目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
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第一幕 居候猫と新たなる居候

 その日、マオはいつものように夕方の散歩を楽しんでいた。
 人並みに紛れるようにしてふよふよと浮きながら、道行く人を眺める。楽しそうな人、悲しそうな人、急ぎ足の人、のんびりと歩いている人。皆それぞれ違っていて、見ていて飽きない。直接はかかわれないものの、そうやって周りの人々を眺めることが、マオは好きだった。
 でも、そろそろ戻らなければ。好きな番組が始まってしまう。公園の時計を見てそう思うと、隆二の家に戻ろうとし、
「ちょっと、そこの幽霊のお嬢ちゃん」
 丁度その時、右手からそんな声が飛んで来た。
 穏当ではない声のかけられ方に勢いよく振り返ると、一人の青年がそこにいて、
「そうそう、お嬢ちゃん」
 マオを指差しながら、にっこりと微笑むと続けた。
「神山隆二っていう名前の不死者、知らない?」
『いっ』
 マオはその言葉を理解すると、咄嗟に叫んでいた。
『いやぁぁぁぁっ!! 不審者ぁぁぁぁ!』


 神山隆二は、いつものようにコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
 元々彼にとって本を読むのは、暇つぶし程度の意味合いしか持たなかった。しかし、ここ最近、居候猫が居着いてからはどたばたしていて潰す暇が存在しない。そうなると、時間を作って意地でも本を読みたくなるから不思議である。居候猫の散歩の時間に、一人静かに本を読むのが、今の彼の密かな楽しみであった。
『りゅぅぅぅじぃぃぃぃ』
 遠くから、居候猫の鳴き声が聞こえる。
 時計に視線を動かすと、午後五時半になろうとしていた。居候猫は午後五時半から始まる、特撮ヒロイン物、疑心暗鬼ミチコの再放送をとても楽しみにしている。
 毎回毎回、よく丁度の時間に戻ってくるよなぁ。そんなことを思いながら、片手を伸ばしリモコンを手に取る。スイッチをいれる。再び本に視線を落とす。もうちょっとで読み終わりそうだから、邪魔しないで欲しいなぁ。
『りゅーじぃー!! たぁいへんー!』
 窓からぴょこっと居候猫の顔が生える。
「テレビならつけたぞ」
 本に視線をやったままそう告げると、
『そんなこと! どうでもいいよぉ!』
 マオが隆二の目の前で両手をばたばたさせながら叫んだ。
「は?」
 思わず本から顔をあげる。
 どうでもいい? マオが疑心暗鬼ミチコのことをどうでもいいだと? 彼女の中でひょっとしたら隆二よりも格上の、疑心暗鬼ミチコのことをどうでもいいだと?
「……どうした?」
 知らず、低い声になる。一体何があったというのだ。
『大変なの! あのね、あのね! さっきね、そこでね! 知らない人に声をかけられたのっ!!』
 それで? と流しそうになって、
「は?」
 慌ててマオを見る。彼女の向こう側に、テレビが透けて見える。今日も今日とて、安定して、どっからどう見ても、完璧な幽霊だ。
「声をかけてきた?」
 完璧な幽霊に声をかけてくるなんて、普通の人間じゃない。幽霊が見える人がいても、スルーするのが通常だし。
『うん! でね、その人に言われたの! 神山隆二っていう、不死者を知らないかって!』
「神山隆二っていう、不死者を知らないか?」
『うん!』
 マオが頷く。
「神山隆二っていう不死者、か」
 そこまで知っているっていうことは……、何だ?
『どうしよう! 一応ね、まいてきたけどね!』
 マオはあせったように両手を無意味に動かす。
 ぴんぽーん、チャイムの音が部屋に響く。
『うひゃっ』
 驚いたようにマオが声を上げ、隆二の背中に隠れるようにする。壁にめり込んでいるが。
「隆二、いるんだろー」
 ドアをがんがん叩きながら、来訪者は声を張り上げる。
「お嬢ちゃんのあと、つけさせてもらったから、ここだろー」
「まけてないじゃないか」
 思わず背後のマオにつっこむ。
「俺だよー、俺俺」
『やだっ、オレオレ詐欺だわっ』
 いつのまにオレオレ詐欺は対面方式になったのか。
「エミリちゃんにさー、住所訊いたのに教えてくんねーの、個人情報とか言ってー」
 外の声は返事がないことを気にした様子もなく、続ける。
『……エミリ』
 隆二の背後でマオが小さく呟いた。ぎゅっと隆二の腕を握る。それに気づくと、隆二は振り返って、一度マオの頭を撫でた。
 先日の一件後、改めてエミリが謝罪に来たものの、マオはエミリのことは苦手のようだった。まあ、仕方ないよな、殺されかけたわけだし。幽霊だけど。
 などと思っている間にも、
「りゅーじーあーけーろー」
 ドアをガンガンたたきながら、声がする。
「……すっげー、無視してぇ」
「開けないとないことないことご近所に吹聴すんぞー」
 聞いていたようなタイミングで外の声が言う。というか、
「聞こえてるんだろうなぁ」
 小さくため息をつくと立ち上がる。
『隆二ぃ、大丈夫なの……?』
 怯えたような顔をするマオに笑いかける。
「知り合いだから」
 言って仕方なしにドアをあけた。
 黒髪の男が、楽しそうな顔をして立っていた。
「お前さ、もうちょっと普通に来いよ。チャイム鳴らしたなら出るまで待てよ」
「待ったってどうせ隆二出る気なかっただろう」
「当たり前だろうが」
「じゃあ、こうするしかないじゃないか」
 男は悪びれずに笑う。
「うちの居候猫が怖がるじゃないか」
 そうして一度言葉を切り、
「京介」
 相手の名前を呼んだ。

 

 男は神野京介と名乗った。
「まあ、あれだ、俺の同族だ」
『りゅーじの』
 マオは京介を上から下まで眺めて、
『そっか、隆二の』
 安心したように呟いた。
「うん、隆二の仲間ー。さっきは怖がらせたみたいでごめんねー、マオちゃん」
 京介が笑いながらいうから、マオは首を横にふった。
「っていうかさ」
 隆二は京介を見て、
「くつろぎ過ぎじゃね?」
「まあまあ、気にしないで」
「するって」
 ダイニングテーブルに座る隆二の視界にうつるのは、赤いソファーにだらりと腰掛けた京介だった。お前の家かよ。
 隆二の向かいに座ったマオは、ちらちらとテレビに視線を送っている。事態が落ち着いたらテレビが気になるようだ。
「……マオ、気になるならあっちでゆっくり座って見ろ」
 テレビの方を指差すと、
『でも』
 困ったように隆二とテレビと京介に視線を動かす。
「いいから。京介、お前こっち座れ」
「はーい。マオちゃん、どうぞ」
 京介は素直に立ち上がると、隆二の向かい側に座る。それを確認すると、マオはソファーに移動した。
「で?」
 頬杖をついて隆二は問う。
「何に来たわけ、お前」
 仲間同士で今までまったく連絡をとらなかったわけじゃない。だが、なんとなく連絡を取り合わないようにしよう、という不文律が出来ていたはずだ。それがこうやって会いにくるなんて。
「色々あってさ! しばらく置いてよ」
「帰れよ」
 即答した。
「なんで俺がお前を家に置かなきゃいけないんだ」
「色々あったんだって」
「じゃあせめてその色々を話せ。いや、やっぱり話さなくていい。かかわりたくない」
「懸命だね」
 京介が笑う。
「住む場所がないなら嬢ちゃんに声かければどうにかしてくれるだろ」
「エミリちゃんに借りを作りたくないのは、隆二だって一緒だろ?」
「まあ、それはそうだけどな」
 代わりにどんな面倒なことを頼まれるか。
「家賃なら払うよ。なんなら全額。光熱費も払ってもいい。ついでに、俺持ちで食事を作ってもいい」
 楽しそうに、そして少し嫌味っぽく京介は笑うと、
「寂しいんでしょ、懐」
 言葉につまった。
 確かに、マオに正体を隠すために食べる必要もない食事をとっていたことが予想外の出費となって、貯金額が目減りしている。京介の提案は、とても魅力的だった。
「俺、普通にバイトしてたから金あるよ?」
 駄目押しの一言。
「……わかった」
 しぶしぶ頷くと、
「金の力に惑わされましたねっ!」
 テレビに言われた。空気読み過ぎだろ。
「あ、富子」
 テレビに視線を移した京介が呟く。
 とみこ?
「……ミチコじゃないのか?」
 尋ねると、
『違うよー、ミチコはこの前終わったよー!』
 テレビの前で拳を握ったままテレビを見ていたマオが、振り向かずに答える。
「美少女四字熟語シリーズっていうシリーズ物なんだよ」
「四字熟語……」
「一作目が疑心暗鬼ミチコ。これは二作目の七転八倒富子」
「七転八倒……」
 ヒーローとしてはどうかと思うネーミングだ。
 見れば、確かに画面上で戦う少女は肘宛てやヘルメットなどをしている。あ、転んだ。
『富子はねー、強いんだけどよく転んじゃうのー』
「毎回十五回は転ぶんだよ」
「転び過ぎだろ」
 毎回七転八倒か。
『でも、強いんだよー』
 それが一番重要だ、とでも言うようにマオが念押しする。強ければ転ぶのも許されるのか、ヒーローも。
「ちなみにこれ、富子役の子が撮影中に骨折しちゃって、途中で主役が交替するんだ。当時の雑誌には、七転八倒富子、本当に転倒! って出ててさ」
「なんでお前、詳しいんだよ」
「ちょっと調べたことがあって」
「なんでそんなもん調べるんだよ」
「ミチコのお面をお祭りで見かけたんだよ。これ、なんのキャラなのかなーって思って」
「お祭り、ねぇ」
 そんなものにどうして京介が行ったのかの方が気になる。
『あなた! 詳しいのねっ!』
 マオが目を輝かせながらテーブルに飛びついて来た。
 テレビはエンディング曲を流していた。なるほど、終わったからこっちに来たのか。
「そのうち富子の代わりに、七転びヤオ君子がやるはずだよ」
 京介は笑いながらマオに告げる。
「七転び八起き……」
 ようやく起き上がるようになったか。
「あとあれは特撮物だけど、アニメ版もあるんだ」
『へー』
「そっちには四苦八苦久美子っていうのもあるよ」
「四苦八苦……」
 ようやく起き上がったのに。
『すごいね! 隆二!! 京介さん、詳しいのねっ!』
 はしゃいだようにマオが両手を叩く。
「あー、まあなー」
 詳しいには同意するが、それがすごいのかどうかはわからない。
 京介はにこにこと笑っている。
『本当、すごいっ』
 マオが楽しそうで、なんとなくそれが癇に障る。さっきまであんなに怯えていたくせに。そんなことを思ってしまう。怯えているよりは、楽しそうにしていてくれる方がいいのだが。
「マオ、おまえ、ちょっとは落ち着け」
 言いながら自分の隣を指差す。
『はーい』
 マオは素直に隣に座った。それに少し安堵する。
「事後承諾で悪いが、しばらくこいつも一緒に住むことになった」
「よろしくねマオちゃん」
 言われてマオは少し困ったような顔をしたが、
『うん、わかった』
 小さい声で頷いた。
『家主が言うなら仕方ないもんね』
「……いつの間に家主とか覚えたんだ?」
 元々妙なことは知っていたが、なんだか感慨深いものがある。小さい子どもの成長を見守る親のような気分になった。小さい子どもを持つ親になったことなんてないけど。
『テレビでやってたよ。夕方のニュースのね、特集。激闘! 家賃の取立合戦? とかで。あれね、面白いの。万引きGメンと夜回りおばちゃんのシリーズが好き! あ、あと警察に密着するやつ!』
「……そうか」
 ただ、知識の仕入れどころが偏っているので、今ひとつ安心できないが。
 二人のやりとりを楽しそうに見ていた京介は、話が終わったことを見届けると、
「ごめんね、よろしくね」
 微笑みながら右手を差し出す。
 マオはしばらく躊躇った後、その手を握った。
 握れた。
『……触れるんだ』
 握手した手を離してから、マオが小さく呟く。
「あー、同族だからな」
「同族だしね」
『……同族。不死者ってことだよね?』
「ああ」
『……研究所の?』
 こちらの顔色を伺うようにして問うマオに、小さく頷いてみせる。
『京介さんは、隆二とは仲いいの?』
「よくはないな」
「いいよ」
 二人で顔を見合わせる。
「いつ、俺とお前の仲がよくなったんだよ」
「酷いな隆二。俺はお前のこと、他の二人よりは仲いいと思ってるぞ」
「……まあ確かに、小言の五月蝿いコーヒー狂いと味覚音痴の甘党と比べりゃあ京介とは仲がいい部類だけどな」
「年も同じだしな。颯太となんかは五歳も違うし」
「こんだけ生きてりゃ誤差の範囲だろ」
 ぽんぽんと隆二と京介二人が会話するのを、
『むー、ちょっとっ』
 膨れっ面したマオが遮った。
『わかんないっ、何の話してるのかぜーんぜんわかんないっ』
 こちらを睨んでくる。
「そうだぞ隆二。ちゃんとマオちゃんにもわかるように話をしないと。仲間はずれにしたら可哀想じゃないか」
『そうよそうよ!』
「俺一人のせいかよ……」
 一つ溜息。
「だって俺、お前がどこまでマオちゃんに話したか知らないし」
「あー。ま、そうだろうな」
 少し躊躇った後、
「ほら、成功した実験体が俺をいれて四人だっていうのは、話したよな?」
 隆二の言葉にマオは頷く。
『聞いた』
「それの一人がこれなわけ」
『京介さんね?』
「で、残った二人のうち一人が、俺等の中で最年長で、小言が五月蝿くて、コーヒーにこだわりがあり過ぎてひくレベルのやつ。神崎颯太」
『かんざきそーた』
「颯太はね、インスタントコーヒー飲んでるやつを見つけると、片っ端から説教かますから、気をつけた方がいいよ」
 京介が付け足す。
「あれ、なんなんだろうな。こだわりが強過ぎて本当ひくんだが」
 インスタントしか飲まない隆二としては、二度と会いたくない人物の一人だ。殺されかねない。
『隆二はこだわり無さ過ぎだと思うけどな』
 マオが呟く。
「……そうか?」
『うん。無趣味っていうか』
「誰かさんのせいで退屈してないから趣味とかいらないんだ」
『ああ、あたしのおかげで毎日楽しいってことね』
 頬に手を当ててマオが嬉しそうに笑う。よくまあ、瞬時に前向きに解釈出来るよなあ、この無駄ポジティブめ。そうは思うものの、マオが言っていることもあながち間違いじゃないので否定もできない。
「俺の趣味の話はどうでもよくて。最後の一人。俺等の中で最年少。味覚音痴の甘党、神坂英輔」
『かんざかえーすけ?』
「そう」
『甘党って?』
「甘いものがそれはそれは好きなんだ。あいつ」
 隆二は少し眉間に皺を寄せる。
「俺はあいつが一番怖い。甘いもののためならあいつは何でもするんだろうな、って思うから。俺か甘いものか選べって言われたら、あいつは間違いなく甘いものをとる」
「全世界を敵にまわしても、甘いものを食べ続けるんだろうな」
 京介も嫌そうに呟いた。
 マオはふーんっと少し悩んでから、
『変な人ばっかりねー』
 しみじみと呟いた。
「そういう意味では、京介は割とまともだよな」
「え、何その上から目線。隆二、自分のことまともだと思ってるわけ?」
「あの二人に比べたらまともだろ」
「まあねー」
『……よっぽど変人なんだねー』
 くすり、とマオが笑った。
『ちょっと会ってみたいなー』
「それは勘弁してくれ」
 マオがその二人と会うならば、必然的に隆二も会うことになるのだろう。それはちょっと嫌だった。
「最後にあったのいつか、ってレベルだしな」
『あんまり会わないの?』
「用もないし」
 それに、会うとどうしても過去のことを思い出して憂鬱になる。何年経っても何十年経っても変わらない自分達は時間軸から取り残されていることを、改めて認識することになる。だからなんとなく、お互いに積極的にあうのは避けるようになっていた。たまに、研究所絡みの依頼で会うことはあっても。
「俺、会って来たよ、二人に。ここに来る前」
「は?」
 さらりと告げられた京介の言葉が、理解出来ない。
「は? 何、お前、わざわざ颯太と英輔にも会って来たわけ?」
「うん」
「なんでだよ」
 そして何故最後をここにして、居着こうとしているのか。
「ちょっとみんなの顔が見たい気分だったんだ」
 微笑む。そんな京介に、隆二は得体の知れないものを見つめる目を向ける。
「……大丈夫か、つかれてるのか?」
「どっちの」
「憑依の」
「憑かれてねーよ」
 だって、お互いに会わないという暗黙の了解を破って、わざわざ会いに行くなんて、正気の沙汰とは思えない。
「色々と自分を振り返りたいことって、あるだろ?」
「いい年して自分探しってことか」
「うん、そんな感じ」
 そんな感じなのか。
「……まあ、なんでもいいんだけどな」
 お互い過度にかかわりたくないし。
「相変わらずだったか、あの二人」
「相変わらず、コーヒーと甘いものを愛してたよ」
「なら、いいんだ」
 お互いがお互いの場所で、それなりにやっていてくれるのならば。たった四人の仲間だから、それなりに彼らの平穏を祈っている。
「っと、マオ悪い」
 また話から爪弾きにしてしまった。少しむくれたマオに謝る。
『いいよー』
 むくれたものの、隆二の方から謝ったからか、すぐに笑った。
「じゃあ、マオちゃん問題」
「お前はお前で急に何を言い出す」
「神山隆二、神野京介、神坂英輔、神崎颯太。この四人に共通することって何だと思う?」
『同族なんでしょ?』
「あー、ごめん名前で」
『……名前?』
 マオが眉根を寄せながら、四人の名前を呟く。
 ああ、その話ね。隆二は理解すると、
「音じゃ、わかんないだろ」
 マオ、バカだし。
「あー、そっか。紙とペン」
 京介は納得したように頷くと、右手を無造作に出してくる。なんで借りる側が偉そうなんだよ。
 仕方なしに立ち上がると、部屋の片隅で放置されていたバイト情報誌とボールペンを手渡す。京介はその余白に四人の名前を書き込んだ。
『あ! わかった、神様!』
 マオが嬉しそうに声をあげる。
「正解」
 京介が微笑むと、
『わーい、あたったー』
 嬉しそうに両手を叩いてから、隆二に抱きついた。
「この問題、間違える方が凄いだろ」
 思わず小さく呟いたが、幸いマオの耳には届かなかったようだった。
『んー、でもなんでみんな神様なの?』
 隆二の右腕に張り付いたまま、マオが尋ねる。
「希望が欲しかったんだよ」
 それに端的に答えた。
 あの時、研究所から逃げ出した時、四人で過去に決別することを決心した。だから、人間だった時の名前を、改めて捨てた。識別番号なんて、勿論捨てた。
「神って名字につけとけば、なんとなく報われる気がしたんだよな、あの時」
 京介が言いながら苦笑する。
「若かったよなぁ、あの時」
「ああ」
 神がつく名字をそれぞれ考えて、
「下の名前は、それぞれ交換したんだよな。音だけ採用して、漢字は変えて」
 京介が続けた。
「……ああ」
 隆二は一つ頷くと、ひっついたままのマオを伺うように見る。
『へー』
 マオはぽかんと口を開けて、そう相槌を打った。ほんの少し、予想外の反応だった。
『なに?』
 そんな隆二の視線に気づいたのか、マオが首を傾げる。
「……いや」
 訊かれるかと思ったのだ。隆二の本当の名前は、きょうすけ、えいすけ、そうた、のどれなのか、と。
 けれどもマオは、そんなことには興味がないようだった。
『でも、結局今は神山隆二なんでしょ? そうやって、呼べばいいのよね?』
 ただそれだけを念押しするように確認してくる。
「ああ」
『うん、わかった』
 そしてぱっと花が咲くように笑う。
『りゅーじ』
 楽しそうに隆二の名前を呼ぶ。それから、隆二の右腕から離れる。
『あのね、あたし、お腹すいちゃったの』
「あー、そっか」
 この前の食事から日があいている。
「手伝う?」
 意識のない人間から精気を奪うことを食事とする幽霊に問いかけると、
『ううん、色々お話あるだろうし、、あとは二人でごゆっくり』
 微笑みながら断られた。
『それじゃあ、行ってきます』
 マオは笑って、壁の向こうへ消えて行く。
 もしかしたら、マオはマオなりに、気を使ったのかもしれない。
「良い子だねー、マオちゃん」
 その姿を見送ると、京介が呟いた。
「……それで、本当はお前、何しに来たんだよ?」
 マオがいなくなったことで、幾分語気を強めて尋ねる。
「言ったじゃん、色々あったんだって。それで皆に会おうと思って」
 京介は笑ったまま答える。
「あ、でも」
 そして笑ったまま続けた。
「隆二のところを一番最後にしたのも、泊めてくれっていったのも、隆二が心配だったからだよ」
「なんで」
 なんでお前に心配されなきゃいけないんだ。
「エミリちゃんに聞いてさ。また女の子と住んでるって。また、傷つくんじゃないかって隆二が」
 気づいたら、にこにこ笑ったままの京介の胸ぐらを掴んでいた。
「乱暴だなー」
 あっけらかんと京介が呟く。
「余計なお世話だ。京介には関係ないだろ」
 それだけ告げると、手を離す。少しよろけたものの、京介は小さく微笑んでいた。
「関係あるんだなぁ、これが」
「何がだ」
「茜ちゃんのこと、隆二がどう思って」
「いい加減にしろっ!」
 声が大きくなる。
 ここにマオがいなくてよかった。激昂した頭のどこかで、冷静にそんなことを思った。
「次に茜のこと口にしたら追い出す」
「はいはい」
 おどけたように京介は両手を軽く上にあげた。
「悪かったって。とりあえずさ、なんか飯食おうよ」
「別に俺は食べる習慣ない」
 まだむしゃくしゃしたまま、斬り捨てる。
「でも、食べること嫌いじゃないだろ? しばらく料理人のまねごとしてたから、なかなか上手いよ、俺」
 そうして京介は冷蔵庫を開ける。
「うん、思ったとおりなんにもないね」
「……悪かったな」
「なんか適当に作るよ。あ、ちゃんと俺が出すからさ、材料費。食えないものとか、ないよな」
 いつもの調子で問われた言葉に、小さく頷く。
「うん、じゃあ、そういうことで」
 言うと、さっさと京介は部屋から出て行った。当たり前のように。
 ドアが閉まる音を聞きながら、椅子に腰を下ろす。
「……なんだっていうんだよ」
 呟いた言葉は、誰もいない部屋に溶けていった。

