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1.とまどい

 

 Jリーグディヴィジョン1(J1)の常連サッカークラブ、ブレイズ川口のホームスタジアムの入場口をくぐった。

 家からそう遠くは離れていないが、スタジアムのなかに入ったのははじめてだ。中田(なかた)亜夜は二階客席の最上階に立ったとたん、二月の冷たい風に煽(あお)られた。肩をすぼめてぷるっと身ぶるいしたが、それは寒いせいばかりではないかもしれない。

 スタジアムを見渡すと、想像していたよりもずっと広かった。グラウンドを走りまわる選手たちの姿は小さくて、有名な選手の姿でさえ見分けることが難しい。

 けれど独りだけ、どんなに遠く離れていても、顔が見えなくても、確信できる〝ひと〟がいた。

 自然と亜夜の目がそのひと――彼、を追う。

 彼のことは試合中継のテレビ画面を通して何度も見ることができた。長い間、会わなかったとはいえ、じかに彼の姿を見て特別変わったとは思わない。

 けれど、何かが違っている。

「亜夜、座ったら?」

 いつまでも立ちっぱなしの亜夜を、付き添ってきた母が気遣った。

 二重の意味でスタジアムに来ることを怖(おそ)れていたにもかかわらず、一つの怖れは気にする必要もなかった。

 もう一つは……問題だらけのまま。

「うん、さきに帰ってていいよ、独りでも大丈夫だから」

「そう? じゃあ、そうするけど。寒いし、あまり遅くならないでね」

 母はわずかに心配顔で、けれど亜夜のしっかりとした口調に安心して帰っていった。

 亜夜はグラウンドからいちばん遠い場所を選び、目立たないように小さくなって座った。

 一階には熱心なサポーターが数多く見学している。これが休日だったら、もっと見物人は増えるのかもしれない。

「弥永(やなが)! ちょっとこっち来い!」

 その大声にハッとして、亜夜は視線を彼に戻した。 

 彼の名は、弥永聖央。ブレイズ川口の、そして、日本代表チームの司令塔と異名をとる若き天才ミッドフィルダー。

 そして、亜夜の幼なじみ。 

 聖央は心持ち走って、監督のところへ近づいていった。

 高校時代までは風になびくほどさらさらだった髪が、いまは少しウエーブがかっている。見た目の変化はそれくらいしか挙げられないのに、亜夜にはなぜか見知らぬ人のように感じられた。

 何よりも好きだったサッカーなのに、いまの聖央にとっては意味をなしていない。

 もしも、聖央にとってサッカーがどうでもいいものになっているとしたら、そのうえで自分が下した強制だけが聖央をサッカーに縛りつけているのなら、それは終わりにしなければいけない。

 ずっと見てきた亜夜がそう思うほどに、聖央のサッカーは苦痛に満ちている。

 聖央の人生を無駄にするつもりなど微塵(みじん)もなかった。

 そう謝ったら、聖央は許してくれる?

 聖央は監督の話を聞いているのかいないのか、その顔は常にグラウンドを転がるボールの行方を追っている。

 感情の見えない聖央の姿が哀しい。

 それからもずっと亜夜は聖央の練習風景を見守った。解散の声があがったのは夕方。

 聖央はうつむきかげんでグラウンドをあとにする。

 亜夜はその姿も見守った――と、亜夜の視界から消える寸前、聖央は急に立ち止まった。

 熱心な視線に気づいたかのように聖央の頭が持ちあがり、亜夜のいる方向へと目線が移動する。

 ――!?

 それがピントを合わせるまえに、亜夜は慌てて身を縮めて顔を伏せた。心臓が速く、大きく脈を打つ。しばらく顔を上げることができなかった。こそこそと、ただ聖央を見るために来たわけではないのに。

 たぶん気づかなかったと思う。

 この距離で〝だれ〟かを判別することなど不可能だろうし、亜夜がここにいるとはまさか思いもしないだろう。

 二年はふたりにとって長い時間だ。

 意識して会うことを避けてきた。聖央は亜夜が髪を短くしたことを知らない。

 たぶん。

 永遠と思えるほどの五分間をすぎて、ようやく亜夜が顔を上げたとき、グラウンドにはもうどの選手の姿もなかった。

 亜夜はほっと一つため息を漏らして、座席に手をついて立ちあがった。

 寒い時期は痛めた膝に響く。横に立てかけていたステンレス製のステッキを取って左手に持つと、不自由な足を引きずってゆっくりと歩きながらスタジアムをあとにした。

 いま、再び会うことになって亜夜を目のまえにしたとき、聖央は何を思うだろう。

 受け入れてくれる?

