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1

     【水ぐるま】

 今年も春先に雨が降らず、やきもきしたが、夏にはいって雨が降りはじめ、みな胸をなでおろした。古河公方が攻め寄せてきた年も、秋口に大雨が降った。古河公方は伊豆で勝利を収めたものの、帰路に利根川の増水にあってしまい、大損害をだして引き上げたそうだ。

 とにかく、ここらでは水をどうやって確保するか、それが課題であることを、佐与はあらためて感じていた。

  作物の害になるものは、まず獣や虫がいる。そして病害もばかにならない。いくさで荒らされることもある。だが、どうしようもないのが天候不順だった。台地で畑作をしている佐与たちにとっては、洪水の心配は少ない。反対に日照りの恐怖はいつも、つきまとっていた。

  このところ、佐与は休みどきになると、枯れ枝で地面に何か書いている。丸や四角をいくつも書いているのを、権三は不思議そうに見つめていた。

 「権三、わたしは明日包助のところに行ってこようと思うの。畑は悪いけどひとりで頼むわ」

  今はちょうど端境期になる。権三ひとりでも大丈夫だろう。

 「そうか、あっちに行っても元気で暮らせよ。・・・達者でな」

 しばらく間をおいてから、権三が寂しそうにそう言ったので、佐与は笑った。

 「ばかねえ、一日行ってくるだけよ。遅くともあさってには戻ってくるわ」

  権三が、目をぱちぱちと瞬かせて不思議そうにしているので、佐与も説明しておこうという気になった。

 「明日はね、包助にちょっと頼みごとをしてみようと思うの。権三、『水ぐるま』って知ってる?」

  権三は首を傾げて黙ったままだ。

 「都のそばの宇治川というところには、水ぐるまと言って、水を汲み上げる仕掛けがあるそうよ。何丈もの高さまで、水が揚げられるらしいわ」

 「そいつは・・」

  権三は、必死に考えている。

 「そいつは水瓶を積んで運ぶ、荷車みてえなものか?それなら本家にもあったはずだ」

  佐与は笑いをこらえている。権三は笑われているのが分かって膨れていた。


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2

でも、権三が知らないのも無理はなかった。

 

「早き瀬に やどれる影を 汲みあげて

        月の分かくる 水ぐるま哉

 

という歌があるの。水ぐるまは、ひとりでに動いてくれる車らしいわ。宇治川のあたりでは、水ぐるま一つが何町歩もの田畑を潤しているのよ」

 「そんなばかな。人や馬が運ばないで、畑に水が撒けるわけがねえ。とてもダメだ」

  権三は否定したが、佐与はやってみる気になっていた。村の困窮を救うには、水をどうにかしなければならない。荒神様や鎮守の神様に祈るだけではダメなのだ。佐与は翌日、包助のもとへ向かった。

 

「水ぐるまですと!」

  さすがの包助も目を丸くした。

 「難しいのは分かっています。だからこそ包助、おまえだけが頼りなの。お願い、手を貸してちょうだい。要脚(費用)は、名主の人たちからきっと出させるから」

  包助は腕を組んでじっと考えている。

 「佐与さま、わしも水ぐるまがどんなものか察しはついております。いや、実物を見たことがあるわけではない。たしか宇治の絵図に描かれていた。面白そうなので、小さな物を作ったこともある」

 「じゃあ話は早いわ。一緒にやってみましょう」

  だが、包助は渋い顔のままだった。

 「初めて佐与さまにお目にかかったとき、小さな御所車を献上いたしましたな」

 「ええ、あれは素晴らしい出来だったわ」

 「あの時申し上げたことを、覚えておられますか?」

  佐与は首をかしげた。自分もこんな御所車に乗ってみたい。そんな事を話したはずだ。

 「いくら御所車が巧くできていても、道が悪ければ車は走らない。そう申し上げたはずじゃ」


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3

 そうだった。道がでこぼこだったら、車に乗ってる姫君も放り出されてしまう。そう言って笑っていた。

 「水ぐるまも同じでござる。いかに巧く作ろうと、水の流れが悪ければ役には立たん。武蔵野あたりの川では、無理でござろう」

  水車を回すためには、一定の水が一定の早さで流れていなければならない。増水と渇水を繰り返す川で、それができるのか。それが問題だと、包助は言う。

  佐与も包助も知るよしもなかったが、宇治川は関東の川とは、構造が根本的に違っていた。近江の琵琶湖を水源とする宇治川は、水位の増減が少なかったのである。天然のダムである琵琶湖が、水位の調節をしているおかげで、宇治川は他の河川ほど、水位が変化しなかった。関東の川とは全く違う構造だった。

 「都でできることが、わたしたちにできない筈はないわ。なんとか工夫しましょう」

  佐与は、川とは別のところに水路を作ること、水路の入り口に水門を作って、水位を調節することなどを説明した。

  懸命に策を考えている佐与に、包助はすっかり呆れていた。

 「佐与さま、たしかにおっしゃる通りにすれば、できるかもしれません。しかし何故、あのような山里に肩入れなさるのです?」

  佐与は、はっとした。

 「あそこの村人たちは、佐与さまが歴とした姫君であることに気づいていながら、土百姓として虐げている奴らではございませんか」

  このあいだ佐与は、包助に山里での暮らしを話しておいた。いつまでも、隠し通せるものではない。でも権三に体を汚されたことや、無理やり畑仕事をさせられたことは伏せておいた。本家のミツの好意で、権三と夫婦のフリをしながら暮らしているとだけ、言っておいたのである。

