目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
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居候と猫の飼い主

第一幕 居候猫と新たなる居候の現状

 てれっててーと軽快なメロディが部屋に流れる。テレビ画面に流れるスタッフロール。
『はー、今日も君子かっこよかったぁ』
 興奮のあまり浮かし気味になっていた腰をすとん、っとおろしながらマオが呟いた。
 ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、隆二はそれを見ていた。
 三十分間のマオのお楽しみタイム、七転びヤオ君子が終わり、
『高嶋くんが、君子の正体に気づきそうになったときは、ドキドキしたわ』
「正体バレるとガチョウになっちゃうもんね」
『そうそう。本当、よかったー。っていうか、高嶋くんのことで君子を脅すなんて本当サイテー! 人の一番痛いところ、弱みに付け込むなんて!』
「悪いよねー」
『でも、高嶋くんと君子の関係はいつ進むのかなぁ』
「んーどうだろうね」
『君子は地球を守ることで忙しいから、恋愛どころじゃないんでしょうね。……でも、どうして君子がいる地域しか襲われないのかな』
「不思議だねー」
『君子がいない場所を狙えば一発なのに。なんていうか、あかさかよね』
「あさはかだね」
『んー、それにしても、君子ってあと何話分ぐらいあるだろう。富子短かったし』
「富子は半分の二十五話しかないからね。でも君子はその分長いから、七十話分ぐらいあるんじゃない?」
『じゃあ、まだまだあるのね!』
「基本、月曜から木曜の週四での再放送だからあと……、ごめん、計算できないけど、まだまだ終わらないよ」
『よかった! 君子まで終わったら寂しいもの』
 マオと京介が今日の君子の感想を言い合う。主にマオの発言に、京介が微笑みながら相槌をうつ。隆二は黙ってそれを見ていた。会話の節々につっこみたい部分が多々あったが、さすがに野暮なのときりがないので自重する。
「っと、こんな時間か。夕飯の買い出し行ってくるねー」
『今日のご飯はー?』
 時計を見て立ち上がった京介に、自分は食べないくせにマオが問う。
「今日は、サクサク衣のジャガイモ揚げ、トマトを添えて、だよ」
 大げさに言っているが、それ、コロッケとかだろ。そう思いながら、隆二は出て行く京介を見送る。
『隆二?』
 テレビも終わり、京介もいなくなり、暇になったマオが隆二の方へ向かってくる。そうして、隆二の顔を覗き込みながら、
『難しい顔してどうしたの?』
 こーんな顔だよ、とぐぐっと眉間に皺を寄せた。
『あ、もしかして、ヤマトいやなの?』
 ひらめいた、とでも言いたげな顔をするマオに、
「トマトな」
 冷静につっこんだ。それ、食い物じゃないだろ。
 京介が神山家に居着いて、数ヶ月が経過していた。七転八倒富子が終わり、七転びヤオ君子がはじまってもまだ、京介はこの家に居た。再放送のあと、マオと楽しそうに今日の君子談義をするのも、いつものことになっていた。別にそれ事態が不満なわけではない。ただ、
「あいつ、何しに来たんだか……」
 気味が悪いのだ。自分で全部お金を払いながら、家政夫のようなことをする。一体、京介になんのメリットがあるというのだ。
『隆二に会いにきたんでしょ?』
「会いに来てこんだけ長い間、ここに居る意味ってあるか? そもそも、なんで会いに来たのかもよくわからんし」
『訊けばいいじゃん』
「訊いてあいつがちゃんと答えると思うか?」
『ううん』
 さすがのマオもそこまで楽天的ではなかったようだ。首を横に振る。
『んー』
 マオはしばらく悩んでから、ぽんっと両手を打ち合わせ、
『あたし、探って来てあげる! スパイ大作戦! テレビで見た!』
 嬉しそうに言うと、隆二の返事もまたずに、すぃっと壁を抜けて行った。
「……大丈夫だろうな?」
 マオが消えた壁を見ながら、隆二は小さく呟いた。
 心配しか残らない。

 

『きょーすけさーん』
 背中に声をかけられた声に、京介は振り返ると小さく笑った。
「マオちゃん、どうしたの」
『お買い物、一緒にいい?』
「いいよ」
 マオは京介の隣をふよふよと浮きながら、その横顔をちらちらと見る。その視線に、
「どうかしたの?」
 問いかけると、マオは慌てたように視線を逸らし、
『べ、別に!』
 と、あからさまになにかありそうな返答をした。
 しばらくその状態が続いていたが、マオは、
『あのね!』
 意を決したように尋ねた。
『京介さん、何しに隆二の家来たの?』
 放たれたのは、まぎれもないストレートだった。
 京介は少しきょとんとマオを見つめてから小さく唇の端をあげる。
「隆二に聞いて来いって言われたの?」
『ええっ、ち、違うよっ』
 マオは慌てて両手をばたばたさせながら、
『あたし! あたしが気になったからっ』
 早口で告げる。
 嘘のつけない彼女の挙動に、京介は一度笑うと、
「俺はね」
 表情を引き締めて、告げた。
「約束を破るために来たんだ」
『ん? よくわかんないけど、約束は守らなくちゃだめよ?』
「まあそうだね」
 真顔で諭された言葉に苦笑する。そんなことは、わかっている。
『それで、約束ってなぁに?』
「それはいくらマオちゃんにでも教えられないな」
『えー』
 マオが頬を膨らませる。
「そうだなぁ、それだけで帰すのも悪いかな。マオちゃん、隆二に怒られちゃうもんね」
『そうだよ! この役立たずって隆二に』
 そこまで言ってマオは、はっと何かに気づいたかのように口を両手で押さえ、
『隆二は関係ないんだけどねっ!』
 強い口調で言い切った。
「うん、そうだね。ごめんごめん」
 あんまりいじめるのも可哀想になってそうフォローすると、マオが途端に安心したような顔をした。
『そうそう、隆二は関係ないの』
「隆二が関係ないのはいいんだけど」
 少しぐらいなら、何かを教えてあげてもいいだろう。隆二が京介の行動を訝しんでいるのは重々承知しているのだから、ヒントぐらいは出してあげよう。
「そうだな、これは言っておこうかな。俺はね、隆二が心配なわけ」
『心配?』
「そう、あとの二人のことは心配してないんだ」
『あとの二人?』
「仲間の。あの二人は不死者であることを受け入れているから。英輔は死なないってことは甘いもの食べ放題じゃん! とか言ってたし、颯太はなんか宇宙の研究を長いスパンで出来るとか張り切ってたし」
 マオは、甘いもの、宇宙、と言われた言葉を覚えるように小さな声で唱えている。だから、少し油断していた。
「……俺と、隆二だけなんだよ、受け入れられていないの」
 そんな言葉が思わず溢れ落ちた。
『俺と、隆二だけ……。ん?』
 京介の油断を嘲笑うかのように、マオはその言葉を聞き取り、なおかつその意味もしっかり理解した。
『……京介さんも受け入れられないの?』
 言いながら顔を覗き込むようなマオを、
「それよりマオちゃん、隆二ひとりだと寂しいから帰った方がいいんじゃないかな」
 笑いながら言うことで牽制した。
『え? 別に、隆二が寂しいなんて可愛いこと思うわけ……』
 言いかけたところで、はたと気づいたように、
『寂しいね、寂しいよね! 寂しいのはよくないよね! あたし、帰るね!』
 うんうんと何度も頷く。その顔には、はやく伝えなくちゃ、と書いてある。
『京介さん、お買い物付き合えなくてごめんね!』
「ううん、隆二によろしくね」
『うん、ちゃんと伝える。……じゃなくて、隆二は関係ないけどね!』
 などと言いながら急いで戻って行く背中を見送って、小さく微笑む。
 ああ、彼女は、なんて素直なんだろう。
 幽霊であるマオは他人には見えない。一人で空気と会話しているような京介に、周囲が微妙な視線を向けてくる。
 そんなもの、今更気にしない。今更そんなもの、どうでもいい。
「約束を破りに来たんだ」
 自分の言葉を反芻する。
 口にしてみれば、改めて胸に刺さった。ああ、そうだ、約束を破りに来たんだ。
「……ごめん」
 ズボンの後ろのポケットに手を伸ばし、そこに収まっているものを確認すると、小さく呟いた。

 

「約束を破るねぇ」
 マオから報告を聞いた隆二は小さく呟いた。約束を、破る?
『一応ね、約束は破っちゃだめよって教えてあげたけど』
 要らん世話だろ、それ。
『隆二、京介さんと何か約束したの?』
「いいや。俺、基本的に約束とかしないから。めんどうだから」
 契約ならたまにエミリ達と交わすが。それ以外に約束だなんて、せいぜい茜とした約束ぐらいではないだろうか。
 そんなことを思いながらマオを見ると、
「……待て、お前なにそんなににやけてる?」
 だらしなく相好を崩したマオがそこには居た。やや気味が悪い。
『え、だって、隆二あたしとは約束してくれたじゃない? それって、特別ってことでしょう?』
 当たり前のように、弾んだ声でマオが答える。ふふ、っと嬉しそうに笑う。
 ああそうか、一緒に学んでいこうというあれは、考えてみれば約束だった。
「……そうだな」
 隆二は小さく微笑むと頷いた。
 考えてみないとわかんないのかよ、とつっこむような人間はここには居ない。
『あ、あとね』
 思い出した、とマオは両手を叩き、
『京介さんは隆二が心配なんだって』
「は?」
 心配?
『えっとね、京介さんと隆二だけが、不死者になったことを受け入れられていないから、だっけな』
「いや、別に今更、受け入れられていないわけじゃ……っていうか、あいつも?」
『うん、京介さんも、って言ってた。あ! なんかはぐらかされた! 聞いたのに』
 膨れるマオ。
 それにしても、ここまで聞き出して来るとは思わなかった。適当に京介にあしらわれて終わりだろうと思っていた。
 ということは、京介はこのことを隆二に伝えてもいいと思っているということか。マオに、相手が話す気がないのに聞き出してくる能力があるとも思えないし。
「それで?」
『ん、えっとね。えーすけさん? は、死なないってことば甘いもの食べ放題! って言ってて、そーたさん? は宇宙の研究が出来るとか言ってたって』
「……何をしているんだ、あの二人は」
 うんざりして溜息。ああ、でも目に浮かぶ。
 甘いものを愛し過ぎている甘党の英輔は、甘い物さえあれば満足なのだろう。それはそれで、幸せなことだと思う。
 最年長で一番賢い颯太が、この永遠の時間を使って何かの研究をするということも、考えられないこともない。
 それに比べて自分はどうだ。毎日毎日だらだらとテレビをつけて、本を読んで、コーヒーを飲んで、居候猫をからかって遊んで。非生産的な生き方だ。
 確かに、その二人に比べたら、心配されても仕方がない。
「……なるほどねぇ」
 小さく呟く。
 なんとなく、あの二人のあとに自分のところに来た理由は納得できた。心配の種は最後にじっくりと、ということだろう。
 特に、仲間内で唯一、茜に会ったことがあるのが京介だ。茜が亡くなってから、京介がそのことを気にかけてくれていたのはわかっている。この前の墓参りの一件だって、あいつの差し金の部分が大きい。さぞかし心配かけていたことだろう。
 でも、茜の一件が解決してもなお、京介がここに居座る理由はなんだ?
「わけわからんな」
 結局、謎は何も解決していない。そのとこに溜息をつく。溜息をつきながらも、
「まあでも、マオ、ありがとな」
 思ったよりも上手く諜報の役割をしてきた居候猫の頭を撫でた。
 マオは心底嬉しそうに微笑んだ。


