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視界の端にボールが見える。
ボールが視界の中央に近づいてくるのに合わせて、後藤凜は足の回転を早めた。
届くのか、ボールの方が早いのではないか。そんな思いが頭をよぎる。
もうボールは体のほぼ正面まで来ている。
自分の足も同じ視界に入る。
このままではボールは自分の前を通り過ぎていくだろう。
そう思った瞬間、前に出した右足をそのまま地面に着けずに思い切り前に伸ばした。


後藤凜がフットサルに誘われたのは派遣先の社内だった。
ベンチャーと呼ぶにはもう設立から時間が経っているシステム販売会社は、社員も数十名になっており、すでに中堅企業と言ってもよい規模となっていた。それでも比較的若い社員が多く、活気に満ちている一方で、企業としての様々な要素がまだ身の丈に合っていない雰囲気もあった。
それはたとえばオフィスの入口にある海外製のどこを押したら良いのか分からない受付用の内線電話だったり、企業ロゴを大きくあしらった金属製の看板だったり、どこか借り物のような感じからくるものなのだろう。たぶん、それがフィットしてくるまでにはある程度の年月が必要で、人間と同じように年季というものが必要なのだろうな、と凜は毎日通いながら思っていた。
そうした企業に派遣されるのは初めてではない。もっと小さな会社もあったし、社員数は多いもののまだ出来たばかりで行く末も心配になるような会社もあった。どちらかと言えば、いまの会社はまだ余裕があって長く働ける期待が持てる。
凜の業務は内勤で営業担当者の補佐だ。取引先からの問い合わせを受けたり、営業担当者が持ち歩く新しいシステムの資料作成を手伝ったり。もちろん楽しいことばかりではない。取引先からは苦情を受けることもあるし、営業担当者がミスを認めずトラブルが拡がっていくこともある。それでも、20代も半ばを過ぎて自分がこれまで働いてきた経験がそうしたトラブルの場で役立っているという自覚はあるし、そのように派遣会社からも派遣先からも評価を伝えられたこともある。
このまま次の派遣期間の更新をしてもよいかなという気にはなっていた。

 

「後藤さんもいかがですか?」
凜がそう声をかけられたのは、定時を過ぎて仕事の残りもほぼ片付け終えようとしていた時だった。
「何の話?」
先ほどから若手の男性社員ふたりが女性社員たちに仕事以外のことで声をかけていたのは気付いていたが、内容までは聞いていなかった。
「フットサルですよ」
声をかけてきた男性社員、藤田の脇からもう一人の男性社員、加藤が顔をのぞかせるようにして言った。このふたりが中心になって周りに声をかけているようだ。
「フットサルってサッカーみたいなもの?」
確か小さなコートでやるサッカーをそう呼ぶのだと聞いた覚えがあった。
「まあ、そんなもんです」
藤田が答えた。あまりサッカーと一緒にされたくないのか、その答えを正解とは言いたくないようなニュアンスを感じた。
営業リーダーの藤田は、凜より2つくらい年下だったはずだ。仕事ぶりはともかく、場を和ます明るさとこの若い社内では比較的年長者ということでのポジションだった。
「たまには社内でレクリエーションみたいなものもいいかなって思いまして」
確かにこの会社では花見や社員旅行といった社内行事のようなものはなかった。それが今風でもあるのかと思っていたが、会社ができたばかりでしゃかりきに働かざるを得ない時期にはそうした余裕もなかったのだろう。次第に会社も軌道に乗ってくると、多少余裕もできてきて、古くからの企業のような社内行事へのあこがれのようなものが若い社員たちの間に出てきたのかもしれない。
凜が少し視線をずらすと、さっきまで彼らに声をかけられていた女性社員ふたりがこちらの様子をうかがうように見ていた。彼女たちもまんざらではないのだろうが、簡単に誘いに乗っては軽く見られるからと少し迷っている振りをしていたようだ。彼らは彼らで説得するのも面倒になってきて彼女たちより年上で派遣社員という立場の凜にも声をかけてみたということのようだった。
「まったくやったことないけど」
それでも良ければ、という前向きと取れる答えに、加藤は
「大丈夫っすよ。是非是非」
と目を輝かせた。まだ2年目の営業マンの加藤には若さと勢いが強く感じられる。
早速、加藤は女性社員たちの方に振り向いて改めて説得を再開した。彼女たちも誘いに乗るきっかけができたことだろう。
じゃあ、日時や場所とか詳しいことはメールで、とホッとした表情で感謝を表しているような藤田に伝えると、凜は仕事の残りの片付けを再開した。


フットサル場は会社近くのショッピングビルの屋上だった。平日仕事を定時に終えて参加者みんなで移動した。もっとも何人かは仕事が終わらず後から合流となった。
薄暮の街並みをバックに人工芝の緑色が明るく輝いている。凜も何度か帰りに寄ったことのあるショッピングビルだったけれど、こんな施設があるとは知らなかった。
テニスコートくらいの広さの人工芝のフィールドを緑のネットが高く囲っている。よく見ると天井にあたるところまで囲われている。これならボールが外に飛び出すこともないだろう。
本当のフットサルは体育館でやるんですけどね、と藤田はフットサル場の入り口でつぶやいた。どうやら彼はサッカー経験者らしく、今回の催しの中心となっていた。
決して広くはないけれど割ときれいな更衣室もあり、そこで着替えをした。男女別になっていると言うことは女性の利用者も少なくないのだろう。
服装は体を動かせるものなら何でも良い、とのことだったので、凜はジョギングをしていた頃のウェアの上にジャージを羽織り、足下も同じくジョギングシューズにした。

