目次
女優
夏川結衣論 ~「青い鳥」をめぐって~
夏川結衣論 ~「結婚前夜」をめぐって~
北川景子という人
北川景子という変人
北川景子という才人
北川景子という野人 ~エッセイ「瀬戸内まで」読解~
北川景子という読書家
北川景子にとってドキュメンタリーとは何か
満島ひかり論 ~「川の底からこんにちは」をめぐって~
能年玲奈について ~「あまちゃん」をめぐって その1~
能年玲奈について ~「あまちゃん」をめぐって その2~
能年玲奈という読書家
能年玲奈の今後について
Ecce homo(この人を見よ)「のん」について
音楽
エレファントカシマシと僕
忌野清志郎に捧ぐ
桑田圭祐について
『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』
プリンスとマイケル・ジャクソン
「アローン・アゲイン」の歌詞について
ブルース・スプリングスティーン 『サンダーロード』
ジョニ・ミッチェル A CASE OF YOU
お笑い
松本人志と太田光
鳥居みゆき登場
鳥居みゆきVS鈴木史朗
鳥居みゆきのキャラ問題について
鳥居みゆき単独ライブ「告別式」について
映画
打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?
この男、凶暴につき
3-4×10月
あの夏、いちばん静かな海
ソナチネ
キッズ・リターンほか
菊次郎の夏
漫画その他
マカロニほうれん荘 レクイエム
がんばれ元気
がんばれ元気 その後
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

35 / 38ページ

マカロニほうれん荘 レクイエム

じつに25年ぶりくらいに、『マカロニほうれん荘』が読みたくなり、全巻セットで購入して一気に読んだ。

僕の世代には、このマンガによって笑いの初期衝動を与えられ、笑いのツボを刷り込まれた者たちが無数にいる。

当時は、なぜ面白いのかわからないまま、文字どおり腹がよじれるほど笑っていた。
いま読み返して、すべてのコマとすべてのセリフをはっきり覚えている自分に気づく。もうさすがに息ができなくなるほど笑うことはないが、読みながら、真の才能だけが提供しうる圧倒感にある種の感慨を覚える。

連載後期の、いわゆる作者の「壊れてきた」時期にはすでに離れていたので、今になってほとんど初めて読んだ。確かに、8巻位からヤバイことになりかけていて、最終巻である9巻の話はどれもいっぱいいっぱいだ。それでも、ところどころに入魂の描写はある。だが最終回でついに力尽きた、というかんじ。

当時を振り返って鴨川つばめ氏は次のように語っている。


(週刊SPA! 1992年08月12/19合併号より、引用開始)

 当時いちばん忙しい時は、週刊誌が月5本に増刊が月2、3本。その他に掲載誌の表紙も描いてた。だけど自分は酒井さんの最後の弟子だと思ってたから、どんなにキッくても手が抜けないんです。編集者は「アシスタント入れろ」っていうんだけど、僕にとってそれは手抜きなんです。コマの隅々にまで作者の主張がないと読者は共感できないですよ。だからほとんど全部一人で描いてました。

 3日徹夜なんてのはザラで、5日間ブツ通しで仕事したこともありましたね。市販の眠気覚ましのアンプルが手放せなかった。心腹がドーンとなる強い薬を大箱で買って、一日十本以上飲んでました。「マカロニ~」を描いてた時は、この作品と心中してもいいっていう気持ちでしたから。

 そんな生活ですからアウトプットばかりでインプットするヒマがない。だから「マカロニはうれん荘」には僕が20歳になるまでの10年間に得たものすべてを注ぎ込んだんです。それを3年間で使い果たした。連載が終わった時は、もうカラッポです。
 カラッポだけならいいんだけど、最終回はひどい手抜きでね。自分がいちばん堕落したマンガ家になってた。ひどい傷を受けましたね。

