目次
迷い仔猫の居候
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第一幕 捨て猫の拾い方
間幕劇 猫と彼女
第二幕 猫への餌のやり方
間幕劇 猫と彼女のその後
第三幕 猫がいる生活
第四幕 捨て猫の元の飼い主
間幕劇 彼女が拾った猫の名は
第五幕 好奇心、猫を殺す
第六幕 上手の猫は爪を隠す
間幕劇 Has the cat got your tongue?
第七幕 居座り続ける居候猫
居候と猫の彼女
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第一幕 居候猫と新たなる居候
間幕劇 再び拾った猫の名は
第二幕 Who's she? The cat's mother?
第三幕 彼女が拾った猫との生活
第四幕 逃走猫の帰巣本能
第五幕 猫叱るより猫を囲え
居候と猫の飼い主
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第一幕 居候猫と新たなる居候の現状
間幕劇 猫は三年の恩を三日で忘れる
第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
間幕劇 犬猫も三日飼えば恩を忘れず
第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
第四幕 放浪猫の後始末
Gナンバーの居候猫
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第一幕 猫の飼い主に小判
第二幕 少女の心は猫の眼
第三幕 愛猫フォトコンテスト
第四幕 The cat is hungry when a crust contents her.
第五幕 猫眠、暁を覚えず
第六幕 猫の毛並みを確認すると。
居候猫の父の気がかり
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第一幕 居候猫の現状
第二幕 愛猫フォトコンテスト結果発表
第三幕 猫には首輪を。
第四幕 少女の心は、今も猫の眼
第五幕 居候猫の恩返し
第六幕 The cat is in the cream pot.
第七幕 猫の手だって厭わない
第八幕 迷い仔猫の素性
第九幕 迷い仔猫の同居人
奥付
奥付

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迷い仔猫の居候

第一幕 捨て猫の拾い方

 女は、足下を見下ろした。
 人が豆粒のような小ささで歩いているのが見える。
 スカートの裾が、風でふわりと揺れる。
 一つ息を吸う。
 そして女は、ビルの屋上から飛び降りた。


 それは三日間続いた雨が止み、憎らしいぐらい快晴の日だった。
 神山隆二は、切れた珈琲と煙草を買いに普段蟄居している自宅からしぶしぶ出てきた。
 日差しがまぶしい。
 ほどほどに人通りのある道をだらだらと歩く。家から一番近いコンビニが徒歩十分というのはやっぱりよくない。家から二分のところにあったコンビニは昨年末閉店した。たかだか珈琲と煙草を買うのに五倍も歩くなんて非生産的だ。
 などと堕落しまくったことを思いながら、のばしっぱなしの茶色い髪を右手でかきあげる。
 ジーンズのポケットに両手を突っ込んでだらだらと歩く。
『やー』
 上から何かかけ声のようなものが聞こえた気がして、上を見る。
 ぎょっとする、とはこのことだ。
 ビルの上から女が一人ふってきた。
 え、何自殺?
 思わず立ち止まる。急に立ち止まった隆二の背中に真後ろを歩いていたサラリーマンがぶつかった。スーツ姿の彼はちっと舌打ちする。
 すみません、ともごもごと呟いて頭を下げる。
 その間に、女は隆二の鼻先を通り過ぎて地面に落下した。
 アスファルトに頭をのめり込ませて、足だけが二本飛び出ている。なんかで見た事ある光景にしばし考え、
「すけきよかよ」
 有名な小説の一場面を思い出し、口の中で言葉を転がすようにしてつっこむと、その足を通り抜けてコンビニを目指した。
 こうも暑いと変な輩が増えるな。
『って、ちょっとまったー!』
 後ろから声が聞こえる。女の声にしては高すぎず、耳に心地いい程度の高さで、隆二は少し感心する。声量はともかく。
『ちょっとあんた! そこの茶髪にギンガムチェックのシャツきた、むっつりしたそこのあんた! あんた、あたしのこと見えてるんでしょう? うら若き乙女がビルから飛び降りてきたっていうのに無視するなんて一体どういう了見よっ! ひとでなし!』
 ギャギャー騒ぎつつ、近づいてくる。
『聞いてるんでしょう! 逃がしはしないわよっ!』
 女は隆二の前に両手を広げて立ちふさがる。しかし、それは丁度コンビニの前。隆二は女の鼻先で曲がり、すっと店内に入った。
 入ってすぐの角を曲がる。窓際、雑誌のラックの前を通り過ぎる。週刊誌には毒々しい字で「怪奇! ミイラの謎!」という文字が踊っていた。
 いつも飲んでいるインスタントコーヒーを手に取り、レジにむかい、
「マルボロ」
 すっかり顔なじみになった店員にそう声をかける。店員はいつも通り三箱用意してくれた。
『ちょっとちょっとちょっとちょっと!! 何無視してくれちゃってんのよ!』
 慌てて店内に入ってきた女が耳元でぎゃーぎゃー騒ぐ。
 相変わらず愛想のない店員に代金を支払う。
 もっと愛想のいい可愛い女の子もいるのに。なんでこいつはこんなに愛想がないんだか、同じ店なのに。
 黙ったまま金銭の授受が行われる。
『ちょっと、聞いてるの!? 聞いてるでしょう!? なんとかいいなさいよ! あ、だからって「なんとか」ってだけいう、そんなお約束な展開は許さないんだからね! 無視しないでよー!』
 乱暴にビニールに入れられたコーヒーと煙草を持ち、コンビニを後にする。ついでに入り口のところにあったバイト情報誌をとると、袋の中に押し込んだ。そろそろなにか仕事を探さないと。
『あんた、あたしのことをなんだと思ってるのよ? 馬鹿にしてるの!?』
 ぎゃーぎゃー騒ぐ女を通り抜ける。
「なにってそりゃぁ」
 小さく口の中だけで呟く。
「頭湧いた幽霊だろ」
 あっついなー、と空を睨み、家路を急いだ。

 

『ほんっとむかつく、聞こえてるのに無視するとか最低、どういう育て方されたの? お母さんが泣いてるわよ』
 喚いたまま、結局家までついてきた幽霊が、わざとらしく右手を目元にあてて泣きまねをする。芸が細かい。
 出かける前に湧かしておいたお湯をカップに注ぎ、念願のコーヒーを一口すする。昔の知り合いはインスタントなんて邪道だ! なんて言っていたけれども、世の中楽が一番だろう。
『もう、なによ、ティータイム? あ、コーヒーか。コーヒーブレイク? 可愛い女の子放り出してコーヒーブレイク? あたしのハートがブレイクしちゃうわよ、まったく!』
 意味がわからない。
「あんたさ」
 ダイニングの椅子に腰をかけると、両手を体の真横で握りしめて叫び続けていた女を見る。
「そんなに喋っててよく疲れないよね?」
 心底感嘆して呟く。喋るのって疲れるし。
 女は何故かぽかん、っと大きく口をあけてこっちをみる。
「……何?」
 そんな顔をされる理由が思いつかず、問いかけると、
『あなた、あたしが見えるのっ!?』
 勢いよくこちらに身を乗り出してくる。テーブルの上に手をついて、結局勢い余ってめり込んだ。
「は?」
 驚いたかのように見開かれた、アーモンド形の瞳をみつめる。
「あんた、散々喋ってたのに。気づいてたんじゃないわけ?」
『え……、最初は見えてるのかと思ったけど、あまりに無視するから違うのかと思ってた……』
 もっと無視しとけばよかった。
「じゃあ、なに家までついてきてるわけ?」
 呆れて問うと、
『暇だったから』
 何故か女は自信満々に答えた。
「ああ、そう」
 変な幽霊。思いながらコーヒーをもう一口。
『ちょ、じゃあ、なんで無視してたのよっ!』
「道ばたで会話したら、空気と会話している怪しい人だろ」
 肩をすくめる。
『あなた、自分が空気と会話する怪しい人になりたくないなんて緩い理由で、あたしみたいにかわいくて、チャーミングで、美しくて、うら若き乙女の呼び声を無視したの!? 最低だわ』
「いや、ふつう無視するだろ」
 自分で可愛いとかチャーミングとかいうのもどうかと思うし。
「で、あんたなんだよ。こんなとこまでついてきて」
『暇だって言ったでしょう?』
 女は、ついさっき言ったのにもう忘れちゃったの? と小馬鹿にした顔をする。なんとなく腹が立ったが、ぐっと堪えた。
 いちいち怒っていたら、多分、話が先に進まない。話を先に進める必要性があるのかも、甚だ疑問だが。
「暇ってなあ。っていうか、幽霊ってそういうものなのか? 本来なら怨念とか未練とかそういうものがあるんじゃないのか?」
 忙しいかはともかく、こんな風にぷらぷらはしていられないはずだろう。
『だって』
 と、幽霊の女は不満そうに唇をとがらせると、
『あたし、自分がなんだったかわからないんだもの。記憶喪失、っていうの?』
 一瞬の沈黙。
 時間をかけて女が言った意味を飲み込むと、
「……幽霊って、記憶喪失だったりするんだ」
 へー、驚いたと言うと、
『ん? 今のはバカにしてたわね?』
 にらまれた。そりゃあ、バカにしたくもなる。
「じゃあ、生前の記憶とかまったくなし? 自分が誰だったか、とか」
『うん』
 それは困った。お引き取りを願おうにも、未練はもとより、なにもわからないならば成仏していただくのも困難だ。
「ビルから落下したってことは、飛び降り自殺とかだったのかな」
 唯一の手がかりをもとに、死因の特定に走るが、
『あ、あれ? あれは単に暇だったから遊んでただけ』
 はたはたと片手をふる。こいつうぜー。ちょっと思った。
「遊んでたって」
『なんていうか、バンバンジー感覚?』
「バンバンジー……?」
『……あれ、違う?』
 首を傾げる。
「……多分だが、バンジージャンプ?」
『そーそれ!』
 あなた物知りねーと笑う。お前がばかなだけだろ。
『最初はね、ビルの上から道行く人を見てたりして、そういうのが楽しかったんだけど。段々飽きて来ちゃって。そしたら電気屋さんのテレビでバンジージャンプ? やってて.楽しそうで。それで、試しに飛び降りてみたらすっごい爽快感で!』
「あー、そう」
『でも、みんな気づいてくれないからつまんなかったんだけど。そしたら、あなた、立ち止まるじゃない? だからこれは見えてるな!! って思ったの』
 満足そうに女は微笑む。
 それから、
『まあ、ともかく。そんなわけであたし自分がどうしたらいいかわかんないし、一人だと暇だし、幸いあなたあたしがみえるみたいだし!』
 腰に手をあててなぜか上から目線で幽霊女は言った。
『ここにおいて頂戴』
「ご自由に」
 ある程度予想できた言葉に、さらりと返事した。
『え、そんなあっさり!!』
 逆に女が焦ったような声を出す。
『言い出しておいてなんだけど、あなた、そんなに簡単に他人を家においていいの? そんな不用心でいいの? 大都会は危ないのよ? 大都会の闇! 家出少女達を待ち受けるものとは一体! みたいな』
 なんだろうか、そのやすっぽい特集番組みたいなあおりは。そもそも、家出少女に該当しそうなのはそちらだし。
「いいの? とか言われたって。一般の防犯対策効かないんだから追い出したって意味ないだろ。追い出せないし」
 でていけ! と言ったところで、幽霊ならば居座ることは簡単だ。ドアだって窓だって壁だってすり抜けられるのだから。
『え、じゃあ本当にいいの?』
「あー、まあ」
『嬉しい! あなたいい人ね!』
 言いながら両手を広げてこちらに向かってくる。
 半身をかわして避けた。
 女はそのまま、壁にめり込む。
 足がびよんっと壁から生えた。裸足の足。
『何よ!』
 すぽんっと顔を引き抜いて、女が睨む。
「なれなれしいだろ」
 言うと、
『もう、照れ屋さんなんだからぁ』
 しょうがないわね、といった体で返された。
 今からでも遅くないから、放り出そうか。ちょっとだけ思った。
「……勝手にしろ」
 でも、色々諦めてそう言う。
 ずっと一人でやってきたのだ、幽霊の一人ぐらい家に置いても問題ないだろう。人間じゃなくて、幽霊なのだから、間違いが起きる訳もないし。
「まあ、しかしあれだ。名前ないと呼びにくいな」
『じゃあつけて頂戴』
 優雅に微笑むと、女は言った。
 なんで偉そうなんだろうこいつ。
 幽霊女の頭の上からつまさきまでゆっくりと見る。
 眉の上で切りそろえられた前髪の下から、つりめがちの瞳がのぞく。よく見ると瞳は緑色だった。
 鎖骨の下でゆるくカールしている髪も緑色がかっている。
 白いワンピースからすらりとした手足が伸びている。ふわふわ浮かんでいるからわかりにくいが、女子の平均身長以上はあるかもしれない。
 全体的に上手く配置された形のいいパーツ達。なかなか人間だったころは、美人でモテたことだろう。
 惜しむべきはなんの起伏もない胸か。ぺったんこにもほどがあるだろ。見た目十代後半ぐらい、これから成長する……予定だったのか。これは無理そうだな。
 女は、自分で言ったくせにつまらなさそうに髪の毛を指先に巻き付けている。毛先をじっと見つめている。幽霊にも枝毛ってあんのかな。
 なんだか猫みたいだなー、と思う。気まぐれで自由気ままで。
 そういえば以前、少しだけ猫の面倒をみていたことがある。一緒に住んでいた人間が飼っていただけだが。あの猫はもうちょっと大人しかったぞ。
 少し昔を思い出してため息。その話は忘れよう。
 もう一度、上から下まで眺め、
「マオ」
 一言告げた。
 沈黙。
『あ、それ、あたしの名前?』
 一拍置いてから女が言った。人差し指で自分の鼻を指差す。
「ああ」
 忘れかけていたコーヒーを一口。
『マオ、マオ』
 女は小さく呟く。
『ねっ、ねっ、どういう意味?』
 下から顔を覗き込んでくる、小首を傾げて。それはさながら、テーブルから生える、女の生首。
「猫、中国語で」
『猫!』
「猫っぽいから」
『猫っぽい!』
 何故復唱する。
「気に入らないなら自分で考えろ」
 めんどうになってそういうと、女の視線から逃れるようにそっぽを向いた。
『いい、いい! 気に入った』
 隆二の視界にぐるっとまわりこむ。
『ありがとう! ええっと……』
 言って首を傾げるので、
「あー。神山隆二」
 名乗った。
『隆二ね!』
「呼び捨てかよ」
『あたしのことも呼び捨てでいいのよ? その、マオ……って』
 何故か視線を床に向け、少しだけ頬を染めて言う。
「あー」
『よろしくね、隆二!』
 顔をあげてにこやかに微笑む女を見て、
「あー、よろしく」
 ため息まじりに苦笑しながらも、隆二は頷いた。
「マオ」
 名前を呼ぶと、ぱっと花が開いたように、嬉しそうに、マオは笑った。 


間幕劇 猫と彼女

「ほらほら、おいで」
 彼女は、片方の手を伸ばしながらそう言った。
 何度かそれを繰り返すうちに、相手は警戒しながらも少し近づいて来た。
 そして……、
「痛い!」
 彼女は伸ばしていた方の掌をひっこめると、押さえ、小さく悲鳴をあげた。
 その隙に彼女をひっかいた猫は逃げていく。
 その後ろ姿を見送ったあと、彼は彼女の掌をとる。
「血は出てない、な。とりあえず、あとで消毒しておけよ」
「はい」
 彼女は素直に返事をすると、掌を見つめため息をついた。
「これで今週入ってから三日目だ……」
「……今日は火曜日だったと記憶しているが?」
 彼は唇を皮肉っぽく歪めてそういうと、彼女はふくれた。
「どうせ、毎日毎日ひっかかれていますよーだ!」
 そのまま、べぇっと舌を突き出す。彼はそれを呆れたように見ていたが、少し経つとそれをひっこめ、真剣な顔をして言った。
「……茜、やっぱり野良は警戒心が強いから気をつけた方がいいんじゃないか? 傷口から何か病原菌に感染してしまってから嘆いても遅い」 
「隆二、そうは言うけれども、」
 不服そうに頬をふくらませる彼女を遮る。
「というか、人に平気で近づいていくような野良は駄目だろう。生き残れない」
 そういうと彼女は少しうつむいた。
「そっか、そうだよね……」
 そのとても残念そうな様子が見るに耐えなくて、彼は続けた。
「だから、餌を与えたいならばここに置いておけばいいんじゃないか?」
 そういってほらっと、物陰からこちらを見ている猫を指さす。
「あ、そっか」
 彼女は嬉しそうに笑うと、煮干しの入った袋を取り出し、地面にばらまく。それから、猫の方に手を振った。
「それじゃ、私たちは行くからゆっくり食べて大きくなるのよ」
 どこか間の抜けたその言葉に苦笑しながら、彼は歩き出した彼女の後をついていく。

 夕暮れ時の土手を二人で歩く。
「そんなに猫が好きならば、飼えばいいだろう」
「う~ん、でもねぇ」
 彼女は彼の言葉に首を傾ける。
「それはそれで色々と問題があるからな。餌代とか躾とか。飼いたいのはやまやまだけど。それに、先生は私が猫と触れ合うのあまりいい顔しないから」
「だろうな。おまえ、ただでさえ体弱いのにその自覚ないから」
「何よ、その言い方」
「あまり無茶をするな、と言っているんだ」
 冷たい言い方ではあるが、それが口下手な彼にとって「ものすごく心配だから無茶はしないでくれ」を表す言葉だと気づき、彼女は少しくすぐったそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。
「うん、気をつける。ありがとう。……あれ、でも、飼ってもいいの? 前は嫌そうにしていたのに」
「毎日毎日、野良に餌をやりに行くのにつき合わされるよりは幾分ましだ」
「……そう」
 彼女は小さくため息をついた。それから、あ~あと大げさに嘆く。
「なんだ、てっきり隆二もついに猫の可愛さに気づいたのかと思ったのに」
「俺は未だに思うぞ。あんな懐かない生き物のどこがいいのか、と」
 彼女はわかってないなぁと人差し指を顔の前で数回振り、続ける。
「確かに猫って、こちらが気を引こうと一生懸命になっても向こうは冷めた目で見てくるだけよね。だけど、時々、本当に向こうの都合でしかないのだけど、気が向くと甘えてくるのよ。不思議なものでね。ちっとも懐かないから嫌いだ、って思っていた猫も一度甘えられると手放せなくなるのよねぇ」
 まるで恋する乙女のような目をして猫について語る彼女を見ながら、彼は小さく肩をすくめた。彼女はそれを見咎め、あ~と叫ぶ。
「何よ、今の態度は!」
「思ったことをありのままに表現しただけだ」
「もう、隆二はいつもそうなんだからっ! そういうときは嘘でも、『そうだね』とか言ってくれればいいじゃない!」
「そうだね」
「白々しい!」
「嘘でもいいと言っていただろう?」
 むきになる彼女が愛らしく、彼は楽しそうに笑う。めったに笑わない彼の笑みを見て、彼女も結局それ以上言及するのはやめた。
 代わりに違うことを呟く。
「……そういえば、隆二って猫に似ているわね」
 そういうと、彼は不愉快そうに片方の眉を上げた。
「俺が、猫に?」
「そうよ、似ているわよ。だって、最初はあんなにつけどんどんで、人がせっかく助けてあげたのに、全力で嫌がるし、すぐにふらりとどこかに行っちゃうところし、気まぐれだし、でも優しいし、そっくりじゃない」
「似てない」
 何もそこまで否定することはないだろうと、我ながら思うのだが何故かむきになって言い返すと
「似ている!」
 彼女の方もむきになって言い返してきた。
「似てない」
「似ている!」
「似てない」
「似ているっ!」
「似てないったら似てない」
「似ているっていったら、似ているの!」
 途中で子どもの喧嘩みたいな状態になったことにお互い気づき、黙る。自分達はいま、一体何をしていたのだろうか。
「……なんでそんなに否定するのよ」
「そっちこそ、なんでそんなにむきになるんだよ。似ていると茜が思うなら俺が何と言おうと似ていると思いつづければいいじゃないか。思うだけなら自由だぞ」
「私ね、猫が好きなの」
 脈絡の無い言葉に眉をひそめる。
「それは十分すぎるほどよく知っているが、何で今それを?」
「私、隆二のことも好きよ」
 いきなりのまっすぐな言葉に、歩いていた足を思わず止める。
 彼女はまっすぐに彼を見つめて言った。
「勿論、それは隆二が猫に似ているから好き、なんている理由じゃない。隆二に対する想いと猫に対する思いが同じ訳でもない。でもね、私は隆二も猫も好きだから、私の好きな隆二が私の好きな猫のことを好いてくれたら嬉しい。そうすれば、隆二も猫ももっと好きになれると思うの。だから……、」
 段々、彼女は自分が何を言いたかったのかわからなくなり、言葉が尻すぼみになる。
 少しの沈黙。
「……わかった」
 彼は口元に微苦笑を浮かべながら、ぽんぽんと彼女の頭を撫でて、でも恥ずかしいので視線は合わせないで言う。
「まあ、善処するよ。猫を好きになれるように」
 そういうと彼女はくすぐったそうに笑った。
 そして、彼女は最後に照れ隠しの意味もこめて言った。
「隆二も、猫を飼ってみればいいのよ。そうすれば、絶対そのかわいさに気づくから」

