目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
奥付
奥付

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居候猫の父の気がかり

第一幕 居候猫の現状

「マオー、はやくしろー」
 隆二は、玄関で靴を履くと、部屋の中に呼びかけた。
「待ってー」
 ぱたぱたと軽い足音をたてて出てきたマオは、ピンクと白のジャケット二着を持っていた。
「ねー、どっちだと思う?」
 どっちでもかわんねーよ。
 喉まででかかった言葉を飲み込む。そんなこと言ったら、よりいっそう面倒なことになるのを、経験で知っている。既に何回かなったし。
「ピンク」
「あ、やっぱり?」
 今回は当たりを選んだらしい。マオは満足そうに頷くと、白いジャケットはダイニングの椅子にかけて、ピンクのジャケットに袖を通した。
 これが外れを選ぶと、「えーそうかなー、あたしはこっちがいいと思うんだけどなー」とか言われて無駄な時間を使うのだ。自分の中で決まっているなら、俺に聞くなよ。
「帰ってきたらちゃんと片付けろよ」
 放置された選ばれなかった上着を指差すと、
「わかってるよぉー」
 と頬をふくらませてマオが返事した。
 わかってないだろ。放りっぱなしだろ、お前いつも。
 マオは茶色いパンプスを履くと、同じ色のスカートのひだを軽く直した。上には白いフリルのブラウスを着ている。肩からかけた小さな鞄の中には、何が入っていることやら。
 隆二に命じて玄関に設置させた姿見で、自分の姿をじっと確認すると、
「うん! おまたせ!」
 満足したのか、隆二に顔を向けると笑った。
「じゃあ、行くか」
 玄関をしめると隆二は、マオの右手を掴んで歩き出した。

 マオが実体化してから数ヶ月が過ぎた。
 実体化の原因については、研究班が調べたがなんだかよくわからなかった。色々説明はされたが、専門用語過ぎて隆二がついていけなかったのもある。
「つまり、想定外の行動をしたから、想定外のことが起きたんですよ、きっと」
 と、エミリがあっさりまとめて、隆二もそれに乗っかることにした。大事なのは原因ではないのだ。
 これから、どうなるか、だ。
 あれ以来、二人の生活はがらり、と変わった。
 まず、マオが人の精気を必要としなくなった。厳密にいうと、摂取できなくなった。あの時、隆二の精気、のようななにかを摂取して以来、体の構造が精気のような何かに対応できるように変化してしまったらしい。現在、マオの食事は隆二の精気だ。それしかとれない。
 それが、隆二の限定なのか、不死者であるのならば他の誰かでもいいのか、は不明だが。
 そうして、人の精気よりもエネルギー量があるらしく、月一回の食事で、原則として存在が保持できるようになった。少ない回数ですんでいるので、隆二としては助かっている。
 いや、精気を与えること自体に別段不服はないのだが、唇をあわせるという方法に不服がある。それは食事だとわかっていても、釈然としない。
 そしてこれが一番、大きな違いだ。
 食事の後、二週間、マオは実体化する。
 これは数ヶ月の経験と、研究所の調べによって確定した。月の後半の二週間、マオは実体化する。つまり、月の前半は今までどおりの幽霊状態だ。
 半月ごとに、二人の生活は変化する。月の前半、霊体のときには今までどおりで何の問題もない。
 問題は月の後半だ。実体化したところで、マオはマオだ。中身はあのまま、隆二を振り回す。
 衣服や生活用品については、研究所から研究に協力した謝礼として現金をうけとり、それを使っている。謝礼として現金をうけとることに、抵抗があったが、マオのための衣服等が必要なことには間違いがなく、隆二にさして貯金がないこともまた、事実なのだった。
「受け取っておけばいいんです。利用できるものは利用してください」
 謝礼金を支払うように動いてくれたというエミリが、笑いながらそう言った。それに背中を押された。
 今回の一件では、なにからなにまで彼女に頼っている。
 その謝礼金を使って、マオがいくつか服を買い込んできた。テレビっこの彼女は、幽霊であるころからそれなりに勉強してきたらしい。最初はちぐはぐだったが、今ではヘアスタイルもメイクも、きちんと決まっている。
 テレビがない方の部屋を、今までは本を置く部屋として使っていた。一応貰い物のベッドはあるが使っていなかった。そのベッド周りは、今ではマオの私物であふれかえっている。片付けろって言っているのに、片付けやしない。
 実体化している間は、普通の人としての食事を必要とするため、コンビニで食事を買ったり、簡単なものなら隆二が作ったりしている。
 朝起きて、どの服を着るか毎朝悩んで、出かける時には化粧をして、髪型を整えて、二人で食卓を囲んで。
 なんというか、そう、普通の同居生活をしている。困ったことに。
 それでも、マオはこの生活を楽しんでいるようだから、隆二は何も言わない。そう、決めている。

 

 

 水族館の大水槽のような大きな硝子。その硝子の向こうで、マオが不安そうな顔をしながら白衣の説明を聞いている。ちらりとマオがこちらを見てくるから、軽く片手をあげてみせると、ほっと安堵したような顔をした。
 ここは研究所。今は、あれ以来恒例となった定期検査の最中だ。目の届かないところには行かせない、という隆二の主張のもと、硝子で隔てられた部屋でそれは行われている。強化硝子らしいが、こんなもの、隆二にとってはあってないようなものだ。いざとなれば。
 カルテのようなものを持った白衣の言葉に、マオが首を傾げながら何かを答えている。
 机に頬杖をついてそれを見ていると、
「どうぞ」
 紙コップに入ったコーヒーが机に置かれた。
 視界の右端に赤い色。
「ども」
 素直に受け取り、一口啜りながら、右隣に腰を下ろしたエミリを見る。
 エミリは自分の分のコーヒーを飲みながら、硝子の向こうのマオを見る。それから小さく溜息をついた。
「そろそろこの定期検査なくなればいいんですけどね。……やはりいい気分しないでしょうし」
 その言葉に、やっぱりまだ不安そうな顔をしているマオに視線を移す。
 まあ確かに、マオはここに来ることがあまり好きではないようだ。自分が生み出されたこの研究所。いい思い出がないのはわかっている。
 それでも、
「この前みたいに、急になにかなるよりは、まあこっちのほうが、俺は安心だな」
 保険として、この定期検査に安心している隆二がいる。
「まあ、マオと違って、俺にとっての研究所ってここじゃないしな」
 隆二にとって嫌な思い出がある研究所は、別の場所にあった時代のものだ。
「あの頃はもっとこう、怪しい研究所感満載だったのに、こんな製薬所なんて」
 外見上、普通すぎて怪しさの欠片もない。
 無条件で怖がるマオの気持ちを、十分に慮ることは出来ていないかもしれない。
「薬も作っていますよ」
 しれっとエミリが答えた。
「あ、そうだ」
 そんなエミリと白衣を見ていたら、急に思い出したことがある。覚えていたら、言おうと思っていたこと。
「今更だけど、ありがとう」
「……何がです?」
 唐突な隆二の言葉に、エミリが怪訝そうな顔をする。
「この前、庇ってくれただろう」
 それだけ言うと、エミリはなんのことだか考えるかのように視線を宙にさまよわせる。
 この前、マオが消えかかった時に、白衣に銃を突きつけてまで庇ってくれた。隆二が使いものにならなくて、一人不安がるマオにずっとついていてくれた。そのことは、覚えていたら礼を言おうと思っていたのだ。
「……え、今?」
 ようやく答えに思い至ったらしい。エミリが珍しく間抜けな顔をして、呟いた。
「忘れてた」
「……らしいですね」
 悪びれない隆二の言葉に、呆れたようにひとつ笑う。
「ちょっと意外だった」
 あんな風に感情をあらわにしたエミリを見るのもはじめてだったし、冷静な彼女が白衣に銃口を向けるなんていう行動をとるなんて思いもしなかった。そんなことしたら、自分の研究所内での立場が危うくなるのに。
「わたしも色々考えているんです。これでも」
 小さく肩をすくめて、エミリが答える。
「ふーん」
 なんか前も似たようなことを聞いたよな、と思いながらも深くつっこむことはしない。面倒だから。
「まあ、正直、助かったし、嬉しかったよ」
 もう何も、神山さんから奪わせたりさせません。あの言葉は、色々な意味で心に突き刺さった。自分の元から消えていった様々なものを思い出す痛みもあったが、それよりも嬉しかった。あのときは、この感情の名前がわからなかったが、落ち着いた今ならわかる。あのとき自分は、嬉しかった。
 基本的には、一人でなんでも出来る。やろうと思えば、この研究所を壊滅させることだって出来る。それでも、誰かに心配してもらうとか、助けてもらうとか、誰かに自分のことを意識してもらうことが嬉しいことなのだと、改めて思った。
 それも、エミリという思いがけない方向からきた手助けに、一瞬、心が鷲掴みにされたのだ。
 そんなことを思っていると、右頬に突き刺さる戸惑いの視線。
「……何?」
 辛いものだと思って口にいれたら、甘かった。そんな顔をしているエミリを見ると、
「……いえ、ちょっと驚きました」
 言葉を選ぶようにして、エミリが答えた。
「何が」
「神山さんが、そんなこと言うなんて。なんていうか、だいぶ、丸くなられましたね」
 しみじみと呟かれた言葉に、今度はこちらが顔をしかめる番だ。
「……俺だって、色々考えてるんだよ」
 苦々しく、似たような言葉を返した。
 硝子の向こうの居候猫を見る。
 ずっと一人でいたのに、突然現れたアレに終始振り回されているのだ。それなりに性格だって変わる。
 それに、マオが来てから色々あった。
 ようやく茜に会いに行くことができたし、同族の一人を見送った。
 一人じゃない生活は自由がないけれども、やっぱり楽しい。あのソファーは一人には広過ぎる。
「マオさんのおかげですね」
 エミリの言葉に苦笑する。
 そのまとめ方は、心情的には不満なのだが、結局そのとおりだ。彼女のあの無駄な前向きさに、ひきずりあげられている自分がいる。
 だからこそ、最近、たまに思う。
「……俺でよかったのかねぇ」
 小さく呟く。
 隆二がここにいるのは偶然だ。
 先にマオに会っていたのが自分以外の誰かだったならば、今の隆二の位置にいるのは、そいつだったことだろう。
 もしかしたら、そいつの方がマオのことを可愛がって、優しくして、楽しい生活を与えて、今みたいなことも起きていなかったかもしれない。
「何がですか?」
 マオには絶対に言うなよ、と念押ししてから、
「例えば、颯太だったらもっと上手く動いていたんじゃないか、って思うんだよな」
 マオが見えて、同じような境遇という点では、隆二も颯太も同じだ。自分達、不死者の仲間うちで一番頭のいい彼ならば、もっといい方法を見出していたんじゃないだろうか。前回みたいなことには、ならなかったんじゃないだろうか。
 エミリは、弱音を吐く隆二を、意外そうに一瞥してから、
「わたしは神山さんでよかったと思っていますよ」
 小さく微笑んだ。
「確かに神崎さんは頭がいいですし、他の方法を選んだかもしれません。ですが、神崎さんの場合、そもそもマオさんを拾う、という選択をしなかったんじゃないかと思います」
 エミリの言葉をうけて少し考えると、
「あー、確かに」
 それもそうかもしれない。興味のないことにはとことん興味をしめさない。
 隆二のときみたいに、マオが落ちてきたって何の反応も示さなかった可能性の方が高い。
「気まぐれで拾ったところで、ちゃんと最後まで面倒をみたかどうか……。神坂さんに関しては言うまでもありませんしね」
「英輔、なー。それは同意する」
 力強く頷く。甘いもののためには世界を敵に回すことも厭わない隆二の同族は、知識の偏った純粋な幽霊の世話係に適さないことこの上ない。英輔のコピーが出来上がるかもしれない。恐ろしくて預けられない。
「それに」
 そこでエミリは何かに気づいたかのように口をつぐんだ。
「京介だとどうなわけ?」
 代わりにこちらから水を向けてみせる。
 気にしなくていい、と言っても、京介が消えたことについて責任を感じていることはわかっている。
 エミリはしばらく、躊躇うそぶりをみせてから、
「……神野さんは、スポイルし過ぎそうです」
 それから隆二の顔を見て、
「甘やかしそうってことです」
 言い直した。ご丁寧に、どうもありがとう。
「……確かに、あいつ、マオに甘いもんなー」
 ちゃんと外で会話していたし、テレビの話にも付き合っていたし。
「わたしは、マオさんのあの天真爛漫なところといいますか、割と自由なところは好きですが」
 これはまた、意外なこと言う。
 ちらりと隆二はエミリを見る。
 エミリは気づいていないようだ。あれだけ実験体を物としてしか扱っていなかった自分が、実験体を好きと評価したことに。
 確かに、彼女は変わったのかもしれない。
「さすがに、神野さんが世話をして、野放しにされたマオさんは好きになれたかどうか……」
「我が侭放題?」
「ええ」
「それは、……うざいな」
 そうでしょう? と言いたげにエミリが頷く。
「ですから、結局、神山さんが一番いいんですよ。ちゃんと面倒は見ているし、たまにものすごく甘やかしているように見えるときもありますが、トータル過度に甘やかしたりせず、適宜ほったらかしたり気分でかまったりするぐらいで」
「……微妙に棘がなかったか? 今」
「気のせいですよ」
 エミリは、呆れたように笑いながら隆二を見ると、
「しっかりしてください。マオさんには、神山さんが全てなんですから」
 力強く言った。
「……そうだな」
 自分がここでへたれたり弱気になったりしたら、マオに悪影響だ。それぐらいは、わかっている。
「ありがとう」
 素直に礼を言うと、エミリはまたちょっと驚いたような顔をした。
 だから礼を言ったぐらいで、いちいち驚くなっつーの、失礼だな。

 硝子の向こうでは、なにやら機械で数値の測定が始まっている。
 検査の結果は、一応毎回もらっている。
 それにしても、と手元の資料を捲った。前回までの検査結果がファイリングされている。
「どうしたもんかねー」
 少し苦々しく呟くと、
「……すみません」
 隣のエミリが呟いた。
「嬢ちゃんが謝ることじゃない」
 すぐに謝るのは殊によると彼女の悪い癖かもしれない。そう思いながら、苦笑を返した。
 資料に書かれている、実体化したマオについての調査結果。
 マオは気づいていないようだから、気づかせないようにしている。
 実体化した、ということは肉体という器に縛られることになるのだ。つまり、死というものが近くなる。肉体の死、が生じる。
 実体化したマオは、ほぼ普通の人間と一緒だ。怪我をすることもあるし、場合によっては死ぬことだってある。
 それを、マオは気づいていない。
 隆二だって、最初はそこまで頭が働いていなかった。
 最初に実体化したあの時、幽霊の時と同じようにぽんぽん身軽に動き回って、バカみたいにテーブルにぶつけて出来たアザが、霊体になっても残っているのを見るまでは。
 それに気づいたとき、ぞっとした。
 見えてしまった。また一人になる未来が。絶対に隆二を一人にしない、と言ったマオがいなくなる未来が見えてしまった。
 彼女のその言葉をなんの抵抗もなく受け入れて、信じていたのは彼女が幽霊だからだ。幽霊は死なない。ずっと一緒にいられる。そう思っていたからだ。
 その前提が消えた。
 そのことに気づいた時の気持ちは、あのときと一緒だった。はじめて、茜の発作を見たときと一緒。
 また、足首を掴まれた。恐怖に。
 以降、隆二は実体化したマオの生活に制限をかけた。
 一人では出かけないこと。火や包丁などは使わないこと。むやみやたらに跳ね回らないこと。
「だってお前、バカだから」
 いつもみたいにからかう口調で言ったら、マオはむくれた。真意から目をそらすことが出来た。それに安堵した。
 彼女が気づいていないのならば、無理に言いたくなかった。せっかく実体化できて、食事をとって、衣服を着替えて。そう言ったことを楽しんでいるマオの気持ちに、水をさしたくなかったのだ。
 幸いなことがあるとすれば、老化というものがないこと、だ。
 最初は、それも不安に思っていた。
 実体化している半月の間、老化がはじまるのではないかと。そうだとすれば、常人と同じペースではないものの、いつか老いて隆二の前から消えてしまうのではないかと、不安に思っていた。
 けれども、研究所の説明によれば、確かに実体化している二週間は、成長も老化もある。けれどもそれは、霊体に戻った時にリセットされる。だから、老化による身体への影響は考える必要はない。
 それは、不幸中の幸いだった。
 もっとも、霊体に戻った時にリセットされるのは、自然の流れでの成長、老化だけであり、怪我などは残ることになってしまうが。
 実際、最初のときについたアザは、霊体に戻っている間消えなかった。ただ、次に実体化したときには、人体の治癒力が働き、消えたが。
 気をつけるべきことは、実体化している時の怪我や病気だ。それは自然の治癒能力の範囲で治していくしかない。やっかいな部分があるとすれば、霊体に戻っている間はその治癒能力が働かないことだ。大きな怪我をしたまま治らずに霊体に戻ったとき、どういう影響がでるのか。それについては、実際になってみないとわからない。なら、わかりたくなかった。
 それでも、やはり、これは不幸中の幸いだ。
 どうしたもんかね、とは思うけど、最悪よりはだいぶいい。受け入れられる。
 あの時、あのGナンバーの事件の時、あのままなす術もなく、マオが消えてしまうことに比べたら、百倍マシだ。
 ちゃんと考えた。最善ではなくても最悪でもない。
 それに今回は、責任の一端は自分にあるのだ。恨んだりはしない。
 それでももし、最悪の事態になったら、また一人になってしまったら、そのときはあいつのところにいこう。
 そう決めている。
 あいつなら二つ返事で引き受けてくれる。自分が京介にやったよりも容易く。それには少し感謝している。
 大丈夫、今すぐではない。
 マオが消えてしまうのは、今すぐではない。
 今すぐにはさせない。
 覚悟は長い時間をかけてしていくものだと、彼女が言っていた。今すぐでないのならば、ちゃんと覚悟を決めていこう。
 その時に向けて。
 硝子の向こうでは、全ての検査が終わったらしい。マオが浮かれた顔でこちらに向かってくる。
「ちゃんと考えているよ」
 それを見ながら、小さく、あいつへ言い訳した。
「りゅーじ!」
 扉をあけて、こちらにきたマオに片手をあげる。
「エミリさん、こんにちは!」
「こんにちは。おつかれさまです」
 先ほどまでの話の気配は微塵も見せず、エミリも微笑む。
「おつかれ」
 あげた片手で、マオの頭を軽く撫でると、嬉しそうに微笑んだ。
 こういうところは、霊体の時と変わらない。
「帰り、お買い物行こう?」
「……一昨日も行ったよな?」
 弾んだマオの声に、呆れて笑いながらも、帰るために立ち上がった。


