目次

閉じる


オハレテミタノハイツノヒカ

 

苦痛のやうに屈しがたい歓び、つまりあのプリミティヴな幸福感が私的だつたことは人類の歴史上かつて一度もなく、それはつねに「海の気」や「草いきれ」から連想される造化の御旨とひとつになることであつた。また芸術表現及び芸術体験もこれと同根であり、けだし「現代的な生」、すなはち死はその対岸にある。

S20・3・5 仲間たちと滑走路の傍で

 

 

 桐一葉落ちるごとに彼らの羽根はほころびていつた。サイキはその印象を幾つになつても忘れることができなかつた。それはことあるごとに彼の後ろ髪を引き、いづれは海兵を志望する、といふ進路の決定にも少なからぬ影響をあたへさへした。たしかに彼は子供のころから詩や物語を書くことを愛してきた、けれども進学を考へたときの経済的な問題以上に創作のなかで生きること、と現実的に命を張ること、それらを天秤にかけてみるがよい――海軍航空隊に入つてヒコーキ乗りになる、悪くないぢやないか――彼にはさう思へたのだ。

「透明度が日に日に失はれていくんだよ。」と後年になつてからも同僚に彼は語つてゐる。

「え? 何のはなしだッけ?」

「蜻蛉の羽根のことさ。それでゐてエーテルのやうに軽々と飛ぶんだ。」

 各々の「制空権」を維持するために渓流や山あひをパトロールする初秋の蜻蛉たちの飛行術は夏の盛りの頃よりもいつそう練達してゐた。童は見たり……! それは宇宙を司る力をつひに体内に受信することを叶へた者の従容、また、彼らとの邂逅がサイキにもたらしたものは、二度と埋めることのできぬ凡庸さとの深淵であつた。その夏の妖精の羽音に導かれて、彼は毎日のやうにひとりで湿原まで出かけた。そしてまたゝく間に林の梢の隙間といふ隙間から真紅のひかりが溢れ出す。それは彼にとつて、薄薔薇色に映へる帰り道で詩歌を暗誦した人生との束の間の蜜月だつた。

 ほんの少しだけ見あげた田園の彼方にはいつも、ひときはあかるく輝く一個の明星があつた。それは沖あひに出た船の灯のやうに一点に留まることなく、かすかに揺らめいてゐた。それは色さへも獰猛な赤や冷酷な青に変化した。その奇妙な星は、ある日、一筋の流星になつた。まるで一発の弾丸の如く、それは彼に向かつて放たれたのだつた。星は少年の小さな肉体を貫いた。するとマグネシウムが燃え尽きるときのやうにあつさりと消滅した。それは彼に、彼自身の死の瞬間をはつきりと予見させた。しかし――これは我々には実に奇妙なことにも思へるが――この刹那の体験がきつともたらしたであらう恐怖については、彼は終ぞ思ひ出すことはなかつた。唯、その流星の放つた光の色は、かへつてなにか絢爛たる夢の断片を思はせる色、その閃光が放たれると同時に極無き闇のなかに消えた世界に、永遠に褪せることのないであらう希望の色彩を放つてゐたことを、彼はいつまでも――流星が再来したあのときまで――忘れることはなかつた。

 意識を失つてから、どれくらい時間が経つただらうか? そのまま大地に身をまかせてゐた彼が、目を醒ましたときに見たもの、それは零戦の回転する水平儀だつた。

 

「水平を保て。」と銀色の太陽が言つた。そして世にも美しい真紅の閃光がサイキの翼をかすめる。つゞいて風防の上部すれすれだ。彼は思はず身を屈めて頭上をかへりみる。彼の背後には敵機がピタリとつけてゐた。Gですつかり頭から血の気が退いて、円い太陽が吹雪の日の午後のやうに薄ぼんやりと見えた。それから束の間の意識の空白があつて、気がついたときには、こんどはあべこべに彼はその敵機の背後をとつてゐた。サイキは入れ替はるときに敵機のパイロットがふり返つて自分を見たのを、空戦が終はつてから思ひ出した。サイキのゴーグルに写つた雲が幾筋も流れていつた。そして薄い雲のなかでそいつに炸裂弾をおみまひした。敵機はバラバラになつて吹き飛んだ。その胴体はガソリンをふくんだ火の玉になつてインドシナのジャングルに没した。彼は革の飛行帽のなかに冷たい、べつとりとした汗をおぼえた。その長かつた一日、黒煙にまみれた雨まじりの、空戦場の全景を見たのはそのときがはじめてだつた。

 着艦する乳白色の機体をカタパルトが止める。風防を開けて飛行帽を脱ぐと夕焼けも終はらうとする南太平洋がとても静かだつた。あらはにした額に海の気浴みするや、昔日に暗誦した何かが唇にうかんだ――

 

     我は火を地に投ぜんとて来たれり。

     此の火すでに燃へたらんには、

     我また何をか望まん――

 

 甲板に降りると金色が残る闇のなかでサイキは肢体の均衡を失つた。

「大丈夫かい、中尉?」

 年配の整備兵が来てサイキに肩を貸した。

 曳きずる大腿から、新鮮な弾丸がふつふつと煙を吐き出してゐた。

「軍医はこの傷口にいつたい何をするだらう?」

「戦争より軍医が怖いかエ?」

「知らなかつたのかい? 僕はまだ詩を弄する童なのだよ!」

 

 暗い艦内の通路から甲板へ出ると、世界が真白く輝いてゐた。甲板には急降下爆撃機の我らが九九艦爆が一塊の岩礁に翼を休める鴎の一党のやうに所狭しと並んでゐた。カタカタ、とビー玉が鳴る音が背後に聞こえて、振り向くと猫毛を丸刈りにしたノッポのヒコーキ乗りが、ラムネの瓶を両手にもつて立つてゐた。

「退院おめでたう。」と、カネハラ少尉が言つた。

 零戦を操ることは、彼らにとつてこの上ない悦びであつた。それは彼らが以前に慣熟したどんな戦闘機とも違つてゐた。その機体は空戦の緊張のなかで彼らの運動神経と直接に結びつき、数字に表れぬ性能を発揮した。そして戦闘の緊張が恐怖に変はるとき、それはひとつの機械以上の存在となつて鼓動し、重力の足かせの鍵を解いた。そしていかなる敵機よりも力強く上昇して大空を凌駕した。彼らは恍惚とした。まさに零戦に乗つてゐる限り世界は彼らの意のまゝだつたのだから。それはパイロットたちの魂までも凌駕し、その瞬間、本来の自分以上の存在に彼らは引き上げられた。そしてある者は――まるで遠心力に吹き飛ばされたやうに――そこから二度と帰つてこなかつた。サイキは二十一歳の夏から二十三歳の秋にかけて、ツンドラから赤道の南にまで伸びきつた前線を転々と彷徨つた。いつの日か、彼は曠野の上にゆつたりと浮かんでゐた――

「僕には思ひ出せないことがある」と、彼は思つた。「それはある感情にはなつても、いつも言葉になるまへに消へてしまふ。でも、まあいいさ。今はかうしてゆつたりと浮かんでゐよう。誰にだつて、それくらゐのことは出来るのだ、ちよつと努力さへすれば。」

