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キャプテン・フィリップス

2013年12月16日鑑賞
さあ、どうする、フィリップス船長?!

ソマリア沖で、コンテナ船が海賊に襲われる。ほとんどドキュメンタリー映画のようなタッチで描かれる本作。ハンパない迫力と緊迫感。それもそのはず。これ実話ベースのお話です。
ポール・グリーングラス監督の演出は見事でしたね。
コンテナ船の船長、リチャード・フィリップス役に名優トム・ハンクス。
若干太って見えるのは、体重わざと増やしたんですかね?


さて、フィリップス船長に、会社から連絡が。次の仕事が入った、コンテナ船に乗って、客先まで積み荷を届けてくれ、と。
彼は船に乗り込むため、妻と車で港へ向かいます。車中、彼は問わず語りに奥さんへ、息子のことや若い世代の事を話します。
「今の世の中、何もかも、安く、早くだ。俺たちの時代とは違うなぁ……これからの若者は大変だよな」
そんな、何気ない会話が、映画の後半に向けて、この作品に、ただの海洋パニック映画だけではない、人間ドラマの一面を描き出します。こういうさりげない演出、監督、上手いなぁと思います。
さて、巨大なコンテナ船は、まるで一つの巨大ビルが海に浮かんでいるかのようです。船内は複雑に区画され、まあ、私のような方向音痴では、とてもじゃないが、あっという間に迷子になります。そんな大きさです。
その大きなビルディングのような船が動く。船長とスタッフを乗せて……
途中、危険な海域を通るので、フィリップス船長は乗組員に訓練をやらせます。乗組員たちは、それなりにスキルは持っているんですが、あんまりやる気はなさそう。
そんな折、海上レーダーに小さな船が2艘映ります。ぐんぐん近づいてくる二つの船。
「海賊だ!!皆、配置に付け!これは訓練じゃない!!」
フィリップス船長と、乗組員たちはどうなるのか?
という訳で……
この作品、スケールがとてつもなくデカい。実際に救助にむかうアメリカ海軍の艦艇や、世界最強と呼ばれる特殊部隊のSEALsなどが協力しているようです。しかし、この映画の見所は、そういうミリタリー関係の趣味だけじゃないんですね。
最大の見所は、後に人質になってしまう、フィリップス船長と、海賊たちの心理戦なのです。


海賊たちは、皆、まだ若い。それに彼らは自分たちの海賊行為を「ビジネスだ」と言い張ります。そこには、彼らの”自分を惨めに見られたくない”という虚栄心も伺えるのです。
海賊たちの国、そこには、当たり前のように貧困があり、政治は安定せず、治安は最悪。じゃあ、なんで俺たちは、こんな貧しい国に生きてなきゃならないんだ、という憤りがある訳ですね、彼らには。
それに比べて、お前らコンテナ船に乗ってるような白人は、恵まれてるじゃないか? リッチじゃないか? その豊かさを、なんで俺たちは味わえないんだ? 
海賊たちのそんな声が聞こえてきそうなところが、この作品にはあります。なぜ、危険極まりない、命を落とすかもしれない、海賊なんて割の合わない事をやっているのか?
「君たちは金が目的だろう? ビジネスなんだろう? 人を殺すために海賊はやってないはずだ」
フィリップス船長は冷静に海賊をなだめていきます。
海賊たちをみて、フィリップス船長はふと思ったのでしょう。
「俺の息子と変わらない歳、格好だ。まだ若すぎるじゃないか」
やがて囚われた船長は、海賊たちと運命共同体となってゆきます。
この辺りは心理学でいう、ストックホルム症候群というやつなんでしょうか? 船長には、やや、海賊たちの心を読み取ろうとする姿勢と、若干のシンパシーが見て取れます。この辺りの微妙な”さじ加減”の効いた演技は、もう、さすが、トムハンクス! と唸ってしまうところですね。
緊迫の心理戦。じっくりと劇場でお楽しみくださいませ。
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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆☆☆
配役 ☆☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆
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作品データ