第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表

『きゃーっ!』
 ソファーでうたた寝していた隆二は、居候猫の悲鳴で目をさました。
「マオっ!?」
 慌てて体を起こし、声の方を見る。
 マオが口元を両手でおさえ、
『ひゃーっ!』
 また声をあげた。視線はテレビに釘付けだ。
 なんとなく状況が理解できて、立ち上がりかけた体を、またソファーにおろす。
 これはあれだ、悲鳴じゃなかった、黄色い歓声ってやつだ。
 幸いだったのは、今のマオが幽霊なことだ。これが実体化している時だったら、近所迷惑だったことだろう。
『採用されたっ!』
 テレビ画面に写っているのは、半分透けた状態で浮かれてピースサインしている、この幽霊の姿だった。
 見覚えのある写真。隆二がケータイを手にしたころ、マオに言われてとった写真。
 そういえば、例の心霊写真は、あの後エミリに頼んでテレビ番組に送ったのだった。それがどうやら、採用されたらしい。
『なんで、うちにはビデオないのっ! ケータイケータイっ!』
 マオは画面を見たまま、片手を伸ばし、テレビ脇の棚に置いてある自分のケータイに手を伸ばし、
『ああっ、あたし、今、幽霊の方だったっ!』
 空を切った手を恨めしく見る。
『隆二! とって!』
「諦めろ」
 もうカメラの起動の仕方なんて覚えていない。
『えー、もうっ!』
 言っている間に、マオの写真は消えて、別の話になった。
『あーあ、記念に写真とっときたかったのになぁー』
 ぷぅっと膨れる。
 写真がテレビに映っているのを写真にとりたい、とは一体どういうことなのか。隆二にはその感覚がよくわからない。
 むすっと膨れたまま、ごろんっと畳の上に倒れ込む。よっぽど残念だったらしい。
「……でもまあ、よかったな。採用されて」
 仕方なく、フォローの言葉をかけてみる。
『うーん』
 返事は煮え切らない。
「採用されると一万円だったか? 今ならそれ、自分でも使えるじゃないか。服でもなんでも、好きなものを買えばいい」
『……違うの』
 マオが顔だけこちらに向ける。むすっと、への字の唇。
「違う?」
『あのね、採用はされたんだけど、あたしが採用されたのは、お巫山戯心霊写真コーナーで、ちょっと違うの。格が』
「……格が?」
『ちょっと変わった、怖くない心霊写真が集まってるコーナーなの』
 まあ、幽霊がピースサインしていたら、そうなるわな。
『それだとね、記念品のボールペンだけで、賞金でないの』
 むすっと膨れている。
「あー、なるほど」
 採用されたことは嬉しい。テレビに映っていた自分を見ることは嬉しい。だけれども、目的の一つである賞金は手に入らない。それは悔しい。
 そういうことだろう。
『あーあ、なんか微妙っ!』
 呟いて、ごろりと寝返りをうつ。うつぶせになってしまったから、顔が見えない。
 さてはてどうしたものか。まあ、しばらく放っておけば、勝手に機嫌直すだろうけれども。
 ちょっと考えてから、
「マオ」
 名前を呼んでみる。
 僅かに顔を動かして、片目だけでこちらを見てくる。
「じゃあ、今度、写真撮ろう。実体化しているときに、一緒に」
 なにが、じゃあ、なんだか自分でもわからないが、悪くない提案だと思った。せっかくちゃんと写真にうつるようになったのだ。写真の一枚や二枚ぐらい、残しておいてもいいだろう。
『本当っ!?』
 がばっとマオが体を起こし、ぱぁぁっと明るい笑顔になる。
「ああ」
 単純な彼女に呆れて笑いながら頷くと、
『やったぁ!』
 マオが両手を叩いて喜んだ。
『嬉しい、ありがと!』 
 そのまま、ひょいっと跳ねるようにして、ソファーに座る隆二の隣にくる。
「ん」
 軽く頷いて、その頭を軽く撫でた。
『えへへ、早く、ご飯の日来ないかなー!』
 そうだなーなんて相槌をうちながら、またマオの一挙一足に肝を冷やす期間がくるのかと思うと、手放しでは喜べなかった。
 覚悟はまだまだ決まらない。
 突然、部屋にコミカルなメロディーが流れる。
『あ、ケータイ』
 テレビの前に置いた、マオのケータイが鳴っていた。奏でているのは、疑心暗鬼ミチコのテーマソングだ。ケータイを手に入れてそうそうに、マオが設定したのがこれだ。だからどんだけ好きなんだよ。
 このケータイも、隆二のと同じく研究所からの支給品だった。違うのは、
『りゅーじ、確認して』
「やだよ。お前の壊しそうで怖いから」
 指をさすマオに、苦い顔を返す。
 隆二とマオとの決定的な差。それは、ご老人向け機種と、スマートフォンの差だった。
『えー』
「無理無理。なんでそれ、ボタンがないのに動くのか、本当わからん」
 自他ともに認める機械音痴の隆二には、そんな未知の物体を触る勇気がない。
『えー、じゃあ、ご飯の日まで確認できないのぉ?』
 不満そうに唇を尖らせる。
「マオにメール送ってくるなんて、どうせ嬢ちゃんだろう。聞けばいいじゃないか」
 言いながら、ダイニングテーブルに上に放っておいたケータイをとってくる。まあ、聞けばいいじゃないか、ってその聞くのが大変なわけだが。
 未だになれない手つきで、メール作成画面を起動しようとしていると、
「うわっ」
 手の中でケータイが震えた。急に震えるなよ、驚くじゃないか。
 驚いて放り投げそうになったそれを、再びキャッチして、画面を確認する。
「あ、嬢ちゃんからだ」
『なにー?』
 マオが画面を覗き込んでくる。
『えっと、マオさんにメールしましたが、今は確認できませんね。すみません。えっと……』
「転送」
『てんそーするので、マオさんによろしくお伝えください』
 そこまで読んで、マオが隆二の顔を見て、嬉しそうに笑う。
『やさしーね、エミリさん。隆二に送ってくれて』
 それからまた、画面を見る。
『オカルトクエスト内の心霊写真探偵のコーナー、見ました』
「……嬢ちゃんも、そういう番組見るんだな」
 っていうか、そういうタイトルだったのか、あの番組。
『マオさんのあの写真、でていましたね。びっくりしました。メインの部分ではなかったのが少し残念ですが。送るのをお手伝いした身としては、嬉しかったです。咄嗟に画面を写真にとったので……』
「添付」
『てんぷ、しておきますね』
 更にスクロールすると、確かになにか添付ファイルがついているようだった。
「……どうするの、これ」
『そこクリックしてー、そう』
「あ、開いた」
 どうにか画面に呼び出した写真には、テレビに映る、居候猫の間抜けな心霊写真があった。
『きゃーっ!!』
「……耳元で叫ぶなよ、うるさいな」
 またあがった黄色い歓声に、右耳を押さえる。別に鼓膜を通して聞こえているわけではないのだが、気分として。
『もー、エミリさん、さっすがー! すてき! 大好き! 隆二とは違うなぁ!』
 嬉しそうに笑いながら、手を叩く。
「……よかったな」
 あまりのはしゃぎように呆れながら声をかけると、大きく頷かれた。
『りゅーじ、お礼のメール!』
「……俺がやるのか?」
『だって、あたし今メール打てないもん!』
「……だよなあ」
 しぶしぶ、返信メッセージを作成する。
「……マオがとっても喜んでいた、ありがとう。今度ちゃんと本人から返事させる。で、いいか?」
『……もっとこの感動を伝えて欲しいんだけど、隆二だから仕方ないね』
 一瞬、顔をしかめたものの、素直にマオが頷いた。マオの感動とやらを伝えるためのメールなんて、一日あっても完成するとは思えない。
 なんとかメールを打ち終えて、送信。
 やはり慣れない。疲れる。
 溜息をつきながら、ケータイをソファーに置いた。
『ありがと!』
 幾分、落ち着いたマオが、ぺこりと頭をさげる。
「どーいたしまして」
 苦笑しながら返事を返した。
『あ、写真もらったけど、二人の写真も撮ろうね!』
「はいはい」
 投げやりに返事をする。
 まあ、写真をとること自体に、反対すべき点がないし。
 と思っていたら、なんだかじっと見つめられる。
「……何」
 なんだか射抜かれそうな視線に、居心地の悪さを感じる。
『……隆二さ』
「うん?」
『何か最近、優しい』
「……は?」
 優しい?
『気味悪いんだけど。今だって、前だったら、写真手に入ったからもういいだろめんどくさい、とか言うところじゃない? っていうか、そもそも、一緒に写真撮ろうなんていう、ナイスな心遣いなんて出来なかった!』
「……一度、お前の中の神山隆二像を改める必要があるな」
 どれだけひとでなしだと思っているのか。
「別に、優しいならいいだろ」
 呆れて笑いながら言うと、
『何か、隠し事してない?』
 言葉で射抜かれた。
 一瞬、挙動がおかしくなりそうなのを、必死に耐える。
「はぁ?」
 普段どおりを意識して、呆れたように言葉を返す。
「何を根拠に」
『女の勘!』
 また、面倒なものを根拠にしたな。
 しかし、確かに以前よりもマオの要望を叶えようとしているのは事実だ。あのとき、どうして無視したのだろう、と後悔したくなくって。
 それは、確かに、不自然だったかもしれない。
『何か、疾しいことがあるんでしょうっ!』
 腰に手をあてて、挑むように言われる。浮気がバレたらこんな感じなんだろうか。
「例えば?」
 動揺を押し隠して、平静を装う。
『わかんないけど!』
 さっきと同じテンションで言われる。イマイチ迫力が足りない。
「なんだそれ」
 呆れたように笑ってみせる。
「そりゃあ、多少変わるだろ。マオが実体化するようになったら、生活様式が変わるんだからさ」
『だけどなんか怪しい!』
「あーそう、そんなに言うならわかった」
 わざとらしく、足を組み直して、告げる。
「もう、お前の言うことは何一つきかない」
 言った瞬間、マオの顔が泣きそうにくしゃりと歪んだ。
 そういう顔をされると、多少は胸が痛むのでやめて欲しい。
「写真もとらない」
『や!』
 短く叫んで、飛んでくると、隆二の顔をのぞき込むように床に座った。
『写真撮りたい!』
「優しいから気味が悪いんだろ」
『気味が悪くてもいいから、写真撮りたい!』
 気味が悪いは否定する気ないのかよ。
「隠し事してるから嫌なんじゃないか?」
『うう、してるような気がするけど、してないっていうことでいいから!』
 そこも妥協し切らないのかよ。
「ふーん?」
 ちらりと視線を向けたマオが、思ったよりも真剣な顔で、少し笑いそうになる。そんなに大事なことなのか、写真が。本当、何事にだって真っすぐに向き合っているな。
『ごめんなさいー。優しいのはいいことでした!』
「……まあ、わかったよ」
 ぽんぽんっと、その頭を軽く叩く。
 すると、途端にマオの顔が華やいだ。
『写真、とってくれる?』
「ああ」
『ありがと!』
 えへへ、っと笑う。
 その額を軽く指で弾いた。
「なんにも隠し事とかしてないから、気にするな」
『はーい』
 隠し事の件はもういいのか、マオが楽しそうに片手をあげて返事をした。
 よかった、うまくごまかせた。
 結局のところ、覚悟がまだ決まっていないから、マオに覚悟の内容を話すことができない。
 きっと、実体化にともなう弊害を聞いたら、マオはショックを受ける。それを一緒に受け止めてやるだけの覚悟が、まだ自分にはできていない。
 今はまだ、はしゃいでいるマオを見ていたい。
 だから、今後は多少、優しさに気をつけよう。

 

 

 毎月十五日。それが、マオの食事の日だ。
 実際は、多少食事の日がずれても、問題はないらしい。だが、一日でも遅れて、またマオが消えるようなことになっては困る。
 だから、毎月十五日をその日と決めていた。
『それでは』
 ソファーに座った隆二の前に立ったマオが両手をあわせる。
『いただきます』
 律儀にそう言うと、隆二の頬に手を伸ばした。
 だからこの食事方法、なんとかならないわけ?
 幾分、うんざりしながら瞳を閉じる。いや、閉じるのもどうかと思うけれども、あけておくのはもっとどうかと思うし。
 と、月に一回の謎の葛藤。
 触れていた唇と、頬に置かれた手に熱を感じる。
 同時に、それらが離れた。
「ごちそうさま、です」
 マオの言葉に目をあける。
 ちょっと困ったように笑いながら、実体化したマオが立っていた。
「おそまつさまで」
 言って、だらっとソファーに座り直す。
「んー、さすがに寒い」
 霊体の時と同じ、白いキャミワンピを着ているマオが肩をさする。
「着替えて来い」
「そーする」
 いいながら、隣の部屋に消えた。
 霊体の時のマオが身につけている、あのワンピースの構造も対外謎だ。実体化したときは、ワンピースも実体化する。脱ぎ着することができる。
 そして、不思議なことに、霊体に戻るとき、どんな服を着ていても、あのワンピース姿に戻るのだ。タンスに仕舞っていたはずのワンピースは消えている。
 マオの霊体を構成する一部。それが、研究班の認識だった。
「ねー」
 隣の部屋から声がとんでくる。
「んー」
「写真、とりにいこう!」
 弾んだ声。
「……写真?」
「もー、忘れたの? 約束したじゃない!」
「……ああ」
 そういえば、そうかもしれない。
 しかし、
「とりにいこう?」
 隆二としては、次に研究所に行った時にでも、エミリにとってもらうつもりだったのだが。
「そう」
 着替え終わったらしいマオが、ひょこっと顔をのぞかせると、
「あたしね、憧れてたの」
「なにに?」
「プリクラ!」
 にぱっと笑った。

   ゲームセンターというのものに、はじめて足を踏み入れた。
 霊体のころに何度も来ていたというマオに、ぐいぐい腕を引っ張られながら、奥に進んでいく。
 ところで、聞くタイミングを逃したのだが、プリクラとは一体なんなのか。
 それなりに、現代文化に溶け込もうと思っている不死者だが、頑張る気がないのでどうしても遅れがちだ。
「これ!」
 指されたなぞの機体。そこに描かれた写真。文字やハートマークなんかが描かれた写真。
 制服を着た女子高生二人が、小さい写真がたくさんついているシートを二つに切っていた。
 どこかで見たことある。
 考えて思い出す。タンスの奥にそっとしまい込んだ、京介のジッポ。あれに貼られていた写真シールがこれだ。
 なるほど。
 唇が皮肉っぽく歪む。
 というか、これを俺にやれというのか、こいつは。
 うんざりしながら、数体並ぶ機体を、どれにしようかな、で選んでいるマオを見る。
 何かの罰ゲームか。さすがにここまでのことは想定していなかった。
「りゅーじ」
 どれにするか決めたらしいマオに手招きされる。
 しぶしぶ近づくと、カーテンの中にひっぱりこまれた。
「なあ、マオ」
「んー」
 財布の中から、小銭を探しているマオに声をかける。
「お前、これ、やりかたわかってんのか?」
「雑誌で読んで勉強したから大丈夫」
「……ああ、そう」
 そういうとこだけは、本当、しっかりしているよな。
 小銭を投入し、機械音声の指示に従ってなにやら操作しているマオをぼんやりと眺める。
 なんか、もうなんでもいいから、はやく終わんないかな。
「それじゃあ、撮影するヨ!」
 機械音声。マオが隆二の腕をとって、ピースサインした。
 かしゃっと、一枚とられる。
「ちょっと」
 マオが隆二の横顔を睨みつけながら、
「なにその、直立不動の無表情」
 唇を尖らせる。
「ポーズとれとは言わないから、にっこり笑ったりできないのっ」
「……無茶言うなよ」
 うんざりしてマオを見る。
 見てから、思ったより近い顔に、距離をそっととった。
 実体化して、普通に立って並んではじめて気づいたが、マオの方が隆二よりわずかだが背が高い。普通に立って並ぶと、顔がとても近い。
「あのね!」
 マオがさらに膨れたところで、
「それじゃあ、とるヨ!」
 機械音声。三、二、一のかけ声で、かしゃっという音。
「えっ」
 慌ててマオが画面を見た時には、呆れたようにマオを見る隆二と、頬をふくらませたマオの姿があった。
「もー! 隆二のせいでとんでもないことになったじゃない!」
 ますます膨れる。
「……俺が悪いの?」
 などとやっている間にさらにシャッター音。
 結局、マオが無事に前を向いてうつっていたのは最初の一枚だけで、あとは隆二に向かって怒っていたり、シャッター音に慌てたりしている顔だった。
「もー!」
 落書きコーナーなる場所に移動しながら、マオが膨れる。
「こんなはずじゃなかったのに」
 いいながら、何か書き込んでいく。
 落書きできるという画面は二つあるが、万が一壊したら怖いので、隆二は触れない。触らない。
 その落書きも終わって、出て来たシートを見る。
「……字、ヘタだなぁー」
 最初の一枚に書かれた、「まお」と「りゅーじ」という字。ミミズが這ったようなその字をみながら呟くと、またマオが膨れた。というか、「ま」の丸のついている向きが逆だ。
「難しいんだもん! はじめたばっかりだもん!」
「はいはい。帰りに平仮名練習帳買ってやるから」
 言いながら、一応他の写真に目を通す。
 きらきらした星やらハートやらに紛れて、「このとーへんぼく!」なんて書いてある。怒ったマオと、呆れたような隆二の写真。
「本当、こんなはずじゃなかったのに」
 むすっと膨れるマオの頭を、軽くこづく。
「……俺はいいと思うよ」
「なにが」
「らしくて」
 言うと、マオにシートを手渡して、帰ろう、と歩き出す。
「あ、待ってよ」
 慌てて隣に並んだマオが、
「らしい?」
 首を傾げる。
「……お前らしいだろ、バカっぽくって」
 言うとまた一度膨れてから、
「でも、確かに隆二らしいね」
 ふふんっと勝ち誇ったように言った。
「隆二はいつも、こういう顔してるもんね」
 目の前にシートをかざし、眺めてから、満足そうに頷く。
「うん、日常の一コマって感じで、悪くないかも」
 とんだ日常だな。
 思いながらも、自分の感想と一緒だったので何も言わない。
 納得して機嫌を直したのか、マオはそれを鞄にしまう。
 変に固まって、笑顔を作っているよりも、さっきの写真の方がよっぽどいい。
「転ぶなよー」
 それを確認すると、空いた手を掴む。
 外を歩くとき、手を繋いでいないと少し不安だ。どこかに行ってしまいそうで。
「転ばないよ!」
 転ばないように手を繋ぐ、という隆二の言葉を信じているマオも満更ではないらしい。口ではなんだかんだいいながら、手を握ってきた。
「ねー、りゅーじ、カレー食べたい」
「カレー? おこちゃま用甘口カレーでいいか」
「よくなーい」
 マオの言葉に適当に言葉を返しながら、家路についた。


第三幕 猫には首輪を。

「マオ、買い物行くけど、どうする?」
 テレビの前に座ったマオに尋ねる。今は絶賛実体化中だ。
「んー、待ってるぅー」
 テレビから目を離さずにマオが言う。
 だと、思ったよ。
 今やっているのは、四苦八苦久美子、だ。疑心暗鬼ミチコと同じ美少女四字熟語シリーズでありながら、実写版は予算の都合で作成されず、アニメ版ではじめて作成された話だそうだ。
 まあ、当然のことながら、マオはそれに夢中だった。もう今更、それには何も言うまい。
 しかし、ウェディングドレス姿で戦う少女が四苦八苦とは。なんというか、皮肉っぽいよなあ。
「留守番しとけよ、勝手にでかけんなよ」
 一応釘を刺しておく。一人で出かけた先でなにかあったら困るから、一人での外出は禁じている。
「んー」
「マオ」
「はーい」
 片手をあげての返事に、逆に不安になりながらも、家を出る。
 マオが実体化して、隆二が助かっていることがあるとすれば、テレビの操作をマオ自身が行えるようになったということだ。前は、やれ電源いれろ、チャンネル変えろと寝ていようが本を読んでいようがおかまいなしにリモコン代わりに使われていたが。
 久美子が終わって次の番組がつまらなくても、適当にチャンネルまわして楽しい番組を見つけてくれるだろう。
 マオの相手は、テレビに任せておくことにする。まったく、優秀なベビーシッターだ。
 今日の夕飯は何にするか、考えながらスーパーに向かう。
 手を抜いてコンビニで買うことも多いが、やはり自炊の方が体にいいのではないか、と気づいてから、それなりに積極的に料理するように気をつけている。簡単なものしか作れないが。
 こんなことになるとわかっていたら、京介に料理でも習ったのになー。そんなことを思う自分に苦笑する。
 しかし、仮定の話、自分の心の中での話とはいえ、京介のことをこんな風に思い出すことができる。それに思い至ると、なんとも言えない気分になる。
 思い出すのが辛くて避ける時期は終わった。そのことを意識すると、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかわからなくなる。
 そんなことをつらつら思いながら歩いていたからだろうか。
 前方に、なんだか見覚えのある黒髪が見えた。
 そろそろ切った方がいいんじゃないか、と思うぐらいの長さの黒髪。
 思わず、早足になってそちらに向かう。
 地面に座りこんだ、その体格は似ている。
 神野京介に。
「きょっ……」
 近づいて呼んだところで、その人物が顔をあげた。
 確かに似ている髪型で、体格だったけれども、見えた顔は女のものだった。
 違った。当たり前だ。
 やっぱりまだ、踏ん切りがついていない。
「……すまない、知り合いに似てて」
 怪訝そうな顔をする女にそう告げる。
「あら、昔の女にでも似てた?」
 言いながら女がくすくすと笑った。
「いや男」
 正直に答えると、
「うわっ、失礼な! 何か買いなさいよ」
 地面に座り込んで何をやっているのかと思ったら、路上でアクセサリーを販売しているらしい。
 まあ確かに、男に間違えるのは失礼だったな、いくら、よくいえばスレンダーな体格が似ているからといって。
 並べられた手作りアクセサリーとおぼしきそれらを眺めていく。
 まあしかし、眺めたところでどうしたらいいのか。適当になんか安いの買って逃げるか。
 そんなことを思っていると、視線が一点でとまった。
 猫のチャームがついた、ペンダント。猫の横にちょこんっと緑色の石がついている。
「それねー、キャッツアイ」
 隆二の視線を追って、女が言う。
「キャッツアイ?」
「そー、猫目石。光があたると、猫の眼っぽい筋がでるから」
「へー」
「えっとね、邪悪を祓うとか、そういう効果があるらしいよ」
 適当で投げやりな台詞。売る気あるのか。
「触っても?」
「どうぞ」
 それを手に取って、目の前まで掲げる。そっと値札を確認したが、お手頃価格だった。
 緑色、猫。おまけに邪悪を祓うとか。
 これはもう、ぴったりだろ。家でテレビを見ている、緑の瞳を持つ居候猫に。
「……じゃあ、これ」
「どーも」
 手渡すと、女が袋に入れてくれる。
「カノジョに?」
 金銭と引換に袋を受け取りながら、その質問に苦笑いを返す。
「いや? 猫に」
「猫?」
「そういえば、まだ首輪をつけていなかったんでね」

 

「ただいま」
 スーパーでの買い物を終えて、家に戻ると、
「おかえりなさーい」
 ぱたぱたとマオが玄関まで出て来た。
「走らない」
「走ってない!」
 うそつけ、走っていただろうが今。
 テレビはニュースを流している。ああ、飽きたんだな、さては。
「夜ご飯なにー?」
 スーパーの袋を覗き込んでくる。
「んー、シチュー。っていうか」
 野菜達と一緒にいれていた、ペンダントの袋を渡す。
「これやる」
「え? なになに?」
 小さな袋を受け取ったマオが、驚いたような顔をする。
「あけていい?」
「どーぞ」
 びりびりと、酷く乱暴に袋をあけたマオが、
「わー」
 出て来たペンダントを目の前にかざして、きらきらと顔を輝かせた。
「え、なに、どうしたの? どういう風のふきだまり?」
「強引に売りつけられた。あと、吹き回しな」
 また優しいから気味が悪い、とか言われないように言い訳する。浮かれたマオは、そんなこと聞いちゃいなかったが。
「えー、わー、嬉しい! 猫、可愛い! 緑お揃い!」
 えへへ、っとだらしなく頬を緩ませる。
 思っていた以上に喜んでくれたので、こちらも小さく唇を緩ませた。
「ね、つけて! つけて!」
 はいっと渡される。自分でつけろよ、とは思ったが、ここまで喜ぶのならば、多少サービスしてもいいかもしれない。
「後ろ向いて、髪じゃま」
 後ろ向いたマオが、髪の毛をひとまとめにする。ペンダントをそっととめた。
「はい」
「ありがとー! 大事にするね!」
 こちらを向いて、マオがまた、さらに笑う。首元の猫を指で弾く。
 かわいいねーなんてペンダントに向かって話かけていたが、
「そうだ!」
 ソファーに置いてあった自分のケータイをとってくる。
「写真撮って!」
 そしてそれを隆二に渡した。
 途端に、渋い顔になったのが自分でわかった。撮ってって、お前。
「もー、待って」
 それを見て、マオが呆れたような顔をしながら、ケータイを操作する。
「はい、これで大丈夫。あたしに向けて、そのカメラのマークそっと触ればいいから」
 ご丁寧にカメラを起動させてくれた。
 しぶしぶ、それを持ってマオに向ける。
 浮かれた顔をしたマオとペンダントが画面にはいるようにして、言われたとおりカメラのマークに触れた。
 かしゃっと音がする。
「撮れた?」
 横からひょいっとケータイを奪いとられた。
「あ、うん、撮れてる撮れてる。ほら」
 見せられた画面には、確かに浮かれたマオの写真があった。
 よかった、取り直しを要求されなくて。
「そうだ」
 隆二のズボンのポケットからひょいっと、隆二のケータイを抜き取った。
 今度は何を企んでいる。
「マオ」
 呆れて名前を呼ぶと、マオは手慣れた様子で隆二のと自分のケータイを操作しながら、
「これ、隆二のケータイの待ち受けにしてあげる!」
 とんでもない発言をした。
「ちょっ」
 慌てて取り返そうとすると、それよりもはやく、マオはひょいっとソファーに飛び乗った。
「跳ねない!」
「もー、あとちょっとなのー!」
 ソファーのうえに立ち上がり、隆二からケータイを庇うように背中を向ける。
「ちょっとじゃなくて、返せ」
 近づいて手を伸ばすと、マオはそれを避けるように身をよじった。ソファーの端っこでそんなことをするから、バランスを崩して倒れそうになる。片足がソファーから落ちる。
「ひゃっ」
「マオっ!」
 それほど高くないとはいえ、足を捻るぐらいはしかねない。慌てて手を伸ばし、その体を支えた。
「わ、びっくりしたー」
 無事着地したマオが、驚いたような顔をする。
 びっくりしたのはこちらの方だ。頼むから、むやみやたらに怪我するようなことをしないで欲しい。なんで家の中でまで、こんなに肝を冷やさなきゃいけないんだ。
「マオ! お前な」
「助けてくれて、ありがとー」
 小言の一つ二つ言ってやろうと口を開いたが、笑顔でそうお礼を言われて言葉につまる。わかっているのか、わかってないのか。
 マオはそんな隆二のことは気にせず、ケータイを操作し、
「あ、はい、できたよ」
 隆二にケータイを返した。
 受け取ってみると、確かに待ち受け画面がさっきの浮かれたマオの写真になっていた。
「勝手になにすんだよ!」
 直せないだろうがっ!
「それが嫌なら隆二が、自分でがんばって直せばいいんだよー」
 どうせ無理でしょう? と言いたげに勝ち誇って笑われる。実際無理なのだが。
 しばらくケータイを睨みつけていたが、
「……まあ、いいか」
 誰に見せるものでもないし。
 そう自分を納得させると、諦めてケータイをテーブルの上に置いた。
「……怒った?」
 ここにきて、急にマオがそう尋ねてくる。恐る恐る、隆二の顔色を伺うようにして。不安になるぐらいなら、最初からこういうことするなよ。
「呆れてるだけ」
 溜息まじりにそう言うと、片手でその頭をぞんざいに撫でた。それにマオが、安心したようにちょっとだけ笑う。
「あと、あんまり飛び跳ねたりしないように。危ないし、下の人に迷惑になるから」
「……危ないし、心配?」
 なんでそこでちょっと嬉しそうな顔をするんだ。
「下の人の迷惑になるから」
 後半の理由を強く推すと、
「……はぁーい」
 ちょっと頬をふくらませる。
「ほら、夕飯作るから」
 ちょっとどいてて、と言おうとすると、
「手伝う!」
 元気よく言われた。
 手伝う、ね。台所って刃物も火もあって危ないんだがなー、とは思いつつ、
「じゃあ、とりあえず買って来たものしまっといて」
 無難なところを頼む。
「はーい」
 マオは持っていたケータイをテーブルの上に置くと、代わりにスーパーの袋を手にとった。
 マオのケータイには、猫のぬいぐるみがついている。ストラップにしてはでかすぎだろ、とは思うが本人は気にしていないらしい。裏返しておかれたケータイ。そこには、この前とったプリクラが貼られていた。最初の、一番うまくとれたやつ。
 それを見て少しだけ微笑む。
 まあ、マオが楽しそうだし、いいか。
「りゅーじー!」
「はいはい」
 台所で手招きしているマオの方へと向かった。

