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パワハラの恐怖を排除するために六道は立つ

 六道の鬱の症状は重症度を増していった。まず、朝の4時ぐらいに目が覚めるともう眠れないのである。今日、会社に行けばまたあの吉岡の怒鳴り声、机を何かで激しく叩く音を聞かねばならぬのであると思うと、心臓が針で刺さされるような錯覚に襲われた。天井の白い壁紙が冷たい雪のようにも見える。寒くて、寂しくて、涙が出そうになる。人間の出会いとは良い時と、悪い時がある。全くあわない一面非道な男に巡り合ったということは、何の因果なのだろうと六道は思った。ただ、この現実から『逃げたい』という想念が湧き上がるばかりである。昔、田舎の高原の草むらに横たわって、様々なことを空想した時も、ほとんど叶わないことを知りながらも夢のような気分になっていた。今も憎い敵である吉岡が倒れ伏すシーンを空想すると、少しだけ六道の気持ちは落ち着いた。それでも、年齢のせいだろうか、社会の苦しい荒波にもまれたせいだろうか、あっという間に現実に引き戻される。そうなると、現実から逃げることしか思いつかなかった。その行くつく先は、たった一つだった。『死にたい』という言葉がふと頭の中を過るのである。

 

 そんな時、がんで早世した妻が良く口にしていた『自殺は卑怯者がやること。自殺は弱い人間がやることよ』という言葉が『死にたい』という言葉を突き刺すように登場してくる。その言葉は人間を正確にとらえた言葉ではないと思うが、自殺への歯止めになることは確かだ。自殺するくらいなら、生きて他の道を探したほうが良いということらしい。それでも六道は大きな蛇に睨みつけられたネズミのように動けないのである。

 

 『死にたい』とその言葉を何度も何度も繰り返した。軽い羽毛布団が鉛のように重い。体が巨大な鬼神に押さえつけられているようだ。

 そして『助けてくれ!』『死にたくないよ!』と六道は心の中で叫んでいた。しかし、誰も助けない。子供たちが助けてくれるわけではない。年老いた母を悩ますわけにもいかない。六道は完全に追い込まれているのである。

 

 ある詩人の言葉に『仮装の人生の悩みを乗り越えよ』という言葉があった。人生は仮装の苦しみを与え、乗り越えて幸福感を味わうためにあるのだから戦えというのである。いわば劇場にいて劇を演じているのであるという趣旨だ。その言葉は一瞬、六道を救いはするが、現実はやはり仮装ではなかった。劇ではなかった。不愉快極まる現実であった。考えれば考えるほど巨大な越えられない壁となり、真っ黒でジャンプしても越えられない深い海溝となり、跨ぐことがけっしてできない燃え盛る炎のような現実にしか思えないのである。

 

 それでも、冷酷に起床の時間はやってきた。朝の6時を報せる近くの寺の鐘が鳴り始めた。ゴーンともボーンとも形容しがたい鐘の響きが、六道の居る二階の寝室にも入り込んできた。

 『起きるべきか、このまま眠るべきか』そんな事を真面目に考えているのである。幸運なのはどこかに割り切れる性格も持ち合わせていたことだけである。『どんなに怒鳴られても、どんなに机をたたいて吉岡が威嚇してこようとも、命はとられることはない』と割り切ろうともした。こちらの考え方のほうがまだ六道にはしっくりときた。劇を演ずるというのはわかるが、演ずる苦しみは変わらないと思った。むしろ、殺されないならまだましと割り切ろうとした。その言葉だけで今日はなんとか会社に行けそうだと、鉛のように重い布団をはいだ。

 

 その時、ふと会社のコンプライアンス委員会のことが脳裏に浮かんだ。『何もしないより、何か手を打ってみよう』と六道は考えた。そしたらあとからあとから、その手法が浮かんできた。服を着替えながら、コンプライアンス委員会への申し立ての文章が浮かんできたのである。

 

 社員通用門でカードリーダーに首から下げた社員証をかざすと、ドアが開錠される音がする。いよいよ戦いがこれから始まると六道は思った。気力が爆発的に高揚しては来ないが、何とか戦う気力を上げ始めた。2階の執務室に入る時にも同じように社員証をかざす。いよいよ突入だと部屋の中を睨み付け回した。