 

『わぁ……』
 テーブルの上に並べられた料理を見て、マオが感嘆の声をあげた。
『すごぉーい、テレビみたいっ』
 テレビっ子のマオにとって、それは最大級の褒め言葉だ。
「あはは、ありがとう」
 料理人である京介がそれを受けて笑った。
「海鮮とほうれん草のジェノベーゼパスタに、ただのサラダだよ」
『でもすごぉい、あたし、コンビニのおにぎり以外見たの初めて!』
「……子どもにちゃんとした食事与えてない家庭みたいになるからやめろ」
 なんだか恥ずかしいじゃないか。事実だけど。
「まあ、この家、皿すらろくにねーんだもん、びびるよな」
「使わないし」
 っていうか、皿も買って来たのか。道理で見たことない皿だと思った。
「隆二、知ってるか。最近の百均って」
「ひゃっきん?」
「おおぅ、そこからから」
 露骨にバカにしたような言い方で、
「百円均一。店内の商品が全部百円なんだよ。あ、別途消費税かかるし、たまに百円じゃないものもあるんだけどな。あれ、罠だよなー」
『知ってる! テレビでみた! 色々な便利グッズが売っててね、それを何に使うか当てるので見た!』
 だからどれだけテレビっ子なんだ。
「このお皿も百均だ」
「……へー」
 見た感じ、普通に家にある他の皿に見える。
「最近は、すごいんだなぁー」
 呟くと、
『……隆二、そういうの、年寄りっぽいからやめた方がいいよ』
 マオに真顔で諭された。ほっといてくれ、実際年寄りなんだから。
 この場の平均年齢をぐぐっと下げている出来たてほやほやの幽霊少女は、うっとりした目でテーブルを眺めてから、
『ああっ、あたし、今までで一番幽霊なことを悔しいと思ったっ』
 両手で顔を覆って、盛大に嘆いた。もっと他に悔しがる場面なかったのだろうか、平和でいいけど。
 これで不味かったら大笑いだ。
 席に着くと、なんとなくぎこちない動作でフォークを手に取る。だって、久しぶりだし、コンビニおにぎり以外って。
『あ、いただきます言わなきゃ駄目よっ?』
 隣の椅子に腰掛けるようにして浮きながら、こっちをじっと見つめるマオにつっこまれた。
「……はい、いただきます」
 素直に両手を合わせて呟く。
 向かいで京介が楽しそうに笑ったのが、これまたむかつく。また尻に敷かれている、とか思っているんじゃないよな?
 ちょっとパスタを巻くのに苦労した後、口へ。咀嚼。
 わくわくしたようなマオの視線と、勝ち誇ったような京介の視線を感じる。ああ、癪に触る。
「……うまいよ」
 しぶしぶ答えた。
 今までの隆二の食生活には、あまりなじみのない味だが、嫌いじゃなかった。美味しいと思った。麺の固さも丁度いいし。なんだか悔しいけど。
 京介がにやりと笑った。
「だから言ったろ? 料理人してたって」
「あー、はいはい」
 なんか本当むかつく。別に料理作る能力なんて自分に必要だとは思わないけれども、それでも。
 隣でマオが尊敬の二文字を瞳に浮かべて京介を見ている。
『いいなぁー』
 食事を続ける二人を見て、頬を膨らませる。
『あたし、仲間外れー、お腹空いたー』
「それは嘘だな」
 さっき食べてきたばっかりだろう。
『むー』
 ますます不満そうな顔になった。
「マオちゃんって人の精気食べるんだっけー?」
「それも嬢ちゃんから聞いたのか?」
「うん」
 なんでもぺらぺら喋るな、あいつ。それでよくうちの住所を喋らなかったもんだ。
『そうだよー』
 言ってからマオは、ほんの少し身を引き、隆二の方に寄る。
「どうした?」
『……怒る?』
 うかがうように京介を見ながら尋ねる。
 ああ、それ、まだ気にしていたのか。でも多分、京介なら、
「なんでー?」
 あっけらかんと京介は答えた。予想どおりの言葉に、隆二は少し笑う。
 フォークを置き、マオの頭を撫でた。
「俺たちの誰も、マオのこと責めたりしないから」
「うんうん、英輔とか颯太とかに会うことがあっても、それ聞かなくていいよ。怒るわけないから」
『……本当?』
 上目遣いでおそるおそる聞いてくる彼女に笑う。
「同じ穴の狢、なんだろ?」
 いつだったかマオが言っていたことを言ってみると、小さく顎を引いた。
『んっ』
 だってみんな、化物なんだから。
 それは言わずに飲み込む。わざわざ改めてこんな場所で、ここにいる者の心を抉る必要はない。?
「んー、じゃあさ、マオちゃん」
 京介は軽薄そうな笑みを浮かべて、
「次、お腹空いたら俺の精気あげようか?」
「何を言っているんだお前は」
 即、つっこんだ。
「なんだよー、やきもち?」
「バカか。不死者に精気なんつーもんが、あると思うのか」
 半分死んでいて半分生きていて、そしてそのどちらでもないのに。
「なにかあったらどうする」
「なんだ、マオちゃんが心配なんだ」
 そしてまた、にっこりと笑う。
「だからっ」
 それに思わず声をあらげて、
『え、違うの?』
 マオのちょっと不満そうな声に、勢いを失う。
「……いや、心配してないわけじゃなくて」
 なんで京介がそんないちいち勝ち誇った顔をするのかが気になるのだ。笑った顔の裏に、また心配しているんだ? という文字が見えるのは、穿ち過ぎだろうか。
『心配?』
 未だに隆二に近づいたままのマオが、顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
「……ああ」
 仕方なしに頷く。心配しているかしてないかと言えばしているし。
 マオはそれを聞いて、心底嬉しそうに笑った。
『うん、だから、せっかくだけど駄目だねー、京介さん』
 やたらと嬉しそうに告げる。
「そっかー、残念だー」
 対して残念でもなさそうに京介が答えた。
『それに、隆二が止めなくても、京介さんが人間でも、いらなぁい』
「なんで?」
『だって、男の人ってまずいもの』
 当たり前のように告げる。そしてそのままの口調で、
『男の人は、隆二以外いらなぁい』
 爆弾を放った。
「マオっ」
 咄嗟に大きな声が出る。びくっとマオが体を強張らせて失態に気づく。
『え……、ごめんなさ……』
「あ、違う、怒ったわけじゃなくてだな」
 その発言自体はもう聞いたことがあるし、マオにとって自分が特別な存在であることは理解している。鳥の雛における、刷り込みに似たような感覚。社会でふれあった初めての存在で、親のようなものだということは。
『でも……』
「怒ってない。嫌なわけじゃない。だからそういう、泣きそうな顔するな」
 瞳を潤ませたマオの頭を撫でながら、左頬に突き刺さる視線にうんざりする。
 マオの発言それ自体は、なんの問題もない。如何せん、言った場所が悪かった。
 見なくてもわかる。にやにや笑った京介の顔が。
「へぇー」
 案の定、からかうような京介の声がする。
「仲いいんだねぇー」
 それを素直に受け取れない。
『……あたし、隆二のこと好きだもん、隆二は特別だもん』
 さすがのマオも、京介の言い方になにか思うところがあったのか、挑むようにして告げる。
 うん、気持ちは嬉しいが、あんまり今そういうこと言うな。そいつに言うな。
「隆二も満更でもなさそうだもんねー」
「まあ」
 曖昧に頷く。何言っても泥沼になりそうな気がする。
『隆二の、まあ、は割と好きなんだからっ』
 マオが威嚇するように吠えた。
「……まて、それはどういう」
『え、違うの』
 威嚇の表情を改めて、きょとんとした顔をする。
『だって、前、梅のおにぎり好き? テレビより本の方が好き? って聞いた時、まあ嫌いじゃないって言ったじゃん』
「……そうだっけ?」
 よく覚えているなぁ。こっちは、そんな会話をしたことすら覚えてないのに。
『でも、隆二、梅のおにぎりも、本も、好きでしょう?』
 頷く。
『だから隆二の、まあ、は割と好きの意味だよ』
 そうしてマオは屈託なく笑った。
「……そっか」
 なんとなくその笑みに気圧されて頷いた。そんなこと、考えたこともなかった。
「好きじゃなきゃ一緒に暮らさないもんな」
 黙って見ていた京介が口を挟む。
『そうでしょう?』
 今度はマオが勝ち誇ったような顔をする。
『羨ましいでしょ』
 何がだ。
 京介は一度目を細め、小さくなにかを呟いた。それから、
「さて、それはともかく、食事を再開しよう」
『本当、はやく食べないともったいないもんね!』
 京介の言葉にマオも従う。そっと隆二から距離をとり、隣の席に座った。
 京介が食事の続きを始めて、
「おまえも喰えよ」
 黙って見ていた隆二を促す。隆二も再びフォークを手に取った。
 マオと京介が二言三言楽しそうに会話する。
 さっき、京介が呟いた言葉。
「繰り返すなよ」
 そう、聞こえた。それは気のせいだったのかもしれない。被害妄想かもしれない。
 それでも、
「余計なお世話だ」


