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【平成三十五年十月一日】

【平成三十五年十月一日】

 

 首から下げたネームプレートが一瞬照りかえる。『佐々木千夏/Research and Development Organization for Creative Potential Energy創造的潜在エネルギー研究開発機構/本部ラボ研究員/兼/POCKET児童学習センター啓蒙チームチーフ』

私の肩書きが放火されたように見えた。

(炎?)

 何が映り込んだのだろうか? おもわず顔を上げた。

 

 フロアの全方位から見えるように設置されたモニターは錆びた自転車にブレーキをかけるような音とともに、ハレーションを起こす。ぱ、ぱ、と青白い光を放ち続ける。席を立つ同僚達。

「おい……POCKETが見えないぞ」

 POCKETとは私が所属する半官半民組織の頭文字をそのままつけた施設だ。本部ラボ兼児童学習センターがある東京都港区から北に約三百キロ離れた××県の臨海に設営された新エネルギー精錬増幅施設の通称である。一見、巨大遊戯施設に在りそうなドーム型の屋根をもつ。子供部屋のような色合いで、おとぎの城のようにも見える。施設を隔てる壁もまた城塞に似た風情だ。そのPOCKETを撮影しているモニターの中は、まばゆさだけが、理解しがたいうごめきの軌跡だけがしばらくは映る。あ、っと全員がそろって声を上げた。炎だ。青白い炎が次第に大きくなっている。

「燃えている!」

この映像が照り返ったのだ。次第に、といってもこの間は一分もないのではないか。一瞬、炎の間から海を背景に見慣れた壁がのぞく。建物は幾度か青い炎をあげたあと、あざ笑うかのような大きな赤い炎を次にあげる。それにつられたか、おもちゃで作ったような外壁が焼け落ちる様子が見えた。カメラが施設内部の映像に切り替わり、現場作業員が蜘蛛の子を散らすように画面の全方向に散った。幾度も外と内の映像が入れ替わる。 

 めまぐるしい。それに、何を観ているのかよくわからない。今日は避難訓練も事故想定訓練も無いはずだ。誰かが思い出したようにモニターの音量を上げると、現場音声が泣きわめくように響く。

「レベルセブン、緊急退避命令! 全作業員、職員は対応スタッフをのぞき早急に避難せよ!」

「レベルセブンですって?」

 こちらの声を待ち受けていたように画像は黒い静止画となった。テロップが黄色い字で『emergency level7』と流れる。数秒後には画面全部が消えた。

「何があった?」

 数人がモニターを再起動しようと机の上に立ち上がる。電源を入れ直そうとしたときに頭上のスピーカーからも押し殺したアナウンスが響いた。

「本部ラボおよび児童学習センターの職員、研究員に告ぐ。新エネルギー精製施設POCKETに十三時十一分、爆発あり。現在原因捜索中。新エネルギービスキュイ精製増殖の不具合と思われる。これによりPOCKETにおいてレベルセブンの発令。研究本部所属『チームセブン』は即刻本部長室へ集合。これよりPOCKETへの一切の通信は不可能となる。職員及び研究員は上部判断が出るまで最大24時間ラボ待機を命ずる」

 どよめきが起きる。

「『チームセブン』の招集……危機管理マニュアルの最終段階だぞ!」

「こんな時に現場との通信が遮断されるなんてラボは何も出来ないじゃないか」

「ミラークラウドがあるだろ。アクセスしてみろ」

「だめだ、繋がりやしない」

 キーボードを荒く叩く音がそこかしこでする。

「バカだな。情報網自体がぶっ飛んでいる可能性がある。テロじゃないか?」

「やめて! 息子と夫が居るのよ」

 私は机に強く手をついた。他人に気遣う余裕は無い。

 

 これが「あの爆発」といわれる、東北地方太平洋沖地震後の日本経済を返り咲かせた新エネルギー「ビスキュイ」の十年間続いた繁栄の終わりだった。十月一日、十三時十一分。

 

 携帯は繋がらなかった。

(落ち着こう)

 もう四年も我が家は家庭内別居を続けている。職場での地位が上がるにつれて、夫との精神的な距離は離れていった。現場の人間である夫とラボ配属の私は同じ知識を持っているはずなのに、意見の食い違いが増えていった。それはそれで割り切れると思っていたけれど、職場において意見の相違が目立つ頃には不思議に生き方が、あるいは見ている方角まで違ってしまっていたのだ。幸か不幸か、私の栄転で港区の本部ラボ兼児童センターへ勤務先が変わったがきっかけで、家庭内別居から別居になりつつあった。完全な別居は週五日、夫の休みとずらして私が家に戻るような生活が一年ばかり続いている。

 それにしても、たった三百キロがこんなに遠いなんて。そして研究者として覚悟は出来ていたはずだったのだが、緊急体勢に現場と連絡が途絶えるなんて予想もしなかった。

(願わくば、爆発の瞬間を生徒たちが見ていませんように)

 POCKETをのぞむ村の丘には息子の小学校がある。あの炎を見たならば港区のモニターとは比べ物にならない。間違いなくおびえてしまうだろう。POCKETの関係者が98%をしめる○○村では全員が事情を知っているとはいえその身を強ばらせて友達と手を取り合っていることだろう。パソコンを叩く。

(個人のファイルさえ開けない。どうなっているの?)

 開くのは児童センターのホームページしかない。SNSへのアクセスも出来ない。ホームページには震災後の新エネルギー「ビスキュイ」への安全性が歌われている。

 

【ビスキュイは、ビスケットみたいに甘い香りがするよ。海の底に眠っていた新しいエネルギーだよ!】

【「不思議なポケット」みたいにね、ビスキュイを増やすんだよ!】

 画面を動き回るマスコットのキャラクターにやるせなさを覚えて、頭を抱える。児童センターの簡単な説明通り、原発の反省から安全なエネルギーを我々はもとめてきた。海底で見つかった希少物質ビスキュイは、私が卒業した大学系列であるフランスの研究所で発見された。わずかな量を精製増殖する技術により省エネも可能である。その技術は原発事故を背負った日本が、がむしゃらに開発費をつぎ込んだ対象でほぼ極秘に近い精製と増幅方法となる。技術にプレミアを付けて、その価値で日本は潤ってきた事実は否めない。国は震災後の被災者への救済に疲れ果てて、彼らには特に格安でエネルギーを提供する約束もした。結果、民意はやや緩和したし、世界各国への原発後のモラル対応も、すべてこのビスキュイにかぶせた。つまり、ビスキュイは日本の再生を担う叡智だったのだ。金づるであり約束であり、繁栄への切符だった。

 

 徐々にキーボードを叩く音も聞こえなくなるまで二時間もしなかった。誰もがどこへも連絡ができないという状態なのだろうか。

「おかしいよ、関係者の情報全てをシャットダウンするだなんて」

 研究者たちが不満を口にし出した頃、外出禁止のうえに外部の関係者が施設に戻ることもできないと言う噂が出てきた。さすがに認めざるに得なくなった。これはレベルセブンではない。そして、原発事故のあとに想定してきた内容とはまた違う何かで、ひょっとして、もっとたちが悪い事態が起きているのかもしれない。

 

 ラボの扉が荒く開く音がして自分がうたた寝をしていることに気が付く。時計をみると二十三時を回っている。寝ぼけたまま扉の方を見やると、部長が目ばかりぎらぎらさせて帰ってきた。そういえば『チームセブン』の招集がかかって数時間、姿が見えなかったのだ。無言で手招きをされてあわてて席を立つ。前置きは無い。

