目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
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第四幕 少女の心は、今も猫の眼

「失礼します」
 出来るだけいつもと同じ、平坦な口調に聞こえるように気をつけてそう言うと、ドアを閉めた。
 進藤エミリは現在、端的に言うと干されていた。
 まわってくるのは、しょうもない事後処理ばかり。今提出してきた書類だって、逃げ出した人面犬を捕獲するというしょうもないもので、人面犬が逃げ出すのはエミリが知っているだけで二十六回目だ。もうわざと逃がしているんじゃないかと思うレベルだ。
 何故こんなに地味な仕事しかまわってこないのか。その理由はよくわかっていた。
 先日のGナンバーの一件で、隆二達の側に立ち、あまつさえ研究班に銃を向けたからだ。ただでさえ、自分は周りによく思われていない。仕事ができることだけが取り柄だったのに、京介の一件で自分の評判は地に落ちて、先日の件でマイナスだ。人が足りないから、首にならないだけマシなのだろう。
 周りのひそひそ話は不愉快だし、仕事がないのはつまらない。
 それでもエミリは後悔などしていなかった。自分は間違ったことはしていない。胸を張ってそう言える。
 確かにマオの永遠に手を加える結果になってしまったが、それでもやはり、あの時あのままマオが消えるに任せているよりもよっぽどいい結果だっただろう。もっと上手く動けたかもしれないが、それでもあの時銃をつきつけたことは、動いたことは、間違いだなんて思っていなかった。
 結果的に、マオをまた実験体に戻してしまったことは心苦しけれども。毎月毎月研究所に呼びつけて、申し訳ない。二人は気にしていないみたいだけれども、エミリは気にしているのだ。
 なんとか働きかけて、実験に協力してもらう報酬として金銭を支払うようにしたが、その解決方法も、あまり愉快なものではないな、とも思っている。
 小さく溜息。
 思ったようには動けない。エミリ個人で動ける範囲には限度がある。そしてエミリは、組織の枠から抜け出せない。
 自分にうんざりしながら、自宅に向かう。
 途中、鞄にいれていたケータイが震えた。
 見てみると、マオからのメールだった。実体化している時のマオは、やたらとたくさんメールを送ってくれる。他に送る相手がいないからかもしれないが、実のところ、エミリはそれが最近楽しみだった。
 今回霊体に戻るのは、明日だったっけな。
 カレンダーを思い描きながら、メールを確認する。
 その内容に小さく微笑むと、自宅へ向かう足を速めた。
「ただいまー」
「おかえり、エミリ」
 自宅には既に父がいた。
「ただいま、ダディ」
 いつものように軽く笑いかけてから、
「ね、わたしの子どものころのおもちゃって、どこにしまってあるっけ?」
 早口で尋ねた。
「おもちゃ?」
 和広は怪訝な顔をしてから、
「エミリの部屋の、クローゼットのうえ、かな」
「ありがとう」
 頷くと、足早に部屋に戻る。クローゼットのうえの方は、あまり気にしていなかった。椅子を持ってくると、クローゼットの上の棚を覗き込む。確かにダンボールがいくつかあった。
 おもちゃ、と書かれた箱を見つけると、ひっぱりだしてくる。
 色々と物をとっておいてくれる家でよかった。
 少し埃っぽいそれに軽く咳き込みながら、ダンボールを開ける。昔親しんでいたおもちゃがたくさんつまっていた。
 多分、あると思うのだが。
 人形やおままごとのセットをかきわけて、お目当てのものを探す。
「あ、あった」
 ピンク色の箱を取り出す。これならきっとぴったりだろう。
「ダディ」
 それを持ってリビングに戻る。
 和広は一度エミリを見てから、
「これはまた、懐かしいものを」
 目を細めた。
「これ、マオさんにあげてもいい?」
「それはエミリのものだから、好きにすればいいが」
「ありがとう」
 明日持って行こう。心に決める。
「しかし、なんでまた」
「お洒落な箱が欲しいっていうから」
「……最近は、すっかり仲がいいね」
 ほんの少し、和広が笑った。
 改めて言われると、なんだか照れくさい。
「おまえは、ずっと実験体と距離を置いて生きていくのかと思っていたよ」
「……わたしだって、色々考えて、変わるんだよ」
 いつだかも言ったようなことを言うと、
「そうか」
 微笑んだまま頷かれた。
 父はずっと、Uナンバーである隆二達を担当していた。彼らと普通の人間のように接する父のことを、変わっていると思ったこともあった。
 でも、今ならわかる。彼らはなにも変わらない。自分達と。
 父のことはずっと大好きだけれども、最近は特に誇りに思う。組織に流されず、自分の価値観を築いている父を。
「恵美理は今後、神山さんたちと敵対する命令がでたら、できなさそうだねぇ」
 巫山戯た調子で言われた。
 そんなこと、考えてみたこともなかった。彼らともう敵対するつもりなんて、エミリにはなかった。
 そんなことになったら自分はどうするのだろう?
 一瞬悩んだものの、
「そんなのダディ、決まってるよ」
 軽く肩を竦めて答えた。
「もうそういう命令はわたしのところに来ないよ」
 干されているんだから。
 言外に込めた意味に、和広も少し苦笑いをした。
「恵美理」
「なに?」
「やめるのならば、遠慮せずにやめなさい」
 真面目な顔で言われた言葉になんて返事をするべきか悩む。
 色々考えていることはあるけれども、干されている現状があるけれども、研究所をやめることはそんなにすぐには考えられなかった。だって、エミリから研究所をとったら何も残らない。そのことが自分でわかっているから。ここまでの人生、研究所を中心に生きてきた。今更、それなしでの生き方を考えられない。
「うん、考えとく」
 それだけいうと、真面目な父の視線から逃げるように、きびすを返し、
「あ、そうだ恵美理」
 引き止められた。
 振り返ると、父はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。安心して、そっと肩から力を抜いた。
「なんだったか、深夜にやっていたテレビ番組。心霊写真がどうたらとかいう」
「ああ、オカルトクエスト?」
 おおよそ父が言うとは思えないテレビ番組に、語尾が奇妙に跳ね上がった。
「ああそうそう。それ、ビデオとっていたよな?」
「うん、録画しているけど」
 マオに頼まれて写真を番組に送って以来、いつ採用されるか楽しみにして、こっそり録画していたのだ。なんだか恥ずかしいからこれは内緒だけれども。
「なんだか知り合いが見たいと言っていてな」
「そうなの? いつの? あんまり古いのだともう消しちゃったけど」
「今月のだとは思うんだが。もう一回確認しとく」
「うん。わかったらDVDに焼いておく」
 頼むよ、という父の言葉に頷きかけて、今度こそ自室に戻った。マオにメールの返事を打たなければ。

 

 

 その日は、朝からマオが目に見えてそわそわしていた。
 目の前をうろうろうろうろ行ったり来たりする居候猫を見ながら、隆二は一言。
「おすわり」
「犬じゃないよ!」
 すぐに怒ったような言葉が返って来た。
「とりあえず、座れ」
 ソファーの隣を軽く叩くと、大人しくマオは隣に座った。
「どうした」
 尋ねる。今日は、実体化がとける日だ。なにかやり残したことでもあるのだろうか。
 実体化は、食事をとった日の翌日から、十四日後の午前九時にとける。食事が何時であっても午前九時に。あと三十分ほどで、霊体に戻ることになる。
「んー」
 マオは片手にもったケータイと玄関のドアを何度か見比べながら、
「あのね、エミリさんがぁ」
「嬢ちゃん?」
 問い返したところで、ぴんぽーんっと玄関のチャイムがなった。
「きた!」
 ぴょんっと立ち上がると、マオが小走りで玄関に向かう。
「走らない! あと確認してからあける」
 注意を促すと、一応覗き穴から外を確認してから、ドアをあけていた。
「こんにちは。すみません、ぎりぎりでしたね」
「こんにちは! いらっしゃい」
 確かに入って来たのはエミリだった。
「どうした、嬢ちゃん」
 ソファーに座ったまま声をかける。
「エミリです。マオさんに用がありまして」
 そうしてエミリは、どうぞ、と片手に持っていた紙袋をマオに渡した。
「いい?」
「はい」
 マオがそれをあけて、中身を取り出す。
「わぁぁ」
 そうして嬉しそうに声をあげた。
 マオが取り出したのは、薄いピンクの箱だった。
「かわいい! 魔法っぽい!」
 プラスチック製のチープなつくり。蓋の部分には、金色で何か模様がついていた。よくみたら何かの花の形になっているようだ。ひまわり……?
 マオがそれを開ける。中はオルゴールになっていたようで、開けるとチープな音楽が途切れ切れ聞こえた。真ん中の部分は、蓋と同じような金色の模様に囲われ、ついでになんだか光っている。
「なにぶん、古いものなので、音質はあんまりよくないのですが」
 エミリが申し訳なさそうな顔をするが、箱に夢中なマオは聞いちゃいなかった。
「ここが、小物入れ?」
「はい」
 マオが指差したのは、赤いフェルトが敷いてあり、他の部分とは区切られた場所だった。
 マオは軽く頷き、つけていたペンダントを外すと、その部分にそっと置いた。
 ぱたん、と蓋を閉めると、
「うん」
 なんだか満足そうに大きく頷いた。
「お気に召しましたか?」
「とっても! ありがとう」
 満面の笑顔で嬉しそうに言うと、エミリも小さく微笑んだ。
「あー、悪い、説明してもらってもいいか」
 置いてきぼりになった隆二が声をかけると、
「もらったの!」
 嬉しそうにそのピンクの箱を胸に抱きながら、マオが言った。それは大体わかったんだが。
「わたしが説明しますから、マオさんはそろそろ準備なさった方がいいのでは」
 時計をちらりと見てエミリが言う
「あ、本当だ」
 あと九時まで、十分ほどしかない。
「それじゃあ、エミリさん」
「ええ」
 マオはぺこっと軽くエミリに頭をさげてから、大切そうに箱を抱いて、ベッドのある部屋に消えて行った。襖が閉まる。
 何度か実体化を経験して、元に戻るときのルールもできていた。
 霊体に戻る時には、いつものワンピースに着替えること。何を着ていても、霊体に戻ったときは、あのワンピース姿になる。ただ、その場合、元々着ていた洋服は、中身を失い床に落ちることになる。そうすると、隆二が片付けることになる。それが面倒なので、予め洋服を着替えておくことになった。
 それから、他の洋服や散らかしていた小物達もきちんと片付けておくこと。無くしたら困るものは、自分できちんとしまっておくこと。触れなくなってから隆二に片付けを頼んで、それで壊しただのなんだの言われては、隆二もたまったものじゃないからだ。
 今頃、部屋を片付けて、着替えているころだろう。
「えっと、それで?」
 とりあえず座れば? と片手でダイニングの椅子を勧めながら、エミリに尋ねる。
「昨日、マオさんからメールがありまして。神山さんにとっても素敵なペンダントをプレゼントされたのに」
 とっても素敵なペンダントを嫌に強調して言われて、むず痒くなる。わざわざそんなことメールしたのか。
「しまう場所がない。箱かなにかにいれておこうにも、いいものが家になかった。なにかないか、というものでした」
「それで、あれ?」
「はい」
 ピンクなプラスチック製の少しチープなオルゴール。
「おもちゃっぽかったけど」
「おもちゃなんですよ」
 そこでエミリが小さく微笑んだ。
「わたしが子どものころにやっていたアニメのおもちゃです。魔法のひまわりリーガルユカナっていうんですけれども。魔法の力で女の子が弁護士になる魔女っ子もので、大好きだったんです」
 途中ででてくるパワーアップアイテムで、なんて続ける。
「……嬢ちゃんも、そういうアニメ見たりしてたんだな」
 あとなんだ、その魔法の力で弁護士になるっていう微妙な設定は。
「エミリです。わたしも、普通の女の子ですから」
 普通の概念を一度問いただしたかったが、怒られるに決まっているのでやめておいた。
「それにでてくる魔法のオルゴールなんです。しまい込んであったんですけれども、マオさん、こういうのお好きだろうな、と思って」
「そりゃあ、大好きだろうな、ああいうの」
 疑心暗鬼ミチコと通じるなにかがある。
「でもいいのか、そんなものもらって。思い入れとかあるんだろう?」
「思い入れはありますが、今のわたしがおおっぴらに使うわけにもいきませんし。使っていただけるのならば、そちらのほうがいいです。それに、わたし、ああいうおもちゃは、まだまだたくさん持っているんですよ」
 一人娘で甘やかされていましたから、と続けた。
「ああ」
 苦笑する。
 彼女が小さい頃にも何度か会ったことがあるが、確かに見るたびに色々なものを買い与えられていた気がする。
「おっちゃん、元気?」
 なかなかに子煩悩な彼女の父親を思い出しながら問うと、
「ええ。おかげさまで。まったく何の問題もありません」
 しっかりと頷かれた。
「それはよかった」
 少し安心する。彼はまだ、いなくならない。
「しかし、物持ちいいねー」
「父が色々とっておいてくれたので」
 そんな会話をしていると、
『りゅーじ』
 ひょこんっと壁から顔が生えた。
「おかえり」
 片手をあげる。
『ただいま』
 霊体に戻ったマオが、するりと壁抜けをして、隆二の隣、ソファーに座った。
『エミリさん、オルゴール、ありがとう!』
「いいえ。気に入っていただけてよかったです」
『うん、大事にするね! 今度、エミリさんにもなにかお礼用意するね!』
「お気遣いなく」
 エミリは小さく微笑むと、
「それじゃあ、今日は失礼します」
 立ち上がった。
「ああ、悪い。忙しいのに」
 研究所からここまで距離がある。マオが霊体に戻る前に来ようと思ったら、結構早くから出て来たんじゃないだろうか。
「いえ」
 エミリは軽く首を横にふった。
『エミリさん、ありがとう』
「いいえ。それじゃあ、また」
「ああ、また」
『ばいばーい』
 エミリが軽く頭をさげて立ち去るのを、それをマオが大きく手を振って見送った。
 エミリを見送り、部屋のドアをしめる。
「よかったな、マオ」
『うん!』
 マオが大きく頷いた。
『隆二がくれたペンダントね、本当に気に入ったから、大事にしまっとくものが欲しかったの! エミリさんに相談してよかった! あのオルゴールもすっごく可愛いし、ぴったりだし、本当嬉しい!』
 見ているこっちまで思わず微笑んでしまいそうな笑顔でそう言う。
 そこまで気に入ってくれるならば、流れとはいえ買って良かったな。そう思った。
『隆二も、本当にありがとね!』
 それから、
『ところで、隆二! テレビつけて!』
 そのままのテンションで、なんの躊躇いもなく隆二をリモコン代わりに扱った。
「……はいはい」
 ほんの少し面倒だが、これから半月はマオの挙動にはらはらすることはない。そう思うと、リモコン代わりになることぐらいなんでもない。
 テレビをつけながら、安定の半月を思ってそっと息を吐いた。