監督   ポール・グリーングラス
主演   トム・ハンクス、バーカッド・アブディ
製作   2013年 アメリカ
上映時間 134分

予告編映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=KRHJ2YEaJ4E


ゼロ・グラビティ

2013年12月17日鑑賞
途中退席を我慢しました。

いやぁ~、ひどかった!! 最近の予告編は、どれもこれも良く出来ているけれど、結局、本編を観てみると「予告編が一番良かったんじゃない?」と思う作品も多いです。本作もその一つ。
実は、この作品、かなり期待して観に行ったのです。それは上映時間91分という理由から。
実は上映時間というのは、よい作品を見分ける一つの目安でもあるのです。
3時間の超大作、と90分の作品どちらを選ぶか? と言われれば、僕は迷わず90分を選びます。なぜなら、それは贅肉を徹底的に削ぎ落とした、究極の作品を目指そうと、監督が頑張った結果だと思うからです。

たとえば最近では、2011年の映画賞を総ナメにしたフランス映画「アーティスト」
これは101分です。
89年、アカデミー賞の「ドライビングMissデイジー」は99分。
ジェシカ・タンディ、モーガン・フリーマン、もう、最高でしたねぇ。
さて本作では更に、宇宙空間を映画館で体験できる。おまけに3D。これは面白そうだ、と思った訳です。


ところが、いざ本編が始まったところで、いきなり出鼻をくじかれました。
なんという、みっともない地球。じつに雑な造形。最新のハリウッドVFXってこの程度なの? という失望感でいっぱい。
今ねぇ、観れるんですよね、一般人でも。
NASAの鮮明なハイビジョンが……
奇麗な,キレイな、瑠璃色に光り輝く、地球が。
大宇宙の中、水惑星である、我らが母なる地球。それは漆黒の宇宙空間にぽっかり浮かぶ、まさに命あふれる、宇宙のオアシス!!
テレビの宇宙関連の番組を観れば、そんな地球の姿、しょっちゅうお目にかかれる訳です。
わざわざ、映画館で高い料金払って、おまけに、かけ心地の悪い3D眼鏡をかけて、これが見る価値のある映像と自信を持って言えるでしょうか?
もうちょっと、まじめに仕事してよ! と言いたくなりますね。
さて、主演のサンドラ・ブロックは、まあいいとして、共演のジョージ・クルーニー。
僕の個人的趣味かもしれませんが、どうも自分と相性が合わないんですね。
以前観た「マイレージ・マイライフ」も、全然感心しなかった。
本作でも、二枚目の宇宙船のキャプテンで、キザな台詞を、もうそれは、うじゃうじゃと並べ立てる。それも自分が死に瀕するような危険な状況で。ありえないでしょう?
これはもう、ジョージ・クルーニーが悪い訳ではなく,脚本家と、それをOKしちゃった、監督に全責任があります。


まあ、ぶっちゃけて言えば、この作品の内容は、実は、たったの45分で、すべて見せられるはずです。それを映画作品として成立させるために、無駄なセリフ、無駄なシーンをいっぱい詰め込んで、映画作品としての体裁を取り繕ったいう、なんとも情けない作品なんです。
救いと言えば、ウザい、ジョージ・クルーニーが消えてくれて、サンドラ・ブロックの一人芝居になったあたりから、ようやく我慢して観る事ができます。
ああ、それにしても、90分がこれほど退屈で長い時間だったとは……
何度も途中退席をしようと思ったほどでした。
まあ、何百回も劇場で映画を見ていると、こういう”スカ作品”も、たまに掴まされる、ということですね。
でも、まぁ、これはあくまで僕の主観的な感想なんで……
なにより、ご自分が楽しめれば、それはそれであなたにとって、いい作品なんだとおもいますよ。
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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆
配役 ☆☆☆
演出 ☆☆
美術 ☆☆
音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆
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作品データ