間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる

「私と恋仲になって、そして心中して」
 初対面で、彼女は、こともあろうかそう言った。
 正直、バカなんだと思った。
 ただ、その時の彼は、疲れ切っていた。住む場所も、仕事も、人間として暮らしていく肩書きも、全て失い、疲れ切っていた。
 だから,とりあえず彼女の話に乗ることにした。彼女の家で、衣食住の提供を受ける代わりに、家政夫のようなことをして過ごした。
 深入りするつもりはなかった。
 深入りしてはいけないと思っていた。
 それで失敗した友人を見ていたから。
 そもそも、今までも、まったく人とかかわらずにきたわけではなかった。それなりに人間社会に溶け込むようにして過ごして来た。恋人的なポジションで、付き合ってきた女性だっていなかったわけではない。
 ただ、本気になるのはどこかでおさえていただけで。
 そして、大体の場合は相手の方から別れを切り出して来た。本音が見えないとか、何か隠しているんじゃないのとか、そんな理由で。
 言えるわけがない。化け物だなんて。そんなことわかっていたから、彼だって割り切ってそこで別れてきた。最初から、割り切った付き合いだった。少なくとも彼にとっては。

 でも、今回は違った。殆ど自分の身の上は話していないのに、彼女はそのことを追及してこなかった。その場所に居る彼だけをありのままに受け入れた。
 子どもの戯れのように、
「キョースケは優しいね」
 と微笑み、
「だから大好き」
 とはしゃいだ声をあげる。もっとも、そのすぐあとに、
「だから心中して」
 なんて続けていたけれども。
 最初は、死にたがる彼女が放っておけないだけだった。だからずっと見ていた。
 そして、その過程で知ってしまった。ありのままの自分を肯定されることが、過去を追及されないことが、心地よいことなのを。
 深入りするつもりはなかった。
 深入りしてはいけないと思っていた。
 それで失敗した友人を見ていたから。
 なのに、何故だろうか。
 気づいた時には抜けられなくなっていた。深みにはまっていた。
 人間を愛してしまった。
 人間になりたい、と思ってしまった。
 そんなこと、できるわけないのに。ずっと一緒にいるなんてそんなこと、できるわけないのに。

 このまま一緒に居てはお互い駄目になる。そう思って、その場所から去ることを決意した。
 彼があの家から出る時、彼女は言った。
「絶対に帰って来てね」
 帰るつもりはなかった。帰れなかった。そんなこと、できるわけなかった。
 だから、旧友を尋ねることにした。彼ならどうにかしてくれるだろう。
 リュウジ、の名前を持つ彼ならば。
 同じ約束を受けた彼ならば。


第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない

『ころんでもぉー、またたちあがるぅー、そうよぉーわたしはぁぁぁ、ななころび、ヤオ! きみこぉぉぉ』
「……なんだその歌は」
 気持ち良さそうに歌うマオに、隆二は思わずつっこんだ。
 ソファーに座り本を読む隆二の膝の上に、寝転んだマオが両手で頬杖をついている。マオが来て最初のころは膝にのると邪魔だのなんだの言っていたが、言って聞かせても無駄なので最近は黙認している。
 仲がいいよねぇとかからかってくる京介も、今はどこかに出かけているし。
『ん? 君子の主題歌だよ』
 顔をあげたマオが、知らないのぉ? 不思議そうな顔をする。
「いや、それは薄々わかってたんだが」
 七転びヤオ君子とか言ってたしな。訊きたいのはそういうことではなくてだな。
『隆二も一緒に歌う? 教えてあげるよ?』
「いや、遠慮しておく」
『そう? 楽しいのに』
 などと言いながらも、マオはまた歌に戻る。
 今日も今日とて、神山家の日常はどこまでも怠惰で非生産的であった。
 京介がここに来た目的も、未だにわからないままだが、面倒なのであれから追及はしていない。今だって、「ちょっと出かける」と行き先も告げずにいなくなって、数時間経っているが、どこで何をしているかさっぱりわからない。だからといって、訊くつもりもない。どうせ答えないだろうし、面倒だし。
 神山隆二の性根は、とことん怠惰であった。
 マオのリサイタルはしばらく続き、隆二もしばらくそれをBGMに本を読んでいたが、
「コーヒー飲みたい」
 ぼそりと呟いた。思いついたら、今すぐにでもあの茶色の液体を摂取したい気分になった。彼はどこまでも思いつきだけで生きている。
 そうと決まれば、
「マオ、どけ」
 膝の上の、立ち上がるのに邪魔な居候猫をどかさなければ。
『えー』
 歌を邪魔されたマオが不満そうな顔をする。
「いいから」
『はーい』
 それでも素直に、ごろごろと寝返りをうつ要領でソファーから離れる。ソファーから三歩程離れた宙で、仰向けに浮かんでいる。
「どーも」
 一応礼を言ってから、台所に向かう。薬缶に水を入れ、火にかけ、インスタントコーヒーの瓶をあけ、
「……あ」
 そこに何もないことを確認し、固まった。
『どうしたの?』
「コーヒー切れてた」
『ありゃりゃ、残念』
「買いに行って来る」
 テーブルの上に放り出していた財布を掴む。
『京介さん、帰って来てないけどいいの? 隆二お出かけしちゃったら、京介さん入れないじゃん』
 未だに合鍵を作っておらず、隆二が出かけてしまえば鍵を持たない京介は部屋に入れない。そして、盗られて困るようなものはないとはいえ、京介のために留守宅の鍵を開けっ放しにしておくつもりなんて隆二には無かった。
「どこに行ってるんだか知らないが、あいつが遅いのが悪い。コンビニだし」
『じゃあ、あたしも行く!』
 上半身を起こしたマオに、
「お前は留守番」
 冷たく返した。
『えー』
「京介が帰って来たら待つように言っといて」
『コンビニでしょう? 近いでしょう? 大丈夫だよぉ、京介さんだって鍵開いてなかったら待ってるよぉー』
「何も言わないで出かけたら、いくらなんでも、あいつうるさいだろ」
 この数ヶ月でどれだけの小言を聞いたことか。うんざりとため息をつく。
 それからふくれっつらしたマオに、宥めるように微笑みかけた。
「すぐ帰って来るから。それで、京介戻って来たら、京介に留守番させて散歩でも行こう。お前、そろそろ食事摂った方がいいだろ?」
 マオはしばらく膨れっ面したまま隆二の顔を見ていたが、やがてしぶしぶ頷いた。
『約束ね?』
「ああ、約束する」
 隆二の言葉に、少しだけ口元を緩めてマオは頷き、
『じゃあ、待ってる。はやく帰って来てね』
「ああ」
 マオのためにテレビをつけてやると、隆二はコンビニに向かう。
『約束ね』
 マオはがちゃりと閉まるドアに向かって小さく呟いた。
 その口から、ふふっと笑みが溢れる。
『約束ね、約束』
 基本的に約束をしないという隆二との約束。小さな約束だけれども、これはやっぱり特別だということだろう。
 すっかり機嫌を良くして、鼻歌なんて歌いながらマオはテレビに向き直った。

 