第五幕 居候猫の恩返し

「ごちそうさまでした」
 唇を離したマオが、小さく呟いた。
「おそまつさまで」
 いつものようにだらけたように、隆二は言葉を返した。
 一カ月、はやいなぁ。
「着替えてくるー」
 隣の部屋に消えるマオを見送りながら、ぼんやりそんなことを思う。
 今日から半月、またマオは実体化していることになる。
 マオが消えてすぐに、隣の部屋から、途切れ途切れの音楽が聞こえて来た。これ、なんだっけな。
 見えるわけでもないのに、ソファーに座ったまま隣の部屋への壁を見る。しばらく考えて、エミリが持って来たオルゴールの音楽だと気づいた。
 実体化してすぐに、あのペンダントが入っているオルゴールを開けたのか。そのことに思い至ると、なんだかくすぐったい気分になる。
 ふっと唇が緩んで、慌てて片手で口元を押さえた。
「着替えたー」
 戻って来たマオは、ラフな部屋着姿だったが、首元にちゃんとあのペンダントをつけていた。そして、すとんっと隆二の隣に腰掛けた。
「コーヒー、飲むか?」
 なんとなく照れくさくて、マオと入れ替わるようにソファーから立ち上がる。
「牛乳ある?」
「買っといたよ、昨日」
「じゃあ、飲むー!」
 マオがはしゃいだ声をあげる。
 実体化してすぐに、コーヒーが飲みたいなどと言っていたマオだったが、中身と同じおこちゃま舌の彼女には、ブラックでコーヒーを飲むことなんてできなかった。それでも隆二とお茶がしたい、と主張する彼女のため、色々と調整した結果が、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーだ。
 それ、もうコーヒーじゃないだろ。とは思うが。
 二人分のコーヒーを作って、ソファーまで戻る。マオは早速テレビをつけたところだった。
「はい」
「ありがとー!」
 マオ用に購入した猫の柄のコーヒーカップを手渡すと、嬉しそうに受け取った。
 ソファーの足によりかかるようにして、床に腰を下ろした。
「そうだ、検査、明後日な」
 さっきエミリからきたメールを思い出して言う。
「……はーい」
 露骨に下がったテンションでマオが返事をした。まあ、そうなるよな。
「帰り、買い物でもなんでも付き合うから」
 なだめるようにそう言うと、
「じゃあ、行く前に、なんかお菓子とか買いたいの」
「前に?」
「うん、エミリさんにこの前のお礼。オルゴールの」
「……ああ」
 小さく頷く。
「そうだな、色々世話になってるし」
 エミリが研究所内で隆二達の担当であるにしても、橋渡し役になってくれていることには感謝している。きっと、研究班と隆二達との間に挟まれて色々面倒な思いもしていることだろう。仕事としての領域を越えて、面倒を見てもらっている、という自覚はある。
「じゃあ、それ買ってからだな」
「うん!」
 嬉しそうにマオが大きく頷いた。

 検査の日、マオがテレビで見たというバームクーヘンを買ってから、研究所に赴いた。
「わざわざすみません、ありがとうございます」
「いや、いつもありがとう」
 隆二が素直に礼を言うと、エミリがなんだかまた微妙な顔をした。礼を言うたびにそういう顔をされるんじゃ、本当、割にあわない。
 硝子の向こうでは、今日もマオが白衣と何か話している。右手が胸元のペンダントを掴んでいるのを見て、小さく目を細めた。
「あ、そうだ」
 エミリもエミリで何かを思い出したのか、置いてあった鞄から小さな袋を差し出す。
「これ、一応渡しておきます」
「何これ」
 開けてみると、円盤状の何かが入っていた。
「先日の、マオさんの写真が採用されたテレビ番組の録画です。丁度同じ回を、父の知り合いが、知人のが採用されただったか、映っているだったかで見たがっていたので、一緒に焼いておきました」
「……なに、これ、どうすればいいの」
 中身とかよりもそこを説明して欲しい。
 エミリは一瞬軽く眉をひそめてから、
「DVDです。プレイヤーで再生して見て頂きたいのですが、そういえば神山さんの家にはありませんよね。マオさん、レコーダー欲しがっていましたし、今度購入されてはいかがですか?」
 言っていることの内容があまり理解できなかったが、ひとつだけよくわかったことがある。
「これ以上、うちに変な機械を増やせと」
「真っ当な機械です」
 思わず渋い顔になってそう言うと、真顔で訂正された。使い方がわからないものは、全部変な機械、だ。
「神山さんが使えなくても、マオさんが使えるでしょうから大丈夫ですよ。休みの日でしたら、買いに行くのも付き合いますよ」
「それは大変ありがたい申し出だがな」
「なにがご不満ですか?」
「すべてだよ」
 などと不毛なやりとりを繰り広げている間にも、無事検査は終わったらしい。マオが安心した顔でやってきた。
「おつかれ」
 片手をあげる。
「おつかれさまです。この前の、オカルトクエストの録画、DVDに焼いて神山さんに渡しておきましたので」
「え、本当!?」
 ぱぁぁっとマオの顔が明るくなった。
「あー、でもうちじゃ見られないのかー。隆二ー、プレイヤー買って帰ろう?」
「お前は……。さらっと変な機械を俺の家に増やそうとするんじゃない」
「変じゃないよー、普通の機械だよー」
 軽く唇を尖らせたマオが、エミリと同じようなことを言う。
「買い方わかんないし。知らないけど、色々あるんだろ、そういうの」
「うーん。さすがにあたしも、家電については調べてないんだよなぁ。……あ、エミリさんは?」
「わたしは、このあとちょっと用事がありますので」
「……そっか」
「今度、一緒に買いに行きましょう」
「うん、それじゃあ、約束!」
 はしゃいだ声で勝手に約束をする二人に、呆れてしまう。だから、誰の家に置くと思っているんだよ、それ。
 二人の間で勝手に話はまとまったらしく、メールしますね、なんて言っている。まあ、この二人が仲良くしているのを見るのは、割と楽しいからいいのだが。
「帰るぞー」
 呆れ半分で声をかけると、
「え、まって」
 慌ててマオがこっちにきた。
「じゃあね、エミリさん」
「はい、また」
「どーも」
 挨拶を交わして、研究所を後にする。
「ねー、りゅーじ! 電気屋さん行こう!」
「はぁ?」
「下見、下見!」
「やだよ」
 なんでそんな変な機械ばっかり売っているところに行かなきゃなんないんだ。
「普通の機械だからね!」
 心を読んだかのようにマオが言った。
「はいはい」
「もー」
 あっきれたーとマオが呟いた。誰にでも、向き不向きがあるのだ、仕方あるまい。
「……ねー」
 呆れたような顔をしていたマオだが、急に何かに気づいたかのように、隆二の顔を見た。伺うように。恐る恐る。
「何を企んでる?」
 そういう顔は、過去何度も見てきた。
「た、企んでなんかないよ!」
 どうだか。どうせまた、意味のわからないおねだりでもするつもりなんだろう。
「ちがくて! あたしばっかり欲しいもの言ってるけど、隆二は欲しいものとかないのかなーって思ったの!」
 なんだか怒った調子で言われる。
「欲しいもの?」
 考えたこともなかった。
 元々性根が怠惰なのだ。物欲だって錆び付いている。何かを欲するということが、あまりない。
「……ないなあ」
 コーヒーが飲めて、のんびり本が読めれば、それで満足だった。
「なんかないの!?」
 強い口調で言われる。何を怒っているんだか。
「ないよ」
「……ああ、そうっ!」
 ふぃっとマオがそっぽを向いた。おおかた、こちらが欲しいものを聞き出して、それにあわせて強引に自分の欲しいものでもねじ込んでくるつもりだったのだろう。
 苦笑する。
「別に俺欲しいものないし、マオが欲しいものがあるんだったら、まあ、相談ぐらいにはのるよ」
 変な機械が家にくることはいやだが、だからといって過度にマオに我慢を強いるつもりもない。マオに渡している金額分で足りなければ、ちっともない貯金を多少渡してもいいし。多少なら。
 そうやって譲歩したにもかかわらず、
「別にっ」
 マオの機嫌はなおらなかった。変なやつ。いつものことだけど。
 片手をあげて軽くマオの頭を叩く。ぽんぽんっと。既に一種の流れのようになっている。臍を曲げたマオの頭を撫でること。
 マオのへの字に曲げられた口元が、ほんの少しだけ緩んだのを視界の端で確認すると、
「電気屋、ちょっとだけだぞ」
 言って、彼女の片手を掴んだ。
「……はーい」
 不機嫌を装った返事は明るい。現金なやつ。小さく笑った。