 

 パソコンのスイッチを入れる。いつものカタログ依頼メールを処理すると、六道は電車の中で練ってきた構想を一気に打ち始めた。

 

【パワハラの恐怖を排除するために申告します】

 

 通常、パワハラを受けた場合、逃亡するか立ち上がるかのどちらかですが、今回は上司の行為を改善してもらうために申告します。申告したことによって改善がなされ、不当な扱いを受けないことを強く要望いたします。六道。

 

【申立の根拠】

 

 職場で働く人は、働く人という以前に、尊厳を持つひとりの人間だと思慮します。ですから、仕事という名目を傘に、人格を傷つけられたり、仕事への意欲や自信を喪失させたり、時には心身の健康などが危険にさらされるような行為は、決してあってはならない行為と考えます。本来、上司・部下といった関係はあくまでビジネスの上での契約で、これが人間的に上とか下とかいう事にはなりません。しかし、いつも命令している立場にある人はこれを忘れがちになり、人間性を否定するような言動があったり、仕事上の権限を超えて命令をしたりする場合があります。これがパワーハラスメントの原因になる事が多いと思われます。

 
【巷で言われているパワハラへ抗議する気持ち】

 

「全ての社員が家に帰れば自慢の娘であり、息子であり、尊敬されるべきお父さんであり、お母さんだ。そんな人たちを職場のハラスメントなんかで鬱に至らしめたり苦しめたりしていいわけがない」

 

  パワハラ事例(吉岡常務から受けたもの)

 

1.3月25日。営業部の新しい自分の席にやってくると、開口一番パソコンについてこう言った。「君は何をしているんだ。僕が今日ここに赴任してくることは知っていたはずだ。すぐに用意しろ。明日まで必ず準備してくれ!」と倉本部長が事情を説明しても聞き入れてくれない。さらに「君、新しく赴任してきた者に対しての気持ちの配慮がないではないか。仕事をしていないのと同じだ。いつまで入るか確認してこい」と目を吊り上げて怒鳴った。周りにいた社員は、その怒りの声に緊張が走り不快となった。「傲岸不遜」そのものである。

 

2.3月25日。着任早々から部下の完全なる呼び捨てである。「鈴木!」「磯貝!」と自分の席から大きな声で呼びつける。その何か毒気を含んだような叫び声は周りの社員に恐怖感を与えている。当然というような顔をして権威を振りかざして呼びつけているようにしか思えない。

 

3.ほぼ毎日。若手社員を自分の子分のように使っている。たばこや飲み物をコンビニに買いに行かせる。部下に私事を命じるのは明らかに不適当な命令です。

 

4.4月12日。土曜日の接待ゴルフで茨城方面に行く予定だった。入社2年目の細川君がその前日の金曜日に常務席に突然呼ばれ、運転手として土曜日出勤を命じられる。本人は家族の用事があったのにキャンセルしている。完全に公私混同である。運転手がいなくても自分で運転していけば良い話である。

 

5.4月23日。六道と吉岡常務は広告宣伝のことで打ち合わせをしていた。その時に、営業部の部下を呼ぶ時には、せめて君かさんをつけて欲しいと意見を述べた。すると「何だと!俺に社員を君やさん付けで呼べと指図するのか。いままでの赴任先の支店では、一度もそういう風に呼んだことはない。士気を高め、適度の緊張感のためには呼び捨てのほうが良いんだよ。君に何がわかるんだ。君は何様のつもりだ。この部署の責任者はこの俺だぞ。俺が決めることだ。黙っていろ」と激怒した。そして形相は一変し、常務席の横にある打ち合わせ用の椅子を意表を突くように蹴ったので、フロアに転がっていった。

 

6.その後、吉岡常務は興奮して打ち合わせしていた報告書の束をつかむと、無言のまま六道の顔めがけて投げつけた。幸い、六道の顔に当たることはなかったが、書類は転がった椅子の方にめがけて飛んでいった。続けて六道が時間をかけて作った分厚い広告宣伝の一覧ファイルを何度も激しく机に叩き付けた。身の恐怖を感じた。