 人煙稀な大陸の上空、時間の墳墓のなかで彼は時間と空間の感覚を失つてゐた。自分の意識をつなぎとめるために、飛行計算で自分の位置をわりだしてみようと試みた。何度も何度も。しかしそれも、もう無駄なことだつた。獰猛な粉雪に行く手を阻まれながら幾里もの距離を歩いてゐるときのやうに、彼の感覚は麻痺してゐたのだ。「僕よりもずつと速く飛べる光には時間と距離を直感することができるだらうか?」と彼は思つた。「いや、永遠に飛び続ける光にはサッキはイマであり、コレカラもイマではないか。」彼は丘の上で彼らの空中戦を見てゐる狼の親子に嫉妬した。弾丸を撃ち尽くした彼は敵機を地表に追ひつめた。そして彼の黒煙とともに再び上昇した。

 

 

 さて、あるいは私たちはこのあたりで、先ほど来頭をもたげてゐる気がかり――この物語の登場人物が実在したのか否かといふ気がかり―― について、予めはつきりとさせておきたいと思ふのかもしれない。つまり、気がかりとは文字通りの性質のものだから、このまゝ放置しておかずに、今後のためにも早々にすつきりとさせておく方が好い、と私たちは考へるのである。しかし正直に申し上げれば、実は私にはこの件について吾人がことごとく納得してくれさうな回答をする自信が全然ない。だからこの場になるとまつたく往生してしまふ。といふのは、目下私たちが「サイキ」と呼んでいるこの青年は、たしかに第二次大戦中の航空戦において輝かしい戦果をあげたある実在のパイロットのひとりを投影した人物であり、物語も凡そ彼の戦歴とともに進展してゆく、しかし残念なことに、彼には日記をつける習慣がなかつたのであつた。だから私たちはたとへば、赴任地の風景が彼の目にどう映つてゐただとか、慰問者とどんな言葉を交はしただとか、その日の朝食には彼はこんなものを食べたとか、さうした物語をするうへで時に非常に多くを語つてくれる細部を思ひ切つて省く他ない。 それでも尚「彼は実在した」と、私たちは言ひきつてしまへるだらうか? と、そもそも私は懐疑したのだった。そこにひとつの着想が生じた。それはサイキが海軍航空隊のエースであった以前にひとりの詩人であつたことに生じた。私は以前、ある映画制作の下準備のための取材をしたことがあつて、その作業において戦時下の青年たちの辞世を蒐集し、あるいは親類を通じて戦友会発行の機関紙等を伝手に何人かの 〈彼のやうな人物〉に逢ふことができた(このなかの幾人かは日記をつけてゐた!)。往時は詩歌を詠む青年の実に多かつたことか、それを先達はあらためて私に新鮮な驚きをもつて示して下さったのだったが、私はそこでゆくりなく、この物語の主人公に〈詩を愛した飛行気乗りのひとり〉ではなく、〈彼らを象徴化したひとりの人物〉になつてもらはう、そんなことを思ひつき、吾人もきつとこれに賛同してくれるに違ひないと考へるやうになつたのである。 生き残つた者たちが夭折した友について語るとき、いさゝかロマンティックになりすぎることをさし引いたとしても、彼らがどんなふうに生きたのか、実際それは彼らと同じやうに詩歌を愛する吾人には決して想像に難くない筈であると。さうすることによつて私たちは、事実といふ蛹から真実といふ蝶が抜け出して、そのはかない一生を終へる様を見るのかもしれない。
 いや、解題はこれくらゐにしておかう、彼らは私たちによつて語られることを待つてゐる――さう信じて私たちは、かうして「彼」の物語りをはじめたのだから。
 

 

 ニューブリテン島の基地にサイキは砂塵を舞ひ上げて帰還し、エンジンを停止した。すると椰子の林が風に騒ぐ音だけが周囲に残つた。彼は風防を開けて湿つた固い空気なのかに口笛を吹いてみた。

「これは誰の詩だッけ?」

 彼は道々なにかを思ひ出さうとしてゐた。

    

    眼は硝煙に血走りて、

    舌には苦き紙筒を

    噛み切る口のくろくとも、

    奮闘の気はいや益しに、

    勢猛に迫ひ迫り、

    黒衣長袍ふち広き帽を狙撃す。

 

 詰所の露台では足を組んで坐つてゐる略式軍装の司令官が低気圧を睨んでゐる。飛行場の柵の外では住民の娘子が犬と遊んでゐる。滑走路ではパイロットの青年が飛行服を着たまま、うつとりと空を飛ぶやうに自転車を漕いでゐた。

 

 サイキを乗せたサイドカーはダウンタウンの往来を走り抜けた。英国式の家々の窓は眠さうに瞼を半ば閉じてゐた。住民たちの鮮やかな着物の色でいつぱいの道々には熱風が吹きぬけて、甘くねつとりとした薫風が砂塵を巻き上げる。サイドカーは途中で商人の荷車をよけて通つたり、牛車に道を譲つたりするために何度も停止しなければならなかつた。そして何か土産になりさうなものを……と探しながら、彼はしばらく雑踏のなかを歩いた。歩いてゐると根生ひの子供が、彼のあとを雛のやうについて歩く。ひとり、また一人と増えてゆく。ふり向くと子供らは、Eと発音するみたいに歯をみせて咲つた。彼らの父親たちは、サイキたちが敵機に威嚇射撃をすると一緒になつて空に向かつて弓を射るのだつた。わが家から幾千里の彼方だといふのに、彼らのとの離別は痛いものになりさうだ。

    

    密雲漸く散すれば

    積みかさなれる屍より

    階かけて、紅流れ、

    そのうしろ楼門聳ゆ、巍然として鬱たり。

    灯明くらがりに金色の星ときらめき、

    香炉がぐはしく、静寂の香を放ちぬ。

 

 酒保に入つて蒸留酒に口をつけてゐると、サイキは彼のなかの少年と一緒に、地上から中世の残香とでもと呼ぶべきものが太平洋の霧のなかに消えてゆくのをはつきりと感じた。フランソア・コベエ……彼はそこでやうやく、朝から思ひ出せずにゐた作者の名を思ひ出した。もし思ひ出せなければ、まよごもりの知人をひとり永遠に失ふ気がする。思ひ出しても何の足しにもならないけれど、思ひ出すまで、我々はまへに進めない。

 須臾にして湾からサイキを乗せた二式大艇が飛び立つた。それは巨大なペリカンのやうに離水した。そして上空二千メートル付近に到達するとおもむろに旋回して北北東に進路をとつた。窓の下で港が小さくなつて、密林のミストのなかに消えた。やがて連合軍とポート・モレスビーをめぐる攻防をした筈の島々が地図のやうに眼底に輻湊した。この澄霽たるは如何に? ここに着任したばかりの頃、彼は敵陣の滑走路の上空に同僚の二機と共に躍り出て、三機で見事にシンクロさせた宙返りをやつて帰つてきたことがあつた。後日、上空から連合軍のパイロットが果たし状をサイキたちの基地に投函した。その所為でこの「冒険」のことが上官に知れ、三人はひどく叱られたのだつた。

 東京ではアジアの指導者たちが会して、ビルマとフィリピンの独立を宣言してゐた。それが彼の見た、最後の珊瑚礁の海だつた。

 

 

 久しぶりにタイピンをつけたサイキが、東海道線の下りの車窓を眺めてゐた。汽車はいくつもの河川を越えて西へとむかつてゐる。都市部に入ると広大な焼け野原に、天空から注いだ無数のひかりの玉が焦土に弾けてゐた。そんな景色がくりかへし移り変はるのを、もう五時間以上も飽かずに眺めてゐた。サージの制服を着たせゐで彼は上機嫌だつた。鉄路の軋みの、文明の心地よいゆりかごが、幾度となく彼を微睡みに浴みさせた。夢のなかで、サイキは天保の頃の下級武士だつた。彼は鮫の皮をある商店に売らうと徒労してゐた。