 

 

「俺、買い物行くけどどうするー?」
 隆二が声をかけてくる。それに、きた! と思った。のは、なるべく見せないように頑張って、
「待ってるー!」
 テレビ画面を睨んだまま答えた。
 隆二が呆れたように笑ったのがわかった。
「ちゃんと留守番してろよー」
「……はーい」
 ちょっと後ろめたくて、一瞬言葉が遅れた。ばれたかな、と思ったけれども、隆二は別段気に留めなかったらしい。
「じゃあ、いってくる」
 靴をはいて、ドアが開く音。
「いってらっしゃーい」
 テレビを見たまま、告げる。
 がちゃり、とドアがしまった。
 しばらくそのままテレビを睨み続けて、
「よしっ」
 もういいだろう、と思ったところで立ち上がる。
 テレビの中では、四苦八苦久美子が戦っている。正直、すっごくいい場面だけれども、今日ばかりはしかたない。
 未練を断ち切るように電源を切ると、ベッドの上に置きっぱなしにした鞄を手に取る。
 鞄の奥の方で、眠っていた鍵をひっぱりだす。念のため、と渡されていたが、これまで使う機会のなかった合鍵。目の前に掲げて、ふふっと笑う。
 今日という今日は、探し出すんだ。隆二へのプレゼント。
 浮かれて口元がにやけてしまう。
 メモ帳に隆二に対するメッセージを残す。
 勝手にでかけたらきっと怒られちゃうだろうなー。でも、これでも実体化してだいぶたったのだ。そろそろ一人ででかけたって平気だ。大丈夫。
「ごめんね、りゅーじ」
 テーブルに置いたメモに向かって両手をあわせて謝る。それから、やっぱり、にへらっと笑って家を出た。
 一人で町中を歩くのは初めてだ。だけど、幽霊のころからずっとうろうろしていた町だから、どこになにがあるのかは熟知している。多分、隆二以上に。
「なにがいいかなー」
 歌うように呟いて、辺りに視線をさまよわせる。
 さりげなく隆二に欲しいものがないか探りをいれたところ、あっさりとない、と言われてしまった。
 まったく、隆二は本当、ひとでなしなんだから。
 思い出したら、ちょっとむかむかしてきた。小さく唇を尖らせる。
 一緒にでかけるたびに、さりげなく様子をうかがったものの、やっぱり隆二が欲しいものはわからなかった。
 そうこうしているうちに、今月の実体化期間も明日までになってしまった。
 これじゃあいけない、と今日こそは何がなんでもでかけることに決めたのだ。昨日見ていたドラマで、「贈物は選んでくれたという事実が嬉しいものよ」とか言っていたし。ドラマの人と違って、そういう事実に喜んでくれるような素直さが隆二にあるとも思えないけど。
 駅前に向かう。あの辺りが一番、お店がある。
 さて何にしよう。洋服? いつも同じようなのを着ているから、ちょっと違うものをプレゼントとか? 靴もいいかもしれない。こっそりサイズをチェックしていたのだ。あとはなんだろう? 本? でもたくさん持ってるしなー。機械式のものは論外。うーん、何かぴぴっとくるものあるかなー。
 駅前まで来ると、辺りを見回す。
 さて、どこのお店から見ようか。あんまり遅くなると、すっごく怒られそうだからなー。そんなことを考えながら辺りを見ていると、
「おじょーさん」
 軽薄な声が横からかけられた。
 そちらを見ると、若い男が二人。
「一人? 今ひま?」
「すっごく忙しいの」
 そうだ、誰だか知らないけど、
「ねぇ、隆二に何あげたらいいと思う?」
 訊いてみよう。
「は?」
「プレゼント。もらうんだったら、なにがいい?」
 男の人が欲しいもの訊いたら、何かヒントになるかもしれない。
「カレシに?」
「ちがうよー」
「ああ、好きな人?」
「……まあ」
 好きな人では、あるよなぁ?
「私をプレゼント! とかやればいいじゃん」
「おまえ、やめろよー」
「なんだよ」
 二人でなんだか楽しそうに笑う。答えてくれる気がないなら、もういい。
「自分で探す」
 くるっと背を向けて歩き出そうとしたところを、
「まあまあ、待ちなよ」
 右手を掴んで引き止められた。
 ぞわっと一気に鳥肌がたった。
 右手に感じる熱が不愉快だ、とても。
「離してっ」
 咄嗟に振り払おうとするが、相手の力が強くて振りほどけない。
「プレゼント? 一緒に探してあげるって」
「とりあえずお茶でも行こうよ」
 腕をひっぱられる。
「痛いっ」
 引っ張られる方に、軽くよろめく。
 なんだか凄く不愉快で、ちょっと怖くて泣きそうになる。
 隆二もたまに強引に手をひっぱることがあるけれども、こんな風に痛いと思ったことはない。ああ、手加減してくれていたのか、と今更ながらに気づいた。あの唐変木なひとでなしの優しさに。だってそうだ、隆二はひとじゃないのに。それなのにマオが嫌がったら振りほどけるぐらいの力でしか、手を握って来なかった。彼が本気を出したら、マオの腕なんて簡単にへし折れる。それでも隆二に手を握られることを、怖いと思ったことなんて一度もなかった。嫌だったこともない。
 今、このなんでもない人間に手を握られることが、こんなに不愉快なのに。
「離してっ!」
 一度息を吸い込んでから大声をだす。
 やっぱり隆二じゃなくちゃだめなんだ。わかっていたことだけど。例え実体化して、他の人に見えるようになっても、隆二じゃなくちゃ駄目だ。
 マオの大声に、二人は少し驚いたような顔をした。
「あたし、行かなくっちゃ」
 はやくプレゼントを買って帰らなくっちゃいけない。邪魔しないで欲しい。
 きっと二人を睨みつけると、男達は一瞬たじろいだような顔をした。それでも手は離さない。お互い、どうにも引っ込みがつかなくなり、睨み合っているところを、
「ちょっと」
 やる気のない声が横からかかった。
「嫌がってんじゃん、離してあげなよ」
 声の方を見る。
 黒髪をなんとなく伸ばした、スレンダーな女性がそこにいた。
「……きょーすけさん?」
 あまりに似ている姿に一瞬呟く。明らかに性別からして違うのだけれども。
 マオの呟きに、女性が小さく目を見開いた。
 男達は女性とマオとを見比べてから、
「ちょっと声かけただけじゃん」
 ぶつぶつ言いながら、マオの手を離すと足早に去って行った。
 なんだったんだろう、あの人達。
 その後ろ姿を見送っていると、
「大丈夫?」
 女性が声をかけてきて、慌てて頷く。
「ナンパのかわし方、もうちょい覚えた方がいいよ」
 やる気なさそうな言葉に、
「え?」
 素っ頓狂な声をあげる。
「……あれがナンパなんだ?」
 ドラマではよく見るが、ああいうものなんだ?
 マオの返答に、
「気づいてなかったの?」
 女性は楽しそうに笑う。それから、
「ね、それ」
 マオの首元を指差す。
「そのペンダント」
「あ、これ? もらったの」
 かわいいでしょう? と笑ってみせる。
「なんかさ、やる気のなさそうな男の人にもらった?」
「うん」
「私、誰か知り合いに似てるんでしょう? それも男」
「うん」
 なんでこんなこと訊くんだろう?
「やっぱりね」
 何に納得したのか、女性は満足そうに頷くと、
「それ作ったの、私」
「え?」
 女性とペンダントを交互に見比べる。
「これ、おねーさんが作ったの?」
「そうそう」
「へー! かわいいからお気に入りなの! ありがとう」
「どういたしまして。そこまで喜んでもらえるなら嬉しい」
 それからちょっと悪戯っぽく、彼女は笑った。
「じゃあ、貴方があの人のカノジョなんだ?」
 その言葉に、慌てて首を横にふった。そんなこと隆二が聞いたら怒るに決まっている。隆二にとってカノジョは茜だけだ。
「そんなんじゃないよ。あたしはただの居候」
 隆二に訊いたって、そう答えるだろう。あれはうちの居候猫、って。
 もう一年以上も一緒にいるのに、居候でしかない。
「……あたしは、いつまで居候なのかな」
 小さく呟いた。

 

 

「ただいま」
 スーパーの袋を片手に帰って来た隆二は、言いながらドアをあけた。
「……マオ?」
 いつもならとんでくる居候猫の姿がない。部屋も暗い。テレビもついていない。
「マオっ」
 急に不安になって、靴を脱ぐのももどかしく、片足は脱がないまま部屋にあがった。
 いつものソファーに居候猫の姿はない。
「マオっ」
 もう一度名前を呼んだところで、テーブルの上のメモに気づいた。慌ててそれに目を通す。
 マオのあの、へたくそな字で、「おかいものいってきます。ごはんにはかえってきます。ごめんなさい」なんて書いてあった。
「出かけるなつっただろうが、あのバカっ」
 舌打ちすると、ポケットからケータイをとりだす。慣れない手つきでマオの番号を呼び出すと、電話をかけた。
 ぷるるると呼び出し音はするが、マオは出ない。いらいらと指でテーブルを何度も叩く。
 落ち着け。何かがあったから出ないとは限らない。マオのことだ、約束を破ったことはわかっていて、怒られるのが嫌で電話を無視しているだけかもしれない。
 留守番電話サービスに接続される。
「怒ってないからこれ聞いたらすぐに電話しろ」
 吐きすてるようにそう言ってから、どう考えてもこの言い方は怒っているな、と考えを改めた。
「かけ直さないともっと怒るぞ、このバカ」
 早口で続けた。
 そのまま電話を切る。
 まったく、あのバカは。
 舌打ちを一つすると、いつでも出られるようにケータイをまたポケットにしまう。
 探しに行って入れ違いになるのも嫌だし、ご飯までに帰ると言っているのならば、ぼちぼち戻ってくるころだろう。出かけたから即、何があるわけでもない。落ち着け。
 自分に言い聞かせると、一つ深呼吸。
 とりあえず、少しだけ待ってみよう。
 そう決めると、履いたままだった靴を脱ぎ、買ったものを冷蔵庫にしまいはじめた。


