目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
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第三幕 彼女が拾った猫との生活

「くそったれ」
 隆二が呟いた言葉は、茜色の空へと吸い込まれた。
「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」
 車に轢かれそうな子どもを見たら、咄嗟に体が動いていた。代わりに自分が盛大に車に轢かれた。さらには子どもに逃げられた。そりゃあ、こんなけがで話しかけたら、怖いだろうけれども。それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。
「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。二、三日もすれば治りそうだが、この状況での二、三日は長い。
「やってらんねぇ」
 ため息をついた。
 これからどうしよう。頭の片隅で悩みながらも、色々面倒になって、今はもう寝てしまおうかと瞳を閉じかけたところ、
「大丈夫ですか?」
 頭上でかけられた声に再び目を開ける。
 そこには心配そうな顔をした少女が一人。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
 腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。
「そ、そうですよね。……でもよかった、話せるならば見た目よりもひどくないみたいですね」
 多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。
 結局、見つかってしまった。
 これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。最後だけは絶対に、嫌だなぁ。
 隆二が自分の身の上を悲観的に、だけれどもどこかのんびりと思っている間に、彼女は隆二の傍にしゃがみこんだ。そのまま隆二に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで隆二の額を抑える。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
 いきなりのことで驚いた隆二に、彼女は
「え、一応止血を……」
 逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。
「別に、そんなのいいって……」
 振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。
「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
「……あー」
 薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。
「……この近所に」
 彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
 そういって彼女は立ち上がる。
「おい、あんた」
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
「……そこじゃない。名前」
「え?」
「あんた、名前は」
 彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。
「茜。一条茜です」
 そういって、先ほどから隆二が眺めている空の色を名前に持った彼女は、微笑んだ。
 それが、一条茜との出会いだった。

 

「茜」
 土手から移された小さな診療所。そこで、初老の医師が渋い顔をして呟いた。
「拾うのは頼むから猫だけにしておいてくれ」
「俺は猫以下かよ」
 診療台の上でぐるぐると巻かれた包帯を気にしながら、隆二はつまらなさそうに呟いた。
「そんなこと言われても……。放っておけないじゃないですか」
「いや、確かに人助けは英断で尊いことだが、しかし」
「人助け、ね」
 思わず鼻で笑いながらそう言うと、
「何が面白いんだ、お前は」
 先生とやらに睨まれた。
「いや、別に。すごいな、あんた」
「おい、」
 先生が苛立ったように隆二の胸倉を掴む。歳の割に力強いなぁ、なんて思いながらそれを目を細めて見つめた。
「先生!」
 茜の悲鳴を無視して、先生は吐き出すように低く呟いた。
「お前は、一体、何なんだ?」
「俺が一番知りたいね」
 誰か教えてくれないだろうか。それは隆二としてみれば真摯な答えだったのだが、おちょくられたと感じたのだろう。先生は顔をゆがめると、隆二を診察台にたたきつけるようにして手を離す。
「先生! 怪我人に対してそれは……」
 茜が先生と隆二の間に割って入る。
 ああ、純粋で腹が立つ。
「ぴーぴー騒いでんじゃねえよ」
 隆二の言葉に振り返った彼女は、裏切られたとでもいうような顔をしていた。せっかく助けてあげたのに?
「放っておけばこんな怪我治る」
「治るわけないでしょう!」
「耳元で騒ぐな、ガキが」
 虫を払うように右手を振ると、
「一度しか言わないからちゃんと聞けよ? 俺は人間じゃない。よって死なない。怪我しても放っておけば治る」
 早口で言い放った。茜があまりに間抜けな顔をしているので、皮肉っぽく唇をゆがむ。育ちのよさそうなお嬢様には、わからなかっただろうか。
「もう少し端的に言うならば、化け物ということだ」
 先生が舌打ちするのが聞こえた。
「とんだ拾いものだな、茜」
 茜が未だにぽかんと口を開けたままなので、仕方なしに溜息をつきながら、隆二は右手に巻かれていた包帯をはずした。赤く染まったガーゼがひらりと床に落ちる。その下にあるはずの、さっきまで血を流していた傷口は、綺麗さっぱりなくなっている。
「わかったろう?」
 隆二は体を起こし、茜の目を覗き込むと、聞き分けのない子どもに聞かせるような口調で呟いた。
「放っておけば、治るんだ」
「普通の」
 先生が口を開き、茜がそちらに視線を向けた。
「普通の人間だったら、死んでいてもおかしくない傷で、出血量だった」
 先生がぼそりと呟く。
「そりゃぁ、驚くよな、先生。前に見つかった医者は、悲鳴をあげて卒倒したぜ?」
 思い出して、けらけらと笑う。空しくなってすぐにやめたけど。
「驚いたろ、嬢ちゃん。悪いな。先生も」
 言いながら、足の包帯を外す。その包帯も、既に用をなしてなかった。
「先生が怖がらずに、適切に処置してくれたおかげで治りが早い。感謝する。二、三日は動けないと思っていたが、これならば明日にはなんとかなるだろう」
 きちんと正座し、頭を下げる。
「一晩でいい、泊めてほしい」
 そして、ゆっくりと顔を上げると、肩をすくめて唇をゆがめた。
「勿論、こんな化け物にいつまでもいられては困るというならば、追い出してくれて構わないが」
 先生が一歩踏み出した。茜の頭を撫でるようにして、少し後ろにおす。
「この子に聞いてくれ。あんたを助けたのはこの子だ」
 そういいながらも先生はもう一歩、茜と隆二の間に体をさしこんだ。庇うように。
「そうだな、嬢ちゃんに聞いてみないとな」
 そういって唇の片端だけをあげる。どうせ嫌がられるだろうけれども。そう思っていると、
「……茜」
 少しの躊躇いのあと、彼女はそう言った。
「私の名前は、嬢ちゃんではなく、茜、です。あなたのお名前は?」
 茜は少し震えながらも、一歩前に出て来た。先生が一歩横にずれた。
「……神山隆二」
 少し躊躇ったあと、答えた。
「神山さん、ですね」
 茜がにっこりと笑う。どこか強張った顔で、それでもは出来るだけ笑おうとしているのが伝わってくる。剛胆なのか、繊細なのか。
「此処をでて、何処か行くところがあるんですか?」
「居場所なんてどこにだって……」
「もし、ないのでしたら」
 言葉は遮られ、早口で被せられた。
「しばらくうちで暮らしませんか? 部屋なら余っていますから」
「……はい?」
 今度はこちらがぽかんと間抜けな顔をする羽目になった。この娘は何を言っているのか。
 先生が小さく、
「茜」
 と呟いた。しかし、それは嗜めるというよりも、諦めに似た感じだった。諦めるなよ。
 なんだっていうんだ、どいつもこいつも。
「あんた、俺が怖くないのか?」
 眉間に皺を寄せて問いかけても、茜はただ笑うだけだった。
 沈黙。
 茜は小さく微笑んでいた。その斜め後ろで先生が隆二を睨んでいる。隆二は眉根を寄せたまま、それを見ていた。
 ふぅっと誰かが息を吐く音が、やけに大きく響く。
「……あんた、馬鹿か?」
 それを合図に、半ば吐き棄てるように言った。
「俺の話を聞いていたか? 俺は人間じゃなくて、化け物だ。こんな大怪我を負ってもいきている。そんな人間を傍に置いておくことが、どんなことかわかっているのか?」
「貴方がもしも悪い人なのでしたら、私も先生も殺しているんじゃありませんか?」
「あんた、顔に似合わず、えぐいな」
 先ほどとは違う意味合いで、渋い顔をする。
「確かに、正体がばれたら困るんだよ。迫害されるならまだしも、見世物小屋を呼ばれた日にはどうしたらいいものかと」
 面倒なことになりかけたことを思い出す。逃げ出せてよかったが。
「だけど、まぁ、あんたたちはそんなことしないだろうし。別に、されてもいいけど」
 肩をすくめる。
「正体がばれたからって、ほいほい殺してたらまずいんだよ。変死体が見つかったり、行方不明者がでたりしたら、そっちの方があいつらに見つかるかもしれない」
「あいつら?」
 苦々しく吐き出された言葉に、小さく問い返される。
 余計なことを口走った。舌打ちすると、
「関係ない」
 それだけ吐き棄てた。
「そんなこと言って、怪我が治るまで油断させてるだけじゃないか?」
 茜の後ろで先生が呟いた。茜が振り返って先生を睨む。
「そう思うなら、俺を放り出せばいいだろう? わざわざ戻ってきてまで殺すような、酔狂な人間じゃないさ」
 そこまで言っておかしな表現をしたことに気づく。
「ああ、人間じゃないけど」
 付け足して笑った。
「神山さんは、」
 隆二の表情に一瞬眉をあげたものの、茜が微笑みながら尋ねてくる。
「どうして、怪我をなさったのですか?」
 言われた瞬間、動きが止まった。目を見開いて茜を凝視する。この小娘、何を訊いてきた? 嫌なこと言いやがって。
「痛いところをつかれた、って顔だな。人でも殺したか?」
「先生。私に任せてくださったのではないのですか?」
 茜が咎めるようにそう言った。先生は驚をつかれたような顔をして、それから渋々と、
「まぁ、そうだが」
 それだけ言う。
 隆二は、それをほんの少し意外に思いながら見ていた。意外とこの小娘は、強いのかもしれない、芯が。
「どうなさったんですか?」
 芯の強い小娘は、隆二に向き直ると微笑んだ。その話はもう忘れてくれてよかったのに。
 それでも黙っている訳にはいかなくて、我ながらひどく不愉快そうな顔をして、
「笑うなよ」
 と、一言前置きをした。
 茜が小首を傾げる。
「車に轢かれそうになったがきを助けるつもりが、失敗した」
「……はい?」
 全く、想定していなかった答えだ、と言わんばかりに、茜は傾げいてた首を、更に傾けた。
 先生も茜と同じような顔をしている。
「貴方は」
 しばらくの間のあと、ようやく事態を理解したらしい茜が、傾げていた首を元に戻し、笑んだ。
「優しい方ですね」
「格好悪いだろう」
「何がです? 人助けは立派な……」
「人の何十倍もの身体能力を持っているくせに、車なんぞに轢かれて」
 くすり、と茜が笑った。
「笑うなと言っただろうが」
 舌打ちした。だから言いたくなかったんだ。
「ふ、」
 何か、空気が漏れるような音がして、
「あはははは」
 一拍置いて、先生が豪快に笑い出した。
「……てめぇもかよ」
 耐えられなくなって二人から視線を逸らす。
「おま、それ、」
「先生、何が言いたいのか解りかねます」
 先生は言葉にするのを諦めたらしく、思う存分大笑いしてから、はぁっと深呼吸も含めた呼吸をする。
「気に入った」
 息を整え、開口一番にそういう。ぽん、っとひざをはたいた。
「実はな、さっき小僧が来たんだよ。車に轢かれそうになった、ってな」
 ちょっと待て、何を言っている? 慌てて隆二は視線を先生に戻す。
「怪我はないのか? と尋ねたら、僕はないという。だが、知らない男の人が大怪我していた、と」
 なるほど、そういうことか。片膝を立て、そこに頬杖をついた。とんだ狸だ。
「頭から血をだらだら流しながら、涼しい顔で大丈夫か? なんて聞いてきたとかいうから、半信半疑でな。丁度、その子の親が通りかかったらその子を返して、でもとりあえず、どうにかしなくてはな、と思ったときに、茜がやってきた」
「ちょっと待って、それじゃあ、先生、最初から知っていらっしゃったのですか?」
「この小僧が」
「いや、爺さんよりは長生きしてるぜ、俺」
「その割には人間が出来ていない、青二才じゃないか」
 青二才呼ばわりしやがって。小さく舌打ちする。
「この、神山隆二と名乗るやつが、もしかしたら助けてくれた男なのかもしれない、とは思ったな」
「でしたら、なんであんな侮辱するようなことを!」
「だがな、治療しようとして、生き物として何かがおかしいことはわかった。何を考えているかわからない。助けたのとは別の男かもしれない。助けたのにはなにか策略があったのかもしれない。疑いだしたらきりがない。とりあえず、かまをかけてみた」
 そういって豪快に笑う。
「呆れた……」
 茜が悔しそうに少しだけ唇を尖らせた。
「とんだ狸爺だな、あんた」
 先生は何も言わずに、一度にかっと笑った。
「まぁ、面白そうだし、茜に害を加えないのならば」
「だから、加えないって」
「今日だけといわず、暫くいていいぞ。面白そうだから」
「一言余計だな」
 ため息をつく。なんでこう、変人なんだ、こいつら。化け物だからってひかないどころが、受け入れるなんて。期待、してしまうじゃないか。
「まぁ、あれだな。俺が助けたがきが少しでも俺のことを気にしていてくれたのは、少しばかり有難いな。助けたのに礼儀のなっていないがきだと思ったから」
 なんとなく、救われた気分になる。
 さっきからなにを考えているんだろう。救いなんて、きっともうないんだ。人間じゃないんだから。
 思いを断ち切るために、思考を強引に別の方向へ持って行く。
「こんな小さな村に車が走っていることが、俺には不思議だがな」
 見かけることは多くなったものの、もっと都会で見かけるものな気がしていた。
「あの」
 おそるおそるといった風にかけられた声に首を傾げる。
「その、車は、真っ黒なものでしたか?」
「ん? ああ、洒落た服着た爺さんが運転してた」
「神山さん、それ、私の身内です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
 茜が深々と頭を下げる。予想外の態度に少しだけたじろいだ。
「いや、別にいいんだが……。ひょっとして、あんたいいとこのお嬢様ってやつか?」
 育ちは良さそうな気がしていたが、もっと上流階級か。でも上流階級のお嬢様が、なんだってあんなところを一人で散歩してたんだ?
「お嬢様じゃありません、茜ですっ」
 少し荒げられた声に、ちょっと驚いた。
「……私はただのこの村に住む娘です。それだけ、です」
 茜は落ち着いた声で言い直す。
「ふーん」
 納得しかねるな、と思わず呟いた。
「お互い様でしょうに。貴方も」
「隆二」
 にやり、と笑う。そちらがそのつもりならば、こちらだってそれに習おう。
「人には名前を訂正させておいて、自分は貴方呼ばわりか? 茜」
「……隆二も、全てを話したわけではないでしょう?」
 意外にも彼女の方も呼び捨てにしてきた。なるほど、ただのお嬢様ではないようだ。
「手の内を明かすのならば、お先にどうぞ?」
 茜が上品に小首を傾げる。はん、と隆二は鼻で笑った。先生が唇を歪める。
 なんだ、化け物を受け入れるそちら側もわけありか。ただの傷の舐めあいか。お互いがお互いの秘密を暴き合おうとして、牽制し合っているなんて。これだけ歪んだ関係なら、安心してここにいることが出来る。少しは、落ち着いて暮らせそうだ。
「これからよろしく、茜」
 挑むようにして見つめながら笑うと、
「ええ、こちらこそ、隆二」
 同じような顔をして茜も笑った。
「……おまえらちょっとおかしいだろ」
 先生が小さくぼやいた。
 人間としての生活なんて、期待していないかった。この時は。