 

 

 胸元で揺れる猫を、ぴんっと軽く弾く。
 ふふふっと、笑みがこぼれた。
 ソファーに横になりながら、マオは存分にペンダントを楽しんでいた。
 もうすぐ日付が変わるころ。お風呂に入るからと外していたそれを、つけ直したところだった。
 やっぱり、これ、可愛いなー。
「……お前、寝るならベッドいけよ」
 マオの足元の方、床に座った隆二がつまらなさそうに声をかけてくる。
「わかってるよー」
「あとちゃんと、髪の毛乾かせよ」
「わかってるってばぁー」
 今、ネックレスを愛でるので忙しいんだから、放っておいて欲しい。
 隆二は、マオを一瞥すると、どうだか、とでも言いたげに肩を竦めた。
 まったく、隆二は本当、ちっともマオの気持ちをわかってくれない。すっごく嬉しいからこうしているのに。嬉しいっていう気持ち、ちゃんと伝わっているんだろうか。
 飄々と本を読んでいる隆二を見ていると不安になる。
 傍においていてくれることも、面倒をみてくれていることも、本当に嬉しいと思っているし、感謝しているし、こんなに大好きなのに隆二にはいまひとつ、伝わっていないんじゃないかなーと思うときがある。
 だってほら、ひとでなしだし。
 それに、マオも言葉で全部を伝えられるほど、賢くない。
 溜息まじりに起き上がると、タオルで濡れた髪を拭く。
「……ドライヤー使えよ。せっかく買ったんだから」
 やっぱり呆れたように言われる。
 本当、隆二は注文が多い。
「めんどうなんだもん」
 なんだか素直になれなくてそう言って唇を尖らせると、
「……やってやるから、もってこい」
 心底面倒くさそうだったが、思ってもないことを言われた。
「え、本当!?」
「嫌なら自分でやれ」
 言って隆二の視線がまた本に戻る。
「やじゃない!」
 慌ててそう言うと、立ち上がって洗面所にドライヤーをとりにいく。
 戻ってくると、隆二は読みかけの本を適当に床において、ソファーに腰掛けた。
「そこ」
「はーい」
 指差された隆二の足元、床に座る。
「……あ、これかスイッチ」
 背後からちょっぴり不安な声が聞こえるけれども、気にしない。もしかしたら、隆二がやると酷いことになるかもしれないけれども、気にしない。
 大事なのは結果じゃないのだ。隆二が髪を乾かしてくれる、と言い出したことなのだ。
 ぶぉぉぉっと、ドライヤーから出た温風が髪を揺らす。
 思っていたよりも手慣れた手つきだった。そっと触れる手と風が嬉しくて心地よくて、目を細める。
 機械の類いにはめっぽう弱いが、決して隆二は不器用じゃないのだ。機械さえなければ、なんでもそつなくこなしてしまう。
 料理だって、すっかり上手になったし。
「隆二はー」
 ドライヤーの音に負けないように声をはりあげる。
「なんでもできてすごいねー!」
 素直な感嘆の言葉に、
「お前がなんにもできなさすぎなんだよ」
 ちょっと笑いながら言われた。
 それはまあ、そうかもしれない。字も、練習しているけれども難しいし。なんにもできない。
 ちょっと落ち込んでしまうと、
「ばーか」
 くしゃくしゃっと髪の毛をかきまわされた。
「ちょっとぉー」
 振り返ると、隆二が笑っていた。楽しそうに。
 それになんだか嬉しくなる。最近の隆二は優しいし、前よりもいっぱい笑ってくれる。多分、本人は無自覚だから言わないけど。言ったら恥ずかしがって、もう笑ってくれないかもしれないし、また意地悪されるかもしれないから。
 ドライヤーを止めて、
「いいんだよ、ゆっくりで」
 隆二が優しく言った。
「零歳児なんだから」
 からかうような言い方だったけど、やっぱりいつもよりちょっと声が優しい。
「……もう、一年経つよ」
 発生してから。
 小声でそう訂正すると、
「あれ、そうだっけ」
 時間の感覚に乏しい隆二は軽く首を傾げた。
 隆二のところにきてからだって、一年経った。
「まあ、対して変わらないよな」
「隆二から見たらそうだろうね」
「だからまあ、ゆっくりでいいんだよ」
 ぽんぽんっと頭を軽く叩かれた。
「ん」
 それに素直に頷く。
 それを見て隆二は満足したのか、またドライヤーのスイッチをいれた。
「それに、ほら、あれだろ」
「んー?」
「ケータイは、お前の方が使いこなしてるだろ」
「それは、ねー?」
 だって、機械は隆二が不得意過ぎるから。
「それに」
 そこで隆二は、躊躇うようにちょっと間をおいてから、
「一緒に学んでいこうって言っただろ」
 なんだか早口で言った。
 それに思わず振り返りそうになるのを、
「前向いてろ」
 ぐっと頭を押さえつけられて、妨害される。
 多分、今、隆二はちょっと照れている。
 それに思い至ると、ふふっと笑みがこぼれた。
 隆二が約束をちゃんと覚えていてくれたことが嬉しい。すぐに色々忘れちゃう人だから。
「はい、終わり」
「ありがとー」
 振り返ると、
「どういたしまして」
 いつもどおりの、ちょっとつまらなさそうな顔で隆二が答えた。
「ほら、そろそろ寝ろ」
「はーい」
 実体化している時に嫌だな、と思うのは、ちゃんと夜寝るように言われることだ。幽霊のときだったら、夜中どんなに起きていても何も言われないのに。
 でもやっぱり、幽霊のときよりも眠くなる。実体化していると動き回るからしかたない。
「寝る時それ、外して寝ろよ」
 首元を指差される。
「これ?」
 ペンダントをつまむと、頷かれた。
「お前、寝相悪いから寝ている間に首しまるかも」
 そっけなく言われる。
 バカにされて一瞬むっとしたけれども、よくよく考えてみれば心配されている気がしてきた。だから怒るのを一度ぐっと堪えて、
「わかったー」
 小さく頷くにとどめた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 立ち上がる。
「うん、おやすみ」
 軽く片手を振った隆二は、また本の世界に戻っていた。
 隣の部屋のベッドに潜り込む。すっかりマオ専用となったスペースだ。
 ペンダントを外すと、ちょっと迷ってからタンスの上に置いた。
 何かお洒落な箱かなにかにいれておきたいな。幽霊に戻っている時に、万が一どっかにいってしまったら困るし。とりあえず、明日何か箱がないか隆二に訊いてみよう。
 思いながら目を閉じる。
 うつらうつらしながら、思う。
 何かお返しがしたいな、と。
 実体化したなら、なにかお礼の品を買いに行くこともできるじゃないか。言葉や態度だけじゃなくて、物をプレゼントできる。そうしたら、マオの気持ち、ちょっとはわかってくれるかもしれない。あの駄目駄目隆二でも。
 今月はもう、明後日には元に戻ってしまうから難しいけど、来月になったら隆二がいない隙をついて、買い物に行こう。一人ででかけるなとか言われているけど……。まあ、いいや。怒っている隆二も笑顔になるぐらいの、なにか素敵なものを探そう。
 自分の想像にふふっと笑みが溢れる。
 喜んでくれるもの、あるといいな。
 そんなことを思いながら、意識は落ちていった。


第四幕 少女の心は、今も猫の眼

「失礼します」
 出来るだけいつもと同じ、平坦な口調に聞こえるように気をつけてそう言うと、ドアを閉めた。
 進藤エミリは現在、端的に言うと干されていた。
 まわってくるのは、しょうもない事後処理ばかり。今提出してきた書類だって、逃げ出した人面犬を捕獲するというしょうもないもので、人面犬が逃げ出すのはエミリが知っているだけで二十六回目だ。もうわざと逃がしているんじゃないかと思うレベルだ。
 何故こんなに地味な仕事しかまわってこないのか。その理由はよくわかっていた。
 先日のGナンバーの一件で、隆二達の側に立ち、あまつさえ研究班に銃を向けたからだ。ただでさえ、自分は周りによく思われていない。仕事ができることだけが取り柄だったのに、京介の一件で自分の評判は地に落ちて、先日の件でマイナスだ。人が足りないから、首にならないだけマシなのだろう。
 周りのひそひそ話は不愉快だし、仕事がないのはつまらない。
 それでもエミリは後悔などしていなかった。自分は間違ったことはしていない。胸を張ってそう言える。
 確かにマオの永遠に手を加える結果になってしまったが、それでもやはり、あの時あのままマオが消えるに任せているよりもよっぽどいい結果だっただろう。もっと上手く動けたかもしれないが、それでもあの時銃をつきつけたことは、動いたことは、間違いだなんて思っていなかった。
 結果的に、マオをまた実験体に戻してしまったことは心苦しけれども。毎月毎月研究所に呼びつけて、申し訳ない。二人は気にしていないみたいだけれども、エミリは気にしているのだ。
 なんとか働きかけて、実験に協力してもらう報酬として金銭を支払うようにしたが、その解決方法も、あまり愉快なものではないな、とも思っている。
 小さく溜息。
 思ったようには動けない。エミリ個人で動ける範囲には限度がある。そしてエミリは、組織の枠から抜け出せない。
 自分にうんざりしながら、自宅に向かう。
 途中、鞄にいれていたケータイが震えた。
 見てみると、マオからのメールだった。実体化している時のマオは、やたらとたくさんメールを送ってくれる。他に送る相手がいないからかもしれないが、実のところ、エミリはそれが最近楽しみだった。
 今回霊体に戻るのは、明日だったっけな。
 カレンダーを思い描きながら、メールを確認する。
 その内容に小さく微笑むと、自宅へ向かう足を速めた。
「ただいまー」
「おかえり、エミリ」
 自宅には既に父がいた。
「ただいま、ダディ」
 いつものように軽く笑いかけてから、
「ね、わたしの子どものころのおもちゃって、どこにしまってあるっけ?」
 早口で尋ねた。
「おもちゃ?」
 和広は怪訝な顔をしてから、
「エミリの部屋の、クローゼットのうえ、かな」
「ありがとう」
 頷くと、足早に部屋に戻る。クローゼットのうえの方は、あまり気にしていなかった。椅子を持ってくると、クローゼットの上の棚を覗き込む。確かにダンボールがいくつかあった。
 おもちゃ、と書かれた箱を見つけると、ひっぱりだしてくる。
 色々と物をとっておいてくれる家でよかった。
 少し埃っぽいそれに軽く咳き込みながら、ダンボールを開ける。昔親しんでいたおもちゃがたくさんつまっていた。
 多分、あると思うのだが。
 人形やおままごとのセットをかきわけて、お目当てのものを探す。
「あ、あった」
 ピンク色の箱を取り出す。これならきっとぴったりだろう。
「ダディ」
 それを持ってリビングに戻る。
 和広は一度エミリを見てから、
「これはまた、懐かしいものを」
 目を細めた。
「これ、マオさんにあげてもいい?」
「それはエミリのものだから、好きにすればいいが」
「ありがとう」
 明日持って行こう。心に決める。
「しかし、なんでまた」
「お洒落な箱が欲しいっていうから」
「……最近は、すっかり仲がいいね」
 ほんの少し、和広が笑った。
 改めて言われると、なんだか照れくさい。
「おまえは、ずっと実験体と距離を置いて生きていくのかと思っていたよ」
「……わたしだって、色々考えて、変わるんだよ」
 いつだかも言ったようなことを言うと、
「そうか」
 微笑んだまま頷かれた。
 父はずっと、Uナンバーである隆二達を担当していた。彼らと普通の人間のように接する父のことを、変わっていると思ったこともあった。
 でも、今ならわかる。彼らはなにも変わらない。自分達と。
 父のことはずっと大好きだけれども、最近は特に誇りに思う。組織に流されず、自分の価値観を築いている父を。
「恵美理は今後、神山さんたちと敵対する命令がでたら、できなさそうだねぇ」
 巫山戯た調子で言われた。
 そんなこと、考えてみたこともなかった。彼らともう敵対するつもりなんて、エミリにはなかった。
 そんなことになったら自分はどうするのだろう?
 一瞬悩んだものの、
「そんなのダディ、決まってるよ」
 軽く肩を竦めて答えた。
「もうそういう命令はわたしのところに来ないよ」
 干されているんだから。
 言外に込めた意味に、和広も少し苦笑いをした。
「恵美理」
「なに?」
「やめるのならば、遠慮せずにやめなさい」
 真面目な顔で言われた言葉になんて返事をするべきか悩む。
 色々考えていることはあるけれども、干されている現状があるけれども、研究所をやめることはそんなにすぐには考えられなかった。だって、エミリから研究所をとったら何も残らない。そのことが自分でわかっているから。ここまでの人生、研究所を中心に生きてきた。今更、それなしでの生き方を考えられない。
「うん、考えとく」
 それだけいうと、真面目な父の視線から逃げるように、きびすを返し、
「あ、そうだ恵美理」
 引き止められた。
 振り返ると、父はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。安心して、そっと肩から力を抜いた。
「なんだったか、深夜にやっていたテレビ番組。心霊写真がどうたらとかいう」
「ああ、オカルトクエスト?」
 おおよそ父が言うとは思えないテレビ番組に、語尾が奇妙に跳ね上がった。
「ああそうそう。それ、ビデオとっていたよな?」
「うん、録画しているけど」
 マオに頼まれて写真を番組に送って以来、いつ採用されるか楽しみにして、こっそり録画していたのだ。なんだか恥ずかしいからこれは内緒だけれども。
「なんだか知り合いが見たいと言っていてな」
「そうなの? いつの? あんまり古いのだともう消しちゃったけど」
「今月のだとは思うんだが。もう一回確認しとく」
「うん。わかったらDVDに焼いておく」
 頼むよ、という父の言葉に頷きかけて、今度こそ自室に戻った。マオにメールの返事を打たなければ。

 

 

 その日は、朝からマオが目に見えてそわそわしていた。
 目の前をうろうろうろうろ行ったり来たりする居候猫を見ながら、隆二は一言。
「おすわり」
「犬じゃないよ!」
 すぐに怒ったような言葉が返って来た。
「とりあえず、座れ」
 ソファーの隣を軽く叩くと、大人しくマオは隣に座った。
「どうした」
 尋ねる。今日は、実体化がとける日だ。なにかやり残したことでもあるのだろうか。
 実体化は、食事をとった日の翌日から、十四日後の午前九時にとける。食事が何時であっても午前九時に。あと三十分ほどで、霊体に戻ることになる。
「んー」
 マオは片手にもったケータイと玄関のドアを何度か見比べながら、
「あのね、エミリさんがぁ」
「嬢ちゃん?」
 問い返したところで、ぴんぽーんっと玄関のチャイムがなった。
「きた!」
 ぴょんっと立ち上がると、マオが小走りで玄関に向かう。
「走らない! あと確認してからあける」
 注意を促すと、一応覗き穴から外を確認してから、ドアをあけていた。
「こんにちは。すみません、ぎりぎりでしたね」
「こんにちは! いらっしゃい」
 確かに入って来たのはエミリだった。
「どうした、嬢ちゃん」
 ソファーに座ったまま声をかける。
「エミリです。マオさんに用がありまして」
 そうしてエミリは、どうぞ、と片手に持っていた紙袋をマオに渡した。
「いい?」
「はい」
 マオがそれをあけて、中身を取り出す。
「わぁぁ」
 そうして嬉しそうに声をあげた。
 マオが取り出したのは、薄いピンクの箱だった。
「かわいい! 魔法っぽい!」
 プラスチック製のチープなつくり。蓋の部分には、金色で何か模様がついていた。よくみたら何かの花の形になっているようだ。ひまわり……?
 マオがそれを開ける。中はオルゴールになっていたようで、開けるとチープな音楽が途切れ切れ聞こえた。真ん中の部分は、蓋と同じような金色の模様に囲われ、ついでになんだか光っている。
「なにぶん、古いものなので、音質はあんまりよくないのですが」
 エミリが申し訳なさそうな顔をするが、箱に夢中なマオは聞いちゃいなかった。
「ここが、小物入れ?」
「はい」
 マオが指差したのは、赤いフェルトが敷いてあり、他の部分とは区切られた場所だった。
 マオは軽く頷き、つけていたペンダントを外すと、その部分にそっと置いた。
 ぱたん、と蓋を閉めると、
「うん」
 なんだか満足そうに大きく頷いた。
「お気に召しましたか?」
「とっても! ありがとう」
 満面の笑顔で嬉しそうに言うと、エミリも小さく微笑んだ。
「あー、悪い、説明してもらってもいいか」
 置いてきぼりになった隆二が声をかけると、
「もらったの!」
 嬉しそうにそのピンクの箱を胸に抱きながら、マオが言った。それは大体わかったんだが。
「わたしが説明しますから、マオさんはそろそろ準備なさった方がいいのでは」
 時計をちらりと見てエミリが言う
「あ、本当だ」
 あと九時まで、十分ほどしかない。
「それじゃあ、エミリさん」
「ええ」
 マオはぺこっと軽くエミリに頭をさげてから、大切そうに箱を抱いて、ベッドのある部屋に消えて行った。襖が閉まる。
 何度か実体化を経験して、元に戻るときのルールもできていた。
 霊体に戻る時には、いつものワンピースに着替えること。何を着ていても、霊体に戻ったときは、あのワンピース姿になる。ただ、その場合、元々着ていた洋服は、中身を失い床に落ちることになる。そうすると、隆二が片付けることになる。それが面倒なので、予め洋服を着替えておくことになった。
 それから、他の洋服や散らかしていた小物達もきちんと片付けておくこと。無くしたら困るものは、自分できちんとしまっておくこと。触れなくなってから隆二に片付けを頼んで、それで壊しただのなんだの言われては、隆二もたまったものじゃないからだ。
 今頃、部屋を片付けて、着替えているころだろう。
「えっと、それで?」
 とりあえず座れば? と片手でダイニングの椅子を勧めながら、エミリに尋ねる。
「昨日、マオさんからメールがありまして。神山さんにとっても素敵なペンダントをプレゼントされたのに」
 とっても素敵なペンダントを嫌に強調して言われて、むず痒くなる。わざわざそんなことメールしたのか。
「しまう場所がない。箱かなにかにいれておこうにも、いいものが家になかった。なにかないか、というものでした」
「それで、あれ?」
「はい」
 ピンクなプラスチック製の少しチープなオルゴール。
「おもちゃっぽかったけど」
「おもちゃなんですよ」
 そこでエミリが小さく微笑んだ。
「わたしが子どものころにやっていたアニメのおもちゃです。魔法のひまわりリーガルユカナっていうんですけれども。魔法の力で女の子が弁護士になる魔女っ子もので、大好きだったんです」
 途中ででてくるパワーアップアイテムで、なんて続ける。
「……嬢ちゃんも、そういうアニメ見たりしてたんだな」
 あとなんだ、その魔法の力で弁護士になるっていう微妙な設定は。
「エミリです。わたしも、普通の女の子ですから」
 普通の概念を一度問いただしたかったが、怒られるに決まっているのでやめておいた。
「それにでてくる魔法のオルゴールなんです。しまい込んであったんですけれども、マオさん、こういうのお好きだろうな、と思って」
「そりゃあ、大好きだろうな、ああいうの」
 疑心暗鬼ミチコと通じるなにかがある。
「でもいいのか、そんなものもらって。思い入れとかあるんだろう?」
「思い入れはありますが、今のわたしがおおっぴらに使うわけにもいきませんし。使っていただけるのならば、そちらのほうがいいです。それに、わたし、ああいうおもちゃは、まだまだたくさん持っているんですよ」
 一人娘で甘やかされていましたから、と続けた。
「ああ」
 苦笑する。
 彼女が小さい頃にも何度か会ったことがあるが、確かに見るたびに色々なものを買い与えられていた気がする。
「おっちゃん、元気?」
 なかなかに子煩悩な彼女の父親を思い出しながら問うと、
「ええ。おかげさまで。まったく何の問題もありません」
 しっかりと頷かれた。
「それはよかった」
 少し安心する。彼はまだ、いなくならない。
「しかし、物持ちいいねー」
「父が色々とっておいてくれたので」
 そんな会話をしていると、
『りゅーじ』
 ひょこんっと壁から顔が生えた。
「おかえり」
 片手をあげる。
『ただいま』
 霊体に戻ったマオが、するりと壁抜けをして、隆二の隣、ソファーに座った。
『エミリさん、オルゴール、ありがとう!』
「いいえ。気に入っていただけてよかったです」
『うん、大事にするね! 今度、エミリさんにもなにかお礼用意するね!』
「お気遣いなく」
 エミリは小さく微笑むと、
「それじゃあ、今日は失礼します」
 立ち上がった。
「ああ、悪い。忙しいのに」
 研究所からここまで距離がある。マオが霊体に戻る前に来ようと思ったら、結構早くから出て来たんじゃないだろうか。
「いえ」
 エミリは軽く首を横にふった。
『エミリさん、ありがとう』
「いいえ。それじゃあ、また」
「ああ、また」
『ばいばーい』
 エミリが軽く頭をさげて立ち去るのを、それをマオが大きく手を振って見送った。
 エミリを見送り、部屋のドアをしめる。
「よかったな、マオ」
『うん!』
 マオが大きく頷いた。
『隆二がくれたペンダントね、本当に気に入ったから、大事にしまっとくものが欲しかったの! エミリさんに相談してよかった! あのオルゴールもすっごく可愛いし、ぴったりだし、本当嬉しい!』
 見ているこっちまで思わず微笑んでしまいそうな笑顔でそう言う。
 そこまで気に入ってくれるならば、流れとはいえ買って良かったな。そう思った。
『隆二も、本当にありがとね!』
 それから、
『ところで、隆二! テレビつけて!』
 そのままのテンションで、なんの躊躇いもなく隆二をリモコン代わりに扱った。
「……はいはい」
 ほんの少し面倒だが、これから半月はマオの挙動にはらはらすることはない。そう思うと、リモコン代わりになることぐらいなんでもない。
 テレビをつけながら、安定の半月を思ってそっと息を吐いた。


