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その1

 親から本当に大切に育てられていた娘――比右子――がいました。女性が身につける教養の全てを習いつくしてしまったので、今は「漢籍を読み習わせよう」ということになりました。「先生には親しい間柄の人を選ぼう」ということになり、大学に在籍している、母親が違う息子の篁を選びました。

 母親が違うため、比右子にとってはそれほど親しいわけではなかったので、「顔を見せるのはちょっと……」などと言っていたけれど、親が「見ず知らずの人よりはいいじゃない」と言うものだから、簾越しに、几帳まで立てて顔を見せないようにして漢籍を学んでいました。

 篁は比右子の雰囲気がとても美しいことを感じ取っていましたが、少しお互いに慣れてくるころには比右子の素顔がふと見えたり、雑談などを交わしたりするようになりました。

 漢籍を読むためには訓み方を示した図を使うのですが、比右子がそれを先生から受け取って見ると、角筆の先を使って図面にひっかくように歌が彫り込まれていました。

――なかにゆく吉野の河はあせななん妹背の山を越ゑて見るべく

(妹と背の山の間を流れる吉野川が浅くなってほしい。兄と妹を超えた関係になりたいから。いずれ結婚しような)

 

 そんなことが書いてあるので「こんな風に私のこと思ってたなんて……」と比右子は警戒したけれど、「無視してあんまりつれない女だとも思われたくないな」と考え、返事を書きつけました。

――妹背山かげだに見えでやみぬべく吉野の河は濁れとぞ思ふ

(川面に映し出される妹背山の影さえ見えなくなってしまうほど、吉野川など濁ってしまえばいいのよ。私すごく混乱してる……)

 さらに篁と比右子はこういう歌のやり取りをするようになりました。

――濁る瀬はしばしばかりぞ水しあらば澄みなむとこそ頼み渡らめ

(川の瀬が濁るのは少しの間だけさ。俺の気持ちのように流れ続ける水があれば川は澄み、俺たちが一緒に住むこともあるだろうと、期待し続けよう)

――淵瀬をばいかに知りてか渡らむと心を先に人の言ふらん

(ねえ、川の水が淵になるか瀬になるか…… 世の中どうなるかわからないのよ。それなのにどうして兄と妹の関係を超えたい、結婚したいだなんて先走って言うの)

――身のならむ淵瀬も知らず妹背川降り立ちぬべきここちのみして

(そりゃ俺の将来なんて淵になるか瀬になるかと一緒でわからないさ。でも、俺は妹背川を越えて君を手に入れ、必ず結婚するという気持ちしかないんだ)

 こうやって歌を詠み交わしたりしているうちに、「人にくからぬ世」とはよく言ったもので、比右子は篁をそれほど疎ましいとは思わなくなっていきました。


その2

 十二月の半ば、月がとても明るい中で、篁と比右子はおしゃべりをしていました。それを家のある人が見て、「誰がいるのだろう? ああ、寒々しくって面白くもない。師走の月夜といえばそう言うじゃないか」と言ってくるので、篁は歌で言い返しました。

――春を待つ冬のかぎりと思ふにはかの月しもぞあはれなりける

(春を待つ冬の最後なのだと思うと、あの月だって特別胸にぐっとくるものがありますよ)

 言い返された人は、

――年を経て思ふもあかじこの月はみそかの人やあはれと思はむ

(まぁ、何年経っても気持ちの飽きないこの月ですが、こっそり人と会ってる誰かさんならそれはもう感慨深いかもしれませんけどね)

 と言ってきました。そうしているうちに夜が明けてきたので、比右子は「家の人に変だなって思われてしまうわ」と中へひっこんでしまいました。篁はすぐに自室に戻ることはせずに、詩やら何かを口ずさみながらそぞろ歩いていました。

 

 さて、その翌日、長い間漢籍の勉強が止まっていたので、父親は「おかしいね、篁が来ていないじゃないか」と言って、呼びにやりました。篁がやって来て、いつものように漢籍の本を集めて教えていくのですが、比右子のことばかり心に気にかかってしまい、教えることは間違いだらけ。