「そのやうな凡そ果たし合ひを申し込むやうな物腰では商売は出来ませぬ。」と、その店主は彼に言つた。

「卑しいなまねは出来きぬ。」と、サイキは店主に返す。

「卑しいことはありません。さむらひに道がありますやうに、商ひにも道があるのです。」

 サイキは商店の火鉢のまへで寝てゐる三毛猫を見た。もし自分が一寸法師だつたら、猫はどんなふうに自分を見るだらう、と彼は思つた。車内はひどく込み合つたかと思ふと、ひと気がなくなることもあつた。近江のあたりだらうか、目を覚ますと、真後ろの席で赤ん坊がひどい癇癪を起こして泣いてゐた。サイキは端なく「この赤ちやんのために精一杯戦ほう」と思つた。彼らが将来、矜持を失はぬやうに。それが今や一国民となつた武士の子の勤めである、と。

 彼は四国で新しく編成される部隊に赴任することになつてゐた。サイキを乗せた連絡船が岡山を出たとき、瀬戸内海に連合艦隊の亡霊のごとき雲の群れが、重々しく風に押し流れされてゐた。高松から乗つた汽車が松山に到着した午後四時には、十一月の雨が霏々と降つてゐた。ヒヨドリが木立の茂みのなかでけたたましく鳴いてゐた。

 松山基地の玄関に入つてゆくとき、一匹の蜻蛉のやうな影がサイキの真うしろからきてひらりと彼の帽子をかすめた。それを追ひかけて行くと広くて明るい中庭に出た。彼の到着を待つてゐた司令の大佐とカネハラ少尉がそこで款語してゐた。中庭にはどこかの空から銀杏の葉ッぱが風に吹き流されてきて、踏みつけられた緑の車前草のうへにはらはらと舞ひ落ちてゐた。いつの銀杏もヒコーキ乗りには「これで見納め」だから、その黄色が痛いくらまぶしく感じられる。さういふ実感を知つてしまふと、さう感じられることが本統なのだといふことになるから、来生でもきつとヒコーキ乗りになるぞ、と思つたりする。大佐が懐から煙草を出してカネハラ少尉にも勧めてゐた。すると案の通りカナハラ少尉はポケットから鋳物の部品のやうなものを出した。奴は風があつても容易に着火できる拵へ物のライターを持つてゐるのだ。それで二本の煙草に火をつけた。我々三人の他には誰もゐないのかと訝るほど静かだつた。でもちやんと飯を炊くにほひがしたからそんな筈はなかつた。空軍の基地といふのは中学校に何となく似てゐた。寄宿舎が並ぶ郊外にある学舎だ。外観からではその敷地を正確に把握することはできない。把握するにはどうしても歩きまはつてみる必要がある。もつとも、そこから離陸してしまへばそんなことは一目瞭然になるのだが、それではつまらないから是非あるき回りたい。銀杏がどこにあるのかも知れるだらう。さすればギンナン拾ひもできよう。でも、あまり勢いよく登場したものだから、ふたりに見つかつてしまつた。

 夕餉のまへにサイキとカネハラは大佐の執務室に呼ばれ、三人で細々とした打ち合はせをした。大佐はひどく垂れ下がつた目尻に、はやくも老人のやうな皺を蒐集してゐた。彼は真珠湾作戦とインド洋海戦、それに南太平洋海戦で航空作戦を指揮し、それらを勝利に導いた参謀であつた。まさに世界戦史に名を残すであらう男であつたが、今は敗兵としての諦めを勲章が輝いてゐる胸のうちに秘めてゐる。いや、彼はいま齢四十に手が届いたばかり――ファイルが山積みにされた大きな樫の机に向かひ、何かもう別のことに思ひを巡らせてゐるやうにも見えた。大佐は戸棚から恩賜のウヰスキーをとりだすと湯飲みに注いでふたりにわたした。

「中尉、君の今日までの単独スコアは三十八でよかつたかな?」と、司令はサイキに訊ねた。

「はい。」

「少尉は?」

「今までに何機撃墜したかつてことでせうか? さあ、どうでせう? 皆は三十とか、三十二だとか言つてますが。」

「彼我両軍のエースのなかでも君たちは間違ひなく五本の指に入るだらう。」その数字を聴くと大佐は非常に満足気にさう言つた。「海軍では君たちに新型戦闘機を受領してもらふつもりだ。非常に強いやつだぞ。馬力は零戦の二倍だ。敵の新鋭機グラマン・ヘルキャットやP51マスタングを圧倒する、わが軍最強の戦闘機になるだらう。」

 大佐はおもむろに立ちあがると、鶯色の上着の胸元で腕組みをして、コツコツとヒールを鳴らし、ゆつくりとした足取りで部屋のなかを歩みはじめた。

「君らのやうな撃墜王まで特攻に採られては、戦争にならんのでな。」

 その眼底で聞こえる靴音にしばらくのあひだ耳を澄ませてから、カネハラが言つた、

「しかし、大佐。」

「うん。」

「真夏の高気圧のやうな長大な兵站を我々は維持しなければなりません。つまり、たとへ硫黄島が扼さられたといへどもビルマ上空の制空権は譲れません。他方、夷は島づたひの、謂はば槍の一突きで神州に攻め上ります。この頃は欧州でのいくさが止んだせゐもあつてその槍の突きが文字通り波状に押し寄せてまゐります。しかも――民間人の居住区への攻撃は万国公法で禁止されてゐますが――彼らがいま血道を上げてゐるのはまさにその市街地の絨毯爆撃なのです。防空にあたつてゐる陸軍の飛行戦隊では、あまりの敵機の多さゆゑに、上空で弾丸を撃ち尽くしたあとに敵機に体当たり攻撃をかける者が後を絶ちません。自分がこの一機をしとめればどれだけの無辜の民を救へるか、と思へば、さうしようと判断した、といふよりは、それは武人としてとる自然の行動、身体が勝手にさう動いてしまふ、と言つても過言ではないでせう。ならばいつそうのこと、そのやうに個々に散漫な体当たり攻撃をするよりは、組織的な体当たり攻撃をその根もとの敵機動部隊にかける方が断然に効果を上げられる筈だと考へるのは至極当然だと思ひます。」

「実はその陸軍航空隊だがね」と、大佐が今度は両手を腰のうしろで握り合はせて言つた。「大陸に展開してゐる飛行第二十二戦隊が、こんど君たちが受領する新しい戦闘機に搭載してゐるものと同じ発動機を積んだ疾風といふ新型機をやはり装備したんだ。そしてそれを駆るや、たちまちシナ上空の制空権を連合軍から奪還してみせたのだ。」

 それを聞くと当然サイキとカネハラは俄かに上気した。ふたりは目をほそめ、顔を見合はせて幾度も頷いた。

「この劣勢のなかでだ。私はもう一度、航空作戦の可能性に賭けてみたい。この蜻蛉島の制空権を諸君らに委ねたいのだ。」

 

    君が代は豊葦原の

    秋津州に満ち干る潮の尽きじとぞ思ふ

 