 にゃ~

 彼女が言い終わったと同時に、鳴き声がした。
 彼女は意中の人に会いに行く乙女のように顔を輝かせ、視線をさまよわせる。
 既に、大好きなはずの彼のことなど視界に入っていないようだった。
 それを見ながら彼はため息をついた。彼女が仕組んだのではないかと思わせるぐらい、絶妙のタイミングだったと思って。
 それから、もしかしたら自分が猫が好きになれないのは、柄にもなくヤキモチを妬いているからかもしれないと思った。猫にヤキモチを妬いているなんて、みっともなくて彼女にはいえないが。
 でも、もしヤキモチを妬いていると言ったら彼女は少しは喜んでくれるのだろうか。それならば、いつか機会があるときになら言ってみてもいいもしれない。
 彼がそんなことをつらつらと考えている間にも、彼女はダンボールを見つけだす。慌ててそちらにかけていき、中を確認すると、腕を組んで傍観者に徹していた彼を手招きする。
「ちょっと、隆二来て」
 その声にせかされて、いささか早歩きでそこまでいった彼に、彼女はダンボールを抱えさせる。中をのぞいてみたら、予想通り子猫が震えていた。
 黒い子猫だった。黒猫は不吉だといわれるが、薄汚れているがそれでもわかるような、綺麗な毛並みをしていた。黒というよりも、漆黒。
 緑の瞳でじっとこちらを見てくる。
「……茜?」
「けがしているみたい、捨て猫かしら? かわいそうに、まだこんなに小さいのに」
 不可解そうに彼女の名を呼ぶ彼を、彼女はまったく相手にしない。
「茜?」
 もう一度、先ほどよりも強く名を呼ぶ。
「ねぇ、隆二」
 彼女は再び彼を遮り、彼の前に回り込み言った。
「助けてあげなきゃね」
 彼は数秒、何を言おうか悩んだが、結局何も言わずに歩き出した。
 彼女が一度言い出すときかない性格なのはよく知っているし、大体さっき自分で飼えばいいじゃないかと言ったばかりだ。
 それ以前に、こんな嬉しそうな彼女に駄目といえるわけが無い。
 もし、神様とやらがいるのならばずいぶんと卑怯だと思う。
 彼女は彼の隣を歩きながら、幾分嬉しそうに、そして少し哀しそうに猫の鼻先をつっつく。それから、顔をあげて言った。
「これで、隆二も猫のかわいさがわかるわね」
 彼は何も言わず、呆れたようなため息で返した。
 にゃ~
 嬉しそうに鳴く「恋敵」が恨めしかった。 


第二幕 猫への餌のやり方

 少女は呼びだされた。そして大変無責任な指令をうけとった。
 どこに逃げたのかもわからない実験体を探せと言われた。
 組織の末端である少女に拒否権はなく、しぶしぶと立ち上がった。
 幸い、目撃情報は沢山あった。
 とりあえず、その最後の目撃情報の場所に向かう事にした。


 工藤菊はいつものようにコンビニでバイト中だった。
 この今時「菊」なんていう名前をもっている十九歳の少女は大のオカルト好きである。彼女曰く、「累の怪談」で憑依される少女とか、「四谷怪談」の伊右衛門の末娘とか、「番町皿屋敷」の下女とかに共通して見られる「お菊」という名前には「死者の声を聞く」という意味があって、「菊という名前をもつ私は死者の声を聞かなければ」ということらしい。
 見た目は、完全に今時ギャルなのに。
 ちなみに、オカルトは好きなものの彼女に霊感は皆無である。未だに死者の声を聞いたことはない。
 そんな彼女が最近ニュースで話題になっているミイラ事件に興味をしめさないわけはなかった。
 ミイラ事件。二カ月程前から、発見される屍体。最初の屍体の身元はまだ若い女性だったが、肌はかさかさに乾燥し、というか、体全体が乾燥し、まるでミイラのような状態で路上にて発見された。
 その後も、一週間に一度のペースで、計七人が被害に遭っている。全員がミイラのような状態で発見されている。
「猟奇的よねー」
 と、菊は呟いた。店内には今、客がいない。
「被害者が若い女性が多いっていうのも、なんかねー」
「これはきっと人間の仕業じゃないわ!」
「吸血鬼とか?」
「チュパカブラかも!」
 オカルト、都市伝説、全般が彼女の守備範囲である。
「チュパ……?」
「それとも新種のなにかかしら? だって血は抜かれていなかったのだもの、チュパカブラではないわよね」
「ね、ちゅぱかぶら? って何?」
 同僚バイトと盛り上がる。主に菊一人で盛り上がる。
 ドアの開閉に伴う音楽が流れる。車の音が店内に流れ込んでくる。
「っと、いらっしゃいませー」
 入って来たのは常連の青年だった。男性にしては少し小柄で、イマイチ愛想のない人だった。今日もグレーのシャツとジーンズという極めてラフな格好だ。
 ひょろっとしていて不健康そうで、何をしている人なのか気になっている。
 定期的に来て、インスタントコーヒーと煙草を買って行く。煙草はいつもマルボロを三箱。菊はそそくさとマルボロを三箱用意した。
 レジにやってきた青年はいつもと違って、おにぎり二つとサラダを持っていた。
 そのまま何も言わない。
「……あれ、あの、煙草は?」
 思わず聞いてしまう。
 青年は一瞬右肩の辺りを鬱陶しそうに見てから
「今日はいい、です」
 そう言った。
 そのまま、おにぎりとサラダを買って店を出て行った。
「珍しい、煙草買わないなんて……」
「ねー? 禁煙かなー、カノジョに怒られたとか?」
 同僚が小さく呟いた。
「え、カノジョいんの?」
「いや、知らないけど」
「いるなら見てみたいわー」
「なんかでも、面食いっぽいよねー」
「あー、なんかわかるー。超美人な人とか連れてそうー」
「で、尻に敷かれてそうー」
「えー、それはわかりかねるー」
 そのまま、あの人の恋人はどんな人間か、ということで盛り上がりだした。

 

 

『偉いじゃない! ちゃんと禁煙して! 見直したわ!』
 おにぎり二つとサラダが入ったコンビニ袋を下げてあるく隆二の背後でマオが言った。
「んー」
 適当な相槌をうつ。だから外で話かけんなって。
 マオが居着いて一週間が過ぎた。
 最初は割と、今から思うと比較的、大人しくしていたが、しばらくしたら慣れたのか煙草を吸っている隆二の目の前で、
『煙草は体に悪いのよ!』
 と突然言い出してきた。
『あなた、死ぬわよ!』
「インチキ霊能力者かなんかか、お前は。死ぬわよ! とか言って壷でも売りつけんのか」
『れっきとした科学的事実! 煙草は体に悪いのよ! 禁煙しなさい!』
 居候の分際で偉そうに。大体幽霊が科学的とかって言葉を使うのはどうなんだ。
 無視してもよかったが毎日のように同じ事を言われると、さすがに精神的にしんどかった。相手をするのが。
 増税で値上がりしたし、多少節約してもいいだろうとそれに従っている。
 事なかれ主義、万歳。

 自宅に戻り、バイト情報誌を見ながら、買って来たおにぎりを咀嚼する。
 ぱりぱりの海苔も、少し堅いお米も、久しぶりに食べるとそう悪いものでもないような気がした。
 ぱらぱらと、バイト情報誌の短期バイトの辺りを見る。
 貯金はまだまだ余裕があるが、最近予想外の出費が続いている。金銭に余裕があるにこしたことはない。何か適当なものはないかと思っていると、
『りゅーじー、テレビ』
 襖をあけっぱなしにしている部屋から、マオの声がする。そっちを見ずにリコモンをいじった。
 正午からはじまるサングラスの司会者の番組がマオはどうやら好きらしい。今はまだお昼のニュースをやっていた。
 2DKの部屋。一部屋が寝室、もう一部屋にはテレビと赤いソファーだけを置いていた。ソファーは以前、もらったものだ。
 マオはその赤いソファーが気に入っているようで、よくそこに寝転がり、テレビを見ている。どうやらテレビもやたらと好きらしい。隆二一人だとそんなに見ることがなかったテレビが、マオが来てからフル稼働だ。
「ミイラ事件の続報です」
 テレビが告げる。
 ああ、あの事件、まだ解決してなかったのか。
 ふっとマオをみると何故か真っ青な顔をしていた。隆二が見ているのに気づくと
『あ、あたあたあたし、さ、散歩行ってくるね』
 慌てて立ち上がろうとしてこける。幽霊もこけるんだなーとか思いつつも
「マオ」
 ひとこと呼ぶと、びくっと動きをとめた。
「ここに座れ」
 テーブルの向かいの椅子を指差す。マオはしばらくおどおどと視線をさまよわせたあと、ゆっくりと腰掛けた。律儀に正座している。
 怒られる気、満々だな。
「お前の仕業か」
 テレビを指差す。話題はとっくに、どこぞの国で世界一大きいピザのギネス記録に挑戦したとか、そんな緩いものになっていたが。
『……はい』
 マオはおどおどと視線をさまよわせ、小さい声で呟いた。
 ミイラ事件、まるでミイラのようになって発見される屍体。
 それはつまり、
「精気を抜いたな?」
 尋ねると、マオは小さく何かを言って、俯いた。
「それは、どういう意図で?」
『……いと?』
 目線だけあげて、マオが首を傾げる。
 伝わらなかったか、バカだから。
「理由」
『……その、あたし、それがないと、消えちゃうから』
 今にも消え入りそうな声で言われた。
「……なるほど」
 人の精気を喰らい、存在する幽霊。
 まったくもって何者かわからない。
「お前は本当、わけのわからない幽霊だなー」
 呆れて呟く。
 テレビは、マオの好きなお昼の番組のオープニング曲を流しはじめた。
「あ、テレビ、始まったぞ」
『……え』
 マオは上目遣いで伺うようにこちらを見て来た。
「なんだ?」
『……お話、終わり?』
「ん? ああ。確認したかっただけだし。まだなんかあるのか?」
『……そうじゃなくて』
 もじもじとスカートの裾を両手でいじりながら、
『……怒ってないの?』
「怒る? 何故?」
 本気でわからなくてそう聞いた。
『だって、あたし……、人、殺しちゃったし……』
「だって、食事だろ?」
『……それは、そうだけど。でも……』
「人間が豚や魚を食べるのとなにが違うんだ?」
 マオは上目遣いでこちらを見たまま、首を傾げる。
「無益な殺生だったらやめておけ、と言うが。別に、生きていく、存在していくための殺生ならば構わないだろう。まあ、いただきます、ぐらいは言った方がいいと思うが」
 そこまで言って、片手にもったままのおにぎりを思い出す。
「……うん、いただきます」
 なんとなく呟いて、咀嚼した。
 マオは黙ったまま、そんな隆二を見つめ、
『……本当に、怒ってないの?』
「ん? ああ。別に、赤の他人の生き死にとかどうでもいいし」
 死んで困るような知り合いも、いないし。
 言いながら、サラダの蓋を開ける。
『……ありがとう』
 小さく小さく、マオが呟いた。
「ん?」
『ううん』
 マオが顔を上げる。何故か、すこぅしだけ、微笑んでいた。
「まあ、殺さないで済むならそっちの方がいいんだろうけどな」
 フォークをサラダにつきたてる。
「死者が出たから、今はこうやってニュースになってしまっているけれども。殺さずに済むのならば、ニュースにはならないだろうし。健康な人間から死なない程度に精気とったら目眩とか、ちょっと体調崩すぐらいで済むはずだろう」
 多分、と小さく付け加える。そんな詳しい事なんてわからないが。
『……うん』
「そういうことはできないのか? 一人から少しずつとか」
『……出来なくは、ないんだけど』
 俯きはしないものの、スカートの裾をいじりながら、
『寝てる人とか、意識のない人からとるなら、ちょっとずつっていうのも出来るんだけど。……普通に、活動している人からとっちゃうと、死んじゃう、みたい』
「なるほど。……っていうか、今まで普通に活動している人からとってたのか、お前は」
 どうやって精気を喰らうのかは知らないが、それはなかなかに、シュールな光景のような気がする。
『うん。お腹が空いた時に、近くにいた人から……。あ、でも、物陰でだよ?』
「白昼堂々と通行人がミイラ化したらもっと大事になるだろうな」
 そんな面倒なことになっていなくてよかった、と心底思う。
「っていうか、寝ている人間からとればいいだろ、そんなの。お前なら家の壁すーっと抜けて入れるだろうし」
『あ、でもね。寝ている時も、とれる時ととれない時があって』
「ん?」
『ええっと、なんだっけ。れ、れもん?』
「レモン?」
 なぜ、ここにきて果物。それとも、梶井基次郎?
『レモンじゃない。ええっと、のんけ……? のんれ……? すいみん……』
「……レム睡眠とノンレム睡眠?」
『そう、それ!』
 助け舟を出すと、マオは嬉しそうに両手を叩いた。
 レモンは絶対違う。
『ええっと、それで、……どっちがどっちか忘れちゃったけど、とれない時があって。確か、深い眠りのとき? でも、まあ、それで、……面倒になっちゃったの』
 てへ、っと舌を出して笑う。
「面倒になっちゃったって」
 そんな理由で活動中の人間から精気を奪っていたのか。
『あ、でも、でも』
 呆れたように隆二が呟くと、マオは慌てた様子で、
『隆二が駄目っていうなら、ちゃんと寝てる人からとるよ?』
 隆二の顔色を伺うようにして、首を傾げる。
「あー、出来るなら是非、そうしてくれ」
『はーい』
 元気よく、右手を挙げてマオは返事した。
『……でもね、その、最近ずっと、食べてなくて、あの……』
 胸の前で指を組み、上目遣いで小首を傾げて、可愛らしく一言。
『お腹、空いちゃった』
「……それを俺に言ってどうしろと」
『だからね、その……』
 何故か少しだけ頬を赤く染めて、
『食べても、いい?』
「それは普通嫌だろう」
 即答した。
『……だよね』
 あからさまにマオは落胆した。しゅーんっと肩を落とす。
「大体、今までの被害者は若い女性ばかりだったろ。それがお前の好みじゃないのか。食の」
『え、うん。若い女の人が美味しい……。でも』
 目線だけ隆二に向け、少しはにかみながら、
『隆二なら、いいかなぁって』
「なんだそれは」
 意味がわからない。
『……なんでもない』
 マオは一瞬泣きそうな顔をしてから、俯いた。
 なんだかよくわからないが、落ち込ませたことだけはわかった。
「あー、まあなんだ。手伝うぐらいなら」
 慰める意味も込めて、そう言う。
『……手伝う?』
「意識がなければいいんだろ? あんまり穏便な方法じゃないが、道行く人にこうちょっと、意識を失って頂くぐらいならば」
 あんまり穏便じゃないというか、立派に犯罪な気もするが。
『いいの?』
 ぱぁっとマオの顔が華やいだ気がした。
「目立たない方がいいからな、お互い。今は平気でも、あんまりニュースになると、どこからかマオの存在が漏れるかもしれないし。うっかり俺がけしかけたとか言われても嫌だし」
 自分を納得させるように呟く。
 マオはちょっとだけ顔をしかめてから、
『うん、ありがと!』
 嬉しそうに笑った。
「……まあ、俺が飯喰ってからな」
 その笑顔に少しだけ圧倒されながら、言う。
『うん、待ってる!』
 ぴんっと右手を挙げる。そのまま、すぃーっと移動して、テレビの前を陣取った。
 マオの感情の流れについていけない。
 楽しそうに笑いながらテレビを見るマオを見ながら、残りのサラダにとりかかった。

 

「おつかれさまでーす、お先でーす」
 工藤菊は、バイトを終えるとコンビニを出た。今日は大学は休みなので、このまま帰って家で漫画でも読もう。大好きなオカルト漫画の続編、今日にでも宅配便で届いているはずだ。
 うきうきしながら、足取り軽くコンビニの横を曲がる。裏道を通り抜ける。
 今日の夕飯はなんだろう。実家暮らしなので母親が作ってくれているはずだ。昨日は魚だったから、今日は肉がいいなー、そんなことを考える。
 ふいに、どんっと背中に衝撃を感じた。
「えっ?」
 何が起きたのか。
 振り返ろうとしたところを、今度は首筋に衝撃。
 視界が暗くなる。
 意識を手放す直前、常連の青年の姿を、見たような気がした。

「……やべ、顔見られたかも」
 倒れかけた菊を片手で支えながら、隆二はぼやいた。
『えー、大丈夫? ドジねー』
 非難するようなマオの口調に、誰のためにやってんだ、と思う。まあ、ドジなことは否定しないけれども。
 首筋に手刀を叩き込み、気絶させた菊を、そっとアスファルトの上に寝かせる。
『でもすごいねー、あっさり気絶させて。なんかやってたの? 剣道とか』
 感心したように言いながら、両手の拳を合わせ、振り回すマオ。
 剣道はおそらく関係ないだろうし、その素振りはどちらかというとバッドを振り回しているようだ。
「そんなとこ。いいから、はやく」
 促す。
 マオは、はーいと返事して、菊の横に座り込んだ。
『いただきます』
 両手を合わせて呟く。
 これまたご丁寧に。
 そう思ったところで、そう言えば「いただきます」とでも言えばいいんじゃないか、と自分が言ったことを思い出した。どれだけ素直なんだ。
 どうやって食事をとるのだろうと思いながら見ていると、マオはかがみ込み、倒れた菊の唇に自分の唇を重ねた。
 隆二はしばらくあっけにとられてそれを見ていたが、慌てて後ろを向く。
 少女二人のキスシーンなんて、見るもんじゃない。
 食事って、精気を喰らうって、文字通り喰らうんだな。口から。
 屍体で発見された女性達は、普通に活動しているところを、この謎の幽霊にキスされていたわけか。その光景を想像し、なんとも言えない気分になる。

『りゅーじ』
 しばらくして、若干舌足らずな声で呼ばれ、振り返る。
『ごちそうさまでした』
 立ち上がったマオが、両手を合わせて少し頭を下げた。
「あー、うん」
『……生きてるよね?』
 足元の菊を見る。
 近づいて確認する。
「大丈夫」
『ん』
 マオは満足そうに頷いた。
「いいのか?」
『うん』
 マオは頷き、それから何故か、しゃがみこんだ隆二の背中におぶさろうとする。
「やめろ」
 それを、身をかわして避けた。
『酷い』
「酷くない」
『馴れ馴れしいって最初言ってたけど、まだ駄目なの? もう十分仲いいじゃない! あたしたち、共犯者じゃないっ! 同じ穴の狢じゃない!』
「あー、どっからつっこめばいいかわからないけど、だからって馴れ馴れしいことには変わりないだろ」
 ため息をつきながら、隆二は立ち上がる。
『でも、少しぐらい、……触らせてくれたって、いいじゃない』
 少し頬を膨らませて、マオが言う。
「触れないだろ、幽霊さん」
 呆れて言うと、ますます頬を膨らませた。
『……意地悪』
「意地悪くねーよ、事実だよ」
 足元の菊を見る。
 起こすかどうしようか少し悩み、起こしたってどこにもプラスになる要素はないな、と判断する。
 先ほど顔を見られていたら不審者決定だし、例え顔を見られていなくても、いきなり自分のバイト先の常連客に起こされたら不審だろう。
 自分が捕まったら元も子もない。
「ほら、帰るぞ」
 言って、菊に背を向けて歩き出す。
『あ、待って』
 慌ててマオが隣に並ぶ。
「はー、顔見られたかも知れないし、もうあのコンビニ行けねーな」
『もー、間抜けなんだからー』 
 だめでしょ、と窘めるようにマオが言う。
「誰のためだと思ってるんだよ、誰の」
 些か呆れて言葉を返す。
『んー、あたしの? えへへ、ありがとう』
 隆二の正面に回り込み、屈託なく笑う。
「どーいたしまして」
 マオは照れたように笑い、くるくると、隆二の周りを回る。
「……うぜ」
『んー?』
「隣。視界塞がれて邪魔だから」
 言うと、何故かとっても嬉しそうに笑い、隆二の隣に移る。そのまま、宙に浮くのをやめ、歩くように移動する。
 そして右手を伸ばし、隆二の左手を掴もうとして、
「だからやめろって」
『むー』
 空振りに終わった手を見て、マオがふくれる。
『ケチ』
「ケチじゃない」
 路地裏を出る。
『酷い、ケチ! 意地悪っ!』
 マオが隣で騒ぐ。
 が、人通りの多いところに出た以上、隆二はもう反応しない。
『うわっ、また無視する。さーみーしーいー。ねー、寂しいと兎は死んじゃうんだよぉー』
 お前は兎じゃないだろう。そもそも、もう死んでいるだろ。
『さみしいさみしいさみしいさみしいしんじゃうー』
 ぐるぐると、また隆二の周りを回る。鬱陶しい。
『はう、胸の辺りが苦しい。これはきっと、寂しいからだわ。死因は孤独死ね!』
 孤独死って、そういうことじゃないような。
『ねーねーねー、りゅーじぃー、かなしいよぉー、むししないでよぉー、りゅーじぃーねーねーってばぁー』
「……はぁ」
 小さくため息。
「そのうち、頭ぐらいは撫でてやるよ、そのうち」
 ぐるぐる回るマオの耳が、顔に近づいた時を見計らい、小さい声で呟く。
『えっ!』
 マオが動きを止める。
 それにあわせて、立ち止まりそうになるのを慌てて耐える。少しマオを避けて、先に進む。
『え? え? 頭撫でてくれるの? そのうち? そのうちっていつ? ねえねえねえ、明日? 明後日? 明々後日? 来週? 来月? 来年? 地球が何回まわったとき? ねー、いつ?』
 慌てて追いつき、隣に並んだマオは、うるさくて鬱陶しいことに代わりはなかった。
 そのうちはそのうちだって。
 言葉は返さず、家に向かって歩く。
 それでも、何かに満足したのか、
『まあ、今はそういうことでもいいけどねー』
 それだけ言って、マオは大人しくなった。
 なんでこっちが譲歩された形になっているのか。
『しっかし、隆二は、優しいのか冷たいのか、わかんないわねー』
 楽しそうにくすくす笑いながらマオが言う。
 答えずに、小さく肩だけ竦めた。
『ねー、兎は寂しいと死んじゃうっていうじゃない? 人間はどう思う?』
 隆二の隣をふよふよと浮かびながら、唐突にマオがそんなことを言う。
 返事がないのを気にすることなく、マオは続ける。
『あたしね、思ったの。人間は、寂しくても死なないの。きっとね、つまらないと死んじゃうの』
 隆二は横目で、マオを見た。
『人間はね、寂しいなんていう高等な感情は持ち合わせいないの。人間のいう寂しいはつまらないってことなのよ』
 一体どこで仕入れてきた知識なのか、急にそんなことを言い出す。
 いずれにしても、隆二にしては、理解しきれていなかった。
『誰かがいなくて寂しいとしても、何かよりどころ、すなわち「楽しいこと」があれば平気なのよ。本とか音楽を好むのはそれが理由』
 そして、マオはぽつりと呟いた。
『だから、あたしは貴方がいなくなると死んじゃうのよ?』
 聞き流すつもりでいたのに、頭がそれを理解した瞬間、心臓が止まるかと思った。
「なにを言ってるんだ、おまえは」
 外であるにもかかわらず、思わず横を向いて尋ねてしまった。
 すれ違った女性が変な顔をした。
 いくら不意打ちだったからとはいえ、動揺している自分が情けない。
『だって貴方以外にあたしが見えて、あたしによくしてくれる人、あたしは知らないもの。貴方がいなくなったら、あたしはつまらなくて死んじゃうわ』
 マオはなんでもないことのようにそう言うと、微笑んだ。
『だから、これからも、あたしの傍にいてね?』
 隆二は何かを言おうとして、結局コメントを控えた。