 

 一条茜は、小さな民家に一人で住んでいた。小さなと言っても、一人で住むには広過ぎる。なるほど、部屋が余っているわけだ。
 こんなところで若い娘が一人暮らしだなんて、ますますわけありのようだ。
「ここ、どうぞ」
 何もない一室に案内させる。
「どーも」
「お食事は普通に摂られますか?」
「食べなくても死なないから気にしなくていい」
「……食べることは出来るわけですよね?」
「それはまあ」
「そう」
 茜は一瞬視線をさまよわせてから、隆二に戻すと小さく微笑んだ。
「じゃあ、作るんで一緒に食べましょう。たいしたものは、出来ないけれども」
「……なんでその結論になるかねぇ」
「一人の食事は寂しいから」
 当たり前のように言い切ると、待っていてと告げて茜はその場を立ち去った。
「……寂しい、ねぇ」
 なんとなく呟くと、小さなその部屋に倒れ込む。意地でここまで歩いてきたが、やはりまだしんどい。
 目を閉じる。せいぜいのんびりさせてもらうさ。

 そこから始まった茜との同居生活は、規則正しいものだった。
 毎朝決まった時間に起こされ、食事をとり、掃除を手伝わされ、散歩に連れて行かれ、野良猫に餌をやり、週に何度か先生のところに顔を出す。これの繰り返し。
 茜は臆すること無く、隆二を自分の規則正しい生活の輪の中に組み込んでいった。化け物相手なのに。
 そんな規則正しい生活も久しぶりだったので最初は楽しかったが、あまりにも単調な生活に一週間で飽きた。一人で不規則な生活をしていたときも特に何か毎日楽しかったわけではないのだが、規則正しい生活はより単調さを際立たせる。
「毎日毎日同じことの繰り返して飽きない?」
 ある日、連れ出された散歩の途中、隆二が行き倒れていたあの土手で茜に尋ねた。茜は心底不思議そうな顔をしながら隆二を見上げ、
「どうして? 同じ日なんて一度もないじゃない」
 心底不思議そうに答えた。
「……あー、そう」
 その答えがなんだかむずがゆくて、隆二は適当に返事をすると頭を掻いた。
 訳ありのようだが、心根は素直な娘だと思った。衣食住を提供してくれる変な小娘に、本格的に興味がわきだしたのはきっとこの頃。
 でもそのときは、ここまでにしておこうと、そう思っていた。深入りしない方がいい、と冷静に思っていた。もう少ししたらここから出て行こう。同じところにずっといるべきではない。愛着を持つべきではない。
 でも、もう少し。もう少し暖かくなるまではここで過ごしてもいいかなぁ。あの時助けた少年をはじめとする子ども達に、明日遊ぶって約束してしまったし、少なくとも明日まではここにいよう。そんな甘えでずるずると、規則正しい生活を送っていた。
 よくも悪くも、この生活を変えたのは、二人の死神の存在だった。

 

 いつもどおりの散歩道、件の土手に現れたのが一人目の死神だった。視線の先にその姿を見つけて、隆二は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
 数歩先で、茜が不思議そうな顔をして振り返る。
 赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている。見たことがある。逃げ出そうとしたあの時、最後まで阻止しようと尽力を尽くしていた少女だ。ああ、もう、少女ではないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。
 ぐちゃぐちゃになった思考回路から、慌てて今すべきことを引っ張り出す。
「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」
 茜が心配そうに眉をひそめて近づいてくる。それに合わせるように、二、三歩後ずさる。
「……隆二?」
 茜が少し傷ついたような顔をした。
「違う、そうじゃなくて」
 思わず言い訳がこぼれ落ちる。茜を避けようとしたわけじゃなくて。言い訳なんてしてどうする。もうここには居られない。逃げなくちゃ。
「だけどごめん」
 世話になったのに。いきなりこんな風に消えようとして。早口で言い切ると、きびすを返す。
「隆二っ」
 茜の慌てたような声が背中にかかり、
「U078」
 遠くから、だけどはっきりと聞こえた声に足が止まった。
「逃げても無駄ですよ」
 冷たい声。足が縛り付けられる。動けない。
「……ゆうぜろななはち?」
 茜が小さく呟く。
 ああ、茜はそれを口にしないでくれ。せめてただの、ただの化け物だと思っていてくれ。
「U078?」
 たしなめるような声色で呼ばれて、ゆっくりと振り返る。
 心配そうな顔をした茜の後ろに、死神がたっていた。
「ごきげんよう。ご無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」
 死神は淡々と、顔色一つ変えず続ける。嫌味のような言葉だが、恐らくただ事実を評価しただけだろう。この死神が、嫌味なんてそんな人間味のあふれることを言うわけがない。
 死神と隆二の顔を見比べ、茜は少し隆二に近づいた。そしてそっと隆二の右手をとる。慈しむように手を握られる。思わず、それに縋り付くように力をいれた。
 死神はその光景を見ても顔色を変えることはなく、
「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」
「え?」
 少し、高い声が出る。もしかして、もう許してくれるのか。もう諦めてくれるのか。もう飼われることはないのか。
 一瞬浮かんだそんな希望は、あっさりと斬り捨てられた。
「私たちはもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。ここで、証拠隠滅のためにおとなしく消え去るか、または必要に応じて我々の力になるかを」
 死神が告げる。
「……必要と、していない」
 小さく呟くと、死神が頷いた。
 ああそうか、もう兵器としてもお払い箱なのか。それでも、化け物としては利用価値があるから、利用出来るならば残しておこう?
「……消滅か、隷属か」
 かすれた声が漏れる。
 また、隷属? 逃げて来たのに? また?
「……もう、疲れた」
 思わず口からこぼれ落ちた言葉に、自分自身で驚いた。ああ、そうか。もう疲れたのか、自分は。化け物として今後も生きていくことに。それならば、もう、ここで終わらせてもらった方が楽なのかもしれない。だって自分は化け物だから。このまま一生、永遠という一生を人間との間に線をひかれて、それを踏み越えることを許されずに、失った人間としての日々を指をくわえて見ていくぐらいならば、
「俺は、もう……」
「隆二っ」
 強い声で名前を呼ばれ、右手を引かれた。
 はっと我にかえる。
 茜がこちらを睨むようにして見ていた。
「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」
 力強く茜が断言する。聡い彼女は、全てはわからなくても隆二が選ぼうとしている道を察し、咎めた。
「……俺は、化け物だ」
「だからなに? もうそんなこと、今更気にしない。あなたが優しい人だってこと、知っている」
 意思の強い瞳。だけど、隆二を掴んだ手は小刻みに震えている。
 それを大切だなんて、思わなければよかったのに。
 でも、思ってしまった。認識してしまった。この震える手を持つ少女を、神山隆二は大切だと思っている。ここでの生活を続けたいと思っている。彼女を悲しませたくないと、そう思っている。
「……わかった」
 吐息と共に言葉を吐き出すと、死神に向き直る。
「あんたらの言うことを聞く。だから、ここに居させてくれ」
 そう答えた。
「そうですか」
 死神は頷いた。
「では、なにかあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」
 淡々とそれだけいい、すぐにその姿を消した。最後まで、表情をかえることなく。
「……いっ」
 死神の姿が消えて、茜が小さく悲鳴のように言葉を漏らすと、へなへなとその場に座り込んだ。慌ててそれを支えた。
「いまのは?」
「……死神だよ」
 答えながらも隆二の足からも力が抜ける。
 仕方なくそのまま、二人して土手の草むらに腰を下ろした。
「死神?」
「俺にとっては」
「……そう」
 怖い人ね、と小さく茜は呟いた。
 右手は茜の手を握ったままだった。離すのが躊躇われ、そのままにしておく。茜から手をふり払う気配もなかった。
「……俺さ」
「うん」
 川の流れを見ながら、口を開いた。
「元々は人間だったんだ」
「……え?」
「元々化け物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」
 とりとめも無くこぼれ落ちる言葉を、茜は黙って聞いてくれた。
「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦のための兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐにはなにもされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのかわからないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化け物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化け物になった」
 隣が怖くて顔が動かせない。茜は今、どんな顔をしているのだろう。だけど、一度溢れた言葉はとめられない。
「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」
「……兵器は生き物ではないから?」
 隣から小さい声。
「え?」
 思わず隣を見ると、茜が少し心配そうに眉をひそめて、首を傾げてこちらを見ていた。
「化け物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」
「……ああ、そうかもしれない」
 確かに、化け物だと暴露することは簡単にできたが、兵器だったことはできれば言いたくなかった。
「尊厳もなにもなく、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」
「さっきの人、隆二を道具としてしか見てなかった」
 ぐっと手に力がこめられる。
「そんな人には、隆二は渡さない」
 思いがけない言葉に、間抜けにも口をあけて茜を見つめる。今、なんと言った?
「逃げて、ここまで来たの?」
 そんな隆二に気づくことなく、茜が問いかけてくる。
「あ、ああ」
「そう。……ならずっとここにいればいい」
 まっすぐに茜が目を見てくる。
「隆二がなんだって関係ない。人間でも化け物でも兵器でも、隆二は隆二だから」
 意思の強い瞳に見つめられて、
「……うん、ありがとう」
 素直に小さく隆二は頷いた。
 人間として生活していくことが出来なくても、化け物としてでもここで生活できるのかもしれない。
「帰りましょう」
 茜が微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引かれる。その手に掴まるようにして隆二も立ち上がった。
 特に会話もないまま、帰路につく。けれども繋いだ手はそのままだった。
 会話がないその空気も、悪いものではないと、寧ろ心地よいと隆二は思った。思っていた。
 そして、
「茜様」
 名前を呼ばれたのは、家が見えたころだった。茜が慌てたように隆二の手を離す。その手をほんの少し、名残惜しいと思った。
「どこにお出かけですか?」
 黒い服を着た、老人が立っていた。どこかで見たことがある姿に隆二は眉をひそめ、
「あ、車の……」
 思い当たった顔に小さく呟く。
 茜に出会った時。あの時轢かれた車の運転手がこの老人だった。そういえば、茜の身内だと言っていたか。
「そちらは?」
 老人が隆二を見て尋ねてくる。
「一条には、関係ありません」
 震える声で茜が答える。
「茜様。仮にも一条の人間がこんなどこの馬の骨ともわからぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」
 ゴミを見るような視線を向けられ、隆二は小さく笑う。
「何がおかしいのです?」
「何もおかしくない」
 咎めるような老人の言葉に、笑ったまま答えた。
「俺がどこの馬の骨ともわからないのも、ゴミみたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、おかしなところは何もない」
 ただ露骨な敵意を向けられることが、おかしかっただけだ。先ほどの死神に比べれば、何も怖くないし不愉快になることもない。寧ろ、かわいいとさえ、思う。
「隆二っ」
 だけれども茜は違うようだった。蒼白の顔で悲鳴のように隆二の名前を呼ぶ。
「……すまん」
 必死の顔に、思わず謝る。遊んで悪かった。
「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません。第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」
 真っ白な手を握りしめて茜が答える。老人は軽く眉をあげ、
「立場はわかっていると、そうおっしゃるのですね?」
「……はい」
 小さな声で茜が頷く。
「結構」
 老人は満足そうに頷いた。
「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」
 駄目押しのようにそう告げると、老人は立ち去った。
「……なんだ、あれ」
 隆二が小さく呟く。
 茜が崩れ落ちるように座り込んだ。
「茜っ」
 慌てて近寄ると、
「隆二っ」
 すがりつくように両手を掴まれる。
「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていたこと、聞いてくれる?」
 先ほどよりも白い顔で、震える声で、濡れた瞳で問われた言葉に、
「……ああ」
 ゆっくり頷いた。お互いがお互いの死神にここで出くわすとは、思わなかった。