 などと詠まれたわが国土、その秋津州の秋津とは蜻蛉のことであるが、全世界におよそ五千種が分布するといふ蜻蛉の仲間のうち、実に二百種以上が日本に集中して生息してをり、これは万邦のなかでも突出した多さなのだといふ。換言すればわが国でしか見られぬ種も多いのであるが、これは墾田によつて石を除けられ健やかになつた壌、それからこれを肥沃にするための間伐が保つ瀰々たる水、そのせせらぎや沼沢地を好む蜻蛉たちにとつて、わが国がよほど住みやすく、まさしく秋津州といふことになるからであらう。ひいて昔からわが国の男の子たちは蜻蛉と遊んだし、私たちのなかにも子供の頃にそのおぼえがあるといふひとが多いに違ひない。ところで、この記憶を共有する者たちのなかには実に奇妙な、共通の目撃談があるのだ。それは「首のない蜻蛉が水辺の艸につかまつて産卵をしてゐるのを見た」といふ談である。その蜻蛉は蟷螂か獺にでも襲はれたのだらうか、しかし、しのこした仕事を遂行すべく逃げ果せて、その勇姿を私たちのまへに現したのであるが、私たちがこんなふうに唐突にここで蜻蛉の研究をはじめるのにはもちろん訳があつて、それは無論、私たちの主人公もまたその目撃者のひとりだつたからである。この記憶は彼にとつても非常に教訓めいたものとなり、実際、私たち大和男子が折にふれて引用する『葉隠』、その一節にある「首打ち落されてより、一働きはしかとするものと覺えたり」のレッスンをそれはそのまま示してゐるし、あるいはその著者山本常朝公も同じ目撃体験からこの教訓を思ひ至つたのではあるまいかと推断したくなるほどである。また、私たちにはたいへん馴染み深い戦国時代のアイコンたち――彼らのひとり一人が「吾コソハ」と不抜の勤皇精神、その持ち主たる臣下であることを自任してゐたことはいふまでもないが――そのひとりである前田利家公などは蜻蛉の前立物の兜で知られてゐる。かうした蜻蛉をめぐる私たちの物語には何よりも、「蜻蛉島」の称の由来である例の雄略天皇の吉野への狩のみゆき、その際、大君の臂を咬んだ虻を蜻蛉がさッとつかまへて喰つた、といふ私たちの琴線に触れるあの故事がその核心部分としてあつて、やはりそれがゆゑに非常なロマンチシズムをもつて語られてゐる。 

「大佐。」とカネハラが応へた。「秋津といへば蜻蛉の雅称。蜻蛉といへば飛ぶ生き物のなかで最も飛行術に優れた生物です。日本の戦闘機乗りは謂はばこの蜻蛉にたとへることができませう。対して夷狄の飛行機といふのは謂はば蜻蛉が好んで捕まへて食べる浮塵子のやうなものです。浮塵子ッてあの稲によく寄くやつです。つまり、やたらと発生してやかましいのですが、飛ぶのはたいして上手くないんです。」

 カネハラがわくわくしはじめてさッと手のひらを返したものだから、サイキと大佐は可笑しくなつて笑つた。それから大佐は厳しく咳払ひをした。そして御真影に向かつて盃を奉げた。ふたりは俄かに鳥肌がたつのを覚えた。そしてふたりも起立して盃を捧げて飲み干した。

 

 

「なんだか太つた虻みたいだなあ。」と、カネハラが言つた。

 基地に黒々と輝く松葉色で塗装された試作機が搬入され、赴任してきた戦闘機乗りたちがそれを取り囲んでゐた。それが彼らの為に用意される「紫電」と名づけられた最新鋭機であつた。

「カタチはずんぐりしちョりますがのう」と、大きい整備兵が言つた。「自動空戦フラップがついちョりますけん。」

「何さね、その自動なんとかッて?」とカネハラが訊いた。

「それがついてるお陰で格闘戦で零戦みたいに自由がきくんです。」と、小さい整備兵が答へた。

「水銀の性質を利用した新機構ですけん、敵さんの手に渡らんやうにしてつかァさい。」

「さうしてあなたは虻みたいに私を苦しめるのね!」とサイキが言つた。

「まさか、リーズ! でも喧譁をするのはもうやめませう。」とそこへ誰かが合ひの手を入れる。

「ヘルツェンシュツーベ先生を呼びます!」

「ママ!」

 その日からかりそめの空で、彼らは新しい機材に慣熟するまで狂ほしい訓練をした。

「戦争が終はつたらどうする?」

 サイキとカネハラが詰所の露台に坐つて滑走路に降る雨をぼんやりと眺めてゐたときに、カネハラが訊ねた。

「粽が食べたいな。」

「チマキだ? チェッ、サイキ中尉まで食ひ物の話かい。仕事はどうするのさ? 日本が負ければ我々は失業だぜ。そしたら困るんだぞ。チマキどころかネマキもねえんだぞ。」

「そんなこと困らないよ。」

「どうしてさ?」

「アメリカ軍に入れてもらへば好いぢやないか。」

 サイキがさう答へると、カネハラはすうッと椅子から立ち上がつた。それからこまが回転を止めたときのやうにふらッと倒れた。

「あれ。ひッくり返つちやつたよ。」

 サイキはどうしてよいやらとうろたへた。あたふたしてゐると、ちやうどそこへ部下のひとりが通りかかつたので慌てて彼を呼び止めた、

「ねえ君、手を貸してくれないか!」

「どうしたのですか?」

「カネハラ少尉がめまひを起こしたのだ。」

 ふたりは露台に大の字に倒れてゐるカネハラの上体を起こし、彼の両脇に頭を入れてせえので立ち上がつた。

「きつと疲れが出たんだ。訓練キツかつたからさ。」

「軍医に診せませう。」

 それにしても何が彼らをかうした醇乎な大和ヲノコにしてゐたのだらうか? この命知らずどもを生かしてゐたもの、それは生命よりも尊い何ものかが「千里寄せくる海の気」にふくまれて、それを「吸ひてわらべ唄に」した彼らにしかわからないだらう。いや、それでも、これだけは確かに言へる、彼らは死を前提にしたがゆゑに、生を前提にする者以上に「生きた」のであると。無聊と恥づかしい痛恨の憤怒を弄ぶ、生きながらにして死んでゐる者ではなかつたのだと。

 

 

「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南三十海里。」

 高速偵察機「彩雲」が大洋に浮上した旭日をうけて松山基地に無電を打つた。基地では改良が加へられたうへ量産された紫電「改」の初陣に備へて、整備兵たちが徹夜で行つた整備がたつたいま終つたところだつた。  

 滑走路に整列したパイロットたちに大佐は対峙した、

「今朝、敵機動部隊の来襲は必至である――」と大佐は彼らに訓示をあたへる。

 彼はその朝も飛行帽をかぶつてゐたがそれは伊達ではなかつた。彼自身も戦闘機乗り出身であることの自覚と、自分も場合によつてはいつでも出撃する、といふ気迫を示すためのものであつた、

「――我々はこの敵を迎へ撃つて痛撃をあたへる考へである。諸君らは唯、一機でも多くの敵戦闘機を叩き落とすのだ。」

 ヒコーキ乗りたちは各々の腕時計の針を同期させた。発動機の回転を上げたサイキが、革の手袋をした両手の掌を内側にして両肩の幅に立てる。それを外側にぱたりと倒すと、整備兵たちがサイキの飛行機から離れてゆく。青味がかつた迷彩の施された紫電改はアスファルトの上を川面の水蒸気のやうに滑り、それに続く者たちも華麗に編隊を組んで天空に舞ひ上がつていつた。