「あの、大丈夫ですか?」
 菊は何度かかけられた声に、ゆっくり目を開けた。
「あ、あれ?」
 背中が痛い。頭も痛い。
 自分の状態を視線を動かし、確認する。
 地面に、倒れている……?
「んー?」
 首を傾げながら、ゆっくり上体を起こす。
「大丈夫ですか?」
 声をかけてくれた少女が、慌てて背中を支えてくれた。
「あ、はい。すみません」
「通りかかったら、人が倒れていたのでびっくりして」
「倒れて……」
 バイトを終わって、家に帰ろうとして、それから……、
「んー、覚えてない」
 頭を振る。
「あ、でも、常連さん……?」 
 意識を失う直前に、バイト先の常連の姿を見たような気がした。が、まあ多分気のせいだろう。夢か何かだ。
「常連さん?」
 少女が首を傾げる。
「いいえ、なんでもないです」
「病院、行きますか?」
 心配そうな少女に、
「あ、大丈夫です、多分」
「でも」
「家、近いので。あの五分もかかんなので」
 少女に手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
 二、三歩あるいてみるが、やはり特に異常はないようだった。
「大丈夫なら、いいんですけれども」
 それでも少女は心配そうな顔をしているから、菊は笑ってみせた。
「大丈夫です。家帰って、様子見て病院行きますから、必要なら」
「……そうですか?」
「ええ」
 もしかしたら、なんらかの妖怪の仕業かもしれない、と思っていたがそれは黙っていた。のっぺらぼうにびっくりしたとか、そういう展開を期待している。
 別の意味で病院に連れて行かれそうだから、言わないけど。
「ありがとうございました」
 少女に頭を下げ、家路を急ぐ。
 少し体が疲れているような気はしたが、それ以外には特に問題がないように感じた。
 家に帰ったら、ちょっと寝よう、と心に決める。
 それにしても。
 振り返る。
 さきほどの少女の姿は、もうそこにはなかった。
「なんであの子、あんな赤い服を……」
 全身真っ赤な服を着た少女の姿を思い出し、首を傾げた。
「は! まさか、あの子自身が何かの妖怪!? こうしちゃいられないわ! 帰って、調べなきゃ! 赤い服を着た少女の妖怪を!」
 急に生き生きと、趣味全開で、精気に満ちた発言をすると、足取り軽く家へと向かった。


間幕劇 猫と彼女のその後

「子猫だから、抵抗力が弱かったんだ」
「……うん」
「だから、茜が悪かった訳じゃない」
「……うん」
「今度はきっと、元気に生まれてくるさ」
「……うん」
「だから、……もう泣くなよ」
 今度は、彼女は答えなかった。子猫を埋めたその土の山の前に座り込み、彼女は泣いていた。
 彼はどうすればいいのかわからずに、彼女の後ろに立っていた。
「……茜」
「……わかっているけど、でも。でも、やっぱりもっと他に何かが出来たのじゃないかと思うから。それにまだ、……まだ、名前すら付けてあげていないのに」
 そのまま膝を抱える。
「……生き物は、いつか死して逝くものだ。自然の理なんだ」
「だから、諦めろというの!!」
 彼女は振り返り、彼に向かって怒鳴る。
 彼はいつもよりも眉を少し下げ、小さく諦めたように微笑んだ。ゆっくりと首を横に振る。
「違う。だから、黙って送ってやれって言いたいんだ。……それは、自然なことなんだから」
 彼が言外に含んだ意味に気づき、彼女は結局、口を閉じた。
 そして、すすり泣きだけが響く。

 少し経ってから、彼は言った。ためらって、言葉を選びながら
「なぁ、茜。……少しだけわかったぞ。懐かれるとかわいいっていう意味が」
「……うん」
「もっと勉強して、今度は救えるようにしような」
「……うん」
「……ほら、風邪引くから戻るぞ」
 そういうと片手を差し出す。彼女は素直にそれにつかまり、立ち上がる。彼女の手を引きながら、彼はゆっくり歩き出す。

「……隆二」
「なんだ?」
 振り返ることなく彼は返事をする。彼女は少しためらいながら、けれどもしっかりとした口調で言った。
「……もし、私があの子みたいになったときは、黙って見送ってね」
 彼は黙っていた。
 そして、しばらく経ってから一つだけ呟いた。
「二度と、そんなこと言うな」
 体の奥から吐き出したような声でそれだけ言うと、あとは黙って歩く。
 彼女は微笑み、彼の背中に額を押しつけた。


 そして、彼は嘘をついた。少し、行きたいところがあるんだ。
 そう言った彼に、彼女は言った。
「待っています。私はずっと此処で待っています」
 彼は帰ると約束した。けれど、帰らなかった。

 彼が、たった一度だけその土地に戻ったときには、彼女はもう土の中だった。 


第三幕 猫がいる生活

 少女は正直、途方に暮れていた。
 少女が追っている実験体の情報が、ぷつりと途絶えてしまった。
 ただ、それに関係すると思われる女性は見つけた。もしかしたら偶然かもしれないけれども、多分、少女が探しているものと関係している。
 それは、目撃情報の最後の場所とも一致していた。
 なので、あの辺りに住んでいる知り合いに聞く事にしよう。そうすれば、何かあるだろう。
 少女はそう思った。


 静寂は嫌いではない。
 聞こえてくるのはただ風が動く音と自分が歩く音。後は他に、聞こえてくる音がない。
 そんな状態は、嫌いではない。
 真夜中、道の真ん中に立って、隆二はそんなことを思う。
 いつも隣にいるマオは、眠っていたのでおいてきた。
 突然コーヒーが飲みたくなって、でもあいにく切らしていた。
 今は便利だよなぁ、コンビニなんてあって。そんな年寄りみたいなことを考えながら、コーヒーと思いつきで買ったチョコの入った袋を振り回すようにして持ちながら歩く。
 かさかさと、袋の音がする。
 静寂は嫌いではない。
 寧ろ、心地よいとも思う。

 家の鍵を出して、開ける。
『隆二っ!』
「うわっ!」
 開けたと同時にマオが飛び出て来た。
『もぉ、どこ行ってたのよぉっ!』
 半分泣きそうな顔をして、マオは言った。
「コーヒーを買いに」
 そういって袋をかかげてみせると、マオは頬を膨らませた。
『起きたら一人ぼっちで寂しかったんだからぁ! 起こしてよ、誘ってよ。このカフェイン中毒!』
 言いたいだけ言うと、マオは部屋の奥に引っ込んだ。
 多分、ソファーの上でふて寝している。うつぶせになって、こちらが声をかけても反応しない。それでも、横目だけでちらっとこちらを見てくることだろう。
 すっかり慣れたマオとのやりとりを思い、少しだけ笑う。
 そう、静寂は嫌いではない。
 寧ろ、心地よいとも思う。
 ずっと一人で居たから。長い事、一人で暮らしていたから。
 
 昔、一緒に暮らしていた女性がいた。
 体の弱い女性だった。
 ずっと一緒にいたいと思っていた。
 でも、自分は彼女を見捨てた。
 彼女が自分より先に死んでしまうことが怖くて、彼女の元から姿を消した。
 一度、様子を見に戻った。もう一度、やり直せないか、とも思っていた。
 けれども、彼女は既に亡くなっていた。
 あの時、誓った。
 もう、人とは深く関わらないと。亡くしてしまうのが、怖いから。
 それなのに、と少しだけ自嘲気味に唇を歪める。

「マオー、機嫌直せー」
 それなのに今、ソファーの上で拗ねたマオを、居候猫を宥めている。
「マオ、ごめんな」
 ちょっとだけ、マオが身じろぎした。
『起きたら一人で、寂しかったの』
 半分だけ顔をあげて、こちらを見る。膨らんだ頬。
「ごめん」
 もう一度謝る。
『隆二の唐変木』
「ごめんって」
『いいよ、もう。どーせ、隆二だもん』
 そういって、マオは再び顔を枕に押し付けるけど。ちょっと笑っていたからこれでもう大丈夫。
 隆二は少しだけ微笑んだ。

 マオは人じゃない。だから、あの時の誓いを破った事にはならない。
 幽霊は自分より先に死んだりしない。
 だから、大丈夫。
 そんなことを思う。

 

『もう、あたしのことおいてったらやぁよ?』
 うつぶせのまま、マオが言う。
「うん、わかったわかった」
『もー、てきとー』
 言いながらもマオが顔をあげて、笑う。
 それに満足すると、コーヒーをいれに台所に向かう。
『りゅーじー』
「んー」
『てれびー』 
「ちょっと待て」
 マオの声に適当に返事して、ゆっくりコーヒーをいれてから戻る。
 マオはソファーに寝転んだまま、足をばたばたさせて、待っていた。
『おそーい』
 赤い唇を尖らせて言う。
 そのまま甘えるように両手を隆二の方に伸ばす。のを、隆二はさりげなく避けて、
「何チャン?」
 リモコン片手に尋ねる。
『んー、とりあえずなんでもいいやぁー』
「はいはい」
 適当に電源を付ける。
 派手な音楽が流れる。
『あたしねー、最初、この小さい箱の中に人が住んでるのかと思ってたわー。なんかこう、薄っぺらくてちいぃさい人が』
「へー、バカだなお前」
 ソファーに寄りかかるようにしながら、床に座る。
 コーヒーは畳の上に直接置いた。もう既に何度か汚しているので、今更なにやっても一緒だろう。さらば敷金。
『むー、あたし、バカじゃないもん。バカって言う人がバカなんですぅー。隆二のばーかばーか』
「ああ、お前いまバカって何度も言ったな。バカって言ったマオがバカだな」
『っ!!』
 マオは驚いたように息を飲み、
『……そうね、そうなってしまうわね。なんてこと、あたし、バカだったの……? バカって言ってしまったから』
 何故だか深刻そうに呟いた。
 やっぱりバカだ。
 バカは放置して、立ち上がる。
『りゅーじー、どこ行くのー?』
「本」
 寝室に置いてある本棚から、適当に本をひっぱりだす。
 そのまま元の位置に戻る。
『何読むのー?』
「人でなしの恋」
『ひとでなし? ああ、あたしのことねー!』
「……まあ、人じゃないけどな、お前」
 そういうことじゃないだろう。
 マオがソファーの上から、肩越しに本をのぞいてくる。
『うげっ、字、いっぱい。いやー』
 悲鳴をあげるようにマオが言った。
『隆二は、本、好きなのー?』
 ソファーにぱたりと横になったマオが尋ねてくる。
「まあ、嫌いではないな」
『なんでー? テレビよりも好きなのー?』
「テレビは、あんまり見ないから」
 なんとなく、家には置いてあるが、殆どつけていなかった。
『なんでー?』
「本の方が、自分の好きなときに読めるだろ」
『んー?』
 テレビから笑い声がする。
「まあ、どちらにしろ、暇つぶしの意味しかないけれども」
『暇つぶしー』
 なんとなく字を目で追いながら、なんとなくページを追いかける。この本だってもう何度か読んでいる、あらすじは頭に入っている。
『隆二、暇なの?』
「忙しそうに見えるか」
『んーん』
 視線を向けると、マオは首を横に振った。
『ずぅっと、おうちにいるもんね。でかけるのはコンビニに行く時ぐらい? ねー、ずっと気になってたんだけど、隆二ってお仕事何してるの?』
「してないよ」
『してないのー?』
「してるように見えるか?」
『見えなぁーい』
「だろ?」
『じゃあ、お金どうしてるのぉー?』
「どうって」
 マオが横から何度も話しかけてくるから、仕方なく本を閉じ、
「貯金?」
『貯金!』
「前にちょっと仕事したときの残り」
『それで大丈夫なのー?』
「んー、まあ、そろそろ危ないからまたちょっとバイトでも探さなきゃなーって思ってるけれども」
『ふーん』
 マオはわかったのかわかってないのかそういうと、
『あ!』
 ぽんっと、手を打ち鳴らし、
『あたし、知ってる! 隆二みたいな人のこと、クソニートって言うんだよね!』
「クソは余計じゃないか、それ」
 否定はしないが。
 最初のバンバンジーの一件からも思っていたが、どうやらこの幽霊はバカだ。
『そーなの?』
 マオが不思議そうに首を傾げた。
「そーなの」
『んー、そっか』
 そっかそっか、ニートか、なんて小声で呟いている。本当にわかっているのだろうか。
『あ、でも、あたしもニート! やった、おそろい!』
 それから、やけに嬉しそうな声でそう言った。
「ニートがお揃いって……、駄目だなー俺等」
 呆れて笑う。
 マオもくすくすと笑い出す。
 テレビから派手な笑い声がして、マオがそちらに視線を移した。
『あ! この芸人さん好きー!』
 そのまま、体を動かしてテレビを見る。
 やっと大人しくなる、と思い読書を続ける。
『面白いのー、この人?』
 と思ったら、やっぱり話しかけて来た。
「そーかい」
 適当に相槌を打つ。
『テレビは凄いよねー、楽しいー。大好きー』
 ソファーに寝転がり、頬杖をついてテレビを見つめながら、マオが言う。
『隆二はー、テレビは好きじゃないのね? 本の方が好きー』
「あー、まあ」
『ふーむ』
 マオは一瞬何かを考えるように黙ってから、
『……あと、隆二は梅干しのおにぎりが好き?』
「え?」
 本から顔を上げ、マオの方を見る。
『よく買ってるからー』
 マオはテレビをみたまま言う。
 そう言えば、そうかもしれない。
「まあ、嫌いじゃないけれども」
『やっぱりねー』
 嬉しそうに足をぱたぱたと動かす。スカートの裾がめくれそうになる。
「マオ、スカート」
『ちょっといまいいとこなのー、黙ってー』
 テレビに釘付けになっている。
 直してやることもできないし、見なかったことにした。
 もうすこし、恥じらいというものを身につけて欲しい気もする。いや、どうこうなるわけじゃないけれども。
 マオはテレビを見て、楽しそうに笑っている。何がそんなに楽しいのかよくわからない。
『はー』
 テレビがCMテレビがCMになると、マオはまた隆二の方に顔を向けた。
『でねー、隆二はー、あとコーヒーが好き』
 床に置いたままのマグカップを指差す。
「まあな」
 思い出して、一口飲む。
『で、あたしのことは、好き?』
「ぶっ」
 飲んだばかりのコーヒーを吹き出しそうになった。
 慌てて口を抑え、堪える。
『うわ、やだー、きったなーい』
 マオが本当に嫌そうにそう言うと、汚物を見るような目で見てくる。
「ちょっ、おまえっ」
 ティッシュで拭きながら、マオを睨む。
『なによぉー、あたしが悪いの?』
 形の良い唇を尖らせる。
「いいとか悪いとかじゃなくてだな」
『なぁにー? それとも、りゅーじは、あたしのこと、嫌いなの?』
 桃色の頬を膨らませて、不満そうに。
「いや、あのなぁ」
『あたしは、隆二のこと、好きだよぉー?』
 緑色の瞳が、上目遣いで見てくる。
 思わず、言葉につまる。
「マオ、あの」
『あとねー、テレビも好きだしー、このソファーも好きぃー』
 隆二の返事を待たず、マオは楽しそうに続けた。
「……あー」
 そういう好き、ね。
 なんとなく、動揺した自分を恥ずかしく思いながら、
「そりゃどーも」
 呟く。
 ふんっとマオが少し勝ち誇ったように笑う。
 それから、すぅっと隆二の肩の辺りに移動すると、
『で、隆二はあたしのこと、好き? どう思ってるの?』
 耳元で囁くようにして、尋ねた。
 一瞬息を飲む。
 それを気取られないように、ゆっくり息を吐き出すと、
「ちょっと粗相の多い、居候猫だと思ってる」
『む、なによそれー』
 また膨れた。
 さっきは少しだけ、色っぽかったのに。
「でもまあ、猫は可愛いよな」
 それだけ付け加える。
 それが今言える、精一杯だと思った。
 マオはしばらく吟味にするように隆二の横顔を見ながら黙っていたが、
『うん』
 何かに納得したかのように一つ頷き、
『あたし可愛い!』
 両手を頬にあて、笑み崩れた。
 そういう顔をすると、本当に可愛いから困る。
「あー、テレビ、CM終わったぞ」
 かろうじてそう言うと、
『あ! 本当だ!』
 ひょいっと身見を翻し、テレビに向き直った。
 気まぐれで、わがままな、それでいて少し甘えん坊の仔猫のようだ、と思う。


 静寂は嫌いではない。
 でも今は、騒がしいのも嫌いではない。
 猫がいる生活も、一人ではない生活も、悪いものではない。
 そう、思った。


第四幕 捨て猫の元の飼い主

 ソレはU078と呼ばれていた。
 U078は、早い段階で自分が何かの実験体であることを悟った。
 他の実験体が、「失敗作」と呼ばれ、ゴミのように捨てられていくのを見ながら、いつか自分も消えるのではないかと思っていた。
 だから、U078は逃げ出した。
 そしてU078は、一人の人間とであった。
 その人は、化け物であるU078に優しくしてくれた。
 U078という実験体ナンバーではなく、名前で呼んでくれた。
 このまま、その人と生きていけるのではないか。そう思っていた。
 そんな時、少女があらわれた。


 マオが隆二の家に居座りバタバタとした、それでもおおむね平和な日々を過ごして数ヶ月ほど経った。
 マオの食事問題も、夜間に寝ている人を片っ端からマオが探したり、たまに菊の時のようなことをしたりしながら、死者を出すこともなく、穏便に済ませていた。新たな死者が出なくなったことから、ミイラ事件についての報道は減っていて、今では週刊誌ぐらいしか報じていない。
 行きつけだったコンビニは、菊の件から出入り出来なくなったが、幸いにして別の場所に新しくコンビニが出来た。そこは家から二分と近い。
 今日もサンドイッチとコーヒーを買い、コンビニから戻るところだった。
 マオも誘ったのだが、この時間にやっている特撮ヒロインの再放送が気に入っているらしく、断られた。誘わなかったら誘わなかったで怒るくせに、誘っても無視するときたもんだ。
『疑心暗鬼ミチコ見なきゃいけないからダメー!』
「……なんだよ、それ」
『疑心暗鬼ミチコ知らないの? 普段は普通の女子高生でー、変身すると着物姿になるのー。ちょー強いんだよ! 電信柱の影に落ちてるスーパーの袋ですら、敵だと思ってはっちゃめちゃの、ぼっこぼこの、びっりびりにしちゃうんだからぁ!』
「あー、疑心暗鬼?」
『あなた鬼ね! 退治してやる! って言って倒すの。まあ大体いつも、ミチコの本当の敵じゃなくて、ただの悪い人なんだけど』
「ただの悪い人って……」
『でも悪い人は悪い人だから周りからは感謝されるの! でね!』
 そのあと熱心にマオは疑心暗鬼ミチコとやらについて語ってくれたが、正直、なにが面白いのはか隆二にはわからなかった。
 それにしても、その特撮ヒロインは今から二十年ぐらい前に放送してたもののはずだ。もしも、生前から好きだったのだとしたら、マオは今より少し前の人間なのかもしれない。そんなことも考えている。
 マオ本人は、自身の出生や死因などに興味はなさそうだが、隆二としてはマオの生前の素性をいつかは調べてあげたいと思っている。そうすれば、無事に成仏できるだろう。幽霊はきっと、成仏した方がいい。仮にマオが成仏するつもりがなくても、出来ないのとしないのとでは天と地ほどの差がある。可能性はあった方がいい。
 ただ、それを積極的に行わないのは生来の怠け者であることと、それからほんの少し、すこぅしだけもうちょっとこのままでもいいかなと思うからだ。