 

「私には、姉が居るの」
 家に入り、腰を下ろすと茜がゆっくりと切り出した。
「同い年の」
「血のつながらない? ……いや、双子か?」
「そう、双子。葵って、言うの」
 小さく頷く。
「一条は、昔から続く名家で、家柄をとても大事にしていて。だから、双子が生まれたなんてこと、外聞を大事にする一条にはあってはならないことだった」
「……ああ、双子は悪魔の子、とか言われる風習が?」
 まったく同じ顔の人間が二人いること、一つの腹から一度に二人生まれること、そう言ったことから双子が忌まわしいものとされることがあると聞く。
「そう。……さすがに、知っているんだね」
 弱々しい笑い方をする茜に、何故だか少し苛立ちを感じる。
「だから私は、生まれなかったことにされるはずだったの。……殺されるはずだった」
 茜は仕方ないよね、と笑う。唇だけで。
「だけど、一条は代々体の弱い者が生まれることが多くて。私や葵も例外じゃなくて。だから私は、今日までここで、一条から離されたところで生かされている」
 泣きそうな目をしているくせに、小さく微笑む。何故だろう。苛々する。
「葵に何かがあったときに、すぐに代われるように。……さっきの人は、一条の補佐を代々している人で、だからだいぶ失礼なことを」
「笑うな」
 耐えられなくなって、言葉を遮った。驚いたような顔を一瞬したものの、直ぐに茜は小さく笑う。
「どうしたの?」
「笑うな」
 その手をひく。よろけて体勢を崩した茜の頭を両腕で抱え込んだ。
「隆二っ」
 慌てたような声がする。
「なんで、泣きそうな顔をしてる癖に笑うんだよ。なんだかとても、腹が立つ」
 頭を抱えたまま、低い声で言う。ばたばた慌てたように手を動かしていた茜は、その言葉にぴたりと動きを止めた。
「向こうの都合で勝手に振り回されてるんだろ。怒ってもいいし、泣いてもいいし、それが普通だろ。わかったような顔をして、笑わなくてもいいだろうが」
 気づいたら話している自分の声が震えていた。ああ、今自分は、彼女に自分を重ねあわせている。昔の自分にかけたい言葉をかけている。
 だからこそ、
「笑わなくて、いいから」
 だからこそ、彼女がとても愛おしい。
 黙っていた茜が額を隆二に押し付けるようにし、腕をそっと背中にまわした。
「……ありがとう」
 小さく聞こえてきた声は、水分を含むものだった。
「ん」
 急に照れくさくなって小さく頷いた。照れくさくなったけれども、この手を離すつもりはなかった。

 二人の関係が変わったのだとしたら、この日がきっかけだったのだろう。この日を境に、隆二の中でこの家から出て行くという選択肢が消えた。ふれあうことに躊躇いがなくなり、かける言葉に暖かみが増した。
 今思い出しても、この時が一番幸せだった時間だ。二人でのんびりと暮らす。ただ、それだけがとても幸せだった時間。
 だけど、それが永遠に続くわけではなかったし、そんなこと心のどこかではわかっていた。気づかされたきっかけは、なんでもない一日に紛れていた。
 その日も、いつもの規則正しい生活を送っていた。認識してしまうと恥ずかしいことだが、隆二も今やその何気ない規則正しい毎日を楽しいと思っていた。同じように見えて違う。はっきり言ってしまうと、毎日茜の言うことややることは違っていて、それを見ているのがとても楽しかった。
 だからその日も、いつもとは違う部分があった。同じではなかった。
「りゅーじにーちゃん、あーそーぼー」
 土手を散歩中、子ども達に声をかけられた。
「ああ、太郎たちか」
 最初隆二が助けたその少年は、今ではすっかり懐いていた。とはいえ隆二の返答は、
「やだよ」
「ええっ、ケチー」
「ちょっとぐらい、いいじゃない」
 呆れたように茜がなだめる。ここまでがいつもお決まりの会話だった。
「仕方ないなー、ちょっとだけだぞ」
 とか言いながら、缶蹴りに参加する隆二が、気づいたら大人げなく熱中しているのも、いつものことだった。茜はいつもそれを少し離れたところに座り、微笑んで眺めていた。
 ここまではいつものこと。
 違うのは、遊んでいる最中に聞こえた小さな小さなうめき声と、何かの倒れるような音。
 嫌な予感がして振り返る。
「っ、茜!」
 胸の辺りをおさえて、茜が身を丸めていた。
 慌てて駆け寄り、体を支える。苦しそうに歪められた顔。子ども達もそれに気づくと集まって来た。
「発作だ」
 と言ったのは、どの子どもだったか。
「発作?」
「茜ねーちゃん、心臓弱いって先生が」
「薬は? 持ってないの?」
 茜の右手には小さな箱が握られていた。
「飲んだ、から、へいき」
 小さなかすれるような声。どこが平気だと言うのか。
 一条家は体が弱くて、葵も茜も。だから、先生のところに定期的に通っているのは、ただの世間話ではなかったのか。そもそも最初から主治医と言っていたじゃないか。今更ながらにそんなことに気づいた。自分の迂闊さを呪う。
 真っ白い顔。
「少し、我慢しろ」
 その頬を軽く撫で、そっと抱え上げた。
「隆二兄ちゃん、どうするの?」
「先生んとこ」
 端的に答えると、持ち前の人並みはずれた身体能力で、あっという間に土手からその姿を消した。
「……はえー」
 残された子どもが、小さく呟いた。
 こんなに目立つことをして、化け物だということがバレて、村から居られなくなるんじゃないか。いつもなら思うことも、そのときは思わなかった。それどころじゃなかった。茜が茜を茜の。茜のことが心配だった。どうにかして助けて欲しかった。
 一人、残されたくなかった。

 

「もう大丈夫」
 だから、茜の主治医である先生がそう告げた時、みっともなくも膝から崩れ落ちた。
「おおい、不死者の手当はしないぞー」
 のんびりと言われる。その口調に、本当にもう大丈夫なのだと思えた。
 眠っている茜は、顔色は戻っていないものの、その表情は穏やかだった。
「ありがとう、ございます」
 頭を下げると、先生は少し嫌そうな顔をした。
「お前にそういう態度とられると気持ち悪くてかなわんな」
 軽口を叩かれても顔をなかなかあげられない。それほどまでに、感謝している。
「……隆二」
 優しく名前を呼ばれて、ゆっくりと顔をあげると、
「そう、情けない顔をするな」
 呆れたように言われた。
「あんなに血相を変えて現れて。お前さんの方が倒れるんじゃないかと思った、今もな」
「だって」
 抗議の声も、弱くなる。
「俺じゃどうにもできないから」
 先生に頼るしかない、と思った。
「それはこっちも一緒さ」
 どこか余所を見ながら先生が呟く。
「根本的な治療はできない。ただの、対処療法だ」
「……うん」
 その言葉が意味することを受け取り、隆二は小さく頷いた。完治は出来ない。またいつ、発作が起きるかわからない。
「最近は落ち着いていたんだがな」
 それはつまり、いつ、彼女が、
「……どれぐらい?」
「わからんなぁ。でも、正直、ここまで保っているのは奇蹟なんじゃないかと、思うことがある」
「……そうなんだ」
 それはつまり、いつ、彼女がいなくなってもおかしくないということ。今すぐにでも、彼女がいなくなってしまうかもしれない。
「そうなんだ」
 震える指先に気づき、反対の手で隠すようにした。
「出来る限りのことはする。隆二」
 先生がこちらを向いて微笑んだ。
「今のは聞かなかったことにして、普通に接してやって欲しい」
 そんな無茶なことを! そう叫ぶ心を押し殺して、小さく頷いた。隠し通す自信はなかったが、だからといって茜になんて言えば良いのかもわからなかった。
 だから、
「……隆二?」
 目を覚ました茜にかけた言葉は、
「ああ、おはよう」
 できるだけいつもどおりを意識した、淡々とした挨拶だった。本当は、大丈夫か、心配した、と縋り付きたい気持ちだったけれども。
「……うん」
 茜は一瞬の間を置いて、頷いた。
「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」
 いつものようにぶっきらぼうに言う。いつものように。だけど、
「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」
 優しく微笑まれる。
「びっくりしたよね。ごめんね」
 彼女があまりにもいつもどおりに笑うから、
「茜」
 耐えられなくなった。やっぱり耐えられなかった。いつもどおりなんて、できなかった。
 茜の横に跪き、その手を握る。握ったその手を祈るように額につける。
「隆二?」
「おいていかないでくれ」
 子どものように、必死にその手に縋りつく。
「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」
 先生との約束を破ったことになってしまうことはわかっていた。茜が困ることもわかっていた。けれども、言わずにはいられなかった。さっきまで感じていた、茜を失うかもしれないという恐怖から脱却なんてできなかった。そいつはまだ、隆二の足を引っ張っている。引きずり込もうとしている。地獄へと。
「茜がいないと、無理だ」
 声が震える。一度望んでしまったから、一度手に入れてしまったから、もう失うことを考えたくなかった。怖かった。今、茜がいなくなって、そしたらその先に待っているのは、地獄だ。
「……うん、心配させて、ごめんね」
 握ったのと反対側の手で、茜がそっと隆二の頭を撫でた。
「ごめんね隆二、ありがとう」
 そっと頭を撫でられる感触。子どもの時のような。
「違う、――」
「え?」
「俺の名前、人間のときの。――っていうんだ」
 もう二度と、口にするつもりのない名前だった。捨てたつもりの名前だった。それでも、
「茜にだけは、覚えていて欲しい」
 その名前で呼ばれる時、自分は人間だったから。
「ん。――」
 久しぶりに聞いた、自分の名前はなんだかとても懐かしくて、泣きそうになった。
「一緒にいてくれ」
「一緒にいるよ」
 ここにいるよ、と囁かれた。この手を絶対に離してはならないと、自分に課した。