第五幕 居候猫の恩返し

「ごちそうさまでした」
 唇を離したマオが、小さく呟いた。
「おそまつさまで」
 いつものようにだらけたように、隆二は言葉を返した。
 一カ月、はやいなぁ。
「着替えてくるー」
 隣の部屋に消えるマオを見送りながら、ぼんやりそんなことを思う。
 今日から半月、またマオは実体化していることになる。
 マオが消えてすぐに、隣の部屋から、途切れ途切れの音楽が聞こえて来た。これ、なんだっけな。
 見えるわけでもないのに、ソファーに座ったまま隣の部屋への壁を見る。しばらく考えて、エミリが持って来たオルゴールの音楽だと気づいた。
 実体化してすぐに、あのペンダントが入っているオルゴールを開けたのか。そのことに思い至ると、なんだかくすぐったい気分になる。
 ふっと唇が緩んで、慌てて片手で口元を押さえた。
「着替えたー」
 戻って来たマオは、ラフな部屋着姿だったが、首元にちゃんとあのペンダントをつけていた。そして、すとんっと隆二の隣に腰掛けた。
「コーヒー、飲むか?」
 なんとなく照れくさくて、マオと入れ替わるようにソファーから立ち上がる。
「牛乳ある?」
「買っといたよ、昨日」
「じゃあ、飲むー!」
 マオがはしゃいだ声をあげる。
 実体化してすぐに、コーヒーが飲みたいなどと言っていたマオだったが、中身と同じおこちゃま舌の彼女には、ブラックでコーヒーを飲むことなんてできなかった。それでも隆二とお茶がしたい、と主張する彼女のため、色々と調整した結果が、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーだ。
 それ、もうコーヒーじゃないだろ。とは思うが。
 二人分のコーヒーを作って、ソファーまで戻る。マオは早速テレビをつけたところだった。
「はい」
「ありがとー!」
 マオ用に購入した猫の柄のコーヒーカップを手渡すと、嬉しそうに受け取った。
 ソファーの足によりかかるようにして、床に腰を下ろした。
「そうだ、検査、明後日な」
 さっきエミリからきたメールを思い出して言う。
「……はーい」
 露骨に下がったテンションでマオが返事をした。まあ、そうなるよな。
「帰り、買い物でもなんでも付き合うから」
 なだめるようにそう言うと、
「じゃあ、行く前に、なんかお菓子とか買いたいの」
「前に?」
「うん、エミリさんにこの前のお礼。オルゴールの」
「……ああ」
 小さく頷く。
「そうだな、色々世話になってるし」
 エミリが研究所内で隆二達の担当であるにしても、橋渡し役になってくれていることには感謝している。きっと、研究班と隆二達との間に挟まれて色々面倒な思いもしていることだろう。仕事としての領域を越えて、面倒を見てもらっている、という自覚はある。
「じゃあ、それ買ってからだな」
「うん!」
 嬉しそうにマオが大きく頷いた。

 検査の日、マオがテレビで見たというバームクーヘンを買ってから、研究所に赴いた。
「わざわざすみません、ありがとうございます」
「いや、いつもありがとう」
 隆二が素直に礼を言うと、エミリがなんだかまた微妙な顔をした。礼を言うたびにそういう顔をされるんじゃ、本当、割にあわない。
 硝子の向こうでは、今日もマオが白衣と何か話している。右手が胸元のペンダントを掴んでいるのを見て、小さく目を細めた。
「あ、そうだ」
 エミリもエミリで何かを思い出したのか、置いてあった鞄から小さな袋を差し出す。
「これ、一応渡しておきます」
「何これ」
 開けてみると、円盤状の何かが入っていた。
「先日の、マオさんの写真が採用されたテレビ番組の録画です。丁度同じ回を、父の知り合いが、知人のが採用されただったか、映っているだったかで見たがっていたので、一緒に焼いておきました」
「……なに、これ、どうすればいいの」
 中身とかよりもそこを説明して欲しい。
 エミリは一瞬軽く眉をひそめてから、
「DVDです。プレイヤーで再生して見て頂きたいのですが、そういえば神山さんの家にはありませんよね。マオさん、レコーダー欲しがっていましたし、今度購入されてはいかがですか?」
 言っていることの内容があまり理解できなかったが、ひとつだけよくわかったことがある。
「これ以上、うちに変な機械を増やせと」
「真っ当な機械です」
 思わず渋い顔になってそう言うと、真顔で訂正された。使い方がわからないものは、全部変な機械、だ。
「神山さんが使えなくても、マオさんが使えるでしょうから大丈夫ですよ。休みの日でしたら、買いに行くのも付き合いますよ」
「それは大変ありがたい申し出だがな」
「なにがご不満ですか?」
「すべてだよ」
 などと不毛なやりとりを繰り広げている間にも、無事検査は終わったらしい。マオが安心した顔でやってきた。
「おつかれ」
 片手をあげる。
「おつかれさまです。この前の、オカルトクエストの録画、DVDに焼いて神山さんに渡しておきましたので」
「え、本当!?」
 ぱぁぁっとマオの顔が明るくなった。
「あー、でもうちじゃ見られないのかー。隆二ー、プレイヤー買って帰ろう?」
「お前は……。さらっと変な機械を俺の家に増やそうとするんじゃない」
「変じゃないよー、普通の機械だよー」
 軽く唇を尖らせたマオが、エミリと同じようなことを言う。
「買い方わかんないし。知らないけど、色々あるんだろ、そういうの」
「うーん。さすがにあたしも、家電については調べてないんだよなぁ。……あ、エミリさんは?」
「わたしは、このあとちょっと用事がありますので」
「……そっか」
「今度、一緒に買いに行きましょう」
「うん、それじゃあ、約束!」
 はしゃいだ声で勝手に約束をする二人に、呆れてしまう。だから、誰の家に置くと思っているんだよ、それ。
 二人の間で勝手に話はまとまったらしく、メールしますね、なんて言っている。まあ、この二人が仲良くしているのを見るのは、割と楽しいからいいのだが。
「帰るぞー」
 呆れ半分で声をかけると、
「え、まって」
 慌ててマオがこっちにきた。
「じゃあね、エミリさん」
「はい、また」
「どーも」
 挨拶を交わして、研究所を後にする。
「ねー、りゅーじ! 電気屋さん行こう!」
「はぁ?」
「下見、下見!」
「やだよ」
 なんでそんな変な機械ばっかり売っているところに行かなきゃなんないんだ。
「普通の機械だからね!」
 心を読んだかのようにマオが言った。
「はいはい」
「もー」
 あっきれたーとマオが呟いた。誰にでも、向き不向きがあるのだ、仕方あるまい。
「……ねー」
 呆れたような顔をしていたマオだが、急に何かに気づいたかのように、隆二の顔を見た。伺うように。恐る恐る。
「何を企んでる?」
 そういう顔は、過去何度も見てきた。
「た、企んでなんかないよ!」
 どうだか。どうせまた、意味のわからないおねだりでもするつもりなんだろう。
「ちがくて! あたしばっかり欲しいもの言ってるけど、隆二は欲しいものとかないのかなーって思ったの!」
 なんだか怒った調子で言われる。
「欲しいもの?」
 考えたこともなかった。
 元々性根が怠惰なのだ。物欲だって錆び付いている。何かを欲するということが、あまりない。
「……ないなあ」
 コーヒーが飲めて、のんびり本が読めれば、それで満足だった。
「なんかないの!?」
 強い口調で言われる。何を怒っているんだか。
「ないよ」
「……ああ、そうっ!」
 ふぃっとマオがそっぽを向いた。おおかた、こちらが欲しいものを聞き出して、それにあわせて強引に自分の欲しいものでもねじ込んでくるつもりだったのだろう。
 苦笑する。
「別に俺欲しいものないし、マオが欲しいものがあるんだったら、まあ、相談ぐらいにはのるよ」
 変な機械が家にくることはいやだが、だからといって過度にマオに我慢を強いるつもりもない。マオに渡している金額分で足りなければ、ちっともない貯金を多少渡してもいいし。多少なら。
 そうやって譲歩したにもかかわらず、
「別にっ」
 マオの機嫌はなおらなかった。変なやつ。いつものことだけど。
 片手をあげて軽くマオの頭を叩く。ぽんぽんっと。既に一種の流れのようになっている。臍を曲げたマオの頭を撫でること。
 マオのへの字に曲げられた口元が、ほんの少しだけ緩んだのを視界の端で確認すると、
「電気屋、ちょっとだけだぞ」
 言って、彼女の片手を掴んだ。
「……はーい」
 不機嫌を装った返事は明るい。現金なやつ。小さく笑った。

 

 

「俺、買い物行くけどどうするー?」
 隆二が声をかけてくる。それに、きた! と思った。のは、なるべく見せないように頑張って、
「待ってるー!」
 テレビ画面を睨んだまま答えた。
 隆二が呆れたように笑ったのがわかった。
「ちゃんと留守番してろよー」
「……はーい」
 ちょっと後ろめたくて、一瞬言葉が遅れた。ばれたかな、と思ったけれども、隆二は別段気に留めなかったらしい。
「じゃあ、いってくる」
 靴をはいて、ドアが開く音。
「いってらっしゃーい」
 テレビを見たまま、告げる。
 がちゃり、とドアがしまった。
 しばらくそのままテレビを睨み続けて、
「よしっ」
 もういいだろう、と思ったところで立ち上がる。
 テレビの中では、四苦八苦久美子が戦っている。正直、すっごくいい場面だけれども、今日ばかりはしかたない。
 未練を断ち切るように電源を切ると、ベッドの上に置きっぱなしにした鞄を手に取る。
 鞄の奥の方で、眠っていた鍵をひっぱりだす。念のため、と渡されていたが、これまで使う機会のなかった合鍵。目の前に掲げて、ふふっと笑う。
 今日という今日は、探し出すんだ。隆二へのプレゼント。
 浮かれて口元がにやけてしまう。
 メモ帳に隆二に対するメッセージを残す。
 勝手にでかけたらきっと怒られちゃうだろうなー。でも、これでも実体化してだいぶたったのだ。そろそろ一人ででかけたって平気だ。大丈夫。
「ごめんね、りゅーじ」
 テーブルに置いたメモに向かって両手をあわせて謝る。それから、やっぱり、にへらっと笑って家を出た。
 一人で町中を歩くのは初めてだ。だけど、幽霊のころからずっとうろうろしていた町だから、どこになにがあるのかは熟知している。多分、隆二以上に。
「なにがいいかなー」
 歌うように呟いて、辺りに視線をさまよわせる。
 さりげなく隆二に欲しいものがないか探りをいれたところ、あっさりとない、と言われてしまった。
 まったく、隆二は本当、ひとでなしなんだから。
 思い出したら、ちょっとむかむかしてきた。小さく唇を尖らせる。
 一緒にでかけるたびに、さりげなく様子をうかがったものの、やっぱり隆二が欲しいものはわからなかった。
 そうこうしているうちに、今月の実体化期間も明日までになってしまった。
 これじゃあいけない、と今日こそは何がなんでもでかけることに決めたのだ。昨日見ていたドラマで、「贈物は選んでくれたという事実が嬉しいものよ」とか言っていたし。ドラマの人と違って、そういう事実に喜んでくれるような素直さが隆二にあるとも思えないけど。
 駅前に向かう。あの辺りが一番、お店がある。
 さて何にしよう。洋服? いつも同じようなのを着ているから、ちょっと違うものをプレゼントとか? 靴もいいかもしれない。こっそりサイズをチェックしていたのだ。あとはなんだろう? 本? でもたくさん持ってるしなー。機械式のものは論外。うーん、何かぴぴっとくるものあるかなー。
 駅前まで来ると、辺りを見回す。
 さて、どこのお店から見ようか。あんまり遅くなると、すっごく怒られそうだからなー。そんなことを考えながら辺りを見ていると、
「おじょーさん」
 軽薄な声が横からかけられた。
 そちらを見ると、若い男が二人。
「一人? 今ひま?」
「すっごく忙しいの」
 そうだ、誰だか知らないけど、
「ねぇ、隆二に何あげたらいいと思う?」
 訊いてみよう。
「は?」
「プレゼント。もらうんだったら、なにがいい?」
 男の人が欲しいもの訊いたら、何かヒントになるかもしれない。
「カレシに?」
「ちがうよー」
「ああ、好きな人?」
「……まあ」
 好きな人では、あるよなぁ?
「私をプレゼント! とかやればいいじゃん」
「おまえ、やめろよー」
「なんだよ」
 二人でなんだか楽しそうに笑う。答えてくれる気がないなら、もういい。
「自分で探す」
 くるっと背を向けて歩き出そうとしたところを、
「まあまあ、待ちなよ」
 右手を掴んで引き止められた。
 ぞわっと一気に鳥肌がたった。
 右手に感じる熱が不愉快だ、とても。
「離してっ」
 咄嗟に振り払おうとするが、相手の力が強くて振りほどけない。
「プレゼント? 一緒に探してあげるって」
「とりあえずお茶でも行こうよ」
 腕をひっぱられる。
「痛いっ」
 引っ張られる方に、軽くよろめく。
 なんだか凄く不愉快で、ちょっと怖くて泣きそうになる。
 隆二もたまに強引に手をひっぱることがあるけれども、こんな風に痛いと思ったことはない。ああ、手加減してくれていたのか、と今更ながらに気づいた。あの唐変木なひとでなしの優しさに。だってそうだ、隆二はひとじゃないのに。それなのにマオが嫌がったら振りほどけるぐらいの力でしか、手を握って来なかった。彼が本気を出したら、マオの腕なんて簡単にへし折れる。それでも隆二に手を握られることを、怖いと思ったことなんて一度もなかった。嫌だったこともない。
 今、このなんでもない人間に手を握られることが、こんなに不愉快なのに。
「離してっ!」
 一度息を吸い込んでから大声をだす。
 やっぱり隆二じゃなくちゃだめなんだ。わかっていたことだけど。例え実体化して、他の人に見えるようになっても、隆二じゃなくちゃ駄目だ。
 マオの大声に、二人は少し驚いたような顔をした。
「あたし、行かなくっちゃ」
 はやくプレゼントを買って帰らなくっちゃいけない。邪魔しないで欲しい。
 きっと二人を睨みつけると、男達は一瞬たじろいだような顔をした。それでも手は離さない。お互い、どうにも引っ込みがつかなくなり、睨み合っているところを、
「ちょっと」
 やる気のない声が横からかかった。
「嫌がってんじゃん、離してあげなよ」
 声の方を見る。
 黒髪をなんとなく伸ばした、スレンダーな女性がそこにいた。
「……きょーすけさん?」
 あまりに似ている姿に一瞬呟く。明らかに性別からして違うのだけれども。
 マオの呟きに、女性が小さく目を見開いた。
 男達は女性とマオとを見比べてから、
「ちょっと声かけただけじゃん」
 ぶつぶつ言いながら、マオの手を離すと足早に去って行った。
 なんだったんだろう、あの人達。
 その後ろ姿を見送っていると、
「大丈夫?」
 女性が声をかけてきて、慌てて頷く。
「ナンパのかわし方、もうちょい覚えた方がいいよ」
 やる気なさそうな言葉に、
「え?」
 素っ頓狂な声をあげる。
「……あれがナンパなんだ?」
 ドラマではよく見るが、ああいうものなんだ?
 マオの返答に、
「気づいてなかったの?」
 女性は楽しそうに笑う。それから、
「ね、それ」
 マオの首元を指差す。
「そのペンダント」
「あ、これ? もらったの」
 かわいいでしょう? と笑ってみせる。
「なんかさ、やる気のなさそうな男の人にもらった?」
「うん」
「私、誰か知り合いに似てるんでしょう? それも男」
「うん」
 なんでこんなこと訊くんだろう?
「やっぱりね」
 何に納得したのか、女性は満足そうに頷くと、
「それ作ったの、私」
「え?」
 女性とペンダントを交互に見比べる。
「これ、おねーさんが作ったの?」
「そうそう」
「へー! かわいいからお気に入りなの! ありがとう」
「どういたしまして。そこまで喜んでもらえるなら嬉しい」
 それからちょっと悪戯っぽく、彼女は笑った。
「じゃあ、貴方があの人のカノジョなんだ?」
 その言葉に、慌てて首を横にふった。そんなこと隆二が聞いたら怒るに決まっている。隆二にとってカノジョは茜だけだ。
「そんなんじゃないよ。あたしはただの居候」
 隆二に訊いたって、そう答えるだろう。あれはうちの居候猫、って。
 もう一年以上も一緒にいるのに、居候でしかない。
「……あたしは、いつまで居候なのかな」
 小さく呟いた。

 

 

「ただいま」
 スーパーの袋を片手に帰って来た隆二は、言いながらドアをあけた。
「……マオ?」
 いつもならとんでくる居候猫の姿がない。部屋も暗い。テレビもついていない。
「マオっ」
 急に不安になって、靴を脱ぐのももどかしく、片足は脱がないまま部屋にあがった。
 いつものソファーに居候猫の姿はない。
「マオっ」
 もう一度名前を呼んだところで、テーブルの上のメモに気づいた。慌ててそれに目を通す。
 マオのあの、へたくそな字で、「おかいものいってきます。ごはんにはかえってきます。ごめんなさい」なんて書いてあった。
「出かけるなつっただろうが、あのバカっ」
 舌打ちすると、ポケットからケータイをとりだす。慣れない手つきでマオの番号を呼び出すと、電話をかけた。
 ぷるるると呼び出し音はするが、マオは出ない。いらいらと指でテーブルを何度も叩く。
 落ち着け。何かがあったから出ないとは限らない。マオのことだ、約束を破ったことはわかっていて、怒られるのが嫌で電話を無視しているだけかもしれない。
 留守番電話サービスに接続される。
「怒ってないからこれ聞いたらすぐに電話しろ」
 吐きすてるようにそう言ってから、どう考えてもこの言い方は怒っているな、と考えを改めた。
「かけ直さないともっと怒るぞ、このバカ」
 早口で続けた。
 そのまま電話を切る。
 まったく、あのバカは。
 舌打ちを一つすると、いつでも出られるようにケータイをまたポケットにしまう。
 探しに行って入れ違いになるのも嫌だし、ご飯までに帰ると言っているのならば、ぼちぼち戻ってくるころだろう。出かけたから即、何があるわけでもない。落ち着け。
 自分に言い聞かせると、一つ深呼吸。
 とりあえず、少しだけ待ってみよう。
 そう決めると、履いたままだった靴を脱ぎ、買ったものを冷蔵庫にしまいはじめた。


「うげっ」
 留守電に残された隆二のメッセージを聞いて、マオは小さく悲鳴のような声をあげた。
「ん?」
 向かいの女が首を傾げる。
「……なんでもなぁーい」
 聞かなかったことにしよう。そう決めると、ケータイをテーブルの上に置いた。
 あの後、ナンパから助けてくれた女と少し会話し、なんだか意気投合した。
 柚香と名乗ったその女性は、自分で作ったアクセサリーを売って生計をたてているらしい。マオが隆二へのプレゼントを探している話を聞くと、アクセサリーを見立ててくれると言い出した。
 アクセサリーなんて隆二絶対買わないし、いいかもしれない! この人、隆二に合ったことがあるらしいし、このペンダントを作った人のアクセサリーなら申し分ないし!
 渡りに舟な申し出にマオも乗っかり、柚香の作品を見るために近くのファーストフードに入ったところだ。
 あとちょっとで終わるのだ。途中で連れ戻されたり、隆二に来られたりしたら意味がない。これが終わるまでは、留守電を聞かなかったことにしておこう。用事が終わったら、ちゃんと電話するから。自分にそう言い訳する。
「ならいいけど?」
 言いながら柚香は、片手に持っていた大きめの紙袋から、いくつかのアクセサリーをテーブルに並べていく。
「まあ、あの人アクセサリーとか頓着なさそうだったけど」
「隆二が興味あるのは本とコーヒーだけだよ」
 小さく唇を尖らせながらマオが言うと、そんな感じっぽいね、と柚香も笑った。
「だから、シンプルな方がいいよね」
 メンズはこれぐらいかなー、と並べられたアクセサリーを見ていく。
 うーん、そもそも何かを身につけている隆二が思い浮かばない。
「ピアスは?」
「あいてないよ」
「じゃあ、この辺は論外」
 ピアスが幾つか袋に戻される。
「ペンダント系か、ブレスレット系か」
「んー」
 それらを眺めながら、まだちょっと痛い右手を擦る。そうしながら、隆二と言えば、手だな、と思った。
 最初にした約束も、そういえばそのうちに頭を撫でてくれる、というものだった。
 いつも頭を撫でてくれる手。最初の時、逃げようと繋いだ手。最近は、普通に繋いでくれる手。
「……ブレスレットだなぁ」
 小さく呟くと、
「そう?」
 とペンダント系統が袋にしまわれる。
 いくつか残ったブレスレットを眺めて、
「……これ、いいかなぁ」
 つかみあげたのは、シンプルな革のブレスレットだった。茶色い一枚の革が編み込まれている。
「ああ、いいんじゃない? シンプルだし」
「……うん、これにする。これください」
「はい、毎度」
 柚香が笑って受け取ると、袋にいれてくれる。値札に書かれた金額を手渡し、商品を受け取った。
「ありがとう」
「いいえ。喜んでくれるといいけど」
「んー、隆二が喜んだりするところ、想像できないけど」
 それよりも先に怒られそうだし。
「それでもきっと、嫌がらないでつけてくれると思うから」
「じゃあ、また、どこかで見かけるの楽しみにしてる」
「うん」
 大きく頷いた。


 遅い。
 時計を見て、隆二は一つ舌打ちをした。
 ご飯までに帰ってくるって言ったのに、帰ってくる気配がない。あれから三回追加で電話をかけたがちっともでないし。
 苛立ちは段々不安に変わっていく。もう一度電話をかけて出なかったら、探しに行こう。
 そう決めて、電話をかけると、意外にも今度はかけはじめて直ぐに電話に出る音がした。
「マオっ」
 怒鳴りつけるように名前を呼ぶと、
「あー、もしもし?」
 返ってきたのは、マオの声じゃなかった。
「……誰だ」
 低い声で誰何。
「あー、あのおにーさん? この前ペンダント買ってくれた。私私、アクセサリー売りの」
 言われてみれば、そのやる気のなさそうな声には聞き覚えがあった。京介似のアクセサリー売りの女。
 それがなんで、マオの電話に?
「ええっと、話せば長くなるんだけど、マオちゃん? とは道であって。私のペンダントつけてくれてるから話してて。ちょっと一緒にお茶してて」
「……ああ」
 その言葉に、ちょっとだけ安堵する。おしゃべりに夢中になって、電話に気がつかなかったのか。ありそうなことだ。
「……あの、マオは?」
「それなんだけど」
 女はなんだか言いにくそうにした。それに収まっていた不安がまた暴れ出す。
「追加の飲み物をね、買いに行ってくれたの。……それから三十分ぐらい経つんだけど戻って来なくって。レジ一階だから見に行ったんだけどいなくって。ケータイはテーブルにおきっぱなしだし。そしたら、おにーさんからの電話があったから」
 言われた言葉に、目眩がする。
 いなくなった?
「今、どこに?」
 あげられたのは駅前のファーストフードの名前だった。そこならマオと二人で行ったことがあるから知っている。
 一階にレジがあって、二階が客席になっていた。駅前だからかいつも混んでいるが、そんな三十分も戻って来られないような混雑ではないし、ましてや行方をくらますスペースがあるわけがない。
「あんのバカっ」
 舌打ち。
 何があったというのだ。どうしてこうなるんだ。
 もっと早く探しに行けばよかった。
「今から行くんで待っていてください」
 一方的にそう言い切ると、電話の向こうの女の返事も待たずに通話を終えた。
 ひっかけるように靴を履くと、駅前に向かって容赦ないスピードで走り出した。


第六幕 The cat is in the cream pot.

