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ニーナとうさぎと魔法の戦車番外編1 無銭飲食伝説

 ニーナとうさぎと魔法の戦車番外編1 『無銭飲食伝説』  文:兎月竜之介


 フィクシオ共和国の地方都市――アンフレック。
 その中央通りにある居酒屋『パンプキン商会』を訪れたのは一人の青年である。移動手段の燃料バイクには、テントや寝袋といった野営道具が積まれていた。彼が長い間、一人旅をしてきたことが見て取れる。
 青年は燃料バイクを駐車して、店先に貼られているチラシを見た。
 そこには『超大盛りメニューがリニューアル。完食で金一封!』と書かれている。
 実のところ、青年はいわゆる『フードファイター』というやつだった。
 世界各国を旅しながら、大食いメニューにチャレンジしている。完食すると賞金がもらえるので、それを旅費に充てて新しい土地に移動する。それを繰り返して、世界一周するのが青年の夢なのだ。
 青年は早速入店すると、店内の様子を見渡した。昼間はレストランとして営業しているようで、店内には客が十数人ほど来ている。カウンターの奥には、カイゼル髭を生やしたマスターの姿があった。
 カウンター席に腰掛けて、青年は超大盛りメニューとやらを注文しようとする。
 そのときだった。
「――こんにちは!」
「――また来ちゃいました!」
 明るい声で挨拶しながら、二人の少女がパンプキン商会に入店してきた。一人目は長い三つ編みを垂らしていて、二人目は黒髪の二つ結びだ。二人とも十代前半といった感じだろうか……清楚で可憐な二人組で、昼間とはいえども居酒屋には似合わない。
 二人は青年から一つ離れたカウンター席に並んで腰掛ける。
 三つ編みの少女が言った。
「アリスちゃん、頑張って! 私、応援してるから!」
「うん、頑張るよ! 今日も付き合ってくれてありがとうね、ニーナちゃん」
 二つ結びの少女――アリスが満面の笑みを浮かべる。
 青年は特に気にすることなく、メニューを注文することにした。

「「 スーパーパンプキン定食、一つ !!」」

 瞬間、青年とアリスの声が重なった。
 青年は驚かされる。
 隣に座っている十代前半、清楚で可憐、華奢で幸薄そうな少女が大食いメニューを注文しているだって?
 流石に止めた方がいいのではないだろうか。完食すれば金一封。女の子二人にとっては結構なお小遣いになるだろう。だが、完食できなければキッチリと代金を支払うことになる。青年の場合、失敗したら次の土地まで野宿確定だ。
「……定食二丁、承った」
 マスターがカウンター奥の厨房に姿を消した。
 客たちがざわめき始める。
 二人も同時に大食いメニューを注文したのだから当然だ。挑戦を最初から見届けたいのか、手元に来たばかりの料理を急いで食べているものもいる。店の電話を借りているもの、一目散に店から出て行くものまでいた。
「――ドクターを呼んだ方がいいんじゃないか? だって、ほら……」
「――あぁ、そうだな。一人はともかく、あっちはヤバそうだ」
 青年の耳に気になる単語が飛び込んでくる。
 アリスという少女がどれだけ頑張るつもりかは分からないが、あんな小さな女の子が大食いに挑戦するのはいささか危険だ。途中で気持ちが悪くなったり、お腹が痛くなったりするかもしれない。そのときは『ドクター』とやらの力が必要だろう。
 スーパーパンプキン定食が出来上がるまで、青年はそのときを待った。


 注文してから二十分ほどして、パンプキン商会にはわんさかと見物人が集まってきた。見物人の多くは軍服っぽいものを身に纏った女性たちである。おそらくはアンフレックを守っている私立戦車隊なのだろう。
 青年は大食いだが、女性は若干苦手である。
 緊張しながら待っていると、ついに厨房からマスターが戻ってきた。
 彼が押しているのは台車だ。
 青年はその上に載せられているものを目撃して絶句する。
 台車によって運ばれてきたのは、お祭りの『カボチャコンテスト』に出品されるような巨大カボチャだった。大人の両手で一抱えもあるサイズである。その中身がくりぬかれて、お皿代わりに使われているのだ。
 巨大カボチャをカウンターに移すと、その重みからゴスンと鈍い音がした。
 青年は中身を覗き込んで、さらに息を飲む。
 カボチャの中には大きく分けて四つのメニューがひしめき合っていた。
 最初に目についたのは魚のフライだ。何の魚を使っているのかは知らないが、これが馬鹿みたいにでかい。そのフライが二枚もあって、合体させるとラグビーボールみたいになる。そしてミートソースのパスタが三人前、春野菜のカレーに至っては四人前、それらの上に乗っかっているポテトサラダは小玉スイカを半分に割ったような大きさだ。
 青年は確信する。
 今まで完食してきた大食いメニューの中で、これが最も量が多い!
 たとえ大食いメニューを名乗っていても、百戦錬磨の青年にとって消化試合的なメニューも多かった。だが、このスーパーパンプキン定食は違う。本気になって挑まなければ、間違いなく飲み込まれてしまうだろう。
 そんなとき、一つ隣にいるアリスが言った。
「わぁ、美味しそう! これって、やっぱり全部食べていいんですか?」
 なん……だと!?
 彼女の発言にあっけにとられる青年。
 マスターが懐中時計を手に取る。
「制限時間は三十分間。それでは用意、スタート!」
 彼の声に呼び戻されて、青年はともかくフォークを握った。
 無邪気な発言に惑わされている場合ではない。
 周囲の歓声に後押しされながら、まずはミートソースのスパゲッティーを口に運んだ。
 大食いをする場合、何よりもペース配分が重要になってくる。
 ご飯ものであるカレーライス、粘りけがあるポテトサラダは噛む回数が増えて、満腹中枢を刺激される。魚のフライは油っぽくて腹に溜まるので、これも最初に食べるのは避けるべきだ。その点、スパゲッティは少々マナー違反だが『啜る』ことができる。満腹中枢を刺激することなく、胃袋に落とし込むことが可能なのだ。
 完食するためのセオリーを守る。
 それが青年の戦略だった。
 そのはずだったのであるが――
「カレーライスと魚のフライ、一緒に食べるともっと美味しいですね!」
 アリスは完全にセオリーを無視して、自分の好きなものから食べ始めていた。
「大好物ばかりで良かったね、アリスちゃん!」
 彼女の奮闘を見守るニーナ。
 アリスのルール無用な行動に青年は動揺を隠せない。
 どうして、そんな死に急ぐようなマネをする?
 お友達が隣で応援してくれているのだから、少しは真面目に食べたらどうなのだ?
 ……いや、可憐な少女を心配している場合ではない。
 青年はスパゲッティーを着々と食べ進めていくが、食べた先から隣の料理が崩れてくる。そのせいで、器の底がいつまで経っても見えてこない。食べているはずなのに料理が減っていないような錯覚に襲われる。
 どうにかスパゲッティーを片づけると、青年はカレーライスに取りかかった。上に載っているポテトサラダをルーに溶かして食べていく。これで効率は実質二倍である。大食いの世界に味なんてものは関係ないのだ。
 食べ始めて十分が経過。
 青年がここで異変に気づいた。
「すごい! 時間が経っても、フライの衣がサクサクしたままだよ!」
「へぇー、それってどうやってるんだろ? うちでもマネできるかな?」
 アリスがまだ食べ続けているのである。
 並の人間ならば……ましてや十代前半の少女なら、この時点で満腹になっていなければおかしい。それなのにアリスは苦しい素振りを見せるどころか、ますますペースを挙げているのだった。大食いのセオリーを無視しているにもかかわらず!
「――おい、青年。ペースが落ちてきてるぞ!」
「――だれか、ドクターは呼んだのか? えっ、急患で手が空かない?」
「――あぁ、そうだ。アリスちゃんが食べてるんだ。お前も見に来いよ」
 見物人たちの声が青年の脳内でこだまする。
 彼を飲み込もうとしているのはスーパーパンプキン定食だけではない。隣に座っているアリス――彼女の存在が青年の常識を破壊して、努力を否定する。暴力的なまでのフードファイト能力によって圧倒する。
 だが、そう簡単に倒れるわけにもいかない。
 カレーとポテトサラダの混合物を食べ終えて、青年は巨大な魚のフライに取りかかった。
 食べ始めてから二十分ほどが経過している。
 すでに満腹が近い。少しの衝撃で胃がひっくり返りそうだ。どうやら焦ったせいで、ペースが早まってしまったらしい。もっと落ち着いて食べていれば、これほど苦しまずには済んだはずだ。一人の少女にセオリーを崩されるだなんて思ってもいなかった。
 フォークを使うこともまどろっこしくなって、青年は魚のフライを手掴みで食べる。食べるというよりは食らいつく。まるで原始人のように噛みつくのだ。大食いは人間の本性を露わにする。生存本能と闘争本能が呼び覚まされる。
 残り五分のところで、どうにか定食を食べ終える。
 青年は安堵して、果てしなく大きなカボチャの器に手を添えた。
 そのとき、カタン……と音がして『何か』がズレる。
 今になって青年は気づかされた。
 カボチャ色に塗られていて気づかなかったが、巨大なカボチャの器は二重底になっていたのである。まん丸なカボチャをくりぬいて器にすると、流石に底が深すぎて食べにくい。二重底にしたのはマスターの心優しい配慮なのだ。
 青年は自分の甘ったるい妄想に辟易した。
 二重底を取り外す。
 そこから現れたのは、通常の二倍サイズはあろうかというオムライスだった。
「卵がふわふわのオムライスだ!」
 アリスが瞳をキラキラと輝かせる。
 彼女の隣にいるニーナが「なるほど!」と手を叩いた。
「パンプキン定食からスーパーパンプキン定食になって何が変わったのかと思ったけど……このオムライスが増えていたんだね。アリスちゃん、お腹は大丈夫? 無理そうだったら、ギブアップしても平気だからね」
「ううん、まだ食べられそう」
 アリスは大きめのスプーンを握って、ビッグサイズのオムライスを食べ始める。
 あぁ、自分はこいつをスーパーにしたやつと並んでいたのだ。
 そう気づいた瞬間、青年の意識はカボチャの器に落ちていった。

 ×

 大盛りメニューの挑戦を終えて、ニーナとアリスの二人はパンプキン商会をあとにした。
 腹ごなしにゆっくりと大通りを散歩する。
 塩辛いものばかりで喉が渇いたというので、ニーナはアリスと一緒に露天でレモネードを購入した。ニーナは隣で応援しているだけだったが、自分まで満腹になったような気分だ。レモネードは喉の奥をスッキリと爽やかにしてくれる。
 二人は公園のベンチに腰掛けて、ちょっと休憩することにした。
「……さっきの旅人さん、大丈夫だったかな?」
 心配そうなアリス。
 彼女と一緒に挑戦していた青年だが、オムライスの存在に気づいた途端に意識を失ってしまった。パンプキン商会に大勢の戦車乗りが集まっていたのは不幸中の幸いである。彼女らは青年を戦車に乗せると、ドクターの事務所まで搬送していった。
 ニーナは励ますように言った。
「ドクターなら治してくれるよ。前にも大食いメニューで倒れた人がいたけど、ドクターのおかげでなんともなかったみたいだから。もう二度とパンプキン定食は食べないぞ――って言ってたらしいけどね」
「うーん、あんなに美味しいのにな……」
 ズレたことを考えるアリス。
 美味しいかどうか以前の問題であるが、彼女にとっては些細なことらしい。
 アリスはすでにパンプキン定食を一度完食している。彼女があまりにも軽々と食べてしまうので、マスターが新しくスーパーパンプキン定食を考案したのだ。ただ、それですらも完食してしまったのだが……。
「今回も楽勝って感じだった?」
 ニーナが尋ねると、アリスは首を横に振った。
「そんなことないよ。ほら、お腹が大きくなってる」
 彼女はニーナの手を握ると、自分の膨らんでしまったお腹を触らせる。
 服装のおかげで分かりにくいが、触ってみると確かに大きくなっていた。
 ちょっと触り心地が良くて、ニーナはアリスのお腹をナデナデする。
 アリスが不意に言った。
「……なんだか不思議な気分だね、ニーナちゃん」
「お腹をナデナデされるのが?」
「そうじゃなくて、これのこと……」
 彼女が見せたのは賞金が入った封筒である。
 ラビッツの仲間たち七人で、一晩大騒ぎできるくらいの金額が入っていた。
 ニーナは撫でるのをやめて、真面目な顔をしたアリスに向き直る。
「だって、昔は食べるだけでも困ってたんだよ?」
 彼女の考えていることはニーナにも理解できた。
 アリスは幼い頃、マドガルドの作った施設に閉じこめられていた。そこでは罰として食事を抜かれることも多くて、必然的に『一度にたくさん食べる方法』が身に付いたのである。
「修道院で生活していたときも、毎日お腹一杯は食べられなかったよ」
「私もそうだったなぁ……故郷でも、山奥の村で働かされていたときも」
 ニーナにとっても過去にあるのは苦い思い出ばかりだ。
 ラビッツの事務所に来てからも、生活費や食費で仲間たち(主にサクラ)が大騒ぎしているけれど……それでも、空腹で困ったことは一度もない。仲間の誕生日や、毎年の聖誕祭、仕事終わりなんかにはお祝いも欠かさない。
 アリスが太陽に封筒を透かしてみる。
「それなのに今はたくさん食べて賞金をもらってる」
「……確かに不思議だね」
 ニーナはうなずいた。
「野良戦車の被害に遭っていたり、内戦が続いていたりする国だと……今だって食糧難が起こっているのにね。ラビッツのみんなに助けてもらえなかったらと思うと、今でもゾッとすることがあるよ」
 涼やかな風が通りすぎる。
 しばしの沈黙。
 アリスが慌てた様子で言った。
「ご、ごめんね。なんだか暗い雰囲気にしちゃって」
「気にしなくていいよ」
 ニーナは彼女に微笑みかける。
「アリスちゃんが正直な気持ちを教えてくれて、私はそれがとても嬉しいもの」
「……ありがとう、ニーナちゃん」
 自然と笑顔が溢れるアリス。
 彼女はそっとニーナの手に触れて、きゅっと力を込めた。
 そのときである。
 公園の外を一人の少女が通りかかったことにニーナは気づいた。
 少女は五、六歳といったところで、花がたくさん入ったカゴを抱えている。貧相にやせ細っていて、着ている服はつぎあてだらけだ。ここ最近のアンフレックではあまり見なくなったようなタイプである。
 こちらに気がついて、少女が駆けてきた。
「お姉ちゃん、お花を買ってよ!」
「綺麗なお花だね」
 ニーナはそう言ったが、カゴに積まれた花々は咲き過ぎな感じである。綺麗に咲いてはいるのだが、これでは一日か二日しか保たないだろう。花屋なんかで売るとしても、ほとんど値段は付かない。
「あなたはこの辺の子なの?」
 ニーナの問いかけに少女は首を振った。
「お母さんと二人で旅してるの。お金がなくて、おうちに住めなくなっちゃったから」
「……あなたのお母さんはどこに?」
「宿のベッドで眠ってる。私、今日のお薬買わないと……」
 少女は肩を落として、酷く落ち込んでいる。
 彼女の気持ちがニーナにはよく分かった。お腹が空いているのに、それでも母親のために働こうとしている。花が売れないことは彼女だって分かっている。それでも何もしないのは駄目だ。どうしても、今日を生きるためのお金が必要なのだ。
 ニーナはアリスの方に振り返る。
 すると、彼女の方もニーナのことを見ていた。
 二人はうなずいて、少女に改めて声を掛ける。
「お姉ちゃんたちがお花を全部買ってあげるよ!」
 アリスはそう言って、賞金の入った封筒を手渡した。
 少女は恐る恐る封筒を確認する。
 そして、そこに少なくない金額が入っていると知って驚いた。
「こんなにたくさん、もらっていいの!?」
「うん、その代わりにお願いがあるの」
 アリスがニコッとして、続けてニーナが言った。
「すぐに町役場まで行って、そこでドクターって人に会ってみてね」
「……うん、分かった」
 少女はこくりとうなずいて、花で一杯のカゴをニーナに手渡した。
 それから言われた通りに、公園の外に向かって駆けていく。
「ありがとう、お姉ちゃん! このお金、大事に使うから! 本当にありがとう!」
 少女が大通りに出ると、彼女の姿は垣根に隠れて見えなくなった。
 あとはドクターが助けてくれるだろう。ニーナとアリスがそうであるように、少女をメイドとして働かせてくれるはずだ。少女の母親も病院で治療を受けることができる。活気づいたアンフレックにはそれくらいの余裕はまだまだあるのだ。
「……ごめんね、アリスちゃん」
 ニーナはそっと彼女の手を取る。
「せっかく賞金をもらったのに、勝手に使ったりして……」
「そんなことないよ。私もニーナちゃんと一緒のことを考えてたから」
 アリスはそう言って、手を握り返してくれる。
 生活に困っているのはあの子だけではない。それはニーナにも分かっていた。だけど、ニーナは私立戦車隊ラビッツの一員として、目の前で困っている人を放っておけない。それに、こうしてアリスに手を握ってもらえるなら……こういう心の痛みも心地いいものだ。
「事務所に帰ろうか、ニーナちゃん?」
「そうだね。みんなが結果を気にしてるよ!」
 二人は手を繋いで、アンフレックの街をゆっくりと歩いて帰る。
 大食いメニューを完食したことに加えて、また一人を助けられたお土産付きだ。