 思ったよりも遅くなってしまった。
 京介は足早に、隆二の家に向かう。
 あまり遅くなると、何を言われるかわからない。怪しまれるかもしれない。
「この前、マオちゃんに探りいれられちゃったしなぁ」
 ぼやく。
 約束を破るためにここに来た。それは嘘じゃない。けれども、それを実行に移す決心がなかなかつかず、長いことかかってしまった。本当は、こんなに長いこと、ここにいるつもりはなかったのに。
 流されやすくて情にもろくて、日和見主義なのは昔からだ。平和な生活は心地よくて、ずるずるとこのままでいいかと思ってしまう。それで失敗したというのに。
 でもそれも、今日で終わりだ。
 ソレを入れたトートバッグを、ぐっと握る。
 ここまできたら引き返せない。実行に移すならすぐに。はやくしないと止められてしまうかもしれない。
 覚悟なんてあの場所で決めてきた。もう迷わない。
 それでも隆二の家まで戻り、そのドアを開けようとしたときには手が震えた。
 一つ深呼吸。
 落ち着こう。動揺しているところを見せちゃいけない。
「よしっ」
 平常心を取り戻し、いつものような笑顔を浮かべて、ドアノブをひっぱり、
「あれ?」
 ドアは開かなかった。
 合鍵なんてものを持っていないから、隆二か京介、どちらかが必ず家にいて、家にいるときは鍵を開けっ放しにしていることが多いのに。
 仕方なしにチャイムに指を伸ばす。そこから、腹立ち紛れに連打した。
 せっかく覚悟を決めたのに、なんというか、出鼻をくじかれた気分だ。なんでこう、いちいち人の神経を逆撫でするようなことするかね、あいつは。
 返事はない。テレビの音はするから、いるとは思うんだが、居留守か。
『京介さん』
 そう思っていると、ひょいっとマオがドアから顔を生やした。
「マオちゃん」
『ごめんね、隆二、今お出かけしてるの』
 本当にすまなさそうな顔をマオはする。
『コンビニだからすぐ帰ってくると思うんだけど』
「あーそう。そっか」
 コンビニ行くのに律儀に鍵かけていくなよ。どうせ盗まれるようなもの持ってないくせに。
 仕方ない、帰って来るまで待つか、とドアに背を預ける。
『ごめんねー』
「マオちゃんが悪いんじゃないよ」
 そう言って微笑みかけ、
「あ、そっか」
 気づいてしまった。
 何もここで隆二を待つ必要はないじゃないか。隆二が居ない、それは好都合じゃないか。
『京介さん?』
 不思議そうなマオの声。
 握った鞄。
 今ここで、実行に移そう。それが一番、賢いやり方だ。
「マオちゃん」
 上半身だけドアから生やした、マオの手を掴む。
『……京介さん?』
 訝しげなマオの声。
 怯えさせてしまうことは本意ではない。それでも、どこか顔が強張ってしまう。
「ちょっと付き合って欲しいんだけど。外行こう?」
『えっと。でも、あたし、お留守番してないと。隆二と約束したから』
 マオが困ったような顔をする。本能的に何かを感じとったのか。軽く身を引き、京介から距離をとろうとするのを、
「なんで俺がここに来たのか、説明するよ」
 ずるい言葉で引き止めた。
「俺がここに来た理由、隆二知りたがってるんじゃない?」
 これじゃあまるで、君子に出てくる悪人だ。マオにとって一番魅力的に聞こえる言葉で誘惑する。
「教えたら、隆二が褒めてくれるかもよ?」
 マオは少し躊躇ったあと、
『ちょっとなら、いいよ』
 頷いた。

 

 コンビニの袋片手に、足早に隆二は家を目指していた。
 まさか家から一番近いコンビニが改装工事中だとは思わなかった。そして、足を伸ばして遠いコンビニまで行ったら、久しぶりにあのオカルトマニアの店員に会うし。
 話なげえよ。あんたが新しく買った吸血鬼小説が面白かった話なんかどうでもいいんだよ。っていうか、オカルトマニアだとしてもなんか、どっかずれてるんだよ。なんで本物の吸血鬼、と思っている人間相手に吸血鬼小説の話をつらつらとできるんだよ。もっと他に話すことあるだろ。
 などと、脳内で怒濤のツッコミを繰り広げていると、
「神山さん!」
 背後から声をかけられて振り返る。予想どおりの赤い色にうんざりする。道ばたで話しかけるな、赤くて恥ずかしいから。
「よかった、今からお宅に伺うところで」
「何? 嬢ちゃんってば、またなんか逃がしたの?」
 からかうように言っても、意外なことにエミリは抗議の言葉を述べなかった。お決まりの名前の訂正もない。
「神野さん、まだ、いらっしゃいます?」
 慌てたように放たれた言葉に、少し面喰らう。
「あー、帰ってるかな? でかけてたけど。何、京介に用?」
 エミリは一度息を整え、その青い瞳でじっと隆二の顔を見つめる。
「落ち着いて聞いてください」
「なに?」
 何を言い出すのか。少し身構えると、エミリは慎重に言葉を発した。
「エクスカリバーが盗まれました。恐らく、神野さんの仕業です」
 その言葉の意味を認識するまで、少しの時間を要した。
 エクスカリバーが盗まれた?
 理解すると同時に、振り向き、家に向かって駆け出した。
「神山さんっ」
 エミリが叫び、後をついてくる気配がする。
 エクスカリバーは実験体の抹消に使われていた武器の通称だ。
 実験体、つまり、隆二や京介や、マオを。
「昼間に! 研究所にいらっしゃって!」
 背後からエミリの声がする。少しだけ速度を緩めて、その言葉に耳を貸した。
「京介がか?」
「はいっ。それで、様子が変で。うまく、言えないんですけど。帰られたあと、保管室の人間が倒れているのを発見して、それで」
「中を見たらなかったってことか」
「はい」
 息を切らしながらエミリが頷く。
「……なにに使うつもりだと思う?」
「わかりません。わかりませんけれども、でも」
 エミリがそこで言葉を切った。
「そうだよな」
 今ここらにいる実験体に該当するのは、隆二とマオだ。
「……マオにも、勿論?」
「効果があります。あるはず、です」
「先に行く」
 それだけ聞けば十分だった。それ以上は聞けなかった。
 エミリを残し、全速力で駆け抜ける。本気で走ったら周りの人間から不審がられる。そんなこと、今はどうだっていい。
 ぎしぎしとうるさいアパートの階段を三段飛ばしで駆け上がり、乱暴に鍵をあけ、
「マオっ!」
 叫びながら部屋に入る。
「マオっ」
 靴を脱ぐのがもどかしくて、そのままあがった。
 つけっぱなしのテレビから、能天気な音楽が流れる。
「マオ!」
 狭い家の中に、居候猫の姿は見えない。
 焦燥感が募る。
 隆二が遅いから勝手に出かけたのかもしれない。でも、帰って来たら出かける約束をしていた。マオがそれを待たずに出かけるわけがない。
 マオは自分と違う。約束はきっちりと守るタイプだ。
「っち」
 舌打ちすると、持っていたままだったコンビニ袋を腹立ち紛れに投げつける。
 外を探さないと。
 振り返り、ドアに向かったところで、
「神山さんっ」
 息を切らしながらエミリが現れた。邪魔だったのか、赤いベレー帽は片手に握られている。
「マオさんはっ」
「いない。京介も」
「……探すの、手伝いますっ」
「頼む」
 背に腹はかえられない。素直に頷くと、部屋から出る。ドアを後ろ手で閉める。
「神山さん」
 そこでエミリに袖をひっぱられた。
「なに?」
「これ」
 エミリが指差す先、ドアの新聞受けに、一枚の紙が挟まっていた。見覚えのないそれを、慌てて引き抜く。
 少し神経質そうな文字が踊っていた。
「隆二へ。ごめん、マオちゃんを預かりました。返して欲しかったら、夜九時、公園まで来てください。ごめん。追伸、ごめん、エクスカリバーもっています」
 そこに書かれていたのは、謝罪にまみれた誘拐犯からの手紙。
「あんの、馬鹿野郎っ」
 くしゃり、とメモを握りつぶした。


間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず

 彼は自分の同類だと思っていた。
 恋人に帰って来ることを要求され、その約束を果たせない。果たさない。
 自分達は同類だと思っていた。
 ここから先の永遠の時間、お互いに、その約束にとらわれ、縛り付けられ、生きていくのだと思った。思っていた。
 でも、違った。あの人は待っていた。約束どおり、待っていた。
 あの二人の絆は、決して切れていなかった。
 彼が化け物でも、逃げ出しても、帰ってこなくても、自身の命が消えても、あの人はそんなことじゃ揺らがなかった。それすらも受け止めて、待っていた。
 揺らいだのは自分の心だった。価値観だった。人と化け物との間に生まれた絆もちゃんとあるのだと、知ってしまった。
 そして彼には、新しい同居人。それなりに、うまくやっているようだった。新しい同居人は、あの人よりも強いから、彼がまた道を誤ることはないのだろう。彼が一人になることは、きっともうないのだろう。そう思えた。

 同類だと思っていた。自分と同じだと思っていた。
 でも違った。
 過去に縛られているのは、今や自分だけ。彼は、先に進んでいる。進もうとしている。
 そんな彼を見ていると思ってしまう。自分もうまく出来るんじゃないかと。自分だってあの場所に帰ったら、もう一度上手く、生活出来るんじゃないかと。期待してしまう。夢を見てしまう。
 でも、泣いていた彼女の顔がちらつく。
 戻れない。
 約束してしまった。帰って来たら一緒に死ぬと。でも、彼女には生きていて欲しい。
 それに自分は、彼とは違う。化け物であることを、打ち明けられない。今までも、これからも。
 だから、約束は守れない。
 だから、帰れない。
 だから。

 だから、頼む。リュウジ。


第三幕 There's more ways than one to kill a cat.