 件のファーストフード店につくと、京介似のあの女性が、困ったような顔をして座っていた。
「マオはっ?」
 挨拶や礼儀なんて抜きに、斬りつけるように尋ねると、軽く首を横に振られた。
「一階に飲み物を買いに?」
「そう。奢ってくれるっていうからお言葉に甘えちゃって。……なんかごめんなさい」
「いや」
 別にこの女性が悪いわけではない。
 というか、何があったのか今の段階ではわからない。ろくでもないことになっているのは、わかるけれども。
 飲み物を買いに行って姿を消した。鞄は持っていったようだが、ケータイがここにあるんじゃなんの意味もない。
「……俺、探すんで。万が一見つかったら、今から言う番号に電話して欲しい」
 覚えている自分の電話番号を告げると、慌てたように女がメモをした。機械音痴でも、数字を覚えることは苦ではない。
「それじゃあ」
 と、マオのケータイをもって立ち去ろうとするところを、
「待って」
 慌てたように呼び止められた。
「これ」
 渡されたのは、いつだったかペンダントを買った時のと同じような袋。
「貴方にって、マオちゃんが」
「マオが?」
 予想外の言葉に、怪訝な顔になる。
 それから、そっと袋を開けてみた。出て来たのはシンプルな革のブレスレットだった。
「今日は、それを買いに出て来たみたいよ。いつもお世話になってるからって、嬉しそうに言ってたけど?」
 付け足された言葉に、なんとも言えない気分になる。
 そんなことのために、わざわざ一人で出かけたのか。お世話になっているお礼? そんなこと、考えたりしなくってよかったのに。
 ブレスレットをもう一度袋に戻す。
 これはちゃんと、マオの手から渡してもらおう。じゃないと、素直に喜べない。喜びたいと、嬉しいと思っているのだから、俺は。
「……ありがとう」
 女になんとかそれだけいうと、足早に店を後にした。
 そうでもしないと、何故だか知らないが泣きそうだった。


 駅のファッションビル、そこの女子トイレにマオはかけこんだ。変な顔をする周りの人は気にせず、洗面台に手をつき、あがった呼吸を整える。走り過ぎて喉が痛い。
 顔をあげると、鏡の中の自分は泣きそうな顔をしていた。髪の毛も乱れている。
 一体、なんだっていうの。
 柚香と話していて、ブレスレットが買えたのが、あまりにも嬉しかったからお礼に飲み物をご馳走することにした。一階のレジに並んでいたら、後ろから肩を掴まれた。そのままぐいっと、力任せの後ろに引っ張られる。
「いたっ」
 振り返ると、見たこともない中年の男性がいて、マオを見ると驚いたような顔をした。それから次に、泣きそうな顔になり、
「ようやく見つけたっ、花音!」
 大きな声でそう言った。
 花音? 誰それ。
「ちが、あたしはっ、マオで」
 言いかけた言葉は無視され、右手を掴まれる。そのまま、男は黙ってマオの腕を掴んで店を出て行く。
「ちょっと、おじさんっ! 離してよっ」
「花音」
 男は呆れたような顔で振り返ると、
「お父さんに向かって、おじさんとはなんだ。いい加減、機嫌を直せ」
 なんてわけのわからないことを言う。
「マオだってばっ!」
 周りの客達は様子をうかがうようにマオ達を見ていたが、男が父親だと言ったことで、年頃の娘のプチ家出とでも思ったのか、視線を逸らした。
 男はまた前を向くと、ぐいぐい歩いて行く。ファーストフード店が遠くなる。
 一体誰と勘違いしているのか。
「おじさんっ! ちょっと、あたしはマオで! 花音なんて名前じゃないし! おじさんのことなんて知らないし! っていうか、父親なんていないしっ!」
 ぎゃんぎゃん叫んでも、男は無視をする。
 路上に停められた黒い車。男はポケットから鍵を出しながら、それに近づく。男の持ち物らしい。
 これは本格的にヤバいかもしれない。
 どきどきと心拍数がはやくなる。
 なんでもいいから逃げなくっちゃ。
 男が助手席のドアをあけ、
「乗りなさい」
 突き飛ばすようにマオを押し込む。
「いっ」
 悲鳴をあげたマオを気にせず、男はドアを閉める。そして自分は車の前をまわって、運転席側にまわった。
 逃げるなら、今だ。
 落ち着け落ち着け。ドラマの主人公みたいに、最高の瞬間を狙わなくっちゃ。
 男が運転席のドアに手をかける。がちゃり、とドアがあき、それと同時にマオもドアをあけた。転げ落ちるようにして車から飛び出すと、後ろをみないで走りだす。
「花音っ!」
 後ろから男の声がする。
 逃げなくっちゃ。どこか安全なところ。
 ぱっと目に入ったのが、駅ビルだった。息を切らしながら駆け込み、男が入れない女子トイレにまで逃げ込んだ。
 それが今だ。
 一体、なんだっていうのよ。
 思い返したら、怖くて体が震える。
 大きく息を吸って、呼吸と気持ちを整えた。
 それにしても、どうしよう。いつまでもここにはいられない。あの様子だとすぐには諦めなさそうだし、また出会ったら嫌だし。怒られるかもしれないけれど、隆二に迎えに来てもらおう。
 そう決めると、ずっと肩からかけたままだった小さなポシェットをあける。そこからケータイを取り出そうとして、
「あれ?」
 そこにケータイはなかった。そういえば、ファーストフード店のテーブルに置きっぱなしかもしれない。
「……もうっ」
 隆二に連絡が取れないなんて、どうしたらいいんだろう。
 鏡の中、泣きそうな自分と見つめ合う。考えなくっちゃ。
 家に帰れればあとは心配いらない。だけど、あの男がまだうろうろしていたら、ちゃんと帰れるだろうか。そんなに距離はないけれども。
 隆二は多分、あんまりにもマオが帰ってこかなかったら探しに来てくれるはずだ。ぶつぶつ怒りながらも。いつも、そうだから。
 だから、うまくどこかで隆二と会えるのが一番いい。連絡とれない以上、運任せになるけど。
 隆二がいそうなところを通って、家まで帰る? 普段、お買い物で通る道を通って。
 マオが考えついたのは、そこまでだった。
 自分でも行き当たりばったりだなぁ、と思う。
 溜息。
 でもまあ、もしかしたら、あのおじさんの本当の娘を見つけて帰ったかもしれないし。楽観的な考え方は、ここでもむくむくと持ち上がる。そう考えたら、なんだか帰れる気がしてきた。
 手を洗って、髪の毛を整える。
 ひょいっと女子トイレの外を伺うが、あの男の姿はない。
 よしじゃあ、なるべく目立たないようにして、何かあったら悲鳴があげられるように人通りの多いところ通って、ついでに隆二がいそうなところ通って帰ろう。
 そう決めると、そろそろと女子トイレから脱出した。

 

 

 しかし、探すと言っても全く当てがない。
 そのことに舌打ちしながら、隆二はいつも通る道を中心にマオを探しはじめた。
 途中でエミリに電話を入れたが、取り込み中なのか出なかった。折り返し連絡くれるように、留守電を残しておいたが。
 一人で探すには、限度がある。だからといって、何もしないわけにはいかない。
 辺りはすっかり暗くなってしまった。ケータイで時間を確認する。もう二十二時か。
 いつかマオはいなくなる。
 それは、覚悟を決めつつあることだった。
 それでも、今すぐではないと思っていた。遠い未来のことだと思っていた。
 でも、今すぐではない、と思っていたのは、結局目をそらしていたということなのだ。と、気づいたときには遅かった。
 いつもそうだ。いつも気づかない。いつも最善を見逃す。
 茜のことも、京介のことも、この間のGナンバーのことも。いつもそうだ。
 だからって、今諦めるわけにはいかない。
 マオに一人での外出を禁じた、本当の理由を言わなかったのは自分だ。言っておけば、マオだってこっそり出かけたりしなかったかもしれない。言わなかったのは自分の過失だ。だからこんなことになった。だから、結果の発生は阻止しなければ。
 まだ、覚悟はできていない。
 だから、まだ、一人にはなれない。
 だから、一緒に帰ろう。


 ぜぇぜぇと、自分の呼吸が乱れているのがわかる。それでも足を止めることはできない。
 ビルとビルの間の細い隙間。そこに目をつけると、マオはするりと身を滑り込ませた。 ぎりぎりなんとか入り込めた。胸がないとか悩んだりもしたけれども、今は感謝だ。
 横歩きで奥に進み、ビルの影にしゃがみこむ。
 男が走って行くのが見えた。
 ふーっと一息つく。
 駅ビルから出た後、途中までは順調に帰れていたのに、安心しきったところであの男はまた現れた。
「花音!」
 なんて叫びながら追いかけてくる。
 本当、いい加減にして欲しい。きっと、なんか変な人なのだ。
 今、何時ぐらいだろう。辺りはすっかり暗い。あちらこちらのお店のシャッターも閉まっている。
 隆二、心配しているだろうな。
 胸元に手を伸ばし、ペンダントに触れる。
 そうすると、少しだけ安心できた。
 明日の午前九時には実体化がとける。
 それならばいっそ、ここに隠れて実体化がとけるまで待っていようか。幽霊に戻ってしまえば、あの男に追いかけ回されることもないだろう。明日の午前九時まで、何時間あるんだか知らないけれども。
 ゆっくり奥に進むと、少し広いスペースがあった。ビルとビルに囲まれた場所。
 そこまで行こうと、横歩きを継続していると、
「いったっ」
 置いてあった木の板、その破片で右腕を引っ掻いた。
「ああもう」
 血が出て来た。痛い。
 痛いのには慣れていない。ずっと感じたことがない感情だったから。幽霊のときは、痛いとか熱いとか寒いとかそんなこと、関係なかった。痛いのは、実体化しているときだけだ。
 そこまで考えて、嫌なことを思いついた。
「あたし、酷い怪我したら、どうなっちゃうんだろう」
 今の今まで考えたことがなかった。人間と同じように、身の危険が生じるんだろうか。ああ、だから、だから隆二はあんなにも気を使ってくれていたのか。全然気がつかなかった。だから、一人で出かけるなと言っていたのか。こんなことになるから。
 視界がぼやける。
 ビルの影に座り込む。膝を抱える。
 実体化がとけるまでここにいよう。あとどれぐらいの時間があるのかわからないし、それまで隆二に心配をかけることになってしまうけれども、ヘタに動き回ってあの男に見つかるよりもずっといい。
 一人にしないと誓った。約束した。
 だから、帰らなくちゃ。なんとしてでも、彼のところに。
 一人じゃないから大丈夫だと、約束したのは自分なのだから。だから、帰らなくっちゃ。絶対に。


 隆二は、一度試しに家に戻って来た。入れ違いになっている可能性も考慮して。けれども、やはりそこにマオの姿はなかった。
 舌打ちすると、マオのケータイをテーブルの上に置く。戻って来たら連絡しろ、のメッセージをつけて。
 それから、ブレスレットの袋も隣に置いた。マオから直接渡されるまで、これは自分のものじゃない。
 時計を見る。夜中の三時だ。
 ここまで本当に姿が見えないなんて、本当になにかあったんじゃないか。もう、戻って来ないんじゃないか。
 考えると、心臓がぞっと凍える。
 と、ポケットにいれたケータイが震えた。
 慌てて取り出す。着信表示は、進藤エミリだった。
「もしもし。夜分にすみません。今、留守電聞きました。今日は珍しく、ずっと外だったので」
 眠気を噛み殺したような声。
「どうしました?」
「マオが帰って来ないんだ」
 告げると、電話の向こうの空気が変わった。
「いつから?」
 返ってきた声は、張りつめていた。
「夕方から」
 言いながら、ここまでの出来事を説明する。
「……わかりました」
 返事をしたエミリには、もう眠気は感じられなかった。
「わたしもすぐにそちらに……」
「いや、それは大丈夫」
 エミリがここに来るまでには、また時間がかかってしまう。研究所とは距離が離れているし、もう電車もない時間だ。それにあんな赤服に夜間出歩かれたら、また別のトラブルを引き起こしてしまうだろう。
 それよりも、
「調べて欲しいことがある」
「はい」
 それを告げるには、勇気が必要だった。一拍おいてから、早口で。
「夕方から今まで、うちの辺りで起きた事件事故、調べてくれないか」
 電話の向こうで、エミリが息を呑んだのがわかった。
「神山、さん。それは……」
「そうじゃなければいいと思ってる。だけど」
 なんらかの事件事故に巻き込まれたんじゃないか。そして怪我なりなんなりして病院に搬送されて、連絡先がわからず隆二のところに連絡が来ない。その可能性だって十分考えられる。
「可能性を否定して、見逃すなんてことの方が、あってはならないだろ」
 怪我をしているのならばはやく会いにいってやりたいし、最悪なことがあるのだとしてもはやく傍に行きたい。このまま見逃してひとりぼっちにさせてしまうことが、一番あってはならないことだ。
 絞り出すように発した言葉に、エミリは少し躊躇ってから、
「わかりました」
 力強い声で返事した。
「なにかわかったらすぐに連絡します」
「すまない、夜遅くに」
「いつものことですよ」
「頼む」
「はい」
 通話を終える。
 何もないのが一番いい。だけれども、何もないままここまで連絡がないわけがないのだ。何かあったことは、否定できない。
 もう一度マオを探すために部屋を出た。
 覚悟はしている。だけど、希望は捨てない。次にこの部屋に入るときは、二人一緒に、だ。


第七幕 猫の手だって厭わない

 いつの間にか、少しうとうとしてしまったらしい。
 マオは慌てて顔をあげた。
 辺りは明るくなりはじめている。
 今、何時ぐらいだろうな。
 抱えた膝にぎゅっと力をこめた。
 隆二、心配しているかな、しているだろうな。イマイチ素直じゃないし、なんか冷たいし、ひとでなしだけど、隆二はいつだって心配してくれている。
 最初は、隆二が初めて自分のことを認識してくれる人だから一緒にいた。
 今は違う。隆二がそういう風に優しいこと知っていて、大好きだから一緒にいるのだ。
 一晩も隆二から離れていたなんて、初めてだから、寂しい。心細い。
 ペンダントをぎゅっと掴む。
 もうちょっと、もうちょっと待てば実体化がとける。そうすれば、隆二のところに帰れる。
 そう、思った時。
「花音」
 声が上から降ってきた。
 全身が冷水を浴びたように凍えた。
 恐る恐る上を見る。
 マオがもたれかかっているビルの屋上に、あの男がいた。
「やっと見つけた。すぐに行く。待っていなさい」
 そんな声が降ってくる。
 冗談じゃない。
 慌てて立ち上がると、ビルの隙間に体をつっこむ。
「花音」
 呆れたような声がする。
「花音じゃないしっ、しつこいし!」
 また何カ所か擦り傷を作ったけれども、気にしない。もうそんな細かいことはどうでもいい。
 あとちょっとなのに、なんなのっ。
 通りにでると、走り出す。なるべく家に近づくように。隆二の家に向かって走り出した。


 すっかり朝になって、通りは通勤通学の人々であふれはじめた。
 隆二は走りにくくなった通りに舌打ちする。
 エミリから一度連絡があったが、特にマオがかかわっていそうな事件事故はないらしい。それにひとまず胸を撫で下ろしたものの、だったら何故ここまで見つからないのかが不安になるところだ。
 人の間をすり抜けて、勢いよく走りながら、角を曲がったところで、
「わ」
「きゃっ」
 反対側から来た人影にぶつかりそうになった。慌てて立ち止まる。
「うわっ、びっくりした」
 角でぶつかりそうになったのは、例のコンビニのオカルトマニアな店員、菊だった。
「あ、お久しぶりですー、お元気でしたか? どうしたんですか血相をかえて、またヴァンパイア」
「こいつ、知らないかっ!?」
 なんだか無駄な話をはじめそうな菊を遮って、二つ折りのケータイを開く。待ち受けに設定された、マオの写真。それがまさかこんなところで、役に立つとは。
「わ、かわいー。どなたです? 恋人さん?」
「いいからっ」
「……んー、見たことないですね」
「そうか、ありがとう」
 ケータイを奪い返すと、再び走り出そうとした隆二に、
「あの」
 菊が躊躇いがちに声をかける。
「また人探しですか? 手伝いましょうか?」
「頼む」
 迷わなかった。その手を掴むことに。
「じゃあ、連絡先と、あとその写真いいですか? 皆に回します」
「……ごめん、やって」
 ケータイをそのまま渡す。写真いいですか? ってどういうことだよ。
 菊はきょとんとした顔をしてから、少し微笑むと、
「わかりました」
 うけとったそれを操作する。ああ、やっぱり若い子ってすげーな。
「できました」
 しばらくしてから、菊が隆二にケータイを返す。
「写真をまわして友達に見なかったか聞いてみます。なにかあったら、電話しますね」
「頼んだ」
 いつだったか、エミリを探し出してくれた彼女の情報網ならば、見つかるかもしれない。ならばそれにすがることに躊躇わない。
 手段は選ばない。差し出された手は拒まない。プライドや見栄なんてどうだっていい。自分だって成長するのだ。びびたるものだけど。
 菊に軽く頭をさげると、また走り出した。


 マオは先ほどとは違う路地裏の、駐車場の影隠れた。
 乱れた呼吸を整える。
 あと、ちょっと。
 体内の感覚でわかる。あと少しで実体化がとける。そうすれば、遠慮なく飛んで帰ればいい。隆二の家へ。
 それまで見つかりませんように。
 祈るようにペンダントを握りしめる。
「かのーん」
 男の声がする。思っていたよりも近くだ。
 あと少し。あと少しだから。
 ぎゅっと目をつぶる。
 声。足音。
 あっち行け。あっち行けあっち行け!
 体から体温が消えていくのがわかる。実体化がとける前兆。
 あとちょっとだ。
 ここまで来たら、あとはもう待つだけだ。
 少し視界が揺らぐ。
 耐えるように一度目を閉じる。
 ふわりと、体が浮くような感覚。浮遊感。
 目を開ける。
 目の前に手をかざすと、透けて地面が見えた。よかった、ようやく実体化がとけた。
 今なら逃げ出せる。
 そう思って動き出そうとしたとき、かしゃんっと何かの音がした。視線を落とすと、着ていた服と、ペンダントが転がっていた。
 それに一瞬、足が止まる。
 ペンダント。せっかく隆二がくれたペンダント。それをこの場所においておくことに、一瞬の躊躇いが生じた。
 それが、間違っていた。
「見つけた」
 すぐ後ろから声がして悲鳴をあげかけたときにはもう遅かった。
 腕を掴まれる。
 その白い手袋は、エミリがつけているものによく似ている。幽霊が触れるというあの手袋。
 そんな風に思った次の瞬間には、銃を突きつけられ、撃たれた。

 

 

 隆二はケータイを取り出し、時間を確認した。午前九時。マオの実体化がとける時間だ。
 今頃どこにいるのか。変なところで実体化がとけて、面倒なことになっていなければいいが。
 思ったところで、手の中のケータイが震えた。見知らぬ番号。慌てて出ると、
「もしもし。えっと、コンビニ店員の菊です」
「ああ。なにかわかったか?」
「カレシがこの写真に似た人を見たって。あと」
 そこで菊は一度躊躇うように口ごもってから、
「……このペンダントに似ているのと、なんか服が落ちているって」
 さすが、若者の情報網。
「場所は?」
 ペンダントや服が落ちていること事態は、危惧することではない。実体化がとけたからだろう。つまり、実体化がとけるまでマオは近くにいたことになる。
 近くにいたのに、なんで戻って来なかったのかはわからないが。
 菊から場所を聞くと、そこに向かって走り出した。

