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予期せぬ人事異動、申立の撤回

   西村に吉岡のパワハラについて申し立てを行って回答が来る前に、六道は小会議室に呼ばれた。長身で白髪の吉岡は小さな手帳を持ち、先に小会議室に入った。

  10人ぐらいが入れる小さな会議室だ。ロの字形式の会議室で真っ白な机がまぶしい。湿度が高く、部屋の温度もかなりあったので、六道はすぐにエアコンのスイッチを入れた。真っ赤なシンプルな椅子に吉岡は先に座った。調度誕生席に当たる場所である。六道はその斜めの一番近い席に腰を下ろした。真向に相対して座るより、その方が気が楽であった。 

   吉岡はすでに六道のコンプライアンス委員会への申し立てを、聞いているのだろうか。それを六道は正面切って聞く勇気は今はない。もし聞いていたとしても、それによって立場上弱音を見せるわけにはいかないから、いつもの不機嫌そうな渋い顔で防御しているのかもしれない。六道を一瞥して口火を切ってきた。

「今日呼んだのは他でもない、単刀直入に言うけどびっくりしないで欲しい。人事部からの命令です。当然社長も了承している」

   六道は降って湧いた様な突然の話のようなので、胸騒ぎと、陰謀めいたものを感じ、身構えて耳を澄ました。

「六道課長は総合職だね?」

「はい、総合職、一般職の導入の時から総合職です」

「それでは、総合職というのは、会社からの転勤を命じられた場合、受け入れなければならないということは知っているね?」

「存じています」

   六道は自分の広告宣伝の仕事は専門職であるから、転勤があるはずがないと高をくくっていたので、総合職を希望していた。総合職と一般職では当然年収に大きな差がある。出世についても歴然とした差があるのである。

「転勤を断った場合、退職しなければならないということも知っているね?」

「ええ、かつての同僚が大阪への転勤を断ったため、やむなく転職したことは知っています」

「じゃあ、話は早い。実は、九州支店で、事務責任者だった人間が事件を起こしてしまった。これは会社内では公表されていない事件だが、すぐに次の人間を配置しないと業務に支障をきたすということで、人選が進んでいたが、今回、六道課長に白羽の矢がたった。承知してくれるかね?」

「・・・・・・」

 六道は予期せぬ人事異動に言葉が出なかった。晴天の霹靂という言葉が頭の中を駆け巡った。まさにそれ以外の何物でもなかった。これはもしかしたらコンプライアンス委員会に申し立てしたことに対する復讐なのだろうか。目の前にいる吉岡はそのような気配など毛筋ほども見せない。厚顔無恥極まれりだ。人事からの通達とすれば、西村から目の前の吉岡に直接話があったはずであるから、間違いなく一瞬の隙も与えずに意趣返しされたのである。会議室の中のエアコンが、時々不気味な唸りを上げているような気がした。沈黙は数分、いや数秒かもしれない。六道の頭の中は、悲鳴を上げてあらぬことを想起して回転していた。くぐもったような声で、やっと六道は言葉を発した。

「赴任するとしたらいつからですか?」

「早い方がよいので7月25日には一回九州に行ってもらいたい。辞令は君が承知次第で出すそうだ。行ってくれるね」

 吉岡はいつもの攻撃的で、人を侮蔑したような目つきではなく、顧客に接するときのような柔らかい笑みを含んだ目つきになっていた。いいや、よく見るがいい。口の端にはうす笑いさえ浮かべているようではないか。六道はこの場でコンプライアンス委員会に申し立てした内容を、ぶちまけたい気持ちになった。全てのパワハラ行為の悪行をこの場で叫び、この人事異動は間違いなくその申し立てに対する意趣返しであることを、暴き出してやりたいと思った。しかし、実際西村と吉岡の間で何が話されたのか。どうコンプライアンス委員会は動いているのか把握できていない今、うかつに勝負することはすべてを失ってしまう危惧さえあった。それに今この場で戦う気力など六道になかった、というのが本当だろう。六道は鬱なのである。

「すみません。一週間だけ考えさせてください。総合職であってはならないことかもしれないのですが、年老いた母と子供が二人います。話し合いをする時間を下さい。それでもうまく事が運ばなければ最悪の事態も覚悟します」

「最悪というのは人事命令を拒否するということかね?」

 吉岡の目は明らかに笑っていた。

「ええ、それもやむなき選択と思われます」

「判った。それでは一週間待とう。人事部の方にもこれから行って話しておく。よろしく」

  吉岡はすたすたと部屋を出て行った。吉岡の座っていた赤い椅子は、テーブルの中にきっちりと押し込まれることもなく、斜めにだらしなく出しっぱなしである。きっと、吉岡自身も六道と面談して人事のことを告げることに、一抹の恐怖と不安があったのだろうか、と六道は勝手な想像をした。六道は赤い椅子をテーブルの中に押し込むと、エアコンと照明をオフにして会議室を出た。