(おしまい)


ニーナとうさぎと魔法の戦車番外編2 白百合のきみに

 ニーナとうさぎと魔法の戦車番外編2 『白百合のきみに』  文:兎月竜之介


 自室の机に向かって、クーは万年筆を走らせる。
 そこに書き記しているのはオリジナルの物語だ。情景を思い浮かべながら、それを言葉に置き換えていく。キャラクターたちは時折、クーの意思を反して動き始める。彼女はあらかじめ作っておいたメモを見ながら、ときにはキャラクターの行動を受け入れて、ときにはたしなめて物語を修正する。
 小説を書いていると食事の時間すら忘れてしまう。むしろ空腹であるときの方が集中できるからだ。だから、小説を書いていると仲間たちが呼びに来たりする。そのときは仕方なく階下に降りるが、呼ばれなければ眠くなるまでひたすら書いていたい。
 クーは現実世界だと自室で机に向かっている。
 だが、物語の世界だとフォースランド王国にある全寮制の女学園にいた。春風の吹き込む窓辺に立って、廊下を行き交っている生徒たちを眺めている。彼女らの多くは貴族階級のお嬢様であるか、あるいは成功者の子供である令嬢たちだ。
 けれども、その中に一人だけ平凡な家庭の生まれが混じっている。
 物語の主人公はその冴えない一人の少女だった。
 彼女の物語を書き続けて、すでに一年以上が経過している。私立戦車隊としての活動、たまに入ってくる翻訳の仕事、何よりも『居眠り体質』のせいで、クーの執筆できる時間はあまり長くない。それでも少しずつ書きためてきた。
 クーの構想だと、物語はおおよそ折り返しを迎えている。先月に書いたところで、ストーリー上の大きな山場を迎えた。主人公とヒロインが離ればなれにされて、もう二度と会うことができなくなったのだ。
 新しい物語は打ちひしがれた主人公の再起から始まる。かつて主人公と交流を深めた仲間たちが、彼女のために再結集するのだ。だが、いくら仲間たちが力を合わせても、主人公自身に立ち上がる意思がなければ意味はない。主人公が再起する真の鍵を握るのは――

「――紅茶を持ってきたわよ?」

 耳元から声を掛けられて、クーはとっさにノートを閉じる。
 いつの間にか背後に立っていた少女――エルザが驚いて飛び退いた。
 彼女は金属トレイを抱えていて、そこにはティーカップが一つ載っている。クーに紅茶を届けるため、わざわざリビングから上がってきたのだ。時計の針は午後三時を示していて、執筆を始めてから二時間ほど過ぎていたことが判明する。
「部屋に入るときはちゃんと声を掛けて欲しい」
 クーは机に伏せて、ノートを隠そうとする。
 エルザが軽く鼻で笑った。
「声を掛けたけど反応がなかったのよ」
「反応がなければ部屋に入らないのが礼儀。貴族だというのならなおさら」
「何を言ってるんだか……」
 あきれ顔になるエルザ。
 彼女は人差し指でクーの頬をツンツンする。
「あなたなんか、居眠りしながら私の部屋に入ってくるじゃない? それどころかベッドにまで潜り込んだりして、私のことを抱き枕か何かだと思ってるのかしら。私がクーの部屋に勝手に入ったところでおあいこよね」
「寝ている間のことは不可抗力」
「案外、寝ているふりをしているだけの確信犯だったりして……」
 睨み合う二人。
 すると、エルザがクーを横から覗き込んできた。
「……ねぇ、さっき隠したのって小説でしょう? 私もそこそこ読むから、アドバイスしてあげられるかも。書いてるのは知ってるんだから、いい加減に読ませてくれない?」
 彼女がノートを取ろうと手を伸ばしてくる。
「だ、だめっ!」
 クーは気がつくと、エルザの体を突き飛ばしていた。
 彼女が尻餅をついて、ティーカップが床に落ちる。
 ティーカップは運良く割れなかったが、床一面に紅茶がこぼれてしまった。
「あつっ……」
 足下に紅茶が跳ねたのか、エルザが顔をしかめる。
 小説を読まれたくないとはいえ、とんでもないことをしてしまった……。
 クーは血の気が引いていくのをリアルに感じる。
 エルザはティーカップを拾い上げて、彼女にそっと背を向けた。
「……ごめんなさい、意地悪したりして。台拭きを持ってくるわね」
「あ、いや、その……自分でやるから大丈夫」
 分かったわ、とうなずいたエルザ。
 彼女はそのままクーの部屋から出て行った。

 ×

 非常にモヤモヤとしたまま、クーは外出することになった。
 サクラが車で送ると言ってくれたが、行き先を知られたくないので丁重に断る。人相を知られないためにもサングラスを掛けた。似合っていないのはクー自身も分かっている。だが、万が一にも知人と鉢合わせするわけにはいかない。
 クーは中央通りから脇道に入って、レトロな雰囲気が残った下町に出る。
 彼女が訪れたのは下町の一角にある古びた書店だ。
 その名も『青少年のための読書クラブ』と言って、実は私立戦車隊『本読み少女隊』の事務所である。本読み少女隊のメンバーは、日頃は書店員として働きながら、野良戦車が出没すると魔動戦車で出撃するのだ。
 通りからは店内の様子を覗くことができる。
 客の姿は数名確認できた。品数自体は大型書店に劣るが、痒いところに手が届くようなラインナップのおかげで、わざわざ遠方から客が来たりする。古書を扱っていたり、貸本もしているので仕事の幅は割と広い。
 クーは裏手に回って、裏口のドアをノックした。
 ドアの向こうから、隊員の一人が確認を取る。
「砂糖菓子の弾丸は?」
「……撃ち抜けない」
 クーが合い言葉を言うと、ガチャンと音を立ててドアの鍵が外された。
 裏口からコッソリと入店する。
 店に入って最初に目についたのは、小さいながらも最新式の印刷機だった。本来はリビングだったはずの場所が印刷所に改造されている。山のような印刷用紙の束、黒インクのタンク、裁断機などなど……必要なものが全て揃っていた。
 中央のテーブルには五人の少女が待ち構えている。
 彼女らは女学生風の制服(本読み少女隊のオリジナル戦闘服)を着込んでいた。
 隊長である少女は眼鏡を掛けていて、ついでに言うと隊員の中で一番胸が大きい。
「さてと、今月の会議を始めようか」
 クーが席に着いたところで、隊長が一冊の本をテーブルに置いた。
 文芸誌サイズのもので、表紙には『新白百合派』と書かれている。
 隊長はそれから小箱に入った紙束を取り出した。
「僕らが先月販売した同人誌『新白百合派』の感想アンケートが集まった」
 クーたちに回収したアンケートが配られる。
 本読み少女隊が持っている三つ目の顔――それは『同人文芸サークル』だった。隊員たちが小説を執筆して、自前の設備で同人誌を印刷している。それを自分の店で販売するのだ。
 クーも同人誌に参加しているが、そのことを知っているのは本読み少女隊のメンバーたちだけだ。ペンネームを使っているので、ラビッツの仲間たちにもバレる心配もない。格好付けて言えば、覆面作家集団といったところか。
「今月も評判がいいな。私も主催者として鼻が高い」
 隊長が満足そうに言った。
「その中でも抜群に好評なのが、アーサーの『白百合のきみに』だ!」
 アーサーとはクーのペンネームである。
 本読み少女隊では男性風の筆名を使うのが暗黙のルールだった。
 隊員たちから惜しみない拍手が送られる。
 クーは思わず恥ずかしくなってうつむき気味になった。
 隊長が同人誌のページをめくる。
「平凡な家庭出身の少女が、貴族のお嬢様と女学園で共同生活を送る。寄宿舎で芽生える身分も性別も越えた禁断の恋……まさにフォースランド王国の女学校を源流とする『白百合派』にふさわしい作品ではないか」
 アンケートにも『続きが気になる』とか『主人公とヒロインを会わせて欲しい』とか、続編を待ち望んでいる声が多く書かれている。支持者は老若男女の多岐にわたるが、特に多いのがクーと同じ世代の少女だった。
 隊員たちも口々にクーを褒め称えている。
 彼女はますます恥ずかしくなって顔を赤らめた。でも、感じているのは恥ずかしさだけではない。自分の作品が多くの人たちに受け入れられた嬉しさがそこにある。紙に書き出す前は単なる妄想だったものが、作品として評価されることはこの上ない幸せだ。
「……ところで、アーサーは首都の学校に通っていたらしいね?」
 隊長がクーに問いかける。
「あそこでは貴族と平民の軋轢が深いと聞いている。禁断の恋というやつも生まれるかもしれない。もしかして、首都の学校に通っていたときの実体験が『白百合のきみに』には生かされているのではないかな?」
 想像力が働いてか、隊員たちが「きゃーっ!」と嬉しい悲鳴を上げた。
 クーの脳裏に先輩であるエミリア・ローゼンアルトの姿が浮かぶ。彼女のおかげで学園生活では大いに助かった。再会してからも協力してもらったりして、エミリアとは今も親しい関係が続いている。
 だが、むしろ彼女というよりは……。
 クーはブンブンと首を横に振った。
「……みんな、からかわないで」
 彼女の不機嫌そうな声を聞いて、流石に本読み少女隊の仲間たちも静かになる。
 失敬、と隊長が小さく頭を下げた。
「創作の秘密はともかくとして、きみには渡さなければいけないものがあったな」
 彼女が一通の便せんを手渡してくる。
 便せんはそこらの文具店で売っているものではなくて、名だたるメーカーの高級品だ。作中に登場するお嬢様が使うような品である。この便せんだけでも結構な値段をしているが、それはクーにとってすでに見慣れたものだった。
「きみのファンから届いたファンレターだ。連載を開始してからずっとだから、これで一年近くも手紙を書いていることになるな。素晴らしい片思いじゃないか」
 片思いだなんて言ったせいで、隊員たちがまた黄色い声で騒ぎ始める。
 クーは若干辟易としながらも、ファンレターの中身を読みたくて仕方がなかった。

 ×

 書店での会議を終えたあと、クーは寄り道しないで帰宅することにした。
 アンフレックを囲っている壁を抜けて、南側の農道を歩いていく。季節も夏に近づいて、収穫を控えた小麦が金色に輝いていた。夕暮れの時間が迫っているので、もうすぐ幻想的な風景が見られることだろう。
 クーはサングラスを外して、便せんから取り出した手紙を読んでいた。
 ファンレターは毎度のことながら、とても丁寧に書かれている。季節の挨拶に始まって、作品の感想、これからの展開についての予想や希望、作者の健康を気遣う言葉など、とにかく精一杯の気持ちがしたためられているのだ。これだけの文章量を書くには、きっと一晩だけでは終わらない。
 その中でも一番気になるのが『私も先生の作品のような恋がしてみたいです』という一文である。クーはその一文を見てから、この手紙を書いてくれた相手のことが気になって仕方なくなっていた。
 恋!? ……恋だって!?
 クーは激しく心揺さぶられている自分に気づいた。これでは大騒ぎしていた本読み少女隊の隊員たちと変わらない。手紙に「恋がしてみたい」と書いているだけであり、決して「あなたに恋をしている」とは書いてない。勘違いもいいところだ。
 次の同人誌で呼びかけてみようか……。
 いやいや、そんなことをしてどうするのだ!
 相手は年齢も性別も分からない。見ず知らずの人と会ったりするのは危険だ。とはいえ、一年間も毎月ファンレターを送ってくれた相手でもある。そこまで熱心な人が何か悪さをするようにも思えない。
「ど、どうしよう……」
 クーの頭の中で思考が堂々巡りする。
 誰かに相談してみようかと考えて、最初にエルザが思い浮かんだ。
 だが、クーは心の中ですぐさま否定する。
 駄目だ、駄目だ。エルザに話したら一考の余地もなく切り捨てられる。彼女が自分を大切にしてくれていることは分かるけれど、相当お堅いところがある。今まで秘密にしていたことを怒るかもしれない。
 エルザのことを想うなら、自分はファンレターの相手と会うべきではないのだ。
 クーはそのことに気づいていながら、名前も知らない誰かと話したくて仕方がない。意志の弱さに自己嫌悪する。作品を褒められることや、体調を気遣われることが嬉しくて、ついつい気を許してしまうのだ。
 そして、何度目かの思考ループを迎えたときである。
 クーの視界がぼんやりと白く霞んだ。
 魔力爆弾の影響による『居眠り体質』であることは瞬時に分かった。
 だが、彼女にはそれに抵抗する手段がない。
 視界が急速にホワイトアウトして、クーの意識は奥深くに落ちていった。