「全員、地下三階に降りること。その前に」

 部長の手にはラボ研究員分のクレジットカードと現金が入った袋があった。それを投げてよこす。緊急マニュアルのどこにもこのような対処は書いていない。

「これは?」

「急げ」

 乾いた声で部長は一喝した。

「ここに一ヶ月分の生活費がある。クレジットカードは偽名だ。月末に生活費が振り込まれる」

 誰も口を開かない。何かが起こった。偽名でないといけない何かが。帰宅して仕事がなくなるにしても偽名って何なのだろうか。地下までの階段を黙々と降りていく。外履きに履き替える暇もなく、せめてサンダルのストラップをしめ直してついていく。

 

 地下三階は基本、立ち入り禁止だ。ここには最終資料処理ステーションがある。私のようにチーフになっても手続き、印鑑、決まった職位が無いと入れない。一ヶ月に一度来るか来ないかというところだ。半官半民の面倒さでもあるのだろう。その手続きの難儀さから港区の観光名所として見学コースまで設置したラボ内にありながらも隠し部屋のような存在だった。理由は誰でも察することができるだろう。機密資料の処理は業者といえども部外者の介入が国から禁じられている。つまり、機構の人間が処理に当たっている。

 その特別な役割を持つ人がいるフロアに、あえて階段を使って私たちは降りてきた。彼が飲むどくだみ茶の匂いが漂っている空間に舌を抜かれた行列のようにやって来た。

(なぜここへ降りて行かなければならないのだろうか? これからどうすればいいのだろうか、どうしてエスカレーターではなくて階段だったのか? )

 特別な役割の人とは合力さんその人だ。POCKETが出来てから一人で情報最終処理を司っている。齢は六十を過ぎているのではないか。全データは合力さんの監視下で、無意味な記号の羅列や溶解マシンへと消えていく。巨大なコンピューターでいくつもの画面とむかいあう合力さんは小柄に見える。今日は一層小さく見える。薄明かりのともる昼とも夜ともつかぬフロアで粛々と価値の在る(あるいは屑のような)データが様変わりして消えていく。ここは関連施設全情報の三途の川だった。合力さんは人間でありながら閻魔大王のように数台のパソコンとスーパーコンピューターを使ってデータをさばいていく。その作業はPOCKETのできたとき、いや、ずっと前から行われていてこの先も続くような錯覚を覚える。

 彼は白髪のいがぐり頭で、目はいつも眠そうで穏やかに見える。時に、大好きな能の謡を小声で歌っていた。やや音痴な謡は、焼鳥屋さんで友人達と待ち合わせがあるときかお孫さんが来る日と決まっていた。はたまた能を見た翌日だった。大学で能楽サークルにいた私はすぐに聞きつけて、仕事にかこつけてはマニアックな話をしにやってきた。学生の頃にかじった下手な仕舞いを舞い、合力さんを吹き出させた。度が過ぎて上司から長居がすぎると内線で呼び戻されるほど盛り上がる日もあった。

 けれど、今日はお孫さんの満面の笑みが写るフォトスタンドが倒れていようと気がつかないばかりか、合力さんは笑顔を見せることは無かった。研究員の白衣とも違うPOCKETの現場の制服、灰色の作業着が皺の刻まれた顔を一層顔色悪く見せている。作業着には不釣り合いな最高上席研究員のバッジが襟元にぎらぎらと光っている。これはいつものことだ。

なぜ、現場のシンボル作業着にこだわりながらもラボの名誉であるバッジが光っているのか。研究者には派閥や学閥があり、職場を追われる憂き目もよくある。普通は研究者がそう言う扱いを受けた時には現場に回されてやめていく。おそらく現場に飛ばされた過去のある人、合力さんなのだ。本部ラボに帰還できた彼には何かしらの理由があったのだろうとまわりは話していた。合力さん本人はあまり話す人ではなかった。ただ、最高上席研究員のバッジにラボ関係者は一目おいていた。このバッジを持つ人は高齢の名誉職で、生きている人では合力さんをのぞいて出会ったためしはない。ゆえに尊敬を込めて立ち話もしたし、例外無く研究員は合力さんに信頼を寄せていた。滅多に遊びにこられない地下三階で合力さんが話してくれることは、上司の若い頃の粗相、技術の思わぬ落とし穴……。訪れるたびに閻魔大王とは思えぬ心躍る話をしてくれたので、地下三階に行った人間か地上へ戻ってきたならば三十分は業務が滞るのだった。謎が多い人で、なぜだか頭に傷の在る合力さんは奥さんが編んでくれたという毛糸の帽子を目深にかぶったまま、部長と視線を一度合わせたのを合図に狭い管理室のドアを開いて頷いた。一言も説明はない。

(合力さん、いつもみたいに軽口をたたいて、お願い)

管理室に入るように促されて同僚が口を開く。

「部長、何がおこっているんですか! 合力さん、説明してください」

 尋ねる同僚に部長は口元を覆うようにして顔を背けた。しかし、すぐに向き直り無理に微笑むのが伝わる。

「大丈夫だ。元気でな」

「よくわかりません、管理室で何をするって言うんですか?」

 ドアの音がする。しばらくの間。規則正しく聞こえるはずの処理にあたる機械の一群も息を殺すような静けさだ。 

 

 入っていった同僚は戻ってこなかった。合力さんおすすめのドクダミ茶が置いてあって、今入っていった同僚が渇きを潤しているはずもない。誰もが耳をそばだてた。管理室の中での気配は部長と合力さんだけ、二人だけだ。おそらく、ここからどこかに続いているのだ。なぜ一人ずつなのかもわからない。夜か昼かもわからないフロアになかで、不安は最高潮に達していく。携帯の電波も入らない。誰も何も答えない。そのまま順番が回ってきた。部長の泣きそうな顔に頭を軽く下げた。部長も下げた。促されて入ると管理室には合力さんの好きな能の本や将棋盤、鼓がある。湯のみとかりんとうと、たまに遊びにくるときのままの管理室だ。ほ、っとしたのもつかの間で合力さんになんて言えば良いかわからない。管理室の一部になってしまったような能の雑誌の表紙に目を泳がせる。

「来月ね、『道成寺』のチケットをとったんですよ。合力さんが一番好きなお能でしょ?」

 いつも通りの生活がこの後に続くような口調で言った。

「俺たちはこれから本当の『道成寺』をみることが出来るさ」

「いやだな、冗談ばかり。大蛇でも現れるからこんな風に逃げ出して居る……」

 合力さんは無駄口を止める様に背中を強く叩く。

「佐々木さん、時間がない。あんたとは研究と能の話が出来る良い友達だった」

 そして強引に握手をしてきた。さらに背中をどんと突き放す。管理室の書棚の向こうはトンネルだった。

「いけ! ○田さんも△本君も途中まで一緒のはずだ。広尾の赤十字の付近に出る。掌のもの、落とすんじゃないぞ」

 一人一人にルートが組んであるのか合力さんは手元の書類をみながら経路が書かれているコピーを渡してきた。

「あんたは右、右、右、最後は左だ。絶対に間違えるな」

確かめる間もなく泣きそうになった。なんで最寄り駅じゃないの? なんで偽名のカードなの? 渡された小さな懐中電灯をたよりに狭い地下道をひた走った。何が起きたのかを誰も答えられない今、ラボ用のサンダルのつま先に水がしみる感覚だけがリアルだ。同僚達はほとんど差をつけずに出て行ったはずなのに、一人も会えない。道は一緒のはずなのに。時折転び、時折歩き、前方に明るさを感じて再び滑りながら走る。目の前に錆びた扉が見えて、数センチ開いている隙間に指を差し入れる。ためらわずに開ける。開いた!