 

 その後は表面上、何事も無く過ごした。ただ少し、前よりも隆二が茜の体調を心配して、口うるさくなったぐらいで。周りの隆二を見る目が一瞬、奇異なものを見る目になったぐらいで。
 だけど、時は止まらない。茜の時は止まらない。隆二ひとりを残したまま、世界の時間は進む。
 耐えられなくなった。
 それは、本当に、ある日突然来た。
 自分がここにきて、どれぐらいの月日が経っただろう? あの小さな子どもだった太郎も、今ではもう缶蹴りで遊んだりしない。
 いつのころからか、茜は月日がわかるものを全て家の中から撤去した。そんなものない、とでも言いたげに。それは彼女の優しさだったのだろう。けれども、不明だということが、余計隆二の焦燥感を煽った。
 今はいつで、ここにきてからどれぐらい経って、茜は今いくつで。あと、どれだけの時間が残されているのだろう?
 永遠なんてないのは知っている。いずれ茜はいなくなる。それまであと、どれだけ残されているのだろう。
 おいていかれる恐怖に耐えられなくなった。このままここにいたら、自分はどうなってしまうのだろう。
 だから、逃げた。逃げたのだ。
 少し行きたいところがある。外の世界を見て来たい。大丈夫、少し旅行するだけだから。
 そんな風に告げた自分の言葉の裏の意味を、茜がわかっていなかったとは思えない。もう二度と、戻ってくるつもりがないことを彼女は察していたのだろう。もしかしたら、聡い彼女のことだ。もっと以前に覚悟を決めていたのかもしれない。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
 茜はその時、幾つかのことを隆二に約束させた。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
 今生の別れのような約束。茜からのお願い。
「それから、」
 茜はそこで、微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから」
 茜はよそを向いていた隆二の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
 告げられた言葉に返す言葉がない。何を言っていいのかわからない。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
 かすれたような声で言われて、申し訳ない気持ちになる。勝手に振り回されたのだ、怒ってもいいし、泣いてもいい。そんな風に言った自分が、今彼女を振り回している。感情を制御させてしまっている。 
「……ああ」
 小さく呟くと、茜はそっと隆二の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
 そのまま、頭をそっと抱え込まれた。抵抗はしなかった。出来なかった。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
 約束はできないけれども、わかってはいる。その言葉に、茜は特に何も言わなかった。意味がわからなかったわけ、ないだろうに。
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ、――」
 そうして、彼女だけには教えた隆二の本当の名前を呼んだ。茜がその名で呼ぶのは、あの時以来だった。最初の時以来だった。
 ああ、そうか。これは本当に最後の挨拶なんだ。
「待っているから……」

 茜の家を出て、そこから一目散に走って逃げた。はやくどこか遠いところに行きたかった。ずっとずっと走って逃げて、かなり離れたところに行き、そこでしばらく一人で暮らした。一人きりの空虚な生活だった。
 一度、心が落ちついた時があった。帰ろうと、思ったことがあった。少し情けない顔をして帰ったら、茜は仕方ないわねと笑って受け入れてくれる、そんな気がした。
 離れてわかった。自分が如何に酷いことをしたのかを。茜の心を傷つけたのかを。自分にはやはり茜が必要だと。彼女を看取ることは、きっと心臓を抉られるような思いがすることだろうけれども、自分の知らないところで彼女がいなくなるよりずっといい。そんなことになったら自分はきっと、悔やんでも悔やみきれないぐらい後悔する。少し離れたことで、そう、思えるようになった。
 だから、帰ろう。
 そうしてまた、あの村に戻った隆二を待っていたのは、
「……隆二兄ちゃん?」
 少し遠くで、呟かれた言葉だった。振り返る。遠くにこちらを伺う精悍な顔つきの男が一人。右手で小さな女の子の手をひいている。その隣には、赤子を連れた女性もいた。
「太郎さん、お知り合い?」
「おとーさん?」
「ん、いや、似てるけど。もう何年も経ってるのに変わってないから別人だよね。それに」
 本来なら聞こえないような会話も、超人より優れた五官を持つ隆二には届いてしまった。
「茜姉ちゃんを見捨てたあの人が、戻ってくるわけない」
 そうして太郎は、小さな声で呟いた。
「一人ぼっちで死んじゃって。可哀想に」
 それを聞いた瞬間、きびすを返して村から逃げた。
 遅かった。遅かったのだ。
 待っています。
 彼女の言葉が、耳元で聞こえた気がする。
「……ごめん、茜、ごめん」
 嘘をついて、帰らなくて、約束を守れなくて、一人にして。身勝手て。卑怯で。
「ごめんなさいっ」


第四幕 逃走猫の帰巣本能

「だから、俺は逃げて、茜から。嘘ついて、卑怯だろ?」
 俯いたままぽつぽつと言葉を紡いでいた隆二はそこで初めてマオの顔を見た。そして、
「ちょっ」
 慌てる。ぽろぽろと、こぼれ落ちている涙を見て。
「待て待て、何故マオが泣く?」
『だってぇ』
 マオは掌で目をごしごし擦りながら、
『隆二、辛かったよね』
「別に俺は卑怯者だから辛いとか」
『そうやって、自分のことまだ許せないでいる。そういうの、辛いよね』
 赤くなった目でまっすぐ見られる。
「……俺を許していないのは、茜だよ」
 それに耐えられなくて視線を逸らす。
『茜さんは、隆二が逃げたからって隆二を恨むような人なの?』
 まっすぐに投げられた言葉に、視線をまたそちらに向ける。
『もし、茜さんがそれで隆二を恨むような人なら、隆二はそれを気にする必要はない、と思う。だっておかしいもん。あたしは、隆二が嘘つきでも卑怯でも今更そんなの気にしない。茜さんは隆二のこと好きなんでしょう? だったら、そんなこと気にしないと思うの。だって隆二が死ななくて、茜さんが人間なこと、茜さんだってわかっていたんでしょう?』
 好きなら許せるから、とマオは躊躇わずに言い放つ。
「……そんなに簡単に、決められたらいいな」
 愛しているから、恨む。そういう感情を、この幼い居候猫はきっとまだわかっていない。愛していたからこそ、恨まれる。
「でも、ありがとう」
 それでも、マオのその言葉が、気遣ってくれているのがわかって、珍しく素直に礼を言った。
『あたしね、隆二のこと、軽蔑、したりしないよ。だって、隆二にとっての茜さんは、あたしにとっての隆二と同じなんでしょう? どうしたらいいかわからない時に、優しくしてくれた人。世界みたいな人。大好きで、大事な人』
 小さく首を傾げるマオに、少し躊躇ってから一つ頷く。そうなのか。マオにとっての自分が特別な存在であることは認識していたが、そこまでも、特別で大きな存在なのか。自分にとっての茜ほどに。
『あたし、今もし隆二がいなくなっちゃうとか言われたら、そんなの耐えられないもん。怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃうかも。それ、わかるもん』
 だから軽蔑したりしないよ、とマオは小さく笑った。
「……うん、ありがとう」
 受け止めてくれて。
『でも、どっちにしても隆二が後悔してることに代わりはないんだよね』
 もう一度ごしごしと目を擦り、マオは隆二の顔を正面から捕らえた。
『だから、隆二。だったら、茜さんに会いに行こう?』
「……会いに?」
『お墓参り。お墓参りは死者のためじゃなくて、生きている人間が自分を慰めるためにもあるって、テレビでみたよ。隆二、それもまだ行ってないんでしょう?』
 そしたらきっと、隆二は自分のこと許せるよ、と屈託なくマオは笑う。
 それを見て、すっと腑に落ちた。ああ、誰かにこの話をしたかった本当の理由は、誰かにこうやって言って欲しかったのかもしれない。謝りに行くきっかけを作って欲しかったのかもしれない。
「……一緒に、きてくれるか?」
 尋ねた声が小さくてかすれていて怯えていて、自分でもびっくりする。ずっと謝りに行きたかった。ずっとずっと。だけど、一人じゃ怖いから。勇気が出ないから。だから、誰か背中を押して、そして一緒に。
『うん!』
 マオは当たり前のように頷いた。
「やあ、話は終わったかい!」
 絶妙のタイミングでドアを開けて入って来たのは、京介だった。こいつ、タイミングを測っていたな。どうせ全部聞いていたのだろう。
『京介さん、お買い物は?』
 手ブラの京介にマオが不思議そうに尋ねる。
「買い忘れたのは気のせいだった」
『あらら、うっかりはちべーねー』
「本当だよねー」
 だからどうしてそんな見え透いた嘘を信じ込んでしまうのか。
「茜ちゃんのとこ行くんだろ? せっかくだし俺も」
「お前は来るな」
 全て言い切る前に言葉を被せた。なんで連れて行ってもらえると思うのか。
「隆二、お前、一人で行けるのか?」
 少し唇の端をあげた京介が、揶揄するように言う。
「う……」
 返す言葉が見つからない。
 確かに、過去あの場所に行った時は一人で歩いて行った。だから、そこそこの時間がかかったはずだ。今回はマオも連れているし、それは避けたい。疲れはしないだろうけど、ぶーぶー五月蝿そうだし。
 しかし、極度の機械音痴であり、社会にかかわらないで生きている隆二には、交通手段の目安がつかない。新幹線? 新幹線の切符って何処で買うんだ? そもそも、どれに乗ればいいんだ?
「……まあ、電車とか手配してくれるなら一緒に来ても良いけど」
 しぶしぶそう言うと、
「おう、まかせろ」
 良い笑顔で京介は請け負った。

 