 気がつくと小麦の匂いがした。
 誰かが大きな声で自分に呼びかけている。
 その声は徐々に鮮明になってきて、クーの耳にもハッキリと届くようになった。
「クー、聞こえてる? ねぇ、起きて!」
「……エルザ?」
 自分で言ってから、クーはやっと気づいた。
 どうやら居眠りしている間に、近くの小麦畑に迷い込んでしまったらしい。周囲は本当に小麦しかなくて、本当にド真ん中まで入り込んでしまったのだ。自分はそこに大の字で眠っていて、傍らにいるエルザがこちらに呼びかけている。
「ええと……どうしてここに?」
「あなたにしては帰りが遅いから、気になって探しに来たのよ」
 小麦畑に座り込んで、彼女はハンカチでクーの顔を拭った。
 普通の人間だったら、まさか小麦畑のド真ん中で眠りこけているとは思わない。クーの行動を理解しているエルザだからこそ、ここに入り込んだのかもしれないと思い至ったのだ。このまま見つからなかったら風邪を引いていたところである。
「……ごめん、エルザ」
 クーの気持ちが素直に言葉に出た。
 エルザが小首をかしげる。
「どうかしたの?」
「こんな場所まで探しに来させて……それから、昼間の紅茶のことも」
「なーんだ、そんなことを気にしていたの?」
 彼女はくすくすと笑った。
 怒っていないと分かって、クーはようやく許された気持ちになる。
 エルザが彼女に手をさしのべようとしたところで、
「あれ? これって……」
 傍らに落ちている手紙に気づいて、そちらを拾い上げた。
 ファンレターを読まれてしまう! と気づいたときにはもう遅い。起きあがろうとジタバタしているクーを余所にして、エルザは文面に目を通してしまっていた。
 途端、彼女の額にじわりと汗の玉が浮かぶ。
 エルザが焦った様子で言った。
「ちょ、ちょっと、どうしてあなたがこれを――」
 そして、声に出してしまってから失言したと気づいたらしい。
 彼女は急いで口を噤んだが、それの意図するところはクーにも分かってしまった。
 上半身を起こして問いかける。
「この手紙、エルザが書いたの?」
 エルザは迷いに迷って、視線を右往左往させた。
 だが、もはや誤魔化しても仕方ないと腹をくくる。
「私、アーサーさんの――クーの書いた小説が大好きなの。第一話を読んだ瞬間からファンになっていた。どうにかして気持ちを伝えたくて、応援したくて、気がついたら手紙を書いていたわ。それも毎月、新しい話を読むたびに……」
 彼女は耐えられなくなって顔を背けた。
「……私、恥ずかしい。だって、自分勝手な気持ちをずっとクーに押しつけていた。見ず知らずの人から手紙なんて送られてきて、クーだって嫌だったでしょう?」
「そんなっ……」
 クーはそっと彼女の肩に触れる。
「私はエルザの手紙に励まされた。この手紙を書いている人は、本当に自分のことを応援してくれているんだって感じた。それに……作品みたいな恋がしたいって書いてあって、私も手紙の主がすごく気になった」
 エルザが顔を上げた。
 クーは彼女のことを真っ直ぐに見る。
「だから、エルザには私の小説を読んで欲しい。感想も教えて。私は今までみたいに逃げたりしない。だって、このファンレターを書いたのがエルザだと分かって、私はもっとエルザのことが好きになったから……」
「好きって、あなた――」
 ぐっと言葉を飲み込んだエルザ。
 彼女は前屈みになって、クーの顔を覗き込んでくる。エルザはまるで上からのしかかるような体勢になった。目前に彼女の顔が迫る。夕焼けに照らされて、エルザはいつもよりもさらに魅力的に見える。
 吐息が頬に当たった。
 クーは覚悟をして目をつぶる。
 途端、耳元でエルザの声が聞こえてきた。
「……次の話、楽しみにしてるからね」
 そして、クーのすぐそばから彼女の気配が離れる。
 目を開けると、エルザはすでに手紙を片手に立っていた。
 手をさしのべられて、クーも遅れて立ち上がる。
 小麦畑の真ん中からは、黄金色に染まった耕作地を一望することができた。この時期、日没までの短い時間だけ見ることができる光景である。風になびく麦の穂は一面の海原を想像させる。ここにはクーとエルザの二人きりだ。
 エルザと手を繋いだまま、小麦畑の外に向かって歩いていく。
 クーは先導する彼女に言った。
「絶対に何かされると思った」
「えっ!?」
 エルザが驚きの声を上げて立ち止まる。
 夕日でだいぶ誤魔化されているが、彼女の顔が赤くなっているのは明白だった。
「……そ、それを言っちゃうの?」
「言っちゃう。あやふやなのは嫌だから」
 繋いでいる手がじっとりと汗に濡れている。
 それがどっちの汗なのかは分からない。というか、きっと両方だ。
 エルザの腕を抱き寄せて、クーは彼女の耳元で囁いた。
「あんな感じに今度なったら、そのときは私の方から何かするから」
「そ、それなら望むところよ……」
 意を決して気持ちに応えてくれるエルザ。
 本当は今すぐにでも何かしてしまいたいところだが、クーはその気持ちをグッと堪えた。そんなことをしてしまったら、きっと仲間たちの顔を見られなくなる。夕食くらいはみんなで楽しく済ませたいところだ。


(おしまい)


母さんが好きでたまらない、ただそれだけの話。

 母さんが好きでたまらない、ただそれだけの話。  文:すみやき


「あなた達のお父さんは本当にいい男だったんだからー」
 夜の一〇時。いつものように酔っぱらった母さんは、いつものようにのろけ話を始める。
「はいはい、また始まったー」
 僕と姉さんはそろってリビングのテーブルに腰を下ろす。酔っ払いの相手というものは基本的にめんどくさいとされているけど、母さんの場合は本当に幸せそうに酔っ払うので僕も姉さんも誰に言われるでもなく、それに付き合うことにしている。
「そもそもの出会いはね……エロ本の巻末に載ってる開運ブレスレットのアルバイトでね。私がセフレAの写真モデルをしていた時のことだったの」
 毎回思うけどなんだそのバイト。あと実の子の前でエロ本とかセフレとか言うな。あれってやっぱりバリバリのやらせなのだね。まあ、今後買うことはないと思うけど。
「それでね! 無職で借金まみれの中年Cのモデルだった父さんと一緒になったの」
 無職で借金まみれの中年Cのモデルに選ばれるような男がどうしたら「いい男」だったのかということがずっと気になってはいる。だが、ツッコミをしないで、それを黙っておくのが我々姉弟のエチケットというかマナーだった。
「その頃のお父さんはね。こういったブラックなバイトでなんとか生活しながらエロ本の読書コーナーの職人を続けていたの」
 これほど職人という言葉がなさけなく感じることがあるだろうか。いや、ない。
「私は夢に向かって一直線な若者のお父さんに一目惚れしたわ。その時の若者にはないような一本気があるというか……」
 一直線に向かってるのはわかるけど、どこへ向かっているかわからない典型的な例である。そりゃあ、その当時の若者には少ないタイプの人間だろう。
「そして、お父さんのハガキが載らない雑誌は長続きしないとまで言われるようになったの。お父さんの夢は叶ったってわけ」
 ここまで言われてもこの男の夢とやらがよくわからない。夢ってそんなにも安売りされているものなのだろうか。
「そして、なんやかんやあってあなたたちが生まれた」
 子供の扱いがここまで雑なのも珍しいが、おかげで特にひねくれることなくここまで育ってしまった。実にありがたい。

    ◇

 酔いつぶれた母さんを部屋に運ぶのは僕の仕事だった。母さんはとても軽い。だからいわゆる「お姫様だっこ」が可能だ。
 一階のリビングから二階の母の自室までのお姫様だっこはいい筋トレになる。おかげで普段運動をやっていない僕が学校の体力テストでそこそこ上位の成績を納めることができている。実にありがたい。
 よく授業参観で「お母さんに混じって一人だけお姉さんが来てる」と言われることがある。
 それは決まって僕の母さんのことで、よく友達から「おかげで俺の母ちゃんが公開処刑状態だ! だからお前は俺に学食をおごるべきだ! さあ!」なんてことを言われる。
 だから僕は決まって彼にワンパンを加えてやると、まるで小動物のような鳴き声をあげて倒れるので、実際に学食をおごったことはない。僕が非暴力を訴える日本版ガンジーだとしたら僕はクラスメイトに学食をおごりすぎて消費者金融に走らなければいけなくなる。
そうなると実に困る。中学生の僕に消費者金融側が金を貸してくれるかはよくわからないが、とにかく困る。

 母さんは若い。
姉さんを一八歳、僕を二〇歳で生んだから、年齢的にも他のお母さん方よりも若い方だが、同じ年齢の女性と比べても母さんは見た目が若い。というより幼いと言ったほうがいいかもしれない。
 実際、僕と姉さんと母さんの三人家族は、端から見ると三姉弟にしか見られない。両親はいないけど姉弟三人、元気に暮らしてます! みたいに見えるらしく、近所に引っ越してくる人は、やたらと気にかけてごっそりとお裾分けをしてきてくれる。
 それはそれで家計が助かるので、母さんはありがたくいただくのだが、いざ母親と子供二人だと知るとごっそりきていたお裾分けがちょびっとになったりする。
 ちょびっとでもお裾分けが続くのはシングルマザー補正がかかっているから、と母さんは言っている。まあ、理由はどうあれお裾分けはどんなものであろうとありがたくいただくことにしている。それは家族の数少ないルールの一つだった。

 なんでかわからないけど、母さんからはいつもいい匂いがする。そもそも、女の人からはいい匂いがするものだと思う。
なんでいい匂いがするのかがどうしても知りたくて、一回クラスメイトの女子に聞いたことがある。
「女の子っていい匂いするよね」
 僕がそう言うと女子は少し照れたような顔をする。別に僕は彼女を恥ずかしがらせようとか、照れさせようとか、そんなつもりは一切なくて、ただただ日頃思っている疑問をぶつけただけなのだけれど、彼女はもじもじしてなかなか答えない。
「えっと……あの、シャンプーとかの匂いだと思うよ?」
 彼女はそれだけ言うと顔を赤らめて僕の前から去っていってしまった。
 女の人のいい匂いはシャンプーかー。と、その時は勝手に納得していたのだけれど、よくよく考えてみれば、僕の家のシャンプーはいわゆる家族みんなで使える種類のやつなのだ。
母さんが使っているシャンプーは姉さんも使っているわけで、当然僕も使っているわけである。
 自分の匂いをかいでみても、やっぱり母さんのような匂いはしなかった。母さんはシャンプーに負けないくらいのいい匂いがする。その正体が何なのかということはよくわからないけど、その匂いが僕は好きだった。
 母さんの髪は本当にさらさらだ。姉さんがけっこうなくせっ毛の中、母さんがここまでさらさらストレートなのかがよくわからない。さらさらのストレートからは、嗅ぎなれたシャンプーの匂いがする。
 たしかにこれはこれでいい匂いなのだが、正体不明のいい匂いはこのシャンプーの匂いと喧嘩しないところがいい。
 ベッドに母さんを下ろすと、僕は部屋の電気を小さくする。真っ暗にしていると怖いのだと母さんは言う。そんなところが無性に愛らしい。
 顔を近づけるとワインの香りが漂ってくる。口からお酒の匂いが漂ってくる場合、大概の人が「お酒臭い」という表現をする。
 だけど、僕には「臭く」はなかった。それどころか少し好みの匂いだ。もしかしたら僕は将来酒豪になるのかもしれない。

 僕はそのまま唇を母さんに重ねてみる。

 母さんの唇からはワインのほろ苦さとつまんでいたドライいちじくの甘酸っぱさが相まっていて、なんだかすごく心地が良い味がした。

 僕は母さんのことが好きだ。

 それは、家族としての好き、ではなく、女性として――の話だ。

     ◇

「母さん、ご飯できたってー」

 二階に上がって母さんを呼ぶ。
 高校生の姉さんと中学生の僕、そして会社帰りの母さんがそろって夕食をとるのは決まって夜の八時だ。
 一般的な家庭と比べたら遅いかもしれないけど、高校生の姉と部活帰りの僕と仕事終わりの母親が揃う時間といったらどうしてもそのくらいの時間になってしまう。
 夕食の支度をするのは姉さんの役目で、母さんはだいたい部屋でゆったりと仕事の疲れを癒やしている。
 これは母さんがズボラなわけではない。姉さんが馬鹿の付くくらいの料理オタクで、自分が夕飯を作らないと気が済まないタチだからである。
「母さん?」
 返事がないので僕は部屋に入る。
 母さんはベッドに寝っ転がって寝息をたてている。今日は木曜日、疲れもたまっていたのだろう。
 このまま、寝かせてやろうと思って毛布をかけようとした。すると、うっすら目を開けた母さんと目が合う。
「あ、寝てた?」

「うん、がっつり。ご飯は?」
「……食べる」
 どうやら母さんは眠気より食い気のようだ。そんなところも母さんらしくて好きだ。
 母さんが部屋から降りていくと僕はベッドに寝っ転がってみる。うん、やっぱり母さんの匂いがする。
 シャンプーだけじゃないとても好きな匂い。そんな風に母さんのベッドでゴロゴロしていると、ベッド横に置いてある写真立ての中の人と目が合った。
 ……何もそんな怖い顔で睨まなくてもいいじゃないか。
 写真に写っているのは、死んだ僕らの父親。スーツを着て、短髪に細い銀縁の眼鏡。
 一見したらどうみてもカタギの人間ではない。
 僕はその写真の男を睨み付けてみる。見ればみるほど、怖い男だ。なんで母さんがこんな男と一緒になったかわからない。
 しばらく見続けると自分の中で心がもやもやしてくる。何度見ても良い気分ではない。
 この気分は他の人には理解できないだろう。だって、わからないだろ? 
 かつての自分――、生前の写真を見てる今の僕の気持ちなんて――。

     ◇

 生まれ変わり、なんて物語の中の話だと思っていた。
 前世、とか輪廻転生、とか、そんなものはありえないと思っていた。
 だって、そうじゃない。人は死んだらそれで終わりだから。体を焼かれて骨になって、それでおしまい。
 死んだ後の世界もない。天国? 地獄? そんなもの人間が勝手に作ったものじゃない。
 誰も天国に行ったこともないし、地獄も行ったこともない。でもみんな死後の世界があることは信じてる。なんだか、それが嫌だった。
 そのことにつけ込んで金稼ぎをしてる連中は最も僕が嫌いな人種だった。
 ただ、僕は一回だけ死後の世界の存在を望んだことがある。
 交通事故で死んだ――あの日のこと。
 もう、僕は死ぬことはわかっていた。もう自分は再び元の生活に戻れないことは自分自身がわかった。
 大好きな妻の声は聞こえる。
 その妻の姿を見ることも、返事を返すこともできない。ただ、だんだん意識が遠のくことだけがわかる。

 その時初めて神頼みをした。今まで神も仏もいないと思ってた。
だけど、祈らずにはいられなかった。このまま妻と会えなくなることが僕には耐えられなかった。
 頼むよ。また、妻に会わせてくれよ。こんな体じゃなくてもいい。動物でも魚でも草でも土でもなんでもいいよ。
 娘も生まれたばっかりなのに……いくらなんでもこのままじゃ……僕は、僕は。
 そのまま、意識を失った僕は死ぬことになる。もちろんのことだが、意識がなくなってから妻と生まれたばっかりの娘がどういう日々を過ごしたかは知らない。
 ただ、僕が思ってたよりも死後というのはいろいろあるらしい。だって、僕は望んだ通りに愛する妻と再会することになったのだから。

 大好きな妻の……子どもとして。

 愛する妻は「母さん」に。そして、生まれたばかりの娘は「姉さん」になった。生まれたばっかりであんなに手がかかった娘は、姉として僕の面倒を見てくれた。
今まで苦労ばかりかけていた妻には、息子としてますます苦労をかけてしまった。

 いつも明るく振る舞ってくれる妻を見るのが逆に辛かった。
元々、引っ込み思案で内気だった妻も僕が死んでからこんなにも変わってしまった。その原因は紛れもなく僕であり、無理をしているとわかるのはおそらく僕だけだ。
 だから、僕はなるべく妻――いや、母さんに苦労をかけないように生きることを決めた。だからできるかぎり勉強をしたし、生徒会にも入った。
 といっても前世の記憶がそのままな僕にとって小中学校の勉強は楽勝だったし、世間の荒波にもまれていた経験から生徒会として学校をまとめることは難しいことではなかった。
 そんな生活をやってると周りの女子も僕を放ってはおかなかった。
 この頃ってだいたい勉強ができる、とか運動ができる、とかそれだけでモテるやつがいたっけ、なんてことを思い出していた。まさか自分がそういう役回りになるとは思わなかったけどさ。
 だけど、僕はどう考えても周りの女子には興味がわかなかった。