 

 ほこりくさい室内には灯りはない。古い担架や薬の缶が転がっている。

(物置だろうか)

 先ほどと同様に、誰かが先に外へ出たらしい。地下とは違う香りがする。正真正銘の外へと出るらしい扉が開いている。顔を出して様子をうかがう。おそらく病院の敷地内のどこかなのだろう。空気が美味しかった。ようやく生きた心地がした。つま先のストッキング越しに柔らかい草が触れて深く呼吸をした。辺りを見回すと病棟の灯りが見える。気が抜けてぺたん、とすわりこんだ。同時に掌の力も抜けて何か落とした気がした。

(メモ?)

 どさくさにまぎれて握らされた紙片に合力さんの字が筆圧強く刻まれている。

「一週間後、この店で」

 住所をみると新橋の飲み屋らしい。わけがわからなかった。悪いけれど家に帰る。息子の側に戻る。こんなときに合力さんとお能の話で飲んでいる暇はない。

「先生、何をさぼっているの? ほら、処置室が見えるでしょ! 急患だらけよ? ××県に手術中の先生以外、ひっぱられていっちゃったんだから!国が招集命令出したのよ。迷惑な話よねえ」

 白衣を着ていることで医師に間違われたと気が付いたときはすでに、看護婦さんに腕を引っ張られていた上に相づちをもとめられていた。

「ねえ、って。あの、何の招集命令ですか? 私は」

 腕を引かれながら人だかりのロビーを通ったとき、看護婦さんは顎をしゃくる。

「さては研修医ね? あれよ、あれ。ずっと同じニュースばかり」

「!」

 あれ。あれは、昼に観た同じ映像ではないか。ただし角度が違う。機構やラボが提供した記録映像ではないのか。いや、一般人の投稿らしい。看護婦さんの腕を振り払う。テレビにはくりかえしPOCKET爆発映像がながされている。

「つまり、新エネルギー通称ビスキュイは安全だと国も国との合併研究機構も言っておきながら、精製には非常に複雑で危険で不安定な方法を用いていたと?」

 アナウンサーがしたり顔で専門家らしき男に尋ねている。

「もともとビスキュイは海底の水圧がかかった状態でこそ安定している物質なんです。それ自体は無害といって過言ではありませんが、精製し、増やしていく技術は震災後のエネルギー不足と原発の代替案として、たった数年の検証だけで実際に使われている訳ですからデータの信憑性は通常よりも低い可能性がありますね」

 自分の血の気が引いていることがわかる。看護婦さんが様子のおかしい私を見て、声をやわらげた。

「十年前の原発事故を思い出すわよね。 気分が悪いって言ってくる人が続出でベッドは一杯ですもの。何が史上最悪なのか医療現場ではまったくわかりませんよ。先生はどこの科? その顔じゃ、昨日も夜勤ね。真っ青だわ。とりあえず仮眠したらよろしくお願いしますよ。あら、また急患だわ」

 看護婦さんはしゃべりたいことをしゃべりきって、行ってしまった。こちらは引き続きアナウンサーの声を追う。

「現在××県には関係者と救護関係者、自衛隊と警察官以外の立ち入りは禁じられております。繰り返します、全ての交通機関は××県にアクセス出来ない状況となっております。××県の方にお知らせします。この爆発事故で放射能等の有害物質は現在確認されておりません。繰り返します……」

 ああ、この現金は宿代というわけだ。そして一ヶ月経っても戻れない可能性があると言うことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【平成三十五年十月A日】

 

 息をひそめてビジネスホテルでテレビとネットばかりみている。ラボが一部の研究員を逃がしてくれた。それはおぼろげにわかっている。同僚の消息を知りたくてネットを開けば連日関係者が憂き目にあっている。社員寮は放火され、その画像が散々な悪口とともにネットを回っている。ミラークラウドも閉鎖されているし、状況や安否を確かめたい不安でどこかに連絡を取りたくなる。とはいえ、関係部署の番号など二、三をのぞいて暗記はしてはいなかった。連絡先はほとんどの人と同様にパソコンや個人の携帯の中だった。言うまでもないが、いずれの関係施設の代表番号も一切つながらなかった。幾度も試してみたのだが。

 ここは渋谷なので本部も児童センターもどうなっているかわからない。けれど、十年前の原発反対のデモと比べ物にならない規模の人々が研究所に押し寄せている情報もネットで知った。

(新しいエネルギーに貢献をしたはずが、国と一緒に世界や日本中の人を欺いた評価になっているのだなんて)

 怒りとも不安とも言えぬ気分に駆られてパソコンの電源を落とす。それでも毎日息子の徹には電話連絡が出来た。それだけが過言でなく今の心の支えだ。徹は同じ境遇の友達と小学校で励まし合って暮らしているらしい。あいにく地元にはラボの人間はいない。ほとんどが現場作業員なので、もっと混乱をしていると思われた。徹の説明でもわかることだった。つまり、夫とは依然連絡は取れていない。徹曰く、一度も施設から戻ってきていないと言う。息子の携帯電話も通じないらしい。

「徹のパパだもん、大丈夫よ! いつか徹とPOCKETの中を見学したよね? お友達のお父さんと力を合わせてがんばっているはずだわ」

 電話の後ろでは私たち同様に電話をしているのか、泣き出してしまった同級生の声がとぎれとぎれに聞こえてくる。

「ママ、パパは現場の責任者なんでしょ。パパが居ればどんな事故だって平気だよね。でも、大きな青い炎が上がったんだよ。僕、心配だ」

 小学六年生の息子なりに

(死んでいないだろうか?)

 と、離れている母親に言えないのだろう。案の定モニターで見たよりも爆発は生々しいものだったのだ。

「POCKETはね、現場のなかも安全なのよ。パパもお仕事が終わったらすぐに戻るわ」

「ママにも会いたい」

「ママも徹に会いたいわ。もう少しよ」

 いつに戻れるかなんてわからないけれど、毎晩そう言いながら電話を切るしか今は手段も無いのだろうか。そう思うと××県の側に行こうと思うが、交通機関の混雑や、関係者に向けられた憎悪の中で無事に帰り着けなかったときのことを思うと連絡が取れるここに居る方が賢明ではないかと思いとどまる。大きなお金もないのでクレジットを出したときに駅でばれたらとおもうと、それも怖い。

「もう!」

 枕に顔を埋める。別居の気楽さと淋しさの中で予想もしない現状だった。十年前の震災のときは、愛し合っていたから怖くなんかなかった。むしろ、新しいエネルギーへのあこがれと自分たちの生き方の方向が一致していた中で、幼い息子を抱えてPOCKETに骨を埋める覚悟を夫と誓ったのだ。

(会いたい)

 やはり、冷淡な夫に会いたかった。こんな時だからこそまた理解し合えるかもしれない。世間は誰もが十年間の鬱屈、明るい未来が翻された不信感で私たち関係者を憎んでいる。同じ立場だからこそ、わかってもらえる。わかってあげることができるはずだ。夫に会いたい。なんとかして、一日でも早く夫と息子の顔を見たい。状況を知りたい。どうしたらいいのだろうか。 