「マオちゃん、ごめんね」
『んーん』
 マオの散歩コースにもある公園に二人は居た。二人ともブランコに腰掛けている。マオはゆらゆらと、足を揺らしながら、
『京介さんの事情はわかったから』
 ぽつん、と呟いた。
「うん、だから」
 京介も、マオの方を見ないまま答えた。
「だから、ごめんね」
 あたりはすっかり暗くなっている。そろそろ、隆二との約束の時間だ。
「そろそろ隆二来るはずだから。ごめんね?」
『うん。それは、いいんだけど』
 マオは隣のブランコに座る京介を見る。
『一回だけ確認するね。京介さんは、本当にそれでいいの?』
「うん」
 マオの言葉に、素直に頷いた。
「他の選択肢は、もう考えられない」
『そっか』
 それじゃあしょうがないね、とマオは呟いた。
「呆れてる?」
『なんで?』
「こんな選択しか出来ないこと」
『全然』
 だって、とマオは微笑んだ。
『京介さんには、あたしがいないから仕方ないと思うの』
「……マオちゃんが?」
『時間の流れが一緒の存在が』
「……ああ」
 京介は小さく苦笑した。
『あたし、発生してから今日まで色々あって楽しくって、発生したときのことなんかとぉい昔のような気がする。けど、永遠は、まだまだ長いのでしょう? それを一人で生きろというのは、酷だと思うの』
「そうだね」
 とん、っと京介は軽く地面を蹴った。ブランコが揺れる。
「うん、そうだね。なんだかんだで俺が隆二に頼もうと決心出来たのは、隆二にはマオちゃんがついているってわかったからだしね」
 答えは決まっていた。でも、結果は一つでも、それを成し遂げる方法はいくつかあって、その中で今回のことが最善だと結論付けた。それは、マオの存在が大きい。
「あいつはもう一人じゃないから。それなら、多少、面倒ごとを押し付けても平気かなって思ったんだ」
 一人きりだったら、潰れてしまうことも、二人ならば平気だろうから。
『うん、一人じゃないから』
 マオが頷く。力強く。
「うん、任せた」
 微笑みながら京介も頷き返した。
 そして、とんっと地面に足をつける。揺れていたブランコがとまる。
『京介さん?』
「来たよ」
 不思議そうな顔をするマオに、告げた。足音がする。
「時間きっかりだね。吃驚だ」
 弾みをつけてブランコから立ち上がる。
「てっきり、早い時間に奇襲でもしかけてくるかと思ったのに。一応、外見上は誘拐犯なわけだし、俺」
『なんだかんだで、京介さんのことを信じていたからじゃない?』
「違うね。マオちゃんのことが本当に心配だったんだよ」
 だから時間より前にこの場所に来ることができなかった。平気だろうと高をくくって、万が一のことがあったら怖いから。
『そうかなぁー?』
 マオが不思議そうに首をひねった。
「そうだよ。ねぇ、マオちゃん」
 名前を呼ぶと、マオが不思議そうな顔のまま京介の方を向いた。
「最後に一つだけ」
『うん?』
 小さく首を傾げる。
「あいつは、イマイチ素直じゃないし、なんか冷たいし、ひとでなしだけど、マオちゃんのことを心配してる。気にしている、いつだって。それは本当のことだから。ただ、あいつはあれでバカだから、無くさないと大事なものに気づけないんだ。大事にしているものを無くしそうになって初めて、それが大事だとわかるタイプの人間なんだ。さらに言うと、無くしそうになってその時は焦るけど、無事だとわかると、焦ってた気持ちなんて忘れるんだ。大事だと一度理解したのならば、そのままずっと、しっかり持っていればいいのに、それが出来ない。本当、呆れるほどバカだろ?」
 だから、と真面目な顔で京介は続けた。
「自信を持って。あいつの冷たさに挫けたりしないで。どんなに冷たくても、あいつはマオちゃんのことを見捨てたりしないから。愛されているのだと自信を持って。マオちゃんが自信を持つぐらいできっと、丁度いい」
 マオは京介の顔をじっと見つめた。言葉をゆっくりと飲み込むような沈黙のあと、
『……うん』
 しっかりと頷いた。
『大丈夫。隆二がひとでなしなことは、知っているから』
 そうして、にっこりと、笑った。
 京介は、ならいいんだ、と笑い返した。
「京介」
 その背中に声がかかる。
 京介が振り返ると、そこには敵意剥き出しの隆二が立っていた。
 ブランコの柵の、三歩向こう側で、不機嫌そうな顔をしている。
「やあ、時間ぴったりだね」
 おどけて京介が言葉を返す。
「マオを返せ」
 それを隆二は斬り捨てた。
「はいはい。マオちゃん、ごめん、隆二と二人で話をするね」
『うん』
 京介の言葉にマオは頷くと立ち上がった。
 そのまま、すぃっと京介の横を抜け、隆二の隣に立つ。
「大丈夫か?」
 無事を確かめるかのように、隆二の右手がマオの頭を撫でる。
『平気。心配かけてごめんね』
「そうか」
 すっと、隆二の肩から少し力が抜ける。安心したように。
『待ってるね、外で』
 そんな隆二にマオは公園の外を指差した。
「ああ」
 隆二は小さく頷く。マオは頷き返すと、
『京介さん』
 振り返り、京介の方を見る。
「ごめんね、マオちゃん」
『ううん。隆二のことは、心配しなくて平気だよ。あたしがいるから』
「任せた」
『任された』
 そうしてマオは、少しだけ寂しげに微笑むと、
『……じゃあ、ばいばい』
 右手を小さく振る。
「うん、じゃあね」
 京介も軽く手をふりかえした。
『じゃあ、隆二、あとでね』
 二人のやりとりを怪訝そうに見ている隆二に少し微笑むと、マオはすぃっと公園の外に向かった。