 ――そんな戸惑いが集(つど)う。

 


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2.限界

 

 次の日も、亜夜は聖央の練習風景を見るためにスタジアムに足を運んだ。

 心のないサッカーを見ていてつらくなっていく。

 聖央の声が聞こえない。

 高校生だった頃、うらやまれるほどの判断力――才能という言葉で称賛されていたけれど、それをフルに活(い)かして吠(ほ)えるような声でイレブンに指示を出していた。高校を卒業してプロ選手になってまだ二年しかたっていないのに、いま、そんな聖央の姿はどこにも見られない。ロボットのように、これまでの経験値からフォーメーションされたプログラムによって動いているみたいだ。

「弥永ーっ! やる気がないんならグラウンドからおりろっ! 遊びでやってるんじゃないんだっ!」

 監督のひと際大きい怒鳴り声がスタジアムに反響して、それが途絶えると水を打ったように静まり返った。亜夜は自分が叱責を受けたように感じて身をすくめた。

 聖央の無気力さは限界を超え、すでに監督の目をごまかせるものではなくなっていた。

 選手たちもサポーターたちも亜夜も、そこにいただれもが身動きできずに息を呑んで聖央の動向を見守る。

 聖央は片手で額(ひたい)にかかった髪を無造作に掻きあげると、足もとのボールを思いきり蹴った。そのボールの行方を追うことなく、聖央はゲートへと向かう。

 蹴られたボールはゴールポストのバーに勢いよく当たって跳ね返り、力を失って当てもなくさまよい、やがてやんだ。

 まるでいまの聖央さながらだ。

 あんなふうに云われて、黙って引きさがるの? だってこのままじゃ、あんまりだよ。

 すべての視線がゆっくりと立ち去る聖央の姿を追うなか、亜夜はもどかしく席を立った。だれもいない二階客席の前方へ、鈍いながらも急いだ。聖央がゲートに消える瞬間に間に合う。

「セーオー!」

 亜夜は身を乗りだして聖央の名を叫んだ。それがスタジアム中にこだましても気にしている場合ではなかった。

 聖央の足が止まり、ゆっくりと顔が上がっていく。その瞳が亜夜を捉えた。

 ――――。

 互いに見入ったまま、時間が止まったような錯覚に陥(おちい)った。

 遠く離れていても見てとれる、聖央の生気の感じられない眼差(まなざ)しに、亜夜は呆然とする。

 いつから聖央はこんなふうになったのだろう。聖央をこんなふうにするつもりなどなかった。

 絶対に。

「……亜夜……?」

 聖央の瞳が揺れる。

 亜夜はうなずいた。

 聖央は、亜夜が想像していたような驚いた様子を見せない。

 その表情はむしろ――。

「なんでここにいる!」

 むしろ、怒りだった。

 亜夜は怯(ひる)んでしまう。

 その隙(すき)に、亜夜の答えも待たずして、聖央はゲートへ消えてしまおうとする。亜夜は挫(くじ)けているときではないと自分を奮(ふる)い立たせた。

「セーオー! いま、ここから出ちゃだめ。このまま出てったらだめだよ。もう強制しないから、セーオーをサッカーに縛るつもりはないから。あたしが云ったこと、全部忘れていいから。でも、逃げないで。中途半端で投げだしたら許さない!」