間幕劇 再び拾った猫の名は

「くそっ」
 彼が呟いた言葉は茜色の空へと吸い込まれた。土手に寝転がった状態で見る、それはとても眩しい。
 車に轢かれそうになった子どもを見たら、咄嗟に体が動いた。結果、代わりに轢かれたなんて、お粗末な展開もいいところだ。子どもには悲鳴をあげて逃げられるし。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も折れた気がするし、足の骨も心配だ。痛覚はとっくの昔に切ったから痛むということはないし、ニ、三日すれば歩けるぐらいには傷も回復するだろう。しかし、そのニ、三日ずっとこの川原で寝転んでいるわけにはいかない。下手すると警察なり医者なりを呼ばれかねない。だからと言って、根無し草の自分に行く当てなどあるわけもなく、
「やってられん」
 ため息をついた。もう諦めて寝てしまおうとかと目を閉じかけると、
「だから車! 轢かれてね! 男の人がっ」
 どこからか、子どもの声がした。
 常人離れした彼の耳には、まだ遠くのその声がはっきりと聞こえる。
 ぱたぱたと、走るいくつかの足音と共に。
「隆二兄ちゃんっ、みたいに!」
「で、俺の時みたいに悲鳴をあげて逃げたわけだ」
「だって! 怒られると思ってっ」
「わかってるなら気をつけろよ。そそっかしいんだよ、太郎は。いつか本当に轢かれるぞ」
 走っているから呼吸が乱れている子どもの声とは対照的に、一緒に聞こえてくる男の声は平坦なままだ。乱れがない。
「でもっ、大丈夫なのかしらっ」
 こちらも乱れた女性の声。
「隆二は、ともかくっ、心配」
「俺はどっちかっていうと茜の方が心配だ」
 咎めるような声色。
「いいから歩いてゆっくりついてこい。走るな」
「でもっ」
「太郎、土手だよな」
「そうだよっ、隆二兄ちゃんと一緒」
「だって。走るな、歩け。まだ距離がある。お前まで倒れたらどうする」
「……はい」
 足音が一つ、歩きになる。
「先に行ってる。俺一人の方が速いし。太郎、茜が走らないようにちゃんと見とけ」
「うんっ」
 そして、男のものと思われる足音が、はやくなった。
 その走り方とか、名前とか、声とかに、彼はなんとなく不穏なものを感じる。知り合いな気が、ひしひしとする。
 面倒だなーと思う反面、もし本人ならば厄介ごとは軽減するよなぁ、なんて思っていると、
「……京介?」
 名前を呼ばれた。
「さすが、おはやいお越しで」
 常人離れした脚力でやってきた、知り合いに片手をあげて挨拶する。
「なんだ、お前か」
 呆れたように笑って、男は彼の隣に腰を下ろした。手当をする気とかは、まったくないらしい。彼としても、手当されても気持ち悪いだけだからいいのだが。
「俺が助けた子どもが、隆二を呼んだわけ?」
 尋ねるというよりも、確認するように呟く。
「聞いてたのか?」
「ああ」
「そっか、お前は特に耳がいいもんな」
 彼は、仲間の中でも特に聴力に優れていた。
「女の声もしたけど」
「……ああ」
 男は言葉を濁す。
「うわぁ、隆二が女連れだぁー!」
 それに思わずからかうような声をあげると、
「黙れ」
 脇腹を叩かれた。
「……怪我人相手にひでぇ」
「痛覚切ってるくせによく言う」
 図星だったので小さく笑うに止めた。
 二人でなんとなく空を見上げる。
「知り合いの医者」
 男が空を見上げたまま、呟く。
「腕もいいし、口も堅いから、京介のことも手当してくれるはずだ」
「それはよかった」
「だから」
 そこで男は言葉を切り、彼に視線を向けると、
「治ったらさっさとここから出て行けよ」
 低い声で告げた。
「……わかってる」
 彼も同じような声で答えた。
 こんなところで、自分達は出会うべきではなかった。できるだけ会わないように暮らしていたのに。後から来た方は、さっさと出て行くべきだ。お互いの暮らしを守るために。
「……京介」
「なんだ」
「お前のところにも来たか?」
「……死神さんのことか?」
 男が頷く。
「……来たよ」
 答えると、男はそうか、と小さく呟いた。
「人間として暮らすなんて、やっぱり無理なのかな」
 そうして男は小さく小さく、消え入りそうな声で呟いた。
 彼の常人離れした聴力は、その言葉もきっちり聞き取ってしまった。ああ、聞こえなければよかったのに。男と一緒に、自分の傷まで抉られた。
 人間として暮らすなんて、諦める以外、何ができるというのだ。期待したい気持ちは、わかるけれども。
「隆二っ」
 女の声がして、彼は視線をそちらに向けた。
「だから走るなって」
 小走りで現れた女を、男がたしなめた。
「でもっ」
「これ、知り合い」
 つまらなさそうに男が彼を指差す。
「え?」
「仲間」
「……ああ」
 女は得心が行ったとでも言いたげに頷いたあと、少しだけ痛そうな顔をした。
「……だからなんでお前がそういう顔するかねぇ」
 その顔を見て、男が呆れたように呟く。
 男女の間に流れる、その特有の空気に彼は溜息をついた。これは深い仲にある男女の空気だ。居たたまれない。
 まったくどうして、なるほど、男が人間になりたがるわけだ。
「あの……」
 女の影に隠れるようにして、少年が顔を出す。
「太郎、大丈夫。こいつも俺と同じようにしぶといから、生きてる」
 男のその言葉に、少年はほっとしたような顔をした。
 そのまま彼の脇まできて、
「ありがとうございました。ごめんなさい」
 頭を下げた。
「……いいよ」
 その素直な言葉から、逃げるように彼は視線をそらした。
「先生のとこ連れてく。二人は先、帰っててくれ」
 男が言う。
「でも」
「大丈夫」
 心配そうな女に、優しげに笑いかける。
 ああ、こいつ、まだそんな風に笑えるんだ。そう思った。
「本当?」
「ああ」
「……じゃあ、わかった」
 女はまだ少し、心配そうな顔をしたものの、引き下がった。
「太郎、茜送ってやってくれ」
「うん!」
「車には気をつけろよ」
「わかってるよ!」
「茜、待ってなくていいから。遅くなったら先に寝てろよ」
「……うん」
 そんな会話のあと、少年と女が去って行く。それを見てから、
「よいしょっと」
 男は彼を荷物のように肩に担いだ。
「怪我人に対する扱いかたじゃないよな?」
「じゃあ自分で歩けよ」
「いますぐは無理」
「だろ?」
 男が笑う。
「先生っていうのが、その口の堅い医者?」
「そう。茜の主治医」
「……さっきの女の子?」
「ああ」
「一緒に住んでるわけ?」
「……ああ」
「そっか」
 彼の視線の先で、地面が揺れる。それを見ながら彼はしばらくためらったあと、
「あのさ、言われたくないと思うけど」
「じゃあ言うなよ」
 恐らく何を言われるのかわかったのであろう男が、棘のある口調で言う。けれども彼は、それを無視した。
「入れ込むなよ。そんなこと言っても、もう遅いかもしれないけど。無理だよ、人間となんて」
 男は答えない。心持ち、早足になる。
「俺らじゃ無理だ。だって」
 化物なのだから。その言葉は、口にはしなかった。言わなくても伝わるだろう。
「彼女はどんどん歳をとって、死んでしまうのに、俺らはそれについていけないんだ。傷つくだけだよ、お互いに。隆二」
 夢なんて見るな。無理なものは無理なんだ。
「俺らは人間としては暮らせない」
 少しの沈黙のあと、
「……わかってるよ」
 押し殺したような返事が聞こえた。彼がそれに言葉を返す前に、
「ついた」
 男が言い、その小さな診療所の扉を開けた。
「先生ー、急患でもないけど、急患」
「なんだそりゃ」
 男の言葉に、老医者が出てくる。
 そうしてうやむやのうちに、その話は終わりになった。

 怪我が治った彼は、約束どおりさっさとその場所を後にした。
 これ以上その場所にいて、あの二人の関係を間近で見ることに耐えられなかった。どうして、お互い傷つくことがわかっているのに、夢を見て、求めあうのだろう。
 心配で心配で、だけれどもどこか羨ましくて、自分も夢が見たくなる。あの場所には、いるべきではない。

 数年後、男が女の元を離れ、別の場所に言ったと人伝に聞いた。ほどなくして、女が亡くなったことも。
 その後、再びあった男は何でもないような顔をしていた。それでも、あの時みたような笑みを見ることはなかった。
「お前の忠告を、ちゃんと聞いておけばよかった。もう、何かにかかわったりしない」
 代わりに男は小さく呟いた。
 その言葉に彼は物悲しい気分になった。
 ああ、そんな風になんでもないような顔をしているけれども、お前はしっかり傷ついているじゃないか。
 もっと真剣に、無理矢理にでも、止めておけばよかった。ほんの僅かに、彼は二人の関係に憧れていたのだ。彼らには奇跡が起きて、今後も人間として暮らしていけるんじゃないか、そう思ってしまったのだ。だから、止める手は鈍った。
 彼はひっそりと後悔した。


第二幕 Who's she? The cat's mother?

 ここは、どこだろう?
 どこだかわからない。ただ暗い場所に隆二はいた。
 視線の先、僅かな光が見える。そちらに向かって歩き出す。
「……?」
 視界の先に、人影。目を凝らす。
 肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。
 心臓が跳ねる。
 まさかまさかまさか。
「茜っ」
 名前を呼ぶ。叫ぶ。
 人影は振り返る。隆二のよく知っている笑顔を浮かべて。
「茜っ」
 駆け出す。
 会いたかった。ずっとずっと。会って謝りたかった。だから。
 手を伸ばす。彼女の右手を掴み、
「あかねっ」
 その瞬間、彼女は白い骨となり、闇の中へと崩れ落ちた。


「っ」
 声にならない悲鳴をあげて、飛び起きた。
『うひゃっ』
 跳ねるように上体を起こした隆二に、小さな悲鳴。
『あぶなっ』
 すぐ間近に、居候猫の顔があった。
「マオ……?」
『もー、びっくりしたぁ』
 確認するように名前を呼ぶと、彼女は膨れた。
 手に触れる、慣れた感触。赤いソファー。ああ、ここは、茜と別れたあと暮らしはじめた、自分の安いアパートだ。
 あっさりとその現実を受け入れて、ため息をついた。
 もう一度会えるなんて夢みたいなことあるわけなくて、どうせあれは夢だったのだ。夢ならもっと、いい夢を見させてくれればいいのに。
 唇が皮肉っぽく歪む。
『ちょっとちょっと』
 声に顔を上げる。
『なんだか一人シリアルになってるところ悪いんですけどね!』
 目の前で膨れるマオ。
「……つーか、お前、何してるの」
 よく見たら、彼女は隆二に馬乗りになっていた。近過ぎる顔に、少し身をひく。
『隆二が! うなされてたから! 心配して見に来てあげたんでしょうっ!』
 デリバリーのない人ね! とマオは眉尻を吊り上げて言う。
「デリカシーな、運んでどうする」
 幾分冷静さを取り戻すと、突っ込んだ。それから多分、さっきのシリアルもシリアスとかそういうのだ。
「あと、そういうときは、横から覗き込もうな」
 なんで馬乗りになって上から見るかね。
 片手をはらってマオをどかすと、ソファーに座り直す。
「京介は?」
『夕飯の買い物』
「あー、そう」
 時計を見ると、夕方の五時過ぎだった。
「あー、そろそろテレビ付けた方がいいか? ミチコじゃなくて、なんだっけ。ほら、あれがはじまるだろ」
 膨れたままのマオの機嫌をとろうと尋ねると、
『いい』
 冷たく言われた。
「は?」
『富子はいいの』
 ちょっとまて、マオが七転八倒富子を見なくていいだと?
 なんとなくデジャヴュを覚えながらも、尋ねる。
「どうした? そんなに怒ってるのか? 心配してくれたのに悪かったな」
『違うっ』
 マオがますます膨れた。
 一体なんだっていうんだ。うんざりしながらマオの次の言葉を待っていると、
『……茜って、誰よ』
 吐き出されたのは思いもしない言葉だった。
 一瞬、どうやって反応したら良いのかわからなくなる。
「……なんで」
 かろうじて呟いた言葉は、思ったよりもかすれていた。
『寝言。……誰?』
 緑の瞳が睨んでくる。
 一瞬言葉に詰まる。なんとなく、後ろめたい気持ちになる。が、すぐになんで自分が罪悪感を抱えなければならないのか、その理不尽さに気づいた。
「知り合い、昔の」
 端的に答える。
『知り合い?』
「ああ」
『カノジョ?』
 拗ねたような瞳に辟易する。なんでたかが居候猫に、そこまで答えなきゃいけないんだ。
「何だっていいだろ」
 突き放すように答えると、有無を言わせず立ち上がり、テレビの電源を入れた。
『隆二っ』
 咎めるように名前を呼ばれる。
「マオには関係ないだろ」
『……関係ない?』
「ああ。俺の過去の知り合いのことなんて、居候には関係ないだろ」
 知らず声が大きくなる。
『……そっか』
 マオが小さく呟いた。
 その言い方にしまった、と思う。やばい、泣かれる。
「マオ」
 慌てて名前を呼ぶと、マオは俯いていた顔を上げた。
 泣いてなかった。怒ってもなかった。
『詮索してごめんなさい』
 ただ小さく唇を噛んで、彼女は告げた。
『……散歩行ってくる』
 そしてそのまま、窓を抜けて外へ出て行った。
 隆二は声をかけられず、それを見送った。
 テレビから、場違いに明るい音楽が流れてくる。
 一つため息をつくと、ずるずるとソファーに座り込んだ。
 あんな言い方はなかった。それは認める。反省する。
 確かにマオには関係ないことだが、だからといってそのまま関係ないなんて告げる必要はなかった。適当にお茶を濁しておけばよかったんだ。マオの好奇心については、前々からわかっていたのだから。マオにとって自分は辞書のような存在なのだから。
 ただ、なんとなくマオに問いつめられて後ろめたい気持ちになったのは事実だ。マオに対して疾しいことなんて何もないのに。
 あるとしたら、茜に対してだけなのに。
 言いたくない。言えない。
 自分の心を傷つけたくない。
 だから、マオを、傷つけた。
 そして結局、言えない理由なんて、全部隆二自身の問題なのだ。

 

 スーパーの袋片手に、のんびり道を歩いていた京介は、
『京介さん』
 頭上からかけられた弱々しい声に足を止めた。
「マオちゃん、お散歩?」
 微笑みかけても、彼女は笑わない。いつも楽しそうな彼女らしくもない。
「どうしたの? そろそろ、富子始まるんじゃない?」
『……今、いいですか?』
 なんとなく事情を察して、京介は頷いた。
「いいよ」