 20代前半なのに心身ともにボロボロで。薬の副作用で心腹は止まりそうになるし、対人恐怖症にはなるし。毎日フトンに横になったまま天井を見てました。いざとなったら首切って死ねるように枕の下に果物ナイフを入れてね。その状態が3か月続いたのか半年だったのか、時間感覚がないんでわからないんですが。

(引用おわり)


あの圧倒的なギャグのリズム感を生み出すために、文字どおり命を削っていたこと、そしてついに臨界点を超えて神経を焼き切ってしまったことが分かる。

今回、怖いもの見たさもあって、『マカロニ2』も買って読んでみたが、まるでシド・バレットの3枚目のソロアルバム(実在しない)を聴いているようだった。

人間の深淵がぽっかり口を開いてそこに転がっている。こんなものが少年誌に掲載されたというのは、悪い冗談でしかない。

誰にも真似のできないものすごい仕事を残すのと引き換えに、戻ってこれないところまで精神を酷使することの意味を考えさせられた。

 

2007年6月13日記

 

 

前に引用した、『マカロニほうれん荘』の作者鴨川つばめ氏のインタビューには、続きがある。

僕が「スピリチュアルな体験」と呼ぶのは、こういうもののことだ。

前世が王女さまだったとかイルカだったとか聞いて嬉しがることではない。

(転載開始)

ある日、もうジタバタするのやめよう、と思ったんです。そしたら、暗い池の中を横になったままブクブク沈んでいくような感覚がありましてね。そのうちフツと背中が底に着いたんです。ああ、これがドン底ってやつかと思った時、生まれて初めて自分の魂の声を聞いたんです。いままでさんざん苦しんできた人だから、もうこれ以上苦しまなくていいよって。全身を包み込む、ほんとに優しい声だった。それでやっとフトンを離れることができたんです。

 いまの状態に戻るまで10年かかりました。カネに困れば皿洗いもやったし、ソープのボーイもやりましたよ。

不思議なことに、この10年間は酒井先生のことをすっかり忘れてたんです。今年になって突然思い出した。意外でしたね。こんなに影響を受けた人のことをオレは忘れてたのかって。それと同時にマンガに対する愛情も戻ってきたような気がしてね。
 今は、作品を準備中です。ギャグマンガ。僕は昔から人が笑ってる顔を描くのが好きだったんですよ。もう堕落したマンガ界を・・・、なんていう使命感はありません。ただ、酒井先生の自称最後の弟子として、先生に対して恥ずかしくないマンガを描きたい。その思いだけですね。

(転載おわり)

結果的に、つばめ氏はまだ完全に戻ってきてはいない。でも、踏みとどまれたということは本当に魂の声を聞いたのだろう。

 

2007年6月15日記


がんばれ元気

この漫画、家に全巻置いてあって、1年に1回くらい衝動的に読みたくなる。

そして読むと必ず号泣する。漫画を読んで声をあげて泣くなんて、他の作品では考えられない。

でも、この漫画は、どうしても涙腺を崩壊させずには読めない。

それは、この漫画を読みたくなる時というのは、すでに心が「泣きたい」モードに入っているからかもしれない。

誰かが、「子ども」と「ペット」とあと何とかの要素を入れておけばたいていのドラマは「泣ける」のであり、それは作品のクオリティとは関係がないという話をしていた。

確かにそうかもしれない。

以下、未読の人には意味が分からないと思います。




『がんばれ元気』の物語は、あざとい。否、正確に言えば、あざとすぎるまでに登場人物がみな「潔い」のだ。

悪人が一人もいない。最初は性格の悪い悪役っぽく見えた人も、結局は「いい人」になる。

堀口元気は、その常人離れした純粋さとひたむきさの炎によって、登場人物をいわば「浄化」していく。

登場時には憎たらしかった関拳児、最初は性格がひねくれていた火山尊、傾奇者だった海道卓、これらのライバルたちは、元気との戦いを通じて、ものすごい高潔でストイックなキャラクターへと変貌する。