 善は急げとでも言うように、翌日には出発していた。
「……なにもそこまで張り切らなくても」
 朝一の電車に乗るために道を歩きながら隆二はぼやいた。
『思い立ったが吉日でしょう!』
 隣を浮いていたマオが胸をはって言った。それはそうなのだが。
「せっかく新幹線のチケットとれたしさ」
 昨日、俺ちょっとチケットとってくるよ! などと言って京介はあの後すぐに家を出て行っていた。
「でも、もっと遅い時間でも」
「今から出ると十時には着くし。最悪日帰りも出来る時間っしょ。もうちょい後でもいいけど、始発の方がマオちゃん楽でしょ? 人少ないから、隆二も気兼ねしないでマオちゃんに話しかけられるし。これがラッシュ時になると、隆二話さないでしょ?」
『えー、そんなのあたしつまんないっ!』
「でしょ?」
「……意外と考えてるなぁ」
「意外とってなんだよ。それに、はやくしないと、隆二の決心がまた鈍るだろ?」
 行くと決めた以上、はやく謝りたい気持ちもある。それでもやっぱり、どこか気が重い。怖い。図星を指されて押し黙る。
『一人じゃないから、平気だよねー?』
 マオが無邪気に笑う。
「……ああ」
 それに少し心が和んだ。大丈夫。今なら帰る場所もあるし、一緒に行ってくれる居候猫もいる。あと、また別の居候も。
 そんなことを言い合っている間に、駅に着く。
『あたし、電車ってはじめてー!』
 楽しそうに笑うマオを見て、遠足かなにかと勘違いしてるんじゃないか? という気もしてきたが。
 ホームに電車が滑り込む。人はまばらにしか居ない。
 椅子に座り、その隣にマオも腰を下ろした。進行方向とは逆方向の隣。それを見て京介が、
「あ、マオちゃん。隆二に掴まってた方が」
『え?』
 ドアが閉まる。電車がホームから離れる。ゆっくり動き出す。駅が少しずつ遠のき、
「……そうか、幽霊か」
 マオの姿も少しずつ、遠ざかって行く。
『えっ、えええっ!!』
 幽霊は電車に乗れない。なぜならば、車両に接していないから。車両は幽霊の体をすり抜けて行く。
 慌てたマオが、こちらへ向かおうと必死に手足を動かすが、加速を続ける車両には敵わない。
「あー、だから掴まってた方がいいって」
「わかってたなら先に言ってやれよ、お前」
「隆二が気づいてあげなよ、そこは。せめて、進行方向に座ってれば良かったんだけど」
 必死に頑張っているがちっとも姿が近づかない、寧ろ遠のいているマオに向かって、
「次の駅で待ってる」
 軽く片手をあげると、
『ひーとーでーなーしー!!』
 叫び声が返ってきた。だからそうなんだってば。

『もう、本当、信じられないっ! なんで先に行っちゃうの?』
 次の駅で下車し、待っていた隆二達の元に全速力で飛んで来たらしいマオは、着くなり矢継ぎ早に文句を言い出した。
「ちゃんと待ってただろうが、ここで」
『どうにかしてよ! その前に!』
「無理だろ、あの状況じゃ。常識的に考えて」
『もー、本当あり得ない! ひとでなしっ!』
 言いながらもマオは、しっかりと隆二の背中にしがみついている。
 やってきた電車に乗り込む。しっかりと隆二にしがみついたマオは、電車と一緒に動くことに成功した。
『はー、よかったぁー』
「最後まで気、抜けないな、お前」
 手を離したら、あっという間に置いて行かれる。
「まあ、隆二の膝の上にでもずっと座ってれば大丈夫でしょう」
 それは果たして本当に大丈夫なのか、色々な意味で。
「でも、この路線、一駅間短くて良かったよね。すぐに追いつけて」
『その、新幹線とかっていうのは、駅と駅が遠いの?』
 恐る恐る尋ねたマオに、
「遠いよ」
 真面目な顔をして京介が頷いた。
『……気をつけなきゃ』
 気を引き締めたらしいマオが、ぐっと手に力をこめた。やめろ、首が絞まる。
 そんな、普段なら呆れ返るようなドタバタ道中だったが、今回ばかりはそれに救われた。暗い思考にならなくていい。
 新幹線の中、隆二の膝に座り、隆二の首筋に手を回し絞める勢いで力を入れ、隆二にちゃんと自分の腰を支えるように口うるさく注意しながらも、窓の外を瞳を輝かせて眺める居候猫に感謝する。一緒に来てくれて、ありがとう。

 

 久方ぶりに降り立った駅前は、当時の面影を残しているような、全然違うような、不思議な印象を与えた。露骨な高い建物等はないが、前よりは少し活気づいている気がする。
 駅前にある花屋で、小さな花束を買った。それを見ていた京介が、
「じゃあ、俺はこの辺りで適当に時間潰してるよ」
『あれ、京介さん、一緒に行かないの?』
「うん、遠慮しとく。終わったら適当に探して」
 気をつけてね、と笑って京介は片手を振った。
「……ありがとう」
 ああ、なんだ。変な野次馬根性とか、おせっかいとかじゃなくて、本当に心配して一緒に来てくれたのか。それに気づき、小さく頭を下げた。
「暇だしね」
 京介はのんびりとそう言うと、どこかに向かって歩き出した。
「……じゃあ、行こうか」
 その背中から目を離し、宣言する。気合いを入れる。
『うん』
 まだ背中にくっついたままだったマオが頷いた。

 記憶を頼りに歩いてく。周りにあるものが変わっても、長い時間が経とうとも、ここでの生活は脳内にしっかり焼き付かれている。道はすぐにわかった。
「そういえば、墓の場所、わかんないな」
 記憶の中に寺はあるが、そこかはわからない。もし仮に一条家の方で弔ったのだとしたら、この辺りではないのかもしれない。
『ありゃ、困ったねー。誰かに聞くとか?』
 なんて言って聞けば良いんだよ。不審過ぎるだろ。
「まあ、とりあえず家の辺りまで行って、そこから考えてもいいか」
 大事なのは茜に謝るということ。この土地で、茜に謝るということだから。どこか二人に関係する場所で謝れればそれでも。
 そんなことを思っていると、土手にさしかかる。あの日、初めて茜に出会った場所。
 いくらか整備されて綺麗になっているそこに、目を細める。
『あー、これが噂の土手?』
「ああ」
 マオの言葉に頷き、
「……あ」
 川縁で佇む人影に、視線が固定される。思わず足が止まり、
『りゅーじ?』
 不思議そうなマオが名前を呼ぶ。
『どーしたの?』
 隆二の背中から離れ、マオが顔を覗き込んでくる。
 だけど、人影から視線がそらせない。
 肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。
『んー?』
 マオも隆二の視線を追うように振り返った。
 あれは。あの人影は。まさか、まさか、まさか。
『……幽霊?』
 マオが怪訝そうに呟く。
 人影がこちらに気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
「あか、ね?」
 小さく小さく呟く。
 振り返った人影は、一瞬少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。そして、
『お帰りなさい、隆二』
 ぱさり、
 手から力が抜け、花束が地面に落ちてばらける。
 気づいたときには駆け出して、駆け寄って、茜の腕をつかんで、抱きしめていた。
「ごめん」
 腕の中にとじこめた、彼女に向かって謝罪する。
「遅くなって、本当に、ごめん。茜、ごめん」
 髪を撫で、腕に力を加えてもなんの感触もしないことに失望する。こんなになるまで待たせてしまった。
『違うでしょ、隆二』
 たしめるように言われる。昔と変わらない声色なのに、耳以外の感覚器官で届く声に泣きそうになる。肉声じゃ、ない。
『ごめん、じゃないでしょう?』
「……待っていてくれて、ありがとう」
 幽霊になってまで、長い間待っていてくれて。
『約束したじゃない』
 茜は少し背伸びして、隆二の耳元で囁いた。
『おかえり』
「ただいま」
 遅くなって、本当に、ごめん。


 その様子を黙ってみていたマオは、くるりと踵を返すと逃げ出した。それは確かに逃げ出したのだ、と自分でわかった。
 彼の想い人は幽霊になってまで彼を待っていた。幽霊になった彼女は、きっとずっと彼の傍にいることが出来る。寿命の問題は解消される。永遠に、一緒にいることが出来る。そして彼女は、自分みたいに厄介な居候じゃない。きっとあの人は、我が侭を言って隆二を困らせることも、人の精気を必要として危険を生じさせることもない。
 隆二のあんな顔、始めてみた。あんな泣きそうで、嬉しそうで、愛おしそうで、とにかくあんな表情は絶対にマオに向けられることはない。あの表情を与えられるのはこの世界でただ一人、彼女だけだ。
『馬鹿隆二』
 足が止まる。ゆっくりと地面に降りるとその場にしゃがみこんだ。
『あたしはもう居られないね』
 あの人がいるならば、自分はあの家には帰れない。自分はもう、居候猫にもなれない。

 