「……なんなんだよ、一体」
 その背中を見送り、隆二は京介の方を見ながら、うんざりとした口調で言う。
「誘拐犯っぽい文面を残したわりには、和気藹々としていたみたいじゃないか」
「心配した? マオちゃんのこと」
「おちょくるな」
「素直じゃないなあ」
「京介! お前な、冗談ですむこととすまないことがあるだろうがっ。エクスカリバーまで持ち出してっ」
 隆二が声を荒げると、京介は小さく肩を竦めた。
「聞いただろ? マオちゃんから。俺は約束を破りにきたんだ」
「だからなんだよそれ」
「……少し長くなるけど、聞けよ」
「命令か」
 隆二の嫌そうな言い方に、京介は少し笑う。
「俺はね、隆二。約束を破りに来たんだ」
「だからなんの約束を」
「帰ってきてね」
 ループしはじめた会話に苛々した様子の隆二だったが、京介の言葉にぴたり、と口を閉じた。
「帰ってきてね。それが、俺が破ろうとする約束だよ」
「……おちょくってるんじゃ、ないよな?」
「本当だよ」
 隆二は何か、行き場のない感情を逃すように大きく息を吐き、
「……わかった。続けろ」
 かろうじてそれだけ言った。
「約束の相手はね、人間の女だ。惚れた相手だ。……笑っちゃうだろ?」
 惚れた人間の女に、帰ってきてねと約束させられる。どこかで聞いた話だ。
「笑えねぇよ」
 隆二の身に起きたことと、同じじゃないか。
「だよね」
「笑えるかよ。なんだよ、ソレ」
 苛立ったように片手で髪をかきあげる。
「何だよソレ、本当。ふざけんなよ、お前。なんで、そんな。……なんだそれ」
 額に軽く手をあてて、大きく隆二が息を吐く。気持ちを落ち着かせるかのように。
「まあ、そういう態度になるよね」
「当たり前だろうがっ」
 のんびりとした京介に、キレ気味に言葉を返す。
「なんで、なんでお前がそうなるんだよっ」
「そんなの俺が聞きたいよ」
 呆れちゃうよな、と肩をすくめる。
「お前にはあんなに、やめとけ無理だとか言ってたのにな」
「まったくだ」
「だから、謝らないとな、と思って。それについては。ごめん。当事者になってようやくわかった」
 京介は小さく、悲しそうに微笑んだ。
「そんなこと言われたって、無理だよな」
「……ああ、無理だよ」
 理性でわかっていても、感情がついていかない。それで解決したら世話はない。
 離れようと思って離れられたら苦労しない。
「気をつけようと、思っていたんだ。お前と茜ちゃんのこと、知ってたから。深入りしないように、ってずっと思ってた。思ってたのに、おかしいよなぁ」
 力なく笑うと、京介は再びブランコに腰掛けた。
「あいつさ、意味わかんないんだよ。出会い頭に、なんて言ったと思う?」
「知るか」
 そんな他人の馴れ初めなんて。
「私と恋仲になって。そして心中して」
 真顔で言い切られた言葉に、隆二はしばし沈黙し、
「……まあ、なんだ。お前もなかなかに面倒な恋愛してるな」
 かろうじてそれだけ言葉をひっぱりだしてきた。
「お前にだけは言われたくないよ」
 京介は呆れたように笑う。
「でも本当、意味わかんないだろ? 俺最初、こいつバカなんだろうな、って思ったし」
「そんな怪しいやつとかかわるなよ」
「だってあの時は疲れてたんだもん」
「もんじゃねーよ。唇とがらせるなよ、可愛くないから」
 心底嫌そうな隆二の顔に、京介は小さく笑う。
「ごめんごめん。でも、疲れていたんだ、あのとき」
 膝の上に頬杖をつく。
「隆二、お前はさ、必要最小限に人間とかかわって生きていってるだろ? 新幹線の乗り方もわかんないぐらい」
「流れでバカにするな」
「バカにしてないよ。ある意味尊敬してるんだよ。俺には出来ないから」
 京介は視線を隆二から外し、地面を見つめた。
「俺には出来ない。そういう生き方。一人は寂しいから」
 いつも飄々としている仲間の、こぼれ落ちた本音に隆二は何も言えない。
 寂しい。そんなことを、こいつが言うなんて。
「過度にかかわるつもりは勿論ないよ。だって、俺たちはもう人間じゃないから。だけど、まったくかかわらないっていうのも俺には出来なかった。だから、エミリちゃんにお願いして、適当な身分証作ってもらって、適当に人間社会で仕事したりしてたんだ」
「……料理人の真似事とかか」
 隆二の言葉に、京介は一度顔を上げて、
「意外。お前が覚えてるなんて」
 少し皮肉っぽく唇を歪めた。
 だから流れでバカにするな。
「その料理人の真似事が曲者だったんだよ」
 京介はまた視線を下に落とす。
「あれは結構楽しかったんだ。料理作るの、嫌いじゃないしな。正体がバレるとまずいから、そんなに一つのところに長居はできないけど、そこにはぎりぎりまで居たいと思ってたんだ」
 だけどさ、と淡々と京介は続ける。
「なんか料理長の奥さんが俺に惚れたとか惚れないとかで、それで料理長の反感買っちゃって、なんかよくわかんないまま辞めさせられることになっちゃってさ」
「なんだそれ。言いがかりだな」
「な? 俺もそう思うよ。これが他の仕事場だったら、もしかしたらごねて続けさせてもらってたかもしれない。理不尽だしな。だけど、さっきも言ったけど、そこは本当にすごく気に入っている職場で、仕事で、そこでそんな理不尽な理由が罷り通ることにどっと疲れてしまったんだ。好きな場所だったからこそ、水を差されたことが不快で、辛かったんだ。だから、あっさりと身を引いた」
 小さく溜息。
「今思うと、元々無理していた部分があったとは思うんだ。人間社会に入り込もうとすることに。それが、あれで一気に決壊したっていうか。疲れたんだ」
 疲れたのだ、と何度も告げる仲間を隆二は見下ろした。
 仲間内では一番、彼がまともだと思っている。あとの二人は偏食が過ぎるあまり、人間性にやや難があるし。だから、人間社会でやっていくのならば、彼が一番上手くやっていけるのだろうと。
 でもきっと、まともだからこそ、辛い部分があったのだろう。賢く立ち回って人間社会に溶け込める分、そんなこととっくの昔に諦めた自分とは違う苦労があったのだろう。溶け込めてしまう分、期待してしまうものも、きっとあったのだろう。
「住み込みの仕事だったしさ、住むとこもなくなっちゃって。でもなんか、新しい仕事を探す気にもなれなくて。まあ、しばらくいいかなって地下道に住み着いたりしてさ」
 京介はそこで一度言葉を切り、少し声のトーンを和らげる。
「……そこにあいつ、現れたんだ」
「心中さんがか?」
 揶揄するように尋ねると、
「そういう呼び方するなよ」
 睨まれた。
「すまん」
 からかったことは事実なので、素直に謝る。
「でもまあ、それでさっきの台詞言われたわけだけど」
「恋仲になって心中して?」
「そう。で、それを守ってくれるなら衣食住提供してくれるって。なんかさー、俺、そのとき本当疲れてて。とりあえずしばらく、ココの家に置いてもらって、頃合い見計らって逃げ出せばいいかなって思ってたわけ」
 当たり前のように言われた、ココという言葉。おそらく、その相手の女性の名前だろう。
「そう、思ってたんだけどなぁ」
 溜息とともに吐き出すように、ぼやく。
「心中したいとかいうのがさ、結構本気っぽくって。最初はそれが心配で、ずっと見てて。なんでだろうな。逃げ出せなくなってた、気づいたら」
 京介は顔をあげると苦笑する。
「お前なら、わかってくれるだろう?」
「ああ。残念ながら」
 肩をすくめると、同じように苦笑した。
「一回気にするともう駄目だよな。本気になったら駄目だって自分に言い聞かせて、感情に蓋をしていたつもりだった。言わなきゃいいだろって。だけど」
 京介はそこで言葉を切った。痛みに耐えるかのように瞳を閉じる。隆二は黙って次の言葉を待った。
 少しの間のあと、
「言わなかったから、あいつを追いつめた」
 目を開くと、吐きすてるように言った。
「ココは基本的に怖がりなんだ。幸せが怖い。幸せのあとに訪れる不幸が怖い。だから、一番幸せな時に死にたいとかって言う。だから、心中したいとか言う。それはわかっていたんだ。だから、安心させてやればよかったんだ。なのに、俺は助けを求めて差し出された手を、掴み損なった。怖くて」
 ぐっと爪を立てて手を握る。
「だって俺は、絶対に、あいつの願いを叶えてあげることが出来ない。一緒に死ぬなんてことが、出来ない。化け物だから」
 かすかに痛みに耐えるような顔をしている隆二の顔を見ると、京介は自嘲気味に笑う。
「なあ、隆二。俺はお前が羨ましいよ。なんで、言えたんだよ。茜ちゃんに、自分が化け物だって」
 わずかにだが棘のある言い方に隆二は口を開きかけた。反論しようと思って。
 俺だって、言えたのは最初の段階だったからだ。関係性を築き上げる前だったからだ。関係性が出来上がってしまっていたら、好きになってからだったら、きっと言えなかった。
 でも、結局言葉を飲み込んだ。そんな反論をしたところで意味がない。京介だってそれぐらい、わかっているだろう。タイミングの問題だということぐらい。
「俺は言えないよ。言えなかった。ココに好きだと告げることは、同時に心中のお願いを叶えてあげられないことを、明確にする必要があった。だから言えなかった。怖かったんだ。ココに化け物だと知られることが」
 かすかに京介の手が震える。
「あの時はたまたま、ココが仕事とか他の人間関係とかで悪いことが重なって落ち込んでいる時で、あいつはただ俺に、俺が居るってこと言って欲しかっただけなのに。安心させて欲しかっただけなのに。俺は上手く出来なかった。俺が人間だったら、もっと簡単だったのに。あのとき、俺は好きだよ、って言えばよかったのに。人間じゃなかったから言えなかった」
 そこで京介は一度大きく息を吐いた。滞った感情を外に出すように。
「俺が手を掴み損なったから、あいつ、手首切るし」
「ちょっ」
 黙って聞いていた隆二は、さらりと言われた言葉に軽く声をあげる。
「いや、大丈夫だったんだけど。そんなに深くもなかったし」
「そうか」
「だけどさ、そういう問題じゃ、ないじゃん? 自分の血は見慣れてるし、いくら流れても平気だけど、他人の血は無理だよ。だって、下手したら死んじゃうんだぞ」
「……人間だからな」
「そうなんだよ、ココは人間なんだよ。……なんか、それ見てたら俺、もう無理だなって思ったんだ」
 泣きそうな顔をする京介なんて見たくなかった。だから本当は視線を逸らしたかった。でもきっと、ここは逃げちゃいけない場面だ。同じ化け物として。そう思ったから、隆二は京介から目を逸らさなかった。
「これ以上、俺がここにいても、いいことなんてないって。そう思ったんだ。だってさ、俺ってば、ココが手切ってるの見たらテンパって好きだとか言っちゃうしさ」
「だから、離れることを決意した?」
「そう。ココは恐がりだから、俺がココのことを嫌いになる時がきたらどうしようって、そんなこと心配するんだよ。それで、結局心中したいってことになるわけで。俺が、ココの傍にいる限り、ココはずっと心中したいと願うんだろうな、そう思ったら、もう一緒に居られないと思った」
 だって、と少し上擦った声で続ける。
「俺はココに生きていて欲しいんだよ。だって、ココの人生なんて、たった八十年とかそこらだろ? それぐらい、ちゃんとまっとうして欲しいんだよ。だってこれからまだまだ、幸せなことだってきっとあるはずなのに。死んだらもうなんにもないんだ。耐えられないと思ったんだ。ココにまで、置いていかれることっ」
「……ああ」
 京介の言葉に、隆二はゆっくり頷いた。
 耐えられないと、かつて自分も思った。愛した女性が自分を置いて居なくなること。亡くなること。耐えられないと思ったから、あの時自分は逃げ出した。
「俺、ココと約束したんだ。帰ってきたら心中しようって。世話になった人に会いに行ってくるけど、必ず帰って来るから。そしたら一緒に死のうって。そう、約束したんだ」
「……それがお前の約束か」
 自分の時よりもよっぽどややっこしいじゃないか。
 隆二は嘆息した。