 一週間は瞬く間に過ぎた。合力さんとの約束である今日が初めての外出である。新橋のうらぶれた居酒屋で待ち合わせということになっていた。同僚達はいずれも連絡が取れないままだ。正しくは留守というよりも電話番号が使用されていないとうアナウンスが流れておしまいだったし、携帯の使用から同僚達の居場所があばかれて引きずり出されるという噂もネットでは流れていて、おちおち慰め合うこともできない。だから、合力さんに会うのがとりあえず帰るための一番の近道だと思った。合力さんの愛用の帽子に似た地味なニット帽をかぶり、こそこそと地下鉄に乗る。

 地下鉄は思ったより閑散としていた。ラッシュよりも前だからなのか、十年前の原発事故でも逃げなかった人が今回こそ逃げたからなのか、ホテルで宙に浮いたようなネット情報を見聞きするのみではわからなかった。ところがJRの駅に降りた途端、人だかりと怒号に包まれてしまった。肩をすぼめ、持っていた鞄を前に抱き、我が身を守るようにして改札をくぐる。目が血走った若者。サラリーマン。妊婦。誰もが私たちを糾弾していた。改札の前を、巨大な引力に吸い込まれていくようにプラカードをもった学生がミニスカートの裾を翻して駈けていく。まっすぐな瞳だ。

「POCKETを今すぐ止めるんだ!」

「俺たちをだました責任をとれ!俺たちはモルモットじゃない!」

 新橋と言えば施設にも近いし、なんでそんな場所を合力さんは指定したのだろう。踵からいきなり背骨を引き抜かれたように、腰がふらふらする。怒りのオーラに汗が吹き出る。プラカードが夕日を反射して時折目を突いてくる。駅近くの裏路地を入り、油と酒の匂いがする道の奥へと進む。

 やぶれた赤提灯の店の、さらに一番奧。そこに合力さんは座っていた。鳥皮のやける香ばしいにおいが店一杯に広がっている。座敷席のあがり口にはゴム草履や底がすり切れたサンダルなどがひっくり返ってごちゃごちゃとしている。合力さんは隣の席の工事現場の若い人に交じるようなジャージ姿に、なぜか能の雑誌を持っていた。

「佐々木さん、無事でなによりだ」

 合力さんは俯いたまま微かに笑おうとした。ここまで駅前の怒号は聞こえてきている。私はかるく頭をさげて向かいに座る。何か言おうと思ったら合力さんはそのまま独り言のように続ける。

「いいかあ、絶対にラボに戻ろうなんて思っちゃ駄目だぞ。昨日すでに二人が重傷を負っている。一人は行方不明だ。多分助かっちゃいないよ」

 そういってビールをグラスについでくれた。

私は、自分の目の縁が涙に濡れてくる感覚がわかった。

「おっと、懐かしがっている暇はないんだ、泣くな、いろいろ面倒だ」

指先で虫を払うような仕草をして合力さんは口の端を少し引き攣らせる。あわてて拳で目をこする私に彼は語りだす。 

「俺はこの研究の残党でよお」

 砂肝を箸でわけながら合力さんは

「食っとけ。走れる様に食え」

 と、せかす。こちらとしても聞きたいことが沢山あったけれど、とりあえずまともに食べていない精神状態に気が付いたので素直に口にした。

「変な言い方だがこの事故が俺の生きているうちで良かった。今からする話を聞くのはおそらく生きている本部ラボの研究員ではあんた一人だろう。まあ、マスコミじゃちょこっと尾ひれ背びれがついて流通している裏話だが、あんた、実際に専門外の人達が不安で膨らました話が存外そのまんまっていうのは、口にするのも怖いこった」

 生きている? 裏話? 怪訝な顔をして箸を止めると、合力さんは表情を変えずに続ける。

「あんたのところの部長は昨日、自殺したよ。そう云う処理になっている。赤坂のホテルから連絡があった。あいつは俺の後輩だったからねえ。今回の事故でPOCKETの再稼働に懸念を示した矢先だよ」

「どういうことですか?」

「まあ、黙って聞け。俺と一緒に研究した末にPOCKETの稼働を阻止しようとした数人は、一人残らず現場に飛ばされてね。面白い偶然だろ? 脳溢血だとか心不全とかでお陀仏よ。俺も不思議にもPOCKET稼働が決定する一年間だけ記憶障害を持ってるの。入院までしていたしねえ。複雑骨折をあちこちさ。現場で高いところから突き落とされたのね。肝心なときに病院に居たし、覚えていないんだから、本部ラボにも戻れたのだろうね、あんな形でだったけれど」

 話の区切りに滑り込むように質問しようとした。合力さんは再び手で制す。

「時間がないから食いながら聞いてくれ。結論はこうだ。ビスキュイの精製増殖をやめなければ、またこの規模の事故は起こる。十年前の原発事故よりも、もっと水質被害が拡大する。単純に洗浄でしか後始末ができないからだ。それはPOCKETにはありがたいが海も川も泣きを見るねえ。放射能被害にあった人達は更に健康被害を背負う可能性が濃厚だ。放射能被害よりも顕著に症状が出てくる可能性は、あんたもデータから想像はつくだろう? より短期に、より激しい遺伝子の破損結果が出ている。もっとも、そのデータは業界で言う『屑データ』として本部にはあがっていないのだよ。聞いたことがあるだろう?」

 私はかすかに頷く。現場や補助研究機関からあがってくる情報は、きわめてビスキュイの未来を祝福する結果ばかりで、

「ここまで都合のいいデータもすごいよね」と先輩の誰かが教えてくれたのだ。組織のどこかには屑データがある。都合が悪い内容はラボや決定機関にあがる前に葬られてしまうという噂だった。けれど、似た話は薬学の世界でも多い。酒の席の怪談にすぎない。ネットに溢れる似た類の話はデマだと思っていたし、素人の検証等、専門家が検証すれば幼児の落書きに過ぎないと思っているのが普通のことだ。

「国はこの開発のために莫大な資金をかけたから、止めるわけにはいかないのだよ。とにかく洗って、またふしぎなPOCKETを叩いてみたいのさ。勿論オフレコだが、十年前に日本は破綻していたのだ」

 合力さんは首筋をおっくうそうにかきむしりながら話した反応を確かめるかのように目を見てくる。そんなことを言われたって信じられるはずも無いから黙っている。

「だがな、リーマンショックの後遺症とギリシャの好き勝手がたたり、世界は破綻を認めなかった。自己破産ができない会社みたいなものだなあ、こりゃ。アメリカがシェールガスを掘り出そうがあの程度だっただろう?」

 陰気な雰囲気に気を使ってか、店のおばちゃんが大げさに笑いながら皿を突き出す。

「ひさしぶりだねえ! ご注文のネギマが焼けたよ」

甘いネギの香りがする。合力さんは普段通りの笑顔で、おばちゃんも相変わらず若いね、と声をかけたと思うとすぐに真顔になってこちらを向いた。

「日本はさ、未来永劫背負うくらいのローンを組んでビスキュイをちょびっとEUから買った訳よ。あんたも知っている通りだ。本質的には悪いものじゃない。開発技術は日本しか持たないけれど、ビスキュイ本体はヨーロッパの領海にあったからね。ギリシャの件でふっかけられたさ。本体を何百年もちびちび使うつもりで、あれやこれやの薬品を生み出して水増すように化学反応をさせてきたわけで。その辺は専門だろう?」