「うげっ」
 留守電に残された隆二のメッセージを聞いて、マオは小さく悲鳴のような声をあげた。
「ん?」
 向かいの女が首を傾げる。
「……なんでもなぁーい」
 聞かなかったことにしよう。そう決めると、ケータイをテーブルの上に置いた。
 あの後、ナンパから助けてくれた女と少し会話し、なんだか意気投合した。
 柚香と名乗ったその女性は、自分で作ったアクセサリーを売って生計をたてているらしい。マオが隆二へのプレゼントを探している話を聞くと、アクセサリーを見立ててくれると言い出した。
 アクセサリーなんて隆二絶対買わないし、いいかもしれない! この人、隆二に合ったことがあるらしいし、このペンダントを作った人のアクセサリーなら申し分ないし!
 渡りに舟な申し出にマオも乗っかり、柚香の作品を見るために近くのファーストフードに入ったところだ。
 あとちょっとで終わるのだ。途中で連れ戻されたり、隆二に来られたりしたら意味がない。これが終わるまでは、留守電を聞かなかったことにしておこう。用事が終わったら、ちゃんと電話するから。自分にそう言い訳する。
「ならいいけど?」
 言いながら柚香は、片手に持っていた大きめの紙袋から、いくつかのアクセサリーをテーブルに並べていく。
「まあ、あの人アクセサリーとか頓着なさそうだったけど」
「隆二が興味あるのは本とコーヒーだけだよ」
 小さく唇を尖らせながらマオが言うと、そんな感じっぽいね、と柚香も笑った。
「だから、シンプルな方がいいよね」
 メンズはこれぐらいかなー、と並べられたアクセサリーを見ていく。
 うーん、そもそも何かを身につけている隆二が思い浮かばない。
「ピアスは?」
「あいてないよ」
「じゃあ、この辺は論外」
 ピアスが幾つか袋に戻される。
「ペンダント系か、ブレスレット系か」
「んー」
 それらを眺めながら、まだちょっと痛い右手を擦る。そうしながら、隆二と言えば、手だな、と思った。
 最初にした約束も、そういえばそのうちに頭を撫でてくれる、というものだった。
 いつも頭を撫でてくれる手。最初の時、逃げようと繋いだ手。最近は、普通に繋いでくれる手。
「……ブレスレットだなぁ」
 小さく呟くと、
「そう?」
 とペンダント系統が袋にしまわれる。
 いくつか残ったブレスレットを眺めて、
「……これ、いいかなぁ」
 つかみあげたのは、シンプルな革のブレスレットだった。茶色い一枚の革が編み込まれている。
「ああ、いいんじゃない? シンプルだし」
「……うん、これにする。これください」
「はい、毎度」
 柚香が笑って受け取ると、袋にいれてくれる。値札に書かれた金額を手渡し、商品を受け取った。
「ありがとう」
「いいえ。喜んでくれるといいけど」
「んー、隆二が喜んだりするところ、想像できないけど」
 それよりも先に怒られそうだし。
「それでもきっと、嫌がらないでつけてくれると思うから」
「じゃあ、また、どこかで見かけるの楽しみにしてる」
「うん」
 大きく頷いた。


 遅い。
 時計を見て、隆二は一つ舌打ちをした。
 ご飯までに帰ってくるって言ったのに、帰ってくる気配がない。あれから三回追加で電話をかけたがちっともでないし。
 苛立ちは段々不安に変わっていく。もう一度電話をかけて出なかったら、探しに行こう。
 そう決めて、電話をかけると、意外にも今度はかけはじめて直ぐに電話に出る音がした。
「マオっ」
 怒鳴りつけるように名前を呼ぶと、
「あー、もしもし?」
 返ってきたのは、マオの声じゃなかった。
「……誰だ」
 低い声で誰何。
「あー、あのおにーさん? この前ペンダント買ってくれた。私私、アクセサリー売りの」
 言われてみれば、そのやる気のなさそうな声には聞き覚えがあった。京介似のアクセサリー売りの女。
 それがなんで、マオの電話に?
「ええっと、話せば長くなるんだけど、マオちゃん? とは道であって。私のペンダントつけてくれてるから話してて。ちょっと一緒にお茶してて」
「……ああ」
 その言葉に、ちょっとだけ安堵する。おしゃべりに夢中になって、電話に気がつかなかったのか。ありそうなことだ。
「……あの、マオは?」
「それなんだけど」
 女はなんだか言いにくそうにした。それに収まっていた不安がまた暴れ出す。
「追加の飲み物をね、買いに行ってくれたの。……それから三十分ぐらい経つんだけど戻って来なくって。レジ一階だから見に行ったんだけどいなくって。ケータイはテーブルにおきっぱなしだし。そしたら、おにーさんからの電話があったから」
 言われた言葉に、目眩がする。
 いなくなった?
「今、どこに?」
 あげられたのは駅前のファーストフードの名前だった。そこならマオと二人で行ったことがあるから知っている。
 一階にレジがあって、二階が客席になっていた。駅前だからかいつも混んでいるが、そんな三十分も戻って来られないような混雑ではないし、ましてや行方をくらますスペースがあるわけがない。
「あんのバカっ」
 舌打ち。
 何があったというのだ。どうしてこうなるんだ。
 もっと早く探しに行けばよかった。
「今から行くんで待っていてください」
 一方的にそう言い切ると、電話の向こうの女の返事も待たずに通話を終えた。
 ひっかけるように靴を履くと、駅前に向かって容赦ないスピードで走り出した。


第六幕 The cat is in the cream pot.

 件のファーストフード店につくと、京介似のあの女性が、困ったような顔をして座っていた。
「マオはっ?」
 挨拶や礼儀なんて抜きに、斬りつけるように尋ねると、軽く首を横に振られた。
「一階に飲み物を買いに?」
「そう。奢ってくれるっていうからお言葉に甘えちゃって。……なんかごめんなさい」
「いや」
 別にこの女性が悪いわけではない。
 というか、何があったのか今の段階ではわからない。ろくでもないことになっているのは、わかるけれども。
 飲み物を買いに行って姿を消した。鞄は持っていったようだが、ケータイがここにあるんじゃなんの意味もない。
「……俺、探すんで。万が一見つかったら、今から言う番号に電話して欲しい」
 覚えている自分の電話番号を告げると、慌てたように女がメモをした。機械音痴でも、数字を覚えることは苦ではない。
「それじゃあ」
 と、マオのケータイをもって立ち去ろうとするところを、
「待って」
 慌てたように呼び止められた。
「これ」
 渡されたのは、いつだったかペンダントを買った時のと同じような袋。
「貴方にって、マオちゃんが」
「マオが?」
 予想外の言葉に、怪訝な顔になる。
 それから、そっと袋を開けてみた。出て来たのはシンプルな革のブレスレットだった。
「今日は、それを買いに出て来たみたいよ。いつもお世話になってるからって、嬉しそうに言ってたけど?」
 付け足された言葉に、なんとも言えない気分になる。
 そんなことのために、わざわざ一人で出かけたのか。お世話になっているお礼? そんなこと、考えたりしなくってよかったのに。
 ブレスレットをもう一度袋に戻す。
 これはちゃんと、マオの手から渡してもらおう。じゃないと、素直に喜べない。喜びたいと、嬉しいと思っているのだから、俺は。
「……ありがとう」
 女になんとかそれだけいうと、足早に店を後にした。
 そうでもしないと、何故だか知らないが泣きそうだった。


 駅のファッションビル、そこの女子トイレにマオはかけこんだ。変な顔をする周りの人は気にせず、洗面台に手をつき、あがった呼吸を整える。走り過ぎて喉が痛い。
 顔をあげると、鏡の中の自分は泣きそうな顔をしていた。髪の毛も乱れている。
 一体、なんだっていうの。
 柚香と話していて、ブレスレットが買えたのが、あまりにも嬉しかったからお礼に飲み物をご馳走することにした。一階のレジに並んでいたら、後ろから肩を掴まれた。そのままぐいっと、力任せの後ろに引っ張られる。
「いたっ」
 振り返ると、見たこともない中年の男性がいて、マオを見ると驚いたような顔をした。それから次に、泣きそうな顔になり、
「ようやく見つけたっ、花音!」
 大きな声でそう言った。
 花音? 誰それ。
「ちが、あたしはっ、マオで」
 言いかけた言葉は無視され、右手を掴まれる。そのまま、男は黙ってマオの腕を掴んで店を出て行く。
「ちょっと、おじさんっ! 離してよっ」
「花音」
 男は呆れたような顔で振り返ると、
「お父さんに向かって、おじさんとはなんだ。いい加減、機嫌を直せ」
 なんてわけのわからないことを言う。
「マオだってばっ!」
 周りの客達は様子をうかがうようにマオ達を見ていたが、男が父親だと言ったことで、年頃の娘のプチ家出とでも思ったのか、視線を逸らした。
 男はまた前を向くと、ぐいぐい歩いて行く。ファーストフード店が遠くなる。
 一体誰と勘違いしているのか。
「おじさんっ! ちょっと、あたしはマオで! 花音なんて名前じゃないし! おじさんのことなんて知らないし! っていうか、父親なんていないしっ!」
 ぎゃんぎゃん叫んでも、男は無視をする。
 路上に停められた黒い車。男はポケットから鍵を出しながら、それに近づく。男の持ち物らしい。
 これは本格的にヤバいかもしれない。
 どきどきと心拍数がはやくなる。
 なんでもいいから逃げなくっちゃ。
 男が助手席のドアをあけ、
「乗りなさい」
 突き飛ばすようにマオを押し込む。
「いっ」
 悲鳴をあげたマオを気にせず、男はドアを閉める。そして自分は車の前をまわって、運転席側にまわった。
 逃げるなら、今だ。
 落ち着け落ち着け。ドラマの主人公みたいに、最高の瞬間を狙わなくっちゃ。
 男が運転席のドアに手をかける。がちゃり、とドアがあき、それと同時にマオもドアをあけた。転げ落ちるようにして車から飛び出すと、後ろをみないで走りだす。
「花音っ!」
 後ろから男の声がする。
 逃げなくっちゃ。どこか安全なところ。
 ぱっと目に入ったのが、駅ビルだった。息を切らしながら駆け込み、男が入れない女子トイレにまで逃げ込んだ。
 それが今だ。
 一体、なんだっていうのよ。
 思い返したら、怖くて体が震える。
 大きく息を吸って、呼吸と気持ちを整えた。
 それにしても、どうしよう。いつまでもここにはいられない。あの様子だとすぐには諦めなさそうだし、また出会ったら嫌だし。怒られるかもしれないけれど、隆二に迎えに来てもらおう。
 そう決めると、ずっと肩からかけたままだった小さなポシェットをあける。そこからケータイを取り出そうとして、
「あれ?」
 そこにケータイはなかった。そういえば、ファーストフード店のテーブルに置きっぱなしかもしれない。
「……もうっ」
 隆二に連絡が取れないなんて、どうしたらいいんだろう。
 鏡の中、泣きそうな自分と見つめ合う。考えなくっちゃ。
 家に帰れればあとは心配いらない。だけど、あの男がまだうろうろしていたら、ちゃんと帰れるだろうか。そんなに距離はないけれども。
 隆二は多分、あんまりにもマオが帰ってこかなかったら探しに来てくれるはずだ。ぶつぶつ怒りながらも。いつも、そうだから。
 だから、うまくどこかで隆二と会えるのが一番いい。連絡とれない以上、運任せになるけど。
 隆二がいそうなところを通って、家まで帰る? 普段、お買い物で通る道を通って。
 マオが考えついたのは、そこまでだった。
 自分でも行き当たりばったりだなぁ、と思う。
 溜息。
 でもまあ、もしかしたら、あのおじさんの本当の娘を見つけて帰ったかもしれないし。楽観的な考え方は、ここでもむくむくと持ち上がる。そう考えたら、なんだか帰れる気がしてきた。
 手を洗って、髪の毛を整える。
 ひょいっと女子トイレの外を伺うが、あの男の姿はない。
 よしじゃあ、なるべく目立たないようにして、何かあったら悲鳴があげられるように人通りの多いところ通って、ついでに隆二がいそうなところ通って帰ろう。
 そう決めると、そろそろと女子トイレから脱出した。

 

 

 しかし、探すと言っても全く当てがない。
 そのことに舌打ちしながら、隆二はいつも通る道を中心にマオを探しはじめた。
 途中でエミリに電話を入れたが、取り込み中なのか出なかった。折り返し連絡くれるように、留守電を残しておいたが。
 一人で探すには、限度がある。だからといって、何もしないわけにはいかない。
 辺りはすっかり暗くなってしまった。ケータイで時間を確認する。もう二十二時か。
 いつかマオはいなくなる。
 それは、覚悟を決めつつあることだった。
 それでも、今すぐではないと思っていた。遠い未来のことだと思っていた。
 でも、今すぐではない、と思っていたのは、結局目をそらしていたということなのだ。と、気づいたときには遅かった。
 いつもそうだ。いつも気づかない。いつも最善を見逃す。
 茜のことも、京介のことも、この間のGナンバーのことも。いつもそうだ。
 だからって、今諦めるわけにはいかない。
 マオに一人での外出を禁じた、本当の理由を言わなかったのは自分だ。言っておけば、マオだってこっそり出かけたりしなかったかもしれない。言わなかったのは自分の過失だ。だからこんなことになった。だから、結果の発生は阻止しなければ。
 まだ、覚悟はできていない。
 だから、まだ、一人にはなれない。
 だから、一緒に帰ろう。


