閉じる


モーグルズ・フェイブルズ(目次)

モーグルズ・フェイブルズ



        夢遊星人 作




前口上: モーグル氏は鏡の世界の住人である。ふとしたことから鏡の世界に暮らすことになったモーグル氏は、魚のように水晶の世界を漂いながら、時々この世界の隠された出来事を、鏡の奥から観察して楽しんでいる。そんなエピソードのいくつかを、彼から聞きとったままに、寓話風につづってみます。




目次


 第一話 鏡の魚


 第二話 釣り人


 第三話 おじさんの一億円


 第四話 ワタ氏の寝言


 第五話 悪魔の尻尾



ーーーーーーーーー



鏡の魚


第一話 鏡の魚


 自己自身をもはや自己とは感ぜず、ただかりそめの幻たる存在を否定し、無量の光明のうちに沈める者は、幸いなるかな。青春の情熱に焼かれ、困窮と苦悩に打ちひしがれ、敗北した生の余燼をかかえ、この世に楽園を失い、故郷を後にする者は、不幸なるかな。かつて彼を狂喜させ、情熱へとかりたてた、激しい生命への意欲は、今は彼を苦しめ、深い悲嘆へと追いやる。もはや何物もこの世に求めず、天上の願いをいだいて、彼は世界を放浪し、いたる所に悲惨と寂寥と荒廃とを見いだす。


 「聞け」と、放浪者は言った。「己れが荒涼として一木一草も生えぬ、極北の地から、南へと下って、途中のいろいろな国を彷徨っていた時のことだ。己れは深い山中に踏み入り、もう何日も人に逢っていなかった。ひとつの山を越すと、その先には一層奥深い山々が、空の果てまで拡がっていた。己れは星を頼りにして、南へ南へと進んだ。ある時は谷川の流れを伝って、ある時は尾根伝いに、またある時は山頂を越しながら、一本の杖にすがり、草の根をかじり、山越えを続けたのだ。

 ある時己れは、深い森に分け入っていった。行けども行けども、森は無限の迷路のように尽きなかった。日が昇っても、森の中は明るくならなかった。奇妙にくねった木々の枝が、びっしりと頭上をおおって、日の光を一条も通そうとしなかった。日が沈めば、森の中はたちまち暗黒に変わった。闇は突然にやって来て、悪魔のような黒い翼で己れを盲目にした。己れは横になって、日の出を待つほかはなかった。

 こうして森の中での暗黒と黄昏のくり返しが、七回続いた。闇が八度目に己れを襲ってきた時、行く手の深い暗い森の中で、何かがきらりと光ったような気がした。己れはその幻のような光を見失わないようにして、這っていったが、じきに消えてしまった。しかし己れは、なおもその方角へ向かって進んでいった。

 ついに森が途切れて、星をまじえた黒い空が頭上に現われた。眼前には小さな山村が、闇の中に沈んでいた。どの家からも明りが見えなかった。死のような沈黙が村を支配していた。己れがそろそろと村の方へ歩みだした時、山影から血のような月が昇って、木々の梢や家々の屋根を赤く染めだした。

 最初の煉瓦造りの家の前に来た時、己れは用心して、木戸の隙間から中をのぞいてみた。中は暗く、何も見定めることができなかった。己れは戸を外して中へ入った。己れの用心は余計だった。家の中はもう幾世紀も住む人がなく、荒れ果てていた。壁の破れ目からは、冷たい夜風が吹き通っていた。己れはその家を出て、村中の家の戸をたたいて回ったが、吹き抜ける夜風が己れに答えるだけだった。

 不気味な赤い月が、己れを嘲るように見下ろし、悪魔のようなむら雲がその面をよぎって、己れをおびやかした。あたりの沈黙が、己れに囁いた。「死せる者を眼ざますのは誰だ!」 「幾世紀の眠りをかき乱すのは誰だ!」 

 何軒目かに、己れは他の家よりも造りの良い、大きな家に入った。その間口の広い木戸は、風のために吹き倒されていた。己れが不用意に数歩踏み込んだ時、氷のような慄えが全身を走った。心臓も呼吸も、一時に動きを止め、しばらく回復しなかった。己れは叫びを挙げただろうか。今己れは思い出すことができない。長いことしゃべらなかった己れの舌は、口の中でこわばっていた。己れの全身は石の様に硬直して、眉一つ動かせずに、飛び出た眼で見つめていた。そうだ、三人の幽霊を見つめていたのだ。