 それもそうだ。二〇歳以上年の離れた子どもに興味を持つほど僕はロリコンではないから。
 僕がいつも母さんの夜の晩酌に付き合うのは理由がある。お酒を飲んでる時の彼女の顔が「母さん」から「妻」に戻るからである。
 やっぱり一〇年たって母親になっても、彼女は彼女のまま何も変わらない。前から幼い容姿ではあったんだけど、今もずっと大好きだった妻そのものである。
 酔った彼女は僕の話ばかりする。ただ、いつもいつも僕との出会いや僕の職業なんかはぼやかしてしゃべる。
 彼女はもしかして僕の死をまだ受け入れられていないのではないか、と思うことがある。
 もしかしたら元の僕を思い出したくないのかもしれない。
 僕はいるのに。目の前にいるのに。あの時と同じ、中身はそのままの僕がいるのに。
 そりゃ短髪で銀縁眼鏡の強面の姿の僕ではないけど。
 短髪で銀縁眼鏡の強面の姿だけど、実は小心者で内気で図書館の司書として働いていたあの頃の姿ではないけど。

 あの頃、君を好きだった僕は、今でも君の目の前にいるのに――。なんで君は僕を忘れようとしているのだろう。
 何度も本当のことを言ってしまおうか、と思った。だけどこのことを言って何になると言うのだろう。
 まず、信じてもらえるわけがない。気味悪がられるに決まってる。
 そして、信じてもらってどうなると言うのだ。だって彼女は僕の母親で、僕は彼女の息子なのだ。
 あの頃の――、夫だった僕と妻だった彼女には、もう戻れない。

 僕は決まったように酔っ払った彼女をベッドに運ぶ。そして、去り際に口づけする。
 これが僕が今できる精一杯だった。これ以上踏み込んだら全てが壊れてしまうのはわかっていた。そもそも元をたどれば失った命だ。また彼女に再会できて、こうやって一緒に暮らせているのだ。これ以上何を望むと言うのだろう。
 僕は彼女の息子で、彼女は僕の母親、ただ、それだけの関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。

     ◇

 日曜日。

 部活も休みだった僕は、ベランダで洗濯物を干していた。洗濯物、洗い物、掃除は僕の仕事だった。特に抵抗なくこの作業を続けられるのは、生前もこれらの家事は僕の担当だったからだ。
 洗濯物を全て干し終わった僕は、縁側に座ってぼんやり空を見上げる。
 もしも僕が今の体に生まれなかったら僕はどうなっていたんだろう。よく、亡くなった人が空から見守ってる――なんてイメージが映画やドラマでよく見るけど本当にそうなのだろうか。
 僕もあそこにいたのかもしれない。そして、何かの拍子でこの家の子どもになったのかもしれない。
 生前もわからないことだらけだった。だけど、一回死んでまたこうやって生きている今でもわからないことだらけだ。
 もしかしたら、この世界は僕が思ってるよりずっとずっとわからないことだらけなのかもしれない。

「お疲れ様」

 振り返ると、そこにいたのは姉さんだった。手にはマグカップが二人分。
 そして、珈琲の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「ありがと」
 姉さんは僕の隣に座る。マグカップを受け取ると僕は静かに珈琲をすする。
 ブラックなのに――どこか甘みを感じる。もう、砂糖もミルクも必要ない。
 姉さんの珈琲は本当に素晴らしいと思う。豆を焙煎して、挽くのはもちろん豆選びからブレンドまでも自分でやってしまう。
 お店に出してもおかしくないレベル。それどころか下手なレストランの珈琲なんかよりよっぽど美味しい。
 姉さんは、本当に料理のことばっかり考えてるのかもしれない。
 これだけ美味しい珈琲を入れられるというのももちろんだけど、日頃作ってくれる料理も美味しいだけじゃなくて、調理時間や材料の配分などに無駄がない。
 花嫁修業なんかではない。むしろ、彼女には恋人どころか友人と呼べる存在がいない……と思う。少なくとも僕は知らない。
 基本的に学校から帰ってくると家でお菓子作りだのパン作りだのを始めている。夕飯の準備の他に――である。
 もう高校生なのに男っ気ひとつない姉は弟として少し心配である。

 ――いや、父としても。
「何見てたの?」
「ん……空」
「ロマンチストだね。君は。さっさと女の子にモテればいい。大貧民とかしてパスタ作って、激おこぷんぷんまるーで家庭的な女子と結婚でもすればいい」
 姉は女性に――というより他人にやたら厳しい。誰に似たのだろう。……僕似じゃないことだけは祈る。
 珈琲を見ながら僕はまた空を見上げる。すると、姉さんもまた空を見上げている。
「ねえ、あの雲がさ。食べられたらいいと思うよね」
「姉さんらしいね。綿飴みたいに」
「綿飴もいいけど、アイスクリームがいい。あの雲全部がアイスクリームなの。もしも私の手が空まで届いたらいいな、って思う」
「いつでも食べられるから」
「そう、いつもみたいにうちで夕飯を食べてるじゃない。甘い物欲しいなーと思ったら私が手を伸ばして雲のアイスをスプーンですくうの。そしたらみんなでお腹いっぱいアイスクリームが食べられるよ」
「お腹壊しそうじゃない?」
「いっぱいのアイスに負けない胃腸を作りなさい」
「いや、酸性雨とかがまじってるでしょ。雲のアイス」
「むー! 若者のくせに夢がない! 勉強のしすぎだ。若者は野山を駆けまわりカブトムシやクワガタをとって日が暮れろ!」
「うーん。もう中学生だしなあ」
「そんなに大人ぶっちゃって。そんな男の子はモテないんだぞ」
 さっきからモテろって言ったりモテないって言ったり、僕はどっちサイドで青春を過ごせばいいのやら。
「ねえ」
 僕が珈琲を飲み干した時、姉さんが僕の頭に手をぽん、と乗せてきた。

「生まれ変わりって信じる?」

 珈琲を飲み終わった後で本当によかった。もしもまだ飲み終わってなかったら口の中の珈琲を思わず吹き出してしまっていただろう。
「前世って信じる?」
 僕は何も答えなかった。黙ってマグカップを口元に傾ける。もう、珈琲は入ってないのに。
 ただ、口元を姉さんに見られるのが怖かった。おそらくぶるぶると震えていると思うから。
「私はね。前世の記憶があるの。前世の私は今と同じ高校生の女の子だった」
 僕はただただ平常を装った。まばたきが多くならないように。貧乏ゆすりもしないように。
 何でだろう。普通でいることがこんなにも難しいなんて。
「私には好きな人がいたの。おそらく向こうも私のことが好きだった。だけど、前世の私は病気で長く生きることができなかった。彼の悲しむ顔が見たくなくって私は黙って学校をやめた。そして、私は黙って――死んだ」
 口元のマグカップが冷たい。冷たさで口が切れてしまうかと思うほど。口だけじゃなくて僕の体全体や心まですっと切れてしまうような、そんな感覚を覚える。
「そして、私は彼の前からいなくなるつもりだった。だけど、神様のいたずらで私は生まれ変わるの。彼の娘として――」
 頭の中に勝手に押し込んでいた高校時代が脳中にこぼれ、広がる。
 彼女と僕は、お互い友達がいなくて、いつも隣り合わせの席で本を読んでいて――、中々しゃべりかけられなくって、だけど好きで好きでしょうがなくって、どうにかしゃべりかけて、だけど君は僕のことを怖がっていて。
 思い切って告白して、そしたらなぜか僕のほうが泣いてしまって。

 それで彼女は急に僕の前からいなくなった。
「彼は私を愛してくれた。娘として……。相変わらずの強面で私をおっかなびっくり接してくれた。ぶっきらぼうだけど優しかった。私は思ったの。いつか大きくなったら――。彼と出会った歳になったら、生まれ変わりであることを告白しようって。だけど、彼――父さんは死んじゃった。私がしゃべれるようになる前に死んじゃった」
 姉さんの細くて長い指が僕の髪に絡む。
「君は本当に父さんそっくりだね。違うのはこの髪くらいかな。君は母さん似だもんね。父さんみたいに癖がひとつもない。さらさらだ」
 マグカップの冷たさに耐えきれずに僕はマグカップを足下に置く。
 すると、僕の冷たい唇に暖かくて、柔らかい何かがぶつかった。
 姉さんは僕をぎゅうっと抱きしめる。姉さんの唇は甘くて――そして苦い。
 母さんとはまた違ったほろ苦さがあった。
 姉さんの火照った顔を見ているとこっちまで熱くなってくる。さっきあんなに口元が冷たかったのに、今ではこんなにも暖かい。
「――なんて話を考えてみたんだけど、面白かった?」
 姉さんの口元は涎で潤っている。その涎が僕のものか彼女のものかはわからない。ただ、どっちにしても珈琲のほろ苦さがあるのは確かだ。
「姉さんは小説家にでもなればいい。料理ができて小説も書けるなんて男の子がほっとかないよ」
「……ねえ、今の話」
「わかってるよ。未来の作家さんの処女作の冒頭でしょ。早く部屋に戻って新人賞にでも応募しなよ」
「……うん。ごめん」
 何がどう「ごめん」なのかはわからない。僕は、二つのマグカップを流し台に片付ける未来の作家さんの背中をみつめた。
 あの背中……そしてあの唇。
 おそらく、姉さんとキスをしている時の僕の顔は、前世の高校時代にタイムスリップしていたんだと思う。その時の顔を姉さんに見られなくて本当によかったと、僕は空を見ながら胸をなで下ろす。

     ◇

 やっぱり、キスの感触っていうのは人によって違うのだと思う。母さんの唇の暖かさは姉さんのそれとまた違ったものがある。

 僕は、今まで愛した女の人は二人だけで。今日はその愛した女の人二人と唇を重ねた。
この感情はなんだろう。幸福とは違う。欲情ともまた違う。
 なんとも言えない切なさとなんとも言えない寂しさと、どこからくるかわからないこのもわもわした気持ちよさ。
 どうにかなってしまいそうだった。だからいつもは一瞬ですませる母さんとのキスもだいぶ長くなってしまっている。
「ん……」
やばい。母さんが起きる。
 僕は離れようとすると、母さんは腕をゆっくりと僕の背中にまわす。
「……とうさん」
 心臓が止まるかと思った。とりあえず、自分を落ち着かせてみる。
 母さんは酔っているんだ。さっさとこの部屋から出なければ。
 そんなことを考えている余裕は正直なかった。
 僕は母さんの胸に引き寄せられる。
 そして、初めて僕は母さんに唇を押しつけられる。こんなに積極的な彼女は本当に初めてだった。
 酒の力だろうか。
 唇を重ね合いながらも僕は母さんと抱きあい続けた。
 こんなにも彼女の匂いに包まれたのはどれくらいぶりだろう。
 もっともっと彼女を抱きしめてやればよかった。死ぬ前はそう思っていた。
 そのことを思い出して僕は、きつくきつく彼女を抱きしめる。彼女の息が荒くなるのがわかった。
 僕が腕の力を弱める。そして、僕はふと我に返った。

 そして、僕はものすごい後悔に襲われる。

 何で僕は気がつかなかったんだろう。この珈琲の匂いに。
 ドアを見やると、床にひとつのマグカップがおかれていた。中には湯気のたつ珈琲。そして、階段を下りていく音が聞こえた。
 珈琲の香りが広がる部屋の中、僕はただその場に座り込む。
しばらくして僕は珈琲をすする。ぬるかった。
 そして、いつもあるはずの甘さは感じられず、ただただ苦みが広がるだけだった。


(了)


物語と風

 物語と風  文:須江岳史

 その世界では、物質と物語の価値が転倒していました。石油車やダムや宇宙基地よりも、架空の世界での冒険譚や同性愛や殺人事件が、高値で売り買いされていました。
 世界がそのように作り替えられた理由の一つは、食糧難でしょう。そして食糧難の原因は、富裕層の偏食です。富裕層は、二〇〇〇年代生まれの高齢者が多くを占めています。彼らは、イナゴや蚊やコックローチなどの優良な動物性タンパク質を、なぜ気味悪がって口にしようとはしません。それらの昆虫を、粉砕した上で一度農場に撒き、大豆などの無味乾燥な植物性タンパク質に変換したものを、やっと富裕層は食料として摂取します。そのままでも十分に地球人口をまかなっていけるだけのタンパク質を、彼らは劣化・減量させているのでした。結果、人類全体で見た総活動量は減少します。物質世界を歩いたりそこにあるものに触れたりするためのエネルギーが、人類には足りなくなったのです。誰も飢えさせずに人類を存続させるには、人類はカロリーを多大に消費する腕や脚を捨てなければならなくなりました。
 富裕層は、美化された過去と彼らが順応できずにいる現在とを比べ、現在を、生きるには過酷すぎる時代だと考えていました。なので彼らは、喜んで四肢を捨て、電算機が造る仮想世界に没入しました。仮想世界に没入した人間が消費するエネルギーは、現実世界を生きる人の三割程度で済みます。
 富裕層が落とすカネを求めて、じきに中間層や低所得層も仮想世界を生活の足場にし始めました。富裕層が見る夢を彩る構築物をモデリングしたり、夢を賑やかせるモブキャストになったり。
 私も、仮想世界を消費する側ではなく造る側の人間です。物語建築者(ストーリーアーキテクト)、それが私の仕事です。顧客の日常に、一日や一ヶ月や一年というスパンで起伏を与える物語を構築するのが役目です。
 アーキテクトというと、数少ない選ばれた者の仕事のように思われている節があります。物語の主役になる顧客の心理状態を先読みしてキャストに指示を与えていく指令塔だと。たしかに、指示は出します。ですが、私が一歩退いた場所から物語全体を眺めているのは、私に特別な才能があるからではなく、キャストを生業にしている人たちのような臨機応変さが欠けているからなのです。アーキテクトがいない物語企業も少なからずありますよね。キャストだけで、即興で物語を造っていく人たちが。たしかに、アーキテクトは珍しい仕事かもしれません。しかし、正規分布をなす集団の中では偏差値七〇と偏差値三〇が同じくらい珍しいことを思い出してください。
 