 

ジョギングは以前の会社で同じ派遣社員の女性に誘われて始めた。どうやらその女性の勤めていた部署の気になる男性がジョギングを趣味にしており自分も始めようと思い立ったものの、ひとりでは心細いと凜に声をかけたようだった。
そんな女性の下心には気付いていたが、ちょうど運動をほとんどしていなかったし仕事にも慣れてきた頃だったので、良い機会だからと誘いに乗ることにした。
凜は学生時代の運動着を引っ張り出しても良いかと思ったけれど、誘ってきた女性に止められ、一緒にスポーツショップにまで行ってウェアを選ぶ羽目になった。さすがに気になる男性がいるだけあって、彼女はきらびやかなウェアを何度も着替えながら、どれが魅力的に見えるか、男性の好みから外れていないか、尋ねてきた。その男性の好みを凜が把握しているはず無いのだけれど。
これでは普通の服選びと変わらないな、と思いながら、凜はいつまで続けるか分からないからと安くてシンプルなウェアとジャージを選んだ。
その後、仕事を終えてから何度か女性と会社近くの公園に一緒に行ってジョギングをした。公演にはいくつものジョギンググループがいて、危険を感じることも初心者が気後れすることもなかった。近くには銭湯があり、仕事帰りにジョギングを楽しむ人向けにロッカーも用意してあり、ジョギング後には汗を洗い流すこともできた。
程なくして、彼女の方は無事ジョギングを通して目的の男性と付き合うようになり、目的を達成したからかジョギングはすぐに辞めてしまった。
凜はやれやれと思いつつ、せっかく始めたのだからとしばらくはひとりでもジョギングを続けていたが、派遣先の職場が変わったことで同じ公園に行くのが難しくなり、新たに場所を探すほど気に入っていたわけでもなく、そのまま辞めてしまった。

 

久しぶりに袖を通したウェアとジャージだったが、あまりきつくはなっていなかった。
更衣室の中を見回すと、やはり参加することにした数名の女性社員たちがどこかのプロサッカーチームのユニフォームを着て、彼氏から借りてきただの、この機会に本格的にやってみるんだと意気込みを語るなどしてはしゃいでいた。確かにユニフォームは似合っていたけれど、みな細身で手足がすらっと長く、プレーする選手と言うより、テレビなどでユニフォームを着て応援している女性芸能人たちを思わせた。
凜だけ脚を隠す服装になってしまったようだけれど、それが正解だったかもしれない。
最近入ってくるようになった女性社員は、誰もが若くすらっとしていてきれいな印象の女性ばかりだった。社外からは社長の趣味などと揶揄されているようだけれど、みんな男性社員と同じく営業の外回りをこなし、取引先からの評判も良かった。そうした業務を嫌がるようなこともなく、仕事での苦労もこれからの自分の糧にしていこうという意欲は同じくらいの男性社員よりも貪欲に感じられることもあった。


凜が更衣室を出るとすでに男性陣はすでに人工芝の上でボールを蹴ったり準備運動をしたりしていた。すぐにネットの中に入ってよいものか迷ったので、ネットの外で準備運動を始めた。といってもジョギングをしていたときに周りから教わった簡単なものだ。
屈伸から始めてアキレス腱を伸ばし、前屈から体を横に倒して脇腹を伸ばし、腕を反対の肩の方に持って行き、二の腕の外側を伸ばす。要するに体のあちこちを伸ばしていけばいいのだ。
足首や膝も回し、そろそろ準備運動のネタも切れそうだな、と思っていたところで、更衣室に残っていた女性社員たちが出てきた。
それを見ていたかのようにネットの中にいた藤田が
「集合してください」
とネットの外にも聞こえるように声をかけた。
ネットの切れ目から中へ入り、男性陣に倣って輪になって立つ。女性は凜も入れて5名、男性が7名、遅れてくる人も入れれば16名くらいになるのだろうか。
「お疲れ様です」
藤田がそう言うと、みんなで「お疲れ様です」と答える。これは職場での挨拶と同じだ。
「平日にも関わらずよく集まってくれました。ありがとうございます」
かしこまって挨拶すると、はやすような声が飛んだ。その声に照れたような表情を見せながら、
「初めての人もいると思うんで、簡単に自己紹介だけお願いします」
そう言って輪の端から自己紹介が始まった。順に部署と名前を、人によっては「久しぶりなので」「未経験なので」などとひと言アピールを添え、言い終わるとみなでパチパチと短く拍手をする。
女性陣の中では凜がいちばん最初に順番が来た。
「営業部でアシスタントやっています後藤です。初めてなのでよろしくお願いします」
短い拍手。あとに続く女性社員たちがやりにくくならないよう簡単にしたつもりだったが、あまり心配する必要はなかった。女性社員たちはそれぞれ個性的なアピールで場を盛り上げていた。女性陣はみな初心者のようだった。
どうも見たことのない顔もいると思ったら社内だけでなく取引先にも声をかけていたようで、後半の何名かは社名と名前を告げた。こういうのも接待というのだろうか。ゴルフなどではよく聞くけれど。
「フットサルは本当は5人対5人ですけど、女性や初心者も入っているので6人対6人の10分1セットで始めましょう。キーパーは男子で。その他の細かいルールもサッカーと同じで楽しく怪我のないように」
藤田がそう言うと男性陣と女性陣で分かれてジャンケンをしてチーム分けをした。凜は女性3人のチームに入った。