 風防に空気がつけた細かい傷が暁光に反射して輝く。そして前方の彼方に巨大な蚊柱のごとき敵機の機影が現れた。ヘルキャットの一番機は敵の機影がはじめて目にする形だから訝つた。ぎりぎりまで、突入する両陣は銃門を破らず、破られるために残されてゐた束の間の静寂はサイキが搭乗した日本の一番機によつて破られた。雨は山肌の埃を洗ひ流し、瑞穂はさんざめく――彼らは出撃のたびにブーツの踵を執拗に馴らし、敵機の青い翼たちは蒼い空を駆け上がる。サイキたちはそれを、きのふ見た夢のかけらを拾ひ集めるやうに追ひかけた――ヒコーキ乗りたちは、明日については知らぬ、ただ、今といふ一瞬だけが心を充した。この日飛来した敵機は三百機あまり。対して迎撃に布陣したサイキたちは僅か六十三機。そのうち味方の損失十六に対し、敵にあたへた損失は五十二だつた。第二次大戦終結まであと五ヶ月あまり、彼らには生命をかけるべきものがあつた。それは地上でもつとも雅なもの、あるいは、それはもうとつくに死に絶えてしまつた古い夢だつたのかもしれない。しかし幾千年の歴史のなかで生まれては死んでいつた人々と自分たちが共有したこの居心地の好い、雨気をふくんだ物語を、彼らは既に愛してしまつてゐた。

 

「グラマンが来よッた!」とその子供は大きな声でみんなに言つた。

 その日は天気がぐづつかなかつたから、みんなは友達のひとりの子の家の、農具を仕舞つてある納屋のなかで、少年誌を読んだり、パチンコにするのにちやうど好いと取つておいた丫状の木の枝に、自転車のチューブを裂いて束ねたゴム紐をとりつける細工なぞをしてゐたのであつた。しかし外から「伝令」に来た友達の、その敵機来襲の一報を聞くや、一冊の少年倶楽部を一緒に読んでゐた三人も、缶からを並べてパチンコの試し打ちに興じてゐた二人も顔をあげて、一斉に外に飛び出した。おもては雨上がりだつた。彼らは一瞬、まぶしい世界にたじろいだ。「伝令」をもつてきた子供は友達を眺望のきく山道へと導いた。彼が指さした方を見るとグラマンが単機で鉄道に機銃掃射をしてゐる。汽車が濛々と蒸気を噴出して急停車すると、再び降りだした雨の外へと乗客がわッと飛び出した。アメリカの飛行機は彼らにも容赦なく弾丸を浴びせた。子供たちは飛行機を見てゐるのが面白かつた。敵機は鎌首をもたげて反転すると駅舎にもバリバリと機銃を撃ち込んだ。するとそこへ急降下の雷鳴とともに、一機の松葉色の戦闘機が切り込んできた。そこから離脱しようと里のはうへ舳先をむけた敵機をサイキは追つた。子供たちはちやうど自分たちの目のまへを飛んでゆく二機に目を見張つた(その際、納屋でパチンコをこしらへてゐた二人の子供はグラマンに射撃することを忘れなかつた!)。二機は低空飛行のまま村里の向かうの山を越へて行つた。子供らは追ひかけて山道を走つた。彼らが崖のうへに立つて遠くを見てゐると、黒い煙が一筋上がつて、再びエンジンの音が帰つて来た。子供が崖のうへで敬礼してゐるのがサイキの目に入つた。彼は風防を開けて、彼らとすれ違ふときに海軍式の敬礼を返した。彼らは蜻蛉のやうにゆらゆらと、金色の陽光を浴びて飛び去つていつた紫電改の姿をいつまでも忘れなかつた。

 

 

 カネハラは実に気持ち好ささうに自転車に乗つてゐた。彼は搭乗員たちが待機してゐる露台のまへを行つたり来たりしてゐる。サイキは露台の椅子に腰かけて、ノートブックに何かを書きつけてゐた。まるでスケッチでもするやうにときをり頭をあげては、日盛りのおもてを睨む、そしてまたガリガリと一心不乱に書き始める。すると、

「中尉! そこで詩作してる場合ぢやないです。中尉の妹さんッてホントにカワイイんだなあ……俺なんて、もう――」と背後で誰かが言つた。

 サイキはノートブックを椅子のうへに放り出してなかへ入つていつた。

 兵舎の木陰のベンチにふたりは腰掛けた。サイキと、彼の妹。妹は包んできたものをサイキに手渡した。

「なに?」

「お好きなもの。」

 彼は包みをひらいてみた。

「粽……!」と彼は言つた。

「ふんぱつしちやつた。」と言つて彼女は咲つた。おくれ毛が風にそよいでゐた。

「うん。母上の味だ。」

 チリリンと自転車のベルが鳴つたかと思ふと、カネハラがふたりのまへをかすめて通つた。彼女はびつくりした。

「誰?」

 遠ざかつてゆくカネハラを、サイキはしばらく見てゐた。

 草叢はみじろぎひとつしなかつた。けふ草叢にひそみし希望の蝶になりて消えなむ明日、あきらめのいとほしさ……と、ある整備兵は思つた。

「なにか言つてよ。」と妹は言つた。

 サイキはちよつと思ひ切つてかう言つた、

「ちりをだにすゑじとぞ思ふ咲きしよりいもとわがぬるとこ夏のはな」

「これぎりだと思つて、そんなの詠むのね。」

 そのときみせた彼の小さな笑顔ときたら、誰だつてうつとりとなつてしまふ、人生を寿ぐやうなやつだつたといふ。彼女は兄の肩に額をつけた。

 すこし経つて、カネハラは基地のゲートに立つてゐるサイキと彼の妹の姿を見てゐた。

 

 

 邀撃にむかふサイキとカネハラの前方には、要害のやうな叢雲が屹立してゐた。その紫色の城壁は幾重にもつらなつてサイキたちを睥睨し、その天守をのぞむことは叶はなかつた。要害の基礎の一部は夏の柳の枝のやうに地球にむかつて垂れ下がつてゐた。サイキたちはそれを迂回してその城内へと這入つていつた。電探によると敵編隊は現在この空域にゐるはずであつた。だがその姿は見えない。だからその所在は、この雲のなかのほかにはありえなかつた。

 雲の城のなかでカネハラが頭上に注意を払ふと、雲井の白いスクリーンに両腕を広げた巨人のやうな影が映つてゐた。

「見たか?」

 カネハラが無線でサイキに言つた。

「うん。もつとそばで見ようぢやないか。」

 舳先に出て「上の階」へとあがつていくサイキをカネハラは追ひかけた。階上に出ると機内がぱつと明るくなつた。

「なんて美しいのだ……!」

 サイキは息を飲むばかりだつた。

 宇宙の虚無に遊ぶは陽光に輝く「空の要塞」の群であつた――その機影が雲海の上を飛ぶサイキとカネハラの二機の直前に投げかけられてゐる。サイキがふり返ると、米軍が世界最強を自負して対日戦に投入した百機あまりのB29とそれを護衛するP51「マスタング」戦闘機が、帝国に王手をかけるべく進軍してゐたのだつた。そしてすぐに、敵からの第一撃が近い雷鳴のやうにやつてくる。機影がさッと唯一の光源を遮つて、サイキの操縦室が一瞬暗くなつた。