監督   アルフォンソ・キュアロン
主演   サンド・ラブロック、ジョージ・クルーニー
製作   2013年 アメリカ
上映時間 91分

予告編映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=j683Bm67qis


ハンナ・アーレント

2013年12月30日鑑賞
考える人の尊厳、考えない人間の恐怖
  
第二次大戦中、ユダヤ人を強制収容所へ送り続けた指揮官、アドルフ・アイヒマン。本作は、人類に対する犯罪を裁く法廷をレポートした、哲学者ハンナ・アーレントを描こうとする。ハンナ自身もユダヤ系ドイツ人である。戦争中はフランスで収容所生活を送ったらしい。
物語は1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで逮捕されるところから始まる。彼はイスラエルに身柄を移され裁判にかけられる。忌まわしい、ユダヤ人大量殺戮の首謀者の一人アイヒマンが捉えられ、裁判という公の場に姿を現す。これは世界的な大ニュースとなった。当然、ユダヤ系の人々は憎っくきナチの残党,アイヒマンを叩きのめしたい、ユダヤ民族が受けた苦しみ、悲しみ、絶望を同じように味あわせたいと願った事だろう。
ここに一人の著名な哲学者がいた。大学で講義を持ち、その著作は多くの読者に影響を与えている。お抱えの秘書もいて、個人事務所は電話が鳴りっぱなし。それがハンナ・アーレント女史である。彼女はナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命。哲学の教授として成功を収めていた。


彼女はアイヒマンの裁判を是非傍聴したいとイスラエルへ飛ぶ。数百万人という膨大なユダヤ人を、組織的に虐殺し続けた人物とは、一体どのような人間なのか? 彼女自身がユダヤ系であるから、というよりも、アーレント先生は、人間がいかに残虐になり得るのか? 悪に染まるのか? という哲学的な関心を持ったようである。
さて、裁判で目の前にいる大量殺戮の実行者、アイヒマン。ハンナにとって、一番の驚きであったのは、それが何の取り柄もなさそうな、あまりに凡庸な人物であったことだ。
ちなみに、ヒトラーでさえ、実際にパレードや演説などで接した国民(当時はワイマール共和国民)の中には「さえない普通の人」「どこにでもいそうな人」という印象を持った人も多かったと言われている。
ごく普通の人をアイドルとして祭り上げ、組織を肥大化させ、民衆を熱狂により思考停止させる。これは今の日本でも、小規模ながら、実際に起こっている事に留意したい。
ひとときの熱狂や、あらがえない時代の流れはあるかもしれない。しかし、自分の頭で考えない、自分の魂で感じない事のツケは大きい。
やがてハンナは、裁判の傍聴を続けるうちに気がついた。
「アイヒマンには自己がない」ということだ。
アイヒマンの最も忌まわしく、罪深い事は、
「自分の頭で何も考えなかった事」である事に気がついたのだ。
ハンナはこの発見をもとに記事を書き、著名な雑誌に発表する。これに対し「一般大衆」は激怒した。大ブーイング!! ハンナに強烈なバッシングが起こる。
「裏切り者」「ナチの肩を持つ女」などと誹謗中傷され、あまりの反響の大きさに大学教授の職も危うくなる。
ハンナはアイヒマンを「思考停止、思考不能に陥った小役人にすぎない」と分析した。


