目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
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第四幕 逃走猫の帰巣本能

「だから、俺は逃げて、茜から。嘘ついて、卑怯だろ?」
 俯いたままぽつぽつと言葉を紡いでいた隆二はそこで初めてマオの顔を見た。そして、
「ちょっ」
 慌てる。ぽろぽろと、こぼれ落ちている涙を見て。
「待て待て、何故マオが泣く?」
『だってぇ』
 マオは掌で目をごしごし擦りながら、
『隆二、辛かったよね』
「別に俺は卑怯者だから辛いとか」
『そうやって、自分のことまだ許せないでいる。そういうの、辛いよね』
 赤くなった目でまっすぐ見られる。
「……俺を許していないのは、茜だよ」
 それに耐えられなくて視線を逸らす。
『茜さんは、隆二が逃げたからって隆二を恨むような人なの?』
 まっすぐに投げられた言葉に、視線をまたそちらに向ける。
『もし、茜さんがそれで隆二を恨むような人なら、隆二はそれを気にする必要はない、と思う。だっておかしいもん。あたしは、隆二が嘘つきでも卑怯でも今更そんなの気にしない。茜さんは隆二のこと好きなんでしょう? だったら、そんなこと気にしないと思うの。だって隆二が死ななくて、茜さんが人間なこと、茜さんだってわかっていたんでしょう?』
 好きなら許せるから、とマオは躊躇わずに言い放つ。
「……そんなに簡単に、決められたらいいな」
 愛しているから、恨む。そういう感情を、この幼い居候猫はきっとまだわかっていない。愛していたからこそ、恨まれる。
「でも、ありがとう」
 それでも、マオのその言葉が、気遣ってくれているのがわかって、珍しく素直に礼を言った。
『あたしね、隆二のこと、軽蔑、したりしないよ。だって、隆二にとっての茜さんは、あたしにとっての隆二と同じなんでしょう? どうしたらいいかわからない時に、優しくしてくれた人。世界みたいな人。大好きで、大事な人』
 小さく首を傾げるマオに、少し躊躇ってから一つ頷く。そうなのか。マオにとっての自分が特別な存在であることは認識していたが、そこまでも、特別で大きな存在なのか。自分にとっての茜ほどに。
『あたし、今もし隆二がいなくなっちゃうとか言われたら、そんなの耐えられないもん。怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃうかも。それ、わかるもん』
 だから軽蔑したりしないよ、とマオは小さく笑った。
「……うん、ありがとう」
 受け止めてくれて。
『でも、どっちにしても隆二が後悔してることに代わりはないんだよね』
 もう一度ごしごしと目を擦り、マオは隆二の顔を正面から捕らえた。
『だから、隆二。だったら、茜さんに会いに行こう?』
「……会いに?」
『お墓参り。お墓参りは死者のためじゃなくて、生きている人間が自分を慰めるためにもあるって、テレビでみたよ。隆二、それもまだ行ってないんでしょう?』
 そしたらきっと、隆二は自分のこと許せるよ、と屈託なくマオは笑う。
 それを見て、すっと腑に落ちた。ああ、誰かにこの話をしたかった本当の理由は、誰かにこうやって言って欲しかったのかもしれない。謝りに行くきっかけを作って欲しかったのかもしれない。
「……一緒に、きてくれるか?」
 尋ねた声が小さくてかすれていて怯えていて、自分でもびっくりする。ずっと謝りに行きたかった。ずっとずっと。だけど、一人じゃ怖いから。勇気が出ないから。だから、誰か背中を押して、そして一緒に。
『うん!』
 マオは当たり前のように頷いた。
「やあ、話は終わったかい!」
 絶妙のタイミングでドアを開けて入って来たのは、京介だった。こいつ、タイミングを測っていたな。どうせ全部聞いていたのだろう。
『京介さん、お買い物は?』
 手ブラの京介にマオが不思議そうに尋ねる。
「買い忘れたのは気のせいだった」
『あらら、うっかりはちべーねー』
「本当だよねー」
 だからどうしてそんな見え透いた嘘を信じ込んでしまうのか。
「茜ちゃんのとこ行くんだろ? せっかくだし俺も」
「お前は来るな」
 全て言い切る前に言葉を被せた。なんで連れて行ってもらえると思うのか。
「隆二、お前、一人で行けるのか?」
 少し唇の端をあげた京介が、揶揄するように言う。
「う……」
 返す言葉が見つからない。
 確かに、過去あの場所に行った時は一人で歩いて行った。だから、そこそこの時間がかかったはずだ。今回はマオも連れているし、それは避けたい。疲れはしないだろうけど、ぶーぶー五月蝿そうだし。
 しかし、極度の機械音痴であり、社会にかかわらないで生きている隆二には、交通手段の目安がつかない。新幹線? 新幹線の切符って何処で買うんだ? そもそも、どれに乗ればいいんだ?
「……まあ、電車とか手配してくれるなら一緒に来ても良いけど」
 しぶしぶそう言うと、
「おう、まかせろ」
 良い笑顔で京介は請け負った。

 

 善は急げとでも言うように、翌日には出発していた。
「……なにもそこまで張り切らなくても」
 朝一の電車に乗るために道を歩きながら隆二はぼやいた。
『思い立ったが吉日でしょう!』
 隣を浮いていたマオが胸をはって言った。それはそうなのだが。
「せっかく新幹線のチケットとれたしさ」
 昨日、俺ちょっとチケットとってくるよ! などと言って京介はあの後すぐに家を出て行っていた。
「でも、もっと遅い時間でも」
「今から出ると十時には着くし。最悪日帰りも出来る時間っしょ。もうちょい後でもいいけど、始発の方がマオちゃん楽でしょ? 人少ないから、隆二も気兼ねしないでマオちゃんに話しかけられるし。これがラッシュ時になると、隆二話さないでしょ?」
『えー、そんなのあたしつまんないっ!』
「でしょ?」
「……意外と考えてるなぁ」
「意外とってなんだよ。それに、はやくしないと、隆二の決心がまた鈍るだろ?」
 行くと決めた以上、はやく謝りたい気持ちもある。それでもやっぱり、どこか気が重い。怖い。図星を指されて押し黙る。
『一人じゃないから、平気だよねー?』
 マオが無邪気に笑う。
「……ああ」
 それに少し心が和んだ。大丈夫。今なら帰る場所もあるし、一緒に行ってくれる居候猫もいる。あと、また別の居候も。
 そんなことを言い合っている間に、駅に着く。
『あたし、電車ってはじめてー!』
 楽しそうに笑うマオを見て、遠足かなにかと勘違いしてるんじゃないか? という気もしてきたが。
 ホームに電車が滑り込む。人はまばらにしか居ない。
 椅子に座り、その隣にマオも腰を下ろした。進行方向とは逆方向の隣。それを見て京介が、
「あ、マオちゃん。隆二に掴まってた方が」
『え?』
 ドアが閉まる。電車がホームから離れる。ゆっくり動き出す。駅が少しずつ遠のき、
「……そうか、幽霊か」
 マオの姿も少しずつ、遠ざかって行く。
『えっ、えええっ!!』
 幽霊は電車に乗れない。なぜならば、車両に接していないから。車両は幽霊の体をすり抜けて行く。
 慌てたマオが、こちらへ向かおうと必死に手足を動かすが、加速を続ける車両には敵わない。
「あー、だから掴まってた方がいいって」
「わかってたなら先に言ってやれよ、お前」
「隆二が気づいてあげなよ、そこは。せめて、進行方向に座ってれば良かったんだけど」
 必死に頑張っているがちっとも姿が近づかない、寧ろ遠のいているマオに向かって、
「次の駅で待ってる」
 軽く片手をあげると、
『ひーとーでーなーしー!!』
 叫び声が返ってきた。だからそうなんだってば。