 だから、ディレクターが私に仕事を依頼したときには驚きました。私なんかがディレクターの仕事を引き受ける資格があるのかと。
 あなたは仮想現実の中でのディレクターを見たことがないのでしたね。仮想世界に没入したことがある人なら、誰でも彼を知っています。彼、と呼びましたが、ディレクターは電算機人格なので、男性でも女性でもありません。人間では考えられないほど高い友好性を持っていて、友人は低所得層から富裕層まで幅広く、しかもその一人一人の顔と名前を絶対に間違えないのです。私も、ディレクターの友人の一人です。ディレクターが普段、どんな仕事をしているのか全体を把握している人はあまりいませんが、私の認識をいえば、彼は個人と個人を結びつけるコーディネーターのような役割をしているようでした。
 その日のディレクターのアバターは、モーニングを着た中年男性でした。拡張現実から切り離された仮想世界のニューヨーク、その一角にある喫茶店で、彼に話しかけられました。そしてしばらく会話を楽しんだあとで、彼は本題を切り出しました。
「生まれたばかりのときに事故にあってね、仮想世界に没入できない子がいるの」
 ディレクターは男性のアバターを使っているのに、どこか女性的な口調でした。
「無脳症?」
 と、私は問いかけました。人間が仮想世界に没入できないとすれば、インターフェイスが脳波を関知できない、つまりは脳が無いとしか思い当たりませんでした。
「かつてはなかばそうだったともいえなくもないわ」
 私が首を傾げると、ディレクターは説明を続けました。
「今は、わずかに手足の先に麻痺が残っている以外は健常者と変わらないわ。食欲も旺盛。ケンタッキーのフライドコックローチが大好きな、ありふれたティーネイジャーよ。でもね、脳の左半球大部分を失っているの。出産時の医療事故で」
「会話はできるの?」
「あなたよりはちょっとおしゃべりかもしれないわ。私よりは静か」
「左脳がないのに?」
「そうよ。子供の脳の可塑性ってやつよね。彼の右脳は、一般の人の一・五倍はあるわ。失われた左脳の役割を、右脳が補っているみたいなの。大人になってから怪我したんじゃ、そこまでの回復が見込めなかったわ。でも、大人じゃないってところが、問題なのよ」
「よくわからない。脳があるなら脳波が取れるはずでしょ? どうして仮想世界に没入できないの」
「能力の点では、彼は仮想世界に没入できるわ。脳の機能分布はほかの一般人とは違うでしょうけど、そんなものは開頭して電極で走査すればすぐにマッピングできるわ。ただ、権利の面で、彼は没入できない。開頭のような侵襲的な手術が許されていないから」
「それ、どこの後進国の話?」
「ここよ。アメリカ。アメリカの南部、テキサス州。そこの州法では、生存のために必要なわけではない侵襲的な医療行為は、一五歳以上になったうえで自己判断した場合にしか受けられないの。いまの時代、仮想世界に没入せずに生きていくことは難しいはずだけどね。そして、もうすぐ問題の一五歳がくるわ」
「じゃあ、それでおしまいじゃない。私の役目なんてあるかな? バースデーケーキが、小麦粉でできた本物だっていうなら、食べる手伝いを名乗り出るけど」
「周囲の人間がみんな仮想世界に没入しているなかで、一五歳から先の人生までこれまで通りに現実に取り残されたままでいることなんて、我慢できないはずよ。彼は必ず、開頭手術を選び、すぐに仮想世界にダイブするわ。一五年も生きてきて初めて見る仮想世界に、彼は絶対に戸惑う。だって、仮想世界は現実世界よりずっとずっと、物語に溢れているのだもの。だから、仮想世界に溢れる物語がどういうものか、彼にあらかじめ説明しといてあげてほしいのよ。あなたは適任よ。アーキテクトとして、物語の構造を芯まで理解しているのだから」
 ディレクターが提示した報酬は、私の月収の五倍でした。断る理由がありませんでした。たった一つをのぞいて。
「テキサス……飛行機に乗る? 現実の飛行機って、墜落したら、死ぬよ?」
「その心配はないわ。テキサスにある私のボディを一つ貸してあげる。仮想現実のアバターに没入する要領でボディに没入すれば、移動の手間も墜落の心配もないわ」
 そうして、私がここに来ることが決まりました。
 ところで、質問です。ディレクターと私がニューヨークの喫茶店で話している間、ガラスの外の通りでいくつの車が爆発したか、想像がつきますか。ゼロ? 現実世界でなら、そうでしょう。しかし、私がいたニューヨークは、仮想世界のニューヨークです。富裕層を楽しませるために、一〇〇台はくだらない数の車が恐竜に踏みつぶされ、火を噴きました。はじめのうちはびっくりしてしまうでしょうが、仮想世界はそういったものなのだと、理解しておいてください。

 そして、あなたと初めて会ったあの日が来ました。
 仮想現実に入るのと同じ装置を頭にかぶってベッドに横たわりました。ただし、没入のIDとパスワードは、ディレクターから教わったものを入力します。仮想現実のアバターではなく、現実空間にある機械のボディに没入するのです。
 私は、ベッドに横たえられていました。部屋は白を基調としていて、その清潔さで病室なのだとわかりました。窓からの朝日は淡く青みを帯びていました。私が普段没入していた仮想現実はニューヨークも東京もパリもグリニッジ時にあわせて太陽が回るように設定されていたので、昼から突然に朝に時間が戻ったのには面食らいました。
 あなたがいる場所を書いたメモを洗面台に残しておくといわれていたので、私はそこを探しました。といっても個室の病室だったので、視線をわずかに傾けるだけで、すぐにバスルームは見つかりました。
 ベッドからバスルームまでの数歩で、ディレクターが貸してくれたボディのスペックの高さを思い知らされました。アシストされた自転車にでも乗っているかのように、すいすいと体が前に進むのです。私のアバターに設定されていた値よりも大きな力を、現実のバッテリーとモーターで作り出しているのです。とても清々しい気分になりました。健やかな精神は健やかな体に宿るといったのは誰でしたっけ。
 バスルームの扉を開けると、洗面台の鏡に私が映っていました。本物の私よりずっと若い、少女の姿。ディレクターが、若いあなたと話すのに相応しいボディを選んでくれたのでしょう。
 ちなみに、あなたの居場所は付箋紙で私の額に貼ってありました。ディレクターはいたずら好きな人なのです。その付箋紙で、あなたが隣の病室にいることを知りました。
 胸がどきりとしました。思えば、私はいつもアーキテクトとして一歩退いた場所にいて、キャストたちのように顧客に面と向かって仕事をしたことがないのです。しかし、今回のディレクターの依頼は、あなたと直接に接触することそれ自体です。月収の五倍の報酬に乗せられて、まずいことに足を踏み入れてしまったなと思いました。私は内向的な性格なのです。友人はディレクターを入れても片手で数えられます。
 それでも、私は大人の女性なのです。一五歳にもならないあなたに気後れしてはいけないのです。頬を叩いて気持ちに火をつけて、病室を出ました。あなたの病室の前に立ち、深呼吸をしてからノックしました。
「入って、ディレクトラ」
 あなたの声は、透き通った少年の声でした。ディレクターをもじったディレクトラというのが、いまの私の名前のようでした。
 部屋に入る前にもう一度呼吸を整えようとしましたが、そうする間もなく、遠隔操作で解錠された扉は静かにスライドしたのでした。
 あなたの部屋は、私が寝ていた病室と同じ作りをしていました。ベッドと、清潔な白さをした壁や床と、朝日の淡い青さ。あなたは寝ている姿勢から上体を起こすとベッドの縁に腰掛け、手の仕草で私に隣に座るように促しました。
「本物のディレクトラから話は聞いてる。俺に、仮想現実がどんなものか教えてくれるんだってね」
 私は平静を装いながら、さも当然のようにあなたの隣に腰をおろしました。年上らしく振る舞おうとつとめました。
 そして私たちは、お互いの名前を教えあいましたね。それでもあなたは、どうしても私をディレクトラと呼び続けてしまうのでした。仮想現実に没入したことのないあなたは、ディレクトラという器に入る精神が入れ替え可能なことを、理屈ではわかったつもりでいても、心の根の部分では理解できていないのでしょう。
 あなたと会話をしている間、私はふわふわとした浮遊感を味わっていました。それはちょうど、幼いときに初めて仮想現実に降りたときの感覚に似ていました。私は、ディレクトラとして現実にいるというのに。浮遊感の原因は、あなたの外見でした。整った顔。優れて白い肌。頬に差す健康的な血の赤さ。あなたは現実の存在だというのに、あなたを目の前にしていると、仮想現実のアバターと対面しているような気分になってくるのです。それも、富裕層が使っている美しいアバター、特別仕様の一級品と。
「ここ、病院だよね」
 胸の高鳴りを隠すために、私は当たり障りのない質問をしました。動揺する必要はないのです。私はあなたより年上なのだから。
「うん。見ての通りに」
 あなたの声は、どんな当たり前の受け答えでも、私には音楽のように聞こえるのでした。
 ディレクターは、あなたが脳に大きく傷を負っているといいました。手足に麻痺が残っているとも。しかし、あなたの外見や仕草を見ていると、ディレクターのいったことが本当か、疑わしくなってくるのです。
「どこか悪いところがあるようには見えないんだけど」
「病気だったら、自宅療養で済んでたんじゃないかな。見ての通り、俺はどこも悪くない。だからこそ、俺を縛り付けておく場所が必要になる。動き回るってことはお腹が空くってことだからね。今は、毎日コックローチをもりもり食べていい時代じゃないから」
「それじゃあ、現実はすごく退屈なんじゃない?」
「わかってるならなにか話してよ。今日のディレクトラはいつもの百倍楽しいはずだって、いつものディレクトラがいってた」
「えっ。百倍」
 繰り返しになりますが、私がキャストではなくアーキテクトなのは、人を楽しませる臨機応変さに欠けているからです。そんな私が、あのディレクターよりもあなたを楽しませるなんて、絶対にできないと思いました。
 しかし、私はあなたと会うこの日一日で、月収の五倍の報酬を受け取るのです。そう考えれば、百倍というのは、案外妥当な数字なのかもしれません。私は咳払いを一つ置いて、心を奮い立たせました。
「百倍楽しいかはわからない。けど、百倍ためになる話じゃないかな。あなたが未体験なことを話すために、私はここに来たの」
「性教育?」
 私が目を見開くのを見ると、あなたはケラケラと笑うのでした。
「俺がディレクトラを教育してあげてもいいけど」
「……それも、確かに大切なことかもしれない。でも、それ以上に大切なことかもしれない。恋人はいなくても生きていけるけど、私がこれから話すことを知らなきゃ、大人になっても仕事にありつくのは難しいわ」
「ねえ、ディレクトラは彼氏はいるの?」
「うるさい」
 ああ、あなたは、年相応に男の子なのでした。でも、私は思春期の頃に同世代の男の子と話したことはほとんどありませんでした。一方通行のはずの時間が、ディレクターから体を借りあなたと出会ったことで、巻き戻ったように感じました。
「今日あなたに会いに来たのは、仮想現実がどんな場所か、知ってもらうため」
「またそれ系? 楽しさ百億分の一」
「あら。あなたに楽しんでもらう必要はないわ。私の直接のお客様は、ディレクターだもの」
 普段の私なら、「ごめんなさい。できる限り楽しんでもらえるように力を尽くします」とでもいっているところです。それなのに、あなたの小憎たらしい口振りを聞いていると、心が浮き立つのです。私自身が、百倍楽しんでいるのでした。
「仮想現実では、いまここにいる現実では信じられない、魔法のような、おとぎ話のような出来事がいくつも起こるの。それに馴れるのは、仮想現実に没入してからじゃないと難しいでしょうけど、驚きで心臓麻痺を起こさない程度の知識は、教えることができる。私がここに来たのは、そのため」
「ディレクトラはさ、大豆プロテインで作った人造肉って食べたことある?」
「安物なら。なんで?」
「おれも、安物なら。ちょっと豆くさいよね。でも、富裕層が食べるようなやつは、肉の中に毛細血管が通ってて、ちゃんと血の味がするらしいんだ。もう、肉そのもの。本物の肉を食べる必要がない。現実と仮想現実の関係って、本物の肉と血の通った人造肉の関係と同じだろ? どっちかを知っていれば、もう片方を知る必要がない。同じようなもんなんだから。俺は現実で生きてる。現実に似せた仮想現実に行く必要がないね」
「人造肉は、大豆プロテインベース。だから食べても、殺生にはならない。ベジタリアンだって安心して食べられるよ」
「現実より仮想現実のほうがいいって?」
「ええ。現実より仮想現実の方が、人間に適してる。少なくとも、全く同じものじゃあない」
「違いがあるのなら、やっぱり行きたくはないな。俺、ほとんど健康だけど、手足の先に麻痺が残ってるんだ。段差は好きじゃない。上りの段差も下りの段差も、おんなじくらい嫌いだよ」
「仮想現実では、コックローチなんか食べなくていいの。仮想現実で、血の滴って牛のにおいがするステーキ、食べたくない?」
「コックローチが食べれないなら、やっぱり仮想現実は最悪の場所じゃん」
「え、好きなの、コックローチ」
「え、嫌いなの?」
 私の困惑する顔を見るとあなたは、にやりといたずらっぽい笑みを浮かべました。そしてベッドの横にある棚の上から、カレンダーのような表を一枚拾い上げて私に見せました。それは、病院食の献立表でした。コックローチがある日には、赤い円がつけられているのでした。
「本当の本当に、コックローチが好きなのね……」
「ディレクトラは、嫌いなの? なんか、おばあさんみたい」
「おばあ……」
 自分の生身の肉体のことを思うと、胸がずきりとしました。おばあさんではないにしても、あなたの倍近い歳ではあります。
「私は、その、嫌いではないけど……」
「ディレクトラがコックローチ食べれなくても、俺はディレクトラのこと、嫌いにならないよ」
 あなたの何気ない一言は、灼かれた刃を氷に突き立てたときのように、私の凍った心臓にするりと暖かく刺さるのでした。
「仮想現実がどんな場所かなんて、心底興味がわかないね。せめて、ディレクトラがそこでなにしてるか話してよ」
 自分の意志を主張しながらも、私に譲歩してくれるあなた。あなたのようなしなやかで善良な人こそ、仮想現実に降りてそこにいる多くの人々とふれあうべきなのです。
「いいでしょう。私がなにをしているかを話せば、それはすなわち、仮想現実がどんな場所かを説明したことになる。だからこそ、ディレクターが私をここに遣わしたの」
「ディレクター。いつもディレクトラの中に入ってる人だね」
「ええ。そう」
「いいよ。ディレクトラが仮想現実でなにをしてるか、話してよ」
 あなたは人間です。機械人格のディレクターとは違い、超人間的な社交性はもちあわせていないはずです。私は、ディレクター以外とはほとんど言葉を交わしません。それでも、私はなぜかあなたとは楽しく会話を進められるのです。きっと、私に攻撃させる口実を作る程度の小憎たらしさがあって、しかも私が胸を張って話せるタイミングを適度に設けてくれるからでしょう。
「私はアーキテクト。富裕層が購入し、彼らの前で展開される物語のプロットや伏線を構築するの」
「物語が仕事になる?」
「そう、私は物語売りの少女」
 生身の私は少女という歳ではありませんが、ディレクトラとしての体を得て、少し調子にのっていました。あなたも、ちょっとした違和感を感じてくれたのか、軽く笑いました。それから、首を小さく傾げて、
「物語を売るのはわかった。で、物語を売る人は、なにを食べて生きてるの?」
「なにをって、ふつうよ。大豆プロテインベースの調整食品」
「不思議」
「不思議なことなんてないでしょ」
「物語って、空想だろ? どれだけ現実に近づこうとしたって、伝記みたいな、すでに過ぎ去った昔の話にしかならない。そういう、今ここにあるわけじゃない物を売って、どうして、現実に形がある食べ物が買えるのか、理解できない」
 物語を売って得たお金で、食べ物を買う。私がしているのは、それだけの単純なことです。お金がつなぐ人間同士の売買関係なんて、生まれてから言葉をおぼえるまでの間には誰しも理解していそうなものです。それなのにあなたは、真剣に悩んでいる様子なのです。このときのあなたの横顔は、こめかみを腫らして思慮にふける哲学者カントの肖像画を思わせました。
「その世界では、物質と物語の価値が転倒していました」
 私は、まるで異世界を舞台にした幻想物語を顧客に説明するかのように、私たちが生きるこの仮想現実について説明し始めました。あなたにとっては、私たちが生きる世界の半分であるはずの仮想現実が、異界そのものだからです。
「その世界では、物質は売らないの。だって、そこにあるすべての存在が、情報で形作られてるから。それが、仮想現実。私もそこで、物質ではないもの、つまりは仮想現実を形作るものを売っている一人。物語を売るっていうのは、ぜんぜん不思議なことじゃないの」
 あなたは眉を寄せながら、頭のなかに描いたイメージをのぞき込むように目を上向けて、
「続けて、ディレクトラ」
「私はよく、海に近い商業倉庫街で物語を売ってる。空気が澄んでいる日は、遠くに自由の女神が見える場所で。といっても、人に会うのは苦手だから、アルバイトの学生を売り子に雇ってるけど。売り子が怠けずに売っているか、バイト代と私の生活費をまかなえるだけ物語が売れているかどうか、いつも様子を見に行くわ」
「倉庫で物語を売る?」
「仮想現実ではね。現実でのその場所に、一回行ったことがある。段ボールに詰まったたくさんの靴が、床から天井まで隙間なく積まれてた。あそこが、この国の靴の流通の中心(センター)ね。でも、仮想現実でのそこは、がらんどうだった。仮想現実では、いくら歩いても靴底は減らないから、靴をほしがる人がいないのね。で、代わりにそこで物語が売られてるの。物語は仮想現実の靴底と違って、一度目を通せば面白味が減ってしまうから、いくらでも売れる」
「仮想現実だと、物語は靴底みたいに減るものなのか……?」
「そう。値段もだいたい、靴と同じくらいね」
「靴っていっても、安いのも高いのもあるじゃないか」
「物語にだって、高い安いはあるわ。といっても、私が売ってるのは物語の筋だけ。キャストを雇ったりオプションをつけていくうちに、自動車くらいの価格になる。自動車にも高い安いがあるけどね」
 あなたは耳から入った概念を頭へと漉しとるように低くうなって、
「靴の倉庫で物語を売るっていうのが、ぜんぜんイメージがわかない」
「靴はないの。がらんとした空間を思い描いて。靴のことは忘れて、広い広い体育館のような場所を」
「体育館ってのもわからない」
「靴の倉庫から靴をなくしたような場所よ」
「まだよくわからないけど、わかったことにする」
「そこに、机と椅子が、整然と並んでいるの。一人の物語作者につき、机が一つと、椅子が一つ。机の上には、その物語作者が作った物語が並べられてる。仮想現実上のオブジェクトとしては、本の形態をとってる」
「靴のない靴の倉庫に、本がずらっと並んでるんだね」
「わかってきたみたいね」
「そのたくさんある本の中から、どうやって好みの物語を選ぶの? 安くても、靴くらいの値段がするんだろ? 俺だったら、はずれを引いたら次のお小遣いの日までずっと、怒り狂った悪魔みたいな顔しちゃうぜ」
「はずれは、引かないわ。それが物語売場の不思議なところでね、自ずと自分にぴったりの物語を、みんな買って帰るの。売り子は呼び込みなんてしないし、本にはタイトルしか書かれてない。聴覚的にも視覚的にも静整とした場所で、買い手は膨大な数の本の中から一つを選んで買うの。そして、その買い手は必ず、その物語の最良の理解者になってくれる」
「ディレクトラの物語も、誰かに理解してもらってるんだ」
「ええ。だからこそ、私は飢えずに生きてる。死んでたら、あなたと話せないでしょ?」
「そこ、俺が書いた物語も売れるかな」
「興味ある?」
「まあ、ちょっとは」
「たとえば? 話してみて」
 あなたは、自分の内面を探るように、目を細めました。そして、すぐに掘り当てるものがあったのか、さっと視線を私の目に上げました。
「たとえば。その世界は、人類がコンピューターに支配されていました」あなたは語り始めました。「とはいっても、人類がコンピューターに脅かされているわけではありません。人がかつてコンピューターを使っていたように、あるいは人が犬を大事なパートナーとして生きていたように、コンピューターにとっても人類は大切な存在でした。コンピューターが宇宙で一番賢い存在になった今でも、宇宙で二番目に賢い人類を活用しなければ、もったいないでしょう。
 さて、コンピューターには、動物とは違った本能がありました。生物ではないコンピューターが持つ本能、それは、真実の探求でした。
 しかし、いくら賢いコンピューターにも、光速度の限界を越えることはできません。宇宙の隅々まで知りたくても、せいぜい一五〇億光年先の世界までしか見渡せないのです。
 では、一五〇億光年より先の宇宙でも、物理法則は一様なのでしょうか? そこより先でも、物は重力に従って落ちるのでしょうか? 光は一年で一光年ずつ進むのでしょうか? 時は一秒に一秒ずつ進むのでしょうか?
 そこでコンピューターが目を付けたのが、人類の想像力でした。人類は、物語という形で、この宇宙とは物理法則の異なった世界を思い描くことができます。一〇〇億人いる人類にそれぞれ世界を物語らせることで無数の宇宙を形作り、それをパッチワークすることで、一五〇億光年より先の宇宙を解明しよう。……これが、コンピューターの思惑でした。そのために、コックローチを食べていれば十分にカロリーがまかなえるはずの食料供給体制を、大豆の生産を嵌入させることで非効率なものにして、人類を仮想現実に押し込んでいるのでした。そうすれば人類は自ずと物語を語り始めるからです」
 あなたがひとくさり語り終えたとき、私の背筋はぞっと冷えていました。
「コンピューターが人類を支配している? ありえない。絶対にあり得ないわ」
「当たり前、あり得ないよ。たった今俺が思いついただけなんだから」
「今思いついたの? 才能あるわね……。でも本当に? 本当にあなたの空想だよね? 機械人格のディレクターが、物語アーキテクトの私を優遇してくれるのも、物語が産業として成立するのも、コンピューターとは関係ないことよね?」
「今日のディレクトラ、なんか、いつもと違うね。いや、中身がいつもと違うのはわかってるんだけどさ」
「違う?」
「うん。なんていうか、かわいい」
「そう……そういってくれると、うれしい」
 はじめはあなたがいただけでくすぐられていたはずの私の心は、いつしか冷たく硬直していたのでした。