 己れは、その三人の蒼ざめたものすごい顔を、必死の思いで見つめていた。もうしばらくこの緊張が続いたならば、己れの魂は己れを見捨ててしまっただろう。しかし、ある考え、ある疑いが、救いのように己れの頭にひらめいた。そのひらめきは、この場合に似合わず、非常に滑稽であったので、己れの顔の筋肉はぴくぴくと痙攣した。それと同時に、三人の蒼ざめた幽霊の顔が奇妙にゆがんだ。己れが片手を前へ伸ばすと、彼らも一斉に、己れに向かって手を差し伸べた。己れの手は固い金属の表面に触れた。同時に幽霊の冷たい体温が伝わってきた。

 そうだ、己れは大声を出して笑ってもよかったのだ。森に住むあらゆる異形なものどもの饗宴を驚かすだけの大声で、死の村から叫んでもよかったのだ。しかし、己れはただ醜く顔をひきつらせただけだった。心臓の轟きはしばらく鳴り止まなかった。

 破れた屋根から月の光が忍びこみ、己れを驚かせた三面鏡の前に立つ、己れ自身の影を映し出した。鏡の中はほのかに明るみ、今や己れはその中に蒼ざめた、亡霊のような自身の姿を見いだした。己れは、ややほがらかな気分になった。己れはもう幾月もの間、人の顔を見ていなかった。鏡に映った自身の姿でさえ、懐かしく思えてきたのだ。己れは何時間も鏡の前に立って、鏡の中の人間に見とれていた。それが己れ自身であることも忘れて。

 ついに己れは見るだけではあきたらなくなり、鏡の中の住人にいろいろな姿勢を取らせたり、奇妙な表情をさせたり、思いつく限りのあらゆる芸当をやらせた。彼らは逆立ちし、ひっくり返り、しかめ面をし、泣き叫び、ころげ回り、己れに吼えかかった。己れは腹をかかえて笑い、彼らをけしかけ、怒鳴りつけた。

 その内に奇妙なことが起こった。己れも最初のうちは気にも留めなかったが、気がつくと、己れの笑い顔を一度に冷却させ、全身に震えを走らせた出来事が起こっていた。己れは真ん中の鏡の像をじっと見つめた。鏡の中の己れの分身も、また己れを見つめ返した。己れは右手を差し伸べた。彼もまた右手を差し伸べた。瞬間、己れにはまだ、ことの正しい意味が解りかねた。だが己れがそれに気づいた時と、何人もまだ感じえなかった恐怖を己れが味わったのは、ほとんど同時だった。己れは左手を挙げた。彼も左手を挙げた。己れは本能的に首を横に振った。だが彼の目は己れの顔に注がれたままだった。彼の顔は悪鬼の様な笑いにゆがんだ。だがそれに応えて、己れの顔が引きつりゆがんだのは、いかなる悪魔の仕業であったろうか。己れは両手を下へおろしたが、彼は従わなかった。彼はしっかりと己れの両眼をとらえ、差し招くように両腕を広げた。

 己れの魂は、籠から逃れようとして暴れまわる小鳥のように、彼から離れようともがいた。だが、それとは裏腹に、己れの足は一歩一歩と彼に近づいていった。いや、彼の磁力が、己れを抗するすべもなく、引きずり寄せていったのだ。己れの体が冷たい金属の表面に触れるやいなや、彼は己れを鏡の中へ引きずり込んだ。そして、己れの魂をつかみ取ると、鏡から永遠に抜けだし、二度と戻ってこなかった。

 今や己れは、魂は失ったものの、この鏡の中の世界で満足した生活を送っている。己れはある不思議な共感で、世界中のあらゆる鏡のみならず、すべてものの姿を写すものの奥に、ひそむことが出来るようになった。おかげで、世界のあらゆる密かな出来事に通暁するようにもなった。女達が、その誇らかな顔を、手鏡や泉の水に映して、二つの輝く眼にみとれる時、己れはまさにその二つの窓から、彼女らの顔をうかがっているのである。己れは今や、鏡から鏡へと、水晶の世界を魚のように自由気ままに放浪し、もとの世界へもどろうなどという気持は毛頭ない。