 件の場所に行ってみると、大学生ぐらいの青年がケータイ片手に立っていた。
「あの」
「あ、あなたが菊の知り合いの?」
 そう問われた言葉に頷く。
 こっちなんですけど、と案内された駐車場の影。そこにはペンダントと洋服、ポシェットが落ちていた。
「これ、そうですよね?」
 指差されたペンダントをそっと拾い上げる。マオのものに間違いない。
 辺りを見回すが、霊体に戻ったマオがいる様子はない。
 大事にするねと笑っていたこれが、こんなところに無造作に落ちているわけないのに。
 少し、期待していたのだ。町中で元に戻ってしまって、途方に暮れているんじゃないかって。だけれども、やっぱり、ここにも居ない。
 ついさっきまでは、ここにいたはずなのに。一体どこに行ったというんだ。もしかしたらここで会えるんじゃないかと思っていた。その分、失望の念を禁じえない。
「男に追いかけられているの見たんです」
 ペンダントを握ったまま何も言わない隆二をみて、青年がそう話はじめる。
「なんかヤバそうだなと思って、警察呼んだ方がいいか悩んで、一応あと追いかけてみて。見失ったと思ったらこれがあって」
 地面に散らばった衣服。ああ、どうみても事件性大だ。
「これ、ヤバいですよね? 警察にとどけますか?」
「……いや」
 それになんとか、首を横にふった。
「わけありなんだ。それはできない」
「そうですか」
 予想以上にすんなり頷かれた。
 それが意外で、青年に視線を向けると、彼は苦笑した。
「菊の紹介してくる人なんて多かれ少なかれそうですよ」
 どんな人付き合いしているんだ、あの小娘は。それに助けられた自分が言うべきことじゃないが。
「あ、あとこれ。その男がそのあと車に乗って立ち去るの見かけて」
 言いながら、青年が自分のケータイを操作する。
「一人だったんですけど。念のためナンバー写真とって」
 渡されたケータイには、確かに黒い車のナンバーがしっかり映っていた。それにしても、
「……なんでそんなことを」
 用意周到過ぎるだろ。
「子どもの頃から探偵に憧れ続けるとこうなっちゃいます」
「ああ」
 その言葉に苦笑する。なんとなくわかってしまって。マオみたいなものか。
 渡された写真にうつるナンバーを覚えると、電話をかけた。
「見つかりましたか?」
 電話の相手、エミリは出ると同時にそう言った。
「手がかりだけ。嬢ちゃん、車のナンバーから持ち主調べられるか?」
「わたしの権限外ですが……、父に頼めば、恐らく」
 訊いといてなんだができるのか。相変わらず嫌な組織だ。それでも、頼るしかない。研究所の力に。
「頼む」
 問題のナンバーと、軽く経緯を説明すると、
「わかりました。なるべく早めに連絡します」
 言って通話が切れた。
 地面に落ちているマオの衣服と鞄を拾い上げる。それらはぞんざいにまとめたが、ペンダントだけは無くさないように、そっと財布の中にしまった。ここが一番安全だろう。これはちゃんと、マオに渡さなくては。無くしたなんてことになったら、きっとあいつは怒るから。
「あの」
 青年が躊躇いがちに声をかけてくる。
「助かった。ありがとう」
 それに頭を下げた。
「あ、いえ。……あの?」
「このあとはこちらでどうにかするから大丈夫。万が一、またその車を見かけたら連絡ください。あのコンビニの子にもお礼を言っておいてください」
 早口で告げる。
 車の行方はエミリに任せるとして、隆二は隆二でマオを探すことをやめるわけにはいかない。立ち止まっているなんてできない。まだ、近くにいるかもしれないから。
 じっとなんてしていられない。止まっていることは怖いから。
「本当にありがとう」
 困惑の表情を浮かべる青年にもう一度そう言うと、足早にその場を後にした。


 残された菊のカレシ、志田葉平は立ち去った隆二の背中を見て首を傾げた。
 まったく、一体あの人はなんなのだろうか。ナンバー照会をどこかに依頼していたが。
 怪訝に思っていると、ケータイがなった。菊から電話だ。
「もしもし?」
「葉平、無事に常連さんに会えた?」
「会えたよ」
 とりあえず手がかりぐらいにはなったみたい、と続ける。
「っていうか、菊、あの人は何者?」
「バイト先のコンビニの常連さんで。んー、内緒って言われたんだけれども葉平にだけは教えちゃう」
 内緒って言われたなら内緒にしとけよ。
「内緒だよ、あのね、吸血鬼さんなの」
「……ああ、そう」
 気が抜けた返事をかえす。
 声をひそめて、さも重大なことのように言うから何かと思ったら、またそんな夢物語か。
 なんで俺のカノジョはこんなに夢見がちなんだろう。未だに探偵なんていうものに、僅かな憧れを抱いている自分が言えた義理じゃないけど。
 一つ、溜息をついた。

 

 

「ダディ、お願いがあるの」
 隆二との通話を終えると、エミリは足早にリビングに向かった。まだ自宅にいた父親に声をかける。
「どうした?」
「車のナンバーから持ち主を調べて欲しいの」
 言いながらナンバーをメモした紙を差し出す。和広が説明を求めるようにエミリを見る。
「マオさんが行方不明で」
 簡潔にここまでの出来事を説明すると、そうか、と和広は頷いた。
 それからリビングのパソコンの前に移動する。
「やってくれるの?」
「研究所の方針に反しない範囲では、神山さんたちの味方をしようと決めているからね」
 言いながら和広がパソコンを操作する。事後処理を担当している和広ならば、ナンバー照会のデータベースにログインすることもできる。
 和広の操作を、固唾を飲んで見守っていると、
「……駄目だ」
 和広が小さく呟いた。
 パソコンの画面には、赤い字で「error:000」の文字が出ている。
「……エラー?」
 エミリが呟くと、
「調べられない」
 和広が淡々とそう答えた。
「なんでっ。そもそもなんでエラーなの?!」
「エラーナンバー000は、研究所内部の人間情報だ」
「……じゃあ、マオさんをおいかけまわしていたっていうのは、研究所の人間なのっ?」
 そうか、でもそれならば、霊体に戻ったあとも姿が見えないことも説明がつく。研究所の人間ならば、見ることも触ることも出来る道具を持っているだろう。
「このエラー解除できないの?」
 できないことはないはずだ。研究所内部の人間の情報だから一応保護しているが、内部の情報が必要になることだってあるはずなのだから。
「できないこともないが」
「だったら」
「でも、できない」
 和広はエミリの目を見ると、しっかりとそう答えた。
「なんでっ」
 父なら引き受けてくれると思っていたのに。
「研究所の規定や意思に反することはできない」
「マオさんが危ないかもしれないのに?」
「それとこれとは話が別だ」
 そして、あろうことか和広は溜息をついた。呆れたように。
「わきまえなさい、恵美理。我々は、組織なのだから」
 冷静に吐かれた言葉に、頭を殴られたような気がした。目の前が真っ暗になる。
 今、この人はなんと言った?
 絶対に、父ならば助けてくれると思った。信じていた。だって、エミリが知っている和広は、いつだって隆二達の側に立って、彼らを守っていたから。今回だって、多少目をつぶって調べてくれると、何故だか信じていた。その彼が、こんな風に組織だから、なんて言うなんて。
「……恵美理、神山さん達に気を使うようになったのはいいが、勘違いしてはいけない。我々は研究所あってのものなのだから」
 研究所内部の人間がマオを連れ去ったかもしれないのに、研究所内部の人間だからわたしは真実にたどり着けない?
 今頃きっと、隆二はエミリからの連絡を待っているのに。
 ぐっと唇を噛むと、リビングを後にする。
「恵美理」
 我が侭な子どもをなだめるような父親の声がする。
 自分の部屋に戻ると、ベッドの下から手提げ金庫を取り出した。派遣執行官には一人一つ配給されているもの。本当はこんな風に使うものではないけれども、背に腹は代えられない。
 それを握るとリビングに戻る。和広は同じようにパソコンの前に座っていたが、エミリが持っているものを見ると、小さく眉をあげた。
 エミリはそれを、銃を、和広の頭に突きつけた。
「調べて」
 和広はそれをちらりと見ると、
「そんなことをしても無駄だよ、恵美理」
 子どものいたずらをたしなめるような口調で言われた。
 温度差を感じる。父親と、自分との間に。こんなこと、初めてだ。
「お前に引き金を引けないことはわかっている。人間を撃ったことなど、ないだろう」
 確かにそうだ。今までに人間を撃ったことはないし、ましてや父親だ。自他ともに認めるファザコンの自分に、そんなことができるわけがない。
 ならば。
「これなら?」
 銃口を自分のこめかみに押しあてた。
「……なんのつもりだい?」
 ほんの少し和広の顔色が変わる。しめたものだ。
 ためらうことなく引き金に指を引っかける。
「恵美理っ」
 和広が父親の顔をして、椅子から腰を浮かせた。
 それに少しだけ安心する。たった二人の家族だもの。その絆が研究所の規定なんていうものの前に負けていなくてよかった。ここで和広が顔色を変えなかったら。そんなこと考えるだけで、娘としてのエミリは辛いし悲しい。
「勘違いしないで」
 そんな父親に、エミリは小さく笑ってみせる。
「自分の命を人質にとっているんじゃない。娘の命が人質にとられているのだから、しぶしぶ調べても仕方ない、という口実をダディに与えているの」
 破天荒な娘を持って大変だ、と所内は元々和広に同情的だ。そこをつけば、上手く立ち回れる。そう判断した。
 和広の研究所内での立場を危うくすることはないはずだ。
 和広はしばらく、中腰のままエミリをみていたが、
「……わかった」
 うんざりしたように溜息をつくと、椅子に座り直した。
「……お前は本当、おばあちゃん似だな」
 パソコンを操作しながら、和広が小さく呟いた言葉に、思わず少し笑った。

 

 

 マオ探しを続けていた隆二は、ポケットのケータイが震えたことで足を止めた。
「わかりました」
 電話の相手、エミリは前置き無しでそう言った。
「車の持ち主は、一条稔」
「……一条?」
 偶然なんだろうが、嫌な名字だな。
「お知り合いですか?」
「いや、悪い、続けてくれ」
「一条は、研究所の事務担当の一人です」
「研究所か。そうか、それならマオが霊体に戻っても見えるし触れるな」
「はい。諸々のことから、一条がマオさんを攫った可能性が高いと考えられます。それで、その、諸々のこと、なのですが」
 そこで珍しく、エミリが一瞬口ごもった。
「一条には、一人娘が居たんです。名前は花音。三年前、十五歳の時に亡くなっているんですが。……その外見が似ているんです、マオさんと」
「は?」
 言われた意味がわからなくて問い返す。
「写真、あとでケータイに送ります。本当に似ているんです。髪や目の色が、マオさんとは違って漆黒なぐらいで、あとはまったく一緒です」
「……あいつら、マジな人霊を使ったってことか」
 Gナンバーは人工的に作られた幽霊。その原理についてエミリが以前色々言っていたが、研究班が嘘をついている可能性もある、とも言っていた。やはり嘘をついていて、本当に亡くなったというその一条の娘の魂を使って、マオを作ったというのか。死して必ず幽霊になるわけでもない。成仏するはずだったその魂を、現世に縛り付けたとでも?
「わかりません。それが本当だったとして、一条が実験に絡んでいるのかもわかりません。だけど、一条、娘の幽霊を見たって最近言っていたらしいんです。テレビで!」
 エミリの声が高く、大きくなった。
「テレビで?」
「父の、知人なんですっ。わたしがオカルトクエストのDVDを渡した!」
 マオのあの、浮かれた心霊写真が採用されたテレビ番組。
「それって、あの心霊写真ですよね? どうしよう、わたしが、送らなければっ。そしたら、一条がマオさんのことに気がつくこともなかったのに、わたしのせいでっ」
「落ち着け。嬢ちゃんのせいじゃない」
 確かに、その写真を見て娘の幽霊の存在に気がついたのかもしれない。だからといって、エミリのせいなわけじゃない。
「だけどっ! エクスカリバーもないんです、一つっ!」
 上擦った声に、一瞬思考回路がとまった。
「……エクスカリバーが?」
「さっき電話かかってきて。わたしが持ち出したと思われたみたいでっ」
 なんだそれ。マオが元々人間で? マオの父親がマオを攫って? そしてエクスカリバーを持っている? どういう状況だよ、これ。
 何も言えない隆二にかわって、電話の向こうのエミリは早口でまくしたてている。
「もうやだなんでっ! 研究班が隠し事しているのはわかっていたけど、まさかここまでっ! ダディもあんなだし、なんなのよっ!」
 それは素の彼女の言葉だった。普段冷静な彼女の、取り乱した声を聞いていたら逆に冷静になれた。
「嬢ちゃん」
「はい?」
 なんだか泣きそうな声に、
「頼む、助けてくれ」
 頼み込む。一人じゃ動けない。一条がどこに行ったのかもわからないようじゃ。
 エクスカリバーを持っているのならば、はやくしなければ。霊体に戻ったからといってマオが無事だとは限らない。
「でも、もうこれ以上は」
 電話の向こうの声はなんだか、慌てたようだった。
「ダディもあんなだし、研究所として動きようが……。研究班としては一条のことは隠したい出来事でしょうし、この後はきっと隠蔽合戦になって、わたしも動きようが……。これ以上動いたら確実に睨まれて」
「頼むよ」
 エミリのおろおろとした言葉を遮る。
 エミリに頼ってはいけない。エミリは研究所の人間だ。命令に背けということを、エミリに願ってはいけない。それは踏み込んではいけない領域だ。そんなこと、わかっている。
 わかっているけれども、頼むより他がないのだ。
「頼む、エミリ」
 強い口調で、しっかりと告げた。彼女の名前を呼んで。
「……ずるいです」
 一呼吸置いて、電話の向こうが絞り出すようにして言った。
「わかってる」
「なんで……、こんな時にはじめて、名前で呼んでくださるなんて」
 声が震えている。
「うん、ずるいんだ、俺」
 使えるものならなんだって使う。それが結果発生を阻止してくれるのならば、躊躇わない。例え、どんなに罵られても。非人道的でも構わない。マオを助けられるのならば。
「手伝って欲しい、エミリ」
 駄目押しのようにもう一度。
 電話の向こうではしばらく沈黙が続いていたが、
「……わかりました」
 次に聞こえた声は、どこかふっきれたように聞こえた。
「わたし一人で、どこまでお役にたてるかわかりませんが、マオさんのためですから」
「ありがとう」
「だけど、一つだけ、いいですか?」
「なに?」
 すぅっと息を吸う音が聞こえる。なんだ? と思っていると、
「このっ、ひとでなしっ!」
 大声で一言、罵られた。
「っ」
 慌ててケータイを耳から離す。不意の大音量に、耳が痛い。
「すっきりしました」
 落ち着いた声が聞こえて、また耳にあてる。
「今の……」
「ずっと言いたかったんです。それじゃあ、車の行く先など、わかったらまた連絡します」
 言ってぷつりと、ケータイが切れた。
 ひとでなし? 上等だ。
 唇を皮肉っぽく歪める。
 ひとじゃないんだ、ひとでなしだ。もう一人のひとでなしを連れて帰るためならば、そんな誹りいくらでも甘んじよう。
 だからマオ、
「もうちょっと待ってろよ」


第八幕 迷い仔猫の素性

 ゆっくりと、マオは目を覚ました。
 顔をあげる。
 知らない場所だった。
 正面には十字架。二列に並べられた長椅子。天井のステンドグラス。
 テレビやなんかで見たことがある。ここは、
『……教会?』
 ゆっくり体を起こす。動こうとしたが、右足が上手く動かなかった。何かに縛られているかのように。
 視線をやると、黒い鎖のようなものが右足に絡み付いていた。今、幽霊なのに。
 動かそうとするが、どうにもうまく動かない。
『なにこれっ』
「足枷の一種だよ」
 声がして、慌ててそちらを向く。
「おはよう、花音。手荒な真似して悪いが、逃げないようにつけさせてもらったよ。それは花音が研究所から逃げ出したときに反省して、研究班が作ったものらしいよ」
 あの男がそこに居た。
『誰、あなた?』
 ただの変な人じゃない。そんなことはもうわかっている。霊体に戻ったのに逃げられなかった。捕まった。
『研究所の、人?』
「そうだよ、花音」
 男が両手を広げて言う。
『花音じゃないっ』
「花音だよ。一条花音、わたしの娘」
 男、一条稔が微笑む。
『……何を、言っているの?』
 一条から距離をとろうと、少し後ろに下がる。少しでも、後ろに。
『娘? あたしが? あなたの? ありえない。だって』
 認めたくないけれども、こんなこと自分で言いたくないけれども。
『あたしは、実験体ナンバーG〇一六。人工的に作られた幽霊で、父親なんていない』
 覚えている。発生して最初のこと。記憶にあるのは、あの嫌な液体で満たされた水槽。
『あたしは、ただのひとでなしだもの』
 何を勘違いしているのか知らないが、わかったなら帰して欲しい。
「いいや、花音だよ」
『だからっ!』
「実験体ナンバーG〇一六の元になったのは、花音の魂だよ」
『……え?』
 意味がわからなくて、抗議のために開いた口をそのまま、ぽかんっと間抜けにあける。
『たましい?』
「そうだよ、花音」
 一条は手近な椅子に腰をおろした。
「やはり、忘れてしまったんだね」
 そうして、少し悲しそうな顔をする。
「花音が亡くなったのは、交通事故だった」
 そのまま、ゆっくりと話始めた。マオはただ黙ってそれを聞いていた。
「三年ほど、前だね。悲しむわたしの元に、研究班がやってきたんだ。新しい研究のために、花音の魂を献体として使わせてくれないか、と」
 そこで一条は、じっとマオを見た。マオは視線から自分の体を守るかのように、両腕で肩を抱いた。
「最初は渋ったが、研究所内のしがらみと、それから花音にもう一度会えるかもしれない、という言葉にそそのかされたんだ」
『……研究班は、その人の魂を使ってあたしを作ったの?』
「その人、じゃない。花音自身のだ」
 睨まれて口ごもる。
 だけど本当は大声で言いたかった。花音なんて人、知らない。あたしは、マオだ。
「だけれども、研究班からそれからしばらく音沙汰がなかった。一年ぐらいして届いた書類には失敗した、とあったよ。愕然としたね。わたしは」
 一条の声が震えた。何かを耐えるかのように。
「花音をまた失ってしまったんだっ」
 張り上げられた声が室内に響く。
「そのまま眠らせてあげるべきだったのに。花音の魂は消滅したという。わたしは完全に娘を失った!」
 荒げられた声に、ひっと息を呑む。怖い。
「それから二年、わたしはずっと抜け殻のようだった。何も考えられなくて、気づいたら妻とも離婚していた。そんなときだよ、テレビで花音を見たのは」
『……テレビ?』
「心霊写真としてだったが、笑顔の花音の写真を見たんだ」
『っ、オカルトクエスト!』
 テレビに映った自分の姿といえば、それしか考えられない。
 ああ、と一条は頷いた。
「そこから調べたよ。花音のことを。研究班の資料を勝手にね。実験は成功していたんだ。だけれども、わたしに花音を引渡すつもりがないから、研究班は失敗したことにしたんだ、とわかった。わたしのところに通知がきたときには、まだ実験の途中だったのに、失敗したことにした。それに腹がたったけれども、冷静に考えれば研究所ではよくあることだからね」
『……それで、あたしを?』
「そう。G〇一六という実験体ナンバーが花音なことも、U〇七八のところにいることも、全部調べた。肝心の、U〇七八の居場所がわからなくて、時間がかかってしまったがね」
 一条は立ち上がり、ゆっくりとマオに近づく。マオは少し後ろにさがった。
「待たせたね、花音。一緒に帰ろう」
 そんなマオを気にすることなく、一条はそう言った。そうして片手を差し出す。
「わたしたちの家に帰ろう、花音」
 畳み掛けるように言われる。
 差し出された手と、一条の顔を順番に見る。
『あなたが、……あたしの父親かもしれないっていうことは、わかりました』
 震える声で言葉を発する。
 一条の視線はどこか定まっていなくて怖い。
「ああ、そうだよ。まだ思い出せなくても、いつか思い出せるかもしれない。花音」
 一条が満足そうに頷く。
 この人が、悲しい思いをしたことはわかった。大事な娘を亡くして、一人になってしまって、色々後悔して、悲しくて、必死に娘を探していたことはわかった。それには同情するし、マオが娘だと知って嬉しかった気持ちを、期待を裏切るようなことは出来ればしたくなかった。一人が淋しいのは知っているから。
 だけど、
『あたしは、あなたとは一緒に行けない』
 それとこれとは話が別だ。
 一条の顔をじっと見つめる。
『あたしは帰らなくちゃいけない。それは、あなたのところじゃなくて、隆二のところに。だって、あたし、約束したんだもの。隆二と。ずっと一緒にいるって』
 だから貴方とは帰れない、と続ける。
 一条の表情は変わらない。僅かに微笑んだまま。それがまた、少し怖い。
 だけれども、思っていることはちゃんと言わないと。
『それに、あたしは、花音なんていう名前じゃない。ましてや、G〇一六でもない。あたしは、マオ』
 あの日、初めてあった日に隆二が名付けてくれてから、ずっとマオだ。この名前を大切にしてきた。それ以外の何者でもない。それ以外の名前ならば、例え本物であっても要らない。
『マオだから、あなたとは一緒に行けない』
 この手が掴むのは、隆二の手だけだ。
 ごめんなさい、と続ける。
 一条はしばらく何も言わなかった。
 沈黙に耐えながら、じっと一条の顔を見る。
 どれぐらいそうしていただろうか。一条がゆっくりと息を吐くと、手を下ろした。そうして、椅子の方に向かう。
「わかったよ、花音じゃない」
 背中を向けたまま、一条が言う。
 納得してくれたのだろうか?
 そう思って胸をなでおろしていると、一条が振り返った。
「花音はそんなことを言わない」
 その右手に握られているものに、視線が釘付けになる。
「花音の形をした紛いものに用はない」
 右手に握られているもの。見た目は小型の剣。だけれども、それがただの剣でないことを知っている。
 あの時見た。公園で京介と話した時に。
 あれは、
『エクスカリバーっ』
 霊体であるマオも、不死者である隆二や京介も、実験体である以上すべてを消し去る唯一のもの。
「わたしはまた、花音を失うことに耐えられない」
 マオの悲鳴に返事はせず、一条はエクスカリバーを片手にマオに近づく。
「同じぐらい、わたしが死んだあと花音の形をしたものが存在していることも耐えられない。花音でもないくせに」
 何を言っているのかわからない。だけれども、一つだけわかる。
 このままじゃ、絶体絶命だ。
 なんとか逃げられないかと身をよじるが、右足が上手く動かない。動けない。
 刃が光る。
「やっぱりこうするのが一番いいんだ。花音の形をしたものがいなくなってしまえば、わたしは安心して、死ねる!」
 エクスカリバーが振り上げられる。
 咄嗟に転がるようにして避けた。体は。
『やっ!』
 右腕が避け切れず、刃に触れた。
 何が起きたのか、最初わからなかった。
 刃に触れた先を見る。何もない。
『いやぁぁぁぁ!』
 理解すると同時に悲鳴をあげた。
 斬り落とされたように、刃が触れたよりも先、肘から先が無かった。
 痛みもなにも無いのに。
 左手を伸ばすけれども、やはり、ない。
「ああ、避けるから」
 眉根を寄せて一条が言った。
「花音の顔がそうやって歪むのは見ていられないんだ。頼むから、避けないでくれ」
『なにをっ!』
「エクスカリバーは突き刺した箇所から消える。突き刺さないで今みたいに斬っただけじゃ、そこから先が消えるだけで本体の抹消には繋がらないんだ」
 なんでもない口調で一条が言う。
 なにを言っているかわからない。
 なんで、そんな、なんでもないように言うのだろう。
 だって、消えるって、どういうことかわかっているんだろうか、この人は。
 逃げようともがくが、どうやっても動けない。
 一条がエクスカリバーを振り上げる。
 消える。
 消えてしまう。
 アレに刺されたら、消えてしまう。
 今度は腕だけじゃない。あたし自身が。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 だって、約束したのだ。
 ずっと一緒に居るって。居なくならないって。約束したのだ。
 約束は、守らなくっちゃいけないんだ。
 約束したのに。一緒に居るって。
 一人にはしないって。
 違う。ずっと、一緒に居たいのは、あたしの方だ。隆二じゃなくって。
 あたしが、隆二と一緒に居たい。
 ずっと一緒に居たい。
『嫌だっ!』
 消えたくない消えたくない消えたくない消えたくないっ。
 刃が眼前で光る。
 嫌だ。助けてっ。
 助けてっ!
『隆二ぃぃっ!』
 一際大きな悲鳴が漏れたのと、ばりんっという音がしたのはほぼ同時だった。
 音は上からして、マオは思わず視線をそちらに向ける。一条も同じように一瞬視線を上に逸らした。
 屋根のステンドグラスが割られて、きらきらと光を浴びながら破片が降ってくる。綺麗に輝きながら。
 そして、
「マオっ!」
 一緒に落ちて来た黒い影が、彼女の名前を呼びながら、着地と同時に一条を蹴りとばす。蹴りとばされた一条は吹き飛ばされ、長椅子にぶつかった。
「マオっ、大丈夫かっ!」
 そのままふりかえり、マオに駆け寄って来たのは、
『りゅ、うじ』 
 神山隆二、その人だった。
 破片で切ったのか、頬から血を流しながら隆二はマオにかけより、
「怪我とかっ」
 そこまで言って、隆二は言葉をのんだ。
 マオの右腕を見て、言葉を失う。
 なんだかそれが恥ずかしくて、マオが左手でそれを隠そうとするのを、
「ごめんっ」
 ぐいっと手を引っ張られて妨げられる。代わりにぎゅっと抱きしめられる。
「ごめん、遅くなってっ」
 言われた言葉に、ぶわっと目元が熱くなる。気づいたらぽろぽろと涙がこぼれていた。
『りゅーじ』
 左手でぎゅぅっと彼にしがみつく。
『りゅーじ、りゅーじっ』
「ごめん。遅くなってごめん」
『ごめんなさいっ』
 あたしが勝手に外に出たから。言いつけを破って一人で外に出たから。だから隆二に心配をかけて、こんなことになってしまった。
「マオ」
 優しく名前を呼ばれる。それにあわせて、またぼろぼろと涙が出る。
 頭を撫でられる。いつもの隆二の手で。
「遅くなってごめん。だけど、よかった、また会えて」
 掠れた声で囁かれた言葉に、隆二にしがみついている左手に力をいれた。
『約束、したからっ』
 隆二のこんな声を聞くのはあの時以来だ。神野京介の一件があった時以来。
『ごめんなさい』
 泣かないで。あたしはここにいるから。まだいるから。
「……うん」
 隆二の手がマオの肩をそっと押した。隆二の顔が見えた。泣きそうに歪んでいたけれども、小さく微笑んでいた。
「一緒に帰ろう」