「それで、その話が今回のこととどう関係があるんだよ」
 約束の内容はわかったが、それがマオを誘拐する理由には繋がらない。
「だから言っただろ。俺は約束を破りに来たんだ。俺はココのところには戻らない」
 そうして京介は立ち上がると、ブランコの脇に無造作置かれていたトートバッグをとりあげた。それをそのまま、隆二に向かって投げた。
 受け取る。
「なんだよ」
 顎で促されて、ぼやきながらその中身を見て、隆二は言葉を失った。それには見覚えがあった。嫌という程。見た目は小型の剣。でも、それがただの剣じゃないことを知っている。
「……京介」
 かろうじて名前を絞りだすと、
「そ、俺がパクってきたエクスカリバー」
 なんでもないように答えられた。
「おまえっ、なんでっ」
 なんでこれを今、このタイミングでこっちに向かって渡すのだ。
「察しが悪いな、隆二」
 京介は呆れたように笑い、
「それを使ってくれ、って言ってるの。俺に向けて」
 なんでもないことのように言った。
 言われたことを理解するには、少しの時間を要した。
「ふざけんなっ」
 言われた意味を理解した隆二は、反射的に怒鳴った。
「おまえっ、何を考えてっ」
「実験体が勝手に消滅しないように、自己使用が出来ないようセーフティかかってるのは知ってるだろう? それは誰かに使ってもらわなきゃならない」
「そんなことは知ってる! そんな話をしているんじゃないっ!」
「俺はココのところには戻らない。戻れない。あいつを死なせるわけにはいかない」
「だからってっ」
「このままいたら、いつか俺はまた、ココに会いたくなってしまう。だけど、俺はココを死なせたくない。ココに会いにいったら、約束叶えなきゃいけないだろ」
「そんなもん、適当にお前自身でどうにかしろよっ。それこそ、そこで約束破ればいいだろうがっ」
「どうにか出来る自信がないから頼んでるんだろうが。俺はもう、俺がココを傷つけるのは耐えられない。これ以上約束を破ったら、ココにどう思われるか」
「ふざけんなよっ」
 どんなに怒鳴っても揺らがない瞳に腹がたつ。
 相手を死なせたくないから、自分が消えるというのか? それを、隆二に手を下せと?
「じゃあ、最初からそのつもりでここに来たのか?」
「そうだよ」
 当たり前のように京介は答えた。なに今更そんなこと訊いてくるんだ、とでも言いたげな口調だった。
「なんだよ、それっ。……じゃあ、あのときのはなんだったんだよ!」
「……あのとき?」
 怪訝そうな顔をする。
「マオに一緒にいようとか誘ったって言う、アレはっ」
 そうだ。もう隆二のところには居られないと泣くマオに対して、自分と一緒に居ればいいと言ったじゃないか。あれはどういうつもりだったんだ。最初から消えるつもりだったのに、マオと一緒にいるなんて、出来ないことを約束するつもりだったのか。
「ええっ、それまだ気にしてたの?」
 予想外の事を言われたとでも言いたげに、京介が目を見開く。
「ああ、っていうか、そんだけマオちゃんのことが心配なのか。じゃあ、言ってあげなよ。喜ぶよ、マオちゃん」
「おちょくるなっ」
「もー、本当、相変わらずカルシウム足りないね、お前は。あれは、あのときは本気だったよ。本気でお前から盗ってやろうと思った。そのためなら延命だって厭わなかったね」
 そこで京介は、笑顔を歪めた。
「だって、ずるいんだよお前だけ。マオちゃんといい、茜ちゃんといい。人間として生きることを放棄したお前に、なんで皆集まるんだよ」
「……京介?」
「俺はずっと、お前が羨ましかったよ。本当に」
 歪んだ笑顔に見つめられて、隆二は言葉が返せなくなる。
 しばらく隆二の顔を見つめた後、京介はふっと空気が抜けるように笑った。
「そんな顔すんなよ。俺が怖がらせてるみたいじゃん」
「……間違ってないだろ、あながち」
 おどけたような言い方に、隆二もそっと息を吐く。強張った空気を逃がす。
「羨ましいのは本当だよ。本当はわかってるんだ。誰よりも不死者であることを受け入れられていないのは、俺だ。お前じゃなくて」
 女々しいんだよ、俺、と笑う。
「受け入れられていないから、人間のフリして生きている。それが結局、俺を偽物の人間として世の中に縛り付けている。結果として俺は自分が化け物だということを誰にも言えず、理解者を得ることができない。お前にとっての、茜ちゃんやマオちゃんのような」
 だから盗ってやろうと思ったのさ、となんでもないような口調で続ける。
「お前からマオちゃんを。まあ、マオちゃんに拒否られたけどね。心底羨ましかったんだ。同じ時間軸を生きられる、理解者がいるお前が」
 そこで一度言葉を切り、
「くだらない仮定の話だ。笑うなよ?」
 念をおしてから続ける。
「もしも、もしもだ。マオちゃんと先に出会ったのが俺だったら、お前の場所にいるのが俺だったら、そしたら俺はマオちゃんの為に残りの永遠を使ったのにな」
 それから小さく肩を竦めて続ける。
「俺の方がお前よりも、よっぽどマメで、優しくて、話も合うし、マオちゃんのパートナーとしては申し分ないと思うんだけどなぁ」
 おどけたように言われた言葉は、それでも真実だと隆二は思った。外でもちゃんと話相手になってあげて、テレビの話にもつきあってあげて、京介の方がよっぽどマオにとっていい生活を与えるだろう。
 それには納得した。
「……おい、黙るなよ。冗談だろうが」
 隆二の沈黙をどう解釈したのか、京介が呟く。
「そのとおりだなぁって思ってただけだ」
「そのとおりだなぁってお前な! お前はいつもそうやって」
「だけど」
 こんなときでも始まりそうな京介の小言を遮る。
「だけど、マオと一緒にいるのは俺で、マオが選んだのは俺だ」
 ぶっきらぼうで、気が向いたときにしか構わないし、外では絶対会話しないし、からかって遊んでばかりいる。それでも、マオは優しい京介ではなく、そんな自分を選んだ。何がいいのか知らないが。
 ならば、まあ、せめて、それに応えるぐらいはしないと。
 隆二がまっすぐ京介を見ながら答えると、京介は少しうろたえたような顔をした。
「お、おおう。なんだ、わかってるじゃないか」
 隆二があまりにまっすぐ答えたことが意外だったようだ。
「じゃあ、それ、マオちゃんに言ってやれよ」
「それとこれとは話が別だ。絶対に言わない」
 心配しているとか言えば、どうせ調子に乗るに決まっているのだ。それはそれでうざい。
「あっそ。でもまあ、そうか。わかってるならいいんだ」
 京介はどこか寂しげに微笑みながら、
「俺がお前に頼もうと、決心できたのはマオちゃんの存在があったからなんだ。マオちゃんがいるから、お前はもう一人じゃないって思ったから」
 本筋に戻った話に、少し身構える。そうだ、こいつは今、むちゃくちゃなお願いをしている最中だった。
「マオちゃんなら大丈夫だろうなって思ったんだ。あの子は、何があってもお前から離れないから。なあ、マオちゃんと茜ちゃんは違うっていう意味、わかるか?」
 種族の違いというのは、ベストアンサーではないのだろう。だから隆二は黙っていた。
 答えない隆二に呆れたように京介は笑い、
「マオちゃんは絶対にお前を一人にしないってことだよ。もしも、お前がマオちゃんから離れることを決意しても、マオちゃんは絶対にそれを許さないだろう。お前が前みたいに、一時の感情の迷いで離れそうになっても、マオちゃんは決してお前を一人にしないだろうから。茜ちゃんみたいに、物わかりよく、離れたりしないから」
「……ああ」
 溜息のように言葉が漏れる。
 ああ、そういうことか。その答えには納得出来た。
 マオは絶対に隆二から離れないだろう。隆二の方が逃げても、彼女はきっと追ってくる。拾った猫の世話は最後まで見なさいよ! とかなんとかいいながら。
「幽霊だからっていうんじゃない。マオちゃんだから。マオちゃんが茜ちゃんの性格だったら、俺はやっぱり、あの時と同じように心配したと思うよ。だけど、あの子はいつだって、お前のことを考えてる。憎らしいぐらい」
「そうだな」
「それにさ、この際だから言っておくけど。なぁ、お前だって本当はわかってるんだろう? マオちゃんが幽霊だからって、一概には安心出来ないんだよ。居なくならないって。本当の意味での永遠なんてないんだよ。なぁ」
 そして隆二が手に握ったままのエクスカリバーを指差し、
「それが俺の永遠も、お前の永遠も、マオちゃんの永遠も終わらせること、わかってるだろう? 理解してろよ、意識してろよ。目を逸らすなよ。ちゃんと考えてないとお前、後悔するぞ」
 京介の言葉に返事は出来なかった。考えなかったわけではない。ここに来るまでに最悪のことを。マオが居なくなることを。永遠なんてないのだということを、再確認したことを、思い出したくなかった。
「しっかりしろよ。マオちゃんにはお前しかいないんだから」
 そして、畳み掛けて来るような京介の言葉からも逃げたかった。なんだってそんな、次から次へと色々言うのだろう。これじゃあ、まるで、遺言みたいじゃないか。
「わかってるよ」
 自分の考えに不安になって、京介の言葉を強引に終わらせた。
 京介はどうだか、とでも言いたげに肩をすくめたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、
「なあ、頼むよ」
 お願いを続けた。
「嫌だ」
 それを、首を横に振ることで拒否した。
「なんで俺が」
「お前だからだよ」
 そこで京介は、なんだかやわらかく微笑んだ。
「お前だからだ」
「だからなんで」
「お前が一番、俺の気持ちわかってくれるだろうなって思ったからだよ」
 言われた言葉に返事が出来ない。ああ、それはきっとそうだろう。英輔よりも、颯太よりも、隆二が一番京介の気持ちがわかる。理解出来る。かつて同じ約束を受けたから。
 だけど、だから。
「だから、無理だ」
 約束をした相手が、ずっと待っていることを知っているから。
「ココは茜ちゃんとは違うよ。待っていない」
「そりゃあ茜ほどの時間を待つことはないだろうけれども」
 言いながら胸の奥が痛む。幽霊になってまで待っていてくれた彼女。
「けど、それでも待つことにはかわりないだろう?」
「……うん、そうだね」
「約束を守れなかった時の気持ちを知っているから、お前の願いはきいてやれない」
「……死んだら約束を破ったことを後悔することもないだろうけど」
「そんな逃げは許さない」
 言い切ると京介は困ったなぁ、とぼやいた。
「ここまでお前がごねるとは思わなかったな」
「例えば、例えばだ。他の頼み事なら別だった。それこそこれから先、家に置いてくれとかな。だけど、京介」
 言いながら自分の声が震えることに気づいた。ああ、怖いと思っている、今、自分は。
「それだけは、わかった、とは言えないよ。なんだよ、お前」
 永遠だと思っていた。ずっとずっと、これから先、永遠に一緒だと。直接顔をあわせることはなくても、この世界のどこかに、同じ永遠を分け合って存在しているのだと、信じていた。それが崩れることなんて、考えてもいなかった。
「お前まで、俺を置いて行くのかよ」
 京介も顔を歪めた。なんだか泣きそうに。
「それは、悪かったと思ってるよ」
「だったら」
「でももう疲れたんだよ」
 彼はまた、疲れたと口にした。
「俺はお前みたいに、人間から離れて生きられない。今更生き方は変えられない。仮に、ココのところに戻って、心中のお願いもどうにかうやむやにして、そしてココともう一度生活をしたとする。だけどさ、それも、いつか絶対に終わっちゃうじゃないか」
 語尾が上擦る。
「もう疲れたんだ。そういうのに怯えるのも。俺は英輔や颯太みたいに割り切れない。永遠を有効活用しようとは思えない。お前みたいにマオちゃんもいない。無理だよ。俺にはもう。疲れたんだ」
 疲れた疲れたと言う京介の顔が、光の加減かとてもやつれて見えた。それにぞっとする。取り憑かれている、永遠という名の死神に。
「気持ちは変わらない。俺にはもう無理だ。この永遠を手放したい」
「だけど」
 何かを言おうと隆二は口を開き、何を言っていいのかわからなかった。ここまで疲れたという彼を、ここに引き止めようとするのはエゴじゃないだろうか。
 永遠を憎み、終わりが来ることを願ったのは自分だって一緒だ。マオに会うまでは、ただ、だらだらと生活しながらはやく終わりが来ないかと、何かの間違いで永遠が途切れないかと、それをどこかで願っていた。消極的か積極的か、それだけの違いだ。
「お前が引き受けてくれないなら、それも仕方ないな、と思う。嫌だよな、同族殺しみたいなの」
 京介の口から同族殺しという言葉が、ずんっと肩にのしかかる。そうだ、そんなの、大事な仲間を自分の手で、なんてこと。
「エミリちゃんとか、研究所の人間に頼めばまあ、どうにかしてくれるだろうな、とも思うし。その前にこき使われたり実験台にされたりしそうだけど、まあ、それもいいよ」
 だけどさ、と京介は隆二の瞳を捉える。
「それでもやっぱりお前に頼みたいんだよ。縁、っていう意味で。お前だってそう思うだろ?」
 一瞬の躊躇いのあと、
「なぁ、――」
 呼ばれた本当の名前に、撃たれたような気分になる。
 縁、っていう意味で。
 ああ、そういう意味なら、そうかもしれない。
「……ああ、そうだな」
 そうして隆二も、彼の本当の名前を呼んだ。
「柳司」
 それを聞いて神野京介は、かつてリュウジの名を持っていた彼は、優しく微笑んだ。