 そんなことを思いながら歩いていると、アパートの前に見慣れた人物を見つけた。人物というか、服を。というか、色を。
 面倒くさいやつが来た。そう思いながら近づく。
 向こうも隆二に気づいたらしく、顔をあげると軽く頭を下げた。
「よう、相変わらず、目立つなー、祓い屋の嬢ちゃん」
 声をかけると、
「派遣執行官です。何度言えばわかるのですか?」
 冷たく言われた。金髪碧眼の美少女が、にこりともしないまま。
「ところで、わたし、目立ちますか?」
「ああ」
 頷く。
 真っ白い肌、すっと通った鼻筋、光を浴びて光る金色の長い髪の毛。長い手足に、高めの腰の位置。
 どこからどうみても完全なる美少女。それでなくても、道行く人が振り返って見る程の、美貌ではあると思う。
 ただ、欠点はその壊滅的な服装センス。
「そうですか。さっきから道行く人にちらちら見られている気はしたのですが。そんなに外国人が珍しいんですかね。わたし、国籍は日本なんですが」
 ひょうひょうとそう言う。
 お前がそんな赤い服着ているからだよ、と心の中でつっこんだ。その美貌も、日本人離れした体型も、服装の前にはかすんで見える。
 このイギリス人を祖父の持つ、クォータの少女は、何故かいつも赤い服を着ていた。赤いジャケットに、かろうじてオレンジ色っぽいスカート。赤いブーツ、赤いベレー帽。
 隆二はひそかに、この格好を鼓笛隊のようだと思っている。
「で、嬢ちゃん」
「エミリです。せめて名前で呼んでください」
「はいはい。で、どうした? 今度は何を逃がした? 人面犬か? のっぺらぼうか? テケテケか?」
「いつも何かを逃がすような言い方、しないで頂けますか?」
 少しだけ、不愉快そうに少女が言う。
「じゃあ、違う用事なのか?」
「いえ、そうですけど」
 少しだけ不服そうに、少女が答えた。

 この些か怪しげな少女エミリは、これまた怪しげな研究所の人間だった。オカルト現象を研究する研究所。縁あって、何度かエミリの仕事を手助けしている。
 例えば、逃げた口裂け女を探したり、人面犬を探したり。
 今ある貯金額のほとんどは、この研究所の仕事を手助けしたことによって得たものだった。
 都市伝説の幾つかは、この研究所が作り出したものだ。逃げ出したり実験のために外に放したり、理由は様々だけれども。
 そしてエミリは、本人曰く、研究所の派遣執行官。「要は外回りの祓い屋だろ?」と以前言ったら、酷く怒られた。無駄なプライドがそこにはあるらしい。

「まあ、こんな立ち話もなんだし」
 その赤い格好、すごく目立つし、
「古いけど、うちで話そうぜ」
 言って、エミリの返事は待たずに階段をあがる。古い二階建てのアパート。
「本当に古いですね」
 ついてきたエミリが容赦なく言った。
「遠慮とかないのな、嬢ちゃん」
「エミリです」
「まあ、なかなかに住めば快適だぞ。駅からも近くて、2DKって部屋は広いのに家賃安いし」
「訳あり物件なんですか?」
「……そこですぐに訳あり物件に行くのがすごいな。そのとおりだけど。前の住人が自殺したとかなんとか、まあ、幽霊が出るとか言われてたんだけど、出なかったし」
「まあ、出ても神山さんなら困りませんよね」
「あー、まあ」
 今は本当に幽霊が住んでるしなー、とも思い、苦笑する。
 意図的に居候させている以上、家賃の値下げ交渉には使えないだろう。
 二階に上がる。二階の一番奥が、隆二の部屋だ。
 廊下を歩く。
「コンビニに行っていたんですか?」
 隆二が持っているビニール袋を指差し、エミリが尋ねる。
「ああ」
「珍しいですね、神山さんがサンドイッチなんて買うなんて。コーヒーはともかくとして。正直、初めて見ました」
「まあ、色々あって」
 肩をすくめる。
「ところで、せっかく遠路はるばる嬢ちゃんが来たところ悪いが、今回は何も聞いてないぞ? そういう怪しい噂」
 部屋の前で、ポケットから鍵を取り出しながら言う。
「まあ、俺のコミュニティなんてあってないようなものだが」
 なにせ、ニートのひきこもりだし。
「いえ、ここらにいるはずなんです。最近、消息不明ですが。それでも、被害者というか、それっぽい痕跡はこの街で見つけましたし」
 鍵穴に鍵をさす。
「それに、今回、知覚は難しいものですし」
「知覚が難しい?」
 鍵を開ける。
「ええ、幽霊なんです」
 ドアノブに手をかけて、まわし、ドアを開け、
「ミイラ事件、ご存知ですよね」
 開けかけたドアを、慌てて閉めた。
 ばたんっ、と派手な音がした。
「神山さん?」
 エミリの不思議そうな声。
 一つ、ゆっくりと息を吐く。落ち着け。まだ、大丈夫だ。
「悪い。部屋、すっげーちからってるんだった。模様替えしようと思って、だからちょっと外で話そう?」
 赤い少女と外で話すのはさぞかし目立つだろうが、今回は気にしていられない。
「わたしは構いませんが?」
「俺が構うの」
 だからほら、と隆二がエミリを来た道を戻るように促したところで、
『隆二ー? 帰って来たのー?』
 のんびりしたマオの声がする。
「今の……?」
 エミリがドアに視線を向ける。
『疑心暗鬼ミチコ終わっちゃったのー、つまんなーい』
 マオの暢気な声。
 出てくるなっ。
 心の中で叫ぶ。
 祈りは通じず、マオがドアから顔を覗かせる。すぽんっとドアから首が生える。
 マオは見知らぬ赤い少女を見つめ首を傾げ、エミリはドアの生首を見つめ、
「マオ逃げろっ!」
「G016!」
 同時に叫んだ。
 勢いに呑まれてマオが顔をひっこめる。
 エミリが隆二を突き飛ばす様にしてドアをあけ、その背中を隆二が蹴飛ばした。エミリが備え付けの靴箱に激突する。
「悪いっ」
 一応謝っておく。
「っ」
 エミリはうめきながらも鞄から拳銃をとりだし、
「うわ、何物騒なもの持ってる!?」
 慌てて隆二はそれを叩き落とすと、部屋の隅に蹴飛ばした。
 駆け出そうとしたエミリを出来るだけ死なないようには手加減して突き飛ばし、部屋の真ん中でおろおろしているマオのもとに駆け寄る。
 ダイニングのテーブルを蹴飛ばすと、玄関を塞いだ。
「マオ!」
 斬りつけるように名前を呼ぶと、立ったままの彼女の右手をつかんで走り出す。
『えっ?』
 マオの声を無視して、ベランダへの扉をあける。
 そのまま、跳躍。
『隆二っ、ここ二階っ!!』
 マオの悲鳴だか、叫びだかを聞きながら、隣の少し低い一軒家の屋根に着地。
 そのまま、屋根伝いに走り出す。
「待ちなさいっ! G016!」
 背後でエミリが叫んだ。

 

「とりあえず、ここなら、平気だろ」
 ラブホテルの屋上。派手な看板と看板の影に隠れて、隆二が言った。
 家からはだいぶ、離れたところに来ている。
「ったく、いつだって急なんだよ、あの嬢ちゃんは。人の家に来るならアポぐらいいれろっつーの」
 舌打ちする。
『あの……』
 マオがおどおどと、小さく声をかけてくる。
「ん、どうした?」
 振り返り、出来るだけ優しく見えるように微笑む。
『……手』
「あ、悪い」
 掴んでいた手を離す。
 マオは掴まれていた右手首を胸の辺りで左手で抱え込んだ。
 その手をしばらく見つめ、
『隆二、あの……』
 そこまで言って、マオは足元の辺りを探るように見る。まるで、足元に答えが書いてあるかのように。
 それを見て、隆二は、
「U078」
 先に言葉を切り出した。
『え?』
 マオが顔をあげる。
「それが俺の実験体ナンバーだ」
 言って笑った。


 神山隆二がU078という実験体ナンバーで呼ばれるさらに前、彼はごくごく普通の少年だった。
 彼は貧しい家の三男坊として生まれた。
 毎日遅くまで仕事をする父親の背中と、それを手伝う上の兄。
 母親の後をついて回り、家事の手伝いをする妹。
 余所で働き始めた姉と下の兄。
 お腹がすいたと泣く二人の小さな弟。
 生まれた時から体が弱く、病気で寝込む彼を、困惑と憎悪と心配をごちゃまぜにした顔で見る母親。
 何も手伝えない彼を、心配しながらも、邪魔者を見るような目で見る兄弟。
 そんな時、村に流れた噂。
 ある金持ちが、子どもを欲しがっていると。謝礼は高額。ただ、それは、ある種の人体実験だと。
 その話に乗ることにしたのは、親が言い出したのが先か、彼自身が言い出したのが先かは覚えていない。
 覚えているのは、彼を連れにきた数人の男。
 覚悟はしていたものの、いざとなると怖くなって、泣き叫ぶ自分から視線を逸らし、さっさと家の中に入ってしまった父親。
 一言だけ呟いて父親の後を追った母親。
 月明かりの下、遠ざかっていく家。
 たどり着いたのは、埃っぽい部屋。
 そこから先は覚えていない。
 眠らされ、次に目が覚めた時には全てが終わっていた。
 U078の実験は成功した。人体兵器。死なない兵隊。来たる戦争に向けて、作り出された化け物。
 家族を失って彼が手に入れたのは永遠の命と不死身の体だった。そして彼は、人間であることも失った。


「まあ、そんなわけだ」
 足を投げ出して座り、シニカルに笑う。
「だから、戸籍上は神山隆二なんて人間、本当はいないんだ」
『だって、そんな、ならどうしてっ』
「どうしてここにいるかって?」
 聞かれてマオは頷いた。
「逃げ出したからだよ」
 マオと同じように。続けるとマオは痛そうな顔をした。


 逃げようと言ったのはリーダー格の少年だった。たった四人の成功した実験体。
 自分と他の一人は賛成し、残りの一人は最後まで反対していた。見つかったら何をされるかわからないんだぞ!! と。
 それでも結局逃げ出したのは、このまま研究所にいれば、未来などないことがわかっていたからに他ならない。
 逃げて離ればなれになった。
 逃げて逃げて逃げて逃げて。
 ぼろぼろになった彼を助けたのは、一人の人間だった。どこか影のある、和服の似合う、猫が大好きな女の子だった。
 彼女は彼が化け物だと知っても変わらずに側にいてくれた。
 彼女とならば普通の人として生きて行ける、そう思った。
 そんなとき、少女は現れた。


「嬢ちゃんのばーさんだよ」
『おばあさん?』
「イヤー、しかし、久しぶりに嬢ちゃんにあったけど、ますます似て来たよなー本当」
 嫌な部分までそっくりだ、とため息をついた。
 哀しくなるぐらいの無表情で自分の前に現れたその人の顔は今でも思い出せる。
 死神は無表情を崩さずに宣告した。一字一句間違えずに、その宣告を覚えている。多くが消えていく記憶の中で、それは鮮明に脳裏に焼き付いている。
「私たちはもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。ここで、証拠隠滅のためにおとなしく消え去るか、または必要に応じて我々の力になるかを」
 死刑宣告を暗唱し、そこでマオに視線を合わせる。
「勝手な話だと思わないか?」
 マオはぐっと唇をかみしめていた。泣きそうな顔。
 その表情があまりに痛々しくて、見るのに耐えかねて、隆二は思わず言っていた。
「過去の話。あまり気にするな」
 そして、自分の隣の床を叩く。
 マオは大人しく隣に座った。
 手をあげる。マオの頭を撫でる。ゴム手袋を何枚か重ねているかのようだったけれども、しっかり触れた。
 さらさらと、細い髪の毛が流れる。
『どうして……』
 マオが目を見開く。こぼれおちそうになる緑色の瞳をみて、少し微笑んだ。
「さあ? 俺も理屈はわからないが。霊体にも触ることが出来るんだ。副作用、みたいなものかな。実験の」
 肩を竦め、それでもまたマオの頭を撫でる。
「約束だったもんな」
 微笑んで見せる。
 マオはまたさらに泣きそうな顔をした。
『だから、嫌がってたの……? あたしが触るの』
「ああ。人間じゃないことが、ばれたら困ると思ってな」
 苦笑する。
 そのまま腕をおろす。
 今度は、隆二の右手におずおずとマオが手を伸ばした。隆二は避けなかった。
 そっと触れる。そのまま手を繋ぐ。
 繋ぐことが出来た手を見て、マオは一瞬くしゃりと顔を歪めた。泣きそうとも、笑い出しそうともとれる顔。
『あのね、あたしね』
 俯いて、その手を見るようにしながら、マオが言葉を吐き出す。
「うん」
 隆二は優しく微笑みながら頷いた。
『実験体ナンバーG016』
「うん」
『人工的に造られた幽霊』
「うん」
『……今まで、黙ってて、ごめんなさい』
 俯いたマオの頭を、空いている左手で撫でた。
「お互いさまだろ」
 隆二だって黙っていたのだから。
『……でもあたし、黙ってただけじゃなくて、嘘、ついてたから』
 下を向いたまま、ぼそぼそと呟く。
「じゃあ、やっぱり記憶喪失、っていうのは」
『うん、嘘……。そうやって言えば、詳しいこと、聞いて来ないかなって思って』
「そっか」
『本当は、ちゃんと覚えてる。変な水槽みたいなのの中で、目を覚ましたときのことも。外に出る実験とかっていうときに、逃げ出したことも』
「うん」
『本当のあたしは、まだ、作られてちょっとしか経ってないの』
 だから、妙に偏った知識や子どもっぽい仕草があったのか、と思う。
 人工的に無理矢理詰め込まれた知識ならば偏りも出るし、仕草も子どもっぽくなることもあるだろう。
『ごめんなさい、言わなくて』
「いいってば」
 また謝り出したマオの額を軽く小突く。
「黙っていたかったマオの気持ち、良くわかるから。……誰かにこういうこと話すのってためらうよな、嫌われそうで」
 マオは泣きそうな顔で一つ頷いた。
『それなのに……、ありがとう。先に話してくれて』
「どういたしまして。まぁ、年上の威厳というものを見せようと思ってな」
 ふざけていうと、マオは少しだけ微笑んだ。
「さて。嬢ちゃんがこれからどうするか。さっぱり検討がつかないが」
 無表情で色々と恐ろしいことをやる少女だ。
「でもまあ、とりあえずここなら大丈夫だろう」
『……うん』
「走り回って疲れた、ちょっと休む」
 一度大きく伸びをすると、看板にもたれて隆二は目を閉じた。
 マオはその横顔をしばらく見ていたが、やがて隆二の肩に頭を乗せると、同じように目を閉じた。
 つないだ手はそのままに。


間幕劇 彼女が拾った猫の名は

「くそったれ」
 彼が呟いた言葉は茜色の空へと吸い込まれた。土手に寝転がった状態で、見るそれはとても眩しい。
「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」
 まぁ確かに、自分をかばって車に轢かれた男が、額から血を流しながら、それでも平気そうな顔をして、「大丈夫か?」なんて聞いてきたら、怖いけれども。
 それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。
「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。
 痛覚はとっくの昔に切ったから痛むということはないし、ニ、三日すれば歩けるぐらいには傷も回復するだろう。
 しかし、そのニ、三日ずっとこの川原で寝転んでいるわけにはいかない。下手すると警察なり医者なりを呼ばれかねない。
 だからと言って、根無し草の自分に行く当てなどあるわけもなく……
「やってらんねぇ」
 ため息をついた。
 まだ秋になったばかりだというのに、風がひどく冷たい。
 もう一つ、ため息を。
 そもそも、こんな車の「く」の字も見当たらないような小さな村の狭い道を、猛スピードで走り抜ける自動車がいけない。しかも、轢き逃げしやがって。これだから金持ちは嫌いなんだ。もし、轢かれたのが俺じゃなかったらどうするつもりなんだ。
 ぶつぶつと口の中で呟きながら、とりあえず今はもう、諦めて寝てしまおうかと目を閉じかけて、

「大丈夫ですか?」

 頭上でかけられた声に再び目を開ける。
 そこには心配そうな顔をした少女が一人。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
 腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。
「そ、そうですよね。……でもよかった、しゃべれるならば見た目よりもひどくないみたいですね」
 多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。心の中で思いながら、彼は一つ息を吐く。
 結局、見つかってしまった。
 これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。
 化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。

 彼女は持っていた日傘を傍らに置くと、彼の傍にしゃがみこんだ。そのまま彼に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで彼の額を抑える。
 ハンカチが血を吸い込んで赤く染まっていく。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
 いきなりのことで驚いた彼に、彼女は
「え、一応止血を……」
 逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。
「別に、そんなのいいって……」
 彼女の白いハンカチと同じぐらい白いその手が、自分の血で汚れているのが何故だか許せなかった。
 振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。
「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
「……あー」
 薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。

「……この近所に」
 彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
 そういって彼女は立ち上がる。
 額においたハンカチはそのままに。
「おい、あんた」
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
「……そこじゃない」
 それにしても鋭い女だと思う。何も言わないうちからこちらがわけありだと気づくなんて。正解には、決してたどり着かないだろうが。
 化け物だ、なんて。
「名前」
「え?」
「あんた、名前は」
 その言葉を口にしてから、俺は何を言っているのだろうかと思った。そんな「人間」の名前を聞いてどうする。
 彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。
「茜。一条茜です」
 そういって、先ほどから彼が眺めている空の名前を持った彼女は、微笑んだ。

