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  「ふるさと」は漢字で故郷と書くが、その意味は「その人が生まれ育った土地」と理解している。わたしの場合、場所は青森県は弘前市の西茂森町、隣りが寺院が居並ぶ寺町の門前町になる。

  日本地図では本州の北の端、青森県の中央、弘前市は、冬は降雪の多いところで、わたしはこの自然環境の厳しいところで出生した。

  ではそれはいつか、と問われると、昭和2年6月8日のことであった。その時代は日本は貧しく、経済力は今とは比較にならないくらい弱くて、西暦でみれば1927年のことである。

  当時、日本経済に金融不安が生じ、企業倒産も相次いで失業が増大した。当時の世相を書いて、世相の理解としてみたい。

 

  第一次世界大戦で繁栄を勝ち得た日本経済ではあるが、関東大震災によって戦後恐慌に陥った。

 恐慌という言葉は、経済生産の急激な低下、物価の暴落、支払不能、はたまた個人の破産など、資本主義経済が混乱した状態を指して使われることが多い。大きな打撃を受け、パニック状態の暗雲低迷のうちに昭和年代を迎えたのであった。

  その冒頭の昭和2年(昭和元年は、1926年12月25日であるが、一週間にすぎず、実質的には昭和2年が最初の年であった)、金融恐慌という大変事に見舞われた。この恐慌は、第一次世界大戦の生んだ新興財閥であった鈴木商店がもたらしたものであった。

 その全容は作家の城山三郎が、ノンフィクション小説「鼠  鈴木商店焼き打ち事件」で描いている。

 

  政府銀行であった台湾銀行の破綻をもたらしたほか、日本の銀行を大混乱に陥れた。当時の第一次若槻内閣を倒閣に追い込んだのも結果的に鈴木商店であったが、そのきっかけとなったのは「震災手形」であった。

 日本経済新聞社の発行になる「経済  昭和の歩み」によると、大正時代から引き継がれていた日本経済の矛盾が、はからずも震災という自然災害が引き金となり、遅れていた銀行制度の面において激しく露呈したものだ、という。

  この時、中小の銀行は自然淘汰と人為的淘汰のよって大整理が行われ、三井、三菱、住友、安田、第一などという、所謂「ビッグファイブ」なる大銀行が確立された時期だと言われている。

  一方、中小企業や、そこで働く労働者に大きな打撃を与えたが、とりわけ抵抗力の弱い、遅れた構造の上にたつ農村と農民に皺寄せされ、政治的問題としてクローズアップされたのである。(以上の文章は、日本経済新聞社刊の前掲書「昭和」から抜粋して、まとめたものである)

  この状況は昭和6年までつづき、これが世にいう「昭和経済」の幕開けである。

 

  経済の痛手は、わたしの「ふるさと」も例外ではなかった。

 ただ逆境は人を強くもし、鍛えてくれる。

 この不況時にどのような人が青森県から生まれてきたか、みてみたい。

 

  青森県人の気質はといえば、「じょっぱり」を思い浮かべる人が少なくないと思う。この言葉は、標準語の「強情っぱり」と同じ意味である。

  これはNHKでのアンケートの結果であるが、実際、青森県人の意識調査をすると「自然や気候が厳しくて辛いと思うことがある」と思っている人の割合が多いという。

  個人的には、たしかに淡谷のり子(歌手)、寺山修司(詩人)、棟方志功(画家)、初代若乃花(力士)などがいるが、プロスキーヤーとしても有名な三浦雄一郎氏もまた青森県の出身である。

 三浦氏とは、寒さとは何か、雪とは何か、風とは何か、気温と雪との関係などを研究した専門家である。

 平成になってなお、--つい最近のことであるが、世界最高齢の老体でありながら三度目のエヴェレスト登頂に成功したプロスキーヤーでもある。

  彼は最高の「じょっぱり精神」の持ち主で、「夢はあきらめなければかなう」という名言を世界に発信したのだった。

 

  終戦後、食糧難から母の実家の方でお世話になった。そこで農作業にはじめて手を染め、人生でもなかなか体験できないことを学んだ。

 稲作作業をしたのはもちろん初体験であったし、鍬(くわ)の使い方から鎌の使い方まで学んだものだった。これは口でいうほど簡単なものではない。体で吸収するものであるからだ。ムダな動きをすることは許されない。

  弘前という場所は、11月3日を過ぎると風が強くなり、雪が降りだす。ただ毎年、11月3日前後に判で押したように決まって同じ気候になる。

 したがって冬に備えて冬支度をする。薪割り大きなマサカリでする。リンゴの乾燥したドンコロをストーブの入り口に、適当な大きさに切って一冬に使う量を確保する。その他にも囲炉裏で使う木炭を買いに行ったりもした。

 

  弘前市より西、もちろん山の中で、しかもおよそ人が居住できないと思われるような深い山里で炭を買いに行ったことがある。戦争が終わってまだ、いくらも月日が経っていない頃である。従兄弟たちと一緒に行ったのだが、彼らは毎年、買っているらしく山の街道はよく知っていた。

  いまではありえない話だが、電灯も水道もガスもないところだから、どういうふうに炭焼きの家族が暮らしているか、わたしは少々、その生活に興味があった。

  買い付けた木炭は十五俵ばかりだった。

 2トントラックで向かう道は山里だからもちろん、舗装はされていないので尻が痛くなるほどゆれる。約二時間、山中を車にゆられ、やっと目的地に着いたが、腰が伸びないので困った。茅葺き屋根の大きな屋根の家の前で車は止まった。従兄弟は「ここだ。着いた」と言う。

 

  車を止めて待っていると、外の物音を聞きつけてか、氏名不詳ながら年齢は二十歳前後の女性が出てきた。それは美しい微笑みの人で肌が透きとおるように白い人だった。

 服装はモンペを履き、上は合わせの作務衣をまとっている。背中には猿の毛皮をチョッキ代りに羽織っていた。足元には藁を編んでつくった草履を履いていたが、色白の美しい顔とは裏腹に足は寒いというわりには足袋も履いておらず、会話はかなり強い訛りの津軽弁だったから、チグハグになってしまう。

 

 わたしは微笑みの美しい色白の人に魅力を感じた。木炭はトラックにすぐにのせられて、わたしたちはすぐに車に乗り込んだ。帰りがけにもらった柿のお土産は食べるのはもったいないように思われた。

 

 従兄弟たちに聞くと、あの美しさは「水にある」と言う。彼女が飲んでいるのは山の清水であり、弘前の井戸水とは比較にならないほどの名水である、というのだ。

  おそらく水のよしあしが人間の生命力に関係あるだろうと、今は思っているが、その時点ではまだ若いわたしは自然の大切さを理解していなかったのである。

 


この本の内容は以上です。


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