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地名

ハウカダル島  イギリスとアイルランドを合わせたぐらいの大きな島で、南3分の2ほどに人間の12の王国がある。

 

ホルム王国   人間の12の王国の1つ

 

シグトゥーナ   ホルム王国の首都

 

 

登場人物

 

エイリーク卿   ホルム王国の第3騎士団長。「赤の領主」の異名をもつ。

 

レイヴ       第3騎士団に配属されていた兵士。

 

グンナル王    ホルム王国の国王。エイリーク卿のいとこ。

 

カーラ       エイリーク卿の妻。

 

オレイン      魔族。

 

(名前だけ登場する人物)

オーラーブ    ホルム王国の王太子。エイリーク卿の弟で、グンナル王の養子(王女の婚約者)。

 

 


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 森の中を、騎士と歩兵がただふたりでさまよっていた。

 ふたりともまだ若い。騎士は、夕焼けの空を思わせる赤毛と、夕闇を思わせる灰色の目の持ち主で、鎖の鎧の上に、金糸で刺繍をした緋色のチュニックを着て、緋色のマントをはためかせている。

 指揮官の証のりっぱな軍装と口もとの髭のせいで、遠目には三十歳ぐらいに見えなくもないが、近づいてよく見ればもっと若いとわかる。せいぜい二十代半ばといったところであろうか。

 供をする歩兵は、湿った黒土の色の髪を無造作に束ね、瞳は湖の水面のごとき深い青緑。その髪と目の色は、魔性の者たちの夜の色の髪と緑の瞳を思い起こさせ、不安を呼び覚ますが、明らかに魔性の者たちのそれとは色合いが違う。

 ただふたりで本軍から離れてしまったというのに、不安の色さえ見せぬ落ち着いた物腰と、油断のない鋭い眼光から、かなり戦い慣れた者と見えるが、ほこりと返り血に汚れてなおみずみずしい若い肌と、少年の柔和さをいまだ残した美しい面ざしを見れば、せいぜい二十歳かそこらだろう。いや、いまだ十代かもしれぬ。

「完全に迷ってしまったようだな」

 騎士がつぶやくと、歩兵は、何を今さらと言いたげな視線をちらりと馬上に向け、無言のまま、すぐにまた前方に目を向けた。主君に対するにしては、あまりにそっけなく、ぞんざいな態度だ。

 それもそのはず、歩兵は騎士の従者ではなかった。正規の兵ですらなかった。半ば強制的に、半ば報酬の金につられて徴兵に応じた若者である。

 騎士の名は、エイリーク卿。王家の血に連なり、五つの村を治めて、その髪の色から〈赤の領主〉の異名をもつ貴族であり、ホルム王国の七つの騎士団のひとつ、第三騎士団を束ねる騎士団長でもあった。

 騎士団長ともなれば、末端の兵士のひとりひとりまで把握しきれるものではない。ただ、ふたりでさ迷い歩いたここ一刻ばかりのあいだに、エイリーク卿は、この歩兵が第三騎士団の下に配属された歩兵のひとりで、レイヴという名であることを聞き出し、若いながらになかなか腕が立つことも、自分の目で見て知っていた。

 とちゅうで魔族の残党数人と鉢合わせをしたとき、レイヴは、豪傑として知られたエイリーク卿の上をいく腕前を発揮していたのである。

 レイヴのほうは、さすがに騎士団長の顔と名前ぐらいは知っていたが、ただそれだけのことだった。百人の騎士と千人の歩兵からなる集団にあって、トップに立つ騎士団長と末端の歩兵とは、まったく見ず知らずの人間も同然だった。