 近くの公園のベンチに京介は腰を下ろした。隣を指差されて、マオに素直に隣に座る。
 隆二と違って、京介はマオが外で話しかけても拒絶したりしない。最初に声をかけてきたときからそうだった。だから、居辛くて家を飛びだした後、京介の姿を見かけて迷わず声をかけた。
 ただ、その後どうやって話を続けたらいいかわからない。
 視界の端で京介が煙草に火をつけるのがわかった。
『……ここ、禁煙だよ』
 小さく呟くと、京介が笑ったのがわかった。
「やっぱり、マオちゃんはマオちゃんだねぇ」
 なんだか納得したように呟くと、名残惜しそうに煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
『……あたしはあたし?』
「真面目で素直でいい子ってこと」
『……いい子じゃないよ』
 全然、いい子なんかじゃない。
「隆二と喧嘩したの?」
 のんびりと聞かれる。
 喧嘩?
『ううん』
 首を横に振った。
『喧嘩じゃ、ない』
 隆二はマオと喧嘩したりしない。マオがどんなにむちゃくちゃを言っても、ちょっと呆れるだけだ。マオはバカだなーって、いつものちょっと呆れた顔で笑って、それで終わりだ。
 彼が本気で怒ったのなんて、あの時、マオがエミリのところへ戻ると言い出したときぐらいだ。
 さっきだって、怒っていたわけじゃなかった。少し苛立っていたけれども、怒っていたわけじゃなかった。それよりももっと、冷たいものだった。
 どうでもいい、そんな感情だった。突き放された。そう、思った。
『喧嘩じゃないよ』
 もう一度呟く。
 わかっていたことだ。自分が隆二にとって、ただの居候でしかないことなんて。
『隆二はあたしと、喧嘩なんかしない』
 居候が身分もわきまえずに家主にたてついたから。改めて、距離感を正されただけのことだ。
 京介は少し目を細めて、
「何があったの?」
 優しく尋ねて来た。
『京介さんは、茜って人、知ってる?』
 足元を睨みながら尋ねると、
「茜ちゃん?」
 意外そうに言葉を返される。
『……知ってるんだ』
 知らないのは自分ばっかり。
「なんで、マオちゃんが茜ちゃんのことを? あいつが、自分から言うはずはないと思うけど」
『……寝言』
「ああ」
 京介は苦笑し、
「女々しいねぇ」
 ぽつん、と呟いた。揶揄するわけでもなく、ただぽつんと言葉が宙に投げ出される。
「仕方ないか。そうなってるだろうとは、思ってたし」
『そうなってる?』
「引きずってるってこと」
『……茜っていう人は隆二の』
「恋人だよ」
 京介はさらりとそう答えてから、
「あー、いや、そういえば、本人からそう聞いたわけじゃないけど。見た感じ」
『会ったことあるの?』
「少しだけね」
『……いつ』
「もう、かなり前だよ」
『……その人は今』
「亡くなったよ」
 顔を上げて京介を見る。彼は淡々と呟いた。
「もう、随分前だ」
『……そうなんだ』
「元々体弱かったらしいからね。なんでもなかったら、まだ生きていたかもしれないけど」
 仕方ないことさ、と京介は続けた。
『……隆二にとっては』
「うん?」
『仕方なくないことだよね』
「そうだねぇ」
『……そうだよね』
 ワンピースの裾をぎゅっと握る。大切な思い出に、土足で入り込もうとしたから拒まれた。
『……帰らなきゃ。謝らなきゃ』
 立ち上がる。
『隆二にちゃんと謝る。居候のあたしが何にも知らないのに無神経に訊いてごめんなさいって』
 何も知らないから迷惑ばかりかけている。
「誰だって、最初はなぁんにも知らないもんだよ」
 のんびりと、だけど真剣に京介が呟いた。それに思わず振り返ると、彼はいつもと違う、真面目な顔をしていた。
「教えられていないことは知らなくてもいいんだよ。知らないことを最初から知っているなんてことできないんだから。勘違いしちゃいけない。マオちゃんが知らないことを知りたがるのはなんの問題もないんだよ。知らないことを知りたいと思うのは、当たり前のことなんだから」
『だけど……』
「知りたいことはちゃんと尋ねれば良い。尋ねていいんだよ。まあ、隆二にだって訊かれたくないことも、教えたくないこともあるだろうけど」
 教えたくないことは色々な意味で色々あるだろうしなぁ、となんだか含みをもった笑い方をする。
「だけど、訊いたことそれ自体をマオちゃんが気に病む必要はない」
 京介は優しげに微笑んだ。
「遠慮しなくていいんだよ。マオちゃんにとって隆二は特別なんだろう? 特別な、社会との窓口なんだから」
 マオは京介の顔をじっと見つめ、
『……よくわかんない』
 悔しそうに唇を噛んで、首を横に振った。
『バカだから』
「マオちゃんはバカじゃないよー。まあ、天然だとは思うけどね。俺の言ったこと、今はわからなくていいよ。だけど、覚えていて」
 京介が優しく言うから、マオは小さく頷いた。
『……うん』
 京介は満足そうに笑う。
『……でも、やっぱり、謝らなきゃ。拗ねてでてきちゃったし、隆二困っただろうし』
「確かに。自分で酷いこと言ったくせに、いざマオちゃんが出て行っちゃうと、家でうろうろと落ち着かなさそうにしてる隆二が目に浮かぶね」
 京介のおどけた言い方にくすりと笑う。そのとおりだ。
『それに勝手に京介さんに色々きいちゃったから』
「ああ、それについては俺も怒られるから。口止めっぽいこと言われてたんだった」
 喋った方も同罪でしょう? と笑い、マオの頭を軽く撫でた。
『やっぱり、京介さんと隆二は全然違うよね』
「え?」
『……ううん』
 撫でられた頭を右手でそっと触れる。
 隆二の同族で、マオに触れる二人目の人。隆二以外にマオに触れられる人が居るということに、本当は少しがっかりしていた。隆二だけが特別だと思っていたから。
 でもやっぱり違う。隆二は特別だ。京介は京介で隆二じゃない。頭の撫で方も外での対応も、なにもかも違う。
 だから、帰ってちゃんと謝ろう。これからも一緒に居たいのは京介じゃなくて隆二だから。

 

 赤いソファーに座り、本を読む。それは隆二のいつもの行動だった。ただ、違うのは、
「……遅いな」
 視線が本と時計の間を行ったり来たりすること。寧ろ、ほぼ時計固定になっている。
 マオが出て行って、あんな言い方をする必要はなかったと反省したものの、そこからどうこうする気は起きなかった。マオに問いつめられたことが不快だったことは事実だし、また意味も無く後ろめたい気持ちになった自分も嫌だった。
 どうせすぐ帰ってくるだろう。いつもみたいに。そう結論付けて本を読みだしたものの、内容は頭に入ってこない。
 付けっぱなしにしていたテレビは、今はニュースになっている。結局、富子放送中には戻って来なかった。あんなにいつも、楽しみにしているのに。
 やっぱり探しに行った方がいいだろうか。
 もう何度目かのその回答を導き出し、でもそれもどうだろう、もう戻ってくるかもしれないし、もう何度目かの躊躇いをみせる。
 そうこうしているうちに、
「たっだいまー」
 能天気な声と共に京介が戻って来た。
 お前に用はない。
「玄関、鍵あけっぱなし危ないよー」
「鍵もってないだろ」
 冷たく言葉を返す。
 合鍵なんてもっていないため、どちらかが必ず家にいることにしていた。
「そんなことより京介、マオ見なかったか?」
 ソファーから立ち上がり尋ねると、
「見たよ」
 あっさり言われた。
「どこでっ」
「ん」
 京介が自分の後ろを指差す。京介の影で、マオがドアからほんの少し顔を生やしていた。
「マオっ」
『ひっ』
 思わず名前を呼ぶと、マオが顔を引っ込める。
「逃げるなっ、怒ってないから」
 のんびりと買った物を袋から出している京介の背後を抜けて、玄関へ向かう。
『……本当?』
 顔だけをドアから生やしてマオが尋ねてくる。
「悪かった。無神経な言い方して」
『……あたしも、ごめんなさい』
 マオもいつもよりも素直に頭を下げる。
「とりあえず、中入れ」
 右手を差し出す。
 こんな玄関で、ドアから首を生やした幽霊とでは、まともな会話は望めない。
『ん』
 マオは頷くと、隆二の手に素直に自分の手を重ねた。
 その手をひっぱり、いつもの位置、赤いソファーまで戻ると、マオを座らせた。自分もその向かい、畳の上に腰を下ろす。
 京介は鼻歌なんか口ずさみながらキッチンに立っていた。あれのことはひとまず無視しよう。
『あの、本当にごめんなさい』
「いいって。俺も、いらついて悪かった」
『それもそうだけどそうじゃなくて』
 マオが隆二の言葉を遮ると、ちらりと一度京介に視線をやる。嫌な予感がした。
『話したくないこと、無理に聞こうとしたこともごめんなさいなんだけど。あたし、京介さんに、聞いちゃったの……。勝手に。茜っていう人のこと。だから、ごめんなさい』
「京介っ」
 マオの言葉を最後まで聞く前に怒鳴っていた。茜のこと言うなって言っただろうがっ。
『あ、あの、あたしが無理に聞いたから京介さんは悪くないよ?』
 マオが庇うような発言をするから、それにもまた少し腹が立つ。
「そういう問題じゃないっ」
「もー、隆二は五月蝿いなぁ。カルシウム足りてないんじゃん?」
 京介はのんびりとそう言うと、皿を片手にこちらにやってきた。
「はい」
「……なんだこれ」
「煮干し」
「それは見ればわかるんだよっ」
「カルシウム、摂った方がいいよ」 
 隆二に煮干しを手渡すと、京介はまたキッチンに戻る。そもそもこの煮干し、よく見たらダシとったあとのやつじゃないか。喰えっていうのか、これを。
『あ、あのね』
 くたった煮干しを睨む隆二に、おそるおそるマオが声をかける。
『京介さんも、あの、さっきは、一緒に謝るからって。ん? 謝るだっけ? 怒られる? 忘れちゃった。でも、ええっと、あの、勝手に喋ったのも同罪だからって言ってたから、その。悪気があるわけじゃないっていうか』
「今、直接、謝らなきゃ意味ないだろうが」
 溜息混じりにそういうと、煮干しをとりあえず畳の上に置いた。
 まあ、おかげでマオとのことに関しては冷静になれた、かもしれない。
「マオは悪くない。マオだけが悪いんじゃない。俺も悪かったし、京介はもっと悪かった。だからもう、謝らなくて良い。こっちも悪かった」
 気を取り直してそう告げると、マオは少し安堵したようだ。肩から力が抜ける。
『あのね』
 そのまま、いつものような口調でマオが言った。
『あたし、隆二に隠し事されたのが嫌だったの。あたしは隆二に、もう隠し事ないのに』
「それは」
 マオの言葉に咄嗟に何か弁解しようと口を開くと、マオが片手でそれを遮った。
『でもね。考えてみたら、あたしには隠すようなことないだけだったの。だって、発生してすぐにここにきて、ずっと隆二と一緒にいるんだもん。あたしよりももっともっともぉっと長生きしてる隆二には、内緒にしたいこともあるよね』
 あたしにはよくわかんないけど、と小さくつけたした。
『だから、無理強いしてごめんなさい』
 ぺこり、ともう一度だけマオは頭を下げた。
『あたしは、今の隆二と一緒にいられればいいや』
 そして笑う。屈託なく、無邪気に。
 眩しくて、見ていられない。
「……だって言ったら、軽蔑するだろ」
 その笑みから逃れるように視線を逸らし、言い訳のように呟く。
『え?』
「話したら、マオは俺のこと、軽蔑するだろうから」
 どうしてもマオに茜の話ができなかった本当の理由が、今のでわかった。
 茜のことを改めて話して、自分で自分の傷口を抉るのが嫌だっただけじゃない。
 マオに約束を破る卑怯者だと思われたくないのだ。約束を破って、愛する人を捨てた卑怯者だと。この無邪気な居候猫に思われたくなかった。
 マオは眉間に皺を寄せて難しそうな顔をし、何かを悩むようにしばらく沈黙した。
 テレビの音と、キッチンから何かを刻む音だけがする。
『よくわかんないけど、隆二が嫌なら本当に話さなくていいよ』
 しかめっ面のまま、ようやくまとまったかのように慎重にマオは告げた。
『だけど、あたしが隆二のことけーべつしたり、嫌いになったりすることはないよ、絶対』
 隆二の目を見てしっかりと告げる。
「……嘘つきの卑怯者でも?」
 呟いた声は思ったよりも弱々しくて、自分でも驚いた。情けない。
『だって隆二は元々出会った時からひとでなしじゃない。あたしもだけど。あたしのこと最初無視したりするし、でもずっと家においてくれてるし、冷たいけど優しいし。どっちも本当なの知ってるから、今更嘘つきでも卑怯者でも驚かないよ?』
 そして小さく微笑んだ。
『あたしにとって隆二が特別なの、それは絶対変わらないもの』
 そんなマオを隆二はしばらく見つめ、
「……ありがとう」
 小さく呟いた。
 本当は誰かに、話したかったのかもしれない。絶対に自分のことを否定しない誰かに。
「京介、あのさ」
「おおっといけない。買い忘れたものがあった!」
 キッチンに向かって声をかけると同時に、芝居がかった声がした。
「ちょっと再び買い物に行ってくる。少し遠くまで! 夕飯は遅れるが笑って許せよ!」
 そう早口で告げると、京介は家を出て行った。
 なんだかんだで、根はいいやつなのだ。あいつも。
『……あんなに買ってたのに、何忘れたんだろう』
 マオがぽつりと呟く。
 ああもう、だから純粋だというんだ。この居候猫は。
「マオ」
 名前を呼ぶと、不思議そうに玄関を見つめていたマオがこちらを向いた。
「あのさ、聞いてくれるか?」
『……うん』
 マオは少し表情を引き締めて頷いたものの、
『あの、でも、本当にいいの? 無理してない? 嫌だったらいいんだよ?』
 心配そうな顔をして隆二を見る。
「いいんだ」
 それを見て少し微笑んだ。
 マオならきっと、ちゃんと聞いてくれる。
「あんまり楽しい話じゃないけど、誰かに聞いて欲しかったんだ」
 本当はずっと。
 そうして隆二は、思い出の箱を開いた。


第三幕 彼女が拾った猫との生活

「くそったれ」
 隆二が呟いた言葉は、茜色の空へと吸い込まれた。
「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」
 車に轢かれそうな子どもを見たら、咄嗟に体が動いていた。代わりに自分が盛大に車に轢かれた。さらには子どもに逃げられた。そりゃあ、こんなけがで話しかけたら、怖いだろうけれども。それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。
「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。二、三日もすれば治りそうだが、この状況での二、三日は長い。
「やってらんねぇ」
 ため息をついた。
 これからどうしよう。頭の片隅で悩みながらも、色々面倒になって、今はもう寝てしまおうかと瞳を閉じかけたところ、
「大丈夫ですか?」
 頭上でかけられた声に再び目を開ける。
 そこには心配そうな顔をした少女が一人。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
 腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。
「そ、そうですよね。……でもよかった、話せるならば見た目よりもひどくないみたいですね」
 多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。
 結局、見つかってしまった。
 これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。最後だけは絶対に、嫌だなぁ。
 隆二が自分の身の上を悲観的に、だけれどもどこかのんびりと思っている間に、彼女は隆二の傍にしゃがみこんだ。そのまま隆二に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで隆二の額を抑える。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
 いきなりのことで驚いた隆二に、彼女は
「え、一応止血を……」
 逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。
「別に、そんなのいいって……」
 振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。
「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
「……あー」
 薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。
「……この近所に」
 彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
 そういって彼女は立ち上がる。
「おい、あんた」
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
「……そこじゃない。名前」
「え?」
「あんた、名前は」
 彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。
「茜。一条茜です」
 そういって、先ほどから隆二が眺めている空の色を名前に持った彼女は、微笑んだ。
 それが、一条茜との出会いだった。