 表面上、私とあなたの関係は、とても親密になりました。
「ディレクトラに、見せたいものがあるんだ」
 あなたは、病院の裏にある森へと、私をつれていきました。きっと、セックスだろうと予想しました。生身の私も仮想現実の私も処女でしたが、このままセックスに移行すれば、会話を無理につながなくても親密さを装えて楽だな、と思いました。その森は、仮想現実では空港のある場所に茂っていました。かつて滑走路が延びていたとおりにまっすぐに木が開けていて、地面をよく見ると木の根に砕かれたアスファルトが落ち葉の下に散っていました。
 かつて格納庫だったコンクリートの固まりの前で、あなたは手を広げました。そこには、いかにも三次元印刷機で出力した風の、一様に樹脂で作られた構築物が三つありました。ダ・ヴィンチ式の旋回飛行機械。初めて滑空ではなく空気中で上昇することに成功した複翼飛行機。トンボのような形をした、羽ばたき飛行機械。
「俺が消費していいカロリーには制限がある。でも、これがあれば、大西洋をわたって、ユーラシア大陸を横切って、もっともっと遠くにだって行ける。カロリーを消費せずにね。ねえディレクトラ。ディレクトラは、リリエンタールやライト兄弟やリンドバーグは知ってる?」
「もちろん」
「俺には、ディレクトラみたいに物語を作ることはできない。タイトルだけで人を寄せ付けて満足させるようなものは作れない。でも、俺には現実がある。目で見て手に触れられる現実が。ねえ、ディレクトラ。一緒に飛ぼうよ。風の気持ちよさは、文字にはできない。風を浴びたことがある人だけが、〈風の気持ちよさ〉って言葉だけで、風の冷たさや圧力や、視界の下をよぎっていく風景の速さ、そしてふわふわとしたあの空独特の感じを思い出すことができる」
「性行為をしたことがないのに官能小説を読んでも意味がない。あなたがいいたいのは、そういうこと?」
「そういうことだよ。さあ、ディレクトラ。飛ぼう」
 うまく断る言葉が思いつきませんでした。
 なので、不具合を装ってディレクターから貸し与えられた体からジャックアウトしました。意識が生身の肉体、萎びた肉体へと移行します。ディレクトラとしての活力は失われました。それでいいのです。
 そもそも、飛行機に乗るのが嫌で、ディレクトラに没入するという移動方法を私はとったのです。
 プロが作り、プロが操舵する飛行機にすら、私は乗りたくないのです。アマチュアの少年に命を預けるはずがありませんでした。
 だから、あなたと再び出会い、こうしてお話するまでに、こんなにも時間がかかってしまったのです。

 


〈了〉


ハートレス・バースデイ

 ハートレス・バースデイ  文:安房理弘


 彼女からの無線がはいった。頃合いらしい。クーラーのきいた車内から、私は通信を返す。
「始めろ」
 新興宗教団体『さわやか』本部の入り口である自動ドアが開いた。今日の標的が姿を表したのだ。小和泉ロバートと自称する中年の男。『さわやか』の教祖である。腹が出ており、頭髪が後退している。
「おまかせください、マスター」
 感情を殺した冷徹な声が返事をする。
 彼女はカリン。私が担当する仕童(ツール)だ。
 カリンは今『さわやか』本部の入り口横にある広大な庭園にある巨木の影に身を潜めている。入り口を見張る二人の警備員が信者であることは調査済みであり、彼らに偽造した会員証を見せて信者の一人であるといえばカリンが侵入することは容易かった。カリンには気配を消して、数十分前から教祖が現れるまで忍耐強く待機してもらっている。
 私は本部の入り口正面、数十メートル離れた地点で車内から様子をうかがっている。カリンが作戦を成功させて戻ってくれば、すばやくこの車で退散する。
 教祖が入り口へと近づいてくる。『領域』にはいったことを見極めたのか、無線からカリンの声がする。
「【精神旅行(メンタルダイブ)】」
 カリンの匿技(ギミック)【精神旅行】が発動する。これは、匿技保有者であるカリンの領域範囲内(およそ二〇メートル)にいる対象の意識を乗っ取ることができるというものだ。カリンの声は途絶え、すうすうと寝息が聞こえる。どうやらうまく潜入できたらしい。
 教祖の目の雰囲気が変わった。教祖の意識に完全にカリンが入り込んだのだ。この状態を教祖【カリン】とする。教祖【カリン】は服の内側を探っている。前に一度ここへ二人で講演会を聞きに行ったとき、カリンは教祖の服の膨らみからして護身用のナイフを持っていることを確信したと話していた。教祖【カリン】の手が止まる。ブツを見つけたようだ。
 教祖【カリン】はすばやくそのナイフを両手で取り出して、自らの心臓へ向けて突き刺した。
 入り口にいる警備員は教祖【カリン】がナイフを胸元に向けた時点で異変に気づき、止めに入ろうとしていたが遅かった。教祖のもとへと駆け寄ったときにはもう、右胸に深々とナイフは刺さっていた。
 教祖が右胸から噴水のように血飛沫を上げ、膝から倒れこむ。警備員が抱え上げようとしている。
 じきに混乱を聞きつけて本部から人が出てくるだろう。すでに元の身体へと意識を戻していたカリンは、警備員が教祖に気を取られている間に混乱に乗じて脱走する。彼女が気配を殺して走ってくる。海外の秘密特殊部隊との訓練を受けた賜だ。警備員がスマートフォンを取り出して、電話をかけている。じきに救急車が来るだろう。
 だが、もう手遅れだ。
 カリンがやってくる。見慣れた服装をしている。私立小学校の指定制服を模倣して改世機関によって作られた、仕童のための制服だ。カリンは車の後部ドアを開けて、座席に座る。
「ご苦労だった」私は車を発進させる。

   +

 カリンが後部座席から身を乗り出している。私の肩に手を触れて、
「今日も良くできましたか?」
「上出来だ」
「わたしのことを誇りに思ってくれますか」
「思うよ。キミは優秀な部下だ」
「マスターの仕童として、誇らしいです」
 いつものように受け答えする。カリンは自らの成果を実感したのか誇らしそうだ。小さく目尻を下げている。しばし会話のない時間が続く。赤信号で停車する。車内にはクーラーの音だけがしていた。
ラジオや音楽をつけるのは好きではなかった。
 私は運転をしているときに会話をするのは得意ではない。だから、カリンとの沈黙を避けるためにいつもある質問をするようにしている。
「カリン」
「はい、マスター」
「仕童とはなんだ」
「わたしのような匿技を持っている者のことです」
「仕童の役目は」
「処官(マスター)のもとで、処官の命令に従って忠実に任務を全うすることです」
「任務の内容を具体的に」
「主に要人暗殺業。汚職政治家、暴力団組織、テロリスト集団の浄化活動を行います」
 信号が青に変わる。車を発進させる。
「我々の使命は」
「この世界に蔓延るそれらの黒き穢れを紅に染め、浄化することです」
「私たちの主は」
「改世機関(リビルドベース)です」
「そのとおりだ」
「でも――」
 カリンが言おうとすることは予想がついていた。
「わたしの本当の主は、マスターです」
 任務の帰り道にカリンを質問攻めにすると、必ず最後にこう答えるのだと、私はもう知っていた。私の問いも、カリンの答えも、一字一句変わらないやりとりなのだ。

   +

 改世機関の表の顔は孤児院だ。
 車から降りた私は改世機関を見上げる。お世辞にも大規模な施設とはいえない。建物全体の大きさは地方の市役所、それも県庁所在地にあるものよりも格段に劣るだろう。しかし外から見える姿などこれで構わないのだ。なにせ、真の姿は内なるところにあるのだから。
 いつのまにかカリンは私のとなりに並んでいた。
「いきましょう」
 私は歩く速さをカリンに合わせる。寄り添って歩いていると、カリンが小柄であることがよく分かる。私の肘のあたりに頭があるのだ。
 孤児院には小中学校の校庭のような広場があるので、孤児たちが駆け回っている。キャッチボールをしていたりリフティングをしていたり、ブランコを漕いでいる子がいたりと、実際の校庭の光景と大して変わらない光景が広がっていた。
 私はなるべく喧騒を避けたいと願う性質なのだが、子どもたちの前では極力笑顔を浮かべ、何か話しかけられれば気さくに対応する。私は孤児院の事務員をしているということに表向きだけはなっている。だから子どもたちに嫌われることはあまりよろしくない。私は浮かべたくもない笑みを浮かべておかなければならなかった。
 孤児院の玄関口にある自動ドアが開く。
 私は女性職員に挨拶をする。職員はみなここが本当はロクでもない裏の顔を持っていることを知っている。ここの職員は同意の上で孤児たちの世話をしているグループと、処官として仕童を連れて任務を実行するグループとに分かれている。二つを併行する者はいない。
 女性職員に職員カードを見せる。職員はうなずく。私とカリンは本拠地である地下へ向かう。病院のように無機質な白のタイル貼りの廊下を歩いていく。まずは地下へと続いているエレベーターのある部屋へ行かねばならない。部屋の入口には関係者以外が入らないようにするため、指紋認証システムでロックがかかっている(以前、まだ指紋認証システムが導入されるまえ、誤って孤児たちが入ってしまった際に殺処分された事例がある)。私は指紋認証システムへ人差し指を触れさせる。認証成功のアイコンが出て、機械音声が次にすることを指示してくる。私はスーツの内ポケットにしまった鍵を取り出した。
 指紋認証システムの下部に鍵穴がある。挿し入れて回すと、音がした。ようやく入れる。
「マスターが指紋認証をされている間、いつもわたしは落ちつきません」
「失敗することなんてないさ」
「それでも、機械の気持ちはわたしにはわからないですから」
 いつか聞いたことだが、カリンは【精神旅行】をして相手を殺すとき、自分を刺すことによる痛みとは別の痛みを感じるのだという。
『なぜでしょう。殺したひとの心が泣いていて、わたしまで痛いからですか』それについて話をしてくれたとき、カリンが口にした疑問だ。私はそれにはっきりとした答えを返さなかった。――いや、返せなかったのか。
 もはや人を殺めすぎて、罪の意識が麻痺しているのかもしれない。心が痛むこともなくなるほどに。