 視線を合わせることはなかったが、聖央は足を止めていて、急いで口走る亜夜の言葉に耳を貸しているように見えた。

 聖央からどんな言葉を待っているのか、亜夜からこれ以上にどう声をかければいいのか、何も見いだせない。空気が有り余る大空の下なのに息苦しくなった。そのとき――。

「亜夜ちゃんの云うとおりですよ」

 だれかが口を挟んだ。

 声の主は、と辺りを探すと、一階客席からゲートのほうへと歩いていく人が目についた。

 あの後ろ姿はもしかして。

「健朗(けんろう)くん!?」

 ブレイズ川口のオーナーである貴刀(たかとう)グループの社長子息、貴刀健朗だった。

「はい。久しぶりですね、亜夜ちゃん。足の具合はどうですか」

 二階を見上げて健朗が訊ねた。

 育ちの良さか、はたまた温厚な性格がもたらすものなのか、相変わらずの丁寧な口ぶりだが率直なところも変わっていない。

 へんな気遣いをされるより、こっちのほうが亜夜にとってはずっと気がらくだ。

「うん、段差がなかったら杖なしでも平気」

「そうですか。がんばったんですね」

 安心したように微笑むと、健朗は聖央に向き直った。

「じゃあ、今度は聖央のばんです。いったいどうしたんですか」

「どうもしねぇよ」

 聖央の乱暴な返事に、健朗はかすかに眉をひそめて不快な気分を表した。

「ならば、戻ってきっちりと練習をしてください」

「それはオーナー側としてか、それとも友だちとして云ってるのか!?」

 聖央はまるっきりけんか腰だ。

「いまはどちらの気持ちも同じですよ」

 対して、健朗はあくまで和やかに応じた。

 聖央は目に見えて苛立(いらだ)っていたが、やがて小さくため息をつき、「オーケー」と片手を上げてグラウンドへと向きを変えた。

 ひとまずほっとして肩をおろしたとき、聖央が亜夜のほうを振り向いた。

「亜夜、おまえにはここにいてほしくない」

 強く冷たく拒絶を放った聖央の言葉に少なからず亜夜は傷ついた。

 聖央は変わってしまった。

 以前の聖央なら、どんなに亜夜に対して怒っていようが、こんなに冷たい云い方はしなかった。そう思うと泣きたくなる。堪(こら)えたぶん、のどの奥が痛い。

 亜夜はくるりと反対を向いて階段をゆっくりのぼり始める。

 右足を引きずりながら歩く亜夜の後ろ姿を聖央は追う。その口から今度は音が立つくらいの深いため息が漏れた。

「健朗、頼む」

「わかってますよ」

 泣きそうになるのを自ら戒(いまし)めていた亜夜には、その会話が聞こえるはずもなく、聖央の言葉に従って出口へと向かった。

「亜夜ちゃん!」

 スタジアムから出ようかとしたとき、健朗が亜夜を呼びとめた。

「びっくりしました。聖央の調子がよくないと耳にして来たんですが、まさか亜夜ちゃんがいるとは思いませんからね」

 健朗は、ついてきてというような素振りで亜夜を促した。

「セーオーも知らなかったの。昨日も来たんだけど……タイミングがつかめなくて……」

「あんな聖央を見ては、そうでしょう?」

「うん……セーオーは変わってしまってる。会わなかった間に知らない人になってるみたいで……あたし……間違ったことしたのかな……」

 いつも抱いていた疑問だ。亜夜は独り言のように、歩調を合わせてくれる健朗に投げかけた。

 健朗が亜夜の決心を知るわけもないのに。けれど。

「間違いとはだれにも云えませんよ。まぁ、僕の計算よりは長かったでしょうか」

 健朗は亜夜の真意を先刻承知のように、謎めいた返答をして笑みを浮かべた。

「亜夜ちゃん、誤解しないように。聖央がいてほしくないって云ってるのは、聖央の近くということではなくて、スタジアムに、ってことですよ」

「……でも――?」

 そのさきは意味するものに気づいて言葉にするのをためらった。

 健朗は亜夜の無言の問いかけに応えてうなずいた。

 


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3.ためらい

 

 グラウンドに入ると、健朗は選手たちから離れた片隅に向かい、無造作に置かれたベンチに亜夜を案内した。

「こんなとこに入っていいの?」

 亜夜はおずおずとグラウンドを見渡した。

「どうぞ、おかまいなく。これでも、オーナー貴刀の〝御曹司〟ですよ」

 健朗は亜夜の気をらくにさせようとしてのことか、よく云われる敬称、もしくは皮肉られる別称――御曹司という嫌った言葉をわざと使っておどけてみせた。

「セーオーは嫌がってるのに」

「いいえ、聖央は了解してます。今度から亜夜ちゃんは顔パスにしておきますから、練習を見るときはここに来てください」

 気が進まないまま、亜夜は半ば強制的にベンチに座らせられた。健朗は、「監督に挨拶してきます」と亜夜に断ってから離れていった。

 亜夜は健朗と違って部外者でしかなく居心地は悪い。かといって引き返すタイミングも失ってしまった。そっと息をつくと緊張は無視しようと努めて、亜夜はいままでよりずっと間近で聖央の動きを見守った。その様子は、さっきよりもいくらかましになったように見えた。