 

「茜」
 土手から移された小さな診療所。そこで、初老の医師が渋い顔をして呟いた。
「拾うのは頼むから猫だけにしておいてくれ」
「俺は猫以下かよ」
 診療台の上でぐるぐると巻かれた包帯を気にしながら、隆二はつまらなさそうに呟いた。
「そんなこと言われても……。放っておけないじゃないですか」
「いや、確かに人助けは英断で尊いことだが、しかし」
「人助け、ね」
 思わず鼻で笑いながらそう言うと、
「何が面白いんだ、お前は」
 先生とやらに睨まれた。
「いや、別に。すごいな、あんた」
「おい、」
 先生が苛立ったように隆二の胸倉を掴む。歳の割に力強いなぁ、なんて思いながらそれを目を細めて見つめた。
「先生!」
 茜の悲鳴を無視して、先生は吐き出すように低く呟いた。
「お前は、一体、何なんだ?」
「俺が一番知りたいね」
 誰か教えてくれないだろうか。それは隆二としてみれば真摯な答えだったのだが、おちょくられたと感じたのだろう。先生は顔をゆがめると、隆二を診察台にたたきつけるようにして手を離す。
「先生! 怪我人に対してそれは……」
 茜が先生と隆二の間に割って入る。
 ああ、純粋で腹が立つ。
「ぴーぴー騒いでんじゃねえよ」
 隆二の言葉に振り返った彼女は、裏切られたとでもいうような顔をしていた。せっかく助けてあげたのに?
「放っておけばこんな怪我治る」
「治るわけないでしょう!」
「耳元で騒ぐな、ガキが」
 虫を払うように右手を振ると、
「一度しか言わないからちゃんと聞けよ? 俺は人間じゃない。よって死なない。怪我しても放っておけば治る」
 早口で言い放った。茜があまりに間抜けな顔をしているので、皮肉っぽく唇をゆがむ。育ちのよさそうなお嬢様には、わからなかっただろうか。
「もう少し端的に言うならば、化け物ということだ」
 先生が舌打ちするのが聞こえた。
「とんだ拾いものだな、茜」
 茜が未だにぽかんと口を開けたままなので、仕方なしに溜息をつきながら、隆二は右手に巻かれていた包帯をはずした。赤く染まったガーゼがひらりと床に落ちる。その下にあるはずの、さっきまで血を流していた傷口は、綺麗さっぱりなくなっている。
「わかったろう?」
 隆二は体を起こし、茜の目を覗き込むと、聞き分けのない子どもに聞かせるような口調で呟いた。
「放っておけば、治るんだ」
「普通の」
 先生が口を開き、茜がそちらに視線を向けた。
「普通の人間だったら、死んでいてもおかしくない傷で、出血量だった」
 先生がぼそりと呟く。
「そりゃぁ、驚くよな、先生。前に見つかった医者は、悲鳴をあげて卒倒したぜ?」
 思い出して、けらけらと笑う。空しくなってすぐにやめたけど。
「驚いたろ、嬢ちゃん。悪いな。先生も」
 言いながら、足の包帯を外す。その包帯も、既に用をなしてなかった。
「先生が怖がらずに、適切に処置してくれたおかげで治りが早い。感謝する。二、三日は動けないと思っていたが、これならば明日にはなんとかなるだろう」
 きちんと正座し、頭を下げる。
「一晩でいい、泊めてほしい」
 そして、ゆっくりと顔を上げると、肩をすくめて唇をゆがめた。
「勿論、こんな化け物にいつまでもいられては困るというならば、追い出してくれて構わないが」
 先生が一歩踏み出した。茜の頭を撫でるようにして、少し後ろにおす。
「この子に聞いてくれ。あんたを助けたのはこの子だ」
 そういいながらも先生はもう一歩、茜と隆二の間に体をさしこんだ。庇うように。
「そうだな、嬢ちゃんに聞いてみないとな」
 そういって唇の片端だけをあげる。どうせ嫌がられるだろうけれども。そう思っていると、
「……茜」
 少しの躊躇いのあと、彼女はそう言った。
「私の名前は、嬢ちゃんではなく、茜、です。あなたのお名前は?」
 茜は少し震えながらも、一歩前に出て来た。先生が一歩横にずれた。
「……神山隆二」
 少し躊躇ったあと、答えた。
「神山さん、ですね」
 茜がにっこりと笑う。どこか強張った顔で、それでもは出来るだけ笑おうとしているのが伝わってくる。剛胆なのか、繊細なのか。
「此処をでて、何処か行くところがあるんですか?」
「居場所なんてどこにだって……」
「もし、ないのでしたら」
 言葉は遮られ、早口で被せられた。
「しばらくうちで暮らしませんか? 部屋なら余っていますから」
「……はい?」
 今度はこちらがぽかんと間抜けな顔をする羽目になった。この娘は何を言っているのか。
 先生が小さく、
「茜」
 と呟いた。しかし、それは嗜めるというよりも、諦めに似た感じだった。諦めるなよ。
 なんだっていうんだ、どいつもこいつも。
「あんた、俺が怖くないのか?」
 眉間に皺を寄せて問いかけても、茜はただ笑うだけだった。
 沈黙。
 茜は小さく微笑んでいた。その斜め後ろで先生が隆二を睨んでいる。隆二は眉根を寄せたまま、それを見ていた。
 ふぅっと誰かが息を吐く音が、やけに大きく響く。
「……あんた、馬鹿か?」
 それを合図に、半ば吐き棄てるように言った。
「俺の話を聞いていたか? 俺は人間じゃなくて、化け物だ。こんな大怪我を負ってもいきている。そんな人間を傍に置いておくことが、どんなことかわかっているのか?」
「貴方がもしも悪い人なのでしたら、私も先生も殺しているんじゃありませんか?」
「あんた、顔に似合わず、えぐいな」
 先ほどとは違う意味合いで、渋い顔をする。
「確かに、正体がばれたら困るんだよ。迫害されるならまだしも、見世物小屋を呼ばれた日にはどうしたらいいものかと」
 面倒なことになりかけたことを思い出す。逃げ出せてよかったが。
「だけど、まぁ、あんたたちはそんなことしないだろうし。別に、されてもいいけど」
 肩をすくめる。
「正体がばれたからって、ほいほい殺してたらまずいんだよ。変死体が見つかったり、行方不明者がでたりしたら、そっちの方があいつらに見つかるかもしれない」
「あいつら?」
 苦々しく吐き出された言葉に、小さく問い返される。
 余計なことを口走った。舌打ちすると、
「関係ない」
 それだけ吐き棄てた。
「そんなこと言って、怪我が治るまで油断させてるだけじゃないか?」
 茜の後ろで先生が呟いた。茜が振り返って先生を睨む。
「そう思うなら、俺を放り出せばいいだろう? わざわざ戻ってきてまで殺すような、酔狂な人間じゃないさ」
 そこまで言っておかしな表現をしたことに気づく。
「ああ、人間じゃないけど」
 付け足して笑った。
「神山さんは、」
 隆二の表情に一瞬眉をあげたものの、茜が微笑みながら尋ねてくる。
「どうして、怪我をなさったのですか?」
 言われた瞬間、動きが止まった。目を見開いて茜を凝視する。この小娘、何を訊いてきた? 嫌なこと言いやがって。
「痛いところをつかれた、って顔だな。人でも殺したか?」
「先生。私に任せてくださったのではないのですか?」
 茜が咎めるようにそう言った。先生は驚をつかれたような顔をして、それから渋々と、
「まぁ、そうだが」
 それだけ言う。
 隆二は、それをほんの少し意外に思いながら見ていた。意外とこの小娘は、強いのかもしれない、芯が。
「どうなさったんですか?」
 芯の強い小娘は、隆二に向き直ると微笑んだ。その話はもう忘れてくれてよかったのに。
 それでも黙っている訳にはいかなくて、我ながらひどく不愉快そうな顔をして、
「笑うなよ」
 と、一言前置きをした。
 茜が小首を傾げる。
「車に轢かれそうになったがきを助けるつもりが、失敗した」
「……はい?」
 全く、想定していなかった答えだ、と言わんばかりに、茜は傾げいてた首を、更に傾けた。
 先生も茜と同じような顔をしている。
「貴方は」
 しばらくの間のあと、ようやく事態を理解したらしい茜が、傾げていた首を元に戻し、笑んだ。
「優しい方ですね」
「格好悪いだろう」
「何がです? 人助けは立派な……」
「人の何十倍もの身体能力を持っているくせに、車なんぞに轢かれて」
 くすり、と茜が笑った。
「笑うなと言っただろうが」
 舌打ちした。だから言いたくなかったんだ。
「ふ、」
 何か、空気が漏れるような音がして、
「あはははは」
 一拍置いて、先生が豪快に笑い出した。
「……てめぇもかよ」
 耐えられなくなって二人から視線を逸らす。
「おま、それ、」
「先生、何が言いたいのか解りかねます」
 先生は言葉にするのを諦めたらしく、思う存分大笑いしてから、はぁっと深呼吸も含めた呼吸をする。
「気に入った」
 息を整え、開口一番にそういう。ぽん、っとひざをはたいた。
「実はな、さっき小僧が来たんだよ。車に轢かれそうになった、ってな」
 ちょっと待て、何を言っている? 慌てて隆二は視線を先生に戻す。
「怪我はないのか? と尋ねたら、僕はないという。だが、知らない男の人が大怪我していた、と」
 なるほど、そういうことか。片膝を立て、そこに頬杖をついた。とんだ狸だ。
「頭から血をだらだら流しながら、涼しい顔で大丈夫か? なんて聞いてきたとかいうから、半信半疑でな。丁度、その子の親が通りかかったらその子を返して、でもとりあえず、どうにかしなくてはな、と思ったときに、茜がやってきた」
「ちょっと待って、それじゃあ、先生、最初から知っていらっしゃったのですか?」
「この小僧が」
「いや、爺さんよりは長生きしてるぜ、俺」
「その割には人間が出来ていない、青二才じゃないか」
 青二才呼ばわりしやがって。小さく舌打ちする。
「この、神山隆二と名乗るやつが、もしかしたら助けてくれた男なのかもしれない、とは思ったな」
「でしたら、なんであんな侮辱するようなことを!」
「だがな、治療しようとして、生き物として何かがおかしいことはわかった。何を考えているかわからない。助けたのとは別の男かもしれない。助けたのにはなにか策略があったのかもしれない。疑いだしたらきりがない。とりあえず、かまをかけてみた」
 そういって豪快に笑う。
「呆れた……」
 茜が悔しそうに少しだけ唇を尖らせた。
「とんだ狸爺だな、あんた」
 先生は何も言わずに、一度にかっと笑った。
「まぁ、面白そうだし、茜に害を加えないのならば」
「だから、加えないって」
「今日だけといわず、暫くいていいぞ。面白そうだから」
「一言余計だな」
 ため息をつく。なんでこう、変人なんだ、こいつら。化け物だからってひかないどころが、受け入れるなんて。期待、してしまうじゃないか。
「まぁ、あれだな。俺が助けたがきが少しでも俺のことを気にしていてくれたのは、少しばかり有難いな。助けたのに礼儀のなっていないがきだと思ったから」
 なんとなく、救われた気分になる。
 さっきからなにを考えているんだろう。救いなんて、きっともうないんだ。人間じゃないんだから。
 思いを断ち切るために、思考を強引に別の方向へ持って行く。
「こんな小さな村に車が走っていることが、俺には不思議だがな」
 見かけることは多くなったものの、もっと都会で見かけるものな気がしていた。
「あの」
 おそるおそるといった風にかけられた声に首を傾げる。
「その、車は、真っ黒なものでしたか?」
「ん? ああ、洒落た服着た爺さんが運転してた」
「神山さん、それ、私の身内です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
 茜が深々と頭を下げる。予想外の態度に少しだけたじろいだ。
「いや、別にいいんだが……。ひょっとして、あんたいいとこのお嬢様ってやつか?」
 育ちは良さそうな気がしていたが、もっと上流階級か。でも上流階級のお嬢様が、なんだってあんなところを一人で散歩してたんだ?
「お嬢様じゃありません、茜ですっ」
 少し荒げられた声に、ちょっと驚いた。
「……私はただのこの村に住む娘です。それだけ、です」
 茜は落ち着いた声で言い直す。
「ふーん」
 納得しかねるな、と思わず呟いた。
「お互い様でしょうに。貴方も」
「隆二」
 にやり、と笑う。そちらがそのつもりならば、こちらだってそれに習おう。
「人には名前を訂正させておいて、自分は貴方呼ばわりか? 茜」
「……隆二も、全てを話したわけではないでしょう?」
 意外にも彼女の方も呼び捨てにしてきた。なるほど、ただのお嬢様ではないようだ。
「手の内を明かすのならば、お先にどうぞ?」
 茜が上品に小首を傾げる。はん、と隆二は鼻で笑った。先生が唇を歪める。
 なんだ、化け物を受け入れるそちら側もわけありか。ただの傷の舐めあいか。お互いがお互いの秘密を暴き合おうとして、牽制し合っているなんて。これだけ歪んだ関係なら、安心してここにいることが出来る。少しは、落ち着いて暮らせそうだ。
「これからよろしく、茜」
 挑むようにして見つめながら笑うと、
「ええ、こちらこそ、隆二」
 同じような顔をして茜も笑った。
「……おまえらちょっとおかしいだろ」
 先生が小さくぼやいた。
 人間としての生活なんて、期待していないかった。この時は。

 

 一条茜は、小さな民家に一人で住んでいた。小さなと言っても、一人で住むには広過ぎる。なるほど、部屋が余っているわけだ。
 こんなところで若い娘が一人暮らしだなんて、ますますわけありのようだ。
「ここ、どうぞ」
 何もない一室に案内させる。
「どーも」
「お食事は普通に摂られますか?」
「食べなくても死なないから気にしなくていい」
「……食べることは出来るわけですよね?」
「それはまあ」
「そう」
 茜は一瞬視線をさまよわせてから、隆二に戻すと小さく微笑んだ。
「じゃあ、作るんで一緒に食べましょう。たいしたものは、出来ないけれども」
「……なんでその結論になるかねぇ」
「一人の食事は寂しいから」
 当たり前のように言い切ると、待っていてと告げて茜はその場を立ち去った。
「……寂しい、ねぇ」
 なんとなく呟くと、小さなその部屋に倒れ込む。意地でここまで歩いてきたが、やはりまだしんどい。
 目を閉じる。せいぜいのんびりさせてもらうさ。