「お前の言うとおりだよ、柳司。俺がお前と同じ立場で、その、終わりを望んだとき、誰に頼むかっていったら、きっと真っ先にあいつに頼む」
 かつての自分の名前をもつ彼に。それが、縁、だ。
 あの時、たった四人だけ残った実験体同士で名前を交換し合った。漢字は替えたけど。かつての自分の名前をもつ者に、なんとも言えない気持ちを覚えたことを覚えている。かつての自分の名前で他人を呼ぶことに、違和感を持ったこと。
 今ではすっかり自分に馴染んだ名前だけれども、今ぐらいは返さなければならない。
「……うん、そうだな。それなら、仕方ないのかもしれない。柳司」
 殊更に名前を呼ぶ。自分に言い聞かせるように。
「うん。悪いな、本当に。――」
 向こうもこっちを本当の名前で呼んで来る。それは縁、で。それと同時に、
「柳司。死ぬなら出来れば人間でって、ことか」
 自分が人間だったことを思い出させるまじないのようなものだ。
「そんな感じかな」
「そっか」
 その思いもわかる。わかってしまった。わからなければ断れたのに。
「ずるいよな、柳司」
「知ってる」
 くすり、と柳司は笑った。
「そうなると、断れないな」
「――ならそう言ってくれると思ったよ」
「ずるい」
 もう一度言うと、さらに彼は笑った。
 柳司がひらりと、軽い動作でブランコの柵を飛び越える。
 二人を隔てていたものが無くなる。
「ずるいな、本当に、ずるい」
「うん、悪かった。本当にそう思ってる」
「人の弱みにつけこみやがって」
「それもわかってる」
 人間ではないことを、心のどこかで割り切れていないのはお互い様だ。人間であったころのことを持ち出されては、断れない。それがどんなにお互いにとって大事なことだかわかっているから。
「俺がこれで病んで病んで病みまくったら、柳司、お前責任どうとるんだよ」
「――はそこまで無責任じゃないでしょ。自分のメンタルの責任ぐらい自分で持てる」
 原因を作ろうとする人間が、いけしゃあしゃあと答えた。
「それに、――にはマオちゃんがいるだろ?」
 なんでもないように言われて、ため息をつく。それを言われると反論できない。
「俺にはマオがいて、俺が茜と約束して、俺が今神山隆二で、だからお前はここに来たんだな」
 もう一度、確認するように問う。
「そうだよ、――」
「じゃあ、仕方ないな」
 困ったように笑った。選ばれてしまったのは、もう仕方ないと思えた。
 終わりを迎えたい気持ちもわかるのだ。
 右手に持ったエクスカリバーを、そっと握り直す。
「あ、――」
 慌てたように、彼がズボンのポケットから何かを手渡して来た。
「エクスカリバーってさ、対象が身につけてたものも全部消しちゃうだろ? だけど、それだけは、その、一緒には消したくないんだ」
 渡されたのは財布と、ジッポだった。
「お前に持ってろなんて言わない。捨ててくれていい。だけど、無かったことにはしたくない」
「……わかった」
 頷く。
「財布の中身はあげるよ。全財産。迷惑料代わりに」
「ありがたくもらっとくよ」
 あえておどけて返した。彼もふふっと笑う。
 そうして、沈黙。
「……ごめんな」
 少しの沈黙のあと、そう告げた。
「それはこっちの台詞。本当、ごめん。――」
「うん」
「あと、エミリちゃんにも謝っておいて。ここ、人が立ち入れないようにしてくれたでしょ?」
「……ああ、なんだ気づいてたのか」
「さすがにね、この時間にこんなにも人が来ないのはおかしいと思うよ。ごめんね、って言っておいて」
「……うん、わかった。伝えておく」
 頷いた。
 右手を握る。
「――」
 名前を呼ばれた。
 彼は微笑んでいた。
「ありがとう」
「ああ。こちらこそ。世話になった」
 右手を握る。力を入れて。
 一歩踏み出したのは、彼の方だった。右手に向かって一歩踏み出してくる。それに慌てて右手を引きそうになって、ぐっと堪えた。
 代わりに、それを前に突き出す。
 嫌な手応えがあって、そちらを見そうになるのを、
「――」
 名前を呼ばれ、遮られた。小さく首を横に振られる。気にするな、と。
「じゃあ、ね」
「柳司っ」
 何かを言いたくて名前を呼んで、言葉を探す。でも、遅かった。エクスカリバーに刺された箇所から彼の存在が消えていく。
 彼は最後まで笑っていて、隆二は何も言えなかった。
 目の前から、何事も無かったかのように彼が消える。
 右手から力が抜ける。
 支える力が何もなくなったエクスカリバーが、からんと音を立てて地面に落ちた。
 そこには本当に何もなかった。
 大きく息を吐き出す。
 エクスカリバーは元々、実験体の抹消に使われていたものだ。実験体の抹消に、遺体やら遺品やらは不要なのだ。実験体なのだから。
 その事実を改めて思い知らされる。
 空を見上げ、ぐっと目を閉じる。
 しばらくそうしてから、
「いるんだろ」
 空を見たまま尋ねた。
「はい」
 がさり、と草木が揺れる音がしたあと、静かにエミリが近づいて来た。
「……すみません」
 そして彼女が頭を下げる。
 彼女が何を謝っているのかわからなかった。彼女の何が悪いのかわからなかった。けれども、彼女を詰りたかった。実験体を作り出した側の彼女を。
 それを精一杯の理性で押しとどめた。それは、八つ当たりだ。自分達を作ったのは彼女ではない。組織全体としてはともかく、彼女個人には落ち度はない。
「あと、頼む」
 それでも優しい言葉をかけられるわけもなく、淡々とそれだけ告げた。
「はい」
 エミリが頷く。
 それを見てその場を立ち去ろうとし、ふっと左手に持ったままの財布とジッポに目が行く。ああ、そうだ、これ、どうしよう。
 よく見ると、渡されたジッポには、シールが貼ってあった。京介と知らない女性がうつった写真のシール。二人の間には何故だか大仏が描かれている。
「……バカが」
 小さく呟く。写真の中の京介は、慣れないことに強張った笑顔をしていたけれども、それでもどこか幸せそうだった。
 そんな幸せな時間を見つけたのに、お前は本当にこうすることしか出来なかったのか? 自分がやったことは正しかったのか?
 俺たちは二人とも、バカだったんじゃないだろうか。
 今更嘆いても、遅いけど。
 財布の方も一度あけてみる。金銭の他に、ジッポに貼られていたのと同じような写真シールが入っていた。それをひっぱりだしてみる。何種類かの写真。そのうちの一種類には女の子女の子した丸い字で、キョースケ、ココナと書かれていた。
 ココナ、というのか。彼女は。
 京介を帰してあげられなくて、すまない。
「嬢ちゃん」
「はい?」
 エミリは名前を訂正することはしなかった。
「これ」
 その写真シールを差し出す。エミリは写真を見ると、
「ああ……」
 一言呟いた。
 それから、それを受け取ると、
「お預かりします」
「うん、頼む」
 それを確認すると、隆二は残りの財布とジッポをポケットに滑り込ませた。
「形見わけ」
 言い訳するように呟くと、エミリは一度頷いた。
 そのまま、足早にその場を立ち去った。

 エミリは去って行く隆二の背中を見送ると、足元に落ちているエクスカリバーを拾い上げた。その隣に落ちているトートバッグも拾うと、その中に滑り込ませる。
 少し躊躇ったあと、ケータイを取り出した。研究所の番号を呼び出すと、耳に当てる。
「お疲れさまです」
 淡々と事務的に、電話の相手に告げる。
「はい。そうです。すみません、U〇六八は……、はい。申し訳ありません。とめることが出来なかったのは、わたしの責任です。……はい。わかりました。詳しくは戻ってから」
 失礼します、と電話を切る。
 研究所に嘘をついたのは初めてだった。
「……とめるつもりはありませんでした」
 京介の話を聞いていたら、とめられなかった。貴重な実験体が消えることがないようにしろと言われていたにもかかわらず。途中で飛び出していくことも出来たにもかかわらず。
「……神野さん」
 しゃがみ込み、京介が立っていた辺りの地面を撫でる。
「本当に、申し訳ありません」
 貴方をここまで追いつめたのは、わたし達研究所の責任です。
「ごめんなさいっ」