 ぜぇぜぇと、自分の呼吸が乱れているのがわかる。それでも足を止めることはできない。
 ビルとビルの間の細い隙間。そこに目をつけると、マオはするりと身を滑り込ませた。 ぎりぎりなんとか入り込めた。胸がないとか悩んだりもしたけれども、今は感謝だ。
 横歩きで奥に進み、ビルの影にしゃがみこむ。
 男が走って行くのが見えた。
 ふーっと一息つく。
 駅ビルから出た後、途中までは順調に帰れていたのに、安心しきったところであの男はまた現れた。
「花音!」
 なんて叫びながら追いかけてくる。
 本当、いい加減にして欲しい。きっと、なんか変な人なのだ。
 今、何時ぐらいだろう。辺りはすっかり暗い。あちらこちらのお店のシャッターも閉まっている。
 隆二、心配しているだろうな。
 胸元に手を伸ばし、ペンダントに触れる。
 そうすると、少しだけ安心できた。
 明日の午前九時には実体化がとける。
 それならばいっそ、ここに隠れて実体化がとけるまで待っていようか。幽霊に戻ってしまえば、あの男に追いかけ回されることもないだろう。明日の午前九時まで、何時間あるんだか知らないけれども。
 ゆっくり奥に進むと、少し広いスペースがあった。ビルとビルに囲まれた場所。
 そこまで行こうと、横歩きを継続していると、
「いったっ」
 置いてあった木の板、その破片で右腕を引っ掻いた。
「ああもう」
 血が出て来た。痛い。
 痛いのには慣れていない。ずっと感じたことがない感情だったから。幽霊のときは、痛いとか熱いとか寒いとかそんなこと、関係なかった。痛いのは、実体化しているときだけだ。
 そこまで考えて、嫌なことを思いついた。
「あたし、酷い怪我したら、どうなっちゃうんだろう」
 今の今まで考えたことがなかった。人間と同じように、身の危険が生じるんだろうか。ああ、だから、だから隆二はあんなにも気を使ってくれていたのか。全然気がつかなかった。だから、一人で出かけるなと言っていたのか。こんなことになるから。
 視界がぼやける。
 ビルの影に座り込む。膝を抱える。
 実体化がとけるまでここにいよう。あとどれぐらいの時間があるのかわからないし、それまで隆二に心配をかけることになってしまうけれども、ヘタに動き回ってあの男に見つかるよりもずっといい。
 一人にしないと誓った。約束した。
 だから、帰らなくちゃ。なんとしてでも、彼のところに。
 一人じゃないから大丈夫だと、約束したのは自分なのだから。だから、帰らなくっちゃ。絶対に。


 隆二は、一度試しに家に戻って来た。入れ違いになっている可能性も考慮して。けれども、やはりそこにマオの姿はなかった。
 舌打ちすると、マオのケータイをテーブルの上に置く。戻って来たら連絡しろ、のメッセージをつけて。
 それから、ブレスレットの袋も隣に置いた。マオから直接渡されるまで、これは自分のものじゃない。
 時計を見る。夜中の三時だ。
 ここまで本当に姿が見えないなんて、本当になにかあったんじゃないか。もう、戻って来ないんじゃないか。
 考えると、心臓がぞっと凍える。
 と、ポケットにいれたケータイが震えた。
 慌てて取り出す。着信表示は、進藤エミリだった。
「もしもし。夜分にすみません。今、留守電聞きました。今日は珍しく、ずっと外だったので」
 眠気を噛み殺したような声。
「どうしました?」
「マオが帰って来ないんだ」
 告げると、電話の向こうの空気が変わった。
「いつから?」
 返ってきた声は、張りつめていた。
「夕方から」
 言いながら、ここまでの出来事を説明する。
「……わかりました」
 返事をしたエミリには、もう眠気は感じられなかった。
「わたしもすぐにそちらに……」
「いや、それは大丈夫」
 エミリがここに来るまでには、また時間がかかってしまう。研究所とは距離が離れているし、もう電車もない時間だ。それにあんな赤服に夜間出歩かれたら、また別のトラブルを引き起こしてしまうだろう。
 それよりも、
「調べて欲しいことがある」
「はい」
 それを告げるには、勇気が必要だった。一拍おいてから、早口で。
「夕方から今まで、うちの辺りで起きた事件事故、調べてくれないか」
 電話の向こうで、エミリが息を呑んだのがわかった。
「神山、さん。それは……」
「そうじゃなければいいと思ってる。だけど」
 なんらかの事件事故に巻き込まれたんじゃないか。そして怪我なりなんなりして病院に搬送されて、連絡先がわからず隆二のところに連絡が来ない。その可能性だって十分考えられる。
「可能性を否定して、見逃すなんてことの方が、あってはならないだろ」
 怪我をしているのならばはやく会いにいってやりたいし、最悪なことがあるのだとしてもはやく傍に行きたい。このまま見逃してひとりぼっちにさせてしまうことが、一番あってはならないことだ。
 絞り出すように発した言葉に、エミリは少し躊躇ってから、
「わかりました」
 力強い声で返事した。
「なにかわかったらすぐに連絡します」
「すまない、夜遅くに」
「いつものことですよ」
「頼む」
「はい」
 通話を終える。
 何もないのが一番いい。だけれども、何もないままここまで連絡がないわけがないのだ。何かあったことは、否定できない。
 もう一度マオを探すために部屋を出た。
 覚悟はしている。だけど、希望は捨てない。次にこの部屋に入るときは、二人一緒に、だ。


第七幕 猫の手だって厭わない

 いつの間にか、少しうとうとしてしまったらしい。
 マオは慌てて顔をあげた。
 辺りは明るくなりはじめている。
 今、何時ぐらいだろうな。
 抱えた膝にぎゅっと力をこめた。
 隆二、心配しているかな、しているだろうな。イマイチ素直じゃないし、なんか冷たいし、ひとでなしだけど、隆二はいつだって心配してくれている。
 最初は、隆二が初めて自分のことを認識してくれる人だから一緒にいた。
 今は違う。隆二がそういう風に優しいこと知っていて、大好きだから一緒にいるのだ。
 一晩も隆二から離れていたなんて、初めてだから、寂しい。心細い。
 ペンダントをぎゅっと掴む。
 もうちょっと、もうちょっと待てば実体化がとける。そうすれば、隆二のところに帰れる。
 そう、思った時。
「花音」
 声が上から降ってきた。
 全身が冷水を浴びたように凍えた。
 恐る恐る上を見る。
 マオがもたれかかっているビルの屋上に、あの男がいた。
「やっと見つけた。すぐに行く。待っていなさい」
 そんな声が降ってくる。
 冗談じゃない。
 慌てて立ち上がると、ビルの隙間に体をつっこむ。
「花音」
 呆れたような声がする。
「花音じゃないしっ、しつこいし!」
 また何カ所か擦り傷を作ったけれども、気にしない。もうそんな細かいことはどうでもいい。
 あとちょっとなのに、なんなのっ。
 通りにでると、走り出す。なるべく家に近づくように。隆二の家に向かって走り出した。


 すっかり朝になって、通りは通勤通学の人々であふれはじめた。
 隆二は走りにくくなった通りに舌打ちする。
 エミリから一度連絡があったが、特にマオがかかわっていそうな事件事故はないらしい。それにひとまず胸を撫で下ろしたものの、だったら何故ここまで見つからないのかが不安になるところだ。
 人の間をすり抜けて、勢いよく走りながら、角を曲がったところで、
「わ」
「きゃっ」
 反対側から来た人影にぶつかりそうになった。慌てて立ち止まる。
「うわっ、びっくりした」
 角でぶつかりそうになったのは、例のコンビニのオカルトマニアな店員、菊だった。
「あ、お久しぶりですー、お元気でしたか? どうしたんですか血相をかえて、またヴァンパイア」
「こいつ、知らないかっ!?」
 なんだか無駄な話をはじめそうな菊を遮って、二つ折りのケータイを開く。待ち受けに設定された、マオの写真。それがまさかこんなところで、役に立つとは。
「わ、かわいー。どなたです? 恋人さん?」
「いいからっ」
「……んー、見たことないですね」
「そうか、ありがとう」
 ケータイを奪い返すと、再び走り出そうとした隆二に、
「あの」
 菊が躊躇いがちに声をかける。
「また人探しですか? 手伝いましょうか?」
「頼む」
 迷わなかった。その手を掴むことに。
「じゃあ、連絡先と、あとその写真いいですか? 皆に回します」
「……ごめん、やって」
 ケータイをそのまま渡す。写真いいですか? ってどういうことだよ。
 菊はきょとんとした顔をしてから、少し微笑むと、
「わかりました」
 うけとったそれを操作する。ああ、やっぱり若い子ってすげーな。
「できました」
 しばらくしてから、菊が隆二にケータイを返す。
「写真をまわして友達に見なかったか聞いてみます。なにかあったら、電話しますね」
「頼んだ」
 いつだったか、エミリを探し出してくれた彼女の情報網ならば、見つかるかもしれない。ならばそれにすがることに躊躇わない。
 手段は選ばない。差し出された手は拒まない。プライドや見栄なんてどうだっていい。自分だって成長するのだ。びびたるものだけど。
 菊に軽く頭をさげると、また走り出した。


 マオは先ほどとは違う路地裏の、駐車場の影隠れた。
 乱れた呼吸を整える。
 あと、ちょっと。
 体内の感覚でわかる。あと少しで実体化がとける。そうすれば、遠慮なく飛んで帰ればいい。隆二の家へ。
 それまで見つかりませんように。
 祈るようにペンダントを握りしめる。
「かのーん」
 男の声がする。思っていたよりも近くだ。
 あと少し。あと少しだから。
 ぎゅっと目をつぶる。
 声。足音。
 あっち行け。あっち行けあっち行け!
 体から体温が消えていくのがわかる。実体化がとける前兆。
 あとちょっとだ。
 ここまで来たら、あとはもう待つだけだ。
 少し視界が揺らぐ。
 耐えるように一度目を閉じる。
 ふわりと、体が浮くような感覚。浮遊感。
 目を開ける。
 目の前に手をかざすと、透けて地面が見えた。よかった、ようやく実体化がとけた。
 今なら逃げ出せる。
 そう思って動き出そうとしたとき、かしゃんっと何かの音がした。視線を落とすと、着ていた服と、ペンダントが転がっていた。
 それに一瞬、足が止まる。
 ペンダント。せっかく隆二がくれたペンダント。それをこの場所においておくことに、一瞬の躊躇いが生じた。
 それが、間違っていた。
「見つけた」
 すぐ後ろから声がして悲鳴をあげかけたときにはもう遅かった。
 腕を掴まれる。
 その白い手袋は、エミリがつけているものによく似ている。幽霊が触れるというあの手袋。
 そんな風に思った次の瞬間には、銃を突きつけられ、撃たれた。

 

 

 隆二はケータイを取り出し、時間を確認した。午前九時。マオの実体化がとける時間だ。
 今頃どこにいるのか。変なところで実体化がとけて、面倒なことになっていなければいいが。
 思ったところで、手の中のケータイが震えた。見知らぬ番号。慌てて出ると、
「もしもし。えっと、コンビニ店員の菊です」
「ああ。なにかわかったか?」
「カレシがこの写真に似た人を見たって。あと」
 そこで菊は一度躊躇うように口ごもってから、
「……このペンダントに似ているのと、なんか服が落ちているって」
 さすが、若者の情報網。
「場所は?」
 ペンダントや服が落ちていること事態は、危惧することではない。実体化がとけたからだろう。つまり、実体化がとけるまでマオは近くにいたことになる。
 近くにいたのに、なんで戻って来なかったのかはわからないが。
 菊から場所を聞くと、そこに向かって走り出した。