 

7.毎日のように、六道筆頭に特に気に食わないメンバーが3人ほどいて、徹底的ないじめを行っている。気に入らない報告者の前で定規や書類の束で机をたたく。

 

8.毎日のように、六道の目の前では、決まって分厚い報告書類のファイルを何度も激しく机にたたきつけるようになった。周りにいた同僚たちは委縮して仕事が手につかない。もう仕事の相談ができる雰囲気はなく、営業部全体の仕事が全然進まなくなった。

 

9.自信のない発言をすると立腹する(例えば、4月の新人研修を営業部でやっている時、「土日の新入社員の動きはどうなっている?」と質問してきた時、「例年ですとホテルで休息していると思います」と答えた。すると、「そうじゃなくて人事に確認するべきだろう」と怒る。なんで私の言うことに対していつも気に食わないのだろうと悲しくなる)。

 

10.5月7日。新人のパソコンの入荷が遅いと叱責する。本来は人事で、各部署に配属された新入社員にパソコンを準備しあてがうのですが、一か月後の入荷と聞くと、「遅い」と人事に言うべきことを代わりに叱責された。

 

11.5月8日。総務の井上部長代理が作成し指示のあった(メールで)営業部内の新人の準社宅申請書に印鑑を押してもらうことがあった。たまたま内容にミスがあり総務の責任であるのに「チェックしないお前が悪い」と2時間も準社宅に関する関連資料の開示等を要求し、不備があると叱責し、印鑑をなかなか押してくれなかった(この日は精神的ショックで寝込んでしまった)。

 

12.5月9日。面談をしている際に「馬鹿野郎」と呼ぶ。いくら上司でも「馬鹿野郎」と呼ばれる筋合いはない。

 

13.5月13日。会議室で、二人で話をしていた時に、「六道」と苗字で呼び捨てにされた。呼び捨てにされて不快だった。

 

14.5月15日。担当している広告宣伝費に関することについて報告をしている中で、指示を仰ぐ事項があった時、いきなり「何年この仕事をやっているんだ。自分で考えろ。お前は無能か」と叱責された。

 

15.常時、外出するときに「いってらっしゃい」と挨拶しても、完全無視する。

 

16.5月20日。営業部の広告宣伝予算の件で集計表を作っている最中うっかりミスで叱責され、エクセルがうまく使えないと無能呼ばわりした(周囲に多くの社員がいたので悔しかった)。

 

17.(毎月末)伝票チェックであれこれ同じようなことを何度も詰問して難癖をつける(特にカタログの増刷代等についてはしつっこいほど質問して答えに窮すると怒鳴りつける)。

 

18.6月3日。面談している時、私の口元に手を置く癖を馬鹿呼ばわりして、強制的に修正した。こちらの気に入っている恰好なので言われる筋合いはない。

 

19.6月11日。現行の小林のホームページの解析システムでは作れない製品ごとのアクセス数のデータ作りを要求してきた。最終的には不十分ながら完成したが、そのために膨大な時間を要した(グーグル・サーバへのアクセス数、カタログヒット数、ページ訪問先数、製品ごとのアクセス数、株主アクセス数、各ページごとのアクセス数、アクセスランキングの推移などのグラフを要求、自分の趣向に合わないと侮辱し、叱責する)。

 

20.6月19日。小林のWEBの製品検索メニューのリニューアルについての稟議書作成の際、何度も修正し、「この表現では誰もわからない」などと批判し、OKの印鑑を全く押してくれなかった。教育に名を借りたいじめと受け取った。

 

21.人によって対応がまったく違う(私を筆頭に営業部内の何人かのメンバーに対しては、掛け声、叱咤で恐怖感を与えるが、気に入った人間にはそのような行為をしない)。部下の存在を好き嫌いで判断し対応している。

 

22.6月21日。案件をわかりやすく説明しないと受け付けない。「それはどういう意味だ」「もっと判り易く言え」「誰がそれを言った」「いつそれが判った」等々、特に私に対しては常に詰問する。報告することがしんどく怖くなる。

 