 公園の入り口にある花壇に、マオは腰掛けていた。足をぶらぶらと揺らしている見慣れた姿。それをみると、隆二は軽く息を吐いた。強張っていた気持ちも、一緒に少し逃がす。
『隆二』
 それで気づいたのか。マオが振り返ると、微笑んだ。
『お話、終わったの?』
 いつもと同じように、なんでもないように尋ねてくる。
「……ああ」
『そう、じゃあ帰りましょう』
 そうしてマオは片手を伸ばしてきた。立ち上がらせて、とでも言うように。
 何も考えずにその手を握ろうとして、
「っ」
 赤い。血で。自分の手が赤く染まっている、血で汚れている、そんな気がした。そんな風に見えた。
 京介から血が流れたりしていないのに。
 その手でマオの白い手に触ることが怖くて、慌ててひきかけた手を、
『隆二』
 マオの方から掴んで来た。
 咄嗟に振り払おうとするのを、思ったよりも力強い手が許さない。
『同じだよ』
 かわりにぐっと手を引っ張られた。思わぬ事態に体勢を崩す。片膝をつく。反対側の手をマオが座る花壇についてバランスをとる。
 緑の瞳が、近い場所から隆二を見つめた。
『あたしも同罪だよ。あたし、京介さんが何をするつもりなのか知ってた。知ってて、隆二には言わなかったし、京介さんをとめなかった。あたしも同罪だよ』
「だけど」
 手をくだしたのは、自分だ。マオじゃない。
『ずっと言ってるじゃない。同じ穴の狢でしょう?』
 と、いつもと同じように笑う。なんでもないことのように。
 それを見ていたら、耐えられなくなった。泣く、と思った。
 ぐぃっとその腕をひっぱり、頭を腕の中に抱え込む。抱きしめる。
「なんでだよっ……」
 吐き出した声が震えていた。
 背中にそっとマオの腕が回される。
「なんだよ、あいつ。なんなんだよ」
 思いが明確に言語化されない。なんで、どうして、それだけが口をついてでる。
 なんでこんなことになったんだ。どうしてこんなことになったんだ。なんで俺はあんなことをしたんだ。どうして京介はこんなことを選択したんだ。なんで他の選択肢を選べなかったんだ。
 どうして俺を、あいつは、置いていったんだ。
「ずっと。ずっと一緒だと思ってたんだ。滅多に会ったりしないけど、会わないようにしてたけど。それでも、ずっと一緒に居られると思っていたんだっ」
 なんで、あいつにまで置いて行かれなきゃいけないんだ。
「寂しいとか、疲れたとか、抱え込む前に言えよ、バカっ」
 言われて自分に何が出来たかはわからない。言いたくなかった京介の気持ちだってわかる。だけれども、もっと他の選択肢があったはずじゃないか。
「消えたら後悔だって出来ないのにっ」
 声が完全に上擦った。ああもう、泣いていることがマオにばれただろう。
 とんとんっと、優しく背中を叩かれた。宥めるように。
『京介さんね』
 そのままマオが喋りだす。いつもよりも柔らかい声色。
『よかったって、あたしに言ってたの。もう一度心から人を愛せて。まだ、人を愛せると知ることが出来て。それから』
 そこでマオは一瞬躊躇うような間をおいて、
『気にかかっていたこと、間違っていなかったってわかって。あの時、隆二をとめなかったことは、間違っていなかったってわかったからよかった、って』
「……あのとき?」
『茜さんのこと』
 マオの口からでた、茜の名前に思わず体が強張った。それに気づいたのか、マオの手がさっきよりも強く、一度、隆二の背中を叩いた。しっかりしてよね、とでも言いたげに。
『ずっと気にしてたんだって。隆二が茜さんと一緒に居るのをみたとき、もっとちゃんと諦めろってとめるべきじゃなかったのかって』
「ああ……」
 気にかけてくれていたことは知っている。
『真剣にとめられなかったのはね、隆二があまりにも優しく笑ったからなんだって。京介さんはもう、ずっと、そんな風に笑ったことなかったのに、隆二が優しく笑うから、期待したんだって。隆二と茜さんには奇跡が起きて、今後も人間として暮らしていけるんじゃないか、って』
 俺はお前が羨ましいよ。京介の声が蘇る。
『そんなことを期待してしまって、とめる手が鈍ってしまったと後悔していたんだって、ずっと。そのあと会った隆二が、あまりにも悲しそうな顔をしていたから。俺がちゃんととめてればって思ったって。だけど、とめなかったことも、間違ってなかったって気づけたって。別れの時に傷つくことを差し引いても、人を愛することは幸せなことだと、思い出せたからって』
 写真にうつっていた、強張った笑顔をした京介。だけれども、どこか幸せそうに見えた。
『それからね、茜さんが待っていたこと。それも救いになったって。隆二と茜さんとの間の絆が切れていなかったこと、ある種の奇跡のようだと思ったって。気にかかっていること、間違っていなかったと気づけてよかったって』
 よかったんだって、とマオはもう一度続けた。
「そうか……。あいつが、納得しているのなら、いいんだが」
 だけど京介。できればそれは、お前自身の口から聞きたかった。こんな風に、完全にお前がいなくなって、他人から聞きたい言葉ではなかった。
「そうか……」
 喉元に涙の塊が押し寄せてきて、堪える代わりにぐっとマオの頭を抱え込んだ。マオは何も言わずに、されるがままになっていてくれた。
「幸せだったら、いいんだ」
 吐き出した言葉は、殆ど負け惜しみのようなものだった。だけれども、唯一見つけた救いに縋り付きたかったのだ。
『うん』
 マオの手がそっと背中をさすってくれる。
『隆二』
 優しい声で名前を呼ばれる。
『あたしは、絶対に貴方を一人になんてしない。置いて行ったりしない。絶対に』
 優しい声で、それでも力強くマオが言った。
『京介さんとも、約束したから』
「……ああ」
 腕の力を少し緩めて、マオの耳元に顔を近づける。大きな声じゃ恥ずかしくて言えないから。小さな声でも届くように。
「頼むよ。……絶対にいなくならないでくれ」
 例え俺が逃げようとしても、追いかけてきて欲しい。我が侭だと、わかっているけれども。
『……うん』
 急に耳元で囁かれた声に、言葉に、戸惑ったような間を置いて、マオは頷いた。
『隆二にはあたしがいるから大丈夫だよ』
 いつもの底抜けの明るさに、少しの優しさを加えてマオが言った。そのままぎゅっと隆二の背中に回した腕に力をこめる。
「……ありがとう」
 耳元で礼を言ったあと、そのままマオの肩に額をのせた。
「……ごめん、もうちょっとだけ」
 掠れた声で告げたお願いに、マオは返事をしなかった。代わりに片手で隆二の頭を撫でる。
 相変わらずゴム手袋を何枚も重ねたような、遠い感触しかしない。それでも、今日はその手がとてもあたたかく感じられた。そう思った瞬間、また泣きそうになる。
 ぐっと唇を噛んで、耐えた。
 どれぐらいそうして居ただろうか。
『隆二』
 マオが小さく名前を呼ぶ。
「ああ」
 それをきっかけに隆二も顔をあげた。マオの方を向く前に、ぐっと腕で目元を拭った。
「……悪かったな。色々、付き合わせて」
 そういうとマオは小さく首を横にふった。
 マオから離れて立ち上がる。
 マオは花壇に座ったまま、先ほどと同じように片手を伸ばしてきた。
『帰りましょう? 帰ってソファーに座って、二人でテレビでも見ましょう』
 そう言って、いつもと同じ顔で笑う。
「ああ」
 隆二は軽く頷くと、今度は迷うこと無くその手をつかんだ。


第四幕 放浪猫の後始末

「マスター、こんにちはー」
 茶色い巻き髪をふわふわと揺らしながら、一人の女性が喫茶店に入って来た。
「ここなさん、こんにちは」
 喫茶店のマスターがそれに応じる。
 ここなと呼ばれた女性はカウンターに腰掛けた。
「ランチセットをお願いします」
「はい。……そういえば、京介くんからは連絡ありましたか?」
 マスターが尋ねると、
「ないのー」
 と女性がふくれた。
 窓際のテーブル席で、エミリはそれを聞いていた。ぎゅっとスカートの裾を握る。
 そっと鞄から取り出したプリクラ。そこで神野京介の隣で笑う女性。今、カウンターに座っている彼女。
 カップに僅かに残ったコーヒーを飲み干すと、プリクラを再び鞄に押し込んだ。席を立ち上がり、言葉少なに勘定を済ませると、足早に、逃げるようにその場を後にした。


「見慣れない子ー」
 エミリが出て行ってから、ここなが呟いた。
「そうですね」
「外国の子かな」
「綺麗な金髪でしたね」
「ねー。……なんであんなに格好が赤いのかはわからないけど」
 ここなの言葉にマスターは軽く微笑みながら、テーブルを片付けるためにカウンターの外に出る。
「……おや」
 エミリが座っていたテーブル。その下に、見慣れない紙袋がある。
「ん? 忘れ物?」
 それを見ていたここなも、席を立ち上がり、そちらに近づく。
「そのようですね」
 言いながらマスターは紙袋を開き、言葉を失った。
「どうしましたー?」
 軽い口調でいいながら、ここなもそれを横から覗き込み、
「え」
 小さく呟いて言葉を失った。
 なんでもない紙袋の中に入っていたのは、大量の札束だった。身代金の受け渡しでもできそうな。
「ちょっ、えっと。とりあえず、さっきの子探して来るっ!」
 慌てたようすでここなは言い放ち、ヒールを鳴らしながら店を出て行く。
「ここなさんっ」
 マスターが名前を呼んだ時には、もう扉は閉められていた。
「……警察に届けないといけませんね」
 マスターは困ったように呟く。一応金庫にしまっておこう。そう思ったとき、紙袋の中に入っている一枚の紙に気づいた。
 そっとそれを持ち上げる。連絡先でも書いていないかと思って。
 けれども、そこに書いてあったのは、ごめんなさい、の一言だった。小さな丸い字で一言だけ。書いてあったのは一言だけだった。
「……ああ」
 喉の奥から、声が漏れる。
 ごめんなさいの横に貼られていたのは、常連の彼女と、その恋人のプリクラだった。
「京介くん」
 少しだけこの店でアルバイトしていた青年。久しぶりに見るその姿に、小さく名前を呼ぶ。これは一体、どういうことですか。
「マスター、駄目だったー。見つからないー」
 ドアが開き、ここなの声がする。慌ててマスターは、その紙をエプロンのポケットに滑り込ませた。
「あんなに目立つのにー」
「そうですか」
「とりあえず、それ、交番?」
「そうですね」
 走り疲れたように椅子に座り込むここなに、マスターはいつもと同じ微笑みを向けた。
「持ち主が現れなかったから、ここなさん、もらったらいかがですか?」
「それならマスター、半分にしようよ。山分け」
 言ってここながくすくすと笑う。
「ランチセット、もうちょっと待っててくださいね。先に交番に電話します」
「はーい」
 ここなは明るく返事をし、鞄からケータイを取り出した。
 マスターは店の電話にむかいながら、ポケットにそっと触れた。
 これは彼女には見せられない。見せない。だから、京介くん。ちゃんとここに、帰って来てくださいね。

 ここなはケータイをひっくりかえし、電池蓋を見る。そこに写るのは自分と、京介。二人の間に押された大仏のスタンプを指で軽くたたくと、
「連絡ぐらい寄越しなさいよ、ばーか」
 小声でぼやいた。