 それでも、ここにいるのが別の歩兵であれば、騎士団長とふたりになれば、恐縮してかしこまるか、卑屈におもねろうとしたことだろう。

 だが、レイヴは、そういった畏怖とも卑屈さとも無縁の人間だった。

 黙々と歩いていたレイヴは、左手の木々の向こうから聞こえるかすかな物音に気づいて、そちらをふり向いた。ひと呼吸遅れて、エイリーク卿もそれに倣う。

 足音らしき物音は徐々に近づいてきて、やがて木々の合間から姿を見せたのは、年のころ七歳ぐらいの魔族の子供である。

 だが、おそらくは見かけどおりの年令ではなかろう。魔族は人間よりも年をとるのが遅いのだから。

 子供は、少年とも少女ともつかぬ美しい顔立ちをしていた。そのぐらいの年令では、人間の子供でも、服装の違いがなければ性別を見分けるのは難しいが、魔族の子供には性別自体がない。魔族は、幼いころには性はなく、外見の年令が人間の子供の七歳から十二歳ぐらいになったとき、性が分かれる生きものだった。

 子供は、ふたりの敵に気づいて立ち止まった。みるみるその美しい面が恐怖で覆い尽くされる。

 怯えるのも当然。魔族の村が人間の軍隊に襲撃されたとき、逃げ遅れた魔族の女や子供たちがどうなったか、その子供が知らないはずはない。

 掠奪と暴行は軍隊の常。まして、魔族に対しては、人間たちには根深い恐怖と憎悪があり、それが人間側の連合軍の男たちの凶暴性をいやがうえにも増していた。

 抵抗した者も、逃げ惑うばかりの者たちも、女たちはことごとく犯され、むごたらしく殺された。女たちだけでなく、まだ性の分かれぬ幼い子供たちも、少年たちも、同族の女たちと同じ運命をたどった。

 さらに村から逃げのびたと思われる者たちに対しても、軍は容赦なく残党狩りを命じた。

 人間どうしの戦いなら、むごい掠奪暴行で女や子供や年寄りを殺すことはあっても、逃げた非戦闘員まで追うことはまずない。

 だが、魔族との戦いでは、女、子供、赤ん坊に至るまで、ひとりとして逃がすなという命令が出ていた。人間どうしのふつうの戦争と違って、征服するための戦いでも奪うための戦いでもなく、全滅させるための戦いだった。

 おそらく、兵士たちの目を逃れて逃げのびた魔族は皆無に等しかっただろう。あるいは、いま目の前にいる子供が唯一の生き残りやもしれぬ。

 子供は、いま来た方向にちらりと絶望の視線を走らせると、そちらとも前方のふたりとも違う方向に転じて、また森に駆け込もうとし、転倒した。

 どうやら、地を這う茨の蔦にでも足をとられたのだろう。足をくじいたのか、腰が抜けたのか、すぐには立ち上がれないようすで、子供は敵の騎士と歩兵を見上げた。

 絶望に彩られた子供の顔が、つかのまエイリーク卿の脳裏で別の子供の面差しと重なった。

 不安と悲しみに涙ぐんでいた子供。目の前の子供とちょうど年のころは同じ。とはいってもそれは外見だけのことで、エイリーク卿の苦い記憶の中にある子供は、まぎれもなく人間の子供だったが。