23.6月25日。幹部会議の席上、まだ完成していないのでホームページのことをあえて報告しなかったことに対して、「ホームページのことは俺が言わなければ報告しないのか」と怒鳴りつけた。配った資料が丸まっていたため「こんな資料では使えないだろう」と愚弄した。仕事をすることにものすごい恐怖を感じた。

 

24.部下は上司に対して、正面きって反論しづらい立場にあることをいいことに、ミスをするといつも言いたい放題です。小言を言われる度に委縮しているところに来て、仕事ができない人間と決めつけ、子ども扱いにして馬鹿にする。指摘される側の私はその場にいたたまれなくなり、最低限のプライドさえ踏みにじられる。

 

25.前回指示した内容通り作った予算差異の書類を、「これでは判りにくい」と駄目出しし直させた。その内容が常務自身の考えたものであるにもかかわらず、こちらで作ったもののように言い、判りにくいと言って来た。本来なら、前回言ったのと違うけど、こう直した方がよりいいのでは、と言うのが筋ではありませんでしょうか。判りにくい表現をつくったのはこちらであると責任転嫁されるので辛い。いじめとしか思えない。

 

26.叱るにしても、愛情を持って育てるという気持ちは全く見えず、その時の自分の気分で叱っているとしか思えない。

 

27.仕事ができないのではなく、常務のパワハラ恐怖からのびのびと仕事ができないというのが真実です。人に仕事の段取りを意地悪く質問したりして、うまく答えられないと、子ども扱いや無能力者扱いでは逆に委縮して自信を無くす。権力を持たない者へのいじめである。

 

28.いじめからの逃げ道がなくなれば当然考えるのは自殺だ。悲しいことだが、親族でやはり58歳で自殺でなくなっている者がいる。だから、弱気になっていけないと思うが、ふっと考えてしまうこともある。しかし、幸いなことに、家族や親友たちや同僚たちに相談すると、そんな気持ちを打ち消してもらい、前向きにしていただいているのが現実である。人間は一人では弱いものだと痛感するが、かなりの期間悩んできたこともあり、思い切ってこの気持ちを今回は吐露させていただく。

 

 六道は一気呵成で打ち込むとほっと一息ついた。かなり大きな音でキーを打っていたから、周りの人間は急ぎの仕事だろうかと思っているようだ。幸い吉岡は朝の会議で空席だった。文章を作る前よりは鬱病でも少しの充実感が六道の胸のあたりを温かくした。

 コンプライアンス委員会のメールアドレスを打ち込むと、送信ボタンを押そうとした。しかし、この送信ボタンを押すための勇気は、簡単には内部から出てこなかった。時間が止まったような気さえした。周りの社員たちが高速度で動き回っているようにさえ思えた。一歩踏み出すためのアクションは、重圧となって六道を躊躇させたのである。だが、どんなに考えても、苦しみから逃れるためには正面から戦うしかないという結論に行きついた時、送信ボタンを押すことができた。メール送信中の表示がびっくりしたように点滅している。いよいよ戦いが始まったのである。六道は重圧感を抱きながらも、前に進むことを選んだのであった。

 

 その日の夕方、六道の内線電話が鳴った。液晶パネルには西村直人常務の内線番号が表示されていた。『戦闘開始!』と鼓舞しながら、六道は受話器を取った。

「西村です。メールの文章読みました。ついては明日の朝早く話ができますか?」

「大丈夫です。どこに行けばよいでしょうか?」

「3階の私のところに8時半に来てください」

「判りました」

 受話器の向こうで電話を置く音がした。六道は身震いした。明日までの13時間余りの一秒一秒が煩わしく思われたが、耐えなければならない。

 

 朝、3階に上がり、西村直人常務にあいさつをすると、ニコリともせず小会議室の一つに入るよう指示された。まだ梅雨は開けておらず、雨は降ってはいなかったが、空がどんよりしているのが窓から覗けた。向き合って座ると六道の緊張感はマックスになった。