『もう、本当、信じられないっ! なんで先に行っちゃうの?』
 次の駅で下車し、待っていた隆二達の元に全速力で飛んで来たらしいマオは、着くなり矢継ぎ早に文句を言い出した。
「ちゃんと待ってただろうが、ここで」
『どうにかしてよ! その前に!』
「無理だろ、あの状況じゃ。常識的に考えて」
『もー、本当あり得ない! ひとでなしっ!』
 言いながらもマオは、しっかりと隆二の背中にしがみついている。
 やってきた電車に乗り込む。しっかりと隆二にしがみついたマオは、電車と一緒に動くことに成功した。
『はー、よかったぁー』
「最後まで気、抜けないな、お前」
 手を離したら、あっという間に置いて行かれる。
「まあ、隆二の膝の上にでもずっと座ってれば大丈夫でしょう」
 それは果たして本当に大丈夫なのか、色々な意味で。
「でも、この路線、一駅間短くて良かったよね。すぐに追いつけて」
『その、新幹線とかっていうのは、駅と駅が遠いの?』
 恐る恐る尋ねたマオに、
「遠いよ」
 真面目な顔をして京介が頷いた。
『……気をつけなきゃ』
 気を引き締めたらしいマオが、ぐっと手に力をこめた。やめろ、首が絞まる。
 そんな、普段なら呆れ返るようなドタバタ道中だったが、今回ばかりはそれに救われた。暗い思考にならなくていい。
 新幹線の中、隆二の膝に座り、隆二の首筋に手を回し絞める勢いで力を入れ、隆二にちゃんと自分の腰を支えるように口うるさく注意しながらも、窓の外を瞳を輝かせて眺める居候猫に感謝する。一緒に来てくれて、ありがとう。

 

 久方ぶりに降り立った駅前は、当時の面影を残しているような、全然違うような、不思議な印象を与えた。露骨な高い建物等はないが、前よりは少し活気づいている気がする。
 駅前にある花屋で、小さな花束を買った。それを見ていた京介が、
「じゃあ、俺はこの辺りで適当に時間潰してるよ」
『あれ、京介さん、一緒に行かないの?』
「うん、遠慮しとく。終わったら適当に探して」
 気をつけてね、と笑って京介は片手を振った。
「……ありがとう」
 ああ、なんだ。変な野次馬根性とか、おせっかいとかじゃなくて、本当に心配して一緒に来てくれたのか。それに気づき、小さく頭を下げた。
「暇だしね」
 京介はのんびりとそう言うと、どこかに向かって歩き出した。
「……じゃあ、行こうか」
 その背中から目を離し、宣言する。気合いを入れる。
『うん』
 まだ背中にくっついたままだったマオが頷いた。

 記憶を頼りに歩いてく。周りにあるものが変わっても、長い時間が経とうとも、ここでの生活は脳内にしっかり焼き付かれている。道はすぐにわかった。
「そういえば、墓の場所、わかんないな」
 記憶の中に寺はあるが、そこかはわからない。もし仮に一条家の方で弔ったのだとしたら、この辺りではないのかもしれない。
『ありゃ、困ったねー。誰かに聞くとか?』
 なんて言って聞けば良いんだよ。不審過ぎるだろ。
「まあ、とりあえず家の辺りまで行って、そこから考えてもいいか」
 大事なのは茜に謝るということ。この土地で、茜に謝るということだから。どこか二人に関係する場所で謝れればそれでも。
 そんなことを思っていると、土手にさしかかる。あの日、初めて茜に出会った場所。
 いくらか整備されて綺麗になっているそこに、目を細める。
『あー、これが噂の土手?』
「ああ」
 マオの言葉に頷き、
「……あ」
 川縁で佇む人影に、視線が固定される。思わず足が止まり、
『りゅーじ?』
 不思議そうなマオが名前を呼ぶ。
『どーしたの?』
 隆二の背中から離れ、マオが顔を覗き込んでくる。
 だけど、人影から視線がそらせない。
 肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。
『んー?』
 マオも隆二の視線を追うように振り返った。
 あれは。あの人影は。まさか、まさか、まさか。
『……幽霊?』
 マオが怪訝そうに呟く。
 人影がこちらに気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
「あか、ね?」
 小さく小さく呟く。
 振り返った人影は、一瞬少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。そして、
『お帰りなさい、隆二』
 ぱさり、
 手から力が抜け、花束が地面に落ちてばらける。
 気づいたときには駆け出して、駆け寄って、茜の腕をつかんで、抱きしめていた。
「ごめん」
 腕の中にとじこめた、彼女に向かって謝罪する。
「遅くなって、本当に、ごめん。茜、ごめん」
 髪を撫で、腕に力を加えてもなんの感触もしないことに失望する。こんなになるまで待たせてしまった。
『違うでしょ、隆二』
 たしめるように言われる。昔と変わらない声色なのに、耳以外の感覚器官で届く声に泣きそうになる。肉声じゃ、ない。
『ごめん、じゃないでしょう?』
「……待っていてくれて、ありがとう」
 幽霊になってまで、長い間待っていてくれて。
『約束したじゃない』
 茜は少し背伸びして、隆二の耳元で囁いた。
『おかえり』
「ただいま」
 遅くなって、本当に、ごめん。


 その様子を黙ってみていたマオは、くるりと踵を返すと逃げ出した。それは確かに逃げ出したのだ、と自分でわかった。
 彼の想い人は幽霊になってまで彼を待っていた。幽霊になった彼女は、きっとずっと彼の傍にいることが出来る。寿命の問題は解消される。永遠に、一緒にいることが出来る。そして彼女は、自分みたいに厄介な居候じゃない。きっとあの人は、我が侭を言って隆二を困らせることも、人の精気を必要として危険を生じさせることもない。
 隆二のあんな顔、始めてみた。あんな泣きそうで、嬉しそうで、愛おしそうで、とにかくあんな表情は絶対にマオに向けられることはない。あの表情を与えられるのはこの世界でただ一人、彼女だけだ。
『馬鹿隆二』
 足が止まる。ゆっくりと地面に降りるとその場にしゃがみこんだ。
『あたしはもう居られないね』
 あの人がいるならば、自分はあの家には帰れない。自分はもう、居候猫にもなれない。

 