 

ゲームが始まった。
どちらのチームも女性陣を攻撃側にしたため、転がるボールに女性数人が群がり、足元のボールを蹴ろうとしては何度も空振りしたり思わぬところに当たって逃げるボールを追いかけたりした。
それを少し離れて男性陣が見ていて、たまに転がってくるボールを自分たちで何度かパスしたあと、再び女性にパスして、やはり空振りしたり、群がったりすることを繰り返した。次第に女性陣が疲れて動きが鈍くなってくると、男性陣がゆっくりと動き始めた。男性陣の中で初心者に近い人をを攻撃側に走らせ、先ほどまで女性陣に出していたようにパスを出すようになった。
そのパスのスピードは女性に出していたよりずっと速かった。女性向けにわざと緩いパスを出していたのだと、そのとき気がついた。馬鹿にされたとも優しくされたとも思わなかった。たぶん、それが当たり前でそういうものなのだ。
初心者に近い男性陣が疲れてくると、次第に経験者らしい男性陣も攻撃に加わるようになってきた。パスがさらに速くなり、ゴール前まで走り込んだ男性がシュートをするのも見られるようになった。バン、という音と共にゴールの脇を抜けていくシュートは、それまでのどのパスよりも速かった。あれが当たったとしたらとても痛いだろう。ゴール前を守るキーパーを女性にしないのもうなずける。
その後は再び女性陣や初心者にもパスを出すようになって、最初の10分を終えた。


とても10分とは思えないくらい長く感じた。
遅れてきた男性社員も入ったので、さすがに人数が多すぎるのと、初心者、特に普段から体を動かしていない人は無理しないようにと、何人かは休んでネットの外から見ていることになった。もちろん、コートの外から時間をきちんと計るという役目もあったけれど。
凜は久しぶりに運動したからか、だいぶ汗をかいたので最初に休むことにした。女性陣の方では年長の方だし、先に休んだ方がいいだろうという判断もあったし、なによりこの競技を外からきちんと見てみたかった。

 

ゲームが始まった。
先ほどと違って、最初から男性陣が中心になってボールをパスするようになった。はじめの10分は女性向けと割り切っていたのだろう。
素早いパスが男性の間で回され、真ん中で少なくなった女性陣がどこへ行けばいいのか戸惑っているようだった。
外から見ていて分かったのは、パスというのはボールを足で止めることと蹴ることの組み合わせだと言うことだった。ボールはいつも蹴るものだと思っていたし、凜も含めて女性陣は自分の足元に転がってくるボールをそのまま蹴ろうとして空振りしたり変なところに当たって思わぬ方向へボールが飛んでいったりしていた。それは、いまコートの中にいる女性たちも変わっていない。たまに足元に転がってくる緩やかなパスを思い切り足を振り上げて蹴ろうとして空振りしたり真横にボールが飛んだりしている。
経験者の男性たちを見ていると、足の内側や外側、もしくは足の裏で転がってくるボールを止めて、それからボールを蹴りたい方向に向けて蹴っているようだった。止めるのに失敗して大きくボールが跳ね返ると、相手チームが素早くそのボールを拾って攻守が逆転する。女性陣のようにポロッと転がったボールを両チームで取りに行くようなことはほとんどない。たまにボールを止めずに蹴ることもあるが、その時も足の内側で狙ったところに跳ね返しているように見えた。
シュートも同じ理屈だ。ゴールの前でボールを止めてゴールに向かって蹴る。もしくは、止めずに足の内側でゴールに向かって跳ね返している。もっとも、キックがあまりに速くて足のどこで蹴っているのか見えないシュートもあったけれど。

 

そのうち経験者の男性たちはパスだけでなく、ボールを小さく蹴ってボールと同じスピードで走る動きをするようになってきた。ボールに追いつくとまた小さく蹴ったり、急に方向を変えたりする。その間、ボールは足にくっついているように動く。これがドリブルというものだろう。サッカーの試合のテレビ中継では足元などに目が行くことはなかったが、これだけ近くで見ていると、どのようにボールを動かしているのかも分かる。
パスの間にドリブルが入るようになって、ボールはさらに速く動くようになった。パスを受けてドリブルを開始し、相手の前で味方に向かってパスをする。動きながらのパスは難しいのかもしれない。味方のいないところにパスをして相手の攻撃になってしまうような場面も増えてきた。
10分が終わった。



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