「あなたのメール読みました。ついては面談をして、その内容についてよく聞きたかったので、今日は来てもらいました」

「はい。よろしくお願いします」

  面談は書いた内容についての状況を、執拗なまでに問いただすような雰囲気があった。鋭い西村直人の質問に六道が窮すると、

「あなたが、その点について明確にできないようであれば、コンプライアンス委員会を開いても勝てませんよ。吉岡常務と対決するのだから、もっとしっかりしなさい」

 西村の口調は鬱病に罹りつつある者への温かい言葉ではなく、むしろ厄介なことをしてくれて困っているんだ、というばかりの不機嫌な感情が含まれていた。いや、むしろいつもの西村のスタンスなのだとも六道は思った。

 一通り、メールで記載した告発文の検証が終わると、もう一時間は過ぎていた。コンプライアンス委員会に申し立てをするということはしんどいことであり、よほどの覚悟ができていないとできないぞ、という脅しまで出てきた。六道はむべなるかなと思った。西村は数年前に六道の上司だったことがある。その時にも六道は幾分鬱気味で、西村から何度か激しく叱責され落ち込んだことがあったが、西村はやはりその時と少しも変わっていないということを改めて思い知らされた。コンプライアンス委員会の委員長になったというのは、単なる前職者の退任によって回ってきた役であり、それによって急に温かい人間性が養われるなどということはないのである。鬼は鬼なのである。六道が自殺をほのめかしたことについても、 

「こういう言葉を使ってはいけないと思う。もし本当だとしても、こういう脅迫めいた言葉はあなたの立場を悪くするだけだ。だから、この文言はコンプライアンス委員会を開く際の資料としては削除してもらえないか?」

「確かに極論すぎるかもしれませんが、そう思ったのは事実です」

「事実だとしても、今後のことを考えると簡単に吐く言葉ではない。自重してくれないか」

 六道は不満だったが、しぶしぶ了承した。 

「大体のことは判りました。この申し立ての自殺の部分を除いて吉岡常務に確認してみるから、1週間ぐらい時間をください。また面談しよう」

 

 六道は被害者でありながら、加害者のような扱いに納得がいかなかったが、とりあえず緊張した面談から解放されて、自分の席に戻った。周りにいた同僚たちは、申し立てのことを知る由もなかったが、六道には力強い味方に見えた。


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予期せぬ人事異動、申立の撤回

   西村に吉岡のパワハラについて申し立てを行って回答が来る前に、六道は小会議室に呼ばれた。長身で白髪の吉岡は小さな手帳を持ち、先に小会議室に入った。

  10人ぐらいが入れる小さな会議室だ。ロの字形式の会議室で真っ白な机がまぶしい。湿度が高く、部屋の温度もかなりあったので、六道はすぐにエアコンのスイッチを入れた。真っ赤なシンプルな椅子に吉岡は先に座った。調度誕生席に当たる場所である。六道はその斜めの一番近い席に腰を下ろした。真向に相対して座るより、その方が気が楽であった。 

   吉岡はすでに六道のコンプライアンス委員会への申し立てを、聞いているのだろうか。それを六道は正面切って聞く勇気は今はない。もし聞いていたとしても、それによって立場上弱音を見せるわけにはいかないから、いつもの不機嫌そうな渋い顔で防御しているのかもしれない。六道を一瞥して口火を切ってきた。

「今日呼んだのは他でもない、単刀直入に言うけどびっくりしないで欲しい。人事部からの命令です。当然社長も了承している」

   六道は降って湧いた様な突然の話のようなので、胸騒ぎと、陰謀めいたものを感じ、身構えて耳を澄ました。

「六道課長は総合職だね?」

「はい、総合職、一般職の導入の時から総合職です」

「それでは、総合職というのは、会社からの転勤を命じられた場合、受け入れなければならないということは知っているね?」

「存じています」

   六道は自分の広告宣伝の仕事は専門職であるから、転勤があるはずがないと高をくくっていたので、総合職を希望していた。総合職と一般職では当然年収に大きな差がある。出世についても歴然とした差があるのである。

「転勤を断った場合、退職しなければならないということも知っているね?」

「ええ、かつての同僚が大阪への転勤を断ったため、やむなく転職したことは知っています」

「じゃあ、話は早い。実は、九州支店で、事務責任者だった人間が事件を起こしてしまった。これは会社内では公表されていない事件だが、すぐに次の人間を配置しないと業務に支障をきたすということで、人選が進んでいたが、今回、六道課長に白羽の矢がたった。承知してくれるかね?」