 おそらく、最初に己れの入った鏡が、唯一の出口なのであろう。そうだ、丁度今、お前が己れを見ている鏡が、己れの出口なのだ。だが心配するな。己れはお前の魂を取って、交換にこの世界をやろうなどというつもりはない。何となれば、この世界ほど己れに適する場所は、世界中どこへ行っても、見つからなかったのだから。」



釣り人

第二話   釣り人

 ある人が川で釣りをしている所を、通りがかった人が、この人も大の釣り好きで、思わず用事を忘れて足を止めてしまいます。そこは流れが深く淀んで、向う岸の影を濃く落とした辺りには、いかにも釣り人の竿先を引きつける、神秘な趣を湛えていました。誰もが釣りをする者にかける決まり文句で釣り人に近づきますと、通りがかりの人はまずビクを見、次いで釣る人を見、更に竿の先、浮きの浮かぶ辺りを見ました。釣り人は曖昧に笑って、ビクを揚げてみようともしませんでした。川の面はほとんど流れを失って、浮きは向う岸の影の中に微動だにせず静まり返っています。見る人は、今にも当りがあるだろうという期待に、ひと事とも思われませんで、じっと注意をこめて目を離さずにいましたが、どうしたことか、いつまで経っても波紋一つ立たないのです。そのうち釣る人のそわそわする様子が感じられました。釣れない所を見られているのは、誰しも照れくさいものですが、この釣り場の常連である通りがかりの人には、それよりも、ひと事ながら当りの悪いのが、わが事のようにいらだちを覚えさせたのです。
 「失礼ながら、どんな餌をお使いか」
 と尋ねてみましたが、釣り人は口を濁しています。釣る者と見る者と、共にじっと見つめる間にも、浮きは微動だにもしないままに時が移っていきます。そのうち、見る人がふと妙に思ったのは、釣る人が少しも浮きの位置を変えずにいることでした。釣り人の常として、当りがなければせっかちに鉤(はり)を上げたり、下げたりするのがならいですが、この人はじっと一所に耐えています。ついに我慢しきれなくなって、見る人はお節介とは知りながら、
 「ちょっと竿を動かしたらどうでしょう」
 と言ってみました。すると、釣る人はにっこり笑って言いました。
 「実はその必要がないのです。あなたに気の毒だから打ち明けますが、実は糸の先に鉤など付いていないのです」
 言われた人は、何か悪い冗談でも浴びせられたように、耳を疑っていますと、釣る人はいかにも済まなそうに、しかし毅然とした態度を持して、言いました。
 「そもそも魚を釣るということは、魚釣りの本当の目的でしょうか。取るに足らぬ魚を釣り上げて、それで何になるというのでしょう。獲物を釣り上げる喜びなどというものは、児戯に等しいものです。けれども、この子供の世界というものが、私ら大人にとっても、また欠かせないものなのですな。年を取るにつれて、どこかで子供に帰りたがっている。けれども、なんのてらいもなく子供に帰ってしまうには、大人はあまりに見栄っ張りなんですな。何にでも口実が必要になります。世間から逃れて、天然自然の中に遊びたくとも、そこにもっともらしい口実が必要となるのです。釣りもまた、大人が子供になる事を許されるための口実の一つです。人気の無い自然の中で、誰憚ることなく独りになれる。子供のように自由を呼吸できる。そのための口実の一つですな。どうせ口実なら、無意味な殺生に本気になることはない。ここにこうして、誰から咎められることもなく、ぼんやり坐っていられる。ああ、あの向う岸の、魂を蕩かすような深い碧の影・・・」
 聞く人はもはや聞いていませんでした。「ああ、馬鹿馬鹿しいことに時間を潰してしまった」と腹立たしげに言い残して、足早に去って行きました。