ちょっと考えれば、これは実に恐るべき事なのである。身の回りに私自身を含め、このような人物が「どこにでもいる」ことが脅威なのである。
私事で恐縮だが、以前勤めていた会社での出来事。
私の直属の上司である係長が、ある日、私にぐちゃぐちゃと訓示を垂れていた。「ええか! お前、Aという事はBという事なんだぞ! ちゃんと心得ておけよ!」
それを聞いていた部長曰く。
「係長、それは違うぞ。Aという事はCという事だぞ」
その瞬間である。係長は部長に向かって直立不動の姿勢になった。
「部長! その通り!! さすがですヮ!! いやぁ~、ホンマその通りですヮ!!」
そして振り向きざま、私に向かい
「ええかっ!お前! Aという事はCという事なんだぞ!! しっかり肝に銘じておけ!! いやぁ~、さすが部長ですヮ。Aという事はCという事なんですヮ」
私は目の前で起こっている情景が,しばらく理解できなかった。
マンガ以上に滑稽な一コマであった。しかし、これは紛れもなく私が体験した事実なのである。係長は自分の主張を一瞬で「撤回」どころか、「全否定」したのである。しかも係長はそれによって自分の「全人格を否定」された事を、全く何の痛みも感じず、受け入れたのである。
係長は正に究極の「イエスマン」であった。
どんな職場でもそうだが、こういう愚劣極まりない上司を持った部下は、本当に苦労する。
また、かつて私はある女性とつきあったことがある。
彼女はすべての物事を占いで決めていた。
「わたしには自分がないの。私は借り物なの。何も決められないの」
それは病的でもあった。彼女はそのとき、つき合っていた男性と別れる寸前だった。
「家族も反対してるし、もう、大嫌いだから別れる」とさえ言っていた。
その言葉を聞いた数日後、彼女から電話があった。
「ヨリが戻りました。彼のところに行きます、さようなら」
彼女は強引な男に隷属する事に、安心感を求めたようであった。
自分の頭で考え、魂で感じる事は難儀な事であり、実にめんどくさい事である。自分なりの判断を下すまでには時間も労力もかかる。それに比べ、何も考えないこと、思考停止する事、楽な道を選んだ方が、皮肉にも一時的な成功をもたらす事もあるだろう。
反対に、自分の頭で考え続け、悩み続ける事は、いばらの道を裸足で歩き続ける事である。しかも、その先に決して成功や、自己実現が約束されている訳ではない。
人はどちらを選ぶのか? 人はどう生きたらいいのか?
まさに哲学的な問いかけをこの作品は我々に投げかけている。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆
音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆
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作品データ

監督   マルガレーテ・フォン・トロッタ
主演   バルバラ・スコヴァ、アクセル・ミルベルク
製作   2012年 ドイツ
上映時間 114分

予告編映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=WOZ1JglJL78


利休にたずねよ

2013年12月19日鑑賞
秀吉が愛し、嫉妬し、憎んだ、利休の「美」

珍しく、この作品は原作も読んでおりました。時間軸を遡ったり、思い切ってフッ飛ばしてみたり、よくこんな文章表現、プロットの構成が出来るものだなぁ,と感心しながら読みました。まあ、それぐらいのこと、朝飯前にやっちゃう山本兼一さんだからこそ、本作で直木賞受賞となった訳ですが。
さて,本作はその映画化作品。何ヶ月か前に映画館で、ふと、「利休にたずねよ」のポスターを見かけたときには
「ほんとに映画化するのか?!、いや、したのか?!」
そして市川海老蔵さんが千利休を主役として演じるって、「マジかよ?!」
と一人、映画館のロビーで突っ込みを入れていたのを思い出します。