「・・・・・・」

 六道は予期せぬ人事異動に言葉が出なかった。晴天の霹靂という言葉が頭の中を駆け巡った。まさにそれ以外の何物でもなかった。これはもしかしたらコンプライアンス委員会に申し立てしたことに対する復讐なのだろうか。目の前にいる吉岡はそのような気配など毛筋ほども見せない。厚顔無恥極まれりだ。人事からの通達とすれば、西村から目の前の吉岡に直接話があったはずであるから、間違いなく一瞬の隙も与えずに意趣返しされたのである。会議室の中のエアコンが、時々不気味な唸りを上げているような気がした。沈黙は数分、いや数秒かもしれない。六道の頭の中は、悲鳴を上げてあらぬことを想起して回転していた。くぐもったような声で、やっと六道は言葉を発した。

「赴任するとしたらいつからですか?」

「早い方がよいので7月25日には一回九州に行ってもらいたい。辞令は君が承知次第で出すそうだ。行ってくれるね」

 吉岡はいつもの攻撃的で、人を侮蔑したような目つきではなく、顧客に接するときのような柔らかい笑みを含んだ目つきになっていた。いいや、よく見るがいい。口の端にはうす笑いさえ浮かべているようではないか。六道はこの場でコンプライアンス委員会に申し立てした内容を、ぶちまけたい気持ちになった。全てのパワハラ行為の悪行をこの場で叫び、この人事異動は間違いなくその申し立てに対する意趣返しであることを、暴き出してやりたいと思った。しかし、実際西村と吉岡の間で何が話されたのか。どうコンプライアンス委員会は動いているのか把握できていない今、うかつに勝負することはすべてを失ってしまう危惧さえあった。それに今この場で戦う気力など六道になかった、というのが本当だろう。六道は鬱なのである。

「すみません。一週間だけ考えさせてください。総合職であってはならないことかもしれないのですが、年老いた母と子供が二人います。話し合いをする時間を下さい。それでもうまく事が運ばなければ最悪の事態も覚悟します」

「最悪というのは人事命令を拒否するということかね?」

 吉岡の目は明らかに笑っていた。

「ええ、それもやむなき選択と思われます」

「判った。それでは一週間待とう。人事部の方にもこれから行って話しておく。よろしく」

  吉岡はすたすたと部屋を出て行った。吉岡の座っていた赤い椅子は、テーブルの中にきっちりと押し込まれることもなく、斜めにだらしなく出しっぱなしである。きっと、吉岡自身も六道と面談して人事のことを告げることに、一抹の恐怖と不安があったのだろうか、と六道は勝手な想像をした。六道は赤い椅子をテーブルの中に押し込むと、エアコンと照明をオフにして会議室を出た。

  

 六道はその日市川の自宅に帰り、70歳を超えた母と専門学校生の京子と高校生の高志をリビングルームに呼んだ。母親はいつも笑みをたやさないおとなしい女性だった。妻が亡くなったあと、父もすでに他界していたのですぐにこの市川に越してきてくれて、本当の母親のように子供の面倒見てくれたおかげで、二人の子供はわがままな面もあるが、素直で優しいところは母親によく似ている。まあ、癌で死んだ妻と生前過ごした日々が、命の尊とさを教えてくれたというのも大きいのかもしれない。