 隆二はゆっくりと体を離す。正面から茜の顔を見る。記憶の中にあるのと同じ笑顔で茜は笑った。
「遅くなってごめん、ありがとう」
 額と額をくっつけて、押し殺すように呟くと、彼女はただ首を横に振った。
『私こそ、ごめんなさい』
 そういいながら彼女は隆二の頭を撫でる。
『先に死んじゃって。隆二が戻ってくるまで、絶対に待ってようって決めたのに。百でも二百でも生きていてやるって』
「茜……」
 なんで彼女はこうなんだろう。恨み言の一つや二つ言ったって、決して罰は当たらないのに。
「一人にして、ごめん」
『先生が一緒にいてくれたから』
「……そっか」
 好々爺という言葉がぴったりの茜の主治医を思い出す。
「先生は、やっぱり……」
『年だったから』
「そう、だよな」
 生きている、はずがない。
「俺、先生にお礼も言わずに飛び出して来たからな」
 なんて不義理なんだろう。なんて自分のことしか考えていなかったんだろう。
「茜にも先生にも、迷惑をかけるだけかけて……」
『気にしてないよ、先生も私も』
 とんとん、と子どもをあやすように背中を叩かれる。
『来てくれて、本当に嬉しい』
「うん」
『ありがとう』
「こちらこそ。本当に、ありがとう」
 まさか本当に待っていてくれるなんて。
 額を離し、代わりにその手をぎゅっと握る。茜もそっと握り返して来た。
『今は、誰かと一緒?』
 微笑みながら尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。
『誰かに言われないと隆二、あなたここに来る気にはならなかったでしょう?』
 くすくすと笑われる。お見通しなのか、全部。
「……ごめん」
『いいの。帰って来てくれたんですもの。きっかけはなんだって』
「そうじゃなくて」
 一緒に過ごしている人がいて。人じゃないけど。
『ああ。そっち? それは、いいのよ。だって、隆二、一人はさみしいでしょう? 私も貴方も、それはよく知っているじゃない』
 だからいいのよ、となだめるように茜は笑う。
『永遠は長いでしょう? 一人でいるには』
「……そうだけど」
 茜を一人にして、一人で待たせて、自分は他の人といたなんて……。
『本当に気にしないで。私ね、』
 茜は少し躊躇うそぶりを見せた後、
『覚悟していたから』
 隆二を見据えて宣言した。
『いつからだろう? 貴方のこと、好きになってからかな。隆二がいつか、私以外の別の人のこと、好きになること。長い長いときをかけて、覚悟を決めてきたから、大丈夫。だって、それは仕方のないことでしょう? 貴方の世界は長いのだから、一人孤独に生きるよりは誰かと居てくれた方がずっといい。ずっと、安心だわ』
「……ありがとう」
 なんだか泣きそうになる。ああ、こんなにも、思われていたのか。
「でも、一つだけ訂正」
『なあに?』
「俺が好きなのは、愛しているのは、今でも茜だけだよ。これからも、ずっと」
 茜は驚いたように大きく目を見開き、頬を赤くした。
『やだ、しばらく会わない間にそんなこと言うようになったのねっ』
 早口で言われる。ああ、そうか、そういえば、好きってちゃんと言ったこと、なかったかもしれない。
『でも隆二、それじゃあ、今一緒に居る人はなんなの?』
「あれは居候猫」
 躊躇わず答える。
「人じゃない、幽霊だよ。それも、研究所仲間」
 出来るだけ軽い調子で言うと、茜は少し痛ましげに眉をひそめた。
「そういう顔するな」
『平気なの?』
「ああ。もう、死神もいないしな」
『そう。……その人、女の人?』
「人じゃない」
 茜以外の人間と一緒に暮らすなんてあり得ない。
「女だけど」
『……可愛い?』
「まあ、可愛いは可愛いな。それに見てて飽きない」
『……そう』
 答えてから茜が頬を少し膨らませたことに気づき、思わず笑う。ああ、可愛い。本当に可愛い。同じ可愛いでも、種類が違う。愛おしい。
「茜の方が可愛い」
 手をそっと引っぱり、顔を近づけて耳元で囁くと、
『!』
 茜は弾かれたように顔をあげ、
『もうっ、本当にっ、どこでそういうの覚えてきたのっ!』
 はしたないっ、と叫ばれる。それがさらにおかしくて笑う。ああ、このやりとりがたまらなく愛おしい。
『笑わないっ』
「はいはい」
『もうっ』
 茜は一度頬を膨らませ、
『隆二』
 真顔に戻って、隆二を見つめた。
『約束、忘れて』
「忘れてって」
『私、たくさん約束させちゃったでしょう。帰って来て、以外にも』
 頷く。全部ちゃんと覚えている。殺してないし、殺されていない。生きている。生きる屍にならないという点は、今はともかくちょっと前まで微妙に守れてなかったが。
『その約束、一旦忘れて。もう十分守ってくれたから。約束にとらわれないで、今度はその人を、今一緒に居る人を守ってあげて』
「でも」
 茜との約束を忘れるなんてこと、したくない。
『色々あるのでしょう? 研究所絡みなら』
 眉をひそめながら言われた言葉に、
「……ああ。そうだな。わかった」
 小さく頷いた。もし今後、研究所がまたマオを求めることがあったら、この前のように誰も殺さずには済まないかもしれない。
『……でも、一つだけ、我が侭、言っても良い?』
「勿論」
 間を置かず首肯する。茜の我が侭なんて今まで聞いたことがあっただろうか? そしてそれを、自分が断ることがあるだろうか。
『あのね』
 茜は少し恥ずかしそうにもじもじしたあと、耳元でそっと告げた。
『名前、教えないで。あなたの、本当の名前。もう二度と、誰にも』
「……名前?」
『そう。――』
 そうして茜は、彼女にだけ教えた彼の本当の名前を呼ぶ。とても、とても久しぶりにその名前を聞いた。
『あのね、私だけ特別って、思いたいの』
 照れたように言われた言葉に、迷わず頷いた。
「約束する」
 今度こそ。それを守る。絶対に。自分が人間として接した、最後の人間は茜だ。今後も、ずっと。だから名前は、誰にも教えない。
『ありがとう』
 茜も頷く。
『……私、そろそろいくね』
 そして呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。もう? もういってしまうのか。そんな思いが胸を過る。けれども、死した人間がいつまでもこの世に留まることは、本来あってはならないことだ。彼女は長い間、ここに留まっていた。約束を果たせた今、はやくいかせてあげないと。
「……わかった」
『ああ、もう、隆二』
 茜が困ったような顔をして、両手で隆二の頬を包む。
『そんな泣きそうな顔をしないで。私、会えて嬉しかったから。本当に本当に、嬉しかったから』
「うん。待っててくれて、ありがとう」
『帰って来てくれてありがとう。ねぇ、隆二。私、貴方が居てくれて本当によかった。一条葵の予備としてではなく、一条茜として楽しいときを過ごせたのは、貴方のおかげよ。本当に感謝している』
「俺だって」
 俺だって感謝している。茜に会わなければ、あの死神が現れた段階で消えることを選択していたかもしれない。茜と過ごしたあの日々は、本当に楽しくてかけがえのないものだった。永遠に。これからも。大事な思い出だ。
「感謝している」
『うん。ありがとう。大好き』
 両手が頬から外され、背中にまわされる。隆二もそっと、その背中を支えた。
『楽しかった。本当に楽しかった。一緒に居られてよかった。大好き』
 彼女の声が少し震えている。腕に力を入れる。
「俺も」
 自分の声も震えていた。ああ、これで。今度こそ。本当に。最後だ。
「……茜」
『なあに?』
「もう一度呼んで」
 それだけで伝わった。茜は隆二の腕の中、顔をあげ、
『――、愛している』
 そっと告げた。
「……うん」
『泣かないで、――』
 そう言った彼女の目だって、潤んでいる。
『本当に、もう、いくね。このままずっと、ここにいたくなってしまう前に』
「うん。……茜」
 片手を離し、代わりに頬に添える。そっと身を屈めると、彼女も目を閉じた。唇が触れ合う。感触はないけれども、脳が覚えている。
 目をあけると、茜が恥ずかしそうに笑った。
『本当にありがとう。大好き』
 もう一度そう言うと、彼女は隆二から手を離す。
「こちらこそ。ありがとう。本当にありがとう。愛してる、ずっと」
 隆二も素直に手を離した。
 茜は一歩、隆二から距離をとると、綺麗に、柔らかく、微笑んだ。今まで見た中で、一番綺麗な顔だ。
『さよなら、――』
「さよなら、茜」
 そうして、一条茜の魂はこの世から姿を消した。


 茜を見送り、こっそりと目元を拭う。
 やっと、約束を果たせた。そのことに安堵する。
「マオ、悪い、待たせた」
 そういって出来る限り微笑んで見せながら振り返る。
「……マオ?」
 そこに居候猫の姿はなかった。


第五幕 猫叱るより猫を囲え

 京介は、駅の近くにあった公園で時間をつぶすことにした。ベンチに座り、一人のんびりとコンビニで買った団子を食べる。これがなかなかに美味しい。
 ちらほらと、乳幼児を連れた母親が公園にやってくる。それを目を細めながら眺める。
『京介さんっ』
 頭上からかけられた声に、少しのデジャヴを覚えながら京介は上を向いた。
「マオちゃんどうし……、どうしたのっ?」
 軽くかけた声が、思わず大きくなる。視線の先に居たのは、くしゃくしゃに泣いたマオだった。
 急に大声をだした京介に視線があつまる。さすがにそれが気になって、慌てて声を小さくし、
「どうしたの?」
 手招きすると、マオは隣に座った。ぼろぼろに泣いた彼女の頭を撫でる。
「隆二は?」
『茜さんのとこ』
「ああ、お墓見つかったんだ」
『違うっ』
 しゃくりあげながらマオが叫ぶ。
『違う違う違うっ、待ってたっ。あの人、本当に待ってたっ』
「待ってた? 茜ちゃんが?」
『幽霊になってまで、待ってたっ』
「……そっか」
 二人の絆は、まだ切れていなかったのか。茜はそこまで隆二のことを思っていたのか。あの二人は人間と化け物の壁を越えたのだろうか。それなら、自分は。
『あたしっ、居られなくなっちゃうっ』
「……え?」
 マオの叫びに、京介は思考を中断させる。
『あの人が幽霊なら、ずっと隆二と一緒に居られる。そしたら、あたしっ、あの家に居られない。もう居場所がないっ』
 そうしてマオは膝をかかえ、そこに顔を押し付けた。
「マオちゃん……。いくら隆二でも、マオちゃんを見捨てたりしないよ」
 いや、違う。
「隆二だからこそ、マオちゃんのこと追い出したりしないよ」
 同族の中で、一番情が深いのが彼なのだから。
『だけどっ』
 マオが顔をあげ、吠える。
『隆二が追い出さなくても、あたしっ、あんな顔する隆二と、あの人のところになんか居られないっ』
「……そっか」
 それもそうかもしれない。
『もうやだ。謝りに行こうなんて言わなきゃよかった』
「……マオちゃん」
『……嘘だよ。謝りに来たのは、よかったと思ってるよぉ』
 マオは、抱えた膝に顎をのせた。
『隆二、悲しそうだったから。辛そうだったから。自分のこと責めて。だから、謝りに行こうって言ったのは、後悔してないよ。だって隆二のこと、心配だったから。だけど。こうなるなんて、思ってなかったから』
「優しいね」
 マオの頭をそっと撫でる。
「隆二のこと、考えてここに来たんだもんね」
『優しくないよ。知ってるもん。本当に優しい人は、こういう時に、こうやって喚かないもん。本当に隆二のこと考えてたら、大事な人と一緒に居られるようになってよかったね、って言うんだよ。知ってるもん』
 だけどっ、と続けた声が、また一段と涙声になる。
『だけどっ、あたし、よかったねなんて言えない。あたしは、あたしが、隆二と一緒に居たい……』
 そのまま顔を膝に埋める。
『……こんな風に我が侭だから、駄目なんだよね、あたし。いつも隆二を困らせて、迷惑かけて。だから一緒に居られなくなっちゃう』
 くぐもった声。
 京介はしばらくそんなマオを黙って見ていたが、
「マオちゃん」
 その腕をそっと引く。マオの体が少し京介の方に傾く。マオが顔をあげる。
『……京介さん?』
 涙に濡れたその緑色の瞳を正面から捉えて、京介はいつになく真面目な顔で問いかけた。
「なら、俺と一緒に居る?」

 