ただでさえ、時代劇は金がかかる。正確な時代考証に基づく衣装やカツラ、もちろん当時の町並みの復元も必要になります。本作は並の時代劇ではまず、絶対にチャレンジしない「茶の湯」「千利休」を描こうというのです。これはとんでもない高いハードルです。
まず、役者さんが茶の湯の手前作法を習得してゆかねばならない。その上、使う茶道具の手配、さらには映画で登場する黄金の茶室や、侘びを極めた建築物と言える「待庵」どれもこれも、国宝級のものばかり。これをどう映画に撮るのか? 
実際、本作では、まあ、まず、あり得ないと思える、千利休さんが,本当に使ったお茶碗が登場したりします。
これ、国宝級ですよ。値段のつけようがない。
なんと言う贅沢な映画なんでしょうか。どれだけ、途方もない手間暇をかけた作品でしょうか。
これら、国宝級のお宝がスクリーンに映える本作。そんな中、僕が素晴らしいと着目したのは「光の効果」でした。
撮影、照明スタッフさん達がほんとにいい仕事してるんです。
惚れ惚れするぐらいの映像美を、キャメラに収める事に成功しています。
茶室は薄暗いものです。外からの自然光は、和紙を貼った障子から透けて入る仄かな光です。その光が、役者さんたちの顔半分を、ほんのり明るく照らす。反対側の顔半分は、ほとんど真っ暗なシルエット。だけど照明、撮影スタッフは、ここで頑張りましたね。
その暗い顔が判別できるか,出来ないか、ぎりぎりのところを見切ってキャメラに収めてるんです。
他にも、広間から外を見るショットでは、外の明るさ、室内の仄暗さ、人物に当たる光、それぞれの明かるさを、すべて細かに調整しながら映像化していますね。本当に素晴らしい仕事です。
さて、千利休という人物は、茶の湯だけにとどまらず、美意識、芸術の巨人である事は間違いないでしょう。この人への興味は尽きないですね。
時の絶対権力者、織田信長の茶頭となり、いわば芸術の総合プロデューサーとなる訳です。
 美しさとは何か? それは千利休が”美しい”と言えば、時代がそれに追随する訳ですね。自分が”美”の基準になる。さらに信長亡き後,千利休は豊臣秀吉に仕え、ここでも茶頭となります。派手好きの秀吉は利休に、有名な「黄金の茶室」を作らせます。さらに、これぞ秀吉の真骨頂といえる大イベント「北野の大茶会」
 皆さん、気がつきませんか? これって「茶の湯バブル」なんですよ。
もう、これ以上はない、というぐらい「茶の湯」は全盛期を迎えるんですね。かつて1980年代、バブリーな日本では、夜な夜な、ジュリアナなんて言うクラブで女の子が踊り、札束が巻き散らかされておりました。
茶の湯でもそれが起こった訳です。しかし、バブルは弾ける運命にあります。千利休の凄みは、その「茶の湯バブル」の次に来るものを予感していたような気配がある事です。
彼は、純粋に美しいものとは何か? 人をもてなすとはどういう事か?を追求し続けた人だと思います。


茶室では亭主と客の関係があるだけ。一期一会の出会い。
そこには天下人であろうが、武将であろうが、一人の人間になります。
肩書きや地位は何の意味も持ちません。裸の人間力、あるがままの美意識が試されている場所、それが茶室なのです。
利休の美意識が生んだ「待庵」では、武士といえども、刀を抜いて、にじり口と呼ばれる、低い入り口から入らねばなりません。
そこで客は「亭主」に対し、自然に「頭を下げる」ことになるのです。それを天下人にやらせてしまう、千利休の度胸と美意識への、揺るぎない自信。そして強靭な決意。それゆえ、勇猛な武将でも利休の前では、震え上がりました。
さて、秀吉は天下人です。自分より偉い人間は、この「日の本」にはいないと思いたいのです。
だからこそ、信長が愛した、日本一の茶人、千利休を自分の支配下、自分の所有物である、と世間に認めさせる事によって、自分の”威厳”を演出したかったのでしょう。
しかし、秀吉の最大の不幸は、利休の「美」を理解できる感性を持ち合わせてしまった事でした。
「なぜ、こんな美を、あの利休は生みだせるのだ?」
秀吉には、悔しいけど、その美を生み出せません。悔しい,悔しい!!本当に悔しい!
やがて天下人である秀吉は、千利休に嫉妬、憎しみ、恐怖さえ感じたのだと思いますね。
まさに、可愛さ余って,憎さ百倍。権力者が部下の才能に嫉妬したとき、それは実に醜悪きわまりないものとなります。
秀吉は千利休の「美」を屈服させようとしました。
「切腹を申し付ければ、あの利休と言えども、俺に頭を下げにくるヮ」
しかし,秀吉の読みは外れました。千利休は自分の「美」は誰にも支配する事は出来ない、と「死」を持って訴えたのです。
本作はまさに映画は芸術作品である、という事を改めて感じさせてくれます。絵画鑑賞のような気持ちで、亭主である利休さん、そして観客である、あなたとの一期一会の”一服”をお楽しみくださいませ。
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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆
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作品データ