 それでも外見の年令が似ていれば、連想せずにはいられない。

 だから、エイリーク卿は、レイヴが子供のほうに歩み寄りかけたとき、その背中に向かって思わず叫んでいた。

「やめろ! 殺すな! まだ子供だ!」

 明らかに軍規違反の命令であり、たとえ騎士団長が発したものとはいえ、レイヴには従う義務はない。レイヴは、エイリーク卿をふり返りもせず、子供のほうに歩み寄った。

「おい、やめろ!」

 エイリーク卿がレイヴを止めるために馬を降りようとしたとき、卿の予想に反し、レイヴは子供のすぐ前で腰をかがめて、子供の足にからまっていた蔦をはずしてやった。

「立てないのか?」

 驚いている子供にそう訊ねると、レイヴは、返事を待たずに、子供の両脇を支えて抱き起こし、地に足が着くようにしてやった。

 そのとき、子供が来た方角から足音がして、騒々しい声が上がった。

「おい、横取りするな。そいつはおれたちが追ってたんだ」

 先頭に立って森から出てきた歩兵がどなり、つづいて姿を現わした歩兵が、エイリーク卿に気づいて、おもねるように言った。

「おれたちがそいつを追ってたんです。認めてくださってもよろしいでしょう?」

 ふたりとも胴鎧を青く染めており、第六騎士団の歩兵とわかる。

 声のほうをちらりとふり返った黒髪の歩兵は、子供ががたがた震えながらもしっかり足で地を踏みしめていることを確かめると、手を離した。

「行け」

 子供は身をひるがえして、森の中に逃げ込んだ。

「ばか! なぜ逃がすんだ?」

 子供のあとを追おうとした歩兵の前に、行く手を遮るように、レイヴが立ちはだかった。

「おい、何しやがる? 魔族のガキが逃げるじゃねえか」

「そいつ、魔族の一味じゃねえのか?」

 歩兵たちのひとりが剣を抜くのを見て、エイリーク卿があわてて制止した。

「よさぬか! 味方同士で殺しあう気か?」

「けど、殿さま」と、剣を抜いた歩兵が卿をふり仰いだ。

「殿さまも見てやしたでしょう? こいつ、魔族を逃がしたんですぜ」

「子供を殺すなと命じたのは、わたしだ」

 第六騎士団の歩兵たちは、驚いて卿をまじまじと見上げ、それから、どうしようかと相談するように、ちらりと互いの顔を見た。

 魔族を皆殺しにしろという命令はすべてに優先する。騎士団長とはいえ、それに矛盾する命令はできないはずだ。

 だが、彼らは、上位にある者には逆らわないという習性が身についていた。貴族、しかも第三騎士団長のような高位の貴族が相手では、どちらの言い分が正しいかなど、何の意味ももたない。手討ちにされればそれまでだし、争いになって相手を殺したりすれば、問答無用で自分たちのほうが処罰される。

 それで、彼らは、視線を交わした一瞬のうちに、エイリーク卿に逆らわないことに決めた。それで、剣を抜いていたほうの歩兵が、剣を鞘におさめながら、逆らうつもりはないという意思表示に話題を転じた。

「殿さまのような方が、こんなところで供をひとりしか連れずに、いったいどうしましたんで? 魔族の残党がどこに潜んでいるかしれませんから、危険ですぜ」

「道に迷ったのだ」

「そうですか。なら、第六騎士団のところまでなら、案内してさしあげられますぜ。第三騎士団がどこにいるかはわかりませんが」

「それは助かる。第六騎士団のところまででいい」

 そうして四人は、第六騎士団のもとに向かったのだった。


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 エイリーク卿とその供の歩兵を案内して戻った第六騎士団のふたりは、卿と行動をともにしているあいだ、卿に従順にふるまっていたものの、内心はおもしろくなかった。なにしろ、暴行と殺戮の欲望を邪魔されたうえ、魔族を殺せばもらえるはずの褒賞をもらいそこねたのだ。

 それでも、エイリーク卿が彼らの領主であれば、彼らは口をつぐんでいたろう。領民が領主の機嫌をそこねれば、あとに待つのは破滅ばかりなのだから。

 だが、エイリーク卿は、彼らの領主でもなければ騎士団長でもなかった。彼らは、第六騎士団の騎士団長ブーリス卿の領民であり、しかも、ブーリス卿とエイリーク卿はあまり仲がよくない。