 計算上は300年の保障はされている量だ。この認識が機構の常識だった。けれど、合力さんの口ぶりだと、有り金をはたいてわずかな備蓄をだましだまし使っているとしか思えないではないか。

「純粋ではないビスキュイの安定性はどんどん崩れていく。なのに打つ手も無い。俺たち反対派はすでに十年先の事故が予測できた。だからビスキュイとPOCKETを駄目にする化合物をつくったの。それがばれちゃってね、みんな俺の仲間は死んじゃったんだと思うんだ。俺達の間じゃ、そいつを『inori』って呼んでいたよ」

 合力さんはくすくす、と嬉しそうに笑う。どうだい、と言わんばかりではないか。

「わ、笑いごとじゃないでしょう?」

 正座をして息子を叱る様に背筋を伸ばす。

「そんな話、誰も信じられないでしょう? 開発した『inori』って具体的にビスキュイをどうするんです? 研究員の権限を越えています。下手したらエネルギーテロに近いじゃないですか。そもそも……なんで稼働させたんだって話や借金なんてとんでもないよ、ってなること、一国民として普通に感じますよ、内部の人間だって」

「佐々木さん、そもそも論が通用する状況かね? 今」

 肉をひきぬいた後の串を指先でくるくると回しながら合力さんは溜め息をつく。

「そのときの日本は四面楚歌だったのよ。各国に信じてもらえることと言えば頭脳力や技術開発力以外はなかった。だからそうせざるにえなかった、というのが国の言い分だろうけれど、本当にそうだったのか? って考えるのは歴史や政治で飯を食う奴らの話」

 これはまったく帰宅するための云々とは大きく話がずれてきている。確かにそもそも論を展開している時間はない。私の話もしなければ。しかし、合力さんの目は笑っていない。

「人間さあ、この震災後の十年もそうだが、気がつかずに地獄や天国に住んでみたり通り過ぎたりしているものだよ。とにかくあのときの日本に国は戻りたくない。止めたくないだろうねえ。自然環境と何十年先の国民の健康を守るには今を乗り切らないと国が終わってしまうと偉い人たちはいうだろうからなあ。未だ原発事故の後片付けも終わってないし、ビスキュイの開発権利でEU以外にはむしろ良い顔しているしさあ、表向きには洗浄した水は原発の経験をいかして適切な処理をして事故は無かったことになるって算段だよ。最後は金だよ金。でも、おかしいこった。何十年先、この爆発のせいで守るべき健康体がほとんどなかったら、それこそ国は終わってしまうんだから」

「……なんで私に話すのですか? 私だってこの一週間、不安で泣いてばっかりで、合力さんにお会いしたら帰る方法がわかるんじゃないかと思って……こちらの話だって聞いてくださいよ!」

 混乱と不安で俯く私にビールを注ぎ足して、合力さんは自分も困った顔をした。

「悪いねえ、本当に時間がないんだ。さて、あんたにしか話さない理由? 簡単さ。能の話が他の奴らはわからないからよ」

「え?」

「いいかい、さっき言った様に、俺は何故か一年間記憶がぶっとんでいる。けれど、それも勿論予想出来たことだった。仲間が数年おきに死んでいく。だから『inori』を作ったってところまで話しただろう? そいつをビスキュイ本体の上に注ぐシステムを組んだのよ。もっと詳しく言えば、ビスキュイを高圧保存する環境下で作用する。今回の事故は精製増殖部分の事故だと判明した。つまり、もとのビスキュイは無事だ。だから逆に言えば、もうこんな規模の事故を起こさないためのチャンスがまだあるってことだ。再稼働する前に『inori』投入システム稼働の許可をだせば……システムはのこっているから、ビスキュイは全部ぶっ飛ぶ。そういうはずなんだ。おっと、タイムアップ。俺はここの焼き鳥が好きだったなあ」

 合力さんは腕時計を確かめて手遊びしていていた雑誌をこちらに渡す。

「よく見ろ、この能の雑誌を。俺が記憶を失う前に妻に託したものだ。道成寺だけの特集だ。俺はずっとこれを抱えていたらしい。『inori』を投入するシステムを作ったこと、それを作動させる仕組みを作った記憶はある。ただデータがどこにあるか思い出せないんだ、ファイルを開けたらその手順通りにキーワードを作動システムに入れていけば良い、簡単なんだ」

「そんなこと、ラボに残っている方に頼んでください! 過去データは港区のラボが駄目なら都内の関連施設かミラークラウドにあるでしょ? 私、息子の側に帰りたいんです」

「そのうち国が動く。そうしたら息子さんに会えるさ。さて、ファイルだがそこが問題なんだよ。本部ラボだとすぐにばれてしまうだろう? 俺はそのファイルを現場の膨大な屑データの中に隠したんだ。本部ラボから逆アクセスをしたのだと思う。けれど、そこから先の記憶が無い。現場の屑データは過去十年分、ずっとどこかに集められているけれど、それも俺は知らない。いや、知っていたけれど、今は忘れてしまった」

 苦しげに合力さんは咽せた。時間がよほど気になるようであちこちに目を泳がせる。明らかに誰かを、何かを警戒している。

「俺は妻にずっと言っていたそうだ。『道成寺の蛇は辛いだろうよ、己の罪を背負って成仏も出来ないんだ。はやく解き放たれて、あるべき世界に返してやるのが筋さ』ってね。ビスキュイはさあ、海底に戻すべきだよ。いくらふしぎなPOCKETで科学の力とやらで増やしたって、おふくろさんが一枚やいてくれるものにはかなわんさ」

 お手上げだ。合力さんの言う意味が分からない。ただ、これ以上ビスキュイを精製して増やすことで、もっと被害は増える危険性を訴えられている。そして、ややこしい起因が国の事情にも関わっているらしい。

「言った通り、国が動き出している。安心しろ、息子さんには会えるよ。悪いが旦那の方は保証しない。今の施設からの情報は俺でも閲覧出来ないくらいに暗号化が厳しい。完全に国の奴らが牛耳っている」

 血の気が引く。

「俺は本部ラボに戻るけれど、二度と会えると思わない方がいい。監視されているからな。ここでのデートは、もうばれているかもしれない。この先、十年前の原発事故よりも大規模に国は動き出す。なんといっても十年分の負債とビスキュイの借り入れもあるからな。信じられないことをしでかすかもしれないぞ。いいか、佐々木さん。家族を守れ。家族を守るってことは家族以外も守るってことだ。絶対に家族を守る方へ動け。道成寺だ、道成寺だぞ。それしかヒントが無いんだ」

「合力さん……ごめん、わからない! どれも出来ないと思います。息子に会えたらそれでいいの、私。あの……」

 窓に向かって合力さんは視線を走らせた。あわてて残っていた砂肝を押し込む。緊張した面持ちだ。腰を浮かせた。

「舌の裏に隠せ」

 テーブルについた腕で反動をつけて立ち上がりながら、もう片方の手ではだかのガムを私の口へ押し込んでくる。

「油性マジックで書いているから大丈夫。ラボ統括本部長の屑データから拾ったエマージェンシーパスワードだ。あいつは政治家の筋と繋がっているから当分使えるはずだ。今朝、国のエネルギー参考委員会に招聘されたからな。ウハウハでデータなんざ当分目に入らないだろう。これがあれば屑データから必要なファイルが拾える。施設の出入りもできるはずだ」

 これを貰ったら託されてしまう。出して戻してしまいたい。   

「出すな! 店を出たら駅とは反対に走れ。絶対に振り向くな。ガム、飲んじゃ駄目だぞ! あんたとは、ゆっくり能を見に行きたかったよ。じゃあな」

 言い終わるや否や合力さんはサンダルを突っかけた流れのままカウンターに一万円をおいた。と、思ったら驚くような早さで新橋駅のデモ隊の方に出ていく。

「合力さん! そっちは危な……」

 咄嗟に追いかけようとした瞬間に、合力さんの小さい姿はプラカードの波に飲まれた。目を凝らす。見えた。追いかけようと思った。デモ隊の人ではない誰かが後ろから合力さんに近づく。嫌な予感だ。

(そうだ、携帯を鳴らそう。逃げて!)