 隆二はゆっくりと体を離す。正面から茜の顔を見る。記憶の中にあるのと同じ笑顔で茜は笑った。
「遅くなってごめん、ありがとう」
 額と額をくっつけて、押し殺すように呟くと、彼女はただ首を横に振った。
『私こそ、ごめんなさい』
 そういいながら彼女は隆二の頭を撫でる。
『先に死んじゃって。隆二が戻ってくるまで、絶対に待ってようって決めたのに。百でも二百でも生きていてやるって』
「茜……」
 なんで彼女はこうなんだろう。恨み言の一つや二つ言ったって、決して罰は当たらないのに。
「一人にして、ごめん」
『先生が一緒にいてくれたから』
「……そっか」
 好々爺という言葉がぴったりの茜の主治医を思い出す。
「先生は、やっぱり……」
『年だったから』
「そう、だよな」
 生きている、はずがない。
「俺、先生にお礼も言わずに飛び出して来たからな」
 なんて不義理なんだろう。なんて自分のことしか考えていなかったんだろう。
「茜にも先生にも、迷惑をかけるだけかけて……」
『気にしてないよ、先生も私も』
 とんとん、と子どもをあやすように背中を叩かれる。
『来てくれて、本当に嬉しい』
「うん」
『ありがとう』
「こちらこそ。本当に、ありがとう」
 まさか本当に待っていてくれるなんて。
 額を離し、代わりにその手をぎゅっと握る。茜もそっと握り返して来た。
『今は、誰かと一緒?』
 微笑みながら尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。
『誰かに言われないと隆二、あなたここに来る気にはならなかったでしょう?』
 くすくすと笑われる。お見通しなのか、全部。
「……ごめん」
『いいの。帰って来てくれたんですもの。きっかけはなんだって』
「そうじゃなくて」
 一緒に過ごしている人がいて。人じゃないけど。
『ああ。そっち? それは、いいのよ。だって、隆二、一人はさみしいでしょう? 私も貴方も、それはよく知っているじゃない』
 だからいいのよ、となだめるように茜は笑う。
『永遠は長いでしょう? 一人でいるには』
「……そうだけど」
 茜を一人にして、一人で待たせて、自分は他の人といたなんて……。
『本当に気にしないで。私ね、』
 茜は少し躊躇うそぶりを見せた後、
『覚悟していたから』
 隆二を見据えて宣言した。
『いつからだろう? 貴方のこと、好きになってからかな。隆二がいつか、私以外の別の人のこと、好きになること。長い長いときをかけて、覚悟を決めてきたから、大丈夫。だって、それは仕方のないことでしょう? 貴方の世界は長いのだから、一人孤独に生きるよりは誰かと居てくれた方がずっといい。ずっと、安心だわ』
「……ありがとう」
 なんだか泣きそうになる。ああ、こんなにも、思われていたのか。
「でも、一つだけ訂正」
『なあに?』
「俺が好きなのは、愛しているのは、今でも茜だけだよ。これからも、ずっと」
 茜は驚いたように大きく目を見開き、頬を赤くした。
『やだ、しばらく会わない間にそんなこと言うようになったのねっ』
 早口で言われる。ああ、そうか、そういえば、好きってちゃんと言ったこと、なかったかもしれない。
『でも隆二、それじゃあ、今一緒に居る人はなんなの?』
「あれは居候猫」
 躊躇わず答える。
「人じゃない、幽霊だよ。それも、研究所仲間」
 出来るだけ軽い調子で言うと、茜は少し痛ましげに眉をひそめた。
「そういう顔するな」
『平気なの?』
「ああ。もう、死神もいないしな」
『そう。……その人、女の人?』
「人じゃない」
 茜以外の人間と一緒に暮らすなんてあり得ない。
「女だけど」
『……可愛い?』
「まあ、可愛いは可愛いな。それに見てて飽きない」
『……そう』
 答えてから茜が頬を少し膨らませたことに気づき、思わず笑う。ああ、可愛い。本当に可愛い。同じ可愛いでも、種類が違う。愛おしい。
「茜の方が可愛い」
 手をそっと引っぱり、顔を近づけて耳元で囁くと、
『!』
 茜は弾かれたように顔をあげ、
『もうっ、本当にっ、どこでそういうの覚えてきたのっ!』
 はしたないっ、と叫ばれる。それがさらにおかしくて笑う。ああ、このやりとりがたまらなく愛おしい。
『笑わないっ』
「はいはい」
『もうっ』
 茜は一度頬を膨らませ、
『隆二』
 真顔に戻って、隆二を見つめた。
『約束、忘れて』
「忘れてって」
『私、たくさん約束させちゃったでしょう。帰って来て、以外にも』
 頷く。全部ちゃんと覚えている。殺してないし、殺されていない。生きている。生きる屍にならないという点は、今はともかくちょっと前まで微妙に守れてなかったが。
『その約束、一旦忘れて。もう十分守ってくれたから。約束にとらわれないで、今度はその人を、今一緒に居る人を守ってあげて』
「でも」
 茜との約束を忘れるなんてこと、したくない。
『色々あるのでしょう? 研究所絡みなら』
 眉をひそめながら言われた言葉に、
「……ああ。そうだな。わかった」
 小さく頷いた。もし今後、研究所がまたマオを求めることがあったら、この前のように誰も殺さずには済まないかもしれない。
『……でも、一つだけ、我が侭、言っても良い?』
「勿論」
 間を置かず首肯する。茜の我が侭なんて今まで聞いたことがあっただろうか? そしてそれを、自分が断ることがあるだろうか。
『あのね』
 茜は少し恥ずかしそうにもじもじしたあと、耳元でそっと告げた。
『名前、教えないで。あなたの、本当の名前。もう二度と、誰にも』
「……名前?」
『そう。――』
 そうして茜は、彼女にだけ教えた彼の本当の名前を呼ぶ。とても、とても久しぶりにその名前を聞いた。
『あのね、私だけ特別って、思いたいの』
 照れたように言われた言葉に、迷わず頷いた。
「約束する」
 今度こそ。それを守る。絶対に。自分が人間として接した、最後の人間は茜だ。今後も、ずっと。だから名前は、誰にも教えない。
『ありがとう』
 茜も頷く。
『……私、そろそろいくね』
 そして呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。もう? もういってしまうのか。そんな思いが胸を過る。けれども、死した人間がいつまでもこの世に留まることは、本来あってはならないことだ。彼女は長い間、ここに留まっていた。約束を果たせた今、はやくいかせてあげないと。
「……わかった」
『ああ、もう、隆二』
 茜が困ったような顔をして、両手で隆二の頬を包む。
『そんな泣きそうな顔をしないで。私、会えて嬉しかったから。本当に本当に、嬉しかったから』
「うん。待っててくれて、ありがとう」
『帰って来てくれてありがとう。ねぇ、隆二。私、貴方が居てくれて本当によかった。一条葵の予備としてではなく、一条茜として楽しいときを過ごせたのは、貴方のおかげよ。本当に感謝している』
「俺だって」
 俺だって感謝している。茜に会わなければ、あの死神が現れた段階で消えることを選択していたかもしれない。茜と過ごしたあの日々は、本当に楽しくてかけがえのないものだった。永遠に。これからも。大事な思い出だ。
「感謝している」
『うん。ありがとう。大好き』
 両手が頬から外され、背中にまわされる。隆二もそっと、その背中を支えた。
『楽しかった。本当に楽しかった。一緒に居られてよかった。大好き』
 彼女の声が少し震えている。腕に力を入れる。
「俺も」
 自分の声も震えていた。ああ、これで。今度こそ。本当に。最後だ。
「……茜」
『なあに?』
「もう一度呼んで」
 それだけで伝わった。茜は隆二の腕の中、顔をあげ、
『――、愛している』
 そっと告げた。
「……うん」
『泣かないで、――』
 そう言った彼女の目だって、潤んでいる。
『本当に、もう、いくね。このままずっと、ここにいたくなってしまう前に』
「うん。……茜」
 片手を離し、代わりに頬に添える。そっと身を屈めると、彼女も目を閉じた。唇が触れ合う。感触はないけれども、脳が覚えている。
 目をあけると、茜が恥ずかしそうに笑った。
『本当にありがとう。大好き』
 もう一度そう言うと、彼女は隆二から手を離す。
「こちらこそ。ありがとう。本当にありがとう。愛してる、ずっと」
 隆二も素直に手を離した。
 茜は一歩、隆二から距離をとると、綺麗に、柔らかく、微笑んだ。今まで見た中で、一番綺麗な顔だ。
『さよなら、――』
「さよなら、茜」
 そうして、一条茜の魂はこの世から姿を消した。