 それでも、包助は涙ながらに佐与の境遇を嘆き、村人の非情を怒っていた。あの村は長い間、江戸家を領主と仰いできたはずだ。江戸一族の恩を忘れて、ひとりぼっちの姫君に百姓暮らしをさせるなど、信じられない。佐与を虐げている村人など、構ってやる必要はないのだ。

 「佐与さま、この際村を出られたらいかがですか?江戸家の大殿さまが亡くなられてから、もうだいぶ経ちます。太田道灌の探索も、もうありますまい。江戸家にお世話になった寺などで、お匿いすることもできると思いますが」


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4

 佐与は一瞬身を固くした。そして居住まいを正すと、包助に強いまなざしを向けた。

 「わたくしは、土百姓に身をやつしているとは言え、もとは江戸家の姫です。始祖である江戸重長公は鎌倉殿(源頼朝)から、関東諸事の執行を任された武士です。そして三百年もの間、江戸家は、この地を治めてまいりました」

 「はい、それはもう良く存じております」

  包助は、佐与が何を言いだすのか測りかねていた。

 「だから」

  佐与は語気を強めた。

 「あの山里は、わたしの土地。村人は、わたしの領民なのです。領民が苦しんでいるのを、江戸家の末裔であるわたくしが、見捨てて逃げていいわけがありますまい」

  包助は、目を丸くして口をあけた。そのあと、我に返るとあわてて後ずさりし、クモのように平伏した。

 「お、畏れ入りましてございます。姫さまの、そのような気高いお志に対し、たいへん失礼なことを申しあげました。お許しくださいませ」

  包助は、頭も上げずに続ける。

 「この包助、身命を賭して働かせていただきます。是非とも、水ぐるまを回してご覧にいれましょう」

  佐与は、自分の言葉に驚いていた。今の今まで、そんな大それた考えは持っていなかった。包助になぜ肩入れするのだと、問い詰められたとき、咄嗟にでてきた言葉だった。でも、確かにそうなのだ。彦十が人あきんどに買われて行った時、なんとか村の困窮を救う手だてはないかと思った。村は江戸家の村、わたしの村なのだ。わたしは江戸家の生き残りとして、やるべきことがある。包助との話の中で、自分が何を望んでいるのか、やっとはっきりした。

 自分は何のために江戸家の姫として生まれたのか。たったひとりだけ生き残ったのは、なぜか。時々、思い悩むこともあった。でも、もう迷うことはないだろう。佐与は江戸家累代の人々が、自分を見守ってくれているような気がしていた。

 

 次の日、佐与と包助は川沿いの検分に出向いた。村のできるだけ川上で、水


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5

ぐるまを設けられる所はないか。そして、どんな形なら水ぐるまを回すことができるのか、問題は山積していた。

 「佐与さま、佐与さまは新しく水路を開いたらどうかと、おっしゃいましたが、それは止めたほうがよろしいでしょう」

 「なぜ?」

 「土を掘り進んでも、大岩に出くわすことが多い。むしろ河原に中洲のような『出し』を作りましょう。『出し』と土手の間に芯棒をさし渡して、水ぐるまを置くのでございます」

 「でも、そんな『出し』など大水で流されてしまわないかしら」

 「確かに、それが難しい」

  だが二人が調べてみると、格好の場所が見つかった。土手からすぐのところに大岩が転がっている所があった。土手と大岩の隙間は狭いところで二間(三.六メートル)ほどしかない。

 「これは、いい」

 いまは川の水が少ないので隙間に流れはないが、増水の時期には隙間は急流となっているはずだ。大岩と土手の間の隙間を整備して、素直な流れを作る。そして、その流れに乗せて、水ぐるまを回すのだ。

 「包助、ここなら上手くゆくんじゃない?」

 「たしかに、これほどの場所はございますまい」

 二人は顔を見合わせて、うなずいた。

  川の水嵩についても、調べなければならない。今のような冬の時期は、水嵩が極端に少ない。水嵩が多いのは、雪解け水が流れ込む三、四月、梅雨時の六月、台風が襲う八月だった。その頃、どのくらいの水嵩になるのか、また最大の水嵩は、どの程度なのか、調べておく必要があった。佐与は、地元の古老に話をきいたあと、毎日水嵩を調べに大岩のところに立ち寄った。

  こうして、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が巡ってきたころようやく、川の水嵩の推移が分かった。一方、包助は水ぐるまの見本を作りあげていた。

 「すごいわ、包助。これが水ぐるまなのね!」

 差し渡しが三寸ほどの水ぐるまだが、本物そっくりに作られていた。はじめて見る実物の水ぐるまに、佐与はすっかり感激していた。

  水ぐるまは水路に見立てた樋の上にとりつけてある。包助は、樋を斜めにす



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