浄化されすぎて、「聖別」のレベルにまで達して死んでしまう人もいる。

堀口元気の父ちゃんであり、元気のモチベーションの最大の源であるシャーク堀口。

ボクシングの師であり、芦川先生の恋人であり、後には関拳児の恋敵であったことも判明する三島栄司。

関拳児戦でシャーク堀口のセコンドを務め、後に元気が入門する永野ジムの会長。
(まあこの人は天寿をまっとうしたといえるが)

そして何より、堀口元気の生みの母親である堀口(田沼)美奈子。

元気は、これらの人々(死者たち)の想いを背負いながら戦い続ける。

元気を生んですぐに亡くなった母美奈子の実家は、地元のすごい資産家で、美奈子の両親(元気の祖父母)は、大事な一人娘をかどわかし、奪っていった、ろくでもない貧乏青年である元気の父親(堀口秀樹、シャーク堀口)を忌み嫌っている。

祖父母にとっては、秀樹のせいで、何一つ不自由なく幸せに育った美奈子は、貧乏生活を強いられ、病弱な体に無理がたたって、元気を残して若くして死んでしまったのだ、という思いがある。

だからこそ、美奈子の唯一の子供である元気のことが可愛くて仕方がない。
シャーク堀口が亡くなった後は、祖父母が元気を引き取って育てることになる。

しかし、元気は父親の思い出であるボクシンググローブを隠し持って、密かにトレーニングに励んでいた・・・

これを続けていくと、全巻のストーリーを述べることになってしまうのでやめるが、本来であれば、元気の祖父母(田沼樹三郎と田沼愛子)は、父親の敵対者として、元気の憎悪の対象となってよいはずのキャラクターである。

しかし、元気は、祖父母の気持ちを傷つけることを良しとせず、彼らを喜ばせるために、彼らの望み通り精一杯振る舞う。だが、ボクシングという一点においてだけは、妥協することができない。そしてそのボクシングこそ、祖父母の最大の憎悪の対象なのである。

高校受験を前にした元気が、ボクシングへの想いを留めることができず、プロになるために上京する場面までの葛藤を描く部分は、前半のストーリーの一つの山場である。

祖父、樹三郎は、高校受験を終えた元気を祝う宴の最中、自分が若いころ馬賊に憧れたという話をおもむろに始める。

そして、「元気、行って来い」と一言言い残し、二人は寝室へと去っていく。

その晩、元気は一人で上京の途につく。泣きながら(ここで読者も号泣)。



同じようなシーンが、物語の最終盤にも出てくる。

元気の最終目標であった関拳児との戦いを終え、永野ジムの会長(死んだ会長の息子)と二人でタクシーに乗っているとき、会長は元気に、「もうお前は目標を達したのだから、引退して故郷に帰れ」と言い含めるのである。

彼はボクシングを金儲けの手段として割り切り、元気のことも稼ぎ頭のチャンピオンとしか見ていないような男だったから(少なくともそんな設定の描写がされていた)から、これは彼のキャラクターからすれば、ありえない発言である。

タクシーを降りた元気は、「会長、ありがとうございます!」と頭を下げる。泣きながら(ここで読者も号泣)。


元気はそこから、祖父母に電話し、故郷に帰って、「田沼」元気になり、高校にも入学し直すことを告げる。

物語は、元気が帰ってくるのを泣きながら寝室で待つ祖父母の姿で終わる。


これらのエピソードからもわかるように、元気は、その人間の通常の人格からは考えられない、真逆の発言(そして最良の性質)を引き出す才能を持っている。それは端的に言えば彼の人徳のなせるわざであろう。彼らは元気のひたむきさ、真摯さに心を動かされたのである。