 それで、ふたりは、ブーリス卿に事の顛末を報告した。

 ブーリス卿は、ふたりに褒美を与えると、その後まもなく本軍を率いて合流したグンナル王に、政敵エイリーク卿とその部下の違反行為を密告した。

 グンナル王は、ただちにエイリーク卿とレイヴを召喚した。

「魔族はひとりたりとも逃がすなと、そう厳命したはずだ。しかも、この命は、十二王国の合議の上で出たもの。わが国に違反者が出たとあっては、他の国にも示しがつかぬ」

 グンナル王は、エイリーク卿に向かって言ったあと、そのかたわらに立つ黒髪の歩兵に目を転じた。

「魔族を逃がしたのはおまえだな。名は何という?」

「レイヴ」

「両親の名と出身地は?」

「親の名は知らない。生地も知らないが、ものごころついたときからシグトゥーナに住んでいるから、たぶんそこの生まれだろう」

 国王をはじめ、まわりにいる者たちの顔に蔑みの色が走る。

 ハウカダル島の十二の王国では、身分を問わず、正式に名を名乗るときには両親の名と生地を告げるのが習いであり、それが出自の確かな証とされていた。

 男が妻以外の女を孕ますのは不都合なこととは考えられていないので、両親が正式な夫婦か否かは問題とされない。生地が自国か他国かということも問題とはされない。両親の名を知っているか否かが問題なのだ。

 親の名も出身地も知らぬ者は、望まれずに生まれて親に見捨てられた者、おそらくは身持ちの悪い女か娼婦の産んだ子供という目で見られた。

 それはもちろんその者のせいではないのだが、多くの社会の常で、「子供に責任はない」という発想をする者はめったにいない。「魔族が悪者とはかぎらない」という発想をする者が、めったにいないのと同じように。

 まして、レイヴの国王に対するぞんざいな口のききようは、貴人に対する口のきき方をしつけられていないこと、自ら覚えようともしなかったことを意味している。

 それで、その場にいたほとんどの者たちが、レイヴに蔑みの目を向けた。ことに、エイリーク卿に敬意を抱いている第三騎士団の幾人かの騎士たちは、自分たちの大切な上官が、素性のあやしい男のために苦境に立たされていることに対して、怒りのこもった目をレイヴに向けた。

(どうしてこんな魔族の取り替え子のような者を、軍に加えてしまったのか?)

 レイヴの黒い髪が、魔族の闇の色の髪とは色合いが違うことがわかっていてもなお、その黒髪は魔族の髪を連想させ、彼らの憤りをいや増した。

 とりわけ後悔に駆られたのは、レイヴの属する歩兵隊の隊長である。直属の上官のうえ、レイヴを含むシグトゥーナ市の孤児たちを強引に徴兵したのは彼だったので、責任が自分にも及ぶのではないかと、内心ではらはらしていたのだった。

 ただ、エイリーク卿ひとりだけが、皆の軽侮の視線にも動じる気配のないレイヴの落ち着きように、この若さでたいしたものだと感心していた。

「魔族を逃がしたのは、おまえの一存か? それとも、いっしょにいた騎士団長の命令か?」

 国王の問いに、レイヴは即答した。

「おれの一存だ」

「では、軍規に従って、おまえは縛り首だ」

 非情な宣告にも、レイヴは動じる気配を見せず、エイリーク卿のほうが狼狽した。

「お待ちください、陛下! その者が魔族の子供を逃がしたのは、わたしの命令に従ったからです」

「部下思いなのはおまえの長所だと思うがな、エイリーク。今回のような庇い立ては行きすぎだぞ」

「べつに庇い立てでは……」

 エイリーク卿が言いかけるのを、国王は指を突き出して遮った。

「いいか、エイリーク。おまえは、父亡きあとのわたしを何かと支えてくれた叔父の忘れ形見で、わが世継ぎの王子オーラーブの兄。しかもおまえ自身、わが国になくてはならぬ優秀な人材だ。そのおまえを、規律を守らぬ部下をかばうばかりに処罰するようなことは、わたしとてしたくはないのだ」

 グンナル王の真意に、エイリーク卿は気がついた。王は、事実がどうあれ、軍規違反は歩兵が一存でやったことにしてしまいたいのだ。

「いかに王家の血に連なる者とはいえ、いや、王家の血に連なる者だからこそ、おまえが軍への背反行為をしたのなら、厳罰に処さねばならぬ。……おまえとて、その若さで、妻とまだ赤子のわが子を残して牢に入りたくはなかろう」