 なんだか、眩しい笑い方だった。 


第五幕 好奇心、猫を殺す

 どうやら本当に寝入っていたらしい。嫌な夢を見てしまった。昔の夢を。
 隆二は体を起こし、小さく伸びをした。
 あたりはすっかり夜になっている。
『おはよ』
 隣でマオが小さく微笑んだ。
「おー。夜だけど」
 くすぐったそうに、マオが笑った。
「マオ、大丈夫か?」
『何が?』
「腹減ってないかってこと。食べないと消えちゃうだろ、お前」
『ああ、うん、大丈夫。昨日、食べたばかりだから』
「ならいいけど。俺の精気をあげられたらいいんだけどな。人間じゃないからどうなるかわかんないしな」
『そっか。だから、嫌がったの? あの時』
「んー? ああ、まあ普通にほいほいあげるもんじゃないとも思ったしな」
『……そっか』
 マオは何かに納得したかのように頷いた。少しだけ笑っている。
『うん、そっか、ならいいんだ』
「なにが?」
『なんでもない。隆二は大丈夫? お腹空いてない?』
「ん、あー、別に食べなくても平気だから」
 ここのところ三食ちゃんと食べる癖がついているけれども。
 まったく、余計な出費だったあれは。マオの正体が最初からわかっていたらあんなことしなくてよかった。普通の人間のフリ、なんて。
『隆二も、ひとでなしだったんだね』
「まあ、普通にひとでなしなんだがな」
 人間じゃないし、道徳的な存在とは言い難いし。
「さって、これからどうするかな」
 なぁ、マオ? とマオの方を見る。
 マオは何故か、大きく目を見開いて驚いたような顔をしていた。
 何をそんなに驚いている?
『隆二、後ろっ!』
 マオが叫ぶ。
 慌てて振り返る。
 銃声。
「っ」
 肩に走る痛み。
『隆二っ!!』
 マオが叫ぶ。
 おろおろと、隆二の肩に手を置く。けれどもその手は何の意味もなさない。
 肩から血が流れ落ちる。
『ああもう! どうしてあたしはこんなときに何にも出来ないのよっ!』
 悲鳴に近い声でそういうと、それでも手は必死に隆二の肩を押さえていた。そうすれば、傷が消えるとでも言いたげに。
『隆二、大丈夫? 痛い? ごめんね、ごめんね。あたしのせいで、ごめんね』
「平気だって」
 一度大きく息を吸い、痛覚を遮断。持っていたハンカチで止血。ここまですれば、あとは放っておいても傷口は塞がる。
 自分の体だ、長年の経験で知っている。
「ええ、平気でしょうね、あなたなら。U078、神山隆二」
 銃声の主、エミリが無表情のまま言った。
「いきなり撃つか、ふつー? しかもこの暗闇で」
「何故あなた相手に警告してから撃たねばならないのですか? ネオンがあるから、だいぶ、明るいですしね」
 黒い夜の空に、赤い服と金色の髪がなびく。死神の孫は、死神と同じように無表情で立っていた。
 マオを背中に庇い、エミリを睨む。
「よくここがわかったな」
 エミリは黙って指先を上に迎える。空。
「……何?」
「衛星で」
「……相変わらず、おたくらぶっとんでるねー、規模が。バカじゃねーの」
 当たり前のように言われた言葉に、鼻で笑う。
「なんとでも言ってください。それよりも」
 エミリは隆二の後ろで隠れるようにしているマオを見る。マオはびくり、と体を震わせると、隆二の背中にしがみついた。
「渡してください、G016を」
「嫌に決まってんだろ巫山戯んな」
「巫山戯ているのはあなたの方です。一体、どういう了見で、ソレを庇い立てしているのですか。わたしたちに逆らう気ですか?」
「一度だって俺があんたらの言うことを聞いた事があったか? 言う事を聞くふりをして、寝首をかくチャンスを虎視眈々と狙っていた、なら否定しないけど」
 エミリは少しだけ顔を歪ませた。多分、不快の感情表現。
「マオは渡さねえよ。うちの居候猫なんだからな」
 もう二度と、失ったりはしない。失うわけにはいかない。
 右手を後ろに伸ばし、マオの手を掴む。少しのためらいの後、マオが握り返して来た。
 もう、一人の生活には戻れない。戻りたくない。
 また、同じことを繰り返したくはない。
「もう一度だけチャンスを与えます。G016を渡してください」
「嫌だ」
 即答。それも幼い子どものように舌を突き出すおまけ付き。
 エミリは小さく、わざとらしく、芝居がかった動作でため息をついた。
「それではしょうがありませんね」
「そんな、玩具みたいな銃で、俺をどうにか出来ると思っているのか?」
「いくらあなたでも、頭をふっとばされれば、そうそうすぐには動けないでしょう」
 そう言ってエミリ銃を構え、隆二は身構える。
 先ほどは油断していたが、きちんと注意していれば避ける自信は十分にある。
 なにせ、無駄に発達した身体能力を持っているのだから。かつて、生物兵器として使われるための、無駄に発達した身体能力。今使わなくて、いつ使うのか。
 マオの手をしっかり握っていることを確認する。
 一つ息を吸う。
 注意していれば避ける自信はある。
 でも、その後はノープランだ。
 ならば、エミリが引き金をひく、その前に。
 膝に力を入れて、後ろへ跳躍。
「へ?」
 エミリが少し間抜けな顔をして、慌てて銃口を動かすのが見える。でも遅い。
『隆二っ、落ちるよっ!』
 マオが悲鳴をあげながら右腕にしがみついてくる。
 距離感覚は間違っていなかった。
 飛んだ先に床はなく、そのまま落下。
『隆二っ! 危ないよぉ』
 泣きそうなマオの声。
 まあ、確かに無駄に高いこの建物からそのまま落下したら、いくら隆二でも直ぐには動けなくなるだろう。足、折れる。
 だから、
「っと」
 ぎりぎりのところで、途中の窓枠に左手の指先を引っかける。
 撃たれた方の肩だから、少し力が入りにくい。
 急に体重をかけたから、しばらく動かないかもしれない。でも、駄目にするなら利き手じゃない方がいい。
 下を見る。
 この高さからならば、怪我せずに降りられるだろう。
 そう判断し、手を離そうとしたその耳元を、何かが横切った。
「え?」
 何かは街路樹の根元に突き刺さった。
『やだぁ……』
 マオが怯えたように呟く。
 上を見る。
 エミリが銃を構えてこちらを見下ろしていた。
 いやいやいやいや、普通、撃つか? こんなところで?
 人通りの少ない道でよかった。
 エミリの指が引き金にかかる。
「やべ」
 慌てて窓枠から離れると、地面に着地。
 マオを連れたまま走り出す。
 もう一発撃った気配がする。
 だから普通は撃たないだろうこんな町中で。
 細く入り組んだ路地に滑り込む。
 これでとりあえずはエミリの視界からは外れただろう。
『……どうするの?』
 マオが囁くように尋ねてくる。
「とりあえず、逃げる」
 躊躇わずに告げると、路地裏を選びながら走り出した。
『……逃げるのかー』
 マオがちょっとだけがっかりした口調で言う。
「何?」
『年上のほーよーりょくみたいなこと言ってたから』
「包容力な」
『もっと画期的な解決方法があるのかと思った』
「三十六計逃げるに如かずって言うだろ。逃げるが勝ちさ」
『誰が言うの? こーめー?』
「こーめー?」
『この前テレビで見たよ、こーめーの罠です! って。フリフリ着たおねーさんが言ってた』
「ああ、諸葛亮孔明。……いや、どんなテレビ見たんだよお前よくわかんねーよ」
 軽口を叩きながら走る。緊迫感が足りない会話だが、マオの手が震えているのがわかる。
 これで少しでも安心してくれれば、いいのだが。
「あー、マオ」
『え?』
 慌てたようなマオの声。
 だからなんで名前呼んだぐらいで怯えるのか。
 抜本的な解決方法がなかったからって、見捨てるわけないのに。
「手、走りにくい。おぶされ」
『……いいの?』
「何で駄目かと?」
『……ん』
 手を離すと、マオの両手が後ろから首筋にまわされる。
「よし」
 走る速度をあげる。
 上体は隆二にしがみついたまま、マオの足は宙を浮く。
『……隆二』
「んー」
『肩、痛い?』
「痛覚切ってるから平気」
『……それ平気じゃないよね。痛いのは体のサインだって、テレビで見たよ』
「どんだけテレビっ子だよお前」
『ごめんね、あたしのせいで……』
「大丈夫だってば、いつものことだし」
『でも……』
「あーもー、ごちゃごちゃうっせーな」
 思わず吐き捨てるように言った。
『ごめんなさ……』
「だから怯えるなつーの。拾った猫の世話は最後までちゃんと見るんだよ、俺は。テレビと俺、どっちを信頼するんだお前は」
 沈黙。
 それから、
『……隆二』
 耳元で小さくマオが言った。
「だろ?」
 唇があがる。
 ああ、そうさ。
 もう失わない。無くさない。誰にも渡さない。一人になんて、もうならない。
 マオをあの家に受け入れたのは、幽霊だからだ。人間みたいに自分より先に死なないからだ。成仏することがあっても、理不尽な別れがないからだ。
 置いて行くなと頼んだら、きっと本当に置いて行かないでくれるからだ。
 だから、こんなところで失わない。
 あのときとは違う。
 ちゃんと、連れて帰る。あの家に。

 

 工藤菊の日課は、ベランダから双眼鏡で町を眺めることだ。
 もしかしたら何か妖怪がいるかもしれない。幽霊がいるかもしれない。化物がいるかもしれない。都市伝説があるかもしれない。
 だから今夜も菊は双眼鏡片手に町を眺めていた。
「はぁ」
 切なく吐息を漏らす。
 今日も何も見つからなさそうだ。
 そういえば、この前の赤い服の少女。あれについては結局なにも詳しいことがわからなかった。
 いや、違う。厳密にいえば何となくわかった。ただ、それは菊の望む答えではなかった。
「あ、見た見た。金髪の可愛い子っしょ? なのに服装赤いあれ」
 赤い少女についてなにか知らないかと尋ねたら、あっさりと恋人にそう言われた。普段非科学的なものを否定する彼に言われたのは、なかなかの衝撃だった。あと、可愛い子っていうのにも傷ついた。確かに、可愛いっぽかったけど、顔。
「あの服、どこで買うんだろうねー」
「……あたしね、妖怪なんじゃないかなーって思ったんだけど」
「んなわけないじゃん」
 笑われた。
「だって見かけたの俺だけじゃないよ。太陽とか椿とかも見たって言ってたし、あ、桜子さんも見たって言ってたな。あまりの赤さに眼科行くか悩んでてうけた」
「そんなに……」
「大学の連中、普通にナンパしてたし。振られてたけど。なんか人探ししてるんだって」
「……そういう妖怪じゃなくて?」
「違うって。……菊さ、いい加減認めなよ。世界にはそんなものないって」
 そこからいつもみたいにちょっと喧嘩になった。
 それも思い出して、ますます溜息。
 それだけ大量の目撃情報があるものの、特になんらの被害情報も無く、しかも普通にナンパされているし、どうやらあの赤い少女はファッションセンスがぶっとんだ普通の女の子と結論づけるしかできなかった。
 あのファッションセンスのぶっとび具合はそれだけで、奇怪といえば奇怪だが、着ているのが普通の人間であるならば菊の守備範囲外だ。
「……どこにいるの、あたしの助けを待っている幽霊は……」
 もうこの際、なんでもいいから現れてくれないだろうか。
 そう思っていると、なにか屋根の上をはねるように動く影が見えた。
「ん?」
 あわててよく見ると、それは人のようだった。
 素早い動きをしているが、その姿にはなんとなく見覚えがある。
 影はこちらに近づいてくる。結構速いスピードで、まっすぐに。
「あ」
 影はお向かいさんの屋根にまで来ていた。
「常連さんっ!?」
 完全に視認できたその姿に、菊は思わず叫ぶ。
 それは最近見かけなくなったと思っていた、バイト先の常連、ちょっとくたっとした感じの青年だった。
「っ! コンビニのぉぉっ」
 相手も菊に気づき、驚いたような声をあげたが、丁度それは跳躍の瞬間。踏切に失敗して菊の家の屋根に届かない。
「ひっ」
 思わず悲鳴のような声が漏れる。
 落ちて行く青年が、やけにスローモーに見える。
 ぎゅっと目を閉じる。
 かっしゃん、っと金属音がすぐにした。
 ああ今の落ちた音落ちた音ですか? 神様。
 半泣きになりながらそう思うと、
「あーちょい、失礼」
 青年の声が案外近くからした。
 目を開けると、ベランダの手すりに片手で捕まる青年の姿があった。
 青年は菊に声をかけてから、片手だけで器用にベランダ内に侵入する。
 それをぽかんと口を開けて見つめる。
 え、何? 何があったの? っていうか無事なの? 無事ならいいけど。
 青年が困ったような顔をして、菊の前で人差し指を立てた。
「出来れば、静かにして欲しい」
 言われて、慌ててこくこくと頷く。声なんて出そうもなかったけど。
 よく見たら青年の左肩は赤く染まっていた。
 青年はどこまでも困った顔をして、菊を見つめ、外を見つめ、自分の肩辺りを見つめた。
「いや、まあ、ドジはドジだけどさ」
 そうして肩に向かって小さく何かを呟く。
 思い出す。
 あの赤い少女に会った時。倒れていたと少女に起こされた時。あの時、気を失う直前に見たのは、この常連の青年ではなかっただろうか。
 彼は屋根の上を走っていた。着地に失敗した後のリカバリーは普通の人間とは思えない動きだった。
 肩が血のようなもので赤く染まっているが、痛がるそぶりもないし、なによりもそっちの腕でさっきベランダに掴まっていた。もしかしたら彼の血ではないのかもしれないし、彼の血でも回復したのかもしれない。血が垂れている様子はないし。
 何よりも青白くってそれっぽい!
「あのっ」
 菊は青年の両手を握ると、
「もしかして、吸血鬼とかそういう系統の方ですか!」
 今年一番の笑顔で、目を輝かせて尋ねた。

 

 おかしい、なんでこうなった?
「はい、どうぞ」
「あ、どうも」
 渡された紅茶を素直に受け取ってしまう。
 最初は狭そうな路地裏を選んで走っていたが、世の中にはそんなに路地裏はなく。やはり屋根の上という障害物のないところを、スピードあげて通り抜けた方がいいんじゃないかと思い屋根の上を走っていた。そこで目があったのが、この目の前の少女で。最初にマオの食事に利用させてもらった、コンビニの店員。バレた、ヤバい、と思ったが別の意味でやばかったかもしれない。
「うふふ、あたし本当に嬉しいですー。ようやくこうやって吸血鬼の方にお会い出来てー」
 ちょっといっちゃっている目で菊が言う。
 彼女はどうやら、オカルトマニアのようだ。面倒だし騒がれるよりはいいか、と適当に話をあわせていたら吸血鬼認定されてしまった。おまけにお茶まで出されて。
『ねーこれ、どうするのー?』
 背中にへばりついたままマオが尋ねてくる。
 ちょっと首を傾げてそれに答えた。
 なんでこうなっていて、これからどうすればいいのか。そんなこと、隆二が聞きたい。
 このまま永遠にかくまってくれるといいんだけどな、なんて間抜けなことを思う。しかし、どこかで一度きちんと、エミリのことには片をつかなければ。
「肩、大丈夫ですかー?」
「あー、はい」
「もう治っちゃう系?」
「まあ」
 やっぱりすごーい! と菊は黄色い声をあげた。
 まさかいつも行っているコンビニの店員がこんな変人だとは思わなかった。
「何かから逃げてたっぽかったですけど」
「まあ」
「あれですか? ヴァンパイアハンター?」
 なんでそこで目を輝かせる。
「あー、そんな感じの?」
「はー、やっぱり大変なんですねー。闇の眷属ですもんね」
 うんうん、と何度も一人で頷く。
「戦わないんですか?」
「あんまり目立つことしたくないし」
『屋根の上走ってたのにね』
 お前は黙ってろ。
「対策を練ろうと」
「なるほどー。ちなみに、どんなですか、ヴァンパイアハンター」
「どんな……」
「やっぱり黒服にサングラス?」
「いや。赤い……」
 そこで菊の動きがぴたり、と止まった。
「赤い?」
「赤い」
「……もしかして、無駄に全身赤い、金髪の女の子?」
 頷く。ほら、やっぱり目立つんだってば、あの格好。
「ご存知?」
「知ってます。一回会いました。その……」
 菊はそこで一度躊躇い、
「コンビニバイト終わった後に、倒れてたからって助けられて。っていうかぶっちゃけ、あの時のって常連さんの仕業ですか? 姿見えたけど」
 お茶を吹きそうになった。
『あー、それって最初の時だよね。やっぱり見られてたんだねー』
 マオがのんびりと言う。誰のためにやったと思っているんだ。
「いや、うん、まあ、その」
「あ、あたし別に怒ってないんで」
 ごにょごにょと口ごもる隆二に、菊は笑いかける。
「寧ろ、貴重な体験をしたと! 吸血鬼に吸われても死ななければ吸血鬼にならないそうですしね!」
「あー、うん」
 なんだかよくわからないが、咎めてこないならばそれでいい。
 それはそれでいいとして。
「あー。嬢ちゃんが言ってた痕跡ってそれか」
 溜息。なんだ、結局自滅に近いことをしたのか。まあ、いずれにしても顔を出されたと思うが。
「あの子、ヴァンパイアハンターなんですか?」
「まあ、そんなところ」
「じゃあ、あの赤いのは戦闘服みたいなものなんですね!」
 菊が納得したように手を叩く。
 いや、あれはただの私服……。
「しかしまあ、どうしたもんかな」
 小さく呟く。
 いつまでも逃げ回っているわけにもいかない。
 本気になればエミリ一人ぐらいどうとでも出来るが、殺すわけにはいかない。
 不意をついて気絶なりなんなりしてもらって、一度お引き取りを願いたい。
「……やっぱり、頼むしかないか」
 また借りを作るのも躊躇われるが。
「あー、お願いがあるんですけど」
「はい?」
 赤い服の少女はなにかの妖怪なのかと思ってましたーと熱弁をふるっていた菊は、小首を傾げる。
「電話、借りていいですか?」

 電話を一本かけ終わる。番号を覚えていてよかった。
「あとはどこかで嬢ちゃんを捕まえないとなぁ」
 まあ、適当な場所で待っていれば向こうからやってきそうだけれども。それだと不意をつかれかねないし。
「ヴァンパイアハンターに会いたいんですか?」
「まあ」
「どこにいるか聞いてみます?」
「……は?」
 菊が何を言っているかわからなかった。
「いえ、あの子目立つんで。あたしのカレシ無駄に顔広いから、もしかしたらどこにいるか見つけられるかも」
 言って菊はケータイを振る。
『あー、若い子の連絡網ってすごいってテレビでやってたよー』
 マオが言う。
「……お願いしても?」
「いいですよー」
 菊はあっけらかんと笑うと、ケータイを耳に当てる。
 しかし、あの小さな箱で電話出来るのってすげーよな。
 ぼんやりと思っていると、
『隆二いま、おじいさんっぽいこと思った?』
 マオが呟いた。
「もっしー。ねー、この前の赤い服の子のことだけど。……え? 違うよ、妖怪だなんて思ってないよ。そうじゃなくて、あの子の探してた人。……そー、その人に会って。葉平どこにいるかわかんない? ……うん、わかった。うん、メールして。はーい」
 菊が電話を終える。
「彼が皆にメールして聞いてくれるみたいです。っと、見つかったらどうしますか?」
「あー。なんかこの辺りで、それなりに人気がなくて迷惑にならなさそうなところとか、ないですかねー」
 他力本願にも程がある。
「えっと。確か廃工場がありますよ、ここから少し言ったところ」
「あるのか……」
 言っといてなんだが、なんておあつらえ向きな。
『廃工場とか危ないよ? 犯人に呼び出されて殺されちゃう』
 マオの腕に力がこもる。どちらかというと、こっちが呼び出す犯人側だ。
「じゃあ、そこに来るように伝えてもらうことって」
「いいですよー」
 菊はあっけらかんと微笑んだ。
「そうやって、メールしときますね」
「頼みます」
『りゅーじ。……大丈夫なの?』
 マオの言葉に、軽く腕を叩いた。宥めるように。
「おっ、はやーい」
 菊がケータイを片手に笑う。
「目撃情報ありです。すっごい形相で走ってたそうですよ」
 やっぱりかかわりたくないかもしれない。ほんの少しそう思う。
「伝言、つたえるように頼みますね」
「お願いします」
 一度頭を下げる。
 それから左肩をゆっくり回した。
 ここで時間をつぶせたことで、左肩も動くようになってきた。これで平気だろう。
「あの、それじゃあ」
 立ち上がりながら声をかける。
「あ、行きますか? ろくにおかまいもできませんで」
「いえいえ。お茶、ごちそうさまです」
 なんとなく間の抜けた会話をしてしまう。さっきから、ちっとも緊迫感というものが生まれない。まあ、それならそれでいい。
「あー、あと図々しいお願いだとは思うんですけど。俺のことは」
「秘密にするんですよね? 大丈夫です」
 菊がとってもいい笑顔で頷いた。
「あたし、人間との約束は結構頻繁に破っちゃいますけど、妖怪さんたちとの約束は絶対に守るんです」
 それから小声で付け足した。
「まあ、初めてなんですけどね。約束するのはもちろん、見るのも」
 ほんのちょっぴり不安になった。
 浮かれて誰かにぺろっと言いそうだけどな、この子。
 まあ、それならそれでその時考えるし、第一この子の調子じゃ周りの人に信じてもらえなさそうだし。
「あの、でもお願いが」
 菊は少し、神妙に呟く。
「……はい」
 少し背筋を正した。
「また、来てもらえますか、うちのコンビニ」
 真顔で言われたたわいないお願いに、緊張していた気持ちが緩む。少し笑いながら、
「それはちょっと」
「えーっ」
 菊は露骨に傷ついた顔をした。
「なんでですか! 正体、ばれちゃったからですか?」
「いや、近くに別のコンビニできたから」
 事実を答えると、菊はぽかんっと間抜けな顔をして、
「ええっ、そんな庶民的な理由……」
 がっかりしたように呟く。その後すぐに、でもそれはそれでおいしい? とか呟きだしたけど。
「まあ、コンビニは行くことがあったら行きます。それじゃあ、どうも」
 これ以上ここにいると話が長引きそうだ。
 隆二は一度軽く頭をさげると、来たときと同じようにベランダから跳躍した。
 あっさり立ち去る隆二を、ちょっとつまらなさそうに菊は見送ってから、小さく呟いた。
「またのご来店、お待ちしております」


第六幕 上手の猫は爪を隠す

 エミリは憤慨していた。
 G016に逃げられただけじゃない。
 探していたら、見知らぬ大学生ぐらいの男性に声をかけられた。いつものことだと無視しようとしたら、
「あの、神山って人からの伝言なんですけど」
 その男性はこともあろうか、そう言ったのだ。
 曰く、廃工場に来い、と。
 一体何様のつもりなのか。
 どうせ先回りして何か仕掛けるつもりなのだろう。こっちだってそれぐらいわかる。いつまでもお嬢ちゃん、じゃないのだ。
 荒々しく足音を立てながらエミリは廃工場に向かった。

「G016!!!」
 これ見よがしにシャッターが開けられた廃工場。
 無人のように見える中に向かって、エミリは叫んだ。
「いるんでしょうっ、出て来なさいっ!」
 返事はない。
 気配もない。
 もとより、居るのは不死者と幽霊だ。気配なんて感じられなくて当たり前だ。
 銃を構えたまま、中に入って行く。
 薄暗い。
 ゆっくりと、進む。
 中の物はすべて撤去されたあとらしい。がらん、としている。
 部屋の真ん中まで来た。
「神山隆二っ!」
 吠えるように名前を呼ぶと、
「はいはーい」
 かるーく返事が返って来た。
 声がした方を見る。見上げる。上。
 落下してくる影。
 高い天井に掴まっていたのか、と思った時には遅かった。
 真上から降りて来た隆二に組み敷かれた。
「ぐっ」
「駄目ー」
 銃を持った右手も軽々と捻られる。掌から転がり落ちた銃は、隆二のズボン、尻ポケットに入れられた。
「暴発すればいいのに」
 苦し紛れに呟くと、
「ここで暴発したところで嬢ちゃんの不利に変わりはない」
 隆二が笑った、ような気がした。
 顔が見えない。
「……頭を撃てばしばらくは動けないでしょう、と言ったのは私でしたね」
 フルフェイスのヘルメット。
「どこで手に入れたんですか? 盗品?」
「失礼な。借りたんだよ。知らない人に。未承諾だけど」
「それを盗品というのです」
 吐き捨てるように告げる。
 何度か脱出を試みるが、常人離れした力には勝てない。
 視界に、ふよふよと上空を浮かぶマオの姿。なんでそんなに眉根を寄せているのか。泣きそうな顔をしているのか。泣きたいのは、こちらだ。
「降参、してくんない?」
 隆二の声。
 泣きたいのはこちらだ。でも、泣かない。
「嫌です」
 エミリはきっぱりとそう告げると、少しだけ口角をあげた。
 そして、
「今です!」
 叫んだ。