監督   田中光敏
主演   市川海老蔵、中谷美紀、伊勢谷友介、大森南朋
製作   2013年 
上映時間 123分

予告編映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=rEsYGCsof9M


永遠の0

2013年12月23日鑑賞
ゼロ戦に見る日本人の「死」と「美」

今年の文藝春秋10月号に「赤とんぼ」による特攻という記事が載っていた。「赤とんぼ」とは旧日本軍の練習機の愛称である。
二人乗り複葉機(!?)で、エンジンは340馬力。最高時速210㎞/h
太平洋戦争末期、飛行機の調達に困った軍部は、この練習機に爆弾を抱かせて、敵艦に突っ込ませる事にした。250キロ爆弾を搭載すると「赤とんぼ」はたったの100㎞/h しかスピードが出ない。それこそ、ヨタヨタしながら敵艦に突っ込む訳である。
戦争末期、日本国土に残っていた”飛べる飛行機”は、ほとんど「赤とんぼ」しかなかったらしい。
当時、これに乗って敵艦に突っ込め、と言われた搭乗員たちは、どんな思いであったろうか?
こういう特攻もあったのである。これを美しいと思うかどうかは、あなたのご判断にお任せしたい。
戦争を進めるうち、日本の軍部、指導者層はすでに勝てる戦さではない事を知っていた。そこであろうことか、「潔く」「美しく」「散る」事を目的とした。
選ばれた若者たちが、零戦という美しい戦闘機に乗った。特攻という潔い美しい「死」が演出され、彼らは「軍神」と呼ばれた。
この映画の中で、ある若者が「特攻も自爆テロも同じじゃないか」「狂信的な愛国主義者の暴走だ」という言葉がある。
僕はあえて、それに異を唱えようとは思わない。そこにはまだ、戦争を第三者の目で見る事が出来る、平成の若者の姿勢があるからだ。
最も怖いのは、自分たちが、戦いのレールに載せられている事さえ気がつかない事だ。
原作者である百田尚樹氏が、本作を発表した2006年頃であれば、この作品はまだ、娯楽作品で済まされたであろう。
しかし、私は53年生きてきて、今の日本が、これほど”危ない”と思ったときはない。既に「引き返せないレールの上」を走っている列車に乗り合わせてしまった感じがする。その列車を選んだのは我々自身だという皮肉もある。そういう”ご時世での”「永遠の0」映画化である。戦争の美化、国策映画とするには、大変好都合にできている環境だ。「第三者」的な眼で見てそう感じる。