 聖央が了解しているのはどこまでなのか、ここに亜夜がいることをわかっているのか、一度もこっちを見ようとしない。

 すぐに戻ってきた健朗は横に座って優雅に足を組む。育ちがいいせいか、いちいちしぐさが綺麗だ。

「亜夜ちゃん、心のほうはどうですか」

 何も打ち明けていないのに、健朗は出し抜けに亜夜の問題を云い当てた。隣を振り仰ぐと、健朗と目が合った。

「どうして……?」

「聖央を見ていて気づいたんですよ。最近になってやっと断言できたことですが。聖央にあるなら亜夜ちゃんにも、って見当はつきます。聖央はずっとうまく隠してましたよ。僕でさえわからないほどに。亜夜ちゃんもそれに気づいた。だからここへ来たんでしょう?」

 最近になって急に目立ってきたから気づいてしまった、聖央の理解できない行動。聖央は亜夜と同じように、心的な傷を負っているのかもしれない。そう思い至れば納得がいく。

 試合の中継を見ていてずっと不思議に思っていた。負けても勝ってもスタンドを振り返ることはなく、ましてやサポーターたちへの感謝などする気もないように足早にグラウンドを去っていく、蒼(あお)ざめた聖央。

 それは疲れているからではなく、傷にほかならない。いまになって心底にあったものがじわじわと浮上している。聖央の傷は隠しとおせないほど深く浸透していた。過去に限った傷ではなく持続していて、それどころかきっと進行している。

 亜夜はどれほどの傷みを聖央に強(し)いてしまったのだろう。自分がいちばん傷ついて犠牲を強いられたと思っていたのにそうじゃなかった。

「聖央は、試合終了後のグラウンドでサポーターたちの声援に応えることができません。それが熱狂的であればあるほど、聖央は蒼白になって控え室に戻っていく」

「あたし……自分がいちばんかわいそうなんだって思ってた……」

 健朗が言明したことで聖央に課した傷みが明確になり、そのつもりはなかったとはいえ、亜夜は自分を責めた。

「そのとおりですよ。いちばんつらかったのは亜夜ちゃんです。だからこそ、聖央は苦しんでいる。けど、あのサッカーセンスを捨てるには早すぎる。いま自分を見失っているとしても、あの事故と、その結果と、すべてを乗り越えないと、ここで逃げだしたりしたら、聖央だけじゃなくて亜夜ちゃんまでもがさきへは進めない。そう思うんです」

 健朗の云うとおりだ。

 ふたりともがいつまでも引きずっていてはいけない。

 うなずいた亜夜に、健朗は口角を上げて力づけるような笑みを見せた。

「聖央はこれまで順調でありすぎたんです。聖央はあらゆる過程でスランプというものを知らない。頭が良くて、サッカーという天性の才能を持ち、あれだけの容姿を備えて、それに……」

「それに?」

 云い淀(よど)んだ健朗を促すように首をかしげると、しばらく亜夜に目を留めたあと、健朗はかすかに首を振った。

「いえ。そうですね……強いて云えば、親しくない人には控えめに云ってクールなところがちょっと難ありですね。けど僕たちにとっては性格よしで、聖央が悩みを持っていたかというところも疑問です」

 健朗がのべつに聖央のことを描写すると、可笑(おか)しくなって亜夜は吹きだした。

「それは健朗くんにだって云えることだよ。頭良くって、大企業社長の息子で、ケチをつけるところがない容姿をしてて……うーん……強いて云えば、親しくない人には控えめに云って言葉遣いが普通になっちゃうけど、あたしたちにとっては性格よしで悩みなんてないように見える」

「……やられましたね」

 亜夜が健朗の言葉を少しアレンジして返すと、ふたりは顔を見合わせて笑った。

「まぁ、見えないところで聖央が努力しているところは僕らも知っているわけで。だからこそ、聖央はサッカーを才能とか天才という言葉で括(くく)られるのを嫌がるんですよね。挫折なんて言葉とは無縁できてるから、そう称されてもおかしくはない」

「うん。テストの点数悪くて、勉強やる時間がないんならサッカーやめなさいっておばさんに怒られたら、次のテストじゃ満点近く平気で取ったり」

「左足の動きが悪いって云われれば、一年後にはどっちが利き足かわからないくらいまで克服(こくふく)していましたし」

「そう考えると、セーオーってやっぱりすごい」

 亜夜は憧憬(どうけい)のこもった声に、健朗は「ですね」と賛同した。

「あえて云うなら、あの事故が唯一、聖央の試練となりました。それを克服することなくいまに至ったわけで、つまりは亜夜ちゃん、きみが下した決断によって、よけいに聖央は立ち直れなかったんだと思いませんか?」