 ほぼ同時に、隆二はエミリから飛び退く。不穏なものを感じて。
 マオの手を掴むと、そのまま頭を抱え込んだ。
 いくつかの銃声。
 それから衝撃。
 隆二は小さくうめく。
 何か高い音が響く。とても近くから。
 五月蝿いな、なんだこれ。そんなに騒ぐな。
『隆二っ、隆二ぃ!』
「……へーき」
 腕の中、悲鳴のように名前を呼ぶマオの頭を撫でる。
『りゅーじっ』
 マオの頭をすり抜けて、赤い雫が落ちる。
 赤い水たまりが出来る。
 なんだこれ、雨漏り? なんて、一瞬、脳が事態を理解するのを拒否する。
 これまた無様に、喰らったものだ。
『隆二っ』
「だいじょうぶ」
 喋ると同時にこみ上げて来た塊を飲み込む。
「ヘルメットは英断でしたね」
 エミリの言葉に振り返る。
 エミリの後ろ、入り口に立つ三つの人影。
「……増援部隊、ってやつ?」
 かすれた声で尋ねると、エミリは頷いた。
 乾いた笑いが漏れる。
「……やばいなぁ、平和ボケ?」
 エミリはいつも一人で行動しているから忘れていた。彼らは組織なのだと。
 エミリが近づいてくる。後ろの影は構えたまま。 
 被っていたヘルメットを脱ぐと、エミリに向かって投げつける。常人離れした力で投げられたソレは、エミリの足元に叩き付けられ、その形を歪ませた。借り物だけど、ごめん持ち主。
 そのままなんとか後退し、距離をとる。増援部隊が撃った弾が足に当たったのはご愛嬌だ。今更足に一発当たったところで、何かが変わる訳じゃない。マオの悲鳴があがるだけだ。
 エミリから奪った銃を構えてみせる。
『隆二ぃ』
 クリアになった視界に、マオの泣き顔がうつる。
「……泣かなくて、いいから」
 安心させるように微笑んでみせる。
 でもマオの表情は変わらない。
 被害状況を確認するのが憂鬱になる。
 治って来た箇所もあるが、さっきまで居た場所にできた赤いみずたまり。あんまりきちんと見たくはない。
 それにしても、ヘルメット、やっぱり被ったままにしとけばよかったかな。銃を構えたままの人影を見て思う。
 マオを背中に隠すようにして、エミリと対峙する。
「銃、撃ったことありませんよね? 降参、しますか?」
 エミリが尋ねてくる。
 体の処理が追いつかない。それでも笑ってみせる。
「誰がそんなこと」
『待って!』
 マオが叫んだ。隆二の言葉を遮るように。
 隆二は視線を背後に動かす。
 エミリは黙って動かない。
 マオは隆二を庇うように両手を広げて彼の前に立つ。
『あたし、行くから。だからもうやめて』
「……マオ?」
 血と一緒に、言葉がこぼれ落ちる。
 何を、言っている?
『いいよ、もう』
 マオは振り返ると小さく微笑んだ。口元は笑みをかたどっているが、目元はまったくその反対で、その顔はやけに頭にきた。
 それは神山隆二の大嫌いな表情だった。

 もう、どうでもいいと全てを諦めた者の顔。
 昔、自分と仲間達が嫌というほどした顔。
 なんで、そんな顔をしている?
 なにがそんな顔をさせている?
 どうしてそんな顔をしている?
 そして、マオのその顔は嘗て愛した、今でも一番大切な女性の唯一認められなかった表情に似ていて、
「しょうがないよ、双子は忌み嫌われるものだから」
 一瞬、だぶった。
 そんな顔は見たくなかったから、必死に道化を演じてきた。
 そんな顔は見たくなかったから、例え黒い茨の道でも突き進んできた。
 そんな顔は見たくなかったから、犠牲の羊になることだって厭わなかった。
 そんな顔は見たくなかったから。
 今だって、見たくない。

 

『ありがとう。楽しかったから、もういいや』
 マオは早口で告げる。
『そんなけがまでして、守ってくれなくてもいいよ。拾った猫がまた、元の飼い主のところへ戻っただけだと思って』
 エミリの方を見る。
『あたし、行くから。帰るから。だから、もう隆二のこと傷つけないで』
「……もう、逃げませんね?」
 ゆっくり吐き出したエミリの言葉に、マオは小さく一つ頷き自嘲気味に嗤った。
『何処に逃げたらいいのかわからないから』
 それから再びやけに無表情で自分を見る隆二の方を振り返る。
『隆二、怒ってる? その、ごめんね。散々巻き込んで置いて。どうせなら、もっとはやく、あたしがこうしていればよかったよね。そうしたら、隆二がけがするなんてことなかったのに……。ごめんね』
 隆二の頬に手を添えた。
『ありがとう。楽しかった』
 そういって隆二の唇に自分の唇を重ねる。食事の意味を持たない、初めての行為。
 隆二が、ほんの少し驚いたような顔をした。それがおかしくて少しだけ笑う。
 そのまま、隆二の頭を抱えるようにして抱きついた。
『あのね、隆二。最初にね、会ったとき、本当はとても怖かったの。最初は、あたしのことを見える人がいるんだ! って素直に嬉しかった。でも、すぐに怖くなってしまった。気づかれるんじゃないか、あたしがまだ存在して少ししか経たない未熟者だと、本当は存在していてはいけない者だと』
 隆二の耳元で、囁くようにして語る。隆二からの返事はない。
 それで、構わなかった。
『そして、……これが一番怖かったんだけれども、また名前をもらえないんじゃないかと思って凄く怖かった。あの人達は、あたしのことを、それとかあれとか認識番号で呼んでいたの。だから、貴方が名前を付けてくれたとき凄く凄く安心して嬉しかった。あたしは「マオ」という存在にはじめてなれた。嬉しかった、ありがとう』
 そう言って、少し黙る。あと他に、言いたいこと、なんだっけ?
『あたし、隆二の事、大好き。大好きだから、触れないのわかってても腕組んでみたかったし、手を繋いでみたかったし。大好きだから、もし、隆二がいいよって言ってくれたら、隆二を、食べたかった。男の人、美味しくないの、知ってたけど』
 楔だった。
 神山隆二という存在は、マオにとって世界とつながる楔だった。離れてしまえば、もう戻れない。そんなこと、わかっている。でも、
『その、後でちゃんとけがの治療してよね』
 でも、だからこそ、彼を犠牲にするわけにはいかない。
 あの水槽の中で本当は終わるはずだった。
 たまたま逃げ出せたけれども、そのあともあのままだったら、きっとすぐに捕まっていただろう。
 それを、少しの間だけれども、楽しい日々を過ごせた。隆二が知らないものを沢山教えてくれた。
 それだけで、満足だ。
『それじゃあ、ね』
 隆二の返事を待たず、隆二と視線を合わせないまま、手を離すとエミリの方へと移動する。
 エミリの前に降りる。
『逃げて、ごめんなさい』
「そうですね。研究班はかんかんです。覚悟して置いた方がいいですよ」
 そういって歩き出す。その後をマオはゆっくりと追う。

「待てよ」
 それを隆二は引き留めた。
 自分が思ったよりも大きな声だった。いつもよりかすれていたのは、大目にみて欲しい。
 振り向いたエミリと振り向かないマオ。
 銃を構えたままの三人組。
「ふざけるな」
 ゆっくりと息を吐く。
 足に力をいれて、立ち上がる。
 三人組が撃とうとしたのを、エミリが片手で制した。
 大丈夫。まだ立てる。
「見くびるな。拾った猫を犠牲にする程、落ちぶれていない。俺は欲ばりだから全部手に入れたがるし、事実、それだけの力もあると思うぞ、なぁ、嬢ちゃん?」
 決して気は抜かず、それでも傍観者に徹していたエミリに話をふる。
 エミリは軽く目を見開き、
「……そうですね、おそらくそうなのでしょう」
 単純に、それだけ言った。
 それを聞いてにやりと笑うと続ける。
「ほら、嬢ちゃんだってこういってるさ。疑心暗鬼ミチコよりも、俺の方が強いさ」
 おどけてみせる。
「けがさせて悪いと本当に思っているなら、迷惑かけてしまったと思っているのならば、そうやって消えるんじゃだめだろ。本当にそう思っているのならば、俺にお詫びと恩返しをしろ」
 自分でも段々何を言っているか、わからなくなってきた。
 ただ一つだけいえるのは、今、この居候猫を見放すことができないということ。
『でもっ!』
 マオが振り返る。また、泣きそうな顔をしているな。そう思って目を細める。
 なんだか酷く不愉快だ。
 何が? そういう顔をしているマオが? そういう顔をさせてしまっている自分が?
 マオはそのまま、叫ぶように言葉を投げつける。
『でも、あたしは何も出来ないもの! 隆二がけがしているのに何も出来なかったし、恩返しもお詫びもきっと出来ない』
「そのうち肉体がもてるかもしれないぞ? そのうち霊体であるからこそ出来ることがあるかもしれないぞ? 半永久的に生きられるんだからな。そういうチャンスにいつか恵まれるさ。それがいつのことかわからないが、きっと研究所に行けば得られないことだと思う」
 そういってやわらかく微笑んだ。
 エミリが驚いたような顔をしたのを、視界の端に捕らえる。それはまるで自分が笑うのは気味が悪いみたいじゃないか、失礼な。
「マオが来てから、言わなかったけど、十分楽しかったんだ。それだけで本当は十分だったんだ。一人の、生活が長かったから」
 こころなしか視界が揺らいできた。血の生成が追いつていない。
 がんばれ、常人離れした俺の体。
 あやまちを、繰り返すな。
「あの赤いソファーに座って、二人でだらだらとテレビでも見よう。あのソファー、やっぱり一人には大きすぎるんだ」
 マオの瞳が揺らいだ。
「だから、なあ、マオ」
 一呼吸置く。

「一緒に帰ろう」

 そういって両手を広げてみせる。
 マオが一度きつく目を閉じる。
 何かを振り切るような動作だったが、それはほんの一秒足らずで、隆二の方へ向かって動き出した。

 銃声。

 マオが一瞬驚いたかのように目を見開き、それからすぐにゆっくりと目を閉じ、崩れるようにして倒れていく。
 それを視界に捕らえた瞬間、走り出す。体が悲鳴をあげるのを無視する。
 が、位置的に有利だったエミリが先に彼女を捕らえた。
 舌打ちすると隆二は、再びエミリとの間合いを取り直す。
「それは?」
 彼女が持っている先ほどとは、別の銃について尋ねる。
「なんでも研究班が開発した霊体にも効く銃だそうで、原理はわからないので省きますが。試作品ですし換えの弾もないので不安だったのですが、効いて良かったです。ついでに、今G016に触れるのも研究班が作ったこの手袋のおかげです」
 そういってから隆二を見て、少し呆れたように笑う。
「安心してください。麻酔銃のようなもので眠っているだけです」
 それでも隆二は彼女を睨むのをやめない。
「そんなこと言われて納得すると思っているのか?」
「いいえ。思っていません。ですが、その怖い顔はやめてください。さっき、貴方が微笑んでいるのを見てわたしはとても驚いたのですよ」
「失礼だな」
 鼻で笑う。
 エミリはそんな隆二を見るとため息をついた。
 三人組が銃を構えたまま近づいてくる。
「どうして、そんなにG016に執着するのですか?」
 エミリに抱えられたマオにちらりと視線をうつし、隆二は訥々と騙り始めた。
「ウサギは寂しいと死ぬらしい。小鳥も構ってやらないと死ぬらしい。そいつはもう、コトリとな」
 自分で言った、然して面白くもない冗談に、意味もなく喉をふるわせる。
 エミリが眉をひそめた。あるいは隆二を哀れむように、あるいは理解しがたいと言いたげに。
「それとこれにどういう関係があるのですか?」
「黙って聞け。だがな、マオは言った。人間はつまらないと死んでしまうんだ、ってな。そういうことは今の俺にはいまいちよく分からないが、ここしばらく一人で居た俺にはマオがいた期間がやけに新鮮に感じられてな」
 一度言葉を切り、軽く目を閉じる。
「もっとも、ほとんど振り回されていたんだがな」
 苦笑しながら付け加える。
「だが、不思議なことに、一人で今までどうやって過ごしてきたのか思い出せない。笑えるだろう? 一人で居た時間の方が長いはずなのに。だから、マオがいないと俺はつまらなくて死んでしまうかも知れない」
 エミリの軽く眉間にしわを寄せた表情が、何を意味するのか隆二にはわからなかった。
「……嬢ちゃん、猫を飼ったことは?」
「いいえ。ありませんが……」
「そうか。俺の知り合いで猫が大好きなやつがいてな。どれぐらい好きかというと、毎日毎日飽きもせずに野良に餌をやりに行くぐらい好きなやつだった。それで、その関係で何度か世話をしたこともあるんだが、猫っていうのは人になつかないで家になつく、とも言われている。それぐらいそっけないんだ」
 話の流れが見えない、とでも言いたげにエミリが首を傾げる。それに構わず話を続ける。
「いつも冷静で冷淡で、こちらが気を引こうと一生懸命になっても向こうは冷めた目で見てくるだけだ。だがな、時々、向こうの都合でしかないんだが甘えてくるんだ。不思議なものでな。ちっとも懐かないから嫌いだ、って思っていた猫も一度甘えられると手放せなくなるんだ。まぁ、この辺は人それぞれかも知れないし、俺も実際に世話をしてみるまでそんなの嘘だと思っていたんだがな。……そうだ、嘘だと思うなら、嬢ちゃんも一度猫を飼ってみればいい」
 つまり、なにが言いたいかというと、
「俺にとってマオはそういうもんだ。わかるか?」
 エミリは心持ち頷く。
「同族意識でも哀れみでもなんでもない。ただ居てくれるとありがたい、っていうだけなんだ」
 自分で言ってから、それが自分の台詞だとは到底思えなかった。
 かつて自分が愛した女性を看取る勇気がなかったそのときに。別れ際、彼女の前で自分は決めていたはずなのだ。
 もう二度と何かに深く関わらないと。
 マオが人ではないとはいえ、居てくれてありがたいという台詞が、まさか自分の口からでるなんて。
 でも、マオとなら永遠だってありえる、死ぬわけないのだから。そんなことを、思っている。
 全く一体、どういう心境の変化なのだろうか?
 この変化を彼女は喜んでいるのだろうか? 恨んでいるのだろうか? 悲しんでいる?
 どことなく後ろめたさを感じて、少し軽めの口調で隆二は付け加えた。
「そうだな、俺とあんたらの関係に少し似ているな。利用しあっている。ただ、決定的に違うと言えるのは、あんた達とはいつ寝首をかこうかタイミングを狙っているが、マオとはそんなことがないところだ。理解してもらえたか?」
 エミリは首を横に振った。
「言いたいことは理解できます。ですが、それがどうして、けがを負ってまでG016に執着する理由になるのかが分かりません。ただの、実験体でしかないのに」
「考え方の違いだな。まず、根本的なところが俺とあんた達とでは違っているな。あんたらはあいつのことを実験体として扱っているが、俺にとっては最初から、そうだな、これからもただの居候猫でしかない。そもそも、それを言うならば俺だって実験体なんだしな」
 そこまで言って、そういえば肝心なことを聞いていないことを思い出した。
「ところで、あんた達はどういう目的でマオを造ったんだ?」
「不老不死です」
「不老不死?」
 眉をひそめる。
「なんだ、まだやってたのか、あんたら。いい加減懲りろよ」
 死なない、老いない体の持ち主、かつての実験体は呆れて言う。
「……怒っていらっしゃいますか?」
 エミリが少しだけ、怯えたような顔をした。
「いいや」
 怒ってはいない。ばかにしているというべきであろう。
 人間ってなんて進歩が無いんだろう。まだ、それを望んでいるなんて。
 年もとらずに死ねないということがどういうことだか、実際に不老不死になってみないとわからないだろうか。だが、想像することぐらい出来るだろ? 自分の友人や恋人がどんどん年をとっていき死んでいくのをただ見ていることしか出来ない。
 きっと、それを望んでいる連中はなってから後悔するだろう。
 不死者はそう思ったが、口には出さなかった。
 今更言ったって無意味だから。別にそれを自ら望んだ赤の他人が、後から後悔しても彼にとっては株価が昨日よりも上がったのと同じ程度のことだ。
 代わりに再び質問をする。
「なんたって、未だにそれを?」
「今、それなりに日本は平和だと思いませんか? 医学も発展して、平均寿命というのものびています。それは、日本以外の多くの大国にも当てはまります」
「ああ」
「財産というのも、平均して暮らすのに困らない程度あります。聞いた話によると、贅沢を望まなければアルバイトでもそれなりに食べていけるそうですね?」
 自分の方を見るのは、同意を求めているからだと気づくのに少し時間がかかった。
 確かに隆二はたまにアルバイトするだけのフリーターだ。食べていく、という概念が薄いので失念していた。
「そうだな。とりあえず、家賃と光熱費は払えている」
「一部の多くの財産を持つ者は、お金を払って買えるものはほとんど手に入れてしまい、別の新しい何かを願っています」
「それが不老不死?」
「ええ」
「なるほどね。一生遊んで暮らせる以上の金があるやつなんかはもったいないと思うわけだ。一生遊んで暮らしても余ってしまうわけだし、実際一生遊んで暮らすのもなかなか難しいというか、辛いしな」
「みたいですね。よくわかりませんが」
「それで、不老不死と幽霊にどんな関係があるんだ? 不老不死になりたければ、俺みたいになればいいだけだろう? それとも、研究所にはもう、俺たちを造ったときの資料は残っていないのか?」
「資料は残ってはいるのですが、不完全なものです。それに、その『お金持ち達』は自分達の肉体が改造されることは拒んでいます。不老不死にはなりたいが、もしかしたら途中で死にたくなるかも知れない。そのときに死ねないというのは嫌だ」
「わがまま」
 小さく呟いた。
「それに、貴方のような飛び抜けた身体能力が欲しいというわけでもありません。ですから、私たちは新しく何かを考える必要に迫られたのです」
「別にわざわざそんなわがままな連中の言うことを聞いてやらなくても、他にやることはあるだろう?」
 エミリは隆二を見て小さく嗤った。
「もし私たちが拒絶すれば国際問題に発展しかねませんよ? 一応、研究所は日本にありますが、今は世界各国との共同研究所扱いになっていますから。それに、莫大な研究資金をあなたの言う『わがままな連中』が投資してくださっているので、ご機嫌を損ねるわけにはいきません。他にも色々と、『社会の役に立ちそうな』研究を抱えていますから」
「……面倒だな」
「幽霊を造っているのは、不老不死の研究の一環です。というか、最初は幽霊を作るつもりじゃなかったんですよ」
 一度こちらに視線を向け、問いかける。
「愚問かもしれませんが、ホムンクルスってご存知ですか?」
「ん、ああ。あれだろ? 錬金術にでてくる人造人間」
 人間の精液を、馬糞と共にフラスコに密閉し、四十日間経過すると、この精液は生命を生じる。人間に姿は似ているものの、まだ透明で真の物質ではない。さらに四十週間、人の生き血で養い、一定の温度を保つと、人間の子供と同じように成長する。身体は、女性から生まれた子供よりもずっと小さい。
 なんていう作り方を、記憶の中からひっぱりだしてきて考える。
「それで、ホムンクルスがどうしたって?」
「その、ホムンクルスは自然とあらゆる知識を身につけているが、フラスコの外で生きることはできないっていうのはご存知ですか?」
「そういえば、そんなのだったかも」
「そんなのだったんです。そこで研究班の人間は考えたんです」
「『あらゆる知識を身に付けているならば不老不死についても知っているのではないか?』って?」
「……はい」
 相変わらず、わかりやすい思考をしている人々だ。隆二は少しばかり苦笑する。
「ですが、やはり実験は失敗した。研究班は肩を落として、もう一度挑戦するかどうか話し合おうとしていた、そのときに気づいたんです。フラスコの近くに幽霊がいることに」
「……変な風に作用したってことか?」
「おそらく。もし幽霊が死んだ人間の魂だという説を信じるならば、死んだホムンクルスの霊だったんだと思います。そして、一応それで落ち着いています。ただ、これでも我々は一応科学者なので、科学的に証明できないことは信じていないのですが」
「……ふーん」
 まぁ、確かに、科学者か否かと聞かれたら科学者だろう。人の脳や内臓に手を加えて不死者をつくるぐらいなんだから。
 それに、病気の特効薬の発明とか新しい機械の製造とかに、実はこの研究所は関わっている。非人道的なことも行っているので、決して表沙汰にはならないが。
「なんか、失礼なこと考えていません?」
 顔に出ていたらしい。不機嫌そうな顔をされた。
「いやいやまさかそんなことないよ」
 答える自分も白々しい。エミリは信じていなそうな顔をしてこちらを見た。
「話の続きですが、幽霊というのは不老不死です。肉体がないのだから当たり前なのですが。それでホムンクルスの研究を進める一方で、幽霊についての研究もはじめました。それがG016達です。人がものを認識するのは、ものが光を反射するからなのは当然ご存知ですよね?」
 一つ頷く。
「ならば、その光の反射をあやつることが出来たならば、存在しないものをさも存在しているようにみせかけることも、逆に存在しているものを見えなくすることも可能なわけです。理論上は。G016達はその光をあやつって作ったとされています」
「そういうものかね?」
 それで、あんな幽霊が出来るものだろうか。
「が……、正直私は嘘だと思っています」
 重要なことをやけにさらりとあっけらかんと言われて、一瞬聞き逃しそうになった。
「え?」
「実は派遣執行官であるわたしには詳しいことは説明されていませんし、詳しい理論やなにやらはまったくといっていいほどわかりません。説明されても、正直、理解できるかどうかさえも怪しいですし……。研究班もそれを理解しているのでしょう、余計なことまでこちらに語ってきません。ですから、平気で研究班は嘘をつくんです。秘密保持のために」
 そういってエミリは肩をすくめた。
「……あんた、今随分なことを言ったな」
「そうですか? まぁ、組織なんてそんなものです」
 まさか十六歳の小娘に組織について語られるとは思っても見なかった。
「まあ、そんなこんなで出来たのがマオ、と」
「ええ。ただ、G016の製造工程には何かしらミスがあったようなのです。失敗作というか」
「ミス?」
「本来ならば、あんなに確立した自我は持たないはずなのです。霊というのは精神体ですから、あまり不安定なのはよくありません。多少の感情は埋め込みますがG016の場合は違います。ころころとよく感情が変わり、不安定で……」
 まあ、確かによくわからない感情の発露をする幽霊だ。
「ましてや逃げ出すはずなど、自意識をもつはずなど、ありえないはずなんです」
 エミリがそうやって言い切る。
 この少女は気づいているのだろうか?
 自分が如何に自然の道理に反したことを行っているのかを。感情を持っていることをミスと言い切ってしまうことの残虐性を。
 自分達が行っていることが、どういうことになるのかを。本当に理解しているのだろうか?
「若気の至り」
「はい?」
 思わず呟いた言葉に、エミリは眉をひそめて隆二を見てきた。
 そう言う表情のある顔をしていれば年相応に見えるのになといつも思う。もったいない。せっかく、祖母譲りの綺麗な顔立ちをしているのに。
「……なるほど、マオが作られた経緯についてはよくわかった」
「そうですか」
 エミリが頷く。
「ただ、納得はできない」
 エミリが少しだけ眉をひそめた。
「まぁ、それがつまり何を意味するかというと……」
 少し体に力を入れる。
「今更だが、俺たちの間に話し合いの余地はないってことだ。話し合いをしても構わないが、一晩かかっても終わらないだろう。一度植え付けられた価値観というのはなかなか払拭できないしな。まぁ、俺があんたらと話し合いで何かを解決したことはないし、ここ最近は敵対してすらいなかったからな」
「……そうですね」
 エミリは一瞬の躊躇の後、ため息をついた。味方から新たに受け取った銃を隆二に向ける。
 黒い三人も同じようにした。隆二を囲むように並んでいる。
「でも、最後にもう一つ聞いてもいいですか?」
「人にものを尋ねるときに銃口を向けろと、研究所では教育しているのか?」
 そいつは愉快な教育方針だ、そう言ってやると、エミリは不愉快そうに眉をひそめたものの大人しく銃を降ろす。
「それで?」
「もし、仮に、貴方のところに行ってG016が存在していけると思っているのですか? 聞いたとは思いますが、まだ試作段階なので定期的に人の精気を摂取する必要性があります。貴方はそれをちゃんと、得ることが出来ますか? 貴方に幽霊のために自分の精気を分けてくれる人間の知り合いがいるとは、とてもじゃないが思えません。ならば、無理矢理奪うことになるでしょう。そうなれば、いずれそれは、他者にばれるかもしれません。そうしたらどうするおつもりなのですか?」
 確かにその危険性はある。今だって問題視しているし、未だに答えは出ていない。それについては、いや、その他の問題についても考えればきりがない。
 それでも、そのリスクを犯さざるを得ないのは……、
「だが、戻ればマオは消去されるだけだろう?」
 そんな事態は避けたいから。
 エミリは少し、眉を上げた。
「言ってたよな。マオは失敗作だ、って」
 エミリが頷くのを確認するよりも早く、隆二は続ける。
「あいつらが失敗作を残しておくなんて考えられない。俺たちを造っていた頃はばんばん失敗作を棄てていったんだしな。消されると分かっているところに連れて行かせられるか」
 エミリは何も言わない。
 沈黙は何よりも雄弁な肯定。
 思い出すのは、あの失敗作と言われて消されていった自分と同年代の子どもの顔。そして、いつ自分の番になるのかといった恐れ。
 自分は成功作として扱われていると気づいたときにも、それらは忘れることが出来なかった。
 あのころは、ずっと悪夢にうなされていた。後ろめたさと罪悪感で。
 そんな気持ちに知り合いを、それも居候猫をさせることなど、隆二には出来なかった。
「それに俺たちがとる精気だって食物連鎖だと考えればいいだろう? 人間っていうのは不思議だよな。豚やら鶏やらいつも平気で殺して食べているくせに、普段食べない犬や兎を食べることを異端とする。どちらも生き物の命を奪っているという事実は変わらないのに。それならば、命を奪ったりしない程度の精気をとることはまだかわいい方だろう?」
 隆二はじっとエミリを見る。
「それは詭弁にしか過ぎません」
 少し沈黙が続き、エミリは絞り出すようにして言った。
「そうだな。詭弁かも知れない。だけど、本当のことだろう?」
 笑う。皮肉っぽく。
「あいにくと俺は、神様を信じちゃいねぇんだ。あんたら造物主を崇めるつもりは毛頭ない」
 そして、小さく息を吐いた。喉に渇きを覚える。
「まったく、今日で一年分は動いたし、しゃべったぞ。これで残り一年は動かずにしゃべらずにいても誰からも怒られないな」
 ついでに血も十年分は確実に流したな、と思う。
 軽口をたたく。口元には笑みが浮かんでいるが、しかし目元は笑っていない。見据えるようにエミリを見ている。
 それをみてエミリは一つため息をついた。
「やはり、素直に譲り渡してくれる気はないのですね?」
「根本的にマオは物じゃないしな。あいつが心の底から戻る気があるならば話は別だが。……マオにそういう感情を抱かせる自信はあるか?」
「わかりました」
 エミリは銃を構える。足下にマオを横たえた状態で。
「貴方のような協力者が居なくなるなんて、残念です」