しかし、元気によって傷つけられ、あるいは人生のコースを狂わされた人々もいる。

元気がボクシングで倒した相手はもちろんそうだ。最もドラマチックなのは火山尊だが、長くなるので割愛する。

同級生の石田とも子は、学生の元気に一目ぼれし、果敢にアタックを試みるが、ボクシングしか見えない元気の心をとらえきれず、ついには元気を追って上京し、アイドル歌手にまでなる。
そんなにまでしても、ということまでするが、元気の気持ちを自分のものにはできなかった。彼女はアイドル歌手の座を放棄し、都内のバーやスナックで演奏活動して食いつないでいる。

元気のトレーナーとして一心同体に上り詰めてきた露木は、かつての教え子をパンチドランカー(廃人)にした心の負い目から、同じ運命を辿る海道卓とともに姿を消す。おそらく海道と二人きりで人目につかない場所でひっそりと生きているのだろう。

そして、シャーク堀口に次いで、元気のボクシング人生に大きな影響を与えた三島栄司は、過度の飲酒と不摂生の無理が祟って早死にする。三島にとって元気は、自分が叶えられなかった夢を受け継ぐ若者であり、シャーク堀口が父親であるように、元気にとっての肉親以上の兄貴でもあった。

三島栄司が田舎のボクシングジムで傷害事件を起こして服役し、出所してから、文字通り心血を注いで元気のトレーニングに命を削る様は、物語全編を通して最も感動的な部分である。

三島は、自分が芦川先生を幸せにできない男であるとの自覚から(彼の背中には一面の刺青が彫られている)、わざと不摂生な生活を送り、死に急いでいたのだが、元気の姿を見て心を動かされ、死ぬまでに元気を一流のボクサーに育て上げようと、尋常ではないほど肉体を酷使したのである。

三島と元気の最後のスパーリングの描写は、最大の号泣ポイントの一つである。
(「強くなったぞ・・・堀口・・・・・これで・・・・サヨナラだ・・・・・」)


三島栄司を兄とすれば、芦川先生は元気にとって姉のような存在だった。

原作漫画では、芦川先生は小学校を教師を辞めてからも最後まで「芦川先生」であり、下の名前が明かされることはなかった(アニメでは芦川悠子という名前になっている)。

芦川先生は、登場した当初は、元気に理解を示す「いい先生」でしかなかったのだが、実はこの物語のすべてを支配するほどの重要キャラであることが明らかになっていく。

元気にとって、当初の芦川先生の印象は、「母ちゃんに似ている」というものだった。
それが、三島栄司の恋人とわかり、元気を見守る姉のような存在となる。
そして、三島が死に、元気がプロボクサーになると、元気を追うように上京し、次第に元気との距離感が微妙なものになっていく。

芦川先生は、元気にとって、母であり姉であり教師であり恋人であり、女性原理のあらゆる要素を兼ね備えた存在である。芦川先生の存在は元気が成長するにつれて彼の中でどんどん大きくなっていく。

その芦川先生は、実は関拳児にとっても最愛の女性だったということが物語の終盤、元気と関の対戦が決まる直前になって明らかにされる。

このあたりのいきさつは詳しく語られていないが、アマチュア・ボクサー時代に三島と付き合っていた芦川先生に関拳児が一目ぼれし、芦川先生が三島の恋人と分かった関が、三島を徹底的に叩きのめし、プロボクサーとして再起不能なまでに追い込んでしまった。

関は、ボクシングを引退した三島が芦川先生と幸せに暮らしているものだと思い込んでいたが、それ以来、彼女の誕生日を一人で祝うほど芦川先生を想い続けていた(ものすごい執着心)。

ところが、海道戦を終えて入院している元気を見舞いに行ったときに、元気の病室で芦川先生とばったり出くわし、元気から、三島がすでに故人であること、元気は三島からボクシングを学んだことを聞いて、愕然とする。

