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コラム風なにか  学生の本分は学業です。ピース。

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コラム風なにか  学生の本分は学業です。ピース。

 喜納昌吉は泣きなさい、笑いなさい、なんて事を言って自然な存在としての人間を喜び、尊び、唄いましたが、時は流れ21世紀の今日。人々はセックスピストルズを通過し、パンクを獲得、やたらと逆行、反発をするようになり、泣きなさい笑いなさいだあ? 絶対やだ。などと嘯いて、ひたすらに無表情、泣きも笑いもしない。ああ。喜納昌吉が見たら泣くよ。などと大学の講義室で授業を受けながら僕は思いました。

 しかしまあ、学友達が皆能面の様な顔面になっているのも無理は無い。なんとなれば教授という偉い人の喋っている有難いお話が残念な事に、まるでつまらないのであり、まるで笑えないしまるで泣けない。実際、僕も気がつけば能面だったのである。そもそも初手から講義が面白いものであれば僕も周囲が能面だろうが知ったこっちゃ無い、講義そのものに夢中になれるのであり、つまらない時に能面になるのはむしろその方が自然な事なので、今我々は自然体。自然と能面。いいじゃん。よかったね。とはならない。

 確かに能面は自然かもしれないが、しかしそれでは喜納昌吉の唄の本義、心の花を咲かそうじゃん、という部分が達成されないのだ。かと言って、教授に暴力で訴えるなどして、馬鹿野郎、面白い事をしないと殺す、と脅迫すればいいかと言うとそうではなく、そんな行為はただの社会的な自殺に他ならない。そりゃ教授は泣くかもしれないし我々は笑うかもしれないけど、喜納昌吉が言ってるのはそういう事ではなくむしろ真逆の事である。

 負けてたまるか。自分は意地でも心の花を咲かす、と自分は教授をがんがんに凝視し、話をがんがんに聞いたのだけれども、どういう訳かやればやるほど思考は関係の無い方向にフライアウェイしていき、自分の表情は先にも増して能面化。ゆっくりとその瞳を閉じ、とうとう机の上にだらしなく崩れ落ちて気絶した。

 再び気が付いた時にはもう講義は終了していて、だだっ広い教室の中に自分は一人取り残されていた。廊下を通り過ぎる学生達が誰もいない教室で一人ぼんやりしている僕を覗き込んで怪訝な顔をしている。はっはっは、いけないいけない、寝過ごしてしまったよ、と自分は照れ笑いをした。その笑いは、わりと自然に笑えた様に僕は思ったよ。