 健朗はけっして責めているわけではなかったけれど、亜夜の瞳からつと涙がこぼれてしまう。

「ああ……泣かないでください。聖央は亜夜ちゃんがいないとだめだって云いたかったんですよ。困ったなぁ」

 健朗はめずらしく慌てている。

 亜夜は泣いているのは健朗のせいではないと云うかわりに首を振った。泣くつもりも、そんな気配も自分自身が感じていなかったのに、いきなりの涙は理由も見つからず、なかなか止まらない。

 バッグからハンカチを出そうとしていると、ふいに健朗が立ちあがってそのまま数歩まえに出た。

 直後、軽く弾くような音が響く。

「――ィッテ――ッ!」

 健朗の奇声に顔を上げると、なぜか片手にサッカーボールを持ち、もう片方は何かを振り払うようにひらひらとさせている。飛んできたボールを素手でキャッチしたらしい。痺(しび)れているのだろう。

「さっすが! 楓ケ丘(かえでがおか)高のもとゴールキーパーだけのことはあるな!」

 離れたところから聖央が叫んだ。

「プロが素人相手にこんなことしないでください!」

 健朗が抗議しながら、力いっぱいボールを蹴り返した。健朗は小学生時代、聖央と一緒にサッカーを始めて高校までずっと続けていた。まだ足の感覚は鈍っていないらしく、ボールはまっすぐ伸びていく。

「ちょっと足もとが狂っただけさ。悪ぃな」

 聖央は飛んできたボールを胸で受けると、それを自在に操りながら練習に戻った。

「白々しくよくあんなことが云えますよね。こんな突拍子もない方向にボールが飛ぶほど、聖央のコントロールが狂ったことがあるわけないんですから。この際だからって、僕の将来まで潰さないでください」

 健朗は聞こえるはずのない聖央に、訳のわからない文句まで云い続けた。それが滑稽(こっけい)で亜夜の涙もいつしか止まっていた。

「聖央は変わらないですよ」

 亜夜が笑ったのを見て健朗は諭(さと)した。

「亜夜ちゃんのことになると見境(みさかい)がなくなるところが。わからないですか? 僕がきみを泣かせたから、聖央はわざと僕に向かってボールを蹴ったんですよ」

 亜夜は目を丸くして、それから短く笑った。

「そう……だね。セーオーはずっとあたしの守護神だった」

 あの女性が現れるまでは確かにそうだった。

「いまもそうですよ」

 亜夜が過去形で云ったことを気にして健朗は修正した。亜夜は首をかしげる。

 たったいまのことがあるとはいえ、健朗の云うとおりなのか確信は持てない。聖央が亜夜に向けた眼差しは、憎しみに近いほどの怒りだったのだから。

 

 健朗は練習が終わるまで亜夜に付き合った。四時になって解散の声があがったあと、聖央が亜夜たちのところへやってきた。

「亜夜、送るからチケット売り場んとこに待ってろ」

 それは、健朗と話があるからさきに行け、という意味にも聞きとれた。亜夜はうなずいてグラウンドをあとにした。

 聖央の有無を云わせない声音は、大丈夫、と断るひと言さえ口にする余地を与えなかった。感情の見えない聖央の顔が頭のなかに渦巻(うずま)いている。

 他人にそうすることはあっても、亜夜に対してそういう態度をとることはなかった。あらためてそう思うと悲しい。

 あんな断ちきり方をしたにもかかわらず、なぜか、再会したらすぐにもとの関係に戻れると思っていた。話すことはたくさんあったはずなのに、それさえ吹き飛んでしまうほど、亜夜はさみしい思いしか得られていない。

 聖央は亜夜の本意を知らなかったのだから当然なのだけれど。

 

「待たせたな」

 一時間くらいたって、やっと聖央が来た。

 それだけ云って、聖央はさっさと先立って歩き始めた。亜夜のペースを気遣ってだろう、その歩調はゆっくりとしている。

 バス停まで来ても、横に立ち並ぶ聖央の視線が亜夜に注がれることはない。平行線のままだ。冷たい風と相まってよけいに寒さを感じる。

「進路、決めたのか?」

 息が詰まりそうなこの場所から逃げだしたい気持ちがピークに達したとき、ようやく聖央が沈黙を破った。

「……うん」

 返事をすると、聖央はやっと亜夜のほうを見た。ジャンパーのポケットに手を突っこんだまま、肘を動かしてベンチに座れという素振りをする。

「四月から青南(せいなん)大に行くの……。おととい試験あって、合格したら、だけど……」

 ベンチに腰かけると、亜夜はためらいがちに報告した。受験は終わり、結果待ちで、高校も決められた出校日を除いていまは自由登校だ。

「自信あるんだろ」

「わかんないよ」

 聖央のあまりにも無愛想な態度に戸惑いつつ、亜夜は自信なさそうに返事をした。高校受験のときのように聖央が家庭教師をやってくれていたらもっとらくにがんばれたかもしれない、と思いながら。