それから関は芦川先生に猛アタックをかける。住所や電話番号を調べ、車でデートに誘い、元気との試合の前にプロポーズするとまで言う。

そのことを知った元気は・・・

というわけで、物語は最後の最後に、女を巡る男同士のバトルという様相さえ見せ始める。


とまあ、こんな重たいドラマ(これ以外にも無数のエピソードが関係する)を背負いながら、クライマックスの元気VS関の試合に至るわけだが、ここまでの積み重ねや盛り上げ方が異常なほど半端なく緻密なものであるため、この試合の描写は号泣せずに読むことが不可能な仕掛けになっている。

元気と関の壮絶な打ち合いの描写と並行して描写される回想シーン。


三島さんを囲んだ地元のボクシングジムの風景。


父ちゃんと幼い元気のトレーニングシーン。


美奈子がベッドに横になりながらお腹の中の元気に語りかける想い。



こんなのが涙なくして読めるわけないだろ!

反則だ反則だ! ずるい。あざとい。でも泣く。無理。声をあげて号泣。


足を止めて打ち合う二人のあまりにも壮絶で、崇高ささえ感じさせる戦いに、実況アナは落涙し、観客はスタンディングオベーション状態となる。

ありえない。でもこの試合だから許される!


第12ラウンド、関拳児は、倒されても倒されても立ち上がる堀口元気の中に、シャーク堀口の姿と、三島栄司の姿と、少年のときの元気の姿を認める。

そして関は、「来いよ」と元気を手招きする仕草を見せる。

何度も封じられたアッパーストレートが、避けきれなかった関拳児の顎にとうとうクリーンヒットし、関はマットに沈む。

アッパーストレートは、シャーク堀口との試合の前に、父を馬鹿にされた元気が関の顎に見舞ったパンチでもあった。


作者の小山ゆうによれば、元気と関の試合の最後のシーンは連載開始時には決めていたという。

「シャーク堀口との一戦と、お前との一戦が、俺にとって最高の戦いだった」と、関が堀口に抱きかかえられながら告げるシーンのことだろう。


連載中は、「あしたのジョー」みたいに元気も死ぬんじゃないか、とか憶測が飛び交っていたようだが、結局はこれしかない大団円を迎えた。文句のつけようがない、満足度100%のフィナーレである。

で、その後に、芦川先生を巡る、読者の間では賛否が分かれるもう一つの結末が描かれるわけだが、僕は個人的にこれは一番きれいな終わり方だったと思っている。

これ以外の終わり方をすると、堀口元気というキャラクターのピュアさが失われるような気がする。

芦川先生が奇しくも叫んだように、「ボクサーは女に逃げることはできない」のだ。

ジョーが白木葉子を振り切ってホセ・メンドーサとの戦いに挑んだように、元気は芦川先生を振り切って関拳児に挑んでいった。

ジョーは最後に葉子にグローブを託したが、元気にはそんな「形見」は必要なかった。


小山ゆうは、「元気にとって本当の人生は『田沼元気』になってから始まる」と述べているようだ。

堀口元気にとって、この物語は、「修羅の業」からの解脱を意味する壮大なドラマだったのかもしれない。


がんばれ元気 その後

昨日の記事を書いて、自分の中で長年の問題(?)に整理がついた気がしたので追記しておく。

それは、『がんばれ元気』のラストで、芦川先生が、元気と関拳児のどちらも選ぶことができずに、ヨーロッパに旅立ってしまうが、その後どうなったのかという問題である。

自分は長いこと、いずれ芦川先生は日本に戻ってきて、元気と結ばれるのだろうと思ってきた。

しかし、昨日の記事を書いてから、どうやらそうではなさそうだと思うようになった。

というのは、『がんばれ元気』という漫画の描く堀口元気の5歳から19歳までの物語を、元気の持つボクシング(修羅の世界)という業(宿命)からの解放に至るプロセスと捉えるなら、関拳児との戦いの終結をもって、ボクシングに関わる縁(すなわち「堀口元気」としての人生)は清算され、新たな「田沼元気」としての人生が始まるという解釈になる。