 

 

 一晩ぶりに見るマオの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。こんな風に泣かせてしまったことが心苦しい。
「……ごめん」
 隆二が右肩にそっと触れると、ぴくっとマオの肩が震えた。
 間に合わなかったことが、悔しい。
 マオが泣き顔のまま、ふるふると顔を横にふった。それでもまた、泣きそうになる。
 それを見ているのが耐えられなくって、マオの頭をそっと抱き寄せようとしたとき、
『隆二っ、後ろっ!』
 隆二の肩越しに何かを見たマオが悲鳴をあげた。慌てて視線を動かした隆二の目に映ったのは、エクスカリバーを片手に立ち上がる一条の姿だった。
 咄嗟に、マオの頭を抱え込む。守るように。これ以上、傷つけさせないために。
『りゅーじっ』
 そんなことよりも、迎撃した方がいいと気づいた時には、一条はもう真後ろまで来ていて、
『隆二っ!』
 マオの悲鳴をかき消すように、ばんっと大きな音がした。銃声。
「っ!」
 振り返ると、一条が、右手を押さえて呻いていた。
 からんっと持っていたエクスカリバーが落下し、隆二は慌ててそれを奪い取った。
 視線を音の方に向けると、真っ青な顔をしたエミリが、まだ硝煙のでる銃を片手に立っていた。
「それ以上、動かないでください」
 斬りつけるように一条に言いながら、銃を構えたままゆっくりと近づいてくる。
「両手をあげて!」
 エミリの声に、一条はしばらく悩むようなそぶりを見せたが、血の出る右手を押さえながら手をあげた。
「助かった。ありがとう、エミリ」
 マオを背後に庇うようにしながらも礼を言う。
「いえ、遅くなってすみません」
 一条から目を離さずにエミリが答えた。
「……どうしてここが」
 一条が苦々しい口調で言った。
「ここは花音との思い出の場所なのに。よく家族できた、思い出の……」
「知るかそんなこと」
 吐きすてるように隆二は答えた。だからなんだ。この場所がわかった理由なんて、ただ一つだ。
「人間の若者の情報網はすげーんだよ」
 菊や葉平といったなんでもない人間の若者のおかげだ。隆二が、一晩走り回ってもわからなかった手がかりをみつけてくれた。
 その情報を元に、エミリが車の行き先を探しだしてくれたのだ。だから厳密には、研究所の力もちょっと入っているが。
 郊外の古びた教会。その場所を聞いた瞬間、走りだしていた。
 入り口には、鍵がかかっていた。合鍵をエミリが手に入れてくると言っていたが、それを待っている余裕はなく、手っ取り早く天井のガラスをぶち破って入った。それだけのことだ。
 完全には間に合わなかったけれども、最悪は避けることができてよかった。
「一条稔。エクスカリバーをはじめとした道具を許可無く持ち出したことは重罪ですよ」
 エミリは銃口を向けたまま一条に近づくと、鞄から取り出した手錠を片手にかけた。一条は大人しくされるがままになっていたが、
「……進藤の娘。実験体に肩入れするお前も似たようなものだろう」
 負け惜しみのように呟いた。
「研究所から見たらそうかもしれませんね」
 吐き出された言葉をエミリは受け流した。
「でも、わたしからすれば全然違います。そのことをわたしは知っていますので」
 言いながら手錠の片方を長椅子に繋ぐ。手慣れた様子で身体検査をし、他に武器を持っていないことを確認すると、ようやく銃口を外し、隆二達の元に駆け寄った。
「マオさん、大丈夫ですか!」
 隆二の影に隠れているマオに声をかける。
『エミリさん……』
 泣きそうな顔をしたマオがエミリを見た。
 そうすると、隠れていた右腕も見えた。
「……それ」
 エミリが小さく呟くと、マオは慌てたように隆二の背中に隠れた。腕を隠すように。
『……ごめんなさいっ』
「マオ」
 涙声の謝罪に、隆二がその頭をそっと撫でる。
 それを見て、
「一条っ!」
 一声吠えると、エミリは再び銃口を一条に向けた。かっと激情に駆られたように。
 それを、
「エミリ」
 隆二は、名前を呼ぶことで止めた。
「だけど、神山さんっ」
 たしなめるように名前を呼ばれて、エミリが顔だけで振り返る。
「だって、こいつはっ」
 振り返ったエミリは怒ってもいたが、泣きそうな顔でもあった。
「あんたはその引き金を引くべきじゃない」
 まだ戻れるんだから。
「でもっ」
「やるなら俺がやる」
 その言葉に、エミリが小さく息を呑んだ。
 ゆっくりと立ち上がると、
「マオを頼む」
 エミリの肩をマオの方に押し、そっと前に出た。
『りゅーじっ』
 マオの声を背中に受けながら、ゆっくりと一条の前に立つ。
「U〇七八」
 隆二の視線を受けて、一条が呟いた。
「神山隆二だよ」
 今更実験体ナンバーで呼ばれることに、何か特別な感慨を抱くわけでもないが、そう訂正する。
「うちの居候猫が世話になったな」
「……わたしの娘だ」
「違う」
 座り込んだその胸倉を掴む。椅子に繋がった右手がひっぱられたのか、一条がうめき声をあげた。
 その耳元に顔を近づけると、低い声で小さく、一言告げた。一条だけに聞こえるように。
「俺のだ」
 そのまま返事は待たず、腹に一発拳をぶちこんだ。
 ぐっと呻いて、一条の体が崩れる。手を離すと、ぼたりと床に体が落ちた。
 手加減してやったのに。
 咳き込みながら、恨みがましい目でこちらを見てくる。
 たったこれだけのことで、そんな被害者面しやがって。自分がしたこと、わかってんのか?
 ドス黒い感情が足元から立ち上ってきた。呻いている一条を見下ろす。
 だってまだ、息の根がある。
 止めてしまえ。不愉快だから。
 倒れた体に、更に足を叩き込んだ。一発、二発、三発。
『りゅーじっ』
 怯えたようなマオの声がする。
 それで我に返った。
 久しぶりに黒い感情に支配されて動くところだった。
 足元の一条にまだ息があることを確認すると、一つ溜息をつく。
 本当はここで嬲り殺してもおつりがくるぐらい、この男が不愉快だが、そうするわけにもいくまい。エミリの立場もあるし、このまま殺してしまったら諸々のことが闇に葬られることになる。ここで一条を生かすことは、研究所に対して、一つ貸しぐらいになるはずだ。
 必死に自分に言い聞かせる。そうでもないと、本当に殺しかねない。
「エミリ」
「はい」
 背を向けたまま声をかけると、意外にもしっかりした声でエミリは返事をした。
「あと、頼んでいいか」
「はい。それがわたしの仕事ですので」
 深呼吸して、強張った顔を繕ってから振り返る。
 泣き顔のマオの肩を支えて、青い顔で、それでもしっかりとエミリが立っていた。
「ありがとう」
「いいえ」
 二人のところに近づくと、入れ替わるかのようにエミリが立ち上がった。一条の方に向かって行く。
「マオ」
 名前を呼ぶと、マオがすがるように左手を伸ばして来た。その手を掴み、そっと頭を撫でる。
「ごめんな」
 怖がらせて。
『ごめんなさいっ』
 何故だか謝るマオに、小さく微笑んでみせる。
「帰ろう。一緒に」
 その言葉に、マオは小さく頷いた。


第九幕 迷い仔猫の同居人

 一条の件はエミリに丸投げし、自宅に戻ったところで全てが元通りというわけにはいかなかった。
 研究班を締め上げてどうにかしろと脅しをかけたが、マオの右手は元には戻らないらしい。痛みはないから大丈夫、とマオは言っていたが、大丈夫なわけあるまい。
 見られるのが嫌なようで、あれ以来、隆二の右隣に居るようになった。すぐに隠すように動かすから、隆二はあまりそのことに触れないことにした。
 隆二に見られるのは嫌なようだが、隆二の傍から離れるのも極端に嫌がるようになった。今までも隆二についてまわっていたが、最近は本当にべったりだ。テレビをつけていても、それが四苦八苦久美子でも、テレビより隆二を優先する。コーヒーをいれるためにソファーから立ち上がるときでさえ、怯えたような顔をする。すぐそこなのに。ソファーからでも姿が見えるのに。
 寝ているときにはうなされているし、突然起きて泣き出すこともある。夜は怖くて眠れないと言い、元々幽霊のときは不規則だった睡眠時間が、めっきり昼間に集中するようになった。
 一晩追い回されて、自分の身の上を急に明らかにされて、斬られて、消されかけて。あれだけの目に遭ったのだから、一人になるのを恐れるのも、眠れないのも仕方が無いことだと思う。
 そして、何もできない自分は、ふがいない。出来るだけマオが安心できるように努めることしかできない。
 特に問題だと思うのが、ことあるごとにマオが呟く、ごめんなさいという言葉だ。思えばあのときから、ずっとごめんなさいと言っていた。
 約束を破って一人で出かけたから、こんなことになった。心霊写真を撮りたいと駄々をこねて、一条にバレることになった。隆二に心配をかけた。だから、ごめんなさい。そういうことらしい。
 確かに約束は破られたけれども、その約束の理由を説明しなかったのは隆二だ。説明していればマオだって、出かけたりしなかっただろう。だから、非は隆二にだってある。
 それ以外のことにかんして、マオに原因がある部分はない。心霊写真のことだって、出かけたことだって、誰がこんなことになると思えただろう。
 マオは悪くないから謝らなくていい。そう何度も言っているのに、今だって隣で眠っているマオは、寝言でごめんなさいと呟いている。
 まったく、どうしたものかね。
 上手い解決方法が欠片も思いつかない、自分のひとでなしさに呆れ返り、溜息をつく。
 眠っているマオの頭をそっと撫でる。歪められていた顔が、少しだけ和らいだように見えた。
 心の傷は時間が治してくれるかもしれない。今は待っていればいいのかもしれない。
 だけれども、待っていてくれないことだってある。
 ぴんぽーんっと、チャイムが鳴った。マオを起こさないようにそっと立ち上がると、玄関に向かう。
「こんにちは」
 ぺこりと頭を下げたのは、勿論赤い彼女だった。
「来てもらって悪いな、エミリ」
「いえ。マオさんは?」
「寝てる」
「そうですか」
 なんとなく小声で会話しながら、部屋の中に入る。二人分のコーヒーをいれると、ダイニングテーブルに向かいあった。
 エミリがソファーで眠るマオに視線を移す。
「……やはり、嫌がりますか?」
「ああ」
 今もっとも困っていて、問題視していることは、マオが食事をとりたがらないことだ。あれから半月経って、食事の日が来ても嫌がった。
「実体化するのが怖いっていうのは、わかるからなぁ」
 先月まではあんなに楽しみにしていたのに。実体化しているときは、普通の人間としてしか生活できないこと、つまり肉体の死が生じることを知ってしまった今、実体化したくないらしい。
 だからといって、このままでいいわけがない。このままじゃ、エネルギー不足で消えてしまうだけだ。
「食事と実体化が切り離せないところが問題ですよね」
「強引に与えようともしたんだけど、人に物喰わせるのと違って、本人に食べる意思がないとどうしようもないみたいだな」
「……そうですか」
「マオ本人も、このままじゃただ消えることになるのはわかっているみたいなんだけどな。エネルギーが不足してきているのは本人が一番わかっているだろうし」
 だけれども、どうしても勇気がでないのだと言う。こればっかりは、気長に待つ訳にもいかない。もたもたしていると本当にマオが消えてしまう。
「でしたら、これがマオさんに勇気を与えるきっかけになればいいんですけど」
 言いながら、エミリが鞄からクリアファイルを出してきた。
「お話ししていた件、研究所に飲ませることに成功しました」
「本当に!?」
 思わず声が大きくなる。慌ててマオの方を見るが、僅かに顔をしかめたものの、目は醒まさなかった。
 クリアファイルの中の書類を手に取る。ゆっくりと、それに目を通していく。
「……本当だ」
 今回のことの責任をとれ、と押し付けた要望書。無理難題をふっかけている自覚はあったので、こちらの条件が全て通るとは思っていなかった。それらが多少条件はついているものの、全て通っている。
「……大変だったんじゃないのか?」
 澄ました顔でコーヒーを飲むエミリを見る。
「半分は父のおかげです」
「……ああ」
 では、残り半分は?
 尋ねようとしたとき、
『りゅうじっ』
 マオの怯えたような声がして、慌てて立ち上がった。
 目を覚まして、ソファーで上体を起こしたマオの前に膝をつく。
「おはよう」
 軽く頭を撫でながらそう言うと、マオは小さく頷いた。
『あ、エミリさん』
 腰を浮かしかけたエミリに気づき、そう呟く。
「お邪魔しています」
 エミリはいつものように応えた。
「……お腹、空いてないか?」
 尋ねるとマオは戸惑ったように沈黙した。嘘がつけないマオのことだから、やはり空いているのだろう。
「話があるんだ、いいか?」
 マオは小さく首を傾げたが、嫌がったりはしなかった。
「席、外しましょうか?」
 エミリがそう声をかけてくる。
 別にいてもらっても構わないが、そう言いかけて、これから自分が口走ることを考えたら、
「あー、悪い」
 苦々しくそう呟くしか出来なかった。エミリに聞かれて困る話ではないのだが、エミリに聞かれたら恥ずかしいことを言うような気がする。
 エミリは一度小さく笑ってから、
「外に居ます。終わったら呼んでください」
 躊躇い無く外に出て行った。
『……隆二?』
 小さな声で尋ねてくるマオに、安心させるように微笑みかける。それから告げた。
「引っ越そう」
 突然の申し出に、マオがきょとんとした顔をする。最近怯えたような顔ばかり見ていたから、こんな顔でも表情が動くと安心する。
「行き先はマオが決めていい。どこでもいいよ、俺は」
『……え、なんで?』
「今回知り合いを増やし過ぎたから」
『……ごめんなさい』
 ああ、もう。だからなんで謝るかな、こいつは。
 一瞬、苛立ちが胸中に湧き起こり、慌てて深呼吸してそれを押し込めた。
「マオのせいじゃなくって。っていうか、そもそもコンビニの人に正体はバレてたんだけどさ」
 菊だけだったならば放っておいた。なんか、オカルトマニアだったし、実害がなさそうで。だけれども、緊急事態だったとはいえマオの写真をばらまいたし、柚香とも葉平ともしっかり面識が出来てしまった。さすがに、これは問題だと思う。
『……あ、柚香さんに、あたし連絡してない。急に消えたままだ』
「ああ、それはやっといたから大丈夫」
 まあ、一週間経ってからだけど。世話になったり心配をかけたりした人へ、無事だった報告をすることなんて、すっかり頭から抜けていた。仕方ない、ひとでなしなんだから、と自己弁護。
「とりあえず大丈夫だったって、連絡してある。……だけどさ、やっぱりこれ、あんまりいい状態じゃないと思うんだ」
 今はまだいい。だけれども、時が流れればいずれ不審に思われるだろう。容貌に変化がないことも、マオが半月ごとにしか姿を現さないことも、どこで不審に思われるかわからない。
 自分一人だったら、多少不審に思われても構わなかった。でも、今はマオがいる。不安の種は減らしておきたい。
「だから引っ越そう。どこでもいいけど、そうだな、どこか田舎でのんびり暮らせたら一番いいな」
 正直、今回頑張り過ぎて怠惰な生活が恋しい。
『……引っ越しって、でも平気なの? 急にそんな……』
「これ」
 クリアファイルから書類をだして、マオに見えるように床に並べる。
「今回のことの迷惑料ってことで、研究所にふっかけた」
 一条のことを隠蔽して、マオのことを見捨てようとしたことを、ちくりちくりとやりながら、マオになにかあったらここを壊滅させるぞ、と躊躇いなく脅した。一条を生かしてそちらに引渡したことも感謝しろよ、と半殺しにしておきながら偉そうに告げた。
 久しぶりにU〇七八であることを、存分に使った。死神のいない今、トラウマもなにもない研究所など何も恐れることがない。どさくさに紛れて、一条の持ち出したエクスカリバーも破壊したし。電話越しとはいえ、相手方の怯えるさまはなかなかに痛快だった。
「引っ越しも条件のひとつ」
 引っ越し費用は向こう持ち。新しい家も用意しろ。我ながらむちゃくちゃな要望だが、エミリと和広の協力があってねじ込めた。
「あとまあ、当面の生活費なんかももぎ取ったし。あー、定期検査無しには出来なかった。回数は減ったけど。ごめんな」
『……それは、うん。……行かなきゃいけないのは、わかってるから』
 語尾が震える言葉に、ぽんぽんっと頭を撫でる。
「まあ、俺も一緒に行くし」
『ん、ごめんなさい……』
「謝らなくていいから」
 だから何故謝る。
「一条のことは」
 その名を口にすると、びくっとマオの体が震えた。しかし、避けて通れない話題だ。
「あいつらに全部任せた。ただ、二度と俺たちに近づかせないことを誓わせた。居場所も教えるなって」
 次にその姿を見かけることがあったら、研究所もろともただじゃおかないぞ、と言っておいた。まあ、その前に、一条がまた隆二達の前に姿を現せるほど、元気になるかも疑問だが。身体的な意味で。というのは、マオには言わないでおく。
「だから一条のことは大丈夫」
 それからエミリに調べてもらったところ、一条稔は、あの一条と、茜の一条と親戚関係にあるらしいこともわかったが、まあそれは蛇足。一条花音が茜と親戚関係にある、それになんともいえない感慨を抱いたが、それはマオとは関係ないことだ。一条花音とマオは、何にも関係がないことだ。
 マオがこくりと小さく頷いた。
『ごめんなさい』
「謝らなくていいから。それから、あと、そうそう義手」
 この話をするのは嫌がるだろう。だけれども、言わないと先には進めない。
「右手」
 告げると、マオは身をよじるようにして右手を隠そうとした。
「元には戻らないけど、義手作るように頼んだから。実体化している時は勿論、霊体になってからも使えるもの。不便はあるだろうけれども、見た目は気にしなくていいはずだから」
『……本当?』
「ああ」
 マオが少し安心したように笑った。のも、束の間。
『ごめんなさい』
 また謝った。
 ぷちっとどこかで何かが切れる音が聞こえた気がした。
 あ、駄目だ。我慢の限界だ。半月我慢してきたのに、ここで限界だ。
 マオの頬を包むように、両手を伸ばす。
『……隆二?』
 不思議そうなマオ。
 寧ろ優しく微笑みかけると、
『ひゃぁっ、ちょっ』
 その頬をぐっと引っ張った。
『りゅーじっ』
「お前は本当に一体なんだってそうやっていちいち人の神経を逆撫でして俺を一体なんだと思ってるんだ」
 そこまで一息に言ってから手を離す。そのまま、また頬を包むように手を置いた。
「ひとでなしだぞ」
『……ええ?』
「お前はあれだけ普段人のことを、やれひとでなしだの、唐変木だの言っておいて、それでも気を使えというのか、この俺に」
 自分でも、なに駄目なこと自信満々に言っているんだろうなあ、という気はするが。
『え? ごめんなさ』
「だからそれ」
 また謝ろうとしたマオを遮る。
「今後、この話題について謝罪禁止。だって別にマオは悪くないだろ。悪くないのに謝罪されるほど不愉快なことはないだろう」
 マオの目が大きく見開かれる。驚いたように。
 さてはお前、自分が二言目には謝罪していたことにも気づいてなかったな。
「大変だったのも辛かったのも怖かったのもわかるよ。だから、無理に笑え、とは言わない。だけど、せめて謝るのはやめろよ」
 ああ、やっぱりエミリに席を外しておいてもらって正解だったな。そう思いながら、続きを口にする。
「俺はずっと、この一年、お前の無駄な明るさに救われてたんだよ」
 最初はただ振り回されて、面倒だなと思っていた。今だって、たまに面倒だなと思うけれども、面倒だなと思うこともひっくるめて楽しいと思っている。マオとの生活を。
 マオを拾ってすぐは、久しぶりの誰かと一緒の生活も悪くないものだな、と思っていた。今は、マオと一緒の生活じゃなければ意味がないと思っている。誰かじゃなくて、マオとの。
「調子が狂うんだよ、マオがそんなだと」
 マオの存在は、すっかり隆二の生活に組み込まれているのだから。
「無理に笑えとは言わない。時間がかかってもいい。それぐらいちゃんと待つ。俺だって、たまにはそういう努力をする。だけど、謝るのだけはやめてくれ。頼むから」
 怯えさせたくて、泣かせたくて、謝罪させたくて、傍に置いているわけではないのだ。
 マオは目を見開いたまま隆二の顔を見つめていたが、やがて、
『うん』
 頷いた。それから言葉を探すように少し沈黙して、
『……ありがとう』
 まだどこかぎこちなくだが、そう言って微笑んだ。
 それに安堵すると、ぽんぽんっと頭を撫でる。
「……マオ」
 左手をそっと繋ぐ。
「……食事、しよう。そろそろ、本当に」
 その途端、マオの顔がまたくしゃりと歪んだ。
「大丈夫。あんなこと、そうそうないから。今度はちゃんと、俺が傍にいるから。危ない目には遭わせないから」
 マオが今までよりも少し気を使って、隆二がちゃんと見ておけば、きっと平気なはずだから。
「それでもまだ、やっぱり、怖い?」
『……怖いよ』
 泣きそうな顔でマオが答える。
『だって、約束破っちゃうかもしれない』
「……ん?」
 それは想定と違う返答だった。約束?
『ずっとあたしが、傍にいるって言ったのに。一緒にいるって言ったのに、それを破っちゃうかもしれないの、すっごく怖い。隆二がまた、一人になっちゃう……』
 泣きそうな顔で、それでもはっきりとマオはそう言った。
 約束って、ああ、そうか。
「……お前は、本当にっ」
 繋いだ手をひっぱって、頭を抱き寄せる。
『わっ。……隆二?』
「怖いって、それかよ」
 声が掠れた。
「他にも色々あるだろうが。最初にでるのが、それかよ」
『……隆二、大丈夫?』
 腕の中のマオが心配そうに呟く。立場が逆転した。
 だって、そうだろ?
「なんで俺の心配なんだよ、お前」
『……なんでって』
 どうしてそんなことを訊くのかわからない、とでも言いたげな不思議そうな口調で、
『だって、約束したから』
 当たり前のようにそう続ける。
『一人じゃないから大丈夫だよ、って言ったの、あたしだもの。絶対に一人にしない、って言ったの、あたしだもの。だって』
 マオの左手がそっと背中にまわされる。
『泣いていたじゃない、あのとき、隆二』
「……京介の?」
『そう。あたしね、びっくりしたの。隆二は泣いたりしないって勝手に思ってたから』
「あー、うん」
 出来れば泣いていたことは忘れて欲しいんだが……。
『隆二が泣いているの見るの、なんだかとっても悲しいから。だから、もう二度と、隆二を泣かせないって決めたの。今また、泣かせたけど……』
「……泣いてない」
『うそ』
 ぎゅっとマオの額が胸に押し付けられる。
『声で、わかるよ』
 そっと囁かれた言葉に、ぐっと言葉につまる。まあ確かに、今少し泣きそうだったけれども、それは、
「……世の中にはうれし泣きっていう言葉があってだな」
『……うれし泣き?』
「……そのうち学んでくれ」
 心配してくれていたことが嬉しかったのだと、どうして自分の口から言えよう。
「ともかく」
 気を取り直して咳払い。
「俺のことでそんなに気に病まなくていいから」
 肩を押して体を離す。マオの眉間に寄った皺を指先でぐぐっと押した。
『ちょっ』
「大丈夫だから、俺は」
 抗議の声を無視して、指でぐいぐい押したまま続ける。
「マオが実体化してから、少しずつだけど、ちゃんと覚悟をしてきたから」
『……覚悟?』
「一人になること」
 微笑んでみせると、マオはまた泣きそうな顔をした。眉間から手を離し、マオの頬に手を移すとぐいっと唇を笑みの形にした。
『ちょっと』
「泣かれたら嫌なのは俺もなんだよ」
 早口でそう言うと、手を離す。
 マオはなんだか驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。
 長い時間をかけて覚悟してきたのだと、茜が言っていた。それならば、きっと。
「一緒にいる時間は、いつかくる別れのための準備期間なんだ」
 それがいつのことかはわからない。でも、別れが避けられないのであるならば、せめて悔いなくその日まで過ごしたい。今は、そう思う。
「だから、その、残された俺のことは気にしなくていい」
『……でも』
「代わりに、今のことを気にしてくれ」
『……今?』
 そう、と一つ頷く。
「別れの時に悔いたりしないように。悲しいのは避けられないとしても、悔いがないように」
 ここまでの別れはずっと悔いばかりのこった。茜のことも、京介のことも。今度は、それを避けたい。
「出来るだけ楽しく、笑って過ごせたらいいな、と俺は思うわけだ」
 なんだかとっても恥ずかしいことを口にした気がしてきたので、
「あとだらだらしたいよな」
 照れ隠しにそう続ける。いや、本心だけど。
『……ん』
 マオが小さく頷いた。
「……だからマオ、食事をとろう」
 ここまで言っても、今ひとつ押しが足りないらしい。困惑の表情を浮かべる。
「お前さ、わかってるだろ。食事とらないと消えるんだぞ」
 さすがに苛立ってきた。人にここまで恥ずかしいこと言わせて、何を躊躇っているんだ。
『……そうだけど』
 マオの左手が、自身の右肩にそっと触れる。
「今のことを考えろ」
 その左手ごと、肩に触れる。
「悲しませたくないなど言ってもな、俺は」
 なんだかもう色々面倒になって、睨みつけた。マオが怯えたような顔をする。もう知るか。ひとでなしなのにここまでよく頑張った方だと自分でも思う。怯えようが結構。優しい言葉なんてこれ以上かけられるか。むず痒くて仕方ない。
「今、マオに消えられたら、悲しいし、困るんだよ! いつまでも甘えないでくれよ、困るんだよ、ひとでなしなんだから!」
 マオの目が大きく見開かれる。
 それを容赦なく見つめ返した。というか、睨み返した。
 マオはしばらく黙っていたが、ふいに唇を重ねてきた。咄嗟のことに目を閉じるのが遅れた。
 触れていた部分に熱があらわれる。
「いただきますぐらい言えよ」
 唇を離したマオにそう毒づいた。
 マオは一瞬、不満そうに唇を尖らせたあと、
「ごちそうさまでした」
 肉声をふるわせて、そう答えた。
 実体化した彼女の右手はやっぱりなくて、白い肩が痛々しかった。
「……痛みは?」
「平気」
 マオは少し微笑み頷いた。それから、
「……ねえ、隆二」
「ん?」
「さっきの、引っ越しの話。あたし、住みたい場所があるの」
 提示された場所はとっても意外な場所だった。