 エイリーク卿の脳裏に、遠征に出発して以来、もう半年近くも会っていない美しい妻と、出発のときにはまだ首もすわっていなかった息子の姿が浮かんだ。

 やっといとしい妻子の元に戻れるというのに、牢につながれるようなことはしたくない。

 それに、罪に問われて牢につながれるということは、領地と財産を没収されることを意味している。ひょっとすると、居城も没収されるかもしれない。そうすれば、妻は、赤子を連れて実家に帰り、肩身の狭い思いをしなければならないだろう。

 そんなことはとてもできないと、エイリーク卿は思った。

 レイヴには気の毒だが、エイリーク卿があくまで彼を弁護して罪に問われたとて、騎士団長の命令より優先すべき命令を無視したことに変わりはない。どのみちレイヴは罪に問われ、見せしめのために処刑されるだろう。

 どうせ助けることができないのなら、自分までがいっしょに破滅することはない。

「この男が魔族の子供を逃がしたのは、おまえの命令ではないな?」

「はい、陛下」

 自分の声が、エイリーク卿の耳に、まるで他人の声のように響いた。軍規に逆らって魔族の子供を殺すなと命じたことより、このほうが、よほどひどい裏切りだという気がした。

 レイヴは、エイリーク卿の裏切り行為を意に介していないのか、ふり向こうともしない。

 どうしてこの男はこんなに平然としているのかと、エイリーク卿は苛立った。

 こちらをふり向いて口汚くののしるか、卑屈に命乞いをして醜態をさらせば、これほどの良心の呵責も自己嫌悪も感じずに、この男を見捨てることができるはず。なのに、レイヴはそのどちらもしようとしない。その落ち着きはらった態度は、「最初からあんたがこうすることはわかっていたよ」と言っているかのように、エイリーク卿には見えた。

 そして、卿がそう思ったのはあながちまちがいではなく、レイヴは最初から騎士団長などあてにはしていなかった。逃げ出すチャンスがどこにあるだろうかと、ひそかに思案をこらしていたのである。

「さて」と、グンナル王はレイヴのほうを見た。

「慣例に従って、最期の望みがあるなら言うがよい。かなうことであればかなえてやろう」

「どうせ死ぬのなら郷里で死にたいのだがな。見せしめにするつもりなら、そっちもそのほうが都合がよかろう?」

 グンナル王は鼻先で笑った。

「少しでも死ぬのを先にのばそうという、小賢しい手だな。あいにくその望みはかなえてやるわけにはいかん。帰途は長いというのに、処刑するだけの罪人を連れ帰るという手間を、疲れた兵たちにかけさせる気はない。見せしめなら首だけでじゅうぶんだ。魔族たちと同様にな」

「そうか」

 レイヴは軽いため息をついた。相変わらず、絶望も悲嘆もその美しい面にはあらわれないが、さすがに、あてがはずれて少しがっかりしたという表情になった。郷里のシグトゥーナ市に何の愛着ももってはいなかったが、もっと人里に近づいてから脱走したかったのだ。

 魔族たちの住まうこの森まで、山や森、原野といった道なき道を行軍してきたので、地図もなしにひとりで人間の領域まで戻るのは難しい。レイヴはべつだん方向感覚が鈍いわけではなかったが、ものごころついて以来、シグトゥーナ市を離れたのは今回の遠征が初めてなので、慣れた旅人たちのように星や太陽の位置から方角を知る術はほとんど知らない。

 軍の移動した跡を、最後尾から充分な距離をあけてたどれば、戻れなくはないかもしれないが、魔族の領域にひとりで取り残されるのは危険だ。

 戦いに勝利をおさめ、魔族の村を三つ滅ぼし、村にいた魔族をほぼ皆殺しにしたとはいえ、村にいたのはおもに非戦闘員の女や病人や子供たち。森のあちこちで戦った魔族の戦士たちには、逃げのびた者が幾人もいただろうと推測される。