 教えている間にまた角筆を使って、比右子に伝えました。「こんな簡単な漢籍を間違ってしまうなんてね。最近は気もそぞろなんだよ」と。そして、歌を書きつけます。

――君をのみ思ふ心は忘られず契しこともまどふ心か

(君だけを想う心は忘れられないよ。勉強を教えると約束したけれど、目的を見失ってしまいそうだ)

 比右子も歌を書きつけました。

――博士とはいかが頼まむ人知れずもの忘れする人の心を

(先生として頼りにならないじゃない。だってこっそり私のことを忘れてしまったりもする心なんでしょう?)

 篁は反論します。

――読み聞きてよろづの書は忘るとも君ひとりをば思ひもたらん

(色んなことを読んだり聞いたりして全ての本のことは忘れてしまっても、君ひとりだけは心に思い留めておくよ)

 このように篁は歌をいつも交互に作って詠んでいました。


その3

 さて、比右子は願い事があって二月の初めての午の日に伏見稲荷神社にお参りに行きました。お供は多くなくて、女房二人と童女二人でした。女房たちは異なる袿、童女二人は同じ色の服を着ていました。

 比右子はと言うと、様々な模様を織り出した練絹の単衣を重ね着し、唐由来の薄物の桜色の細長い着物を羽織っています。童女は露草の花などで染めた綾の細長い着物を羽織っていました。

 比右子の髪の毛の様子はとても清楚で、顔つきも不思議なくらいこの世の人とは思われないほどの美しさをたたえています。

 男の子のお供が三、四人、そして篁もまたいました。直接、妹に付き添っているわけではないのですが、前後して神社に到着したのでした。比右子はお参りをして疲れてしまったので、兄はかわいそうに思い、「俺に寄りかかれよ」と近づいたのですが、「ああ、もう。嫌よ」と言って雑踏に消えてしまいました。

 そんな中、兵衛佐あたりの人で、見た目がこざっぱりとした二十歳くらいの若者が、参拝の途中、比右子とばったり出会ったのでした。そして帰り際に、比右子が道端に立ちつくしているのを見かけ、声を掛けました。「ああ、心配です。そんなきつそうな状態で参拝に来たのですね」。二人の様子を目にした篁は嫉妬し、佐に何か言ったのですが学生風情が相手にされず。兵衛佐は比右子に「后が乗るような御車を用意して、稲荷のあたりにあるきさきのみね(地名)であなたに差し上げます。女性の身のあなたとしては后の役が相応しいですが、さて、夫の帝の役は誰が良いと思いますか?」などと口説いています。

 日も暮れて、お弁当を探し求めて食べさせようとする間に、この兵衛佐を自分たちの前へ行かせようとしました。しかし、この若者は休むようなふりをして、車から降りて、比右子に歌を詠みかけました。

――人知れぬ心ただすの神ならば思ふ心をそらに知らなん

(あなたが人に知られない心を正すという女神であるなら、僕のあなたを想う心を推し量ってください)

 比右子は返事をしました。

――社にもあだきねすゑぬ石神は知ること難し人の心を

(私は女神なんかじゃなくて、お社に無駄な神主や巫女を置かないつまらない石神だから、人の心なんて読めないわ)

 懲りずに兵衛佐は再び歌を送ってきましたが、篁は妹を急がせ車に乗せて、立ち去ってしまいました。この兵衛佐は「どこに連れて行ったのか見てきてくれよ」と人を付けて見させ、「あの家でした」と突き止めたのでした。


その4

 翌朝、比右子のところに手紙が来ました。「神が教えてくださったので、あなたに手紙をお送りします。あの石神のもとで、今日、お会いできたら……」などと兵衛佐は言ってきました。比右子が使いの者から手紙を受け取って読んでいると、兄が飛んできて、「親父が聞きつけたらどうするんだ。本当に騒がしいな。この童はどっから来たんだ? どこのどいつの使いだ?」と言うではありませんか。