 二人、いや、三人。黒いスーツに身を包んだ男たちが合力さんの左右を囲んだ。合力さんが崩れ落ちる姿が見えた。

 罵声も怒号も一定だった。男たちは、酔っぱらった仲間を真ん中に抱える様にデモ隊を横切る様にして消えていく。一人がこちらを向いた気がした。

 

 走った。どこまでも言われた通りに走った。わけもわからないで曲がり角をいくつも曲がって、口からガムを出した。

(数字、32桁も)

 機構のものでも本部ラボのものでもここまでこまかな数字の羅列はみたことが無い。持っていた携帯にメモをした。そらんじながら気がすむまで新橋駅とは正反対の方へ慌てていないそぶりをして歩いた。歩きながら渋谷まで戻るころには覚えた。

(覚えたけれど、使いたくなんか無い)

 合力さんの話してくれたことと、私だけに話した理由。それらは現状にあまりにも釣り合わない。全く関係ない気がする。うやむやのまま、ここから逃げていきたい。安全なところへ。息子と夫のところへ。元の暮らしへ。

 

 カーテンを閉め切ったホテルのベッドで頭痛を覚えている。

(合力さんは殺されたの? 部長も本当は殺されたの? 夫は元気なの? 息子は眠れているの?)

 冷静に考えてみる。合力さんの話は信じられない。けれど、合力さんや部長が殺される覚悟で研究員を逃がしてくれたならば、さらに合力さんは最初から私にこの話を伝える行為と命を引き換えにしたならば伊達や酔狂とも思えなかった。メモやガムの用意など、思いつきでできる行為ではない。合力さんが大事に抱えていた能の雑誌は、長い間愛読されたというよりも握りしめられていたようで、するめのように丸くなったままでデスクの上にある。開いてみるしか解決法はない気がした。

 

 雑誌には道成寺のストーリーから見せ場から、作者から謡までのっている。ぼんやりとそれを目で追う。能が好きな人間には見慣れた本だった。能を舞うシテ(主役)の衣装や演出の違いなど、素直に楽しめる内容だ。

【あらすじ::::

 紀伊の国、道成寺では春うらら。再興した釣り鐘の供養が行われることとあいなりました。住職は在る訳があるので女性が来ても絶対に中に入れてはならぬ、とお触れを出します。しかし、一人の白拍子の女が供養の舞を舞わせてほしいと寺男に頼み込み、供養の場に入り込んでしまいました。女は独特の拍子を踏みます。舞いながら鐘に近づき、ついにはあれよあれよと鐘を落としてその中に入ってしまいました。慌てた寺男は住職に報告をします。ことの次第を聞いた住職は、道成寺にまつわる恐ろしい物語を語り始めました。昔、真砂(まなご)の荘司(しょうじ)の娘がおりました。両親は娘かわいさに半ば本気、半ば冗談で毎年宿を貸していた山伏が将来の夫に成る人だと娘に告げていたのです。恋をしてしまった娘は山伏に尋ねますが、事情を知らない山伏はあわてて逃げてしまいます。娘は裏切られたと思い込み、恋する思いの強さから毒蛇となり、日高川をこえて山伏を追いました。ほうほうのていで道成寺の鐘に隠れた山伏ですが、毒蛇は恨みの炎で鐘もろとも焼き殺してしまったと言う話があったのです。

 今も女の執念が残っていると知った僧たちは、祈祷して鐘を引き上げましたが、鐘の中からは蛇体に変身した女が現れます。僧達は心を合わせて念じます。三千世界の仏、龍神の力を借りて調伏を試みます。争いの末、祈りが通じたのか毒蛇は鐘を焼くはずが、炎でわが身を焼きながら、川の底深く姿を消していくのでした。】

 

ページを閉じる乾いた音が室内に響いた。

(蛇。川。水。解脱できない魂。山奥。鐘。桜。山伏。娘。僧。仏。龍神。)

 ストーリーから言葉を抜き出してみる。さっぱりわからない。そして、能がわかるという決定打により託された諸々が負担になると覚悟の上で、合力さんは私に話したのだろうか。確かに能の話はできるし、夫と息子を心配している。職場を大好きだった。だからといって、日本の行く末や何十年先の国民の健康など見えるはずもない。夫婦関係は崩れかけているし、偽名で暮らしている現在。研究以外に安定している要素なんか、何も無い女だ。それすらも今は無いではないか。公私ともに国のエネルギー事情に判断を下す決め手になるものなどなかった。無論、一個人が決めることでもない。あれではまるで私にPOCKETを止めろ、ビスキュイを駄目にしろと遺言を残したようなものだ。人生の決め手も研究員としての決め手も、よれた雑誌に託されているだなんて馬鹿げていた。

 カーテンをそっと開ける。外はひっそりとしている。街は節電をさらに強めている。

(きっと、どの同僚より孤独だわ)

 家族を思いたくてもその家族は壊れかけていて、夫に関しては安否もわからなかった。研究者の私が知っているデータが噂通り上部の意志によりえり好みをされた結果ならば、怪談程度の認識に過ぎなかった憶測と、現場の夫と諍いの元になった「ビスキュイの真性は安全とは言えない事例」を考慮すれば……もしもそうであれば……確かに日本の未来は極度の土壌穢染を念頭に入れる必要がある。だからといって、政治は相容れるはずがない。考えてみてもそこに戻るのが筋だ。

 

雑誌をめくり、戻り、外をのぞき、まためくり、能の謡を思い出してみるけれど化学的な要素などないからこそ惹かれているのであって、私にとって能は能のままだった。そのまま頭を抱えてベッドで眠りに落ちていった。

 

 

 

【平成三十五年十月B日】

 

「家族を守れ」

 不意に合力さんの声が響いた気がして、目を覚ました。ホテルの内線が鳴っている。一体、誰だ。点滅する明かりがせかすようで、受話器を耳に当てる。柔らかいフロント係の声がした。

「山田様(私の偽名だ)、ロビーに前職場の上司の方が忘れ物を届けにいらっしゃいました」

 誰が来たというのか? とても混乱をしていた。同じフロアの研究員だったら、打ち明けて一緒に考えてもらえるかもしれない。同僚の大半が十年前の震災で家族や家をなくしてきた。だからこそ、この研究所に居るのだから。きっと一人で闘わなくていいはずだ。合力さんの話の裏だって取れる。申し訳ないが、判断が出来る人に日本の将来を託せば良い。

 孤独というのは本当に恐ろしい。考える間もなく、あんなに用心していたくせに帽子もかぶらずに嬉々として降りていってしまった。エレベーターの扉が開いたら、ロビーのソファに人影があるはずだと思ったが誰もいない。ひょっとして関係者だとばれて、誰かに連れて行かれたのだろうか。大きなフラワーアレンジメントの陰からロビーの奥までのぞいてみる。