 現にレイヴ自身、エイリーク卿とともにさまよっていたときに数人の魔族の戦士たちと戦っている。

 それに、別の森に住む魔族たちや、魔族の故郷とされる魔界に住む魔族たちが、仲間の危機を知って駆けつけてくるかもしれない。

 そういったことを考えれば、こんなところで逃げ出すより、人間の住む町が間近に近づいてから逃げ出したほうがいい。シグトゥーナに戻るのはまずかろうが、他の十一の国のいずれかに潜り込めば、追っ手がかかることはまずない。

 隊から離れて四人だけでいたときにさっさと逃げ出さず、おとなしく他の三人といっしょに戻ってきたのも、そんな計算があったからだ。

 だが、いささか楽観的すぎたそのもくろみははずれた。ならば、隙をみてさっさと逃げることだ。

 内心でそんなことを考えているレイヴの横顔を、エイリーク卿は、鋭い胸の痛みとともに見守った。

 エイリーク卿が「殺すな」と命じたとはいえ、軍規違反を承知の上で魔族の子供の命を助けた心やさしい若者。潔いのか、それとも逃げ出す算段でもあるのか、処刑の判決を受けてもなお落ち着きはらい、エイリーク卿に責任をなすりつけようとはしない若者。この男がこの若さで命を失うのは理不尽だと思った。

(魔族と戦ったときにはじつに勇敢だったし、腕前もよかった。わたしひとりではまちがいなくやられていたろう。本来なら、指揮官を守ったとして褒賞されてしかるべきものを)

 心の中でそうつぶやいて、エイリーク卿は、この若者を救う余地がまだ残されていなくもないことに気がついた。はたしてそれが有効かどうかはわからなかったし、へたをすれば、卿自身が王の不興を買う恐れがあったが。

「連れていって始末しろ」

 グンナル王がレイヴの両脇を固めた兵士たちに命じたとき、エイリーク卿は衝動的に叫んだ。

「お待ちください、陛下!」

 王が不機嫌そうにふり返る。

「まだ何かあるのか?」

「その者は褒賞に値するだけの武勲を立てております。それに免じて罪を減じてやるわけにはいきますまいか?」

「武勲とは?」

「ふたりで迷っていたとき、魔族五名に襲撃され、わたしがふたり斃しているあいだに、その者は残りの三人を斃しました。わたしひとりでは、五人も一度に相手をするのは難しかったでしょう」

「やめておけ、騎士団長」と、初めてレイヴがエイリーク卿をふり向いて言った。

「あんたまでとばっちりを食うぞ」

 せっかく逃げる算段を考えているのに、この気のやさしい騎士団長まで罪に問われる状況になったら困る。天涯孤独の自分と違って、地位も名誉もあり、妻子までいる男が、そうかんたんに逃げ出せないのはわかっている。見捨てて逃げるしかないが、それはなんとも寝覚めが悪い。

 レイヴがそんなことを考えていたとき、エイリーク卿の言葉に思い当ることでもあるのか、はっとした表情になった騎士がいた。第六騎士団の騎士のひとりである。

 口を開こうかどうか迷っているその騎士のようすを見咎めて、グンナル王が訊ねる。

「何か言いたいことがあるのか、トスティ」

 名を呼ばれた騎士は、騎士団長の不興を買いたくなかったので、一瞬ためらった。が、へたなごまかしかたをすれば王の不興を買う。

 彼は、遠征のあいだはブーリス卿の指揮下に入っているとはいえ、ブーリス卿の臣下ではなく、王の臣下である。王に嘘をついてまでブーリス卿の機嫌をとる義理はない。

 それでトスティは、自分が知っているかぎりの事実を王に述べた。

「兵のなかに、魔族の戦士を五人斃したと申告した者がおりました。しかし、その者がひとりはぐれていたのはごくわずかな時間でしたし、魔族五人と同時に戦って勝てるほどの実力があるとも思えませんでした。しかもその五人の傷は、ふたりが槍、三人が剣で、いずれも相当な手練れによるもの。だれか他の者の手柄を横取りしたのではないかと不審に思っていたのです」