おじさんの一億円

第三話  おじさんの一億円

 ある所に、働くことが嫌いな、ものぐさな人がいました。彼は食べていくのに必要な仕事しかせず、好きな事のできる暇を持つことだけが、唯一の生き甲斐と考えていました。家族もなく子もなく、他人に何一つの迷惑もかけなかったので、彼を知る人は、ただ少し変わり者だと思うだけでした。いろいろなお節介や忠告をしたがる人も、彼の性格が改まらないと知れると、誰もその熱意が醒めてしまうのでした。けれども、これだけならば、彼はよくある、ただの適当に怠惰でものぐさな人間にすぎませんでした。ところが、子供の頃から彼にはある一つの空想がとりついていて、それは大人になっても治らないばかりか、いよいよますます確かな信念に固まっていくようでした。その空想というのはこうです。ある時、彼のおじさんという人がやって来て、彼に一億円のお金を預け、いつか取りに来る時まで、それを秘密の場所に匿しておくようにと告げたのです。彼は言われたとおりに、それを誰にも知られないように森の中に匿しました。
 けれども、両親でさえそのような金持ちの親類のあることを知らなかったし、子供にそんなことを持ちかける大人のあろうはずもなく、周りの者は気の利かない嘘を初めは笑い、後には叱りつけたものでした。ところが、彼はその頃から既に、自分は大金持ちなのだという空想にとりつかれ、それは彼の生まれつきの怠惰な性格を助長したばかりか、彼の態度や振る舞いにも、貧乏人らしからぬ鷹揚さを帯びさせるようになりました。若者になったある時、彼は、「おじさんが死んだから、預かった金は自分のものになった」と皆に吹聴し始めました。嘘がここまで発展してきたのを、身近な者たちは悲しみましたが、中には意地悪く借金を申し込む者もいました。すると彼はいつもの鷹揚さにもかかわらず、すげなく断るのでした。彼の言い分は、その金はある特別な理由があって、使う時が来た時に初めて使う金なのであり、吝嗇で断るのではなく、おじさんとそのように約束したのであるから――という事でした。
 そして、実際、彼自身その一億円の金によって、安楽に暮らそうということも無いのでした。親から受け継いだささやかな商売を、つぶさない程度にいとなみ、暇を作っては山野を歩き回り、読書に耽ったり、のらくらと日を送るばかりでした。将来になんの備えもないその生活を、親しい人が咎めることがあると、彼はいつも、例のどこかに匿されてあるらしい一億円を持ち出し、相手をけむに巻くのでした。こうして歳月が経ち、中年となり老年となり、時には日々のものにも困っているように見えることがあっても、彼の一億円はいまだにその使われる時を待ちあぐねているようでした。
 彼はしかし、ほとんど飢え死にしかけている時でさえも、子供の頃からの鷹揚な、ものぐさな態度に改まるところがありませんでした。いよいよとなれば、私にはおじさんから預かった一億円がある、と言うのが変わらぬ口癖でした。そして、それを遠く山の中へ掘り出しに行くのが面倒だとでもいう様子で、わずかに糊口をしのぐ賃仕事に精を出すのでした。
 とうとう病気になって、死が間近に迫った時、枕許に一人看取っていた子供の頃からの知り合いの者が、冗談とも溜息ともつかず、「一億円も、これでとうとう使わずじまいかね」と呟いたところ、死にかけている男はたちまち目を輝かせて、ふるき友を見つめ、「いや、今使い切ったところだ」――そう言って、やがて静かに息を引き取りました。