「佐々木さんですね」

 耳元でささやかれて腰が抜けそうになる。

「ご安心してください。あなたたちの安全を確保するために国と機構の人間で組織された委員会から参りました」

 膝が笑っている私よりも頭ひとつは大きな男だった。何の変哲もないダークグレーのスーツを着て、特に表情も変えずに淡々と話してきた。政治家のSPのような風情だ。スーツの色こそ薄いが、合力さんを連れて行った男達と同じ匂いを感じて自分の眉間に皺が寄ったことに気がつく。

「そんなことは本当かわからないじゃないですか……」

 沈黙が流れる。男は目に何も感情も浮かべないで自らソファに座った。こういう対応には慣れっこになっているのか、黙って鞄からタブレットを出した。そうして目でこちらにも座るように促した。

「洋平さん?」

 夫が映っている。座ったのもつかの間、腰を浮かせてタブレットにかぶさる様にして見入る。画面の夫は一言で言えば死相が浮かんでいるという様子だった。その感覚を拒否するように小さな画面に集中する。夫は押し殺した声で機構現場職員番号を告げ、カメラに向かっているせいなのか肩に力を入れたまま話しだした。

「千夏。調整委員会のすすめる通り、村を出る。徹は、あいつは元気だ。昨日小学校に行った。友達と仲良くやっていたが調整委員のすすめを受けないものはこの村では居ないようだった」

 夫は何かいい足りなそうに唇を開き、目を泳がせた。そのまま映像は途切れた。そもそも、調整委員とは誰のことか。

「私、調整委員を承りましたこういうものです」

 男は儀式的に身分証を出したが、その委員会が何を調整しようと言うのだろうか。

「アイスコーヒーでも?」

 男は勝手に二人分も注文してタブレットをミュートにしてもう一度再生をしてみせる。

「夫は何を承諾したのですか? 夫はどんな健康状態ですか? 息子は元気ですか? ちゃんと食べていますか」

「そう云うご質問が多いからこそあえて動画にしましたがねえ」

 調整委員と名乗る男はアイスコーヒーをえらく音を立てて飲んだ。そしてちいさなげっぷをして口を拭うと前に乗り出して話しだす。

「もう、ネットでさんざんご覧になりましたね。国民の怒りはなぜかあなた方に向いています。家族を守りたくありませんか」

 家族を守る……私は調整委員を凝視した。

「もう一度お尋ねします。ご主人は家族を守るための、私たち委員が設置した移住プランを受け入れるとおっしゃっているのですがどうですか」

「移住ですって?」

「そうです、もはや港区の周りでも安心は保証できない。つまり、一刻も早く息子さんのために移住を。十年前の事故では現場を守ったにもかかわらず様々な誤解が関係者を傷つけています。そして、今はマスコミにはあがらない多数の傷害事件が起こっております。現在、避難場所として複数の候補地があるのですが、ご主人はあなたに決定してもらえばいいと」

 委員の男はタブレットを太い指ながら慣れた手つきでいじり、地図を表示する。いくつか赤い点がついている。クリックをすると村の名前が出た。とはいえ、全く知ったところではない。地図で見ても地名以外になにがわかるというのだ。耳にしたこともない地名ばかりではないか。いや、違う。懸命に記憶を辿る。

(カガ村……たしか、二年前に家族で寄った場所だわ。桜の名所だと聞いていたけれど、十年前の震災で休火山が爆発して、桜並木も牧場も燃えてしまったのだ、って地元の人が教えてくれたっけ。鱒のつかみ取りに一度、訪ねたかも。機構の契約していた宿が近かったからでかけたけれど、アクセスの悪い、活気のない村だった。それくらいしかおぼえていないわ)

 あ、と私は小さな声を上げた。どの地名を見てもカガという名前は他にない。カガ、とは蛇の古語にあたる。それに桜。今はもうない桜。道成寺は桜の季節の物語ではないか。

(家族を守る方へ動け。道成寺……蛇!)

 私はカガ村を指差して、もう一度目を委員に向けた。

「移住の条件は?」

「国と調整委員があなた方を守りますよ。仕事も家も用意します。けれど、所持品を取りにいくことは許されていません」

「え? 貴重品は?」

 委員は全く顔色を変えないままこちらを落ち着いて見ている。

「所持品って……衣食住のすべてがですか? 研究者としてのデータや本などは?」

 委員はあくびをかみ殺しながらうなずく。

「あのですね、命の保証はできないのです。放映はしていませんが、××県の住民は一部暴徒化しています。港区どころの騒ぎではないです。特に書籍やデータの持ち出しも禁止です。あなた達が関係者だとばれると困るのです。あなた方をお守りするためにあえてへんぴな村に生活できる環境をそろえています。どうしますか、このまま旅立てば今夜にももう旦那様と息子さんは移住の準備ができていますよ」

「……マイホームは?」

 調整委員の男はそれ見たことか、と言うような溜め息を大げさについてみせる。

「失礼ですが、あなたは研究者ですよね。ラボに所属と書類には書いてある。十年前の原発事故でどんな方が移住をしてお子さんを守ったかを覚えていないのですが? なぜ彼らはマイホームをはなれたのでしょう?」

「ビスキュイには除染という概念はそもそも当てはまらないじゃないですか。安全なんですもの」

「ビスキュイを精製する薬品が爆発でどうこうなったと説明をさせるおつもりですか? 貴方こそ専門家でしょう?」

 私は唇を噛んだ。

「最悪の精製ミス、増幅ミスの起こる可能性はデータ上では0.000……1%のはずです。それが起きたということですか?」

 誰でもいいから合力さん説、最悪な日本の現状を否定してほしかった。この混乱は知識不足の国民が一時の不平の形として暴徒化したり関係者を責めているものであり、真実はそこまで悪くないと誰かに言ってほしかった。男は依然顔色を変えない。

「では、なんでこの混乱のさなかにひとりひとり時間と金を使ってあなた方を保護して回るんです? 最悪のパターンが起きた上に世間に漏れたときにどうしようもないからですよ。あなた方は長らく研究機関として日本の復興に貢献してきたのだから国が守るしかない。どんなに手間がかかってもね」

「いずれ、私たちは国を、エネルギー事情を守ることが出来るんですね? その日までの辛抱ということですね?」

 男は空になったアイスコーヒーの結露をしなびたようなハンカチでぬぐい、ぎょろりと目を剥いた。

「いずれにしても、今は家よりお子さんやあなた自身の命じゃないのですか?」

 二人にどうしても会いたかった。論文やデータなんか、いつか会社にアクセスすれば手に入る。研究者で食べてきた訳だから、この頭一つでやって行けるはずなのだ。きっと事態が収束したら戻れるだろう。十年経って除染が住んだ地域ではまた少しずつ地域の暮らしが再生しているではないか。今を、合力さんの言う通りに生き抜かなければ家族を守ることはできないのだ。

「カガ村でお願いします」  

このとき、私は何も疑わなかった。ただ家族に会いたかった。合力さんが言った全てを否定してくれる存在や情報を求めるためにも、同時に合力さんの言う通りに家族を守るためにも移住を受け入れた。それ以外でも以上でもなかった。こうやって人は天国と地獄を知らずに歩いていく。その門を開けて進んでいくことだってあるのだ。身にしみてわかるのには、さらに月日が必要だった。