 そこから始まった茜との同居生活は、規則正しいものだった。
 毎朝決まった時間に起こされ、食事をとり、掃除を手伝わされ、散歩に連れて行かれ、野良猫に餌をやり、週に何度か先生のところに顔を出す。これの繰り返し。
 茜は臆すること無く、隆二を自分の規則正しい生活の輪の中に組み込んでいった。化け物相手なのに。
 そんな規則正しい生活も久しぶりだったので最初は楽しかったが、あまりにも単調な生活に一週間で飽きた。一人で不規則な生活をしていたときも特に何か毎日楽しかったわけではないのだが、規則正しい生活はより単調さを際立たせる。
「毎日毎日同じことの繰り返して飽きない?」
 ある日、連れ出された散歩の途中、隆二が行き倒れていたあの土手で茜に尋ねた。茜は心底不思議そうな顔をしながら隆二を見上げ、
「どうして? 同じ日なんて一度もないじゃない」
 心底不思議そうに答えた。
「……あー、そう」
 その答えがなんだかむずがゆくて、隆二は適当に返事をすると頭を掻いた。
 訳ありのようだが、心根は素直な娘だと思った。衣食住を提供してくれる変な小娘に、本格的に興味がわきだしたのはきっとこの頃。
 でもそのときは、ここまでにしておこうと、そう思っていた。深入りしない方がいい、と冷静に思っていた。もう少ししたらここから出て行こう。同じところにずっといるべきではない。愛着を持つべきではない。
 でも、もう少し。もう少し暖かくなるまではここで過ごしてもいいかなぁ。あの時助けた少年をはじめとする子ども達に、明日遊ぶって約束してしまったし、少なくとも明日まではここにいよう。そんな甘えでずるずると、規則正しい生活を送っていた。
 よくも悪くも、この生活を変えたのは、二人の死神の存在だった。

 

 いつもどおりの散歩道、件の土手に現れたのが一人目の死神だった。視線の先にその姿を見つけて、隆二は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
 数歩先で、茜が不思議そうな顔をして振り返る。
 赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている。見たことがある。逃げ出そうとしたあの時、最後まで阻止しようと尽力を尽くしていた少女だ。ああ、もう、少女ではないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。
 ぐちゃぐちゃになった思考回路から、慌てて今すべきことを引っ張り出す。
「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」
 茜が心配そうに眉をひそめて近づいてくる。それに合わせるように、二、三歩後ずさる。
「……隆二?」
 茜が少し傷ついたような顔をした。
「違う、そうじゃなくて」
 思わず言い訳がこぼれ落ちる。茜を避けようとしたわけじゃなくて。言い訳なんてしてどうする。もうここには居られない。逃げなくちゃ。
「だけどごめん」
 世話になったのに。いきなりこんな風に消えようとして。早口で言い切ると、きびすを返す。
「隆二っ」
 茜の慌てたような声が背中にかかり、
「U078」
 遠くから、だけどはっきりと聞こえた声に足が止まった。
「逃げても無駄ですよ」
 冷たい声。足が縛り付けられる。動けない。
「……ゆうぜろななはち?」
 茜が小さく呟く。
 ああ、茜はそれを口にしないでくれ。せめてただの、ただの化け物だと思っていてくれ。
「U078?」
 たしなめるような声色で呼ばれて、ゆっくりと振り返る。
 心配そうな顔をした茜の後ろに、死神がたっていた。
「ごきげんよう。ご無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」
 死神は淡々と、顔色一つ変えず続ける。嫌味のような言葉だが、恐らくただ事実を評価しただけだろう。この死神が、嫌味なんてそんな人間味のあふれることを言うわけがない。
 死神と隆二の顔を見比べ、茜は少し隆二に近づいた。そしてそっと隆二の右手をとる。慈しむように手を握られる。思わず、それに縋り付くように力をいれた。
 死神はその光景を見ても顔色を変えることはなく、
「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」
「え?」
 少し、高い声が出る。もしかして、もう許してくれるのか。もう諦めてくれるのか。もう飼われることはないのか。
 一瞬浮かんだそんな希望は、あっさりと斬り捨てられた。
「私たちはもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。ここで、証拠隠滅のためにおとなしく消え去るか、または必要に応じて我々の力になるかを」
 死神が告げる。
「……必要と、していない」
 小さく呟くと、死神が頷いた。
 ああそうか、もう兵器としてもお払い箱なのか。それでも、化け物としては利用価値があるから、利用出来るならば残しておこう?
「……消滅か、隷属か」
 かすれた声が漏れる。
 また、隷属? 逃げて来たのに? また?
「……もう、疲れた」
 思わず口からこぼれ落ちた言葉に、自分自身で驚いた。ああ、そうか。もう疲れたのか、自分は。化け物として今後も生きていくことに。それならば、もう、ここで終わらせてもらった方が楽なのかもしれない。だって自分は化け物だから。このまま一生、永遠という一生を人間との間に線をひかれて、それを踏み越えることを許されずに、失った人間としての日々を指をくわえて見ていくぐらいならば、
「俺は、もう……」
「隆二っ」
 強い声で名前を呼ばれ、右手を引かれた。
 はっと我にかえる。
 茜がこちらを睨むようにして見ていた。
「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」
 力強く茜が断言する。聡い彼女は、全てはわからなくても隆二が選ぼうとしている道を察し、咎めた。
「……俺は、化け物だ」
「だからなに? もうそんなこと、今更気にしない。あなたが優しい人だってこと、知っている」
 意思の強い瞳。だけど、隆二を掴んだ手は小刻みに震えている。
 それを大切だなんて、思わなければよかったのに。
 でも、思ってしまった。認識してしまった。この震える手を持つ少女を、神山隆二は大切だと思っている。ここでの生活を続けたいと思っている。彼女を悲しませたくないと、そう思っている。
「……わかった」
 吐息と共に言葉を吐き出すと、死神に向き直る。
「あんたらの言うことを聞く。だから、ここに居させてくれ」
 そう答えた。
「そうですか」
 死神は頷いた。
「では、なにかあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」
 淡々とそれだけいい、すぐにその姿を消した。最後まで、表情をかえることなく。
「……いっ」
 死神の姿が消えて、茜が小さく悲鳴のように言葉を漏らすと、へなへなとその場に座り込んだ。慌ててそれを支えた。
「いまのは?」
「……死神だよ」
 答えながらも隆二の足からも力が抜ける。
 仕方なくそのまま、二人して土手の草むらに腰を下ろした。
「死神?」
「俺にとっては」
「……そう」
 怖い人ね、と小さく茜は呟いた。
 右手は茜の手を握ったままだった。離すのが躊躇われ、そのままにしておく。茜から手をふり払う気配もなかった。
「……俺さ」
「うん」
 川の流れを見ながら、口を開いた。
「元々は人間だったんだ」
「……え?」
「元々化け物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」
 とりとめも無くこぼれ落ちる言葉を、茜は黙って聞いてくれた。
「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦のための兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐにはなにもされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのかわからないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化け物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化け物になった」
 隣が怖くて顔が動かせない。茜は今、どんな顔をしているのだろう。だけど、一度溢れた言葉はとめられない。
「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」
「……兵器は生き物ではないから?」
 隣から小さい声。
「え?」
 思わず隣を見ると、茜が少し心配そうに眉をひそめて、首を傾げてこちらを見ていた。
「化け物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」
「……ああ、そうかもしれない」
 確かに、化け物だと暴露することは簡単にできたが、兵器だったことはできれば言いたくなかった。
「尊厳もなにもなく、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」
「さっきの人、隆二を道具としてしか見てなかった」
 ぐっと手に力がこめられる。
「そんな人には、隆二は渡さない」
 思いがけない言葉に、間抜けにも口をあけて茜を見つめる。今、なんと言った?
「逃げて、ここまで来たの?」
 そんな隆二に気づくことなく、茜が問いかけてくる。
「あ、ああ」
「そう。……ならずっとここにいればいい」
 まっすぐに茜が目を見てくる。
「隆二がなんだって関係ない。人間でも化け物でも兵器でも、隆二は隆二だから」
 意思の強い瞳に見つめられて、
「……うん、ありがとう」
 素直に小さく隆二は頷いた。
 人間として生活していくことが出来なくても、化け物としてでもここで生活できるのかもしれない。
「帰りましょう」
 茜が微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引かれる。その手に掴まるようにして隆二も立ち上がった。
 特に会話もないまま、帰路につく。けれども繋いだ手はそのままだった。
 会話がないその空気も、悪いものではないと、寧ろ心地よいと隆二は思った。思っていた。
 そして、
「茜様」
 名前を呼ばれたのは、家が見えたころだった。茜が慌てたように隆二の手を離す。その手をほんの少し、名残惜しいと思った。
「どこにお出かけですか?」
 黒い服を着た、老人が立っていた。どこかで見たことがある姿に隆二は眉をひそめ、
「あ、車の……」
 思い当たった顔に小さく呟く。
 茜に出会った時。あの時轢かれた車の運転手がこの老人だった。そういえば、茜の身内だと言っていたか。
「そちらは?」
 老人が隆二を見て尋ねてくる。
「一条には、関係ありません」
 震える声で茜が答える。
「茜様。仮にも一条の人間がこんなどこの馬の骨ともわからぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」
 ゴミを見るような視線を向けられ、隆二は小さく笑う。
「何がおかしいのです?」
「何もおかしくない」
 咎めるような老人の言葉に、笑ったまま答えた。
「俺がどこの馬の骨ともわからないのも、ゴミみたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、おかしなところは何もない」
 ただ露骨な敵意を向けられることが、おかしかっただけだ。先ほどの死神に比べれば、何も怖くないし不愉快になることもない。寧ろ、かわいいとさえ、思う。
「隆二っ」
 だけれども茜は違うようだった。蒼白の顔で悲鳴のように隆二の名前を呼ぶ。
「……すまん」
 必死の顔に、思わず謝る。遊んで悪かった。
「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません。第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」
 真っ白な手を握りしめて茜が答える。老人は軽く眉をあげ、
「立場はわかっていると、そうおっしゃるのですね?」
「……はい」
 小さな声で茜が頷く。
「結構」
 老人は満足そうに頷いた。
「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」
 駄目押しのようにそう告げると、老人は立ち去った。
「……なんだ、あれ」
 隆二が小さく呟く。
 茜が崩れ落ちるように座り込んだ。
「茜っ」
 慌てて近寄ると、
「隆二っ」
 すがりつくように両手を掴まれる。
「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていたこと、聞いてくれる?」
 先ほどよりも白い顔で、震える声で、濡れた瞳で問われた言葉に、
「……ああ」
 ゆっくり頷いた。お互いがお互いの死神にここで出くわすとは、思わなかった。

 

「私には、姉が居るの」
 家に入り、腰を下ろすと茜がゆっくりと切り出した。
「同い年の」
「血のつながらない? ……いや、双子か?」
「そう、双子。葵って、言うの」
 小さく頷く。
「一条は、昔から続く名家で、家柄をとても大事にしていて。だから、双子が生まれたなんてこと、外聞を大事にする一条にはあってはならないことだった」
「……ああ、双子は悪魔の子、とか言われる風習が?」
 まったく同じ顔の人間が二人いること、一つの腹から一度に二人生まれること、そう言ったことから双子が忌まわしいものとされることがあると聞く。
「そう。……さすがに、知っているんだね」
 弱々しい笑い方をする茜に、何故だか少し苛立ちを感じる。
「だから私は、生まれなかったことにされるはずだったの。……殺されるはずだった」
 茜は仕方ないよね、と笑う。唇だけで。
「だけど、一条は代々体の弱い者が生まれることが多くて。私や葵も例外じゃなくて。だから私は、今日までここで、一条から離されたところで生かされている」
 泣きそうな目をしているくせに、小さく微笑む。何故だろう。苛々する。
「葵に何かがあったときに、すぐに代われるように。……さっきの人は、一条の補佐を代々している人で、だからだいぶ失礼なことを」
「笑うな」
 耐えられなくなって、言葉を遮った。驚いたような顔を一瞬したものの、直ぐに茜は小さく笑う。
「どうしたの?」
「笑うな」
 その手をひく。よろけて体勢を崩した茜の頭を両腕で抱え込んだ。
「隆二っ」
 慌てたような声がする。
「なんで、泣きそうな顔をしてる癖に笑うんだよ。なんだかとても、腹が立つ」
 頭を抱えたまま、低い声で言う。ばたばた慌てたように手を動かしていた茜は、その言葉にぴたりと動きを止めた。
「向こうの都合で勝手に振り回されてるんだろ。怒ってもいいし、泣いてもいいし、それが普通だろ。わかったような顔をして、笑わなくてもいいだろうが」
 気づいたら話している自分の声が震えていた。ああ、今自分は、彼女に自分を重ねあわせている。昔の自分にかけたい言葉をかけている。
 だからこそ、
「笑わなくて、いいから」
 だからこそ、彼女がとても愛おしい。
 黙っていた茜が額を隆二に押し付けるようにし、腕をそっと背中にまわした。
「……ありがとう」
 小さく聞こえてきた声は、水分を含むものだった。
「ん」
 急に照れくさくなって小さく頷いた。照れくさくなったけれども、この手を離すつもりはなかった。

 二人の関係が変わったのだとしたら、この日がきっかけだったのだろう。この日を境に、隆二の中でこの家から出て行くという選択肢が消えた。ふれあうことに躊躇いがなくなり、かける言葉に暖かみが増した。
 今思い出しても、この時が一番幸せだった時間だ。二人でのんびりと暮らす。ただ、それだけがとても幸せだった時間。
 だけど、それが永遠に続くわけではなかったし、そんなこと心のどこかではわかっていた。気づかされたきっかけは、なんでもない一日に紛れていた。
 その日も、いつもの規則正しい生活を送っていた。認識してしまうと恥ずかしいことだが、隆二も今やその何気ない規則正しい毎日を楽しいと思っていた。同じように見えて違う。はっきり言ってしまうと、毎日茜の言うことややることは違っていて、それを見ているのがとても楽しかった。
 だからその日も、いつもとは違う部分があった。同じではなかった。
「りゅーじにーちゃん、あーそーぼー」
 土手を散歩中、子ども達に声をかけられた。
「ああ、太郎たちか」
 最初隆二が助けたその少年は、今ではすっかり懐いていた。とはいえ隆二の返答は、
「やだよ」
「ええっ、ケチー」
「ちょっとぐらい、いいじゃない」
 呆れたように茜がなだめる。ここまでがいつもお決まりの会話だった。
「仕方ないなー、ちょっとだけだぞ」
 とか言いながら、缶蹴りに参加する隆二が、気づいたら大人げなく熱中しているのも、いつものことだった。茜はいつもそれを少し離れたところに座り、微笑んで眺めていた。
 ここまではいつものこと。
 違うのは、遊んでいる最中に聞こえた小さな小さなうめき声と、何かの倒れるような音。
 嫌な予感がして振り返る。
「っ、茜!」
 胸の辺りをおさえて、茜が身を丸めていた。
 慌てて駆け寄り、体を支える。苦しそうに歪められた顔。子ども達もそれに気づくと集まって来た。
「発作だ」
 と言ったのは、どの子どもだったか。
「発作?」
「茜ねーちゃん、心臓弱いって先生が」
「薬は? 持ってないの?」
 茜の右手には小さな箱が握られていた。
「飲んだ、から、へいき」
 小さなかすれるような声。どこが平気だと言うのか。
 一条家は体が弱くて、葵も茜も。だから、先生のところに定期的に通っているのは、ただの世間話ではなかったのか。そもそも最初から主治医と言っていたじゃないか。今更ながらにそんなことに気づいた。自分の迂闊さを呪う。
 真っ白い顔。
「少し、我慢しろ」
 その頬を軽く撫で、そっと抱え上げた。
「隆二兄ちゃん、どうするの?」
「先生んとこ」
 端的に答えると、持ち前の人並みはずれた身体能力で、あっという間に土手からその姿を消した。
「……はえー」
 残された子どもが、小さく呟いた。
 こんなに目立つことをして、化け物だということがバレて、村から居られなくなるんじゃないか。いつもなら思うことも、そのときは思わなかった。それどころじゃなかった。茜が茜を茜の。茜のことが心配だった。どうにかして助けて欲しかった。
 一人、残されたくなかった。

 