 茜を見送り、こっそりと目元を拭う。
 やっと、約束を果たせた。そのことに安堵する。
「マオ、悪い、待たせた」
 そういって出来る限り微笑んで見せながら振り返る。
「……マオ?」
 そこに居候猫の姿はなかった。


第五幕 猫叱るより猫を囲え

 京介は、駅の近くにあった公園で時間をつぶすことにした。ベンチに座り、一人のんびりとコンビニで買った団子を食べる。これがなかなかに美味しい。
 ちらほらと、乳幼児を連れた母親が公園にやってくる。それを目を細めながら眺める。
『京介さんっ』
 頭上からかけられた声に、少しのデジャヴを覚えながら京介は上を向いた。
「マオちゃんどうし……、どうしたのっ?」
 軽くかけた声が、思わず大きくなる。視線の先に居たのは、くしゃくしゃに泣いたマオだった。
 急に大声をだした京介に視線があつまる。さすがにそれが気になって、慌てて声を小さくし、
「どうしたの?」
 手招きすると、マオは隣に座った。ぼろぼろに泣いた彼女の頭を撫でる。
「隆二は?」
『茜さんのとこ』
「ああ、お墓見つかったんだ」
『違うっ』
 しゃくりあげながらマオが叫ぶ。
『違う違う違うっ、待ってたっ。あの人、本当に待ってたっ』
「待ってた? 茜ちゃんが?」
『幽霊になってまで、待ってたっ』
「……そっか」
 二人の絆は、まだ切れていなかったのか。茜はそこまで隆二のことを思っていたのか。あの二人は人間と化け物の壁を越えたのだろうか。それなら、自分は。
『あたしっ、居られなくなっちゃうっ』
「……え?」
 マオの叫びに、京介は思考を中断させる。
『あの人が幽霊なら、ずっと隆二と一緒に居られる。そしたら、あたしっ、あの家に居られない。もう居場所がないっ』
 そうしてマオは膝をかかえ、そこに顔を押し付けた。
「マオちゃん……。いくら隆二でも、マオちゃんを見捨てたりしないよ」
 いや、違う。
「隆二だからこそ、マオちゃんのこと追い出したりしないよ」
 同族の中で、一番情が深いのが彼なのだから。
『だけどっ』
 マオが顔をあげ、吠える。
『隆二が追い出さなくても、あたしっ、あんな顔する隆二と、あの人のところになんか居られないっ』
「……そっか」
 それもそうかもしれない。
『もうやだ。謝りに行こうなんて言わなきゃよかった』
「……マオちゃん」
『……嘘だよ。謝りに来たのは、よかったと思ってるよぉ』
 マオは、抱えた膝に顎をのせた。
『隆二、悲しそうだったから。辛そうだったから。自分のこと責めて。だから、謝りに行こうって言ったのは、後悔してないよ。だって隆二のこと、心配だったから。だけど。こうなるなんて、思ってなかったから』
「優しいね」
 マオの頭をそっと撫でる。
「隆二のこと、考えてここに来たんだもんね」
『優しくないよ。知ってるもん。本当に優しい人は、こういう時に、こうやって喚かないもん。本当に隆二のこと考えてたら、大事な人と一緒に居られるようになってよかったね、って言うんだよ。知ってるもん』
 だけどっ、と続けた声が、また一段と涙声になる。
『だけどっ、あたし、よかったねなんて言えない。あたしは、あたしが、隆二と一緒に居たい……』
 そのまま顔を膝に埋める。
『……こんな風に我が侭だから、駄目なんだよね、あたし。いつも隆二を困らせて、迷惑かけて。だから一緒に居られなくなっちゃう』
 くぐもった声。
 京介はしばらくそんなマオを黙って見ていたが、
「マオちゃん」
 その腕をそっと引く。マオの体が少し京介の方に傾く。マオが顔をあげる。
『……京介さん?』
 涙に濡れたその緑色の瞳を正面から捉えて、京介はいつになく真面目な顔で問いかけた。
「なら、俺と一緒に居る?」

 