 やがてバスが来ると、亜夜はいつものように最後に乗りこむつもりで順番を待った。

 それに倣(なら)っていた聖央が、最後まで待って亜夜の背中を押す。

「さきに行けよ」

「あたし、時間かかるから」

「さきでもあとでも変わんねぇだろ」

 それはそうなのだけれど。

 亜夜は気後れしながらステップに杖をついた。バスの乗り降りは、階段と一緒でステップの高さがどうしても動作を鈍くする。聖央は手伝うこともなく亜夜が乗るのを待って自分もあとから続いた。

 手助けするのではなく、できることだから待っている。そんな度のすぎないやさしさは変わっていない。

「すみません。足が悪いんで席を空けてもらえませんか」

 空席がないと見てとった聖央が、二十歳くらいの男性に声をかけた。少し周囲がざわつく。

「セーオー、いいよ。あたしなら大丈夫だから……」

「どうぞ。僕はかまいませんよ」

 その人は親切にすぐに立ちあがって、席を譲ってくれた。亜夜が「ありがとうございます」と云うのは聞こえたのか、その人は聖央をまじまじと見つめている。

「弥永さん、ですよね。いつも応援してます」

「それはどうも。亜夜、座れよ」

 聖央は素っ気なくお礼を云うと、再び亜夜の背中を押した。

 自分が当然だと思えば遠慮なしでそれを人に押しつける。それは、いまみたいに自分のためではなく人のために限られる。そんなところも少しも変わりない。

 家近くのバス停に着くまでの三十分、ふたりはまた黙った。聖央が有名すぎて、お喋りをするにはふさわしくない場所ではある。それとは別に、ぎくしゃくとした気まずい沈黙はふたりの間に重く伸しかかった。

 こういったシーンを亜夜は想像していなかった。

 二年という月日は、実際に長い時間だが、それがとてつもなく長い時間だったと思い知らされる。亜夜が一方的に拒絶したことを考えれば、この結果は受け入れなくてはならないことだ。

「亜夜、降りるぞ」

 亜夜は通りの風景を見て、まもなく到着することに気づいた。そして、亜夜はいつの間にか気まずさから抜けだして物思いにふけっていたらしく、傍(そば)に立つ聖央のジャンパーを握りしめていた。

「ごめん」

 慌てて手を放すと、聖央は軽く握った拳で亜夜の額をつついた。

 バスが止まると、聖央がさきに降りて、やはり亜夜が降りるのを見守っていた。

「ありがと」

 バスがクラクションを一つ響かせて発車する。ふたりは家のほうへと歩いた。

 くっ。

 聖央がふいに笑った。

「セーオー?」

「おまえ、変わってないな。人の服をつかむ癖(くせ)も、その舌っ足らずなおれの呼び方も」

 そう云って亜夜をちらっと見下ろしたあと、聖央はまた笑った。

 亜夜のなかに希望が差す。

 もしかしたら聖央も、変わったかもしれない亜夜を怖れて、あるいはさみしいと思っているのかもしれない。やっと見せてくれた笑顔は、ふたりの関係を修復するための掛け橋かもしれない。

 けれど、亜夜は聖央の腕を取ることができなかった。けんかしたあとはいつも甘えるように聖央の腕に絡(から)みついて仲直りをしていたのに、なぜかいまはそれができない。

 そのためらいは離れていた時間のせいに違いなかった。

 ふたりはすぐに隣同士の家に着いた。

「家に寄ってから寮に戻る。明日は日曜日だし、チームの練習はないけど……来週も来るのか?」

「……うん、そのつもりだったけど……セーオーが嫌なら……」

「亜夜がしたいようにすればいい」

 亜夜の言葉をさえぎった聖央のぶっきらぼうさは、やさしさからくるものなのか、突き放すためのものなのか、判断がつくことはなかった。

 


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