 銃声。

 

 今度はきちんと避け切れた。
 引き金がひかれる直前に跳び上がる。
 そのまま黒い三人の一人の背後に。首筋に手刀を叩き付けて、一人昏倒。
 隣の一人が慌ててこちらに銃口を向けてくる。昏倒したばかりの味方を投げつけてやる。とっさに力ない体を受け取り、バランスを崩したところに横から薙ぐような蹴りを。これで二人昏倒。
 最後の一人が駆けてくる。激情に駆られたように。
「ばっ! 無茶ですっ!」
 エミリが叫ぶ。
 一発左手に弾をうけるが、それは一旦忘れることにする。駆け寄って来た相手の拳を、その左手で受ける。結構痛かった。
 そのまま相手の手を捻り、ついでに腹部に一発蹴りを。
「っと、お仲間がどうなってもいいわけ?」
 エミリが銃口を向けてくるから、そいつの首を左手で拘束し、そのこめかみに奪った銃を当てる。
 拘束された本人がうめきながらも小さく舌打ちした。
「随分、動けるんですね。そのけがで」
 エミリの言葉に思わず笑う。
「動けるようになるための時間稼ぎ手伝ってくれてありがとう」
 どうしてマオを作ったのか。それに興味がなかったといえば嘘になる。だが、わざわざ今このタイミングで訊いたのは、血の生成を間に合わせための、傷口を少しでも治すための、時間稼ぎに他ならなかった。
 ひっかけられたことを知り、エミリがくしゃりと表情を歪める。
「まあ、怒るなって」
 こっちがけがを治したことだって時間稼ぎにしかなってないんだから。まだ少し、くらくらする。
 エミリが一歩二歩、近づいてくる。
「撃つよ?」
 右手の銃を軽く動かしてみせる。
「撃てませんよ」
 エミリがバカにしたように笑う。
「撃てるって」
 そりゃあ、良心がとがめないわけじゃないけど。
「メンタリティの問題じゃありません」
「は?」
「セーフティがかかったままだ、バカ」
 答えたのは拘束されている本人だった。
 言われて隆二は手の中の銃を見つめ、
「……そうなんだ?」
 一体どこがどうなっているのかわからないまま、それを遠くの方へ力一杯投げた。
「……あ、はったりだった?」
 投げてからエミリに尋ねる。マオがこの間見ていたドラマにそんなシーンがあった。セーフティがかかってるぜ? とかはったりかました後にグーパンチしていたが。
「教えません」
 エミリはにこりともせずに答える。
「丸腰ですし、観念してください」
「うーん、あのさ」
 首筋に回した腕を見る。
「このまま俺が腕に力こめたら、あっさり首の骨って折れると思うんだ。だからごめん、彼が人質なのに変わりはない」
 エミリの眉が吊り上がる。
「俺の、ことは、かまいませんっ」
 人質がかすれた声をあげる。
 エミリの眉がますます吊り上がる。
「俺に殴りかかってくるとことか、そういうこと言っちゃうとことか、この人新入り?」
「……わかりますか」
「そんな気がした。嬢ちゃんよりは年上っぽいのになー」
「バカに、するなっ!」
「バカをバカにして何が悪いのさ」
 呆れて笑う。
「命あっての物種だ。そういうこと言うなって。がんばれ世に憚れそれじゃあまた」
 流れるように告げると、きゅっと首をしめた。頸動脈を圧迫。
 かくっと、気を失う人質。彼自身が着ていた上着で両手を縛っておいた。なんとなく、おまけ的な気持ちで。それから持っていたナイフも頂いた。
「……役に立ちませんね」
 立ち上がった隆二に、エミリが呆れたように告げる。
「こんなのしか来ないなんて、嬢ちゃん人望ないの?」
「慢性的に人員不足なんです。あと、エミリです」
「そっか、がんばれ」
 気を取り直したようにエミリが銃を構え直す。
「降参しましょう?」
「この状況でも降参を持ちかけられる嬢ちゃんが俺は結構好きだよ」
「エミリです」
「でも、俺をどうにかしたいならエクスカリバーぐらい持って来ないと」
 実験体の抹消に使われていた武器の愛称をおどけて言ってみせると、
「許可が下りなかったんです」
 真顔でそう言われた。
「って、許可申請したのかよ。マジでやる気だったのかよ……。もうやだ、若者こえぇ。ゲーム脳ってやつだな」
 思わず嘆く。エミリは大げさに嘆く隆二を観察するような目で見ていたが、小さく息を吐くと銃を構えた。狙いを定める。
 その瞬間を見逃さず、隆二はエミリの懐へと飛び込む。
 エミリが慌てて、狙いを定めなおす。
 だが、遅い。
 隆二の卓越された身体能力は、目で追うのが精一杯の速さでエミリの懐へとその体をもぐりこませた。
 それでも、隆二がマオを抱えてエミリの喉元に先ほどのナイフを突きつけるのと、エミリが隆二の額に銃口を押しつけるのは同時だった。
「おとなしくG016を渡してくれませんか?」
「お嬢ちゃんこそ、今日はもう帰ってくれないか。それにしても不意打ちとは酷いなぁ」
「このタイミングを狙っていたくせによく言いますね」
 喉元のナイフを忌々しそうに見ながら、エミリは言葉を吐き出す。
「別に演技でもなんでもないぞ。俺は至って真剣かつ深刻に嘆いていたからな」
 ナイフをさらに近づける。エミリは反射的に、少しだけ体を反らした。特にそれを気にとめたりせずに、隆二は続ける。
「さて、別に引き金を引いて俺の頭を打ち抜いてもらってもいいんだが。そうした場合お嬢ちゃんはマオを連れて帰れない。お嬢ちゃんが引き金を引く前に、俺は刺す。よくて相打ちだ」
「だから、降参しろ、と?」
「なんか不満?」
「父が言っていました。あなたは本気になれば研究所をつぶすほどの力を持っていると。でも先ほどから見ている限り、手を抜いていらっしゃいますよね? その結果のけがではありませんか?」
「ずいぶんと俺はおっちゃんに買いかぶられていたみたいだな。そんなに凄くはない」
「でもあなたなら、このままわたしたちを殲滅するぐらい造作もないのでは? 大体、貴方自身が先ほどおっしゃっていたではありませんか。『全部手に入れる力がある』と……」
「そりゃぁ、まあ。嬢ちゃんを殺すなんて赤子の手をひねるようなもんだけど、」
 そこで一度言葉を切って、言葉を探す。
 色々と物騒な言葉が思いついたが、あえてそれは却下し、なるべく穏便に聞こえそうな言葉を選ぶ。
「……ほら俺あっちこっち痛いし。それに、お嬢ちゃんをここで殺しちゃったら次はもっと手強い祓い屋が、」
「派遣執行官です」
「それがくることになるんだろ? それだと面倒だからな。研究所と敵対すると身分証明書とか偽造してもらえなくなるし。そうなると割と困るんでな。部屋借りたり、アルバイトしたり、そういうのできなくなるし」
「それはわたしが弱いと?」
 うめくようなエミリの言葉に、眉を片方あげる。
 まさか、そう返されるとは思わなかった。
「普通の女の子としては驚くべき強さだと思うから気に悩む必要はきっとないぞ。いや、気にした方がいいのか? そのままじゃ、彼氏も出来ないからな」
 腕に抱えているマオに思い出したように視線をやる。堅く目を閉じたまま、動かない。
 少しばかり不安になる。
「なぁ、こいつ、いつになったら起きるんだ?」
 エミリは一瞬、何のことを言われたかわからずにまじまじと隆二の顔を見てしまった。見てしまってから彼の視線の先に気づく。
「G016ですか?」
「あ~、言おうと思ってたんだが、それじゃぁ味気ないからマオ、な。せっかく俺が無い知恵しぼって考えたんだし。ほら、嬢ちゃんも祓い屋っていうと怒るだろ? それと同じだ」
 エミリは眉をひそめて何かを思案した後、不本意そうに言い直した。
「マオ……さん、でしたら、明日のお昼ぐらいには」
「そうか」
「でも、聞いても無駄ですよ。わたしが連れて帰りますから」
 隆二は肩をすくめた。
「さっきの新人君じゃないが、研究所の人間は命とかいうやつを粗末に扱いすぎる。俺がとやかく言えた立場じゃないんだがな。人っていうのは簡単に物に成り下がる。まぁ、生きることを放棄して、ただ『存在する』ことにした人間もいるがな。生きる屍っていうか」
 言ってから、ある意味それは自分にもあてはまるのではないかと思った。生きることをせずに、ただ存在することにした不死者。
 生きているから死ぬのであって、死なないものは生きていない。そんな理屈を並べ立てたって、結局他人には生きる屍にしか見えないのかも知れない。
 そこまで考えてから首を左右に振った。いずれにしても、今はまだ問題視する場面ではない。そういうことは、無事に助かってから考えるべきだ。
「だから、簡単に殲滅できるとか言うなよ」
 エミリは酷く不可解そうな顔をした。
 それが自分の言葉によるものではなく、表情による物だと気づくのに少し時間がかかった。意識してみれば、自分は酷く弱々しい笑みを浮かべていた。
 それにしても、笑みを浮かべるたびにそんな顔をされてしまっては、まるでいつも自分が仏頂面のようではないか。それは事実だが。
「もっとも、これはある人の受け売りなんだがな」
 そういって肩をすくめる。
 誰のか、とはエミリは聞いてこなかった。聞いても無駄だと思ったのかも知れない。なんせ自分の知り合いはほとんどもう死んでいるから。
 そう結論付けて次の台詞に行こうとした隆二は、エミリが隆二をじっと見つめていることに気づいた。先ほどまでの鋭い視線とは違う、どこか哀れむような目で隆二を見ていた。
 それからエミリは何度か言葉を選ぶように口を動かし、小さな声で言った。
「……大切な人だったのですね」
「は?」
 何故エミリがそういったことを聞いてくるのか、わからずに隆二は間の抜けた顔をする。確かに、それを言った彼女は、とても大切な人だった。いや、大切な人だが。
 エミリはわずかにうつむいていた顔を上げ、隆二を見つめる。
「とても懐かしそうで優しそうな顔をなさっているからです。自分の宝物を見るような……」
 隆二はエミリを数秒見て、額に手を当てて嘆息した。
「どうして嬢ちゃんは、面と向かってそういうことをいうかな。恥ずかしいじゃないか。そんな冷静に人の顔を分析しないでくれ」
 そう言って、手を額から離す。
 意識的に先ほどとは違う、真剣な顔をつくる。
 エミリが身構えたのが分かった。
「だから、」
 そういって、隆二は笑みを浮かべた。今度は、酷く楽しそうな笑みを。
「だから、俺は殺されるわけにも殺すわけにもいかないんだ。大切な人との約束だからな」
 そういって、持っていたナイフを半回転させ、刃の部分を握り直し、柄の部分でエミリの喉をついた。
「っ」
 瞬間、エミリが焦ったような顔をして、でもすぐに瞳を閉じた。
 気を失い倒れそうになったエミリを、マオを抱えているのとは逆の手で受け止める。
「……やりすぎてない、よな? 大丈夫だよな?」
 動かないエミリの顔の前に掌をかざし、息をしているのを確かめる。
 ナイフで切った掌をぼんやり眺める。満身創痍すぎて、これぐらいなんでもない。
 マオをちゃんと抱え直し、その頭をなんとなく撫でようとして、血まみれの掌に気づきやめる。代わりにマオを抱えたまま、地面に倒れ込んだ。
 このまま眠りたい。目が覚めたら全部どうにかなってないかな。
 投げやりなことを考えていると、
「……もしかして、全部終わりましたか?」
 穏やかな声がかけられる。
 視線を向けると、入り口に和服姿の男性が立っていた。
「おー、おっちゃん。呼び出して悪い」
 マオを抱えているのと反対の手をあげると、男性はつかつかと寄って来た。
「いえ、遅れてすみません。非番で自宅にいたもので」
「ああ、家、遠いんだっけ」
 中年のその男性は温和そうな顔を、痛ましそうにひそめた。
「だいぶ、お怪我をされているようで」
「まあ、ぼちぼち?」
「すみません」
「気にしなくていいって」
 ゆっくりと上体を起こす。
「悪い。色々あるんだけど、とりあえず今は家に戻りたい」
「はい。お送りします。その格好じゃ、外歩けませんしね」
 言われて改めて自分の全身を見下ろす。真っ赤だった。
「職質物件だなこりゃ」
 苦笑いする。それから倒れている黒服三名と赤服一名を指差す。
「これらの後片付けも」
「はい、引き受けます」
「本当、申し訳ない」
「いえ、こちらの不手際ですので」
 右手を出されたので素直に掴まる。そうして立ち上がると、車のキーを渡された。
「すぐそこに止めてあります。とりあえず乗っていてください。こっちをどうにかしたらすぐにお送りします」
「頼む」
 素直にそれを受けると、マオを抱えて倉庫から外にでる。
 今は一体何時ぐらいなんだろう。もうよくわからない。
 出てすぐに止めてあった黒塗りの車に乗り込む。
 倒れ込むようにして後部座席に座ると、目を閉じた。
 あとのことは、あとで考えよう。
 今はとりあえず、マオと一緒に帰れることを喜ぼう。
 眠ったままのマオの顔を見て、少しだけ笑った。


間幕劇 Has the cat got your tongue?