 居候猫がいなくなった。
 最初は気を使ってどこか少し離れたところで待っているのかと思った。しかし土手周辺を探しても見つからず、隆二は慌てて来た道を戻った。こんな不慣れな土地で、一体どこに行ったというのか。
 最初はただの早足だったのが、気づいたら駆け出していた。不安が胸をかすめる。迷子になっていやしないだろうか。なにかあったんじゃないだろうか。
 駅近くまで戻ってくる。公園の横を抜けようとした時、公園を覆うように生えた木々の間から、ベンチに座る見知った後ろ姿を発見した。
「京介!」
 名前を呼ぶと、京介は不機嫌そうな顔で振り返る。
「マオ、知らないか?」
「……いるよ、ここに」
 不機嫌そうに吐き捨てられた。
「そっか……」
 それに安堵する。とりあえずいるならば、いい。
 京介は何故か眉を吊り上げ、
「はやくこっち来い」
 冷たく言うと、隆二にまた背を向けた。
「何怒ってるんだ?」
 小さくぼやきながらも、入り口にまわりベンチに駆け寄る。
「マオ!」
 ベンチの上、体を丸めるようにして横たわっているマオの姿に、少し焦る。なにか、あったのか。
「どうした?」
「大丈夫、眠っているだけだよ」
 近づくと、確かに眠っているようだった。マオの頭を撫でる。
「……泣いたのか?」
 頬に残る涙の後を見て、そう問いかけると、
「そんなに心配ならもっと大切にしてあげたらどうなんだ?」
 冷たく吐き捨てるように言われた。
「……お前、さっきから何怒ってるんだ?」
「そんなことも言われなきゃわかんないのかよ」
 睨みつけられる。
「茜ちゃん、会ったんだってな」
「ああ」
「お前のことだ、久しぶりに茜ちゃんに会って、会えて、マオちゃんのことなんかころっと忘れてただろ」
「……否定は、しない」
 だけど、お前だって俺の立場だったらそうしただろが。言い訳は、なんとか飲み込んだ。
「考えなかったわけ? 茜ちゃんが待ってるのみて、マオちゃんがどう思うかって」
 まあ無理だよな、とバカにするように笑われる。なんだっていうんだ、さっきから。
「居られなくなる」
「は?」
「茜ちゃんが幽霊になっているなら、隆二とずっと一緒にいられる。そうしたら、自分はもう隆二の家に居られなくなる。そう言って泣いてたよ、マオちゃん」
「……そんなこと、あるわけないだろうが」
 そんなバカなことで悩んでいたのか、この居候猫は。今更追い出すわけ、ないだろうが。
 もう一度、バカな居候猫の頭を撫でた。
「大体、幽霊だからって茜とずっと一緒にいられるわけないだろ」
 成仏した方がいいに決まっているのだから。
「マオちゃんにそんなこと、わかるわけないだろ」
「……そうかもしれないが」
「マオちゃん、泣いてたけど、こうも言っていた。それでも、謝りに行こうって言ったことは後悔してないって。隆二が辛そうだったから、ここに来たことは後悔してないって」
 何か言おうと口を開き、結局何も言えなかった。眠るマオを見る。
 そんなこと、思っていてくれたのか。でも、考えてみればいつもそうだったかもしれない。自分勝手で、自由気ままで、気分屋で。振り回されているけれども、彼女の思考はいつも神山隆二に向いていた。茜の話をするときだって、辛いなら話さなくていいと、言ってくれた。
「……ありがとう」
 小さく呟き、その頭をもう一度撫でた。
 未だに不機嫌そうな顔で京介が言葉を続ける。
「マオちゃんがあんまり泣くから、俺思わず言ったよね。なら俺と一緒に居ればいいって」
「お前なっ」
 簡単に言う京介に、かっとなった。
「なんで怒るんだよ」
「無責任にそういうこと言うなよっ」
「どっちが無責任だよ、俺は本気で言った!」
「茜からは手を引けってあんなに言ってたお前がかっ? ずっと、永遠に、マオの面倒見るつもりがあるっていうのかよっ」
「茜ちゃんとマオちゃんはまた別だろうがっ」
「何がっ」
「茜ちゃんは人間で、マオちゃんは幽霊だろ。前提条件が違うっ。俺は、マオちゃんならずっと一緒にいてもいいと思ってる」
「ふざけんな」
「ふざけてるのはお前の方だっ」
 一際大きな声で叫ばれ、指をつきつけられる。周りの視線が集まるが、もうお互い気にしていない。いられない。
「盗られたら困るなら、最初から盗られないようにしろよっ!」
「盗る盗らないってなんだよっ。そういう話してないだろっ」
「してるだろ。大体、マオちゃんに断られたつーの!」
 吐き捨てるように怒鳴られた。それに次の言葉を出そうとしていた口が止まる。京介はゆっくり息を吐き、落ち着きをいくらか取り戻してから、
「隆二じゃなきゃ、意味がないってさ」
 俺ってば超惨め、と続ける。
 隆二は再びマオに目をやる。今の騒ぎでも起きる気配はない。よほど、疲れているのか。
「隆二」
 名前を呼ばれて、京介に視線を移す。すっかり落ち着いた彼が、珍しく真剣な顔で言った。
「マオちゃんを茜ちゃんの代わりにするのはやめろ」
「代わりになんてしていない」
 心外だな、と続ける。心の底から。こいつがなにを考えているかわからない。マオが茜の代わり? バカを言うな。
「マオが茜の代わりになんかなれるわけないだろ」
「……そっちかよ」
 うんざりしたように京介がため息をつく。
「ナチュラルにひどいんだよ、お前は」
「大体なんで代わりなんていう発想がでてくるんだ? マオは幽霊なんだから茜とは違うだろ」
「だからそっちかよ本当お前はだめだなこの唐変木」
 先ほどとは違い声を荒げることはないが、妙に早口で苛立っているのが感じられる。
「何怒ってるんだよ。大体、マオが幽霊で茜とは違うって言ったのはそっちが先だろ」
「確かに言ったけどさ、そうじゃなくて。なんで言わないとわかんないんだよ。茜ちゃんもマオちゃんもこんなののどこがいいんだよ」
 あからさまなため息をついて、京介は両手で顔を覆った。そのままの姿でしばらく固まる。どうしたものかと隆二も黙ってそれを見ていた。
「いや、もういいや」
 小さく呟いて、京介が顔をあげる。
「うん、とにかく俺が言いたいのは、もうちょっとマオちゃんのこと考えてあげろよ、ってこと。それぐらい、お前にだって出来るだろ」
「なんかバカにしてないか」
「なんでバカにされないと思うんだ」
 本気でこいつ大丈夫か、とでも言いたげな顔で見られる。
「まあ、いいや。今日のところは」
 言いながら京介は立ち上がり、
「とにかく! 俺は先に帰るからな。ちゃんと仲直りしてから帰って来るんだぞ」
 そうして後ろを向く京介を、
「ちょっと待て」
 隆二は引き止めた。なにもいわず京介が振り返る。顔になんだよお前、と書いてある。
「金がない、貸して」
 その、なんだよお前という顔に右手を突きつけた。
「花買ったからあと千円しかない」
 それでは帰れないことぐらい、さすがの隆二でもわかる。
「はぁ? なんで遠出するってわかってるのにそれぐらいしかもってないんだよお前はッ! 貸してって言うのは返すあてがあるときだけにしろっ!」
「じゃあ頂戴」
「子供かッ!」
 言いながらも京介は、財布からお札を抜き出し、隆二に手渡した。
「新幹線の切符買えるか? 無理だよな。わかんなかったら駅員に聞け。それならできるよな?」
 じゃあな、と京介は振り返り、
「京介」
「まだなんかあるのかよ」
 うんざりと振り向く。
「鍵。もってないだろ」
 そこにポケットから出した鍵を投げた。
「家、入れないだろ」
 当たり前の事実を指摘しながら告げると、
「お前がいつまでたっても合鍵作らないからだろ!」
 苛立ったように一度足を踏み鳴らし、京介が怒鳴る。
「帰りが遅くなっても、起きて待ってるなんてしないからな! 外に居ろ! 寧ろ野たれ死ね! この唐変木っ!」
 とんでもない罵倒だった。あいつ何をあんなにかりかり怒ってるんだ? カルシウム足りないんじゃないか?
 ずんずんとやけに早足で遠ざかって行く背中を見ながら思う。まあ、心配してくれているんだろうな、と好意的に解釈し、隆二はベンチに腰を下ろした。
 丸まっているマオの頭を撫で、少し考えてからそっと自分の膝の上にその頭を載せた。まあ、これぐらいのことは、しても罰が当たらないだろう。
 真っ昼間から男二人が怒鳴り合っていたからか、公園の人影はめっきり減っている。遊んでいた子どもには悪いことをしたな、とちょっとだけ反省した。