 サイキが無線で僚機に伝へると、次々にその絨毯のやうな雲の上へと紫電改たちが踊りあがつた。彼我の誰もが竜のごとく高く天をもとめた。背後をとられたマスタングが一瞬のうちに片翼をもがれて雲海に沈み、空飛ぶ要塞の銃座からは黒煙を噴出す紫電改が見えた。亜成層圏のサイキは、更に限界と思はれるところまで上昇して、眼下にとらへた巨人の群れに垂直に襲ひかかつた。空の要塞はいまや激怒して、すべての銃座から火を放つてゐた。それは波打つ砂嵐のやうな沛然たるもの、その弾丸がつくる繭の、わづかな狭隘をかいくぐらうとするサイキは肢体をよじるやうにして舵をしぼる。両者が交差すると、サイキの紫電改がさッと白煙をひいて、巨人の背骨が反り返つてふたつに割けた。サイキは強烈な吐き気と朦朧たる意識をかいくぐりつて再び上昇し、もう一度弾幕のなかに突入していつた。

 聴覚に集注するカネハラが海原のイルカのやうに鋭く進路をかへたのは、敵機に撃ちこまれる一瞬まへだつた。そこを貫くやうに直進する敵機の尾ひれが、こんどはカネハラの照準に引き寄せられる。相手もそこに収まれば巧みに離脱する。一糸の煙やうに上昇する彼にカネハラが追ひついていくと、その機影が太陽と重なりあつた。そして地球の重力に引き戻されるやうに、敵機は状態を崩して目路から消えた。ターゲットを見失つたカネハラに、遂に弾丸は放たれた。カネハラはふわりと血のやうな煙を吐き出した。直後に虚ろな目のカネハラの脇腹を対戦者が音の断片のやうにかすめた。隘路を切り開かうともがくカネハラの背景は、急旋回の重たいGで少しづつ固まつて静止画像のやうになつた。彼はそれでも、自分自身の肢体がばらばらになるのを顧みずに出力を上げ続けた。逆光がゆつくりと遊泳する中、縒り糸のやうにふたりは纏綿する。意識の虚ろなカネハラは目を見開いて、はじめてターゲットに引金を引いた。相手の脇腹をかすめ通るとき、敵機は思ひ出したやうに黒煙を吐き出した。

 被弾したカネハラとその好敵手は空戦域から離脱する他なかつた。かへりみると複雑なかたちの雲井から、火災を起こした数機のB29が現れて、海面にむかつてゆつくりと高度を落してゆくのが見えた。水平線上に同じやうに高度を下げていくカネハラとその対戦者は、純粋な興味からどちらからともなく接近した。カネハラが風防を開けて見ると、上腕を負傷した相手もカネハラを見てゐた。カネハラは拳骨を高く上げてみせた。そして、傷ついた翼をひるがへして去つた。日記をつける習慣のあつたこのP51のパイロットはその夜、その邂逅と、カネハラの垂直尾翼にあつた機体識別番号を日記帳に記した。

 

 

 サイキは日ごとに無口になり、その瞳は澄んでいつた。カネハラは彼を温柔郷へさそつてみることにした。ふたりは夜が更けるとサイドカーで町に出た。店先に立つた女たちがサイキとカネハラを出迎へた。カネハラは彼女たちに両手の人差し指を向けて、

「ダダダダッ!」と怒鳴つた。「グラマンの三機や四機、俺がひとりで相手になつてやるさ。」

 サイキが笑ふのを見るとカネハラは少し、ほッとした。

 

 その宵、サイキの相手をしたのはミサといふ女だつた。

 

     さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖のかぞする

 

 実に彼女はそんなひとだつた。もし彼女からサイキ中尉の話を聞かなかつたなら、私は彼について書いてみようとは思はなかつたかもしれない。それはふとしたきつかけにすぎないのだけれど、たしかに彼女はそれを、私にあたへてくれたのだ。我々の行動はときに、はつきりとした説明が困難な、理不尽なものではないだらうか? これは言つてみれば、ある種の音楽や絵画が私たちにもたらす連想のきつかけのやうなものであつた。彼女のちよつとした仕草や、聞き手をときに感傷にひきこもむ話し方、そして彼女自身の魅力がつくりだす親密な空間が、彼がどんな人物であつたのかを――まるで彼が私自身の学友のひとりであるかのやうに――私の心に自然に思ひ描かせた。私はカネハラ少尉を介して彼女と知り合つた。彼女は戦後――ほんの短いあひだだけ――「宝ジェンヌ」として名を馳せたことがあつたが、結婚を期に引退して家庭に入つた。相手はカネハラ少尉だつた。大戦が終つて十三年目のことだつた。その二年後に生まれた男の子に、ふたりはセイジと名づけた。その名を誰の名からとつたかは、もはや言ふまでもあるまい。

「わたしには彼が自分と同い年に思へてしようがなかつたの。」と、彼女は言つた。「はじめて会つた瞬間よ。あるいはサイキ君もわたしとおんなじやうに思つてたんぢやないかな……同じ大正十三年生まれだつて。とくに今になつて思ふと、それが特別なことだつてことが判るの。……あの時分は本当に幸せだつたから、今のひとがちよつと気の毒になる。そりャ戦争ではみんな辛い思ひをしたんだけど、それはまた別のはなしなのよ。」

 実際、サイキは後であらためて彼女に訊いてみたのだつた。するとやはり、彼女は彼と同じ二十三だつた。カネハラが買つた女と四人で、座敷で酒を飲んでゐるときに、サイキはミサの三味線を手にとつた。カネハラに酌をしてゐた女が、半ば目を閉じて耳をかたむけた。サイキは調子を合はせて倍音を鳴らし、唄つてみせた――

 

     あけくれこがれて見た夢さめて

     けさは夢やらうつつやら

 

 狭い床の間つきで、灯を消さうとするミサの背中をサイキは布団に引き戻した。彼女は大きな目をしてゐて、ややうつむきかげんに相手を見る癖があつたから、正面から見てゐるサイキには、家鼠みたいに顔がとがつて見えた。

「ねえ。」と、サイキはミサに言つた。

「なあに?」

「実はね、」

「うん。」

「不能なんだ。」

 ミサは手を伸ばして化粧箱を引き寄せた。

「目を閉じて。」

 彼女はサイキの瞼にシャドウを入れた。

 

 

「おもては昼間みたいよ。」とミサが言つたから、サイキは彼女をサイドカーに乗せて連れ出した。車を停めて、ふたりは湿地の、なだらかな堤をのぼつていつた。ミサは夜空のやうな縹の小袖を着てゐた。ふたりは堤の頂に立つと晩春の湿原にぽつりぽつりと点在する木立を見わたした。実際、それはミサの鼻の頭のそばかすが数へられるくらゐ明るい月夜だつた。ミサは水のやうな夜気を吸ひ込んで、地面にくつきりと見えるふたりの影を眺めた。彼女は袖からアルト・リコーダーに似た笛を出して短いフレイズを吹いた。