「集まってもらったのは、今日会社で転勤の打診があったので、皆に相談したかったからだ」

「本当、パパ、どこに転勤なの?」 

 愛娘の京子は目を丸くして驚きの声を発した。

「九州支店だ」

「ずいぶん遠いとこね。私はいけないわ。専門学校もあるし」

「俺も無理だよ。高校を変えるわけにはいかないし」

 息子の高志も即答である。

「判っているよ。みんなが一緒に転勤することなど端から考えていない。だから行くとしたら単身赴任だよ」

「私は心細いよ。子供たちを守るって言ったって私はもう年だし」

 優しい母はもう弱音を吐いている。

「それも判っている。だから相談なんだ。皆は反対なんだね?」

「あたりまえでしょう。そんな会社の都合でパパが遠く離れて仕事するなんて、私は毎日心配だわ」

「俺は男だから大丈夫だけど。おやじがいなければ俺の責任大ってことだよね。これから大学受験だし、いないよりはいてくれた方が・・・・・・」

「そうか。子供たちももう大人だから言うけど、もしこの転勤を断ったら会社を辞めなればならないかもしれないんだ」

「そんなことってありなの?私は信じられないわ。会社っていうのはそんなに冷酷なの。パパが毎日頑張って仕事しているのを知っているし、それは伝わってくるわ。それなのに転勤を断ったら退職させられるなんてブラック企業よ!」

「ブラック企業ということでもないが、パパは総合職なんだ。総合職は転勤しない一般職と比べて、それなりに給料の待遇が良く出世もできる。だからその交換条件として基本的には会社があっちへ行けと言ったら、即転勤しなければならない。それは会社は一つの組織であり、その組織が有効に力を発揮して利潤を上げるためには、総合職の社員は、一つの歯車として従わなければならないのは当然かもしれない。ただしその組織の中で働く人間も生身の人間だから、いろいろなことが起きるんだろうね。もし転勤に従わなかったら、総合職でも転勤拒否ありとなって、周りに示しがつかなくなるっていうのが会社の言い分だと思う」

「たとえそうだとしても、私はパパと離れて生活するなんて考えられない。絶対許せない。転勤反対!退職反対よ!」

 正義感が強くて感情の起伏の激しい京子は、怒りが抑えられないようだ。六道はこれ以上話すとこじれそうなので、ひとまずあと一週間の猶予をもらったから、会社に直訴する方向で、転勤はできるだけ断ることにして、虫のいい話だが退職は何とか逃れるよう努力してみる、ということで家族会議を締めくくった。上司のパワハラを受けていて、コンプライアンス委員会に申し立てしていることについては、あえて触れなかった。

  

 翌日、会社に出ると西村からメールが入っていた。明日の朝、8時半から申し立ての件について、お話をしたいから3階の小会議室に来てくれ、と書いてあった。六道はただちに了解の返信メールを入れた。鬱でも戦わなければと、弱い心を鼓舞した。

  

 朝の8時25分に3階に上がると、西村が例のごとく固い顔つきで、小会議室の方を指さして、入室するようにうながした。いつもの西村の素振りだが、六道にとっては、もっとにこにこできないものか、といつもの条件反射のような言葉が浮かんだ。

 

  小会議室には朝日が差し込んでいてまぶしいくらいだ。室温もかなり高いのでエアコンを急激に稼働させる。風が起こる音が白い無機質的な部屋を支配する。西村は奥の席に座った。六道は対面に座ることになった。

「朝早くからすみません。さっそく本題に入ります。あなたから来たメールは印刷して、その日のうちに2名の営業部のメンバーと吉岡常務と面談した。あなたの言ったことが真実なのかの確認をして、ほぼ間違いないようだから、僕の方が彼より常務でも上位役職だから、今後注意するように話した」

 ということは、すでに申し立ての内容は、その日のうちにあの吉岡に伝わっていたことを、六道は初めて知った。青天の霹靂の人事を言ってきた時には、既にかなり時間が立っていたというわけである。それにしても六道の申し立てがあっても、面談の時にほとんど動じないということは、あの吉岡はかなりの役者なのであろうか。六道は肩透しを食らったような気持になった。

「そんなに早く動いていただいているとは、ありがとうございます。同僚にもすでに聞かれているのですね」

「聞きましたよ。双方にとって中立であるためには、情報がないと判断しようがないのでね」

 突然会議室のドアをノックする音が聞こえた。聞きなれた声で

「入ります」

 と言って血色の良い日焼けした顔の夏目部長が入ってきて、西村の横に座った。

「夏目君忙しいところ悪いね。六道さん、彼が実質的にコンプライアンス委員会の召集などを行うから、同席してもらうよ」

「判りました」

「それで、吉岡常務にはあなたの書いたパワハラと感じたところを、一つ一つ確認してもらった。彼はパワハラとは思っていないところも多いが、反省すべきところもあると言っていた。それであなたがコンプライアンス委員会で証言するなら、どうぞやってくださいと言っていた。あなたが証言を正式にやりたいのであれば、そのように進めるがどうしますか?」