  

 六道はその日市川の自宅に帰り、70歳を超えた母と専門学校生の京子と高校生の高志をリビングルームに呼んだ。母親はいつも笑みをたやさないおとなしい女性だった。妻が亡くなったあと、父もすでに他界していたのですぐにこの市川に越してきてくれて、本当の母親のように子供の面倒見てくれたおかげで、二人の子供はわがままな面もあるが、素直で優しいところは母親によく似ている。まあ、癌で死んだ妻と生前過ごした日々が、命の尊とさを教えてくれたというのも大きいのかもしれない。

「集まってもらったのは、今日会社で転勤の打診があったので、皆に相談したかったからだ」

「本当、パパ、どこに転勤なの?」 

 愛娘の京子は目を丸くして驚きの声を発した。

「九州支店だ」

「ずいぶん遠いとこね。私はいけないわ。専門学校もあるし」

「俺も無理だよ。高校を変えるわけにはいかないし」

 息子の高志も即答である。

「判っているよ。みんなが一緒に転勤することなど端から考えていない。だから行くとしたら単身赴任だよ」

「私は心細いよ。子供たちを守るって言ったって私はもう年だし」

 優しい母はもう弱音を吐いている。

「それも判っている。だから相談なんだ。皆は反対なんだね?」

「あたりまえでしょう。そんな会社の都合でパパが遠く離れて仕事するなんて、私は毎日心配だわ」

「俺は男だから大丈夫だけど。おやじがいなければ俺の責任大ってことだよね。これから大学受験だし、いないよりはいてくれた方が・・・・・・」

「そうか。子供たちももう大人だから言うけど、もしこの転勤を断ったら会社を辞めなればならないかもしれないんだ」

「そんなことってありなの?私は信じられないわ。会社っていうのはそんなに冷酷なの。パパが毎日頑張って仕事しているのを知っているし、それは伝わってくるわ。それなのに転勤を断ったら退職させられるなんてブラック企業よ!」

「ブラック企業ということでもないが、パパは総合職なんだ。総合職は転勤しない一般職と比べて、それなりに給料の待遇が良く出世もできる。だからその交換条件として基本的には会社があっちへ行けと言ったら、即転勤しなければならない。それは会社は一つの組織であり、その組織が有効に力を発揮して利潤を上げるためには、総合職の社員は、一つの歯車として従わなければならないのは当然かもしれない。ただしその組織の中で働く人間も生身の人間だから、いろいろなことが起きるんだろうね。もし転勤に従わなかったら、総合職でも転勤拒否ありとなって、周りに示しがつかなくなるっていうのが会社の言い分だと思う」

「たとえそうだとしても、私はパパと離れて生活するなんて考えられない。絶対許せない。転勤反対!退職反対よ!」

 正義感が強くて感情の起伏の激しい京子は、怒りが抑えられないようだ。六道はこれ以上話すとこじれそうなので、ひとまずあと一週間の猶予をもらったから、会社に直訴する方向で、転勤はできるだけ断ることにして、虫のいい話だが退職は何とか逃れるよう努力してみる、ということで家族会議を締めくくった。上司のパワハラを受けていて、コンプライアンス委員会に申し立てしていることについては、あえて触れなかった。

  

 翌日、会社に出ると西村からメールが入っていた。明日の朝、8時半から申し立ての件について、お話をしたいから3階の小会議室に来てくれ、と書いてあった。六道はただちに了解の返信メールを入れた。鬱でも戦わなければと、弱い心を鼓舞した。

  

 朝の8時25分に3階に上がると、西村が例のごとく固い顔つきで、小会議室の方を指さして、入室するようにうながした。いつもの西村の素振りだが、六道にとっては、もっとにこにこできないものか、といつもの条件反射のような言葉が浮かんだ。

 

  小会議室には朝日が差し込んでいてまぶしいくらいだ。室温もかなり高いのでエアコンを急激に稼働させる。風が起こる音が白い無機質的な部屋を支配する。西村は奥の席に座った。六道は対面に座ることになった。

「朝早くからすみません。さっそく本題に入ります。あなたから来たメールは印刷して、その日のうちに2名の営業部のメンバーと吉岡常務と面談した。あなたの言ったことが真実なのかの確認をして、ほぼ間違いないようだから、僕の方が彼より常務でも上位役職だから、今後注意するように話した」

 ということは、すでに申し立ての内容は、その日のうちにあの吉岡に伝わっていたことを、六道は初めて知った。青天の霹靂の人事を言ってきた時には、既にかなり時間が立っていたというわけである。それにしても六道の申し立てがあっても、面談の時にほとんど動じないということは、あの吉岡はかなりの役者なのであろうか。六道は肩透しを食らったような気持になった。