 件の場所に行ってみると、大学生ぐらいの青年がケータイ片手に立っていた。
「あの」
「あ、あなたが菊の知り合いの?」
 そう問われた言葉に頷く。
 こっちなんですけど、と案内された駐車場の影。そこにはペンダントと洋服、ポシェットが落ちていた。
「これ、そうですよね?」
 指差されたペンダントをそっと拾い上げる。マオのものに間違いない。
 辺りを見回すが、霊体に戻ったマオがいる様子はない。
 大事にするねと笑っていたこれが、こんなところに無造作に落ちているわけないのに。
 少し、期待していたのだ。町中で元に戻ってしまって、途方に暮れているんじゃないかって。だけれども、やっぱり、ここにも居ない。
 ついさっきまでは、ここにいたはずなのに。一体どこに行ったというんだ。もしかしたらここで会えるんじゃないかと思っていた。その分、失望の念を禁じえない。
「男に追いかけられているの見たんです」
 ペンダントを握ったまま何も言わない隆二をみて、青年がそう話はじめる。
「なんかヤバそうだなと思って、警察呼んだ方がいいか悩んで、一応あと追いかけてみて。見失ったと思ったらこれがあって」
 地面に散らばった衣服。ああ、どうみても事件性大だ。
「これ、ヤバいですよね? 警察にとどけますか?」
「……いや」
 それになんとか、首を横にふった。
「わけありなんだ。それはできない」
「そうですか」
 予想以上にすんなり頷かれた。
 それが意外で、青年に視線を向けると、彼は苦笑した。
「菊の紹介してくる人なんて多かれ少なかれそうですよ」
 どんな人付き合いしているんだ、あの小娘は。それに助けられた自分が言うべきことじゃないが。
「あ、あとこれ。その男がそのあと車に乗って立ち去るの見かけて」
 言いながら、青年が自分のケータイを操作する。
「一人だったんですけど。念のためナンバー写真とって」
 渡されたケータイには、確かに黒い車のナンバーがしっかり映っていた。それにしても、
「……なんでそんなことを」
 用意周到過ぎるだろ。
「子どもの頃から探偵に憧れ続けるとこうなっちゃいます」
「ああ」
 その言葉に苦笑する。なんとなくわかってしまって。マオみたいなものか。
 渡された写真にうつるナンバーを覚えると、電話をかけた。
「見つかりましたか?」
 電話の相手、エミリは出ると同時にそう言った。
「手がかりだけ。嬢ちゃん、車のナンバーから持ち主調べられるか?」
「わたしの権限外ですが……、父に頼めば、恐らく」
 訊いといてなんだができるのか。相変わらず嫌な組織だ。それでも、頼るしかない。研究所の力に。
「頼む」
 問題のナンバーと、軽く経緯を説明すると、
「わかりました。なるべく早めに連絡します」
 言って通話が切れた。
 地面に落ちているマオの衣服と鞄を拾い上げる。それらはぞんざいにまとめたが、ペンダントだけは無くさないように、そっと財布の中にしまった。ここが一番安全だろう。これはちゃんと、マオに渡さなくては。無くしたなんてことになったら、きっとあいつは怒るから。
「あの」
 青年が躊躇いがちに声をかけてくる。
「助かった。ありがとう」
 それに頭を下げた。
「あ、いえ。……あの?」
「このあとはこちらでどうにかするから大丈夫。万が一、またその車を見かけたら連絡ください。あのコンビニの子にもお礼を言っておいてください」
 早口で告げる。
 車の行方はエミリに任せるとして、隆二は隆二でマオを探すことをやめるわけにはいかない。立ち止まっているなんてできない。まだ、近くにいるかもしれないから。
 じっとなんてしていられない。止まっていることは怖いから。
「本当にありがとう」
 困惑の表情を浮かべる青年にもう一度そう言うと、足早にその場を後にした。


 残された菊のカレシ、志田葉平は立ち去った隆二の背中を見て首を傾げた。
 まったく、一体あの人はなんなのだろうか。ナンバー照会をどこかに依頼していたが。
 怪訝に思っていると、ケータイがなった。菊から電話だ。
「もしもし?」
「葉平、無事に常連さんに会えた?」
「会えたよ」
 とりあえず手がかりぐらいにはなったみたい、と続ける。
「っていうか、菊、あの人は何者?」
「バイト先のコンビニの常連さんで。んー、内緒って言われたんだけれども葉平にだけは教えちゃう」
 内緒って言われたなら内緒にしとけよ。
「内緒だよ、あのね、吸血鬼さんなの」
「……ああ、そう」
 気が抜けた返事をかえす。
 声をひそめて、さも重大なことのように言うから何かと思ったら、またそんな夢物語か。
 なんで俺のカノジョはこんなに夢見がちなんだろう。未だに探偵なんていうものに、僅かな憧れを抱いている自分が言えた義理じゃないけど。
 一つ、溜息をついた。

 

 

「ダディ、お願いがあるの」
 隆二との通話を終えると、エミリは足早にリビングに向かった。まだ自宅にいた父親に声をかける。
「どうした?」
「車のナンバーから持ち主を調べて欲しいの」
 言いながらナンバーをメモした紙を差し出す。和広が説明を求めるようにエミリを見る。
「マオさんが行方不明で」
 簡潔にここまでの出来事を説明すると、そうか、と和広は頷いた。
 それからリビングのパソコンの前に移動する。
「やってくれるの?」
「研究所の方針に反しない範囲では、神山さんたちの味方をしようと決めているからね」
 言いながら和広がパソコンを操作する。事後処理を担当している和広ならば、ナンバー照会のデータベースにログインすることもできる。
 和広の操作を、固唾を飲んで見守っていると、
「……駄目だ」
 和広が小さく呟いた。
 パソコンの画面には、赤い字で「error:000」の文字が出ている。
「……エラー?」
 エミリが呟くと、
「調べられない」
 和広が淡々とそう答えた。
「なんでっ。そもそもなんでエラーなの?!」
「エラーナンバー000は、研究所内部の人間情報だ」
「……じゃあ、マオさんをおいかけまわしていたっていうのは、研究所の人間なのっ?」
 そうか、でもそれならば、霊体に戻ったあとも姿が見えないことも説明がつく。研究所の人間ならば、見ることも触ることも出来る道具を持っているだろう。
「このエラー解除できないの?」
 できないことはないはずだ。研究所内部の人間の情報だから一応保護しているが、内部の情報が必要になることだってあるはずなのだから。
「できないこともないが」
「だったら」
「でも、できない」
 和広はエミリの目を見ると、しっかりとそう答えた。
「なんでっ」
 父なら引き受けてくれると思っていたのに。
「研究所の規定や意思に反することはできない」
「マオさんが危ないかもしれないのに?」
「それとこれとは話が別だ」
 そして、あろうことか和広は溜息をついた。呆れたように。
「わきまえなさい、恵美理。我々は、組織なのだから」
 冷静に吐かれた言葉に、頭を殴られたような気がした。目の前が真っ暗になる。
 今、この人はなんと言った?
 絶対に、父ならば助けてくれると思った。信じていた。だって、エミリが知っている和広は、いつだって隆二達の側に立って、彼らを守っていたから。今回だって、多少目をつぶって調べてくれると、何故だか信じていた。その彼が、こんな風に組織だから、なんて言うなんて。
「……恵美理、神山さん達に気を使うようになったのはいいが、勘違いしてはいけない。我々は研究所あってのものなのだから」
 研究所内部の人間がマオを連れ去ったかもしれないのに、研究所内部の人間だからわたしは真実にたどり着けない?
 今頃きっと、隆二はエミリからの連絡を待っているのに。
 ぐっと唇を噛むと、リビングを後にする。
「恵美理」
 我が侭な子どもをなだめるような父親の声がする。
 自分の部屋に戻ると、ベッドの下から手提げ金庫を取り出した。派遣執行官には一人一つ配給されているもの。本当はこんな風に使うものではないけれども、背に腹は代えられない。
 それを握るとリビングに戻る。和広は同じようにパソコンの前に座っていたが、エミリが持っているものを見ると、小さく眉をあげた。
 エミリはそれを、銃を、和広の頭に突きつけた。
「調べて」
 和広はそれをちらりと見ると、
「そんなことをしても無駄だよ、恵美理」
 子どものいたずらをたしなめるような口調で言われた。
 温度差を感じる。父親と、自分との間に。こんなこと、初めてだ。
「お前に引き金を引けないことはわかっている。人間を撃ったことなど、ないだろう」
 確かにそうだ。今までに人間を撃ったことはないし、ましてや父親だ。自他ともに認めるファザコンの自分に、そんなことができるわけがない。
 ならば。
「これなら?」
 銃口を自分のこめかみに押しあてた。
「……なんのつもりだい?」
 ほんの少し和広の顔色が変わる。しめたものだ。
 ためらうことなく引き金に指を引っかける。
「恵美理っ」
 和広が父親の顔をして、椅子から腰を浮かせた。
 それに少しだけ安心する。たった二人の家族だもの。その絆が研究所の規定なんていうものの前に負けていなくてよかった。ここで和広が顔色を変えなかったら。そんなこと考えるだけで、娘としてのエミリは辛いし悲しい。
「勘違いしないで」
 そんな父親に、エミリは小さく笑ってみせる。
「自分の命を人質にとっているんじゃない。娘の命が人質にとられているのだから、しぶしぶ調べても仕方ない、という口実をダディに与えているの」
 破天荒な娘を持って大変だ、と所内は元々和広に同情的だ。そこをつけば、上手く立ち回れる。そう判断した。
 和広の研究所内での立場を危うくすることはないはずだ。
 和広はしばらく、中腰のままエミリをみていたが、
「……わかった」
 うんざりしたように溜息をつくと、椅子に座り直した。
「……お前は本当、おばあちゃん似だな」
 パソコンを操作しながら、和広が小さく呟いた言葉に、思わず少し笑った。

 

 