 

「なら、俺と一緒に居る?」
 真面目な顔で京介に言われて、マオは面食らった。
『へ?』
「隆二と一緒に居られないなら。俺と一緒に居る?」
 言われた言葉をゆっくりと吟味する。
 確かに京介はマオのことが見えて、マオに触れる。隆二と同じだ。それに、隆二より優しいし、隆二と違って外で話しかけても怒らないし、疑心暗鬼ミチコのことも詳しいから話していて楽しい。
 だけど、
『……でも、隆二じゃなきゃ嫌だ』
 いつも冷たくて話しかけてもあんまり構ってくれないし、ましてや外で話しかけると無視するし、すぐにバカにしてくるけど、
『隆二の方がいい』
 違う。
『隆二じゃなきゃ、意味がない』
「……だよね」
 京介は困ったように笑い、マオの頭を軽く撫でた。
「そうかなとは思ったけど」
『ごめんなさい』
 せっかく、優しくしてくれたのに。
「ううん。マオちゃんが隆二のこと好きなのは、知ってるから」
『うん』
 そうだ。マオにとって隆二は特別なのだ。特別に大切な人で、ずっと一緒に居たい。隆二じゃなきゃ駄目だから、一緒に居られないかもしれないことが、こんなにも悲しい。
『……帰りたいな』
 居候猫でいいから、またあの家に置いていて欲しい。
 目を閉じる。感情がぐるぐると回っていて気持ち悪い。さっきみたいな顔をマオに向けてくれなくてもいい。構ってくれなくてもいい。本当はもうちょっと構って欲しいけど。でも、構ってくれなくてもいい。困らせないように頑張る。だから、また、一緒に暮らしたい。
 ぐるぐる回った感情と一緒に、気づいたら眠ってしまっていたらしい。目を開けると、空が見えた。それから、
「おはよ」
 つまらなさそうに呟く隆二の顔。
 よく見たら、膝枕されていた。
『ふぇっ』
 奇声をあげて飛び起きた。


 勢い良く飛び起き、距離をとる居候猫を見て、少し胸が痛んだ。そんな怯えんでも。
『りゅ、りゅ、隆二?』
 声が裏返っている。
『な、なんで。あれ、京介さんは?』
 事態が理解できないとでも言いたげに、きょろきょろ視線をさまよわす。
「帰った」
『え、あ、そうなの?』
「とりあえず、落ち着け」
 言って隣を指さすと、マオは恐る恐る隣に腰掛けた。いつもより、隆二との距離があいている。
『隆二。……あの人は?』
「いったよ」
 できるだけ何事もないように答える。
『え?』
「成仏ってやつ」
『え、だって、一緒に居無くていいの?』
「幽霊は成仏した方が良いだろう」
 言って、マオを見て少しだけ笑う。
「お前は違うけど。マオは、俺と同じだろ?」
『……そう、同じ穴の狢なの』
 少しの沈黙のあと、マオがそう呟いた。
「心配しなくても、マオのこと放り出したりしないよ」
 軽く手の甲で頭を叩くと、
『なっ、なんか、京介さんから、聞いたのっ!』
 真っ赤になって慌て出した。ああ、秘密にしておいて欲しいことだったのか。
「いや、別に。心配してんのかなーと思って」
『してないしっ! 別に平気だし!』
 体の横で握りこぶしを作って叫ぶ。叫んでから、
『……ちょっと寂しかっただけだし』
 小声で付け足した。それに少し笑みがこぼれる。
『なんで笑うのっ』
 見咎められた。
「別に」
 言いながら頭を撫でる。マオは小さくなんか言っていたものの、手をふり払ったりしなかった。
「マオ」
『ん?』
「今日は、ついて来てくれてありがとな」
『……ん』
 マオが小さく頷く。
「おかげですっきりした」
『……それはよかった』
 マオの返答は、まだちょっとひねくれたような言い方だったが、顔は少し笑っていたからきっともう平気だろう。拗ねたフリをしているけれども、隠し事の出来ない彼女のことだ。少し笑っているその顔が、今の心境の正解だ。
「……なあ、マオ、一つだけ、聞いてもいいか?」
 撫でていた手を離して尋ねる。
『な、なに。あたし別に泣きわめいたりしてないからねっ』
 聞いてないのにあっさり自白する。ほら、嘘がつけない。
「泣きわめいた?」
 ちょっとからかってみると、
『例えばの話ですっ!』
 怒鳴られた。
 茜に言った、可愛いし見ていて飽きないというのは本当だ。茜も対外感情が顔に出るタイプだったが、その比ではない。感情が顔に駄々漏れで、隆二には予測不可能なことばかりする。マオが来てから、毎日が本当に刺激的で楽しい。
 でも今は、からかって遊んでいる場合じゃない。
「まあ、マオが泣きわめいたかどうかはともかく」
『泣いてないからっ!』
「マオは、俺の過去の名前、気にならないのか?」
 いつか、京介が来た日にした会話を思い出しながら問いかける。
 泣いてないっと怒鳴った顔のまま、次の抗議のため身構えていたマオは、投げかけられた質問が理解出来なかったのか、きょとんっとした顔をした。
『へ?』
「だから、名前。京介が来た時に話しただろう。神山隆二になったきっかけ」
 マオは少し考えるような沈黙の後、
『ならないよぉ?』
 当然のような顔をして笑った。
『だって隆二は隆二だもん。あたしにとって隆二は出会った時から隆二で、今でも隆二だもん』
 それからちょっと眉をひそめて、
『……隆二にとっても、あたしはマオだよね?』
 伺うように尋ねてくる。その意味をしばらく考えて、
「ああ。マオはマオだよ」
 一つ頷いた。G016なんていう番号は知らない。マオはマオだ。きっと、そういうことだろう。
 マオは満足そうに一つ頷き、
『ん! だから隆二も隆二!』
 そう、断言する。
「……うん、ありがとう」
 酷い質問だと、思わなくもない。ここに京介がいたら、罵倒されたことだろう。だけど、これからもマオといるためには必要な質問だと思った。マオと一緒にいても、茜との約束を破らないと、今度こそ破らないという確信が欲しかった。
『あたしは隆二と居られればそれでいいの』
 機嫌を直したのか、自分の中でなにか折り合いをつけたのか、マオはいつもより少し広くとっていた距離をつめ、隆二に抱きついた。
 それを素直に受け止め、隆二はマオに笑いかけた。
「帰ろう、うちに」
 茜への罪の意識が完全になくなったとは言えない。でも軽くなった今なら、以前よりも素直に帰ろうと言える。今なら、マオとちゃんと向き合える。マオと二人の暮らしを、ちゃんと考えていける。
「そうしてまた、あの赤いソファーに座って、二人でだらだらとテレビでも見よう」
 あの赤いソファーは、やっぱり一人には大き過ぎるから。
 マオはぱぁっと満面の笑みを浮かべると、
『うんっ』
 大きく頷いた。