「そんなに早く動いていただいているとは、ありがとうございます。同僚にもすでに聞かれているのですね」

「聞きましたよ。双方にとって中立であるためには、情報がないと判断しようがないのでね」

 突然会議室のドアをノックする音が聞こえた。聞きなれた声で

「入ります」

 と言って血色の良い日焼けした顔の夏目部長が入ってきて、西村の横に座った。

「夏目君忙しいところ悪いね。六道さん、彼が実質的にコンプライアンス委員会の召集などを行うから、同席してもらうよ」

「判りました」

「それで、吉岡常務にはあなたの書いたパワハラと感じたところを、一つ一つ確認してもらった。彼はパワハラとは思っていないところも多いが、反省すべきところもあると言っていた。それであなたがコンプライアンス委員会で証言するなら、どうぞやってくださいと言っていた。あなたが証言を正式にやりたいのであれば、そのように進めるがどうしますか?」

「吉岡常務は反省すると言っているのですか?」

「行き過ぎた面があることは承知しているようだ。ただあなたの仕事のやり方に対しては、不満を持っているようだ。だからああいう行動になったと言っている。どうするかね。コンプライアンス委員を招集して、吉岡常務に対して、あなたは一つひとつ申し立てをするかね?」

 六道は、すぐには返答できなかった。ただでさえ鬱なのに戦ったわけだが、本音を言えば戦わないでうまく収まるならなお良いと感じていた。鬼神のように戦うには弱すぎた。人が良いのであろうか。人が良すぎるがゆえに、パワハラの餌食になると言えなくもない。 

「あなたが、今回申し立てをすれば、脅かすわけではないが、将来にわたって不利になるのは確かだ。それでもいいかね?」

「というのは私の人事異動の話でしょうか?」

「その話は、あなたが申し立てをする二日前に内定していた話だから、全く別の話だ。ただし、あなたが申し立てをすることによって、事態は悪化することは免れないかもしれない」

 西村は六道に申し立てをさせないために、どんどんと詰め寄って来た。それは強引であればあるほど事務的で冷たく感じる。フランクではないのである。そんな対話は六道は大嫌いであった。それでも決断しなければならなかった。

「そうですね。いろいろなことで頭の中が混乱していますが、人事異動の件は別として、今回の申し立ては、現在の心境では取り下げる方向に傾いています。先方の吉岡常務が軟化しているというのであれば、私も矛を休めても構わないと思います。しかし、また同じようなことが起きるようであれば、再度申し立てをするという方向で行きたいと思います。如何でしょう?」

 その時一瞬、仏頂面の西村の顔が緩んだように見えた。

「そう決断してくれるなら、この問題をうまく収束させることにはやぶさかではない。もしコンプライアンス委員会で対決することになったとしたら、多分あなたが営業部をやめるか、吉岡常務が営業部をやめるかのどっちしかないわけで、会社としては吉岡常務をやめさせるという選択は不可能だと思う。だからあなたが矛を収めてくれればまずは安心だ。しかも人事異動の話が起きているから、ちょうど良いのではないのかね」

「それでは、吉岡常務への申し立ては様子見をしますが、とりあえず取り下げていただくことでご了承ください。しかし、それでも変わらないようであれば、また申し立てをすることもある、ということで今日は終わりたいと思います。人事異動に関してはここでは触れません」

「判った。それではあなたが矛を収めたということを、吉岡常務に話しておきます。それでも何か不都合なことが起こるようであれば言ってください。夏目部長からは何かあるかな?」

 日焼けした夏目部長は、にこにこして一言こう述べた。

「やはり、組織は生き物であり、人間関係が一番大変だと思う。今後はぜひ吉岡常務とうまくやれるよう頑張ってください。僕も出来るだけ小林株式会社が、人間尊重の良い組織になるよう努力していくよ」

「色々とありがとうございました」

 

 会議室を出ると、六道は少しだけさわやかな気持ちになった。きっと艱難辛苦はこれからもあるだろうが、今だけは鬱病もなく、以前の生気あふれるような精神状態の瞬間が訪れた。2階の執務室に降りると、吉岡がすりガラスの中の椅子に座っているのが見えた。すると、人事異動の課題をどう乗り切るか、でまた頭がいっぱいになるような気がした。  

 それから、六道は前々から薄々感じていたのだが、コンプライアンス委員長の西村常務と営業部の吉岡常務は同期だということで、もしかすると裏で結託している可能性もあるのである。以前人事の人間が、うちの西村常務と吉岡常務は仲が良いから、案件がすぐ決まると言っていたことが気になっていた。また、西村常務は六道の元上司だったころ、やはりパワハラめいた言動が多かった。会社の中の弱者を認めず、仕事ができない優柔不断な人間に対しては、切り捨てよ、というような考え方をする男であった。やはり、組織の人間を、一つの歯車で判断するというタイプなのであった。


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