 居候猫がいなくなった。
 最初は気を使ってどこか少し離れたところで待っているのかと思った。しかし土手周辺を探しても見つからず、隆二は慌てて来た道を戻った。こんな不慣れな土地で、一体どこに行ったというのか。
 最初はただの早足だったのが、気づいたら駆け出していた。不安が胸をかすめる。迷子になっていやしないだろうか。なにかあったんじゃないだろうか。
 駅近くまで戻ってくる。公園の横を抜けようとした時、公園を覆うように生えた木々の間から、ベンチに座る見知った後ろ姿を発見した。
「京介!」
 名前を呼ぶと、京介は不機嫌そうな顔で振り返る。
「マオ、知らないか?」
「……いるよ、ここに」
 不機嫌そうに吐き捨てられた。
「そっか……」
 それに安堵する。とりあえずいるならば、いい。
 京介は何故か眉を吊り上げ、
「はやくこっち来い」
 冷たく言うと、隆二にまた背を向けた。
「何怒ってるんだ?」
 小さくぼやきながらも、入り口にまわりベンチに駆け寄る。
「マオ!」
 ベンチの上、体を丸めるようにして横たわっているマオの姿に、少し焦る。なにか、あったのか。
「どうした?」
「大丈夫、眠っているだけだよ」
 近づくと、確かに眠っているようだった。マオの頭を撫でる。
「……泣いたのか?」
 頬に残る涙の後を見て、そう問いかけると、
「そんなに心配ならもっと大切にしてあげたらどうなんだ?」
 冷たく吐き捨てるように言われた。
「……お前、さっきから何怒ってるんだ?」
「そんなことも言われなきゃわかんないのかよ」
 睨みつけられる。
「茜ちゃん、会ったんだってな」
「ああ」
「お前のことだ、久しぶりに茜ちゃんに会って、会えて、マオちゃんのことなんかころっと忘れてただろ」
「……否定は、しない」
 だけど、お前だって俺の立場だったらそうしただろが。言い訳は、なんとか飲み込んだ。
「考えなかったわけ? 茜ちゃんが待ってるのみて、マオちゃんがどう思うかって」
 まあ無理だよな、とバカにするように笑われる。なんだっていうんだ、さっきから。
「居られなくなる」
「は?」
「茜ちゃんが幽霊になっているなら、隆二とずっと一緒にいられる。そうしたら、自分はもう隆二の家に居られなくなる。そう言って泣いてたよ、マオちゃん」
「……そんなこと、あるわけないだろうが」
 そんなバカなことで悩んでいたのか、この居候猫は。今更追い出すわけ、ないだろうが。
 もう一度、バカな居候猫の頭を撫でた。
「大体、幽霊だからって茜とずっと一緒にいられるわけないだろ」
 成仏した方がいいに決まっているのだから。
「マオちゃんにそんなこと、わかるわけないだろ」
「……そうかもしれないが」
「マオちゃん、泣いてたけど、こうも言っていた。それでも、謝りに行こうって言ったことは後悔してないって。隆二が辛そうだったから、ここに来たことは後悔してないって」
 何か言おうと口を開き、結局何も言えなかった。眠るマオを見る。
 そんなこと、思っていてくれたのか。でも、考えてみればいつもそうだったかもしれない。自分勝手で、自由気ままで、気分屋で。振り回されているけれども、彼女の思考はいつも神山隆二に向いていた。茜の話をするときだって、辛いなら話さなくていいと、言ってくれた。
「……ありがとう」
 小さく呟き、その頭をもう一度撫でた。
 未だに不機嫌そうな顔で京介が言葉を続ける。
「マオちゃんがあんまり泣くから、俺思わず言ったよね。なら俺と一緒に居ればいいって」
「お前なっ」
 簡単に言う京介に、かっとなった。
「なんで怒るんだよ」
「無責任にそういうこと言うなよっ」
「どっちが無責任だよ、俺は本気で言った!」
「茜からは手を引けってあんなに言ってたお前がかっ? ずっと、永遠に、マオの面倒見るつもりがあるっていうのかよっ」
「茜ちゃんとマオちゃんはまた別だろうがっ」
「何がっ」
「茜ちゃんは人間で、マオちゃんは幽霊だろ。前提条件が違うっ。俺は、マオちゃんならずっと一緒にいてもいいと思ってる」
「ふざけんな」
「ふざけてるのはお前の方だっ」
 一際大きな声で叫ばれ、指をつきつけられる。周りの視線が集まるが、もうお互い気にしていない。いられない。
「盗られたら困るなら、最初から盗られないようにしろよっ!」
「盗る盗らないってなんだよっ。そういう話してないだろっ」
「してるだろ。大体、マオちゃんに断られたつーの!」
 吐き捨てるように怒鳴られた。それに次の言葉を出そうとしていた口が止まる。京介はゆっくり息を吐き、落ち着きをいくらか取り戻してから、
「隆二じゃなきゃ、意味がないってさ」
 俺ってば超惨め、と続ける。
 隆二は再びマオに目をやる。今の騒ぎでも起きる気配はない。よほど、疲れているのか。
「隆二」
 名前を呼ばれて、京介に視線を移す。すっかり落ち着いた彼が、珍しく真剣な顔で言った。
「マオちゃんを茜ちゃんの代わりにするのはやめろ」
「代わりになんてしていない」
 心外だな、と続ける。心の底から。こいつがなにを考えているかわからない。マオが茜の代わり? バカを言うな。
「マオが茜の代わりになんかなれるわけないだろ」
「……そっちかよ」
 うんざりしたように京介がため息をつく。
「ナチュラルにひどいんだよ、お前は」
「大体なんで代わりなんていう発想がでてくるんだ? マオは幽霊なんだから茜とは違うだろ」
「だからそっちかよ本当お前はだめだなこの唐変木」
 先ほどとは違い声を荒げることはないが、妙に早口で苛立っているのが感じられる。
「何怒ってるんだよ。大体、マオが幽霊で茜とは違うって言ったのはそっちが先だろ」
「確かに言ったけどさ、そうじゃなくて。なんで言わないとわかんないんだよ。茜ちゃんもマオちゃんもこんなののどこがいいんだよ」
 あからさまなため息をついて、京介は両手で顔を覆った。そのままの姿でしばらく固まる。どうしたものかと隆二も黙ってそれを見ていた。
「いや、もういいや」
 小さく呟いて、京介が顔をあげる。
「うん、とにかく俺が言いたいのは、もうちょっとマオちゃんのこと考えてあげろよ、ってこと。それぐらい、お前にだって出来るだろ」
「なんかバカにしてないか」
「なんでバカにされないと思うんだ」
 本気でこいつ大丈夫か、とでも言いたげな顔で見られる。
「まあ、いいや。今日のところは」
 言いながら京介は立ち上がり、
「とにかく! 俺は先に帰るからな。ちゃんと仲直りしてから帰って来るんだぞ」
 そうして後ろを向く京介を、
「ちょっと待て」
 隆二は引き止めた。なにもいわず京介が振り返る。顔になんだよお前、と書いてある。
「金がない、貸して」
 その、なんだよお前という顔に右手を突きつけた。
「花買ったからあと千円しかない」
 それでは帰れないことぐらい、さすがの隆二でもわかる。
「はぁ? なんで遠出するってわかってるのにそれぐらいしかもってないんだよお前はッ! 貸してって言うのは返すあてがあるときだけにしろっ!」
「じゃあ頂戴」
「子供かッ!」
 言いながらも京介は、財布からお札を抜き出し、隆二に手渡した。
「新幹線の切符買えるか? 無理だよな。わかんなかったら駅員に聞け。それならできるよな?」
 じゃあな、と京介は振り返り、
「京介」
「まだなんかあるのかよ」
 うんざりと振り向く。
「鍵。もってないだろ」
 そこにポケットから出した鍵を投げた。
「家、入れないだろ」
 当たり前の事実を指摘しながら告げると、
「お前がいつまでたっても合鍵作らないからだろ!」
 苛立ったように一度足を踏み鳴らし、京介が怒鳴る。
「帰りが遅くなっても、起きて待ってるなんてしないからな! 外に居ろ! 寧ろ野たれ死ね! この唐変木っ!」
 とんでもない罵倒だった。あいつ何をあんなにかりかり怒ってるんだ? カルシウム足りないんじゃないか?
 ずんずんとやけに早足で遠ざかって行く背中を見ながら思う。まあ、心配してくれているんだろうな、と好意的に解釈し、隆二はベンチに腰を下ろした。
 丸まっているマオの頭を撫で、少し考えてからそっと自分の膝の上にその頭を載せた。まあ、これぐらいのことは、しても罰が当たらないだろう。
 真っ昼間から男二人が怒鳴り合っていたからか、公園の人影はめっきり減っている。遊んでいた子どもには悪いことをしたな、とちょっとだけ反省した。

 

「なら、俺と一緒に居る?」
 真面目な顔で京介に言われて、マオは面食らった。
『へ?』
「隆二と一緒に居られないなら。俺と一緒に居る?」
 言われた言葉をゆっくりと吟味する。
 確かに京介はマオのことが見えて、マオに触れる。隆二と同じだ。それに、隆二より優しいし、隆二と違って外で話しかけても怒らないし、疑心暗鬼ミチコのことも詳しいから話していて楽しい。
 だけど、
『……でも、隆二じゃなきゃ嫌だ』
 いつも冷たくて話しかけてもあんまり構ってくれないし、ましてや外で話しかけると無視するし、すぐにバカにしてくるけど、
『隆二の方がいい』
 違う。
『隆二じゃなきゃ、意味がない』
「……だよね」
 京介は困ったように笑い、マオの頭を軽く撫でた。
「そうかなとは思ったけど」
『ごめんなさい』
 せっかく、優しくしてくれたのに。
「ううん。マオちゃんが隆二のこと好きなのは、知ってるから」
『うん』
 そうだ。マオにとって隆二は特別なのだ。特別に大切な人で、ずっと一緒に居たい。隆二じゃなきゃ駄目だから、一緒に居られないかもしれないことが、こんなにも悲しい。
『……帰りたいな』
 居候猫でいいから、またあの家に置いていて欲しい。
 目を閉じる。感情がぐるぐると回っていて気持ち悪い。さっきみたいな顔をマオに向けてくれなくてもいい。構ってくれなくてもいい。本当はもうちょっと構って欲しいけど。でも、構ってくれなくてもいい。困らせないように頑張る。だから、また、一緒に暮らしたい。
 ぐるぐる回った感情と一緒に、気づいたら眠ってしまっていたらしい。目を開けると、空が見えた。それから、
「おはよ」
 つまらなさそうに呟く隆二の顔。
 よく見たら、膝枕されていた。
『ふぇっ』
 奇声をあげて飛び起きた。


 勢い良く飛び起き、距離をとる居候猫を見て、少し胸が痛んだ。そんな怯えんでも。
『りゅ、りゅ、隆二?』
 声が裏返っている。
『な、なんで。あれ、京介さんは?』
 事態が理解できないとでも言いたげに、きょろきょろ視線をさまよわす。
「帰った」
『え、あ、そうなの?』
「とりあえず、落ち着け」
 言って隣を指さすと、マオは恐る恐る隣に腰掛けた。いつもより、隆二との距離があいている。
『隆二。……あの人は?』
「いったよ」
 できるだけ何事もないように答える。
『え?』
「成仏ってやつ」
『え、だって、一緒に居無くていいの?』
「幽霊は成仏した方が良いだろう」
 言って、マオを見て少しだけ笑う。
「お前は違うけど。マオは、俺と同じだろ?」
『……そう、同じ穴の狢なの』
 少しの沈黙のあと、マオがそう呟いた。
「心配しなくても、マオのこと放り出したりしないよ」
 軽く手の甲で頭を叩くと、
『なっ、なんか、京介さんから、聞いたのっ!』
 真っ赤になって慌て出した。ああ、秘密にしておいて欲しいことだったのか。
「いや、別に。心配してんのかなーと思って」
『してないしっ! 別に平気だし!』
 体の横で握りこぶしを作って叫ぶ。叫んでから、
『……ちょっと寂しかっただけだし』
 小声で付け足した。それに少し笑みがこぼれる。
『なんで笑うのっ』
 見咎められた。
「別に」
 言いながら頭を撫でる。マオは小さくなんか言っていたものの、手をふり払ったりしなかった。
「マオ」
『ん?』
「今日は、ついて来てくれてありがとな」
『……ん』
 マオが小さく頷く。
「おかげですっきりした」
『……それはよかった』
 マオの返答は、まだちょっとひねくれたような言い方だったが、顔は少し笑っていたからきっともう平気だろう。拗ねたフリをしているけれども、隠し事の出来ない彼女のことだ。少し笑っているその顔が、今の心境の正解だ。
「……なあ、マオ、一つだけ、聞いてもいいか?」
 撫でていた手を離して尋ねる。
『な、なに。あたし別に泣きわめいたりしてないからねっ』
 聞いてないのにあっさり自白する。ほら、嘘がつけない。
「泣きわめいた?」
 ちょっとからかってみると、
『例えばの話ですっ!』
 怒鳴られた。
 茜に言った、可愛いし見ていて飽きないというのは本当だ。茜も対外感情が顔に出るタイプだったが、その比ではない。感情が顔に駄々漏れで、隆二には予測不可能なことばかりする。マオが来てから、毎日が本当に刺激的で楽しい。
 でも今は、からかって遊んでいる場合じゃない。
「まあ、マオが泣きわめいたかどうかはともかく」
『泣いてないからっ!』
「マオは、俺の過去の名前、気にならないのか?」
 いつか、京介が来た日にした会話を思い出しながら問いかける。
 泣いてないっと怒鳴った顔のまま、次の抗議のため身構えていたマオは、投げかけられた質問が理解出来なかったのか、きょとんっとした顔をした。
『へ?』
「だから、名前。京介が来た時に話しただろう。神山隆二になったきっかけ」
 マオは少し考えるような沈黙の後、
『ならないよぉ?』
 当然のような顔をして笑った。
『だって隆二は隆二だもん。あたしにとって隆二は出会った時から隆二で、今でも隆二だもん』
 それからちょっと眉をひそめて、
『……隆二にとっても、あたしはマオだよね?』
 伺うように尋ねてくる。その意味をしばらく考えて、
「ああ。マオはマオだよ」
 一つ頷いた。G016なんていう番号は知らない。マオはマオだ。きっと、そういうことだろう。
 マオは満足そうに一つ頷き、
『ん! だから隆二も隆二!』
 そう、断言する。
「……うん、ありがとう」
 酷い質問だと、思わなくもない。ここに京介がいたら、罵倒されたことだろう。だけど、これからもマオといるためには必要な質問だと思った。マオと一緒にいても、茜との約束を破らないと、今度こそ破らないという確信が欲しかった。
『あたしは隆二と居られればそれでいいの』
 機嫌を直したのか、自分の中でなにか折り合いをつけたのか、マオはいつもより少し広くとっていた距離をつめ、隆二に抱きついた。
 それを素直に受け止め、隆二はマオに笑いかけた。
「帰ろう、うちに」
 茜への罪の意識が完全になくなったとは言えない。でも軽くなった今なら、以前よりも素直に帰ろうと言える。今なら、マオとちゃんと向き合える。マオと二人の暮らしを、ちゃんと考えていける。
「そうしてまた、あの赤いソファーに座って、二人でだらだらとテレビでも見よう」
 あの赤いソファーは、やっぱり一人には大き過ぎるから。
 マオはぱぁっと満面の笑みを浮かべると、
『うんっ』
 大きく頷いた。