 マオ探しを続けていた隆二は、ポケットのケータイが震えたことで足を止めた。
「わかりました」
 電話の相手、エミリは前置き無しでそう言った。
「車の持ち主は、一条稔」
「……一条?」
 偶然なんだろうが、嫌な名字だな。
「お知り合いですか?」
「いや、悪い、続けてくれ」
「一条は、研究所の事務担当の一人です」
「研究所か。そうか、それならマオが霊体に戻っても見えるし触れるな」
「はい。諸々のことから、一条がマオさんを攫った可能性が高いと考えられます。それで、その、諸々のこと、なのですが」
 そこで珍しく、エミリが一瞬口ごもった。
「一条には、一人娘が居たんです。名前は花音。三年前、十五歳の時に亡くなっているんですが。……その外見が似ているんです、マオさんと」
「は?」
 言われた意味がわからなくて問い返す。
「写真、あとでケータイに送ります。本当に似ているんです。髪や目の色が、マオさんとは違って漆黒なぐらいで、あとはまったく一緒です」
「……あいつら、マジな人霊を使ったってことか」
 Gナンバーは人工的に作られた幽霊。その原理についてエミリが以前色々言っていたが、研究班が嘘をついている可能性もある、とも言っていた。やはり嘘をついていて、本当に亡くなったというその一条の娘の魂を使って、マオを作ったというのか。死して必ず幽霊になるわけでもない。成仏するはずだったその魂を、現世に縛り付けたとでも?
「わかりません。それが本当だったとして、一条が実験に絡んでいるのかもわかりません。だけど、一条、娘の幽霊を見たって最近言っていたらしいんです。テレビで!」
 エミリの声が高く、大きくなった。
「テレビで?」
「父の、知人なんですっ。わたしがオカルトクエストのDVDを渡した!」
 マオのあの、浮かれた心霊写真が採用されたテレビ番組。
「それって、あの心霊写真ですよね? どうしよう、わたしが、送らなければっ。そしたら、一条がマオさんのことに気がつくこともなかったのに、わたしのせいでっ」
「落ち着け。嬢ちゃんのせいじゃない」
 確かに、その写真を見て娘の幽霊の存在に気がついたのかもしれない。だからといって、エミリのせいなわけじゃない。
「だけどっ! エクスカリバーもないんです、一つっ!」
 上擦った声に、一瞬思考回路がとまった。
「……エクスカリバーが?」
「さっき電話かかってきて。わたしが持ち出したと思われたみたいでっ」
 なんだそれ。マオが元々人間で? マオの父親がマオを攫って? そしてエクスカリバーを持っている? どういう状況だよ、これ。
 何も言えない隆二にかわって、電話の向こうのエミリは早口でまくしたてている。
「もうやだなんでっ! 研究班が隠し事しているのはわかっていたけど、まさかここまでっ! ダディもあんなだし、なんなのよっ!」
 それは素の彼女の言葉だった。普段冷静な彼女の、取り乱した声を聞いていたら逆に冷静になれた。
「嬢ちゃん」
「はい?」
 なんだか泣きそうな声に、
「頼む、助けてくれ」
 頼み込む。一人じゃ動けない。一条がどこに行ったのかもわからないようじゃ。
 エクスカリバーを持っているのならば、はやくしなければ。霊体に戻ったからといってマオが無事だとは限らない。
「でも、もうこれ以上は」
 電話の向こうの声はなんだか、慌てたようだった。
「ダディもあんなだし、研究所として動きようが……。研究班としては一条のことは隠したい出来事でしょうし、この後はきっと隠蔽合戦になって、わたしも動きようが……。これ以上動いたら確実に睨まれて」
「頼むよ」
 エミリのおろおろとした言葉を遮る。
 エミリに頼ってはいけない。エミリは研究所の人間だ。命令に背けということを、エミリに願ってはいけない。それは踏み込んではいけない領域だ。そんなこと、わかっている。
 わかっているけれども、頼むより他がないのだ。
「頼む、エミリ」
 強い口調で、しっかりと告げた。彼女の名前を呼んで。
「……ずるいです」
 一呼吸置いて、電話の向こうが絞り出すようにして言った。
「わかってる」
「なんで……、こんな時にはじめて、名前で呼んでくださるなんて」
 声が震えている。
「うん、ずるいんだ、俺」
 使えるものならなんだって使う。それが結果発生を阻止してくれるのならば、躊躇わない。例え、どんなに罵られても。非人道的でも構わない。マオを助けられるのならば。
「手伝って欲しい、エミリ」
 駄目押しのようにもう一度。
 電話の向こうではしばらく沈黙が続いていたが、
「……わかりました」
 次に聞こえた声は、どこかふっきれたように聞こえた。
「わたし一人で、どこまでお役にたてるかわかりませんが、マオさんのためですから」
「ありがとう」
「だけど、一つだけ、いいですか?」
「なに?」
 すぅっと息を吸う音が聞こえる。なんだ? と思っていると、
「このっ、ひとでなしっ!」
 大声で一言、罵られた。
「っ」
 慌ててケータイを耳から離す。不意の大音量に、耳が痛い。
「すっきりしました」
 落ち着いた声が聞こえて、また耳にあてる。
「今の……」
「ずっと言いたかったんです。それじゃあ、車の行く先など、わかったらまた連絡します」
 言ってぷつりと、ケータイが切れた。
 ひとでなし? 上等だ。
 唇を皮肉っぽく歪める。
 ひとじゃないんだ、ひとでなしだ。もう一人のひとでなしを連れて帰るためならば、そんな誹りいくらでも甘んじよう。
 だからマオ、
「もうちょっと待ってろよ」


第八幕 迷い仔猫の素性

 ゆっくりと、マオは目を覚ました。
 顔をあげる。
 知らない場所だった。
 正面には十字架。二列に並べられた長椅子。天井のステンドグラス。
 テレビやなんかで見たことがある。ここは、
『……教会?』
 ゆっくり体を起こす。動こうとしたが、右足が上手く動かなかった。何かに縛られているかのように。
 視線をやると、黒い鎖のようなものが右足に絡み付いていた。今、幽霊なのに。
 動かそうとするが、どうにもうまく動かない。
『なにこれっ』
「足枷の一種だよ」
 声がして、慌ててそちらを向く。
「おはよう、花音。手荒な真似して悪いが、逃げないようにつけさせてもらったよ。それは花音が研究所から逃げ出したときに反省して、研究班が作ったものらしいよ」
 あの男がそこに居た。
『誰、あなた?』
 ただの変な人じゃない。そんなことはもうわかっている。霊体に戻ったのに逃げられなかった。捕まった。
『研究所の、人?』
「そうだよ、花音」
 男が両手を広げて言う。
『花音じゃないっ』
「花音だよ。一条花音、わたしの娘」
 男、一条稔が微笑む。
『……何を、言っているの?』
 一条から距離をとろうと、少し後ろに下がる。少しでも、後ろに。
『娘? あたしが? あなたの? ありえない。だって』
 認めたくないけれども、こんなこと自分で言いたくないけれども。
『あたしは、実験体ナンバーG〇一六。人工的に作られた幽霊で、父親なんていない』
 覚えている。発生して最初のこと。記憶にあるのは、あの嫌な液体で満たされた水槽。
『あたしは、ただのひとでなしだもの』
 何を勘違いしているのか知らないが、わかったなら帰して欲しい。
「いいや、花音だよ」
『だからっ!』
「実験体ナンバーG〇一六の元になったのは、花音の魂だよ」
『……え?』
 意味がわからなくて、抗議のために開いた口をそのまま、ぽかんっと間抜けにあける。
『たましい?』
「そうだよ、花音」
 一条は手近な椅子に腰をおろした。
「やはり、忘れてしまったんだね」
 そうして、少し悲しそうな顔をする。
「花音が亡くなったのは、交通事故だった」
 そのまま、ゆっくりと話始めた。マオはただ黙ってそれを聞いていた。
「三年ほど、前だね。悲しむわたしの元に、研究班がやってきたんだ。新しい研究のために、花音の魂を献体として使わせてくれないか、と」
 そこで一条は、じっとマオを見た。マオは視線から自分の体を守るかのように、両腕で肩を抱いた。
「最初は渋ったが、研究所内のしがらみと、それから花音にもう一度会えるかもしれない、という言葉にそそのかされたんだ」
『……研究班は、その人の魂を使ってあたしを作ったの?』
「その人、じゃない。花音自身のだ」
 睨まれて口ごもる。
 だけど本当は大声で言いたかった。花音なんて人、知らない。あたしは、マオだ。
「だけれども、研究班からそれからしばらく音沙汰がなかった。一年ぐらいして届いた書類には失敗した、とあったよ。愕然としたね。わたしは」
 一条の声が震えた。何かを耐えるかのように。
「花音をまた失ってしまったんだっ」
 張り上げられた声が室内に響く。
「そのまま眠らせてあげるべきだったのに。花音の魂は消滅したという。わたしは完全に娘を失った!」
 荒げられた声に、ひっと息を呑む。怖い。
「それから二年、わたしはずっと抜け殻のようだった。何も考えられなくて、気づいたら妻とも離婚していた。そんなときだよ、テレビで花音を見たのは」
『……テレビ?』
「心霊写真としてだったが、笑顔の花音の写真を見たんだ」
『っ、オカルトクエスト!』
 テレビに映った自分の姿といえば、それしか考えられない。
 ああ、と一条は頷いた。
「そこから調べたよ。花音のことを。研究班の資料を勝手にね。実験は成功していたんだ。だけれども、わたしに花音を引渡すつもりがないから、研究班は失敗したことにしたんだ、とわかった。わたしのところに通知がきたときには、まだ実験の途中だったのに、失敗したことにした。それに腹がたったけれども、冷静に考えれば研究所ではよくあることだからね」
『……それで、あたしを?』
「そう。G〇一六という実験体ナンバーが花音なことも、U〇七八のところにいることも、全部調べた。肝心の、U〇七八の居場所がわからなくて、時間がかかってしまったがね」
 一条は立ち上がり、ゆっくりとマオに近づく。マオは少し後ろにさがった。
「待たせたね、花音。一緒に帰ろう」
 そんなマオを気にすることなく、一条はそう言った。そうして片手を差し出す。
「わたしたちの家に帰ろう、花音」
 畳み掛けるように言われる。
 差し出された手と、一条の顔を順番に見る。
『あなたが、……あたしの父親かもしれないっていうことは、わかりました』
 震える声で言葉を発する。
 一条の視線はどこか定まっていなくて怖い。
「ああ、そうだよ。まだ思い出せなくても、いつか思い出せるかもしれない。花音」
 一条が満足そうに頷く。
 この人が、悲しい思いをしたことはわかった。大事な娘を亡くして、一人になってしまって、色々後悔して、悲しくて、必死に娘を探していたことはわかった。それには同情するし、マオが娘だと知って嬉しかった気持ちを、期待を裏切るようなことは出来ればしたくなかった。一人が淋しいのは知っているから。
 だけど、
『あたしは、あなたとは一緒に行けない』
 それとこれとは話が別だ。
 一条の顔をじっと見つめる。
『あたしは帰らなくちゃいけない。それは、あなたのところじゃなくて、隆二のところに。だって、あたし、約束したんだもの。隆二と。ずっと一緒にいるって』
 だから貴方とは帰れない、と続ける。
 一条の表情は変わらない。僅かに微笑んだまま。それがまた、少し怖い。
 だけれども、思っていることはちゃんと言わないと。
『それに、あたしは、花音なんていう名前じゃない。ましてや、G〇一六でもない。あたしは、マオ』
 あの日、初めてあった日に隆二が名付けてくれてから、ずっとマオだ。この名前を大切にしてきた。それ以外の何者でもない。それ以外の名前ならば、例え本物であっても要らない。
『マオだから、あなたとは一緒に行けない』
 この手が掴むのは、隆二の手だけだ。
 ごめんなさい、と続ける。
 一条はしばらく何も言わなかった。
 沈黙に耐えながら、じっと一条の顔を見る。
 どれぐらいそうしていただろうか。一条がゆっくりと息を吐くと、手を下ろした。そうして、椅子の方に向かう。
「わかったよ、花音じゃない」
 背中を向けたまま、一条が言う。
 納得してくれたのだろうか?
 そう思って胸をなでおろしていると、一条が振り返った。
「花音はそんなことを言わない」
 その右手に握られているものに、視線が釘付けになる。
「花音の形をした紛いものに用はない」
 右手に握られているもの。見た目は小型の剣。だけれども、それがただの剣でないことを知っている。
 あの時見た。公園で京介と話した時に。
 あれは、
『エクスカリバーっ』
 霊体であるマオも、不死者である隆二や京介も、実験体である以上すべてを消し去る唯一のもの。
「わたしはまた、花音を失うことに耐えられない」
 マオの悲鳴に返事はせず、一条はエクスカリバーを片手にマオに近づく。
「同じぐらい、わたしが死んだあと花音の形をしたものが存在していることも耐えられない。花音でもないくせに」
 何を言っているのかわからない。だけれども、一つだけわかる。
 このままじゃ、絶体絶命だ。
 なんとか逃げられないかと身をよじるが、右足が上手く動かない。動けない。
 刃が光る。
「やっぱりこうするのが一番いいんだ。花音の形をしたものがいなくなってしまえば、わたしは安心して、死ねる!」
 エクスカリバーが振り上げられる。
 咄嗟に転がるようにして避けた。体は。
『やっ!』
 右腕が避け切れず、刃に触れた。
 何が起きたのか、最初わからなかった。
 刃に触れた先を見る。何もない。
『いやぁぁぁぁ!』
 理解すると同時に悲鳴をあげた。
 斬り落とされたように、刃が触れたよりも先、肘から先が無かった。
 痛みもなにも無いのに。
 左手を伸ばすけれども、やはり、ない。
「ああ、避けるから」
 眉根を寄せて一条が言った。
「花音の顔がそうやって歪むのは見ていられないんだ。頼むから、避けないでくれ」
『なにをっ!』
「エクスカリバーは突き刺した箇所から消える。突き刺さないで今みたいに斬っただけじゃ、そこから先が消えるだけで本体の抹消には繋がらないんだ」
 なんでもない口調で一条が言う。
 なにを言っているかわからない。
 なんで、そんな、なんでもないように言うのだろう。
 だって、消えるって、どういうことかわかっているんだろうか、この人は。
 逃げようともがくが、どうやっても動けない。
 一条がエクスカリバーを振り上げる。
 消える。
 消えてしまう。
 アレに刺されたら、消えてしまう。
 今度は腕だけじゃない。あたし自身が。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 だって、約束したのだ。
 ずっと一緒に居るって。居なくならないって。約束したのだ。
 約束は、守らなくっちゃいけないんだ。
 約束したのに。一緒に居るって。
 一人にはしないって。
 違う。ずっと、一緒に居たいのは、あたしの方だ。隆二じゃなくって。
 あたしが、隆二と一緒に居たい。
 ずっと一緒に居たい。
『嫌だっ!』
 消えたくない消えたくない消えたくない消えたくないっ。
 刃が眼前で光る。
 嫌だ。助けてっ。
 助けてっ!
『隆二ぃぃっ!』
 一際大きな悲鳴が漏れたのと、ばりんっという音がしたのはほぼ同時だった。
 音は上からして、マオは思わず視線をそちらに向ける。一条も同じように一瞬視線を上に逸らした。
 屋根のステンドグラスが割られて、きらきらと光を浴びながら破片が降ってくる。綺麗に輝きながら。
 そして、
「マオっ!」
 一緒に落ちて来た黒い影が、彼女の名前を呼びながら、着地と同時に一条を蹴りとばす。蹴りとばされた一条は吹き飛ばされ、長椅子にぶつかった。
「マオっ、大丈夫かっ!」
 そのままふりかえり、マオに駆け寄って来たのは、
『りゅ、うじ』 
 神山隆二、その人だった。
 破片で切ったのか、頬から血を流しながら隆二はマオにかけより、
「怪我とかっ」
 そこまで言って、隆二は言葉をのんだ。
 マオの右腕を見て、言葉を失う。
 なんだかそれが恥ずかしくて、マオが左手でそれを隠そうとするのを、
「ごめんっ」
 ぐいっと手を引っ張られて妨げられる。代わりにぎゅっと抱きしめられる。
「ごめん、遅くなってっ」
 言われた言葉に、ぶわっと目元が熱くなる。気づいたらぽろぽろと涙がこぼれていた。
『りゅーじ』
 左手でぎゅぅっと彼にしがみつく。
『りゅーじ、りゅーじっ』
「ごめん。遅くなってごめん」
『ごめんなさいっ』
 あたしが勝手に外に出たから。言いつけを破って一人で外に出たから。だから隆二に心配をかけて、こんなことになってしまった。
「マオ」
 優しく名前を呼ばれる。それにあわせて、またぼろぼろと涙が出る。
 頭を撫でられる。いつもの隆二の手で。
「遅くなってごめん。だけど、よかった、また会えて」
 掠れた声で囁かれた言葉に、隆二にしがみついている左手に力をいれた。
『約束、したからっ』
 隆二のこんな声を聞くのはあの時以来だ。神野京介の一件があった時以来。
『ごめんなさい』
 泣かないで。あたしはここにいるから。まだいるから。
「……うん」
 隆二の手がマオの肩をそっと押した。隆二の顔が見えた。泣きそうに歪んでいたけれども、小さく微笑んでいた。
「一緒に帰ろう」