第一幕 居候猫と新たなる居候の現状

 てれっててーと軽快なメロディが部屋に流れる。テレビ画面に流れるスタッフロール。
『はー、今日も君子かっこよかったぁ』
 興奮のあまり浮かし気味になっていた腰をすとん、っとおろしながらマオが呟いた。
 ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、隆二はそれを見ていた。
 三十分間のマオのお楽しみタイム、七転びヤオ君子が終わり、
『高嶋くんが、君子の正体に気づきそうになったときは、ドキドキしたわ』
「正体バレるとガチョウになっちゃうもんね」
『そうそう。本当、よかったー。っていうか、高嶋くんのことで君子を脅すなんて本当サイテー! 人の一番痛いところ、弱みに付け込むなんて!』
「悪いよねー」
『でも、高嶋くんと君子の関係はいつ進むのかなぁ』
「んーどうだろうね」
『君子は地球を守ることで忙しいから、恋愛どころじゃないんでしょうね。……でも、どうして君子がいる地域しか襲われないのかな』
「不思議だねー」
『君子がいない場所を狙えば一発なのに。なんていうか、あかさかよね』
「あさはかだね」
『んー、それにしても、君子ってあと何話分ぐらいあるだろう。富子短かったし』
「富子は半分の二十五話しかないからね。でも君子はその分長いから、七十話分ぐらいあるんじゃない?」
『じゃあ、まだまだあるのね!』
「基本、月曜から木曜の週四での再放送だからあと……、ごめん、計算できないけど、まだまだ終わらないよ」
『よかった! 君子まで終わったら寂しいもの』
 マオと京介が今日の君子の感想を言い合う。主にマオの発言に、京介が微笑みながら相槌をうつ。隆二は黙ってそれを見ていた。会話の節々につっこみたい部分が多々あったが、さすがに野暮なのときりがないので自重する。
「っと、こんな時間か。夕飯の買い出し行ってくるねー」
『今日のご飯はー?』
 時計を見て立ち上がった京介に、自分は食べないくせにマオが問う。
「今日は、サクサク衣のジャガイモ揚げ、トマトを添えて、だよ」
 大げさに言っているが、それ、コロッケとかだろ。そう思いながら、隆二は出て行く京介を見送る。
『隆二?』
 テレビも終わり、京介もいなくなり、暇になったマオが隆二の方へ向かってくる。そうして、隆二の顔を覗き込みながら、
『難しい顔してどうしたの?』
 こーんな顔だよ、とぐぐっと眉間に皺を寄せた。
『あ、もしかして、ヤマトいやなの?』
 ひらめいた、とでも言いたげな顔をするマオに、
「トマトな」
 冷静につっこんだ。それ、食い物じゃないだろ。
 京介が神山家に居着いて、数ヶ月が経過していた。七転八倒富子が終わり、七転びヤオ君子がはじまってもまだ、京介はこの家に居た。再放送のあと、マオと楽しそうに今日の君子談義をするのも、いつものことになっていた。別にそれ事態が不満なわけではない。ただ、
「あいつ、何しに来たんだか……」
 気味が悪いのだ。自分で全部お金を払いながら、家政夫のようなことをする。一体、京介になんのメリットがあるというのだ。
『隆二に会いにきたんでしょ?』
「会いに来てこんだけ長い間、ここに居る意味ってあるか? そもそも、なんで会いに来たのかもよくわからんし」
『訊けばいいじゃん』
「訊いてあいつがちゃんと答えると思うか?」
『ううん』
 さすがのマオもそこまで楽天的ではなかったようだ。首を横に振る。
『んー』
 マオはしばらく悩んでから、ぽんっと両手を打ち合わせ、
『あたし、探って来てあげる! スパイ大作戦! テレビで見た!』
 嬉しそうに言うと、隆二の返事もまたずに、すぃっと壁を抜けて行った。
「……大丈夫だろうな?」
 マオが消えた壁を見ながら、隆二は小さく呟いた。
 心配しか残らない。

 

『きょーすけさーん』
 背中に声をかけられた声に、京介は振り返ると小さく笑った。
「マオちゃん、どうしたの」
『お買い物、一緒にいい?』
「いいよ」
 マオは京介の隣をふよふよと浮きながら、その横顔をちらちらと見る。その視線に、
「どうかしたの?」
 問いかけると、マオは慌てたように視線を逸らし、
『べ、別に!』
 と、あからさまになにかありそうな返答をした。
 しばらくその状態が続いていたが、マオは、
『あのね!』
 意を決したように尋ねた。
『京介さん、何しに隆二の家来たの?』
 放たれたのは、まぎれもないストレートだった。
 京介は少しきょとんとマオを見つめてから小さく唇の端をあげる。
「隆二に聞いて来いって言われたの?」
『ええっ、ち、違うよっ』
 マオは慌てて両手をばたばたさせながら、
『あたし! あたしが気になったからっ』
 早口で告げる。
 嘘のつけない彼女の挙動に、京介は一度笑うと、
「俺はね」
 表情を引き締めて、告げた。
「約束を破るために来たんだ」
『ん? よくわかんないけど、約束は守らなくちゃだめよ?』
「まあそうだね」
 真顔で諭された言葉に苦笑する。そんなことは、わかっている。
『それで、約束ってなぁに?』
「それはいくらマオちゃんにでも教えられないな」
『えー』
 マオが頬を膨らませる。
「そうだなぁ、それだけで帰すのも悪いかな。マオちゃん、隆二に怒られちゃうもんね」
『そうだよ! この役立たずって隆二に』
 そこまで言ってマオは、はっと何かに気づいたかのように口を両手で押さえ、
『隆二は関係ないんだけどねっ!』
 強い口調で言い切った。
「うん、そうだね。ごめんごめん」
 あんまりいじめるのも可哀想になってそうフォローすると、マオが途端に安心したような顔をした。
『そうそう、隆二は関係ないの』
「隆二が関係ないのはいいんだけど」
 少しぐらいなら、何かを教えてあげてもいいだろう。隆二が京介の行動を訝しんでいるのは重々承知しているのだから、ヒントぐらいは出してあげよう。
「そうだな、これは言っておこうかな。俺はね、隆二が心配なわけ」
『心配?』
「そう、あとの二人のことは心配してないんだ」
『あとの二人?』
「仲間の。あの二人は不死者であることを受け入れているから。英輔は死なないってことは甘いもの食べ放題じゃん! とか言ってたし、颯太はなんか宇宙の研究を長いスパンで出来るとか張り切ってたし」
 マオは、甘いもの、宇宙、と言われた言葉を覚えるように小さな声で唱えている。だから、少し油断していた。
「……俺と、隆二だけなんだよ、受け入れられていないの」
 そんな言葉が思わず溢れ落ちた。
『俺と、隆二だけ……。ん?』
 京介の油断を嘲笑うかのように、マオはその言葉を聞き取り、なおかつその意味もしっかり理解した。
『……京介さんも受け入れられないの?』
 言いながら顔を覗き込むようなマオを、
「それよりマオちゃん、隆二ひとりだと寂しいから帰った方がいいんじゃないかな」
 笑いながら言うことで牽制した。
『え? 別に、隆二が寂しいなんて可愛いこと思うわけ……』
 言いかけたところで、はたと気づいたように、
『寂しいね、寂しいよね! 寂しいのはよくないよね! あたし、帰るね!』
 うんうんと何度も頷く。その顔には、はやく伝えなくちゃ、と書いてある。
『京介さん、お買い物付き合えなくてごめんね!』
「ううん、隆二によろしくね」
『うん、ちゃんと伝える。……じゃなくて、隆二は関係ないけどね!』
 などと言いながら急いで戻って行く背中を見送って、小さく微笑む。
 ああ、彼女は、なんて素直なんだろう。
 幽霊であるマオは他人には見えない。一人で空気と会話しているような京介に、周囲が微妙な視線を向けてくる。
 そんなもの、今更気にしない。今更そんなもの、どうでもいい。
「約束を破りに来たんだ」
 自分の言葉を反芻する。
 口にしてみれば、改めて胸に刺さった。ああ、そうだ、約束を破りに来たんだ。
「……ごめん」
 ズボンの後ろのポケットに手を伸ばし、そこに収まっているものを確認すると、小さく呟いた。