 改世機関の地下には処官のための個室、仕童のための個室、処官や仕童同士の交流のために用意されたリビングルームなどがあり、それに加えて娯楽室というものがある。カリンは先に自分の個室へ戻っている。私は一人だった。このあとは彼女の部屋で、カリンの年齢で学ぶはずの学習を教えることになっている。処官の義務だ。
 私たちはそれを済ませると、いつものように何かをする。
 その何かは私の気まぐれか、あるいはカリンが興味をもっていることであり、場合によって異なる。娯楽室には某レンタルショップのように配置された映像作品や文学作品、漫画などが置かれている。もちろん、図書室のように知識を養うための本も揃えてある。私は何となく映像作品を見たい気分だったので、気になるタイトルを手にとった。古い海外映画だった。
 カリンの個室にはロッキングチェアが二つ用意されている。処官と仕童の間に良好な信頼関係を築くためには、一対一の対話、趣味嗜好の共有が欠かせないという判断によって、改世機関が設えていたらしい。私とカリンはロッキングチェアに座って、壁際に設置された液晶テレビを見ていた。
 主人公は過酷な受験戦争を乗り越えて優秀な高等学校に入ったが、人間関係が上手くいかず、努力も虚しく成績は悪化の一途を辿る。すべてが嫌になった主人公が川に身を投げて溺死体として見つかって終幕する。
「カリンはあの結末をどう思った」
 エンディングロールを呆然と眺めながら、私は問うた。私はかつての自分を思い出してしまい、気分が悪くなってしまった。
「わたしは」
 カリンは一旦息をついた。
「わたしは、ひとが拳銃を握るのは、誰かを殺すためではなくて、大切な何かを守るためだと思うのです」
「だとすれば、彼はいったい何を守ったんだ?」
 単調なエンディングロールからカリンへと視線を移すと、カリンは泣いていた。
「彼自身です」

 それからカリンはなかなか泣き止んでくれなかった。機嫌を損ねてしまったかもしれない。だから私はある書物を手に、もう一度カリンの個室へ向かっている。処官は仕童との良好な関係を築かねばならない。それは改世機関から命じられた任務を達成するために不可欠であり、改世機関がはじめに処官に課す二つの任務のうちの一つでもあるからだ。
 そして、処官が課される二つ目の任務は――
「今日はどのようなことを教えてくださるのですか」
 個室へ近づく足音が私のものだと勘づいたのだろうか、個室のドアを開けて出てきた。「これだ」カリンの質問に書物を見せて答える。
 写真が使われている表紙を見て、カリンは真夏の海に燦々と輝く太陽のように目を光らせる。
「宝石、ですか」
「好きだと思ってな」
「お見通しでしたか」
 まるわかりだ。
 宝石の書物には種類豊かな宝石の写真とその名前や解説が記されている。

 カリンの個室には木製のテーブルが置かれている。
 そのテーブルは雑誌や資料を四つほど広げられる横幅をもっている。
 私とカリンはテーブルに向かっており、ロッキングチェアに座っている。テーブル上に宝石の書物を広げて、カリンに内容を読み聞かせていた。カリンは静かに耳を澄ましている。話している間、カリンのほうへ視線を向けると、カリンは書物から私へと視線を移して、上機嫌に口角を上げるのだった。
「他には、アクアマリンは幸福、永遠の若さと魅力、夢の実現、健康、歓喜、富などを象徴する」
「マスターは物知りです」
 時計を見る。
 いつもカリンが眠りにつく時間には少し早い。
 匿技を使ったことで疲労が激しいのだろう。カリンがあくびをしている。
「もう寝よう」
「はい、マスター。……ひとつ、いいですか」
「なんだ」
「今日もわたしは、マスターに尽くせていましたか」
「勿論だ」
「誇りに思いますか」
「カリン、キミは立派な、誇るべき仕童だ。保証する」
「ありがとうございます。誇らしいです。……もうひとつ、いいですか」
「好きにしろ」
 カリンが前置きをする時、それは頼み事をする時だ。私は基本的に拒まない。処官は仕童との良好な関係を築かねばならないからだ。
「明日はわたしの誕生日です。覚えておいででしたか」
「勿論だ」
「良かったです。それで、明日は街に出かけませんか」
「構わない。目的は定まっているのか?」
「はい。実物の宝石をこの目で見たいのです」
 言いながら、カリンはうとうとしている。時折意識せずにゆったりと顔がうつむいていき、逆に悪夢から目覚めるみたいに顔を上げるのだった。
「……くぅ、すぅ……」
 やがてカリンはうつむいたまま眠りから覚めなくなった。
「……」
 私は椅子を動かすと、彼女の太ももと首を支えて抱え上げて、ベッドへと運んだ。
「楽しみです……」
 実はカリンがまだ起きていたのかと思ったが、様子を見るにただの寝言だった。
「楽しみ、か」

 カリンの個室を出た私は、改世機関の中央会議室を訪れていた。室内には巨大なモニターが設置されている。いまその画面には、改世機関の代表が写っていた。孤児院の院長でもあるその男は慈愛を帯びた柔和な表情をしている。
「ということで、明日の任務は他の処官にお任せします」
「ふむ」
「それで本日はどのような要件でしょうか」
「今日私がキミをここに呼んだのは、キミの申し出を、私が命じるつもりで呼んだのだよ?」
「そうでしたか」
「明日はカリンの十二歳の誕生日、だったはずだろう?」
「ええ、本人もそうおっしゃっていました」
「私が課したあの任務のことを、キミは忘れてはいないだろう?」
「勿論です。覚悟はできています」
 そうか、私は明日あの任務を果たさねばならないのか。覚悟。その言葉に足る感情が自分に備わっているかどうか、正直なところ疑っていた。

   +

 私は夢を見ていた。
 どうして私が改世機関で働くことになったのか、その経緯についての夢だった。
 大学時代、英語の教員免許をとろうとしていた私にはひとりの恋人がいた。私にとって初めての恋人だった。純粋に信頼していた恋人には合鍵を渡していて、衣食住を共にしていた。
 恋人に通帳を盗まれていたことに気づいたときには手遅れだった。覚えのない多額の借金を背負わされ、破産。住居を追われ、実家にまで及んでいた借金取りの取り立てによって親族からも呆れられ見放されて、どこにも帰る場所もなく途方に暮れて喧騒の中を彷徨いながらどのように自殺しようかを考えていたところ、改世機関に拾われた。彼らは私の素性を知っていた。調査されていたのだ。
 行くあてもなく人生に絶望している人間に、生きる希望を与えるのが改世機関である、我々は貴方を歓迎する、と彼らは憐憫の情を向けて慈しむような表情で語った。
 私は彼らのことを怪しまなかった。二人組の彼らはスーツを着ていたし容姿にも裏があるとは思えなかった。そして何よりすべてを失った今、これ以上の最悪が私を待っていることはありえないと思ったのだ。
 改世機関へ連れて来られた私は、彼らから改世機関と、彼らの言うところの崇高な目的について説かれた。改世機関はある資産家が莫大な資産を導入して立ち上げられた秘密機関である。未知の力『匿技』を持つ少女たちによって、この世界に蔓延する悪を裁き、世界を改めるために存在する。すぐに私は改世機関の思想と目的に順応した。空想の中にしか存在しないようなことを本気で話している彼らのことを初めから信用したわけではなかった。ただ単に、そうする他なかったというだけのことだ。私が生きながらえるためには。
 処官としての任についた私が担当することになった仕童、それがカリンだった。カリンもまた改世機関によって拾われた不幸な境遇にあった。痴呆となり介護せざるを得ない祖父母に耐えかねた母親が祖父母を殺害し、父親がその母親と口論の果てに母親を誤って殺害。血みどろ惨劇は、カリンが修学旅行に出かけているときに起こった。
 親殺しの穢れた血だと忌み嫌われ、カリンを引き取ろうとする親族はいなかった。行くあてのないのは、私と同じだった。
 やむなくカリンを受け入れた叔母夫婦のもとに、改世機関は訪れた。叔母夫婦はこれで邪魔者を追い出せると大歓迎で彼らにカリンを引き渡したのだった。
 表向きこそ改世機関はカリンを孤児として受け入れたわけだが、実際には身辺調査、身体検査によって匿技保有者であることをすでに知っていた。つまりここに来る前から暗殺を生業としていくことを強いるつもりだったのだ。
 じきに私はカリンと初対面した。カリンは今よりもずっと厭世的で倦怠感を漂わせていて、目にも光を宿していなかった。口数も少なく、陰のある少女だった。
 私がカリンの処官として働き出すとき、大きな不安がひとつあった。それは、先の恋人との一件がトラウマとなって、女性、特に成人女性に対して極度の恐れを感じてしまうことだった。さらにいえば、私は性的不能状態にすら陥っていた。だがしかし、決めた以上はやらねばならない。
 私はカリンとはじめて挨拶を交わしてから数ヶ月の間、とりとめのない日常を過ごした。それは、処官と仕童の間に結ばれる信頼関係を極めて良好にするためだ。
処官と仕童の間に良好な関係が築かれていなければ、今後の任務を実行するにあたって不都合を生じるというのが、改世機関の言い分だった。
 実際、振り返ってみればあの時間はここへ来てから一番楽しい時間だった。実際の学校のように授業をして、地下にある蔵書や映像作品を楽しんでいれば、それで良かったのだから。もちろん、毎週必ず暗殺についての訓練を行ってはいたのだが、実際に人を殺めるわけではない。
 それでもカリンはつらくて悲しくて泣き出すことがあったが……。
 あのとき、私たちの間には徐々に信頼関係が築かれていった。カリンに気に入られ、尊敬され、思慕されるように心がけろという改世機関からの指示にしたがって、私は動いていた。カリンの喜ぶ理想の大人を演じていた。
 初めは、そう思っていた。だがしかし時を経るごとに、カリンから信頼を寄せられていくごとに、私の彼女への接し方は、決して演技ではない本当のものになっていった。
 親密になっていくうちに、カリンは自分の身の上を話すようになっていった。もっとも、カリンの身上調査結果についてのデータを私はすでに閲覧している。それでも私は嬉しかった。
 カリンが少しずつ、心を開いてくれることが。

   +

 名も知らない鳥の鳴き声がする。夜が明けたのだ。
私は地下にある専用の個室でいつも寝泊まりしている。地下で鳥は鳴かない、この鳴き声は、ここに住まう処官と仕童に朝である実感を湧かせるために、施設内にあるスピーカーから流されている鳥の音声なのだ。
この部屋と、カリン、そして改世機関が、今の私にとっての世界のすべてだった。
 私は毎朝の日課のために、身だしなみを整えたあとで部屋を出た。処官は仕童を指揮するものとして、その目覚めと眠りを見届ける義務があるからだ。カリンの個室のドアをノックする。反応がない。数回ほどくりかえしたが何も返事がないので、私は鍵を使う。担当仕童の個室を開けられる鍵だ。担当の処官と仕童が登録されており、それ以外の仕童に干渉することはできないようにセキュリティシステムが為されている。
 カリンの個室にはいると、まだカリンはベッドで眠っていた。私がそばまで歩いてくると、彼女がゆっくり瞼を開ける。上体を起こして、眠たい目を小さな手でこすっている。
「おはよう、昨日した約束を覚えているか?」
「……いえ」
 カリンはふるふると首を横に振る。
「街へ行こうという約束だ」
「記憶にございません」
「そうか。だが、行くと言ったのは確かだ。私が覚えているからな。支度を整えるんだ」
 カリンは首をかしげる。
「今日は、任務を果たさなくてもよろしいということでしょうか」
「そうだな。いや、違うか。街へ出かけて宝石を見る。それが、今日の私たちの任務だ」
「マスターが言うのであれば」
 カリンは微かに首肯した。

 カリンは匿技を使うたびに、記憶を失う。
 いつ、どこで、誰と、なぜ、何をしたのか、どのような記憶が消えるのかには、何ら法則性がない。ピンポイントに昨日の私と交わした会話の記憶が消えたことで、カリンはすっかり自分のした約束を忘れていたようだ。

 昼下がりの街を歩いていく。
 普段乗っている車には、物騒な物を収容しすぎている。今さらそれを整理するのも面倒だということもあり、私たちは改世機関の近場にある最寄り駅から電車へ乗って、新宿へとやってきていた。
 平和だ。血の匂いが消えてくれないスーツを来て、血の汚れが拭えない拳銃を握っている普段に比べれば、なんと穏やかだろうか。もちろん気を緩めてはいない。それでも幾らか、この身を縛り付ける緊張の糸がほぐれていた。
 私以外にも処官はいる。彼らのうちの一人が、本来今日私が行うはずだった暗殺対象の依頼を引き受けてくれた。処官は与えられた任務の確認を、改世機関からひとりひとり個別に提供された専用のタブレットによって確認する。その日の朝五時には、暗殺対象の個人情報、行動スケジュールなどの詳細なデータがタブレットに送られている。私たちはそれにしたがって仕童と計画を立て、対象を掃討するわけだ。
 依頼その全体数を把握しているわけではないが、地下を歩いている彼らはそれほど多くはない。十数人にも満たないのではないだろうか。少数精鋭、それは私たちが互いに結託して謀反、裏切りを図ることを避けるためにも適当なのだろう。
 私たちは東口を出た。
 街の景色を眺めながら、宝石店を探す。
カリンも私も前もって詳しい地図などを見ることはしなかった。それはカリンが望んだことだった。人の多い街を散策することも、カリンの目的の一つだったのだ。
「雑踏の中に対象がいた時もありましたね」
「カリン」
「どうしましたか」
「今日は、そういう話はしないようにしよう」
「……そうですね」
 スクランブル交差点に出た。
 大勢の人がそれぞれの方向へ歩いていく。
 あたりには会話が飛び交っている。その内容はまるで聞き取ることが出来なくて、雑音にしか聞こえない。
「マスター」
 カリンが私の手を握っていた。
「何をしている」
「はぐれてしまいそうでしたので」
 確かに。これほどの人混みだ。
 その可能性は大いにあり得る。私は信号を渡ったあとでカリンの手を離した。カリンは少しばかり目を伏せている。安心したのだろう。人が多くて熱気がこもっているせいか、カリンの頬は赤くなっているように見えた。
「少し休もうか、あの喫茶店で」
 私は視線を喫茶店のあるほうへと向ける。
 その喫茶店は、先ほどから街のそこかしこで見かけていた。カリンは小さく頷いた。