「朝鮮の笛よ。」と彼女は言つた。「わたしの面倒をみてくれた、朝鮮人の家政婦さんにもらつたの。」

 ミサは自分が満州で育つた話をした。

「そんなお嬢が、ずいぶん過酷な労働をしてるんだね。」

「家出したのよ。」と、彼女は言つた。

 彼女が腰を下ろせるやうに、サイキは懐から手拭ひを出して強い草の匂ひでいつぱいの堤のうへに敷いた。サイキもその傍らに蹲踞つた。

「聴きたい? わたしの話。」

「うん。」

「そのまへに、中尉の話が聴きたいな。」とミサは目を輝かせて言つた。

「女の子に中尉ッて呼ばれるのッて悪い気はしないけど、なんだか自分が呼ばれたやうな気がしないな。」と彼は言つた。「僕はサイキッていふんだ。サイキセイジ。」

「ぢやあサイキ君。」と、ミサは彼の名を呼んだ。「サイキ君はどうして、ヒコーキ乗りなんかなつたの?」

「匍匐前進とか、塹壕掘りとかしなくていいからさ。」

 仔細をはなすのが面倒だから、用意しておいたいつもの回答をサイキはしたのだ。

「それで、実際ヒコーキ乗りになつてみてどう? 憧れてゐたのと違ふとか、幻滅したとか……。」

「幻滅? そんなことはない。女の子に乗れないぶんは飛行機で間に合はせてるくらゐだからね。」

 女の子が笑ふと、戦争してるなんて嘘みたいだ、と彼は思つた。

「他には――ヒコーキを操縦する以外には――どんなことが好きなの?」

「詩を書くのが好きだ。似合はないかもしれないけど。」

「そんなことないわ……! ヒコーキ乗りもカッコいいけど、サイキ君は詩人ッて感じするもの。どんな詩を書くの?」

「久しく発表してないから恥づかしい。」

「興味あるんだけど、サイキ君の詩ッて。」

「僕もヒコーキ乗りだから、遺言を書いてあるんだ――なにかあつたら、書いたものはみんな焼いてくれッて。」

「そんな……。」

 ミサは息が詰まつた。

「私たちが消えてなくなろうと、神さまの知つたことぢやないのね?」

「宇宙の塵のやうに?」

「宇宙の塵のやうに。」

「いや、そんなことないさ。ただ、ときどきね、こんなふうに思ふんだ、あるいは人生は夢なのかもしれないッて。うつせみの世ぞ夢にはありけるッてさ。実際、誰も夢を見てゐるときに、夢から覚めたときのことなんて考へないものさ。」

「サイキ君が書くのはそんな詩なのね?」

「そんな詩が書けたら素敵だね。君は家出したッて言つたね?」

「わたしの話、話すのは良いけど、途中で逃げ出したくなるかもしれないよ。」

「実際、逃げ出したひとがある?」

「一人や二人ぢやないわ。」

「君自身が逃げ出しても、僕がなんとかするよ。」

「サイキ中尉は親切なのね。でも、本当はまだ誰にも話したことないのよ。だけど、あなたには話しても良ささうな気がする。」

 

 

「わたしには弟がゐるの。」と、ミサは言つた。「弟がすこし普通の子供と違ふなッて、わたしが気付いたのは弟が三才のときだつたわ。弟は知恵遅れで、ちやんとした言葉をほとんど話すことが出来なかつたの。うちは母が病気がちで内地にゐたから、弟を専門のお医者に診てもらひませうッて父にわたしからお願ひしたんだけど、父はそれを嫌がつたわ。父は弟のことが人に知られるのを嫌がつたの。うちの家系にそんな……すごく嫌なことを言つて……まるでそれがお母さんのせゐみたいにね。さういふ父の考へもあつて、弟は一歩も外に出してもらえなかつたわ。家の外どころか、お手伝ひの人たちとも接触しないやうに、二階の寝室にほとんど閉ぢ込められてた。爾来、弟の面倒はわたしが看るやうになつたの。わたしは学校から帰ると、毎日、弟に本を読んであげて、御夕飯を弟の部屋で一緒に食べて、それからお風呂に入れてあげた。でも、そのことを嫌だとか、苦痛に思つたことは一度もなかつたわ。だつて、弟がいちばん最初にまともに発声できた言葉らしい言葉ッてミサなのよ。わたしの名前! 弟が九才のときだつた。そんなことが弟が十四才になるときまで続いたわね。父は張作霖が暗殺された頃から、毎晩おそくまで仕事から戻らなかつたから――」

「あれはいつたい誰の仕業なんだらう?」とサイキは思はず口を挟んでしまつた。

「ソ連よ。」とミサはきつぱりと言つた。「大陸の人々はね、謀を半ばあたりまへのやうに思つてゐるやうなところがあるの。いつ自分の国が隣国に攻め滅ぼされるかわからない、といふプリミティヴな恐怖心に常につきまとはれてゐるのね、きつと。国境のない内地にゐるとわからないけれどね、向かうにゐると、たとへば、〈騙すより騙されるのが悪い〉といふやうな感覚が肌でわかつてくるものよ。」

 ミサのやうな若い娘がそんなことをあつさりと言ふのを聴いて、サイキはどきりとした。

「いや、ごめんよ話の途中で。」とサイキは話を脱線させたことを詫びた。「それで、弟さんは十四歳になつたんだね?」

「うん。その年の夏だつたか、向こうぢやタンゴが流行つててね、授業が退けてからわたしは友達と踊りに行つたの――そりや、わたしだつてたまには楽しまないとね――それから九時ごろ家に帰つて、お風呂に入つてたの。はじめ、脱衣場に入つてきたのは家政婦さんだと思つてたんだけど、しばらくして浴室の扉が開いて……入つてきたのは弟だつたわ。弟は裸で――ただ、わたしのことをぢつと見てゐるの。弟はさうしたままぢつと動かないんだけど、性的に昂揚してゐたわ。

 わたし、弟をかはいさうだと思つたことは、それまでは一度もなかつたの。こんなふうに一生おもてに一歩も出ずに、家のなかに閉ぢこめられて暮してたつて、兵役は免除だし、ひよつとするとそのはうがかへつて仕合はせなんぢやないかッて、それくらゐに思つてた。でも、はじめてそのとき、さう思つたのよ、かはいさうッて。涙が止まらなかつた。それでわたしは弟の手を引いて一緒に湯船につかつたの。弟が触りたいやうに触らせてあげたわ。

 翌日、わたしが学校から戻ると、弟はもう家にゐなかつた。家政婦さんに訊くと弟は施設に預けられたつて言ふの。わたしは父が帰るのを待つて、施設に預けたのなら会ひに行かなくちやいけないから、場所を教へて下さいつて言つたの。でも、結局父は教へてくれなかつたわ。

 それからわたしはほとんど誰とも口をきけなくなつて――口をきかなかつたんぢやなくて……本当に、まるで弟みたいに……。それである日、大連の伯母を訪ねると言つて家を出たの。それからそのまま汽車で羅津まで行つて、そこから船に乗つて……そして今はかうして元気に働いてゐるといふわけ。でも戦争が終はつたら、きつと弟を見つけるの。」

 サイキは咄嗟に、いま自分が直面してゐる問題を、頭のなかで箇条書きにしてゐた。

 

○自分は現在、性的不能である。

○いま側らにゐる女は不義の関係をもつた白痴の弟の行方を捜してゐる。

○祖国はいまや滅亡の危機に直面してゐる。

 

 そこには実に、手に追ひ兼ねることばかりが並んでゐた。それでもサイキは自分のことが好きだつた。そして、前提としての死が自分を愛すべきものにしてゐることを知つてゐた。