 

 

 一晩ぶりに見るマオの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。こんな風に泣かせてしまったことが心苦しい。
「……ごめん」
 隆二が右肩にそっと触れると、ぴくっとマオの肩が震えた。
 間に合わなかったことが、悔しい。
 マオが泣き顔のまま、ふるふると顔を横にふった。それでもまた、泣きそうになる。
 それを見ているのが耐えられなくって、マオの頭をそっと抱き寄せようとしたとき、
『隆二っ、後ろっ!』
 隆二の肩越しに何かを見たマオが悲鳴をあげた。慌てて視線を動かした隆二の目に映ったのは、エクスカリバーを片手に立ち上がる一条の姿だった。
 咄嗟に、マオの頭を抱え込む。守るように。これ以上、傷つけさせないために。
『りゅーじっ』
 そんなことよりも、迎撃した方がいいと気づいた時には、一条はもう真後ろまで来ていて、
『隆二っ!』
 マオの悲鳴をかき消すように、ばんっと大きな音がした。銃声。
「っ!」
 振り返ると、一条が、右手を押さえて呻いていた。
 からんっと持っていたエクスカリバーが落下し、隆二は慌ててそれを奪い取った。
 視線を音の方に向けると、真っ青な顔をしたエミリが、まだ硝煙のでる銃を片手に立っていた。
「それ以上、動かないでください」
 斬りつけるように一条に言いながら、銃を構えたままゆっくりと近づいてくる。
「両手をあげて!」
 エミリの声に、一条はしばらく悩むようなそぶりを見せたが、血の出る右手を押さえながら手をあげた。
「助かった。ありがとう、エミリ」
 マオを背後に庇うようにしながらも礼を言う。
「いえ、遅くなってすみません」
 一条から目を離さずにエミリが答えた。
「……どうしてここが」
 一条が苦々しい口調で言った。
「ここは花音との思い出の場所なのに。よく家族できた、思い出の……」
「知るかそんなこと」
 吐きすてるように隆二は答えた。だからなんだ。この場所がわかった理由なんて、ただ一つだ。
「人間の若者の情報網はすげーんだよ」
 菊や葉平といったなんでもない人間の若者のおかげだ。隆二が、一晩走り回ってもわからなかった手がかりをみつけてくれた。
 その情報を元に、エミリが車の行き先を探しだしてくれたのだ。だから厳密には、研究所の力もちょっと入っているが。
 郊外の古びた教会。その場所を聞いた瞬間、走りだしていた。
 入り口には、鍵がかかっていた。合鍵をエミリが手に入れてくると言っていたが、それを待っている余裕はなく、手っ取り早く天井のガラスをぶち破って入った。それだけのことだ。
 完全には間に合わなかったけれども、最悪は避けることができてよかった。
「一条稔。エクスカリバーをはじめとした道具を許可無く持ち出したことは重罪ですよ」
 エミリは銃口を向けたまま一条に近づくと、鞄から取り出した手錠を片手にかけた。一条は大人しくされるがままになっていたが、
「……進藤の娘。実験体に肩入れするお前も似たようなものだろう」
 負け惜しみのように呟いた。
「研究所から見たらそうかもしれませんね」
 吐き出された言葉をエミリは受け流した。
「でも、わたしからすれば全然違います。そのことをわたしは知っていますので」
 言いながら手錠の片方を長椅子に繋ぐ。手慣れた様子で身体検査をし、他に武器を持っていないことを確認すると、ようやく銃口を外し、隆二達の元に駆け寄った。
「マオさん、大丈夫ですか!」
 隆二の影に隠れているマオに声をかける。
『エミリさん……』
 泣きそうな顔をしたマオがエミリを見た。
 そうすると、隠れていた右腕も見えた。
「……それ」
 エミリが小さく呟くと、マオは慌てたように隆二の背中に隠れた。腕を隠すように。
『……ごめんなさいっ』
「マオ」
 涙声の謝罪に、隆二がその頭をそっと撫でる。
 それを見て、
「一条っ!」
 一声吠えると、エミリは再び銃口を一条に向けた。かっと激情に駆られたように。
 それを、
「エミリ」
 隆二は、名前を呼ぶことで止めた。
「だけど、神山さんっ」
 たしなめるように名前を呼ばれて、エミリが顔だけで振り返る。
「だって、こいつはっ」
 振り返ったエミリは怒ってもいたが、泣きそうな顔でもあった。
「あんたはその引き金を引くべきじゃない」
 まだ戻れるんだから。
「でもっ」
「やるなら俺がやる」
 その言葉に、エミリが小さく息を呑んだ。
 ゆっくりと立ち上がると、
「マオを頼む」
 エミリの肩をマオの方に押し、そっと前に出た。
『りゅーじっ』
 マオの声を背中に受けながら、ゆっくりと一条の前に立つ。
「U〇七八」
 隆二の視線を受けて、一条が呟いた。
「神山隆二だよ」
 今更実験体ナンバーで呼ばれることに、何か特別な感慨を抱くわけでもないが、そう訂正する。
「うちの居候猫が世話になったな」
「……わたしの娘だ」
「違う」
 座り込んだその胸倉を掴む。椅子に繋がった右手がひっぱられたのか、一条がうめき声をあげた。
 その耳元に顔を近づけると、低い声で小さく、一言告げた。一条だけに聞こえるように。
「俺のだ」
 そのまま返事は待たず、腹に一発拳をぶちこんだ。
 ぐっと呻いて、一条の体が崩れる。手を離すと、ぼたりと床に体が落ちた。
 手加減してやったのに。
 咳き込みながら、恨みがましい目でこちらを見てくる。
 たったこれだけのことで、そんな被害者面しやがって。自分がしたこと、わかってんのか?
 ドス黒い感情が足元から立ち上ってきた。呻いている一条を見下ろす。
 だってまだ、息の根がある。
 止めてしまえ。不愉快だから。
 倒れた体に、更に足を叩き込んだ。一発、二発、三発。
『りゅーじっ』
 怯えたようなマオの声がする。
 それで我に返った。
 久しぶりに黒い感情に支配されて動くところだった。
 足元の一条にまだ息があることを確認すると、一つ溜息をつく。
 本当はここで嬲り殺してもおつりがくるぐらい、この男が不愉快だが、そうするわけにもいくまい。エミリの立場もあるし、このまま殺してしまったら諸々のことが闇に葬られることになる。ここで一条を生かすことは、研究所に対して、一つ貸しぐらいになるはずだ。
 必死に自分に言い聞かせる。そうでもないと、本当に殺しかねない。
「エミリ」
「はい」
 背を向けたまま声をかけると、意外にもしっかりした声でエミリは返事をした。
「あと、頼んでいいか」
「はい。それがわたしの仕事ですので」
 深呼吸して、強張った顔を繕ってから振り返る。
 泣き顔のマオの肩を支えて、青い顔で、それでもしっかりとエミリが立っていた。
「ありがとう」
「いいえ」
 二人のところに近づくと、入れ替わるかのようにエミリが立ち上がった。一条の方に向かって行く。
「マオ」
 名前を呼ぶと、マオがすがるように左手を伸ばして来た。その手を掴み、そっと頭を撫でる。
「ごめんな」
 怖がらせて。
『ごめんなさいっ』
 何故だか謝るマオに、小さく微笑んでみせる。
「帰ろう。一緒に」
 その言葉に、マオは小さく頷いた。



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