「もう大丈夫」
 だから、茜の主治医である先生がそう告げた時、みっともなくも膝から崩れ落ちた。
「おおい、不死者の手当はしないぞー」
 のんびりと言われる。その口調に、本当にもう大丈夫なのだと思えた。
 眠っている茜は、顔色は戻っていないものの、その表情は穏やかだった。
「ありがとう、ございます」
 頭を下げると、先生は少し嫌そうな顔をした。
「お前にそういう態度とられると気持ち悪くてかなわんな」
 軽口を叩かれても顔をなかなかあげられない。それほどまでに、感謝している。
「……隆二」
 優しく名前を呼ばれて、ゆっくりと顔をあげると、
「そう、情けない顔をするな」
 呆れたように言われた。
「あんなに血相を変えて現れて。お前さんの方が倒れるんじゃないかと思った、今もな」
「だって」
 抗議の声も、弱くなる。
「俺じゃどうにもできないから」
 先生に頼るしかない、と思った。
「それはこっちも一緒さ」
 どこか余所を見ながら先生が呟く。
「根本的な治療はできない。ただの、対処療法だ」
「……うん」
 その言葉が意味することを受け取り、隆二は小さく頷いた。完治は出来ない。またいつ、発作が起きるかわからない。
「最近は落ち着いていたんだがな」
 それはつまり、いつ、彼女が、
「……どれぐらい?」
「わからんなぁ。でも、正直、ここまで保っているのは奇蹟なんじゃないかと、思うことがある」
「……そうなんだ」
 それはつまり、いつ、彼女がいなくなってもおかしくないということ。今すぐにでも、彼女がいなくなってしまうかもしれない。
「そうなんだ」
 震える指先に気づき、反対の手で隠すようにした。
「出来る限りのことはする。隆二」
 先生がこちらを向いて微笑んだ。
「今のは聞かなかったことにして、普通に接してやって欲しい」
 そんな無茶なことを! そう叫ぶ心を押し殺して、小さく頷いた。隠し通す自信はなかったが、だからといって茜になんて言えば良いのかもわからなかった。
 だから、
「……隆二?」
 目を覚ました茜にかけた言葉は、
「ああ、おはよう」
 できるだけいつもどおりを意識した、淡々とした挨拶だった。本当は、大丈夫か、心配した、と縋り付きたい気持ちだったけれども。
「……うん」
 茜は一瞬の間を置いて、頷いた。
「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」
 いつものようにぶっきらぼうに言う。いつものように。だけど、
「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」
 優しく微笑まれる。
「びっくりしたよね。ごめんね」
 彼女があまりにもいつもどおりに笑うから、
「茜」
 耐えられなくなった。やっぱり耐えられなかった。いつもどおりなんて、できなかった。
 茜の横に跪き、その手を握る。握ったその手を祈るように額につける。
「隆二?」
「おいていかないでくれ」
 子どものように、必死にその手に縋りつく。
「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」
 先生との約束を破ったことになってしまうことはわかっていた。茜が困ることもわかっていた。けれども、言わずにはいられなかった。さっきまで感じていた、茜を失うかもしれないという恐怖から脱却なんてできなかった。そいつはまだ、隆二の足を引っ張っている。引きずり込もうとしている。地獄へと。
「茜がいないと、無理だ」
 声が震える。一度望んでしまったから、一度手に入れてしまったから、もう失うことを考えたくなかった。怖かった。今、茜がいなくなって、そしたらその先に待っているのは、地獄だ。
「……うん、心配させて、ごめんね」
 握ったのと反対側の手で、茜がそっと隆二の頭を撫でた。
「ごめんね隆二、ありがとう」
 そっと頭を撫でられる感触。子どもの時のような。
「違う、――」
「え?」
「俺の名前、人間のときの。――っていうんだ」
 もう二度と、口にするつもりのない名前だった。捨てたつもりの名前だった。それでも、
「茜にだけは、覚えていて欲しい」
 その名前で呼ばれる時、自分は人間だったから。
「ん。――」
 久しぶりに聞いた、自分の名前はなんだかとても懐かしくて、泣きそうになった。
「一緒にいてくれ」
「一緒にいるよ」
 ここにいるよ、と囁かれた。この手を絶対に離してはならないと、自分に課した。

 

 その後は表面上、何事も無く過ごした。ただ少し、前よりも隆二が茜の体調を心配して、口うるさくなったぐらいで。周りの隆二を見る目が一瞬、奇異なものを見る目になったぐらいで。
 だけど、時は止まらない。茜の時は止まらない。隆二ひとりを残したまま、世界の時間は進む。
 耐えられなくなった。
 それは、本当に、ある日突然来た。
 自分がここにきて、どれぐらいの月日が経っただろう? あの小さな子どもだった太郎も、今ではもう缶蹴りで遊んだりしない。
 いつのころからか、茜は月日がわかるものを全て家の中から撤去した。そんなものない、とでも言いたげに。それは彼女の優しさだったのだろう。けれども、不明だということが、余計隆二の焦燥感を煽った。
 今はいつで、ここにきてからどれぐらい経って、茜は今いくつで。あと、どれだけの時間が残されているのだろう?
 永遠なんてないのは知っている。いずれ茜はいなくなる。それまであと、どれだけ残されているのだろう。
 おいていかれる恐怖に耐えられなくなった。このままここにいたら、自分はどうなってしまうのだろう。
 だから、逃げた。逃げたのだ。
 少し行きたいところがある。外の世界を見て来たい。大丈夫、少し旅行するだけだから。
 そんな風に告げた自分の言葉の裏の意味を、茜がわかっていなかったとは思えない。もう二度と、戻ってくるつもりがないことを彼女は察していたのだろう。もしかしたら、聡い彼女のことだ。もっと以前に覚悟を決めていたのかもしれない。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
 茜はその時、幾つかのことを隆二に約束させた。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
 今生の別れのような約束。茜からのお願い。
「それから、」
 茜はそこで、微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから」
 茜はよそを向いていた隆二の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
 告げられた言葉に返す言葉がない。何を言っていいのかわからない。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
 かすれたような声で言われて、申し訳ない気持ちになる。勝手に振り回されたのだ、怒ってもいいし、泣いてもいい。そんな風に言った自分が、今彼女を振り回している。感情を制御させてしまっている。 
「……ああ」
 小さく呟くと、茜はそっと隆二の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
 そのまま、頭をそっと抱え込まれた。抵抗はしなかった。出来なかった。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
 約束はできないけれども、わかってはいる。その言葉に、茜は特に何も言わなかった。意味がわからなかったわけ、ないだろうに。
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ、――」
 そうして、彼女だけには教えた隆二の本当の名前を呼んだ。茜がその名で呼ぶのは、あの時以来だった。最初の時以来だった。
 ああ、そうか。これは本当に最後の挨拶なんだ。
「待っているから……」

 茜の家を出て、そこから一目散に走って逃げた。はやくどこか遠いところに行きたかった。ずっとずっと走って逃げて、かなり離れたところに行き、そこでしばらく一人で暮らした。一人きりの空虚な生活だった。
 一度、心が落ちついた時があった。帰ろうと、思ったことがあった。少し情けない顔をして帰ったら、茜は仕方ないわねと笑って受け入れてくれる、そんな気がした。
 離れてわかった。自分が如何に酷いことをしたのかを。茜の心を傷つけたのかを。自分にはやはり茜が必要だと。彼女を看取ることは、きっと心臓を抉られるような思いがすることだろうけれども、自分の知らないところで彼女がいなくなるよりずっといい。そんなことになったら自分はきっと、悔やんでも悔やみきれないぐらい後悔する。少し離れたことで、そう、思えるようになった。
 だから、帰ろう。
 そうしてまた、あの村に戻った隆二を待っていたのは、
「……隆二兄ちゃん?」
 少し遠くで、呟かれた言葉だった。振り返る。遠くにこちらを伺う精悍な顔つきの男が一人。右手で小さな女の子の手をひいている。その隣には、赤子を連れた女性もいた。
「太郎さん、お知り合い?」
「おとーさん?」
「ん、いや、似てるけど。もう何年も経ってるのに変わってないから別人だよね。それに」
 本来なら聞こえないような会話も、超人より優れた五官を持つ隆二には届いてしまった。
「茜姉ちゃんを見捨てたあの人が、戻ってくるわけない」
 そうして太郎は、小さな声で呟いた。
「一人ぼっちで死んじゃって。可哀想に」
 それを聞いた瞬間、きびすを返して村から逃げた。
 遅かった。遅かったのだ。
 待っています。
 彼女の言葉が、耳元で聞こえた気がする。
「……ごめん、茜、ごめん」
 嘘をついて、帰らなくて、約束を守れなくて、一人にして。身勝手て。卑怯で。
「ごめんなさいっ」


第四幕 逃走猫の帰巣本能

「だから、俺は逃げて、茜から。嘘ついて、卑怯だろ?」
 俯いたままぽつぽつと言葉を紡いでいた隆二はそこで初めてマオの顔を見た。そして、
「ちょっ」
 慌てる。ぽろぽろと、こぼれ落ちている涙を見て。
「待て待て、何故マオが泣く?」
『だってぇ』
 マオは掌で目をごしごし擦りながら、
『隆二、辛かったよね』
「別に俺は卑怯者だから辛いとか」
『そうやって、自分のことまだ許せないでいる。そういうの、辛いよね』
 赤くなった目でまっすぐ見られる。
「……俺を許していないのは、茜だよ」
 それに耐えられなくて視線を逸らす。
『茜さんは、隆二が逃げたからって隆二を恨むような人なの?』
 まっすぐに投げられた言葉に、視線をまたそちらに向ける。
『もし、茜さんがそれで隆二を恨むような人なら、隆二はそれを気にする必要はない、と思う。だっておかしいもん。あたしは、隆二が嘘つきでも卑怯でも今更そんなの気にしない。茜さんは隆二のこと好きなんでしょう? だったら、そんなこと気にしないと思うの。だって隆二が死ななくて、茜さんが人間なこと、茜さんだってわかっていたんでしょう?』
 好きなら許せるから、とマオは躊躇わずに言い放つ。
「……そんなに簡単に、決められたらいいな」
 愛しているから、恨む。そういう感情を、この幼い居候猫はきっとまだわかっていない。愛していたからこそ、恨まれる。
「でも、ありがとう」
 それでも、マオのその言葉が、気遣ってくれているのがわかって、珍しく素直に礼を言った。
『あたしね、隆二のこと、軽蔑、したりしないよ。だって、隆二にとっての茜さんは、あたしにとっての隆二と同じなんでしょう? どうしたらいいかわからない時に、優しくしてくれた人。世界みたいな人。大好きで、大事な人』
 小さく首を傾げるマオに、少し躊躇ってから一つ頷く。そうなのか。マオにとっての自分が特別な存在であることは認識していたが、そこまでも、特別で大きな存在なのか。自分にとっての茜ほどに。
『あたし、今もし隆二がいなくなっちゃうとか言われたら、そんなの耐えられないもん。怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃうかも。それ、わかるもん』
 だから軽蔑したりしないよ、とマオは小さく笑った。
「……うん、ありがとう」
 受け止めてくれて。
『でも、どっちにしても隆二が後悔してることに代わりはないんだよね』
 もう一度ごしごしと目を擦り、マオは隆二の顔を正面から捕らえた。
『だから、隆二。だったら、茜さんに会いに行こう?』
「……会いに?」
『お墓参り。お墓参りは死者のためじゃなくて、生きている人間が自分を慰めるためにもあるって、テレビでみたよ。隆二、それもまだ行ってないんでしょう?』
 そしたらきっと、隆二は自分のこと許せるよ、と屈託なくマオは笑う。
 それを見て、すっと腑に落ちた。ああ、誰かにこの話をしたかった本当の理由は、誰かにこうやって言って欲しかったのかもしれない。謝りに行くきっかけを作って欲しかったのかもしれない。
「……一緒に、きてくれるか?」
 尋ねた声が小さくてかすれていて怯えていて、自分でもびっくりする。ずっと謝りに行きたかった。ずっとずっと。だけど、一人じゃ怖いから。勇気が出ないから。だから、誰か背中を押して、そして一緒に。
『うん!』
 マオは当たり前のように頷いた。
「やあ、話は終わったかい!」
 絶妙のタイミングでドアを開けて入って来たのは、京介だった。こいつ、タイミングを測っていたな。どうせ全部聞いていたのだろう。
『京介さん、お買い物は?』
 手ブラの京介にマオが不思議そうに尋ねる。
「買い忘れたのは気のせいだった」
『あらら、うっかりはちべーねー』
「本当だよねー」
 だからどうしてそんな見え透いた嘘を信じ込んでしまうのか。
「茜ちゃんのとこ行くんだろ? せっかくだし俺も」
「お前は来るな」
 全て言い切る前に言葉を被せた。なんで連れて行ってもらえると思うのか。
「隆二、お前、一人で行けるのか?」
 少し唇の端をあげた京介が、揶揄するように言う。
「う……」
 返す言葉が見つからない。
 確かに、過去あの場所に行った時は一人で歩いて行った。だから、そこそこの時間がかかったはずだ。今回はマオも連れているし、それは避けたい。疲れはしないだろうけど、ぶーぶー五月蝿そうだし。
 しかし、極度の機械音痴であり、社会にかかわらないで生きている隆二には、交通手段の目安がつかない。新幹線? 新幹線の切符って何処で買うんだ? そもそも、どれに乗ればいいんだ?
「……まあ、電車とか手配してくれるなら一緒に来ても良いけど」
 しぶしぶそう言うと、
「おう、まかせろ」
 良い笑顔で京介は請け負った。

 

 善は急げとでも言うように、翌日には出発していた。
「……なにもそこまで張り切らなくても」
 朝一の電車に乗るために道を歩きながら隆二はぼやいた。
『思い立ったが吉日でしょう!』
 隣を浮いていたマオが胸をはって言った。それはそうなのだが。
「せっかく新幹線のチケットとれたしさ」
 昨日、俺ちょっとチケットとってくるよ! などと言って京介はあの後すぐに家を出て行っていた。
「でも、もっと遅い時間でも」
「今から出ると十時には着くし。最悪日帰りも出来る時間っしょ。もうちょい後でもいいけど、始発の方がマオちゃん楽でしょ? 人少ないから、隆二も気兼ねしないでマオちゃんに話しかけられるし。これがラッシュ時になると、隆二話さないでしょ?」
『えー、そんなのあたしつまんないっ!』
「でしょ?」
「……意外と考えてるなぁ」
「意外とってなんだよ。それに、はやくしないと、隆二の決心がまた鈍るだろ?」
 行くと決めた以上、はやく謝りたい気持ちもある。それでもやっぱり、どこか気が重い。怖い。図星を指されて押し黙る。
『一人じゃないから、平気だよねー?』
 マオが無邪気に笑う。
「……ああ」
 それに少し心が和んだ。大丈夫。今なら帰る場所もあるし、一緒に行ってくれる居候猫もいる。あと、また別の居候も。
 そんなことを言い合っている間に、駅に着く。
『あたし、電車ってはじめてー!』
 楽しそうに笑うマオを見て、遠足かなにかと勘違いしてるんじゃないか? という気もしてきたが。
 ホームに電車が滑り込む。人はまばらにしか居ない。
 椅子に座り、その隣にマオも腰を下ろした。進行方向とは逆方向の隣。それを見て京介が、
「あ、マオちゃん。隆二に掴まってた方が」
『え?』
 ドアが閉まる。電車がホームから離れる。ゆっくり動き出す。駅が少しずつ遠のき、
「……そうか、幽霊か」
 マオの姿も少しずつ、遠ざかって行く。
『えっ、えええっ!!』
 幽霊は電車に乗れない。なぜならば、車両に接していないから。車両は幽霊の体をすり抜けて行く。
 慌てたマオが、こちらへ向かおうと必死に手足を動かすが、加速を続ける車両には敵わない。
「あー、だから掴まってた方がいいって」
「わかってたなら先に言ってやれよ、お前」
「隆二が気づいてあげなよ、そこは。せめて、進行方向に座ってれば良かったんだけど」
 必死に頑張っているがちっとも姿が近づかない、寧ろ遠のいているマオに向かって、
「次の駅で待ってる」
 軽く片手をあげると、
『ひーとーでーなーしー!!』
 叫び声が返ってきた。だからそうなんだってば。