そして、芦川先生という存在もまた、これをもって元気の「教師=守護者」としての役割を果たし終えたのだと考えるのが正しいのだと思った。

19歳までの元気の人生は、元気にとって「死者との因縁による束縛」を意味するものであったが、芦川先生にとっても、「一人の女として生きることに対する束縛」を意味するものだったのである。

元気は、父親と三島の宿敵(敢えてそう表現する)である関拳児との戦いによって、自力で因縁を清算することができるが、芦川先生は、元気を通じてしか過去の自分を清算することができないという立場にあった。だから二人は同じ目標に向けてパートナーとして協力し合った。

これはある意味残酷な表現ではあるが、「堀口元気」が「田沼元気」になってからの人生において、芦川先生が果たすべき役割はもう存在しないのである。

逆に、芦川先生は、元気の行為によって「過去に束縛される人生」から解放され、一人の真に自立した女性(人間)として生きていくことができるようになったのだといえる。

さて、『がんばれ元気』の原作では、元気に残した手紙しか明かされていないが、芦川先生は関拳児にも手紙を残しているはずである。

そこには何が書かれていたのか。

おそらく、三島栄司や堀口元気を巡る二人の因縁について言及したうえで、「今は結論が出せない」と、元気に対するのと同様の答えが書かれていたに違いないと思う。

では実際、芦川先生は元気と関のどちらに惹かれていたのか。

もちろん想像(妄想)の域を出ないが、関拳児の方であると今は思う。

実際に原作においても、元気に「関さんのことを好きなんですか?」と聞かれて、「ええ」と答えているし、「私だって結婚を考えるし、恋もするわ」と言い、関と海道戦の後で再会し、何度もデートに誘われても拒んでいない。

もちろん、元気(と三島)への思いから、ある種のうしろめたさはあっただろうが、それでもなお関拳児に惹かれていたからこそ会ったのだろう。

関拳児は、芦川先生が自分の前から姿を消して以来、毎年、彼女の誕生日をたった一人で祝うほど思い入れが深い。再会した時には、10年間以上「あなたのことを<片時も>忘れたことはなかった」とまで言っている。単に当時関が芦川先生を好きだったというだけでなく、よほどのことがあったと思わせるに足る発言である。

生前の三島によれば、関と三島は、芦川先生を賭けて対決し、関が勝利したが、芦川先生は関ではなく、やくざの用心棒に身を落とし、ボロボロになった三島を選んだ(馬鹿な女だ)と語っている。

発言から推測するに、関VS三島戦の後、三島はいったん芦川先生の前から姿を消し、極道の道に転落した後で、芦川先生と再会した(発見された)のではないか。そしてその間、芦川先生は関からの誘いを受けて、いなくなった三島のことが心に残りつつも、関と交際していた(あるいはその直前にあった)と考えられるのである。

関と芦川先生は、両親を亡くし天涯孤独の身であるという共通点もある。互いに言葉を交わすうちに二人の間に浅からぬ共感が芽生えたとしても不思議ではなかろう。

しかし、三島の堕ちた姿を見た芦川先生は、関の前から姿を消し、三島と一緒になることを決意する。芦川先生のことだから置き手紙くらい残したかもしれない。そこにはたぶん、「今の三島さんには私が必要なのです」と書かれていたのかもしれない。

一方三島は、プライドが邪魔をして、芦川先生の愛を素直に受け入れることができない。極道に堕ち、これまでの知人・友人・親類縁者とも縁を切り、彼女を幸せにすることのできない自分を早く消し去るために、わざと不摂生な生活を送り、死に急ごうとした。元気と出会った頃には、すでに肉体の病は取り返しのつかないまでになっていた。

芦川先生は、三島が死んだあと、三島からの手紙を焼きながら、「忘れてあげるの。三島栄司、あの人は弱い人よ。あの人は本当にはボクシングを愛することはできなかったし、一人の女すら愛することができなかったのよ」と元気に語っている。