ワタ氏の寝言

第四話  ワタ氏の寝言

 ある朝、目覚めぎわに、ワタ氏は自分の寝言に気づきました。さかんにあられもないことを喋っているのですが、どうも自分の声のような気がしません。現に自分は目覚めているのに、咽喉だけが勝手に寝言を言うのは変ではないか。ふと思いあたることがありました。昨日、電車の座席の隣にすわった初老の男が、やはり、雑誌を読みながら突然にひとり言を言うのでした。何とかちゃん、とふいに呼びかけるのですが、本人は自分のひとり言にいっこう気づいていないように、生まじめくさって雑誌を読んでいます。一度だけでない、二度も三度もくり返されるので、ワタ氏はそのつど不安になって男の方へ目をやりましたが、本人はいっこうに平気なのです。ワタ氏は自分も時々ひとり言を言うくせがあるのでしたが、人がひとり言を言うのをはたで聞いているのは、あまり感じの良いものではありません。これは気をつけなくてはいけないな、と思いました。いつの間にか、ひとり言を言っているのを自分では気づかなくなってしまうのかもしれません。
 この場合、寝言が問題でした。でも寝言とひとり言と、それほど違ったことでしょうか。どちらも自分を相手に、または想像された相手を相手に会話をするのです。とりたてて区別があろうとは思われません。そうなると、ワタ氏のひとり言を言うくせがとうとうひとり立ちして、今目覚めぎわに勝手にお喋りを始めたのでしょうか。やっかいなことに、ワタ氏の意志ではもはや止めようがないのでした。最初はとりとめのない、相手のない、文字通りのひとり言でしたが、そのうちワタ氏の存在に気づいたのでしょう、ワタ氏に話しかけてきました。自分の寝言、あるいはひとり言に話しかけられるというのは、めずらしい体験のような気がしました。が考えてみればあたり前のことで、自分の寝言に話しかけられたからって、恐れるにはあたるまいと思われました。
 ワタ氏の寝言は、家を出て会社へつくまでも、ワタ氏につきまとっていました。会社のタイムカードを押すために、いつものように駆け足したためであったでしょうか、しばらく寝言はワタ氏を忘れたらしく、またワタ氏も仕事につくと、朝の妙な体験を忘れたようでした。が、やがてしんとした部屋の中で、ワタ氏の寝言がひときわ高く響きました。部屋の同僚、課長は声の主をさがし、ワタ氏も一緒にさがしました。犯人の知れないままに仕事にもどると、再び寝言が不埒なことをわめきだしました。もうワタ氏の寝言、あるいはひとり言であることに、だれもが気づきましたが、それがワタ氏でなくワタ氏の寝言であることはだれも知りません。ワタ氏は窮地に立たされました。同僚にワケを説明しました。ワケを説明する間にも、ワタ氏の寝言は同僚の悪口をやめません。女子事務員と課長との情事をばらし、課長や同僚のいろいろな欠点をあげつらいます。みんなワタ氏の知らないことばかりでした。ワタ氏は早退を許されました。
 廊下へ出ると社長が通りかかり、ワタ氏の寝言はこの好機を逃がしませんでした。ワタ氏はもう首にちがいないと思いました。ワタ氏は道を歩きながら、ワタ氏の寝言をののしります。寝言も負けずにやりかえします。ですが、なにしろ寝言は、ワタ氏について何もかも知っているのに、ワタ氏は、ワタ氏の寝言についてほとんど知るところがないのでした。勝負は見えていました。ワタ氏は屈辱感にうちのめされ、寝言に復讐を誓います。
 ワタ氏は咽喉科へ寄りました。医者は扁桃腺がやや腫れていると言いました。ワタ氏の寝言は医者に悪態をつきました。ワタ氏はワケを話しましたが、医者は怒ってそんな病気は治せないと言います。ワタ氏はしかし精神病でもないのに、精神科へ行くのは癪でした。これはきっと眠り足りないのだと思いました。家へ帰って、早々に寝ることにしました。
 不思議なことに、一度寝床につくと、ワタ氏はたちまちワタのように眠りこんでしまいました。三日三晩目が覚めませんでした。空腹で死にそうになり、やっと目を覚ましました。ラーメンを作り、ワタ氏はインスタント・ラーメンを、こんなに美味しく食べたことはありませんでした。気づいてみると、寝言は止んでいました。会社もこの二日さぼってしまいました。ですが、さわやかな気分です。なんだか、これまで自分が言いたいと思っていて、とてもその勇気がなかったことを、寝言が代わりにすべて言ってくれたようでした。ワタ氏は明日からの生活のめども立ちませんでしたが、そのほうが人間らしいと思いました。これまで、何だか犬小屋につながれた犬のようだったのが、今ではくさりを断ち切って自由の天地をかけ回るような、茫漠とした喜びを覚えました。ワタ氏は辞表を持って会社へ出かけました。



読者登録

夢遊星人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について