『もう、本当、信じられないっ! なんで先に行っちゃうの?』
 次の駅で下車し、待っていた隆二達の元に全速力で飛んで来たらしいマオは、着くなり矢継ぎ早に文句を言い出した。
「ちゃんと待ってただろうが、ここで」
『どうにかしてよ! その前に!』
「無理だろ、あの状況じゃ。常識的に考えて」
『もー、本当あり得ない! ひとでなしっ!』
 言いながらもマオは、しっかりと隆二の背中にしがみついている。
 やってきた電車に乗り込む。しっかりと隆二にしがみついたマオは、電車と一緒に動くことに成功した。
『はー、よかったぁー』
「最後まで気、抜けないな、お前」
 手を離したら、あっという間に置いて行かれる。
「まあ、隆二の膝の上にでもずっと座ってれば大丈夫でしょう」
 それは果たして本当に大丈夫なのか、色々な意味で。
「でも、この路線、一駅間短くて良かったよね。すぐに追いつけて」
『その、新幹線とかっていうのは、駅と駅が遠いの?』
 恐る恐る尋ねたマオに、
「遠いよ」
 真面目な顔をして京介が頷いた。
『……気をつけなきゃ』
 気を引き締めたらしいマオが、ぐっと手に力をこめた。やめろ、首が絞まる。
 そんな、普段なら呆れ返るようなドタバタ道中だったが、今回ばかりはそれに救われた。暗い思考にならなくていい。
 新幹線の中、隆二の膝に座り、隆二の首筋に手を回し絞める勢いで力を入れ、隆二にちゃんと自分の腰を支えるように口うるさく注意しながらも、窓の外を瞳を輝かせて眺める居候猫に感謝する。一緒に来てくれて、ありがとう。

 

 久方ぶりに降り立った駅前は、当時の面影を残しているような、全然違うような、不思議な印象を与えた。露骨な高い建物等はないが、前よりは少し活気づいている気がする。
 駅前にある花屋で、小さな花束を買った。それを見ていた京介が、
「じゃあ、俺はこの辺りで適当に時間潰してるよ」
『あれ、京介さん、一緒に行かないの?』
「うん、遠慮しとく。終わったら適当に探して」
 気をつけてね、と笑って京介は片手を振った。
「……ありがとう」
 ああ、なんだ。変な野次馬根性とか、おせっかいとかじゃなくて、本当に心配して一緒に来てくれたのか。それに気づき、小さく頭を下げた。
「暇だしね」
 京介はのんびりとそう言うと、どこかに向かって歩き出した。
「……じゃあ、行こうか」
 その背中から目を離し、宣言する。気合いを入れる。
『うん』
 まだ背中にくっついたままだったマオが頷いた。

 記憶を頼りに歩いてく。周りにあるものが変わっても、長い時間が経とうとも、ここでの生活は脳内にしっかり焼き付かれている。道はすぐにわかった。
「そういえば、墓の場所、わかんないな」
 記憶の中に寺はあるが、そこかはわからない。もし仮に一条家の方で弔ったのだとしたら、この辺りではないのかもしれない。
『ありゃ、困ったねー。誰かに聞くとか?』
 なんて言って聞けば良いんだよ。不審過ぎるだろ。
「まあ、とりあえず家の辺りまで行って、そこから考えてもいいか」
 大事なのは茜に謝るということ。この土地で、茜に謝るということだから。どこか二人に関係する場所で謝れればそれでも。
 そんなことを思っていると、土手にさしかかる。あの日、初めて茜に出会った場所。
 いくらか整備されて綺麗になっているそこに、目を細める。
『あー、これが噂の土手?』
「ああ」
 マオの言葉に頷き、
「……あ」
 川縁で佇む人影に、視線が固定される。思わず足が止まり、
『りゅーじ?』
 不思議そうなマオが名前を呼ぶ。
『どーしたの?』
 隆二の背中から離れ、マオが顔を覗き込んでくる。
 だけど、人影から視線がそらせない。
 肩より少し長い綺麗な黒髪、線の細いシルエット。見覚えのある柄の、着物。
『んー?』
 マオも隆二の視線を追うように振り返った。
 あれは。あの人影は。まさか、まさか、まさか。
『……幽霊?』
 マオが怪訝そうに呟く。
 人影がこちらに気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
「あか、ね?」
 小さく小さく呟く。
 振り返った人影は、一瞬少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。そして、
『お帰りなさい、隆二』
 ぱさり、
 手から力が抜け、花束が地面に落ちてばらける。
 気づいたときには駆け出して、駆け寄って、茜の腕をつかんで、抱きしめていた。
「ごめん」
 腕の中にとじこめた、彼女に向かって謝罪する。
「遅くなって、本当に、ごめん。茜、ごめん」
 髪を撫で、腕に力を加えてもなんの感触もしないことに失望する。こんなになるまで待たせてしまった。
『違うでしょ、隆二』
 たしめるように言われる。昔と変わらない声色なのに、耳以外の感覚器官で届く声に泣きそうになる。肉声じゃ、ない。
『ごめん、じゃないでしょう?』
「……待っていてくれて、ありがとう」
 幽霊になってまで、長い間待っていてくれて。
『約束したじゃない』
 茜は少し背伸びして、隆二の耳元で囁いた。
『おかえり』
「ただいま」
 遅くなって、本当に、ごめん。


 その様子を黙ってみていたマオは、くるりと踵を返すと逃げ出した。それは確かに逃げ出したのだ、と自分でわかった。
 彼の想い人は幽霊になってまで彼を待っていた。幽霊になった彼女は、きっとずっと彼の傍にいることが出来る。寿命の問題は解消される。永遠に、一緒にいることが出来る。そして彼女は、自分みたいに厄介な居候じゃない。きっとあの人は、我が侭を言って隆二を困らせることも、人の精気を必要として危険を生じさせることもない。
 隆二のあんな顔、始めてみた。あんな泣きそうで、嬉しそうで、愛おしそうで、とにかくあんな表情は絶対にマオに向けられることはない。あの表情を与えられるのはこの世界でただ一人、彼女だけだ。
『馬鹿隆二』
 足が止まる。ゆっくりと地面に降りるとその場にしゃがみこんだ。
『あたしはもう居られないね』
 あの人がいるならば、自分はあの家には帰れない。自分はもう、居候猫にもなれない。

 

 隆二はゆっくりと体を離す。正面から茜の顔を見る。記憶の中にあるのと同じ笑顔で茜は笑った。
「遅くなってごめん、ありがとう」
 額と額をくっつけて、押し殺すように呟くと、彼女はただ首を横に振った。
『私こそ、ごめんなさい』
 そういいながら彼女は隆二の頭を撫でる。
『先に死んじゃって。隆二が戻ってくるまで、絶対に待ってようって決めたのに。百でも二百でも生きていてやるって』
「茜……」
 なんで彼女はこうなんだろう。恨み言の一つや二つ言ったって、決して罰は当たらないのに。
「一人にして、ごめん」
『先生が一緒にいてくれたから』
「……そっか」
 好々爺という言葉がぴったりの茜の主治医を思い出す。
「先生は、やっぱり……」
『年だったから』
「そう、だよな」
 生きている、はずがない。
「俺、先生にお礼も言わずに飛び出して来たからな」
 なんて不義理なんだろう。なんて自分のことしか考えていなかったんだろう。
「茜にも先生にも、迷惑をかけるだけかけて……」
『気にしてないよ、先生も私も』
 とんとん、と子どもをあやすように背中を叩かれる。
『来てくれて、本当に嬉しい』
「うん」
『ありがとう』
「こちらこそ。本当に、ありがとう」
 まさか本当に待っていてくれるなんて。
 額を離し、代わりにその手をぎゅっと握る。茜もそっと握り返して来た。
『今は、誰かと一緒?』
 微笑みながら尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。
『誰かに言われないと隆二、あなたここに来る気にはならなかったでしょう?』
 くすくすと笑われる。お見通しなのか、全部。
「……ごめん」
『いいの。帰って来てくれたんですもの。きっかけはなんだって』
「そうじゃなくて」
 一緒に過ごしている人がいて。人じゃないけど。
『ああ。そっち? それは、いいのよ。だって、隆二、一人はさみしいでしょう? 私も貴方も、それはよく知っているじゃない』
 だからいいのよ、となだめるように茜は笑う。
『永遠は長いでしょう? 一人でいるには』
「……そうだけど」
 茜を一人にして、一人で待たせて、自分は他の人といたなんて……。
『本当に気にしないで。私ね、』
 茜は少し躊躇うそぶりを見せた後、
『覚悟していたから』
 隆二を見据えて宣言した。
『いつからだろう? 貴方のこと、好きになってからかな。隆二がいつか、私以外の別の人のこと、好きになること。長い長いときをかけて、覚悟を決めてきたから、大丈夫。だって、それは仕方のないことでしょう? 貴方の世界は長いのだから、一人孤独に生きるよりは誰かと居てくれた方がずっといい。ずっと、安心だわ』
「……ありがとう」
 なんだか泣きそうになる。ああ、こんなにも、思われていたのか。
「でも、一つだけ訂正」
『なあに?』
「俺が好きなのは、愛しているのは、今でも茜だけだよ。これからも、ずっと」
 茜は驚いたように大きく目を見開き、頬を赤くした。
『やだ、しばらく会わない間にそんなこと言うようになったのねっ』
 早口で言われる。ああ、そうか、そういえば、好きってちゃんと言ったこと、なかったかもしれない。
『でも隆二、それじゃあ、今一緒に居る人はなんなの?』
「あれは居候猫」
 躊躇わず答える。
「人じゃない、幽霊だよ。それも、研究所仲間」
 出来るだけ軽い調子で言うと、茜は少し痛ましげに眉をひそめた。
「そういう顔するな」
『平気なの?』
「ああ。もう、死神もいないしな」
『そう。……その人、女の人?』
「人じゃない」
 茜以外の人間と一緒に暮らすなんてあり得ない。
「女だけど」
『……可愛い?』
「まあ、可愛いは可愛いな。それに見てて飽きない」
『……そう』
 答えてから茜が頬を少し膨らませたことに気づき、思わず笑う。ああ、可愛い。本当に可愛い。同じ可愛いでも、種類が違う。愛おしい。
「茜の方が可愛い」
 手をそっと引っぱり、顔を近づけて耳元で囁くと、
『!』
 茜は弾かれたように顔をあげ、
『もうっ、本当にっ、どこでそういうの覚えてきたのっ!』
 はしたないっ、と叫ばれる。それがさらにおかしくて笑う。ああ、このやりとりがたまらなく愛おしい。
『笑わないっ』
「はいはい」
『もうっ』
 茜は一度頬を膨らませ、
『隆二』
 真顔に戻って、隆二を見つめた。
『約束、忘れて』
「忘れてって」
『私、たくさん約束させちゃったでしょう。帰って来て、以外にも』
 頷く。全部ちゃんと覚えている。殺してないし、殺されていない。生きている。生きる屍にならないという点は、今はともかくちょっと前まで微妙に守れてなかったが。
『その約束、一旦忘れて。もう十分守ってくれたから。約束にとらわれないで、今度はその人を、今一緒に居る人を守ってあげて』
「でも」
 茜との約束を忘れるなんてこと、したくない。
『色々あるのでしょう? 研究所絡みなら』
 眉をひそめながら言われた言葉に、
「……ああ。そうだな。わかった」
 小さく頷いた。もし今後、研究所がまたマオを求めることがあったら、この前のように誰も殺さずには済まないかもしれない。
『……でも、一つだけ、我が侭、言っても良い?』
「勿論」
 間を置かず首肯する。茜の我が侭なんて今まで聞いたことがあっただろうか? そしてそれを、自分が断ることがあるだろうか。
『あのね』
 茜は少し恥ずかしそうにもじもじしたあと、耳元でそっと告げた。
『名前、教えないで。あなたの、本当の名前。もう二度と、誰にも』
「……名前?」
『そう。――』
 そうして茜は、彼女にだけ教えた彼の本当の名前を呼ぶ。とても、とても久しぶりにその名前を聞いた。
『あのね、私だけ特別って、思いたいの』
 照れたように言われた言葉に、迷わず頷いた。
「約束する」
 今度こそ。それを守る。絶対に。自分が人間として接した、最後の人間は茜だ。今後も、ずっと。だから名前は、誰にも教えない。
『ありがとう』
 茜も頷く。
『……私、そろそろいくね』
 そして呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。もう? もういってしまうのか。そんな思いが胸を過る。けれども、死した人間がいつまでもこの世に留まることは、本来あってはならないことだ。彼女は長い間、ここに留まっていた。約束を果たせた今、はやくいかせてあげないと。
「……わかった」
『ああ、もう、隆二』
 茜が困ったような顔をして、両手で隆二の頬を包む。
『そんな泣きそうな顔をしないで。私、会えて嬉しかったから。本当に本当に、嬉しかったから』
「うん。待っててくれて、ありがとう」
『帰って来てくれてありがとう。ねぇ、隆二。私、貴方が居てくれて本当によかった。一条葵の予備としてではなく、一条茜として楽しいときを過ごせたのは、貴方のおかげよ。本当に感謝している』
「俺だって」
 俺だって感謝している。茜に会わなければ、あの死神が現れた段階で消えることを選択していたかもしれない。茜と過ごしたあの日々は、本当に楽しくてかけがえのないものだった。永遠に。これからも。大事な思い出だ。
「感謝している」
『うん。ありがとう。大好き』
 両手が頬から外され、背中にまわされる。隆二もそっと、その背中を支えた。
『楽しかった。本当に楽しかった。一緒に居られてよかった。大好き』
 彼女の声が少し震えている。腕に力を入れる。
「俺も」
 自分の声も震えていた。ああ、これで。今度こそ。本当に。最後だ。
「……茜」
『なあに?』
「もう一度呼んで」
 それだけで伝わった。茜は隆二の腕の中、顔をあげ、
『――、愛している』
 そっと告げた。
「……うん」
『泣かないで、――』
 そう言った彼女の目だって、潤んでいる。
『本当に、もう、いくね。このままずっと、ここにいたくなってしまう前に』
「うん。……茜」
 片手を離し、代わりに頬に添える。そっと身を屈めると、彼女も目を閉じた。唇が触れ合う。感触はないけれども、脳が覚えている。
 目をあけると、茜が恥ずかしそうに笑った。
『本当にありがとう。大好き』
 もう一度そう言うと、彼女は隆二から手を離す。
「こちらこそ。ありがとう。本当にありがとう。愛してる、ずっと」
 隆二も素直に手を離した。
 茜は一歩、隆二から距離をとると、綺麗に、柔らかく、微笑んだ。今まで見た中で、一番綺麗な顔だ。
『さよなら、――』
「さよなら、茜」
 そうして、一条茜の魂はこの世から姿を消した。


 茜を見送り、こっそりと目元を拭う。
 やっと、約束を果たせた。そのことに安堵する。
「マオ、悪い、待たせた」
 そういって出来る限り微笑んで見せながら振り返る。
「……マオ?」
 そこに居候猫の姿はなかった。



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