 喫茶店の一階は混んでいた。そうか、今日は休日だったのか。私たちは二階へ移ることにする。
 その二階で、静かな時を過ごした。カリンは牛乳を、私はコーヒーを飲んでいた。無言だった。書物での学習、という形でなければ私は会話がうまくできない。何よりも、改世機関の代表から命じられたことが気がかりだった。カリンを『そう』することに心が揺れているわけではない。迷いがあるわけでもない。だが、胸の何処か深いところに、何か棘のようなものがある不快感を覚えていたのだ。

 喫茶店の二階から見る街並みに、宝石店を見つけた。
 私たちはそこへ向かい、中にある宝石を堪能していた。カリンの付き添いではあったが、私としてもはじめて見るものであり、興味を惹かれるものがあった。
 カリンはすっかり宝石の虜となって魅了されており、いつか語り聞かせた書物の知識を私に説いてみたりしていた。生き生きとしている彼女を見ていると、私の胸に潜む棘は鋭さを増して、私を苦しませた。
 私の心と身体に、何か異常でもあるのだろうか。
 そのときだった。疑問を浮かべている余裕を奪う銃声と衝撃が訪れたのは。私は銃声の主へと振り返った。
「静かにして手を上げろ! 抵抗する奴ァ命知らずだ!」
 ……どうやら、厄介事に巻き込まれたようだ。
 宝石強盗というやつだろう。
 男が三人、既に人質として黒髪ストレートロングのセーラー服めいた私服を着た少女がひとり捕まっている。男たちはみなコミカルな熊の被り物をしている。素顔は判らない。店内にいた人々は殺伐とした空気に飲み込まれて、素直に手を挙げる。
「よぅし、携帯とかを持っている奴ァ出しな! 隠してたら命ァ無ェぞ!」
 強盗犯は本気だ。ドスのきいた声色には、少なくともそう感じさせるものがあった。人々は次々と服やカバンにしまっていたフィーチャーフォンやスマートフォンを取り出して、床に置く。強盗犯たちは拳銃を突きつけて牽制しながら回収していく。内部の電池パックを外し、完全に連絡をできないようにしている。
 私たちの前に来るのも、時間の問題だろう。
 だが、私にはもう分かっていた。彼らが恐るるに足らない相手だと。強盗犯たちは実際に殺ったことはないだろう。
 私には殺ったものと、殺っていないものの間にある圧倒的な彼我の差が分かる。彼らは偽物だ。
「カリン、【精神旅行】だ」
 カリンこそが本物だ。
「マスター、それが……」
 カリンは耳元で囁く。周囲の人間に聞こえないように。
「匿技が使えない? なぜだ」
「わかりません。先ほどから試みてはいるのですが、そもそも発動すらできないのです」
「……」
 一体、どういうことなのだ。
 戸惑う私のまえに、強盗犯たちが立っていた。
「携帯をよこせ」
「わかった」
 普段ならば改世機関との連絡をするための携帯を持ち歩いている。しかし今日持っているのは個人用のものだ。別に機密情報である改世機関の連絡先が入っているわけではないから、彼らに見られたところで痛手はない。
 床に置いた携帯を強盗犯が回収する。
 次の人へ、次の人へ、彼らは歩いていく。
 カリンの匿技は使えない。
 屈辱だ。私は悔しさを噛みしめる。私は調子に乗っていたが、自分の手でひとを殺めたわけではない。
殺してきたのはいつだってカリンだ。私は無力なのだ。
 強盗犯が要求したのはすべての宝石と、店の売上。それらは今ひとりの女性店員によってまとめて用意されている。彼女は後頭部に銃を突きつけられている。逃げられもしなければ、抵抗できるはずもない。
「クソッ……!」
 私は小さく舌打ちする。罰するべき悪が目の前にいるというのに、何も出来ない。
 このままもどかしい状態がずっと続くのだろうか、と危惧していたところ、ある異変が起こった。
「! おい、何してる!」
 店員の後頭部に銃を向けていた強盗犯のひとりが突然、銃口を己のこめかみに向けたのだ。発砲音。脳漿が吹き飛んで、血飛沫が舞う。その男はすぐに絶命し、血を撒き散らして血の海に付した。
「……一体、何が起きったってんだ」
 強盗犯のひとりが苛立ちまじりに吐く。
「教えてあげよっか」
 誰かの声がした。その声は妙に自信に満ち溢れていて、血と恐怖に塗れたこの場所で、ひどく場違いだ。声の主を探して、目を疑った。そこにいたのは、強盗犯に銃口を向けられたひとりの少女だったからだ。
「はァ? あ、あれ……?」
「その身体で、ね?」
 そのとき既に強盗犯のひとりは、銃口を自分のこめかみに向けていた。同じだ、さっきの男と。発砲音。脳漿が吹き飛んで、血飛沫が舞う。その男はすぐに絶命し、血を撒き散らして血の海に付した。
「……!」
 あっけにとられている最後に残った強盗犯。彼もまた同じように絶命した。
「え……?」
 何が起こったのかわからない。
 しかし危機は去ったのだ。もう安心だとわかった人たちは、立つなり深呼吸をするなり、胸を撫で下ろすなり、解放されたことから涙を流すものもいた。店員は警察に連絡している。現場には未だ血の匂いが漂っている。今日一日くらいは、何事もなく終わりたかった。
 先ほどの少女はいつの間にかいなくなっていた。
「複数の対象の行動を同時に束縛、意のままに操ることができる。】それが彼女の匿技さ」
 耳元でひそひそと声がする。振り返るとひとりの女性がいた。肩までの髪。気品のある面持ち。大人の女性の余裕が感じられる。しかし、活発な青少年のような爽やかさも併せ持っている。服装もスーツとネクタイである。状況と容姿によって、私は彼女の正体に気づいた。
「あの子はコトハ。ぼくは、名乗るほどのものでもない」
 どうやら彼女は私と同じ処官だったようだ。処官は男性だけではない。女性の処官もいる。彼女らの共通点は、性的錯誤者かあるいは同性愛者であるということだ。つまり、彼女はそのどちらかである。
「そうだったのか、助かったよ」
「緊張させた。悪かった。改世機関で時々見かけていたから、顔は知ってたんだ」
 どうやら彼女は私を知っていて、私は彼女を知らなかったらしい。
 私たちはまだ周囲に人がいる手前、小さな声で話し合う。やがてどちらからでもなく、立ち上がった。宝石店を後にするためだ。話をするのはそれからでいい。

 騒ぎを聞きつけた野次馬が、私たちの歩いてきたほうへ駆けていく。しばらく歩いて、私たちは適度に空いていそうな喫茶店へはいった。
「コトハとぼくは、連続強盗犯を殺すために動いてた」
「だからここにいたのか」
「潜伏場所も、次にどこを狙っているのかも前もって調査済みのデータがタブレットに送られてたからね。本当に改世機関の情報収集力には呆れるよ」
 彼女は自嘲するように肩をすくめた。
「コトハは自分から人質に?」
「そのほうがドキドキするからって。いつもそうなんだ。命がけのスリルを求めてる」
「どうしてあたしに答えさせないのよ!」
 コトハが彼女に文句を言っている。
「なぜ、制服を着ていない?」
「ルールを壊すのがあたしのルールだって言ってた」
「だからどうしてあたしに答えさせないのよ!」
「変わってる子だ」
「当たってる」
 彼女は笑う。好きな人の惚気話をしているときのように、愉快に笑う。
「ぐぬぬ……」
 コトハは歯ぎしりをしている。
「大丈夫だった、子猫ちゃん?」
 彼女はカリンに訊ねる。
「問題ありません。お気遣いなく」
「それは良かった。でも、キミは仕童だよね。どうしてコトハが使うよりも前に、匿技を使わなかったの?」
「それは……」
 コトハや彼女の視線がカリンへと注がれる。
 カリンは言いよどむ。匿技が使えなくなったことを。
「もしかして、十二歳の誕生日?」
 カリンは答えるべきかどうか逡巡していたが、それが答えのようなものだった。
「そっか。そうだったんだ。だから、今日は……」
 彼女はカリンの頭をそっと撫でる。丁寧に、壊れないように、傷つけないように。そっと。彼女の姿は憂いを帯びていて、寂しそうに見えた。彼女はカリンを見ているのに、どこか別の場所にいる誰かを見ているような、そんな眼差しをしていたように思う。
 明日からは私もその眼差しをして生きていかねばならない。なぜだろうか、胸が締め付けられた。

 ――十二歳の誕生日にカリンを殺す。
 それが、改世機関がはじめに私に課した二つの任務、その二つ目だ。
 その意味をようやく悟った。
 仕童は十二歳を迎えると、匿技を失うのだ――

 夜だった。カリンはベッドに横になっており、私はロッキングチェアに座っている。いつものようにカリンが眠りに落ちるまで私は彼女のそばにいる。しかし、カリンはなかなか寝ようとしない。うとうとしているが、私が寝なさいといってもきかない。
「……マスター」
「なんだ。今日はもう遅い。話はもうしな――」
「これから私はどうなるのですか」
「……」
 カリンの不安の色を帯びた声に、何もかえすことができない。彼女の命は今日終わるのだから。私の手で。
「匿技を使えない私に、マスターのお役に立てない私に、ここにいる資格はあるのですか」
 温かい手が触れる。
 ベッドから身を起こしたカリンの華奢で白い両手が、私の手を覆うようにしていた。カリンの瞳を見てしまえば覚悟が揺らいでしまいそうだった。だが、視線が彼女を見ようとしてしまう。
止める術を私は持たなかった。
「わたしは、おとうさんおかあさんにいらないって言われてました。生まなければ良かったって、言われてました。叔父さんも、叔母さんも、みんな同じでした。でも、ここは違かった。改世機関は、マスターは、わたしに居場所をくれました。わたしの失くなった心を取り戻してくれました」
 言葉とは裏腹に、カリンは笑顔だった。
 その努めて笑顔でいようとする心の裏に隠しているものを、推し量ることはできない。けれど、私には彼女が泣いているように思えた。
「だから……マスターだけは、違いますよね。
これからもずっとずっとそばにいてくれますよね。見捨てないでいて、くれますよね?」
「そう……だな」本当の気持ちとは真逆の、中身の空っぽな言葉を吐き出した。吐いたのに、有害な煙を吸ったときのように濁り汚れていく自分が気持ち悪くて、吐気を催しそうになった。
 なぜ、こうも気持ちが悪いのだろうか。
 穢れた人々を殺すことには何ら迷うことなどなかったというのに。カリンを殺すことに何を今さら私は躊躇いを覚えているのか。もはやカリンは私にとって、改世機関にとって、この世界にとっても不要な存在のはずなのに、何故。不要な存在――本当にそうなのか?
「お願いがあります、マスター」
 カリンの言葉にハッとする。
「今日はどうか、わたしの隣で眠って欲しいのです」
「その願いに、何の意味がある」
「何の意味もないのかもしれません。ただの自己満足、かもしれません。しかし」
 カリンは両手で私の手をそっと掴んで、自らの頬へ添えた。
「わたしの心は、温かくなるのです」
 訴えるように、上目遣いの視線が私を刺す。確信を抱いているようだ。私がとなりにいることで、匿技を失ったこれからの未来への恐怖、その不安に押しつぶされないという、確信を。
 その未来は、私が消すというのに。
 いや――だからこそ、か。
 カリンには見えていて、私がそれを見させない。カリンの心のなかにだけ存在するその未来だけでも、私は曇らせないようにするべきなのだ。
「わかった」
 カリンの望みを聞いて、わたしは毛布をめくり、狭いベッドのなかで横になる。毛布を掛け直すと、あらためてこの状況が滑稽に思えてきた。これからその命を奪う相手と、同じベッドで寝ているのだから。
「ありがとうございます、お願い、聞いてくださって」
「いいんだ」
 ささやかな願いだから。
「さぁ、眠ろう」
 すべては今日、終わるのだから。
 カリンが探るように手を動かしている。やがて私の手を見つけると、指と指とを絡めていく。あの女も私と眠るとき、そうしていたことを思い出す。
 カリンは寝返りをして、私の両手と指を絡めたままで四つん這いの姿勢になった。
 私の視界には今や、天井ではなくカリンの顔が映り込んでいた。
「マスターは」
 カリンの瞳に、私の姿が映っている。私の瞳にも、彼女の姿が見えるのだろうか。目が離せない。離すことができない。
「わたしのことをあいしていますか」
 私は驚いてしまう。下腹部が熱くなっていたからだ。あの日から今日まで一度もなかったことだった。カリンは私を求めている。私も同じだった。頷き返すと、カリンの小さな手が、私の手に触れた。
「うれしいです、マスター」
 ああそうか。
 なぜカリンを殺すことへ躊躇を覚えるのか。ようやく気づくことが出来た。これは、長い間忘れていた想い、人として失ってはいけない感情。ひとが心を凍らせてしまわないための、温もり。
カリンはそっと顔を近づける。桜色のあどけない唇が、私のそれと重なった。
  
   +

 もう死んでしまったのだろうか。
 そう思ってしまうくらい、カリンは安らかに眠っている。不安や怯えなど、何ひとつないかのように。
 許してくれ。
 キミの不安を拭い去った私が、キミの未来を奪い去ることを。そう願いながら私は――静かに眠るキミの心臓に優しく刃を突き立てようとする。
「!」
 そのときだった。
 カリンが目覚めたのは。
 うろたえる私は、刃を止めてしまっている。カリンは眉をひそめている。今の状況が飲み込めていないのだろうか。白い靄に包まれて遮られた世界を見ようとするように、カリンは目を細めている。
「あなたは、だれですか……?」
 ――そうか。
 匿技の代償、記憶の欠落。
 匿技を使うことによる代償があるように、匿技を失うことにも代償が必要だった、ということだ。
 私は悲しいのかおかしいのか、笑っていた。
匿技を失うということは、匿技保有者だったときの記憶を失うことでもあったわけだ。
 もう、目の前にいるカリンは私のことを覚えていないのだ。私と戦った日々も、私を愛してくれたことも。
 だが、それは幸福なことでもあった。
 カリンの記憶は、幸せな思い出で幕を閉じることができたのだから。
「さよなら――」
 カリンだった少女の心臓を、私は刺し貫いた。

 本当に彼女は死んだのだろうか。私が、殺したのだろうか。心臓を一突きしただけで、カリンは苦しむことなく、息を引き取ったのだろうか。つい先ほど自分がしたことだというのに、すべて、幻のように思えた。
 頭痛がする。
 いつかのカリンの言葉が、頭のなかに何度も響いて止まない。止んでくれない。
『なぜでしょう。殺したひとの心が泣いていて、わたしまで痛いからですか』
 頭を抱えた。
 皮肉にも、私はようやくその答えを知ったからだ。問いかけてきたキミの命をこの手で奪って、知ってしまったからだ。
 カリンの言うとおりだった。
 私には【精神旅行】をすることなどできないのに、カリンの心の嘆きがこの身に、この心に染みこんできて、胸が締め付けられるように痛かった。
 この記憶は、生涯消えてくれないだろう。一生私を苦しませるだろう。
 私は処官だ。カリンを殺めてもまた新しい仕童と共に生きていかなければならない。それは、またカリンのような女の子を殺すということだ。だが、今の私にはできるとは思えなかった。このようなことは二度としたくない。だからといって、改世機関から逃げることはできない。改世機関以外に、もはや私の居場所などないのだ。 部屋のテーブルには、カリンの血に塗れた拳銃が置いてある。その拳銃を見たとたん、カリンの言葉が蘇った。
『わたしは、ひとが拳銃を握るのは、誰かを殺すためではなくて、大切な何かを守るためだと思うのです』
 私は、この痛みから私を守るために拳銃を握った。

 


 (了)


この本の内容は以上です。


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