第一幕 居候猫と新たなる居候の現状

 てれっててーと軽快なメロディが部屋に流れる。テレビ画面に流れるスタッフロール。
『はー、今日も君子かっこよかったぁ』
 興奮のあまり浮かし気味になっていた腰をすとん、っとおろしながらマオが呟いた。
 ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、隆二はそれを見ていた。
 三十分間のマオのお楽しみタイム、七転びヤオ君子が終わり、
『高嶋くんが、君子の正体に気づきそうになったときは、ドキドキしたわ』
「正体バレるとガチョウになっちゃうもんね」
『そうそう。本当、よかったー。っていうか、高嶋くんのことで君子を脅すなんて本当サイテー! 人の一番痛いところ、弱みに付け込むなんて!』
「悪いよねー」
『でも、高嶋くんと君子の関係はいつ進むのかなぁ』
「んーどうだろうね」
『君子は地球を守ることで忙しいから、恋愛どころじゃないんでしょうね。……でも、どうして君子がいる地域しか襲われないのかな』
「不思議だねー」
『君子がいない場所を狙えば一発なのに。なんていうか、あかさかよね』
「あさはかだね」
『んー、それにしても、君子ってあと何話分ぐらいあるだろう。富子短かったし』
「富子は半分の二十五話しかないからね。でも君子はその分長いから、七十話分ぐらいあるんじゃない?」
『じゃあ、まだまだあるのね!』
「基本、月曜から木曜の週四での再放送だからあと……、ごめん、計算できないけど、まだまだ終わらないよ」
『よかった! 君子まで終わったら寂しいもの』
 マオと京介が今日の君子の感想を言い合う。主にマオの発言に、京介が微笑みながら相槌をうつ。隆二は黙ってそれを見ていた。会話の節々につっこみたい部分が多々あったが、さすがに野暮なのときりがないので自重する。
「っと、こんな時間か。夕飯の買い出し行ってくるねー」
『今日のご飯はー?』
 時計を見て立ち上がった京介に、自分は食べないくせにマオが問う。
「今日は、サクサク衣のジャガイモ揚げ、トマトを添えて、だよ」
 大げさに言っているが、それ、コロッケとかだろ。そう思いながら、隆二は出て行く京介を見送る。
『隆二?』
 テレビも終わり、京介もいなくなり、暇になったマオが隆二の方へ向かってくる。そうして、隆二の顔を覗き込みながら、
『難しい顔してどうしたの?』
 こーんな顔だよ、とぐぐっと眉間に皺を寄せた。
『あ、もしかして、ヤマトいやなの?』
 ひらめいた、とでも言いたげな顔をするマオに、
「トマトな」
 冷静につっこんだ。それ、食い物じゃないだろ。
 京介が神山家に居着いて、数ヶ月が経過していた。七転八倒富子が終わり、七転びヤオ君子がはじまってもまだ、京介はこの家に居た。再放送のあと、マオと楽しそうに今日の君子談義をするのも、いつものことになっていた。別にそれ事態が不満なわけではない。ただ、
「あいつ、何しに来たんだか……」
 気味が悪いのだ。自分で全部お金を払いながら、家政夫のようなことをする。一体、京介になんのメリットがあるというのだ。
『隆二に会いにきたんでしょ?』
「会いに来てこんだけ長い間、ここに居る意味ってあるか? そもそも、なんで会いに来たのかもよくわからんし」
『訊けばいいじゃん』
「訊いてあいつがちゃんと答えると思うか?」
『ううん』
 さすがのマオもそこまで楽天的ではなかったようだ。首を横に振る。
『んー』
 マオはしばらく悩んでから、ぽんっと両手を打ち合わせ、
『あたし、探って来てあげる! スパイ大作戦! テレビで見た!』
 嬉しそうに言うと、隆二の返事もまたずに、すぃっと壁を抜けて行った。
「……大丈夫だろうな?」
 マオが消えた壁を見ながら、隆二は小さく呟いた。
 心配しか残らない。

 

『きょーすけさーん』
 背中に声をかけられた声に、京介は振り返ると小さく笑った。
「マオちゃん、どうしたの」
『お買い物、一緒にいい?』
「いいよ」
 マオは京介の隣をふよふよと浮きながら、その横顔をちらちらと見る。その視線に、
「どうかしたの?」
 問いかけると、マオは慌てたように視線を逸らし、
『べ、別に!』
 と、あからさまになにかありそうな返答をした。
 しばらくその状態が続いていたが、マオは、
『あのね!』
 意を決したように尋ねた。
『京介さん、何しに隆二の家来たの?』
 放たれたのは、まぎれもないストレートだった。
 京介は少しきょとんとマオを見つめてから小さく唇の端をあげる。
「隆二に聞いて来いって言われたの?」
『ええっ、ち、違うよっ』
 マオは慌てて両手をばたばたさせながら、
『あたし! あたしが気になったからっ』
 早口で告げる。
 嘘のつけない彼女の挙動に、京介は一度笑うと、
「俺はね」
 表情を引き締めて、告げた。
「約束を破るために来たんだ」
『ん? よくわかんないけど、約束は守らなくちゃだめよ?』
「まあそうだね」
 真顔で諭された言葉に苦笑する。そんなことは、わかっている。
『それで、約束ってなぁに?』
「それはいくらマオちゃんにでも教えられないな」
『えー』
 マオが頬を膨らませる。
「そうだなぁ、それだけで帰すのも悪いかな。マオちゃん、隆二に怒られちゃうもんね」
『そうだよ! この役立たずって隆二に』
 そこまで言ってマオは、はっと何かに気づいたかのように口を両手で押さえ、
『隆二は関係ないんだけどねっ!』
 強い口調で言い切った。
「うん、そうだね。ごめんごめん」
 あんまりいじめるのも可哀想になってそうフォローすると、マオが途端に安心したような顔をした。
『そうそう、隆二は関係ないの』
「隆二が関係ないのはいいんだけど」
 少しぐらいなら、何かを教えてあげてもいいだろう。隆二が京介の行動を訝しんでいるのは重々承知しているのだから、ヒントぐらいは出してあげよう。
「そうだな、これは言っておこうかな。俺はね、隆二が心配なわけ」
『心配?』
「そう、あとの二人のことは心配してないんだ」
『あとの二人?』
「仲間の。あの二人は不死者であることを受け入れているから。英輔は死なないってことは甘いもの食べ放題じゃん! とか言ってたし、颯太はなんか宇宙の研究を長いスパンで出来るとか張り切ってたし」
 マオは、甘いもの、宇宙、と言われた言葉を覚えるように小さな声で唱えている。だから、少し油断していた。
「……俺と、隆二だけなんだよ、受け入れられていないの」
 そんな言葉が思わず溢れ落ちた。
『俺と、隆二だけ……。ん?』
 京介の油断を嘲笑うかのように、マオはその言葉を聞き取り、なおかつその意味もしっかり理解した。
『……京介さんも受け入れられないの?』
 言いながら顔を覗き込むようなマオを、
「それよりマオちゃん、隆二ひとりだと寂しいから帰った方がいいんじゃないかな」
 笑いながら言うことで牽制した。
『え? 別に、隆二が寂しいなんて可愛いこと思うわけ……』
 言いかけたところで、はたと気づいたように、
『寂しいね、寂しいよね! 寂しいのはよくないよね! あたし、帰るね!』
 うんうんと何度も頷く。その顔には、はやく伝えなくちゃ、と書いてある。
『京介さん、お買い物付き合えなくてごめんね!』
「ううん、隆二によろしくね」
『うん、ちゃんと伝える。……じゃなくて、隆二は関係ないけどね!』
 などと言いながら急いで戻って行く背中を見送って、小さく微笑む。
 ああ、彼女は、なんて素直なんだろう。
 幽霊であるマオは他人には見えない。一人で空気と会話しているような京介に、周囲が微妙な視線を向けてくる。
 そんなもの、今更気にしない。今更そんなもの、どうでもいい。
「約束を破りに来たんだ」
 自分の言葉を反芻する。
 口にしてみれば、改めて胸に刺さった。ああ、そうだ、約束を破りに来たんだ。
「……ごめん」
 ズボンの後ろのポケットに手を伸ばし、そこに収まっているものを確認すると、小さく呟いた。

 

「約束を破るねぇ」
 マオから報告を聞いた隆二は小さく呟いた。約束を、破る?
『一応ね、約束は破っちゃだめよって教えてあげたけど』
 要らん世話だろ、それ。
『隆二、京介さんと何か約束したの?』
「いいや。俺、基本的に約束とかしないから。めんどうだから」
 契約ならたまにエミリ達と交わすが。それ以外に約束だなんて、せいぜい茜とした約束ぐらいではないだろうか。
 そんなことを思いながらマオを見ると、
「……待て、お前なにそんなににやけてる?」
 だらしなく相好を崩したマオがそこには居た。やや気味が悪い。
『え、だって、隆二あたしとは約束してくれたじゃない? それって、特別ってことでしょう?』
 当たり前のように、弾んだ声でマオが答える。ふふ、っと嬉しそうに笑う。
 ああそうか、一緒に学んでいこうというあれは、考えてみれば約束だった。
「……そうだな」
 隆二は小さく微笑むと頷いた。
 考えてみないとわかんないのかよ、とつっこむような人間はここには居ない。
『あ、あとね』
 思い出した、とマオは両手を叩き、
『京介さんは隆二が心配なんだって』
「は?」
 心配?
『えっとね、京介さんと隆二だけが、不死者になったことを受け入れられていないから、だっけな』
「いや、別に今更、受け入れられていないわけじゃ……っていうか、あいつも?」
『うん、京介さんも、って言ってた。あ! なんかはぐらかされた! 聞いたのに』
 膨れるマオ。
 それにしても、ここまで聞き出して来るとは思わなかった。適当に京介にあしらわれて終わりだろうと思っていた。
 ということは、京介はこのことを隆二に伝えてもいいと思っているということか。マオに、相手が話す気がないのに聞き出してくる能力があるとも思えないし。
「それで?」
『ん、えっとね。えーすけさん? は、死なないってことば甘いもの食べ放題! って言ってて、そーたさん? は宇宙の研究が出来るとか言ってたって』
「……何をしているんだ、あの二人は」
 うんざりして溜息。ああ、でも目に浮かぶ。
 甘いものを愛し過ぎている甘党の英輔は、甘い物さえあれば満足なのだろう。それはそれで、幸せなことだと思う。
 最年長で一番賢い颯太が、この永遠の時間を使って何かの研究をするということも、考えられないこともない。
 それに比べて自分はどうだ。毎日毎日だらだらとテレビをつけて、本を読んで、コーヒーを飲んで、居候猫をからかって遊んで。非生産的な生き方だ。
 確かに、その二人に比べたら、心配されても仕方がない。
「……なるほどねぇ」
 小さく呟く。
 なんとなく、あの二人のあとに自分のところに来た理由は納得できた。心配の種は最後にじっくりと、ということだろう。
 特に、仲間内で唯一、茜に会ったことがあるのが京介だ。茜が亡くなってから、京介がそのことを気にかけてくれていたのはわかっている。この前の墓参りの一件だって、あいつの差し金の部分が大きい。さぞかし心配かけていたことだろう。
 でも、茜の一件が解決してもなお、京介がここに居座る理由はなんだ?
「わけわからんな」
 結局、謎は何も解決していない。そのとこに溜息をつく。溜息をつきながらも、
「まあでも、マオ、ありがとな」
 思ったよりも上手く諜報の役割をしてきた居候猫の頭を撫でた。
 マオは心底嬉しそうに微笑んだ。



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