「会へるといいね、弟さんに。」

 さう言ふと彼はミサの手をとつた。

「あなたの目ッて不思議ね。かうしてぢッと見てゐると、誰かの小さな手にぎゆッと心臓をつかまれたみたいな気持ちになるんだもの。」

「いつもさう言ふの?」

「違ふ。あなたが良いひとだッて、あたしにはちやんとわかるの。」

「ごめんよ。いつも余計なことを言つちやふんだ。」

「何時までかうしてゐられるの?」と、彼女が訊いた。

「明朝四時までに戻ることになつてゐる。」

 ふたりは須臾く黙つてゐた。それからやをら、磁石のやうにどちらともなく、口づけをした。

 

  

 サイキはミサと再会の約束をした。そしてカネハラとサイドカーで夜明けの滑走路に戻つた。すでに紫電改はずらりと並んで、二千馬力のエンジンが唸りをあげてゐた。静かな暖かい風、真夜中の草の匂ひとガソリンの匂ひ、ミサの唇……。

 ヒコーキ乗りたちは夜明けの世界を飛んだ。彼らは複雑な回廊のやうな雲のなかに入つてゆく。前方を見ると、遠い夏木立のやうにきらきらと何かが閃いてゐた。サイキは増槽を落とすや、スロットル・レヴァを引いてエンジンにガソリンと酸素を供給した。そして雲のなかに消えた。

 

 

 その年の夏の終はりに、松山基地の滑走路でアメリカ軍の若い兵隊がキャッチボールをした。彼らはプロペラを外した紫電改のまへで記念撮影をした。

 

 

 一九七五年の十二月のある日、北米大陸の息の長い夕暮れのなか、一機のセスナが、ある南部の街の空港に着陸した。スーツケースを持つたカネハラは滑走路に立つて、そのセスナが舞ひ降りてくるのを眺めてゐた。予告どおりの時刻だつた。セスナの操縦席から降りた男は、過ぎ去つた時間の最後の波を捉らへ、それにゆらりゆらりと押し寄せられるやうにして、カネハラのまへに立つた。

「あなたが生きてゐて、本当によかつた。」と、その男は南部訛りの英語で言つた。

「君こそね。」と、カネハラは言つた。

 日が落ちて相手の顔がはつきりとはわからなかつたけれど、カネハラには男が涙を拭つたのがわかつた。ふたりは互ひの背中をしつかりと抱擁した。

 

 

「当時、我々はサイキ中尉を狙つてゐたのですが、」カネハラのスーツケースを手に取ると、男が訊いた。「最近、九州の沖合ひで彼の機体が引き上げられたとか?」

 豊後水道の海底に、大戦中の戦闘機が一機沈んでゐる、といふはなしが海上自衛隊からあつた。その上空はちやうどサイキ中尉が消息を絶つた空域であつた。半年まへにその機体がサルヴェージ船で引き上げられ、カネハラと部隊の仲間もそれに立ち会つたのだつた。小雨まじりの十一月の日だつた。はじめ海面から姿を現したその物体は、海のものが付着してゐたせゐで、まるで巨大なお菓子の八つ橋のやうに見えた。しかしすつかり引き上げられると、その紫電改は海面を打つた際に変形したと思はれるプロペラの他は、ほぼその原形を留めてゐることがわかつた。ただし、片翼の二十ミリ機銃の弾倉を収納しているところに、あきらかに暴発の痕と思はれる巨大な穴が空いてゐた(これは稀有な事故である)。また敵方の記録にも、中尉が帰還しなかつた日の同空域で「低空を冬の蜂のごとく浮遊してゐた紫電改を一機撃墜」とあつた。風防は閉まつてゐた。

「確かにあれは彼のものかもしれません。」とカネハラは慎重に答へた。「でも結局、あの機体が彼のものであると、断定するまでには至らなかつたのです。腐食で機体の識別が出来なかつたうへに、操縦席になにも残つてゐなかつた、遺骨らしきものも、ゴーグルも、恩賜の短刀も、なにも。」

「では、サイキ中尉はまだ、多くの戦争遭難者のひとりとして扱はれてゐるのですね?」

「さうです。」

「ねえ、少尉、よかつたら操縦してみませんか?」と、カネハラのスーツケースをセスナの後部席にシートベルトでしつかりと固定し終えると、男は訊ねた。

「まさか! 僕はあれ以来いちども操縦棹を握つてないんだよ。」と彼はあはてて固辞したが、男は着てゐるフライト・ジャケットの、上腕部に開いた穴をカネハラに見せて言つた、

「あんたの腕はね、この私が一番よく知つてゐるんだ。」

 カネハラは戸惑つた。自動車だつてもし何年ぶりかで運転するとなつたら気が引けるのに、それは実際、三十年ぶりのフライトになるのだから。

「なあに、戦闘機に比べたらセスナなんて玩具みたいなものさ。」

 男はそれがいかにも茶飯事であるかのやうに、さう嘯いてみせた。

 カネハラは観念して操縦席に坐つた。いや、といふよりも、男が演出してゐたその飄然さにあへて乗せられて、ちよつとだけ操縦桿を握つてみた、はじめは唯それだけのつもりだつたのだ。

「でも身体が勝手に動き出しちやつたんだ。」と、彼はそのときのことを私に話した。さうして自然にエンジンをかけて、目の前の計器盤を確認したと言ふのだ。

 プロペラがまはりだすと、彼は「いや、目を瞑つてゐたつてまだ出来さうだぞ」といふ気がしてきた。セスナは滑走路を滑り出すと、やがてふわりと舞ひ上がつた。それは飛行機といふ筐のはうが彼自身にくッ付いてくるやうな、青年の頃そのままの感覚だつた。眼下を見ると夕闇のなかの街の灯が小さくなつてゆく。ふたりは楽しくなつて顔を見合はせた。東のはうにメコンのやうな大河が見えた。さう、中尉がなにか言つてたッけな、エーテルみたいに軽々と飛ぶとかなんとかッて……。

 セスナは落日を追ひかけるやうに西へとむかつた。男の農場が見えると、カネハラは着陸するセスナに優美な弧を描かせて彼の土地に舞ひ降りた。

「まるで、海鷲が鰯を捕まへるときのやうなアプローチだ」と言つて、かつての好敵手は何度もかぶりを振つて感心した。

 アメリカ人は言霊といふものを信じるだらうか? けだし友に語られるすべての言葉には、言外の意味があるのだ。帝國海軍は太平洋の霧のなかに消えたのだと、その勇姿に一度でもまみえた者たちはこの感慨を払拭できない。それはあの濃霧のなかに唯すがたを隠しただけであつて、彼らの記憶を共有する者たちを媒介して、わだつみはいつかきつと子孫たちにあの清々しい勇姿を再び見せてくれるに違ひない、この根拠のない絶対の確信が親密な沈黙となつてカネハラ少尉を満たしてゐた。

 男が玄関の扉をあけると、干し草色に日焼けした彼の細君がカネハラを出迎へた。髪もブロンドだし、もし彼女の絵を描くとしたら、少ない絵の具で済みさうだぞ、とカネハラは思つた。彼が会釈をすると、彼女はにつこりとして前掛けを付けた丈の長いスカートを軽く持ち上げてクラシックなお辞儀をした。

「もうじき夕食ができるから。」と、彼女は言つた。

 居間のステレオからビング・クロスビーの唄が聞こえた。それは戦場の兵士が「クリスマスには、きつと家に帰るよ」と詠ふ唄だつた――もし、それが叶はぬのなら、「きつと夢のなかで」と。 

 


この本の内容は以上です。


読者登録

海松阿礼さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について