「約束を、して」
 彼女は言った。
 彼は腕を組み、彼女ではない方向を見ながら聞いていた。
 彼女はそんな彼に構わず、続ける。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
 彼女の言葉が耳に痛い。耳をふさぎたい衝動に、寧ろ耳を千切り取りたい衝動にかられる。その衝動を必死で押さえつけ、それでも彼女を見ることは出来なかった。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
 それはなんだか、一生の別れのようにも聞こえた。
 それは彼女も覚悟をしていると言うことなのだろうか。このまま二度と逢えないことを。
「それから、」
 彼女は微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから……」
 彼女は彼の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。彼は体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
 彼が何も言えないでいると、彼女は額を彼の額に押しつけた。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
 その声がかすれたようなことに気づく。彼女がそんな風に物を言うときは、泣くのを我慢しているときだと言うことを彼はよく知っていた。
 いつもいつも、彼女にはそんな気持ちばかり抱かせている。
 また泣かせてしまうのは忍びなくて、こちらも少し押し殺した声で返した。
「……ああ」
 彼が小さく呟くと、彼女はそっと彼の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
 そのまま、自分よりも頭一つ分は高い彼の頭を抱える。彼は抵抗しない。軽く目を閉じる。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
 彼の言葉に含まれた意味合いに彼女が気づかなかったはずがない。
 彼女は今までだって、彼の言葉の裏を簡単に読んでいたのだから。けれども、彼女は何もそれについては触れなかった。
 ただ、またかすれた声で言った。
「……ずっとずっと、待っているからね。ずっとずっと……。ねぇ、――」
 そうして、彼女だけには教えた彼の本当の名前を呼んだ。
 その懐かしい響きに、彼は小さく唇を噛んだ。本当に今生の別れだと思ったから。
「待っているから……」
 そして、彼女は歌った。頭の上から聞こえてくる、心地よい歌声に彼は目を閉じた。
「指切り拳万、嘘吐いたら針千本飲ます」
 いつまで経ってもどこか子どもっぽいところのある彼女は、何か約束事をするときに必ず指切りをした。
 最初に指切りを求められたときは、どうしたらいいかわからずにどこかくすぐたかったが、いつの間にかそれにもなれて、どこか心地よさを感じるまでになっていた。
 けれども今は、断罪の言葉に聞こえる。
 彼女は人を責めたりしないと知っているのに、そう聞こえる。
 そして、決して指を絡めることなく彼女は歌い終りを告げた。

「指きった」
 

 結局、彼女には二度と会えなかった。
 否、逢おうとはしなかった。
 自分は嘘吐きだ。針を千本飲まされても文句は言えない。
 いや、もし今彼女が目の前に現れて、針を飲ませようとしたならば、拒みはしない。
 むしろ、喜んでそれを飲み込もう。
 彼女に会えるならば、針を飲み込むぐらいなんでもない。
 決してかなわぬ夢であることは重々承知である。


第七幕 居座り続ける居候猫

 さよなら、と自分は言った。
 そうやっていった自分を、彼はひきとめてくれた。彼はそのとき、怒っていた。
 あんな風に怒ってもらったのも初めてだなぁ、と思う。
 怒ってまで自分を引き留めてくれただなんて、考えてみればとても嬉しいことじゃないか。
 そう、だからあたしは彼のところに帰らなくちゃ。
 そうして、恩返しとお詫びをしなくちゃならないんだもの。恩返しとお詫びが出来るなんて、なんて素敵なことなんだろう。
 彼はそうやって、あたしに居場所を提供してくれる。

 ……でも、どうして、どうして、急に体が動かなくなってしまったんだろう。この先で隆二が待っていてくれているのに、
 はやく帰らなくちゃ……。
 だから、ねぇ、隆二。
 行かないで。
 待っていて。
 お願いだから、あたしを置いていかないで!


 マオがうっすらと目を開けたとき、最初にうつったのは、あの赤いソファーにもたれてとてもつまらなさそうな顔で本を読む隆二だった。
『……隆二?』
 夢かも知れないと思って声をかける。
 だって、どうして彼が自分の目の前にいるのだろうか?
 隆二は目を開けたマオに気づくと、つまらなさそうな顔はそのままで言った。
「おはよう、マオ。いや、もうおはようじゃないか?」
 時計に視線を移した隆二はどうでもよさそうな声でそういう。
 視線をそれに移したら、午後一時をさしていた。
「大丈夫か? なんかお嬢ちゃんに変な銃で撃たれていたが」
 隆二はまたつまらなさそうな顔のまま、マオに尋ねる。
 その顔がわずかに心配そうにゆがめられているなんていうのは、自分の都合のいい思いこみだろうか?
 自分の置かれた状況を確認する。視界に入る赤。マオの大好きな、隆二の家の、赤いソファー。
 少し混乱している記憶を整理する。
 そうだ、あのとき自分は撃たれて……、そして、どうして今、隆二の家にいるんだろう? その間に一体何があったのだろう?
『……隆二、あれから何があったの?』
「死闘の末、全員を無事気絶させて、とりあえず知り合いに丸投げしてきた」
 始終一貫してつまらなさそうにそこまで言うと、隆二は再び視線を本に移す。
 ゆっくりと時間をかけてその言葉を理解し、呟いた。
『それじゃぁ……、あたしは』

 言ってしまうとそれはまるで消えてしまうかのように、マオはゆっくりと慎重に、問う。
「マオ?」
 隆二が本を閉じて、マオを見る。
『あたしは、まだここに居ていいの?』
「ん? ああ」
 その台詞に多少面食らったように、隆二が頷く。
「だからなんで駄目だって思う」
 隆二はそこまで言って、言葉を切った。
 マオの顔が何故か泣きそうなぐらい歪んでいたから。
 どうしたのだろうか?
 また自分は何か、まずいことを言ってしまったのだろうか?
 また何か、彼女を泣かせるようなことを言ってしまったのだろうか?
 そう思った次の瞬間には、隆二はマオに抱きつかれていた。

『ありがとう』

 ほとんどすすり泣くかのような声でマオは言う。
『ありがとう。守ってくれて、助けてくれて、待っていてくれて』
 小さな声で、何度も何度もマオは呟く。
「……別に」
 そういうものの、自分はなんだか酷く優しそうな声をしていると思った。無意識のうちに、マオの頭を撫でていた。
『だけど、ありがとう。もう、迷ったりしないから。もう二度と、消えることを選択したりしないから。存在を維持していくためならば、どんなことでもする覚悟だから』
 隆二の肩に顔をおしつけるようにしているからマオがどんな顔をしているのかわからない。少し顔を動かせば分かることではあるが、何故か隆二はそうする気が起きなかった。
『だから、ずっと、ずっとここに置いていて。あたしが、何か出来ることがみつかるまで。……できれば、見つかってからも。お願い……』
「ああ。むしろ、それは俺のほうからもお願いしたいな。きっと、人生が愉快そうだ」
 少し笑いながらそういうと、マオも顔をあげて小さく笑った。
 それから、隆二の姿を見る。あちらこちらに傷痕があり、包帯の巻かれた体。
『……痛い?』
「いいや。……すぐに治るさ」
 安心させるように微笑む。自然とそう答えていた。
『……あの人、また、来るかな?』
「いや、それについてはまた別の」
 ピーンポーン。
 隆二の言葉を遮るようにチャイムがなる。
 マオがおびえたように隆二を見る。慌てるマオを片手で制す。
「大丈夫。多分、解決編のはじまりだから」
 そうして笑ってみせると、玄関に向かう。
 ドアをあけ、そこに立っている人を見ると口元に笑みを浮かべた。ほらやっぱり。
「昨日はどうも」
「いいえ、こちらこそ」
 昨日、倉庫に来た男性が笑っていた。

 

 隆二は来客をダイニングに通す。
 突然現れた和服を着た男性に事態が把握できず、しばらくマオはその人を見ていたが、男性が彼女の方を見て会釈したところ、慌てた。
『隆二、もしかして、その人!』
「あ~、大丈夫だから落ち着け」
 意味もなく手足をばたばたさせるマオの手をひっぱって、自分の隣に座らせると、来客を目で示しながら言う。
「確かにこの人は研究所の人間だが、研究所の人間には珍しくとても話のわかってくれる人だから大丈夫だ。昨日も助けてもらったし。なぁ、おっちゃん?」
 そういうと正面に座った来客は苦笑した。
「相変わらず辛辣ですね。それから、そちらのお嬢さん、マオさんでしたか? 今のお名前は。心配しないでください。わたしは別に争いに来たわけではありません。ただ、昨日の娘の不作法な行いのお詫びと、それからこちらの今後の方針を話しに来ただけなので」
 ゆっくりと相手の言葉を理解し、
『ええっ!?』
 マオは大声をあげて来客を指さした。
『え、娘って娘って、あの人の父親っ!? 赤いのの!?』
「お前、結構失礼だぞ」
 隆二が横目でマオを睨んでたしなめる。
『え、でも、だって、似てないっ! 顔とか髪の色とかもあるけど、なんていうか性格が! 空気が似ていないっ!』
「ああ、それは俺も思う。どうしたら、おっちゃんの娘があんな破天荒な性格になるのか、不思議でしょうがない」
 隆二とマオでよってたかってそういうと、エミリの父親、和広は困ったように笑った。
「そういわれましても……。恵美理はどちらかというと母親似ですし、外見はわたしの父似なんですよ。無鉄砲な性格は、わたしの母譲りですしね」
 そういってから、顔を引き締める。
「それよりも、昨日はうちの娘が本当に失礼なことを致しました」
「いいって、いいって」
 隆二は手をひらひらと顔の前で振った。
「結局、俺らの勝ちなわけだし、そんなにたいした被害もなかったから」
 マオが何かを言いたそうな目で見てくるのを無視する。
「ですが、けがもされたようですし」
「別にすぐ治るって。っていうか、おっちゃんに謝られてもねぇ。おっちゃんは責任感強すぎ」
 昔からそうなのだが、隆二には和広に責任を押しつけると言うことが出来なかった。
『隆二は責任感がなさすぎだわ』
 マオが横でぼそりと呟く。
「お前が言うな」
 マオの頭をはたく。
 文句を言ってくるマオを無視して、和広に向き直る。
「昨日は悪かった。急に呼びだして」
「いえいえ。寧ろよかったです。恵美理はどうにも暴走するところがありますし」
「祖母にそっくりの、なー」
『呼び出したの?』
「あーほら。コンビニの人に電話借りただろ? あの時」
 菊の家から電話をかけたのが和広だった。研究所の人間で唯一信頼出来る人間。寧ろ、神山隆二が唯一信頼出来る人間といっても過言ではない。
「本当はマオさんがいる先が神山さんのところだとわかった段階で、恵美理は研究所に一度連絡をいれるべきだったんです。それをあの子は、逃げられたことに腹をたてて一人で暴走して」
「途中で増えたしなー」
「増援に呼ばれた彼らは新人だったので、適当に言いくるめられたのでしょう。まったく、男親は駄目ですね。特にあの子は妻の忘れ形見ですし、ついついわたしも甘やかしてしまって……」
 そこでマオが説明を求めるように隆二を見た。
 おそらく、彼女が考えていることは当たっているだろう。隆二は一つ頷いて見せた。
 和広の妻、つまりはエミリの母親は、エミリが小さい頃に他界したと聞いた。
 もし生きていたなら、また話は違ったかもしれないのに、と時々思う。
「いずれにしてもけが一つ無く、恵美理を諫めてくださってありがとうございました」
 頭を下げる。
「あんまり人にけがをさせるなって、言われているんでな」
 なんとなく居心地が悪くて、ぶっきらぼうにそう答えた。
「……そうですか」
 和広は一瞬何か言いたげに口を開いたが、すぐに当たり障りのない言葉を言った。
 ふと、この人はどこまで知っているのだろうか? と思った。直接は知らなくても祖母から、あの死神から、過去の話を聞いたことでもあるのだろうか。
「そういえば、嬢ちゃんが増援で呼んだのがおっちゃんじゃなかったのはちょっと意外だったな」
 そうしたらもっと早く話が解決しただろうに。
「今はこうやって事後処理をするのが仕事なんです。もう、走り回れるような体力は残っていませんし」
 台詞の後半で和広は苦笑した。
 その笑い方と台詞に、和広が老いた事を実感し、隆二はまた置いていかれたような気分になった。誰かが年をとったことに気づくといつもなる、あの気分。
 それを悟られないように勤めて明るい声で言う。
「へぇ、それはおっちゃんにぴったりだな。まさに天職?」
「…… そうですね。わたしがこういうことを言うのも問題だとは思うのですが、わたしたちの研究所には血の気の多い人が多すぎます。わたしはあまり争いごとは好きではありません。話し合いで解決できるのがやはり一番だと思います。そういう意味ではこういう仕事はぴったりですね」
「あの研究所にもおっちゃんみたいな人が増えてくれたらおれは非常にやりやすいんだが」
 小さくため息。
「それで、事後処理は無事に終わった?」
 隆二の言葉を聞き、マオも心持ち体をこわばらせて和広の顔を見つめる。
「ええ、そうですね。どちらかというとこちらが本題です」
 和広はそういうと、居住まいを正し二人を見る。
「昨日のことを一通り報告しました。まあ、多少、神山さんに有利になるように情報を操作したことは否めませんが」
「いやいや、ありがたい」
「結果、今後のこちらの方針と致しましては、神山さんというかつての……こういう言い方をしてしまうことをお許しください。かつての実験体と現在研究している実験体のマオさんとが出会うと言うことは極めて稀であります。また、マオさんは……、こういう言い方をしてしまうことは非常に失礼なのですが、こちらから見ればかなり異質な存在です」
『異質?』
 マオは不愉快そうな顔をする。
「らしいぞ」
 その言葉に隆二が答える。
「お前ほど自我が確立していて、また感情が豊かなのは、嬢ちゃんに言わせれば失敗作らしい」
『……失敗作、かー』
 自嘲気味にマオは言う。
「あの子はそんなことを言いましたか……」
 和広は眉をひそめる。
「すみません。マオさん、そんなに気にしないでください。わたしたちに貴女を失敗作だという資格はありません。……そもそも、本当は神山さんにもマオさんにも謝らなければならないのですから」
 和広は頭を下げる。
 しばらく沈黙を流れたが、マオがそれを破った。
『でも、あたしは作ってもらえて嬉しいわ。それから、こういう事をいうと自分勝手に聞こえるかも知れないけれども、隆二が不死者でよかった。そうじゃなかったら、例えあたしが作られていてもここにこうしていられなかったんだもの。……そうなよ、あたしがここに今いるのは凄い偶然の連続だと思わない!?』
 急に思いついたのか、マオが大きな声で嬉しそうに仮定の話をはじめる。
 一つ事例を挙げるたびに、一つ指をたてながら。
『もし、あたしが作られなかったら、根本的にあたしは存在しなかった。もし、あたしに感情が無かったら逃げ出さなかった。もし、隆二が居なかったら、もし、隆二に幽霊が見えなかったら、もし、隆二に会わなかったら、あたしはとっくの昔に捕まって消されていた。もし、隆二がただの人間だったら、あたしを助けてなんてくれなかった。他にもきっといろんなことがあって、あたしは今ここにいるのよ! ねぇ、これってすっごい偶然の重なりだと思わないっ!』
 自分のその発見が嬉しいのか、頬に手をあてて、とても楽しそうにそういう。
 和広は少し驚いたように目を見張って、隆二はあまりに“マオらしい”態度に微笑んだ。
「そうだな。確かに、マオの言う通りだ。もし、マオの存在が生み出されることがなければ、俺は未だに独りでだらだらと存在しつづけていただろうな。それを悪いとは言わないが、だが、今の方が楽しいことに違いはない」
「ですが」
 何か言いかけた和広を遮り、
「ま、だからな、おっちゃんがそんなに気にすることはない。それに、俺が咎めたいのは俺らをつくったじいさん達であっておっちゃんではない。そして、じいさん達はもう逝っちまったんだろ?」
 軽く肩をすくめる。そして、まるで聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように続けた。
「つまりおっちゃんが気に病む必要はない。違うか? もっと言うならば、気に病む必要性の無い人間に謝られることほど、不愉快なことは無い」
 沈黙。
「……そうですか」
 和広はゆっくりと顔をあげて、二人を見ると微笑んだ。
「お二人にそう言っていただけると、非常に気が楽です」
 小さく息を吐く。
「それで、先ほどの続きですが、そういうお二人がこうして一緒にいると言うことは、今後……こちらとしても何か役に立つことがあるかもしれません。ですから、わたしたちはこれからはマオさんのことを追うことは致しません」
 マオが目を見開いて和広を見る。隆二は表情を全く変えず、腕を組んだ。
「ですから、……安心してください」
 言い終わると同時に、マオは顔をぎりぎりまで和広に突きつける。
 和広はわずかに身を引き、隆二がそれを咎めた。
「おまえ、それ失礼だって」
 けれどもマオは、そんな言葉は耳に入らないかのように、和広の顔をみて言った。
『それ、本当? 本当に、本当に、あたしはここにいていいの?』
「え、ええ……。もしかしたら、何かご協力をお願いすることがあるかもしれません。そのときに、協力さえしていただけたならば……」
 たじろぎながら和広が答えると、マオは顔中を笑みにして和広に抱きついた。触れていないが。
『ありがとうっ! 本当に本当にありがとう! 貴方、大好きだわっ!』
「え、えっと……」
 救いを求めるように自分を見る和広と、それから自分の中に生まれたいらだちに背を押されて、隆二はマオの後ろ襟首を捕まえて自分の隣に再び座らせた。
「少し落ち着け」
 けれどもマオはおちついたりせずに、今度は隆二に抱きつく。
『だって、嬉しいじゃない!』
 そのまま、猫のように体をすり寄せてくるマオに閉口する。
 それをみて、和広は笑った。
「……なんだよ、おっちゃん。助けてやったのに」
 笑われていることに気づき、情けないぐらい恨みがましい気持ちで言う。
「すみません」
 まだ笑いながら和広は首を横に振る。そして、ただ……と続ける。
「神山さんは変わったと思いまして」
「はぁ?」
「恵美理に聞いてはいたのですが、神山さんがそうやって楽しそうに笑っているところをみるのは、もしかしたら初めてかもしれませんから」
 慌てて口元に手をやると、確かに口は笑みの形になっていた。
 なんだか悔しくて、無表情を装う。
 けれどもそれは、自分にひっついたまま大はしゃぎするマオによって、簡単に崩された。
 小さく舌打ちをして、苦笑と微笑が入り交じった笑みを浮かべる。
 それを見ながら和広は続けた。
「やはり、マオさんと神山さんが一緒にいることはいいことだと思います」
「なんでだよ」
 これのどこが? 顔にそう浮かべて、隆二はマオを指さす。
「そうですね……、手負いの獣が治療を施してくれる者にあったみたいですよ」
 それだけいうと、口をつぐむ。
 それは一体どちらがどちらなのだろうか? それとも、二人とも両方にあてはまるということなのだろうか?
 説明を求めて和広を見ても、和広はゆっくりと首を左右に振るだけだった。
 自分で考えろと言うことだろうか? それとも、言った和広自身もわかっていないのだろうか?
 いずれにしても、やけに饒舌な和広に少しばかり閉口して肩をすくめる。
 和広はそれに気づき、笑った。
「しゃべりすぎましたね。それから、お邪魔のようですし、今日はもう失礼いたします」
 そういって立ち上がる。
「え、ああ。別に邪魔じゃないが……」
 その言葉の真意を測りかねて、隆二はしどろもどろに言った。それからテーブルの上がやけに寂しいという事実に気づく。
「そういえば、お茶も出さないで悪かった」
「いいえ。わたしたちがかけた迷惑を思えば、お茶をだして頂くなんて厚かましいです」
 和広はそういうと、やけにゆったりとした動作で出ていった。穏やかな、まるで自分の子どもを見るような笑みを残して。

 和広を見送り、まだひっついたままのマオに視線を落とす。
「いい加減離れろ」
 無理矢理引きはがすと、マオは不機嫌そうな顔をしたが、やがて微笑んだ。
『ねぇ、隆二。お願いがあるの』
 上目遣いで頬を染めて、伺うように、言ってくる。
「お願い?」
 客人が帰ってから、というのも変な話だが、コーヒーが欲しくなり立ち上がりかける。
 マオはそんな隆二の手を掴み、引き留めた。
『ちゃんと聞いて』
 その手を振り払うだけの理由も思いつかず、隆二は黙って再び腰を下ろした。
 それを見届けてからマオは続ける。
『あのね、あたし、まだ、存在して少ししか経っていないじゃない?』
「ああ」
『だからね、あたし、まだまだ知らないことたくさんあると思うの……』
「だろうなー、マオはバカだから」
『む……、否定出来ない』
 揶揄するように言うと、マオは少しだけ不満そうに呟いた。
『だから、否定出来ないから。あたしはまだ、何も知らないから。だからね』
 小首を傾げて、隆二の顔を見つめる。
『あたしに、世の中の事を教えて欲しいの。この偏った知識を、足りない部分を補って欲しいの』
 隆二の顔を見つめてまっすぐにそう言い、
『……頼んでも、いいかしら?』
 最後は少し臆病に、付け加える。
 そういうところが、本当に猫のようで愛らしい。
「残念だが、教えられるほど生きてはいない」
 隆二はそっけなくかえす。
 マオが視線を落とした。あからさまに。
『そう、だよね、図々しいよね、ごめ』
「だがな、」
 マオの言葉を遮り、笑った。
「一緒に学んでやってもいい」
『え?』
 ゆっくりと、微笑んでみせる。
「一緒に学んで行こう、色々と。知らないこととか、わからないこととか。それなら、付き合うよ。ひとでなし同士、仲良くやって行こう」」
 マオはしばらくぽかんっと間抜けに口をあけて隆二を見ていた。
 それから隆二の言葉を理解したのか、じわじわと微笑んでいく。笑顔が顔を、徐々に浸食してく。
『そうね!』
 マオが顔上げ嬉しそうに笑った。
 そう思ったら、隆二は再び抱きつかれた。
『そうね、そうしましょう』
 喉を鳴らしそうな勢いでそういうと、神山家の居候猫は微笑んだ。
『そうね、あたしたちひとでなしね! 人間じゃないもの同士、仲良くやっていこうね! 隆二性格悪いからそういう意味でもひとでなしだよね!』
 さりげなく罵倒された。よし、とりあえず礼儀というものを教えるところから始めよう。
 敢えてこの場ではつっこまず、心の中でだけそう決意する。
『約束よ、絶対に約束よ』
 そして、また楽しそうに笑う。
『ゆびきりげんまんよ! うそついたらはりせんぼんのますんだからね!』
 頬と頬をすりよせながら、マオが笑う。
「……ああ、約束な」
 隆二も小さく、笑んだ。

 風がカーテンをゆらした。


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