 

「約束を破るねぇ」
 マオから報告を聞いた隆二は小さく呟いた。約束を、破る?
『一応ね、約束は破っちゃだめよって教えてあげたけど』
 要らん世話だろ、それ。
『隆二、京介さんと何か約束したの?』
「いいや。俺、基本的に約束とかしないから。めんどうだから」
 契約ならたまにエミリ達と交わすが。それ以外に約束だなんて、せいぜい茜とした約束ぐらいではないだろうか。
 そんなことを思いながらマオを見ると、
「……待て、お前なにそんなににやけてる?」
 だらしなく相好を崩したマオがそこには居た。やや気味が悪い。
『え、だって、隆二あたしとは約束してくれたじゃない? それって、特別ってことでしょう?』
 当たり前のように、弾んだ声でマオが答える。ふふ、っと嬉しそうに笑う。
 ああそうか、一緒に学んでいこうというあれは、考えてみれば約束だった。
「……そうだな」
 隆二は小さく微笑むと頷いた。
 考えてみないとわかんないのかよ、とつっこむような人間はここには居ない。
『あ、あとね』
 思い出した、とマオは両手を叩き、
『京介さんは隆二が心配なんだって』
「は?」
 心配?
『えっとね、京介さんと隆二だけが、不死者になったことを受け入れられていないから、だっけな』
「いや、別に今更、受け入れられていないわけじゃ……っていうか、あいつも?」
『うん、京介さんも、って言ってた。あ! なんかはぐらかされた! 聞いたのに』
 膨れるマオ。
 それにしても、ここまで聞き出して来るとは思わなかった。適当に京介にあしらわれて終わりだろうと思っていた。
 ということは、京介はこのことを隆二に伝えてもいいと思っているということか。マオに、相手が話す気がないのに聞き出してくる能力があるとも思えないし。
「それで?」
『ん、えっとね。えーすけさん? は、死なないってことば甘いもの食べ放題! って言ってて、そーたさん? は宇宙の研究が出来るとか言ってたって』
「……何をしているんだ、あの二人は」
 うんざりして溜息。ああ、でも目に浮かぶ。
 甘いものを愛し過ぎている甘党の英輔は、甘い物さえあれば満足なのだろう。それはそれで、幸せなことだと思う。
 最年長で一番賢い颯太が、この永遠の時間を使って何かの研究をするということも、考えられないこともない。
 それに比べて自分はどうだ。毎日毎日だらだらとテレビをつけて、本を読んで、コーヒーを飲んで、居候猫をからかって遊んで。非生産的な生き方だ。
 確かに、その二人に比べたら、心配されても仕方がない。
「……なるほどねぇ」
 小さく呟く。
 なんとなく、あの二人のあとに自分のところに来た理由は納得できた。心配の種は最後にじっくりと、ということだろう。
 特に、仲間内で唯一、茜に会ったことがあるのが京介だ。茜が亡くなってから、京介がそのことを気にかけてくれていたのはわかっている。この前の墓参りの一件だって、あいつの差し金の部分が大きい。さぞかし心配かけていたことだろう。
 でも、茜の一件が解決してもなお、京介がここに居座る理由はなんだ?
「わけわからんな」
 結局、謎は何も解決していない。そのとこに溜息をつく。溜息をつきながらも、
「まあでも、マオ、ありがとな」
 思ったよりも上手く諜報の役割をしてきた居候猫の頭を撫でた。
 マオは心底嬉しそうに微笑んだ。


間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる

「私と恋仲になって、そして心中して」
 初対面で、彼女は、こともあろうかそう言った。
 正直、バカなんだと思った。
 ただ、その時の彼は、疲れ切っていた。住む場所も、仕事も、人間として暮らしていく肩書きも、全て失い、疲れ切っていた。
 だから,とりあえず彼女の話に乗ることにした。彼女の家で、衣食住の提供を受ける代わりに、家政夫のようなことをして過ごした。
 深入りするつもりはなかった。
 深入りしてはいけないと思っていた。
 それで失敗した友人を見ていたから。
 そもそも、今までも、まったく人とかかわらずにきたわけではなかった。それなりに人間社会に溶け込むようにして過ごして来た。恋人的なポジションで、付き合ってきた女性だっていなかったわけではない。
 ただ、本気になるのはどこかでおさえていただけで。
 そして、大体の場合は相手の方から別れを切り出して来た。本音が見えないとか、何か隠しているんじゃないのとか、そんな理由で。
 言えるわけがない。化け物だなんて。そんなことわかっていたから、彼だって割り切ってそこで別れてきた。最初から、割り切った付き合いだった。少なくとも彼にとっては。

 でも、今回は違った。殆ど自分の身の上は話していないのに、彼女はそのことを追及してこなかった。その場所に居る彼だけをありのままに受け入れた。
 子どもの戯れのように、
「キョースケは優しいね」
 と微笑み、
「だから大好き」
 とはしゃいだ声をあげる。もっとも、そのすぐあとに、
「だから心中して」
 なんて続けていたけれども。
 最初は、死にたがる彼女が放っておけないだけだった。だからずっと見ていた。
 そして、その過程で知ってしまった。ありのままの自分を肯定されることが、過去を追及されないことが、心地よいことなのを。
 深入りするつもりはなかった。
 深入りしてはいけないと思っていた。
 それで失敗した友人を見ていたから。
 なのに、何故だろうか。
 気づいた時には抜けられなくなっていた。深みにはまっていた。
 人間を愛してしまった。
 人間になりたい、と思ってしまった。
 そんなこと、できるわけないのに。ずっと一緒にいるなんてそんなこと、できるわけないのに。

 このまま一緒に居てはお互い駄目になる。そう思って、その場所から去ることを決意した。
 彼があの家から出る時、彼女は言った。
「絶対に帰って来てね」
 帰るつもりはなかった。帰れなかった。そんなこと、できるわけなかった。
 だから、旧友を尋ねることにした。彼ならどうにかしてくれるだろう。
 リュウジ、の名前を持つ彼ならば。
 同じ約束を受けた彼ならば。



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