。あいつらは血縁という見えない鎖で国王を縛り上げ、身動きさせないつもりなんだ。その中、中殿が王子を生めば、王をさっさと殺して襁褓の取れない赤児を王に立てるつもりだろう」

 唾棄するような言い方に少し違和感を憶えないではなかったが、それよりも、明姫はユンの切迫した様子の方が心配だった。

 「あなたの憤りも判るけれど、それは仕方のないことだと思うわ。今の国王殿下はまだお若くていらっしゃるもの。先の父王さまが薨去され、ご幼少で王位につかれたでしょう。即位されたとはいっても、大妃さまが垂簾の政を行われ、更にその背後で現実に政治を動かすのは領相大監だったから、国王殿下の出る幕はなかったはずよ。長い間、政治を我が者顔で動かしてきた領相大監が成人された殿下にはい、どうぞという風にあっさりと権力を手渡すなんて考えられないし、今度は搦め手から若い国王さまを取り込もうとするのは当たり前。その手段として、ご息女を殿下の後宮に送り込んだ」

  ユンが笑った。

 「明姫は女にしておくのは惜しい人材だな。その愛らしい顔で、どうしてそんなことを考えられるんだ?」

 明姫は得意げに胸を反らした。

 「これでも苦労人ですから」



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