しかし芦川先生は、本当に三島だけを愛していたのだろうか。少なくとも、堕ちた三島を見た後からは、その愛には憐憫の情(そして自責の念)が交ってはいなかっただろうか。三島を選んでからもなお、芦川先生が関拳児に惹かれる気持ちが失われたとはいえないのではないか。そして三島も、そのことを敏感に感じ取っていたからこそ、彼女を突き放すような態度を取り続けたのではないのか。

ところで、芦川先生の元気に対する愛は、少なくとも物語の終盤までは、いわば精神的な血の繋がりを持つ縁者に対する愛情以外のものでははかったように思われる。

元気が成長し、芦川先生に恋人としての面影を求めるようになるにつれて、彼女の中に葛藤が生まれる。そして、彼女自身も元気の中に三島栄司の面影を求めていたことに気づく。

二人の想いが一線を越えるのは、関との決戦前夜のことである。

このとき芦川先生は、皮肉なことに、人生(前半生)の目標を果たそうとする元気への誘惑者としての姿を見せる。彼女は、「愛する人が戦うのをこれ以上見ることは耐えられない」「逃げよう」と元気を促すのである。

ここで元気が誘惑に屈していたら、元気の「解放」は達成されず終わっていたし、それは彼女自身の束縛を一層強めることになっただろう。一言でいえば、二人は不幸な人生を過ごすことになっただろう(あるいは人生に終わりを告げていただろう)。

このとき、彼女は、「闘争心をむき出しにした関さんは本当に怖いボクサーよ」と元気に言い含めている。かつて三島は「闘争心をむき出しにした関」の犠牲になり、人生を狂わせた。その目撃者(当事者)だからこそ、この台詞にはリアリティが籠っている。

『がんばれ元気』という物語の真のクライマックスはこの場面である。

それまで元気の達成を応援し続けてきた最高の導きの天使が、最後の最後になって、最大の誘惑者へと変貌した。

彼女に促されて、元気がモーテルへと車を走らせ、駐車場に車を止めてからの数秒間あるいは数分間の中に、この物語の全てのエッセンスが凝縮されている。

この、作画の中に描写されていない「無」の中に、この物語のすべてが詰まっている。

結局、逃げずに運命に立ち向かうことを選んだ元気。
その首に取り縋って、芦川先生は叫ぶ。

「そうなのよ!男の人は・・ボクサーは・・結局、女には逃げられないのよ!!勝手に勝負に愛までかけて・・・ そのくせ逃げては来てくれないのよ!!」

この叫びは、元気だけではなく、三島栄司(ひいては関拳児)に対する彼女の本心でもある。

三島に対してはずっと「耐える女」を演じ続けてきた芦川先生が、このとき元気に向かって、初めて一人の女として、長年抑えて続けてきた心の底からの想いを吐露したのである。



で、最初の話に戻る。


「芦川先生は元気と関のどちらを選ぶのか?」


この問いの立て方は間違っている。

なぜなら、彼女には、「選ぶ権利」はないからである。

「田沼元気」の人生には、もはや芦川先生の果たす役割はないのだから。

このことは、故郷の駅に降り立った元気の爽やかな表情の中に何よりも示されているではないか。

そして、関拳児以上に彼女を必要としている人間は、もうこの世に存在しないのである。

芦川先生は、元気との戦いで闘争本能を燃焼し尽し、穏やかな人格者となった関拳児が、生涯の愛を捧げるに足る男であることに遠からず気づくことであろう。

そして田沼元気は、これからの彼の人生にふさわしいパートナーを遠からず見出すだろう。
(個人的にはそれが石田とも子であってほしいと思うが、火山尊の存在がちと厄介)

かくして物語の輪は閉じられる。

チャンチャン。


奥付



                     感想文


http://p.booklog.jp/book/79642


著者 : 代々木一郎
元のブログ

ブクログ本棚へ入れる
http://booklog.jp/item/3/79642



電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社ブクログ




この本の内容は以上です。


読者登録

yoyogizさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について