 

 

 とりあえず着替えて来い、とマオを隣の部屋に連れて行くと、次に玄関の扉をあけた。
「……あ、お話終わりました?」
 扉の横に寄りかかるようにして立ち。ケータイをいじっていたエミリに頷きかける。
「悪かったな」
「いえ」
 エミリは再び部屋の中に入りながら、
「どんな恥ずかしい言葉で、マオさんを説得されたんです?」
 悪戯っぽく笑った。
 見抜かれている。
「ほっとけ」
 苦々しく言葉を返した。
 またダイニングに戻ってくると、部屋着に着替えたマオも部屋から出て来た。首元にはしっかりとペンダントがついていて、それに少し微笑む。
「マオさん」
 エミリが立ち上がると、マオの目の前に立った。
「ごめんなさい」
 そこで頭を下げる。
「エミリさん?」
 マオが驚いたように声をかける。
「一条のこと知らなくって。研究所のことなのに、何も知らなくって。心霊写真のことも、知ってたら送らなかったのに。ごめんなさい」
 早口の謝罪に驚いたのは、隆二も一緒だった。エミリが気に病んでいたのはわかっていたが、まさかここまでとは。ずっと、この半月、どこで謝ろうか考えていたのだろう。
「え、待って。エミリさんが悪いんじゃないよっ」
「でもっ」
「エミリさんが助けてくれたの、知ってるもん。ありがとう」
「マオさん……」
 二人ともなんだか声が泣きそうになっている。おいおい大丈夫だろうな、と思っていると、
「本当、最悪の前に間に合って良かったです」
「うん、ありがとうっ」
 何故か二人して抱き合って号泣。
 なんでこうなった?
 感情の波に一人置いて行かれた隆二は、間抜けな顔をして、わんわん泣く少女達を見る。
 それにしても、緑の髪と赤い服。クリスマスみたいなやつらだなーと、どこまでもひとでなしなことを思った。

「……あー、そろそろいいか?」
 二人が思う存分泣き、落ち着いたところでそう声をかけた。
「はい、すみません」
 ハンカチで目元を拭きながら、エミリが頷く。マオはティッシュを探して彷徨いはじめた。
「あー、その引っ越しの件だが」
 置いてあったティッシュの箱をマオに渡しながら、本題を切り出す。
「決まりました? 場所」
「ああ。マオの希望で」
 その場所を告げると、エミリが驚いたような顔をした。
「いいか?」
「こちらは構いませんが……、神山さんはそれでいいんですか?」
 いいか悪いかで言われたら、正直微妙だけど、
「どこでもいいって言ったの俺だしなー」
 そう呟くと、マオがふふっと楽しそうに笑った。僅かなものではあるが久しぶりの笑みに、心の底で安堵する。
「わかりました」
 エミリも小さく微笑むと、
「それじゃあ、準備できたらご連絡しますね」


 その準備の連絡は意外とはやく、一週間後には、いつでも引っ越せますよ、などと言われた。それならば、マオが実体化しているうちに引っ越してしまおう、と連絡を受けた二日後には、新天地に向かっていた。
 どうせ荷物なんて、たいしてないし、面倒な手続は研究所任せだし。
 電車を乗り継ぎ、目的地につく。切符の購入も乗り継ぎの案内も、全部エミリに頼んだが。
 人の少ない駅で降り立つと、ちらほらと視線が向けられた。
「やっぱり目立つのかな」
 向けられる視線に、マオは右手を隆二にくっつけて隠そうとする。必然的に腕を組んだような形になって逆に目立つような気もした。
 研究班の寄越した義手をつけているから、ぱっと見はよくわからない。それでも、右手のことは気になるらしい。こればっかりは、慣れてもらうしかないな、と思っている。
「そんなことありません。うちの研究所はバカばかりですが、その腕は優秀ですから。わたしたちが可愛いのに神山さんがむっつりしてるからですよ」
 そういって微笑むエミリ。お前の服が真っ赤だから目立っているんだよ、と思うのはどうやら隆二だけらしい。
 とはいえ、赤は赤だが、エミリの服はいつもと違っていた。
 今までのエミリは、いつも同じような、赤いジャケットに、かろうじてオレンジ色っぽいスカート。赤いブーツ、赤いベレー帽と全身赤コーデだった。
 今日は白いブラウスに赤いカーディガン、赤いチェックのスカートで、靴は黒のパンプスだ。帽子も被っていない。
 赤は赤だが、いつもと違う。控えめだ。
 その理由を考えながらエミリを見ていると、
「なにか?」
 視線に気づいたエミリに、不思議そうな顔をされた。
「いや、別に?」
「そうですか」
 駅から先は隆二を先頭に歩いて行く。
 ところどころ、見慣れた景色がある。自然に、歩く速度がはやくなっていく。
「隆二、はやい」
 マオの抗議の声に、慌てて歩く速度を落とした。
 でも、もうすぐそこだ。
 その角を曲がれば……。
 角を曲がって、その場所を見た時、一瞬息を呑んだ。
 そこは昔と何もかわっていなかった。
 近代化にのりおくれたようにぽつんと家が立っていた。寂しげに。
 もうずっと来ていなかった場所。一条茜と過ごした場所。そして、これから住む場所。
「……ただいま」
 崩れかけた門扉を撫でながら小さく呟いた。
 感傷に浸る隆二の横を、すすっとマオが通り抜ける。
「へー、ここに住んでたんだ」
 言いながらマオが家に向かう。
「マオさん、鍵あけますね」
 それをエミリが慌てたように追う。
 まさかまた、ここに住むようになるとは思わなかった。未だ一条の持ち物だったらしいが、持て余していてすぐに購入できたらしい。一条稔が親戚筋だったことも関係しているらしい。ありがたくもない話だが。
「隆二ぃ、はやくぅー」
 家の方からはしゃいだマオの声がする。それに苦笑しながら返事をした。
「今行くー」
 部屋の中は、一通り掃除と修繕がしてあるようだった。
 ゆっくりと辺りを見回し、茜との日々を思い出そうと、
「お風呂が変!」
「ああ、五右衛門風呂だから」
「あ、知ってる! テレビで見た! 釜ゆでにされるのね」
「ああ、まあ……」
「ねぇねぇ、あれはー!」
 思い出そうとしたけれども、出来なかった。はしゃいだマオの声が色々と話かけてくる。
 それに答えながら、まあいいか、とも思った。今後一緒に住むのはマオだ。茜じゃない。茜のことを今、無理に思い出さなくても。
 大事なのは、今とこれからだから。

 

 

 一通り家の中を見たあと、居間に向かう。
 家具や食器類は予め運び込まれているので、コーヒーぐらいならば直ぐに飲むことができた。
 隆二が人数分のコーヒーを、運び込まれたダイニングテーブルの上に置いた。
 エミリはそれを受け取ると、自分の向かいでなにやら楽しそうに話す、隆二とマオを見る。
 そろそろ、あの話をしよう。
 きっと、隆二はなんらかのことを察しているだろうけれども。
「……あの」
 二人の会話が途切れたところを見計らって声をかける。
「お話が、あるんですけど」
「エミリさん、どうしたの?」
 一つ深呼吸してから、
「……わたし、研究所をやめることにしました」
「ええ!?」
 エミリの言葉に、マオは驚いたように声をあげたが、隆二は少し眉を動かしただけだった。やはりそれなりに察していたか。
「え、あれ、もしかして、あたしのせい? あたしのこと助けたから?」
 慌てたようにマオが言うが、
「いえ、自分で決めたことです」
 それはしっかり否定した。
 確かに直接のきっかけは、マオ達の側についたことだ。だけれども、マオ達の側につくことを選んだのは自分自身だ。研究所とはかりにかけて、マオ達を選んだ。
「正直、自分の人生において研究所よりも大きな存在ができるとは思っていませんでした」
 それぐらい、研究所の存在はエミリにとって大きいものだったから。
「でもだったら、辞めてもわたしはきっと平気だな、と思ったんです」
 研究所を辞めたら何もなくなってしまうと、昔は思っていた。今は違う。何もないかもしれないけれども、それは何かを掴めるということなのだと、知っている。
 辞める前に最後の我が侭だ、と今回の引っ越しのことなど全てをねじ込んだ。あれが自分の最後の仕事だ。最後にこの二人の役に立てたのならば、言うことはない。
「……おっちゃんは?」
「父は好きにしろと言っていましたから」
「ふーん、ならいいか」
 隆二は興味なさそうな顔をして、呟いた。
「……だから今日、ちょっと地味な格好なんだな」
 そのまま呟かれた言葉に苦笑する。見ていないようで、この人は意外とよく見ている。
「ええ、まあ。あれはなんとなく、制服みたいなものだったので」
 真っ赤な格好は研究所の人間として働くときの、制服のようなものだった。私服ではあるものの。戦闘服と言い換えてもいい。あれを着ると身が引き締まる気がしていた。
 今となっては、もうあれを着ることもないのだろう。そう思う。
「え、でも、辞めてどうするの?」
「イギリスに行きます」
 マオの言葉に小さく微笑み返す。
「わたし、高校も行ってませんし、どうしようかと思っていたんですけど、祖父の友人がこちらで勉強しないか、と言ってくれたんです。数年、向こうで勉強しようと思っています。自分がなにをやりたいか、を」
 それから小さく息を吸い込み、一番大切なことを告げた。
「ですから、しばらくお会い出来ません」
 エミリの言葉を聞き終わると、マオが横の隆二に訊いた。いつもわからないことを訊くのと同じ口調で。とても軽く。
「イギリスって遠いの?」
「遠いだろ。海越えるし」
「へー、いいな。あたしも行きたい!」
「パスポートないだろお前」
「実体化してない時にいけばいいじゃん」
「俺が無理。あんな鉄のかたまりが空飛ぶ何てありえない、絶対乗ったら落ちる」
「隆二おじいちゃんだもんねー」
 そうやって、ぽんぽんといつもとおりの会話をしていく。それなりに意を決しての発言だったのにいつもの会話を。
 そんな二人の会話に圧倒されて、エミリはぽかんっと間抜けな顔をした。
 そんなエミリのことは気にせず、
「まあ、帰って来たらまた遊びにきてね」
「どうせ俺たち暇してるから。いつでもいいからさ」
 二人は微笑んだ。
 それになんだか、きゅっと心臓が痛くなる。視界が歪む。
「……エミリさん?」
 マオの心配そうな声に慌てて深呼吸をすると、微笑んだ。
「ありがとうございます」
 もう二度と、会わないぐらいの心づもりだった。そちらの方が、彼らの負担にならないと思ったのだ。
 だけれども、来ていいと言ってくれるのならば、自分はまた彼らに会いたい。そして、彼らが社交辞令を言うなんて、そんなことが出来る人じゃないことをエミリはよく知っている。本心から、来ていいと思ってくれている。
 それは、とても、嬉しい。
「絶対にまた来ます」
 力強く言い切った。


 事務的な話を終えて、エミリを駅まで見送った。
 帰り道、のんびりと手を繋いで帰る。マオの左手と繋いだ隆二の右手には、あのブレスレットが巻かれていた。
「ところでさ」
 隆二は歩きながら、隣のマオに話かける。
「んー?」
「お前、なんであそこに住みたいって言ったわけ?」
「え、今?」
 驚いたようにマオが目を見開く。まあ、タイミング逃して、訊くのが遅くなってしまったことは否めないが。
 マオは、隆二らしいね、と小さく笑うと、
「隆二が住んでいたところに住んでみたかったんだよー」
 と、なんでもないように続けた。
「この前来たときはすぐ帰っちゃったし。じっくり見てみたかったの。隆二が住んでいたところ。隆二が見てたものとかも」
 そこまで言ってから、ちょっと困ったような顔をして、
「もしかして、嫌だった?」
 こちらの顔色を伺ってくる。
「……や、別に?」
 嫌ではないのだ。ただ、なんとなく微妙なだけで。現在と過去が交差する感じが、うまく言えないけれども、不思議な気分になるだけで。
「嫌ではないよ」
「そっか」
 よかった、とマオが笑う。
 さっきからよく笑っているな、とその顔を見て思う。楽しそうに笑っているのならば、まあ引っ越しも悪くなかった。
 角を曲がり、自宅が見えてくる。
 門のところで、一度マオが立ち止まった。つられて一緒に立ち止まる。
 マオは家全体を見回すと、
「ねぇ、隆二、ここは、あたしたちの家よね?」
 隆二の顔を見て首を傾げた。
「ん? ああ」
 なに当たり前のこと訊いているんだか。
「ふふーン! これでも居候なんて言わせないんだからねっ!」
 するとマオは、何故だかやたらと勝ち誇った声でそう言った。
「は?」
 予想外の展開にあっけにとられる。
「隆二の家に居たら居候だけど、隆二とあたしの家なら同居人でしょう?」
 そう言って楽しそうに笑うと、隆二の手から鍵を奪いとって、さっさと玄関の鍵をあける。
 居候? ああ、なんだ、そんなこと気にしていたのか。
 そう言えば、確かにいつまでも居候猫だと言っていたけれども、それは便宜上そう呼んでいただけで、隆二の中ではとっくの昔に居候から同居人ぐらいには格上げされていたのに。
 言ってくれればよかったのに。そんなに気にしているのならば、言ってくれればよかったのに。
 そう思いながら、同居猫の後ろ姿を見ていると、
「あ、あとさ」
 玄関を入ってすぐのところでマオが振り返った。
「ん?」
「あたし、決めたから」
「何を?」
「覚悟を」
 言ってマオは、悠然と微笑む。
 予想だにしない言葉に、思わず息を呑んだ。覚悟を、決めた? 何の?
「もしも死んでも、また幽霊になるから。絶対になるから。そう決めたの。元々幽霊なんだもの、またなるのなんて、簡単だよね、きっと。未練があればなるっていうし、未練たらたらだし? 猫に九生あり、って君子で言ってたしね!」
 なんだか悪戯っぽく笑って、歌うように続ける。
「隆二が泣いて喚いたって、一人になんかしないから」
 くすくすと笑うと、あっけにとられる隆二を残し、くるっとターンして家の中に入って行く。
 幽霊になる? 何を言っているんだ、こいつは。そんなこと、出来ると思っているのだろうか。
 でもそうか。幽霊になったら、また元に戻るだけなのか。それがもしも、可能ならば、それもありなのかもしれない。
 相変わらず想定の斜め上をいく。想定外の存在だ。想定外の存在だから、もしかしたら本当に幽霊になって、またまとわりついてくるのかもしれない。それならば、それでいいかもしれない。
 見ていて飽きない、と茜に言った。あれはやっぱりそのとおりだ。一緒にいて飽きない、退屈しない。いささか振り回されてはいるけれども。
 この同居人が何を考えているのか、まだまだわからないことだらけだ。
 まあ、ゆっくり知っていけばいいさ。時間はまだまだあるのだから。
 とりあえず今は。
「さって、テレビ見ようっと!」
 マオが、既に運び込まれていた赤いソファーにぽんっと飛び乗る。今までと同じように。
「マオ」
 そこに声をかけた。
「ん?」
「ただいま」
 言ってみる。ここは二人の家なのだから。
 マオは驚いたように目を見開き、
「おかえりなさい、隆二」
 ぱっと花が咲くように、笑った。