「吉岡常務は反省すると言っているのですか?」

「行き過ぎた面があることは承知しているようだ。ただあなたの仕事のやり方に対しては、不満を持っているようだ。だからああいう行動になったと言っている。どうするかね。コンプライアンス委員を招集して、吉岡常務に対して、あなたは一つひとつ申し立てをするかね?」

 六道は、すぐには返答できなかった。ただでさえ鬱なのに戦ったわけだが、本音を言えば戦わないでうまく収まるならなお良いと感じていた。鬼神のように戦うには弱すぎた。人が良いのであろうか。人が良すぎるがゆえに、パワハラの餌食になると言えなくもない。 

「あなたが、今回申し立てをすれば、脅かすわけではないが、将来にわたって不利になるのは確かだ。それでもいいかね?」

「というのは私の人事異動の話でしょうか?」

「その話は、あなたが申し立てをする二日前に内定していた話だから、全く別の話だ。ただし、あなたが申し立てをすることによって、事態は悪化することは免れないかもしれない」

 西村は六道に申し立てをさせないために、どんどんと詰め寄って来た。それは強引であればあるほど事務的で冷たく感じる。フランクではないのである。そんな対話は六道は大嫌いであった。それでも決断しなければならなかった。

「そうですね。いろいろなことで頭の中が混乱していますが、人事異動の件は別として、今回の申し立ては、現在の心境では取り下げる方向に傾いています。先方の吉岡常務が軟化しているというのであれば、私も矛を休めても構わないと思います。しかし、また同じようなことが起きるようであれば、再度申し立てをするという方向で行きたいと思います。如何でしょう?」

 その時一瞬、仏頂面の西村の顔が緩んだように見えた。

「そう決断してくれるなら、この問題をうまく収束させることにはやぶさかではない。もしコンプライアンス委員会で対決することになったとしたら、多分あなたが営業部をやめるか、吉岡常務が営業部をやめるかのどっちしかないわけで、会社としては吉岡常務をやめさせるという選択は不可能だと思う。だからあなたが矛を収めてくれればまずは安心だ。しかも人事異動の話が起きているから、ちょうど良いのではないのかね」

「それでは、吉岡常務への申し立ては様子見をしますが、とりあえず取り下げていただくことでご了承ください。しかし、それでも変わらないようであれば、また申し立てをすることもある、ということで今日は終わりたいと思います。人事異動に関してはここでは触れません」

「判った。それではあなたが矛を収めたということを、吉岡常務に話しておきます。それでも何か不都合なことが起こるようであれば言ってください。夏目部長からは何かあるかな?」

 日焼けした夏目部長は、にこにこして一言こう述べた。

「やはり、組織は生き物であり、人間関係が一番大変だと思う。今後はぜひ吉岡常務とうまくやれるよう頑張ってください。僕も出来るだけ小林株式会社が、人間尊重の良い組織になるよう努力していくよ」

「色々とありがとうございました」

 

 会議室を出ると、六道は少しだけさわやかな気持ちになった。きっと艱難辛苦はこれからもあるだろうが、今だけは鬱病もなく、以前の生気あふれるような精神状態の瞬間が訪れた。2階の執務室に降りると、吉岡がすりガラスの中の椅子に座っているのが見えた。すると、人事異動の課題をどう乗り切るか、でまた頭がいっぱいになるような気がした。  

 それから、六道は前々から薄々感じていたのだが、コンプライアンス委員長の西村常務と営業部の吉岡常務は同期だということで、もしかすると裏で結託している可能性もあるのである。以前人事の人間が、うちの西村常務と吉岡常務は仲が良いから、案件がすぐ決まると言っていたことが気になっていた。また、西村常務は六道の元上司だったころ、やはりパワハラめいた言動が多かった。会社の中の弱者を認めず、仕事ができない優柔不断な人間に対しては、切り捨てよ、というような考え方をする男であった。やはり、組織の人間を、一つの歯車で判断するというタイプなのであった。


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