 兵衛佐の元へ帰った童は報告します。「お手紙は差し上げたのですが、昨日神社にいた男が、どこの使いだって訊いてくるし、家の中からは、どうしたんだっていうおやじさんの声が聞こえてくるし、めんどくさくておいとましてしまいました」と言うものだから、兵衛佐は「この狐っこめ!」と叱って、また次の日の朝、使いを出しました。「昨日の手紙への返事はいかがでしょうか。何度か使いの者をやったのですが、どうも頼りなくて。この童が手ぶらで帰ってきてしまったのですよ」という文の後ろに歌を詠みました。

――あとはかもなくやありにし濱千鳥おぼつかなみに騒ぐところか

(浜千鳥の足跡が波で消されてしまうように、あなたの心の行方もわからなくなってしまったのでしょうか。僕の心はざわついています)

 篁が大学の授業に出てしまっている頃、掃除担当の女が手紙を受け取って比右子に持っていきました。比右子は手紙を取って、「お兄様が見つけるかもしれない。近所の家にお使いの童を置いてちょうだい。昨日も手紙は読んだけれど、何なのよ……」

――たまぼこの道交ゐなりし君なればあとはかもなくなると知らずや

(私たち、行きずりで会っただけなんだから、その後のことなんてさっぱりよ。そんなこともわからないの?)

 比右子の返歌を読んだ兵衛佐は「ふざけたことを言う女性だなぁ。嫌だね、不吉なことを言ったりしてさ。何て返事をしようかな……」と思ったのでした。この若者は時の大納言の息子でした。「その後のことなんてさっぱり、か。でもそんなこと信じるものか。だって君は僕の道に確かに存在したんだからね」。そして、歌を送りました。

――しばしばにあとはかなしと言ふことも同じ道には又もあひなん

(何度も、後のことは知らないなんて言っても結局同じですよ。どうせ僕たちはまた同じ道で巡り合うだろうから)


その5

 再びこの手紙をいつもの童が比右子のところに持ってきました。篁が道で童にばったり出会って、「それなら今、こっちから返事をしてやろう」と言って、手紙を童に持たせました。童が兵衛佐に、かくかくしかじかと報告すると、「いつも通り、考えのないやつだなお前は。先に機嫌を損ねてるあの男に手紙を渡すやつがあるか。この稲荷神社で目つきがいかにも不快そうに思ってた男だぞ。この手紙はその男からのものじゃないか。そもそもあの女神からの手紙はどうした?」と怒り、童を比右子の家に向かわせました。

 童は主人がまたお使いに出したことをひどいと思っていると、篁が出てきて、「そっちが手紙を寄越した女は、夜のうちに誰か男に盗まれてしまったから、探しに行くぞ。もしかして、盗人はこの手紙を送ってきた人なのかね。そうとも知らずにいたが…… お前、俺を主人のところへ連れて行け」と迫ってくるので、童はごにょごにょ何か言って、駆け出して去ってしまいました。兵衛佐は「まぁ、そんなとこか……」と思って、比右子に手紙を出さなくなりました。

 一方、比右子は篁の横やりが入ったとは知らずに、「あの人から手紙が来ないのは、おかしわね」と思っていました。篁はいたって普通に、妹の元へやってきます。「なぁ、君はゆきずりの見ず知らずの人と手紙をやりとりして、惚れてしまうような気持ちでいたんだね。あいつは君をすぐに妻に迎えることだろうよ。仲人はちゃんとつけろよ。結婚するなら許しをもらってからしろよな」などと言ってくるので、比右子は驚いて反論します。

「どうして私が兵衛佐様の目に留まることがあるのよ。ちっとも相手のことなんか知らないのに、好きになったりするわけないじゃない」。篁は「ふん、男女の仲をよく知らない女は、そんな風に言わない方がいいぞ。いかにも世間知らずといったところだな。情けない。そんな女だとは思わなかったよ」と嫌味を言うので、比右子は困ってしまい、「なんで目につかないような私を、兵衛佐様に無理に世話してもらう必要があるの。私、そんな風に思ったりしてないわ」と言い残して、部屋に入ってしまいました。



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