 

【平成三十四年十月C日】

 調整委員が来た日の深夜、約束された通りに私たちはホテルで再会を果たした。息子の徹を見たら泣きたくてもしばらく喉が詰まったかのようだった。先に息子が言葉を発した。

「ママ」

 徹の目の縁がみるみる赤くなっていく。痛いほど私にしがみついてきた。

「よくがんばったね。寂しかったでしょう?」

 ううん、と徹が頭を振る。

「お友達が一緒だったから」

「そうだね。えらいね」

 背中をぽんぽんとたたいてやると肩の力が抜けていくのがわかった。

 夫を見やると、ぎょ、っとするほど頬が痩けている。目をそらしているのはうまく行かなくなっていつものことだ。しかし、それとは様子がちがう。

 彼はPOCKETで何を見て、何を処理したのだろう。目はうつろでひげは伸び放題、夫婦間がうまくいっていないと言っても尋常ではない表情であることはわかる。彼の体内なのか心なのか、渦巻くような暗雲が蠢いている気配を感じる。

 こわごわ、夫の手を握った。

「心配したよ……」

「……生きているんだか死んでいるんだか、わからねえ」

 日頃丁寧な言葉しか使わない夫が投げ出すようにつぶやき、通帳のたぐいを押し付けたかと思うとベッドに倒れ込んだ。ぴくりとも動かない。私は嘘でもなにかねぎらいの言葉があるかと思っていたので、きょとんとしたまま突っ立っていたが特にアクションもなかった。あわてて毛布をかけようと身を屈めると

「お前たち研究者のお遊びだ。成れの果てだよ」 

と吐き捨てるように夫は小さく言ったのだ。

 これは街の人よりもひどいではないか。知らず知らず毛布の端をぎゅう、と握りしめている自分の指先が掌に毛布越しなのに食い込んできそうだ。背後に徹の視線を感じた。

「ママ?」

「ええと......徹、なんか食べようか? お父さんはPOCKETの修理で疲れちゃったんだって。ルームサービスをとろうよ」

 気にしていない様子を繕うと徹は嬉しそうに頷く。

「その前にシャワーを浴びておいで」

 素直に浴室に消えた息子の衣類を用意しながら考えている。

(合力さんが教えてくれた話は、研究者や決定機関の人間以外はおおよそ感づいていることだったのではないのか?)

 夫の刃のようなつぶやきは、先行きが決して明るくない予感を突きつけた。早くも私は夫との再会が、カガ村への移住が正しいかどうかを疑い始めていた。

 

 翌日にはもうバスに乗せられていた。一瞬ユダヤ人の強制収容を思い出して、首を振る。(これは安全のための移住。死に向かうための移住じゃないのだから)

 カガ村へは二度目に訪れることになるのだろうか。渋谷区から関東甲信越圏内だというのに六時間は走っていた。数えきれないほど短い眠りに落ちては覚めている。村の圏内だというのだが、山道のどこからそうなったのかさっぱりわからない。マグマで焼かれたまま立ち枯れた様子の木々がまだらに残っている。時折まだ噴火を繰り返しているのだろうか。都心と地方の間の奈落におちこんだような曖昧な空気が、車窓の外側から忍び込んできた。

 曖昧。それは全く手の入っていない箇所と、適当に建設した旅行者相手の飲食店とのそぐわない雰囲気であり、村の生活圏の側にあるはずなのに手入れも入らない、一片の関心すら寄せられない剥き出しの山野。その制御しがたい不調法さとでも言えばいいのか。車窓を流れる景色は、のろのろと少ないページを繰り返し見せられるように面白くもないものだ。風情や郷愁、あるいは鄙びたという言葉のどれもあてはまらない。

 それでも、二年前はかろうじて取った夏休みの一日をここで過ごした。息子の手前もあり、「家族らしい休日」を演出して過ごさねばならずに、かえって疲労した記憶がある。職場の都合などから起こる気苦労や宿の手配の煩わしさなどではない。私たちのことだ。数年間の気苦労を思い出すと自分に問いかける。

(キュリー夫人に憧れて育ったけれど、キュリー夫人は夫婦仲が良かったんだって。何を発見したらそうなれたのだろうか?)

 自分が椅子をきしませた音で我に返る。誰もバスの中で話す人はいなかった。これからはもっと気苦労を背負い込むのだろうかと思うと、今も未来も忘れて眠りたい。眠り薬をもられたようで穏やかな寝息ばかりが響いていた。未だ十月だと言うのに空は晩秋の風情で、広葉樹もなければ花も見当たらない。気持ちが塞いでくる。車内に居るのに寒さがあがってきた。寒々とした道をバスは行く。信号もないのに一定の速度よりスピードを変えることもなく、いつしか見覚えのある看板が目の前にあらわれた。

(あの鱒のつかみ取りセンターの看板は、まだ塗り直されていないのか)

 表示されている番号も村と村が合併して変わったそうだが、古いままのようだ。よくも悪くも時間の流れが読めない場所だった。電波時計があるならば、絶対のこの地域は逆回りに針が回ることだろう。眠ってしまえればこうも考えることもないのに、とうんざりしながらも目はなんとはなしに看板をまだ見ている。思い出もあるので、ここを嫌いたくなかった。

 何かを通り過ぎた気がして闇に目を凝らすと、柵の腐った牧場まがいや共産主義国家の景色にあるような灰色の集合住宅がもぐらたたきのように突然に現れた。無味な景色にうんざりして、ああ、この村がこれからの住まいなんだと、静かに身震いをした。寒さの身震いよりも芯を冷やす感覚だ。

 

 唐突にバスはとまった。つぶれた企業から二束三文で買い上げたようなアパートに到着した。てっきりバスに乗っていた他の乗客もここで降りるのかと思っていたのに、私たちだけが降りていた。乗客が機構やラボの関係者ならば話も出来るというものだが、私たちが乗った時から全員が寝ていて、降りても寝ていて、あれはみんなアンドロイドではないかと思う気味悪さだった。荷物のようにおろされた私たち自身の荷物も約束の通り、制限されている。それなのにずっしりと地面に吸い込まれそうな目眩を覚えてしまう。思えば国の統制がひかれていた××県内に居た夫と息子にとっては事故以来はじめての遠出である(敢えて遠出、と言おう。戻れないとは言いたくない)。

 ここは長期間の定住地である。この程度の荷物でいい。今をまずは切り抜けないといけない。力を込めて荷物の取っ手を持ち直す。

「ずいぶんぼろっちい家だね」

徹は遠慮がちに言う。

「それでもね、母さんは徹とは離れているよりここの方がいいなあ」

「そうだね」 

 無口な父親の代わりに徹は適切に話す子供だった。夫はだまって私と徹の荷物を受け取る。

「ママ。水の音がする。ここも海の近くなの?」

 わずかに徹の顔が輝いた。けれど潮の香りではなく、ヘドロの匂いがきつくて疲れた体にはこたえる。

「いや、目の前に川があるそうだが暗くて見えないのだろうよ」

 夫が抑揚無く答える。徹はうつむく。わずかでも育ったところに似通っていたなら息子も嬉しいのだろうが、ここは山の奥地だ。きしきし鳴る扉を開けて、古くなった蛍光灯の唸る下で決めるともなくそれぞれが自分たちの部屋を心の中で決めた。


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最終更新日 : 2013-12-03 13:55:49

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