「なるほど。……この者の所属する隊の隊長はだれだ?」

「はいっ!」と、いきなり名指しされた歩兵隊長が、緊張でうわずった声で返事しながら、直立不動の姿勢をとった。

「この者の他の戦功はどうなのだ?」

「勇敢に戦っておりました。わが隊のなかでは、おそらくいちばんの腕利きでしょう」

 それは事実だったが、歩兵隊長が言わなかったもうひとつの事実もある。レイヴは、魔族の戦士たちとはきわめて勇敢に戦ったが、村での殺戮や掠奪暴行には加わろうとせず、歩兵隊長はそれに腹を立てていたのである。

 そのうえに今回の不始末だったから、この男は魔族に同情的なのではないかと、歩兵隊長は疑っていたのだが、自分やエイリーク卿の保身を考えれば、もちろんそんなことは伏せておくほうがいい。

 王は自分の副官をふり返った。王の乳兄弟であり、騎士たちのなかでも王の信任のもっとも厚い人物だ。

「どう思う?」

「間諜の疑いがある場合、武勇にすぐれた裏切り者は、軟弱な裏切り者よりはるかに危険です」と、副官は答えた。

「しかし、間諜ということはまず考えられますまい。この者が助けたのは無力な子供で、魔族の戦士たちとは戦っておりますから」

「わしも、この者が間諜だとは思っておらん。まがまがしい色の髪だが、魔族の髪の色とは確かに違う。この者はまぎれもなく人間だ。だが、魔族を実際に見たことのない者は、区別がつかぬゆえに黒髪の者を忌み嫌う。ゆえに、黒髪の者は、たいがい、魔族を激しく憎むか、でなくば己れを魔族の血を引く者ではないかと思い、魔族に親近感をもつ。そして、この男は魔族を憎んでいるようには見えぬ」

 王は再びレイヴに目を向けた。

「どうだ? おまえは、自分を魔族の血を引く者ではないかと疑ったことはないのか?」

「いいや」

「なぜ、そう言い切れる?」

「おれは人間だと教えられた。子供のころに」

「なるほど。では、なぜ魔族に情けをかけた?」

「気まぐれだ。ただの子供で、戦士ではなかったしな」

 グンナル王は腹を立てた。王は魔族との戦いに日夜心を砕いているというのに、下々の者はどうしてこう無責任なのか、と。

 だが、レイヴの堂々とした態度に感心もしていたので、怒りを抑えて訊ねた。

「魔族が憎くはないのか?」

「べつに憎くはない」

「では、なぜ戦いに加わったのだ?」

 歩兵隊長が一瞬ぎくっとした表情をした。が、それに気づいたのか気づかなかったのか、彼が内心恐れていた答えとは違う答えを、レイヴは口にした。

「腹が減っていたからだ」

 その返事で、王は、この若者が天涯孤独の孤児だということを思い出した。

 そういう者が食い詰めて軍に入るのはよくあることだ。でなければ、どうしようもないならず者となるのだ。

 この男もならず者だったのかもしれないが、そういう世をすねた者にありがちな荒んだ雰囲気はない。

 王は、つかのま思案したのち、裁決を下した。

「よかろう。軍規を破ったのは重罪だが、騎士団長を守った業績は大きい。その業績と、自分ひとりの罪と認めた潔さに免じて、処刑は免じてやろう。だが、無罪とするわけにもいかぬ」

 王は、エイリーク卿のほうに目を転じた。

「エイリーク、この者はおまえに任せる。次の戦いのときまでに、もっと兵士らしく仕込んでおけ」

 王の一言で、レイヴはエイリーク卿の預かりとなったのだった。


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