さて、本作は一つの娯楽映画作品として観た場合、とても良く出来た作品である。
監督は「ALWAYS三丁目の夕日」シリーズを手がけた山崎貴氏。
CG,VFXを駆使した映画では見事な実績を持っている。本作ではその手腕が、リアルな零戦や、戦闘用艦艇の復元を可能にした。大きなスクリーンで観ても「ああ、CGだね」とは思うものの、何となく納得、妥協できる範囲で収まっている。
本作は、天才的な腕を持つ零戦パイロット、宮部久蔵が主人公だ。  
宮部の孫たち(吹石一恵、三浦春馬)は,実の祖父の人物像を知りたいと思った。おじいちゃんと同じ航空隊、特攻隊の生き残りの人々への取材を試みる。やがて、祖父は海軍一の臆病者と呼ばれていた事を知る。しかし,謎は深まるばかりだ。彼らの祖父は後に特攻隊に志願し、敵艦へ体当たりしたのだ。海軍一の臆病者であるはずの祖父が何故、特攻に志願したのか? その決断に至った謎に迫ってゆく……
 宮部久蔵を演じる、主演の岡田准一氏の熱演はとてもよかった。それ以上に印象的だったのは、妻役の井上真央が,大変落ち着いた、大人の演技を見せていることだ。女優として、着実な成長を見せているように思えた。これは本作の大きな見所と言える。また、宮部の部下のパイロット役に濱田岳。彼は小柄な体格で、何とも頼りなく、ひ弱なイメージがあるが、特攻パイロットの生に執着する姿を悲哀を持って演じた。これは彼ならではの演技であったと思う。また、同じパイロット役で新井浩文も、殺気立った,切れ味鋭い演技で、特攻隊員の心情の一面を描き出すのに成功している。
また、味わいのある演技と言えば、大御所、平幹二朗、それに舞踏家である、田中泯氏の凄みのある演技に注目したい。
このように、キャスティングはおおむね良好。成功していると言える。
演出面では前半と後半では別作品と呼んでいいぐらい違う。
前半部分、かなり,主観的なドラマ作りで、正直「ちょっと臭い演出だな」と思わせるような部分さえある。だが後半、物語も佳境を迎え、最も盛り上がるであろう部分で、意外にも山崎監督は、ちょっと突き放したような演出をあえて持ってきた。そこが本作の映画作品として、うまくバランスをとる事に成功した要因であろうと思われる。


この「永遠の0」という映画作品のレビューは、実に厄介だ。むつかしい。自分の言いたい事が百分の一も伝えられない,もどかしさがある。
ヒステリックに反戦、非戦を訴えるのは、同じようにヒステリックに”潔く美しい死”を訴える軍国主義者と何ら次元は変わらない。
太平洋戦争と零戦、そして日本人と零戦を語るとき、冷静ではいられない自分がいる。なまじっか戦争や零戦、そして、特攻に関する情報が多すぎるからである。零戦は海軍の厳しい要求を満たすため、極限ギリギリの軽量化が図られた。その結果、テスト飛行中に2回空中分解し、墜落している事はあまり知られていない。後に、アメリカ軍が戦闘機に戦車のような防弾を施したのに対し、ゼロ戦は終戦までほとんど防弾装備らしいものがない。そのため弾が翼の燃料タンクに当たれば、あっという間に火だるまとなり、空の藻屑と消える。それすら日本の桜のように、美しく散る姿とダブって見えない事もない。
なぜこの零戦という航空機は危険なまでに美しいのか? 設計者である堀越二郎氏は、自ら作り上げた、まぎれもない「殺人兵器」ゼロ戦をどう思っていたのか?
堀越二郎氏自身の著作を読んだ宮崎駿監督は
「この人は、本音を語らない人だと思いました」という。
かずかずの言葉にできない想いはあった事だろうが、堀越氏は墓の中まで秘密を抱えてゆく覚悟でゼロ戦を作り上げたのだろう。
いままた、戦さの時代に突入しつつ、いや、もしかしたらすでに突入してしまっているかもしれない2013年。宮崎駿監督は「風立ちぬ」で零戦の設計者、堀越二郎氏を描いたのは象徴的な事だ。
僕は本作「永遠の0」という映画作品を決してオススメはしない。好きであれば「どうぞ,ご自由に」というスタンスでいたいと思う。
ただ、「戦争」を捉えるのであれば、もっと他の映画もありますよ、とだけは言っておきたい。
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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆
美術 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆
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作品データ

監督   山崎貴
主演   岡田准一、三浦春馬、井上真央、濱田岳
製作   2013年 
上映時間 144分

予告編映像はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=6G1OHLyMY7U



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