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短歌・公園

短歌・公園     やくると

 

 

とりあえず彼女についてもうなにもおもいだせない彼女について

 

「いったっけ? ピエロの服のいろってさ、なみだいろってなまえらしいよ」

 

現実でさえどこかしら真剣な顔をして居るエスカレーター

 

菓子パンをおやつにいれる 買い物が娯楽になった街の朝九時

 

本日は粒として降る月明かりシュワリと夜の底にはじけて

 

弟と足して三十一歳と答えるような少年だった

 

あしたまた微笑むだろう 青空におそれと書いてすこし眠ろう

 

どこまでも人間である人々のために踊っている昼下がり

 

書き上げた手紙は燃やせ冬の日に白雪として舞い降りるから

 

砂のうえ風に薄れる足跡をのこした人の名を追いかけて

 

歩くのがはやい子どもと歩くのがおそい子どもと三月の空

 

まえだけを向いてるなんて気づかないように鏡はみてこなかった

 

夜の公園砂場になぞる同心円もっとちいさくもっとちいさく

 

綴じ糸のほつれたノート風にのり川に奏でる嬰ヘ短調

 

もう水の甦らない噴水になおとどまっている石の鳥

 

横ぎった猫はくさめをひとつして乾いた街に音は響かず

 

さよならという名の少女文字盤のうえを経巡ることくりかえし

 

 

 

 稚拙ですが、五七五七七に初挑戦してみました。四つめは渋谷駅でみたCMのキャッチコピーから。確か「この街では、買い物も娯楽になる」みたいな感じだったと思います。


少年は、初老の猫に話しかけるのです

少年は、初老の猫に話しかけるのです     てきとう

 

 

 少年は、初老の猫に話しかけるのです

 

「ねぇ、きみは何のために生きているんだい?」

猫は黙ったままです

「だまっていちゃあ、何もわからないさ」

猫はニャオとひと鳴きします

「さあ、まじめに答えるんだ。」

『面倒だな』

『私は、〝生きる意味〟みたいなそういう胡散臭いことを考えるのが何より嫌いだし、苦手なんだ。』

「きみにとっては〝生きるイミ〟ってうさんくさいものなのかい?」

『ああ、とても』

「どのくらい?」

『世界で……二番目くらいだ』

「三番目はいったいなんなんだい?」

『娼婦に売りつけられかけた、100万円の幸福の壺だ』

「どうしてそれがうさんくさいんだい?」

 

『幸せな奴が娼婦になるはずないだろう』

 

 

 

 

 

少年は、再び初老の猫に話しかけるのです

 

「シュレーディンガーの猫って知っているかい?」

『ああ、もちろん、よく知っているさ』

「ほんとう?、ぼくにはいまいちよくわからないんだ」

「ちょっとぼくに教えてくれないかい?」

『シュレーディンガーさん家の猫のことさ、そいつはいつも縁側で寝転んでいる。よくシュレーディンガー爺さんに首を撫でてもらっているよ』

『私の知る限りでは、世界で二番目に幸せな猫さ』

「うそでしょう?」

猫は黙ったままです

「ぼくにはそれがあっているかどうかもわからないけれど、おそらくうそだ、だってきみがそんなにかんたんにおしえてくれるなんておかしいさ」

『うそじゃないよ、本当さ、ただし二つ目の意味だけれどね、』

「じゃあいったい一つ目のイミはなんなのさ」

『君にもわかるように簡単に説明すると、[ブラックホールの中にホトケはいるかおらぬか]ってところさ、そもさん、そもさん』

『[ホトケがいるかおらぬか]はブラックホールを覗いた者だけにわかるのさ』

 

 

 

 

 

 少年は、三度初老の猫に話しかけるのです

 

「ぼくはハードボイルドに生きることに決めたんだ」

「ぼくはきみをころさなければならない、ただ、ぼくはきみをころしたくない」

「だいいち、ぼくはこれから朝食をとらなきゃいけない、」

「きみを殺しながらゆで卵をかじるなんてのはぼくの趣味じゃない」

「だからぼくはきみに時間をやる」

「ぼくが卵をゆでながら五つ数えるまえにおとなしくここで死ぬか、故郷を捨てて逃げるかを決めるんだ」

「さあいくぞ。五、四、」

『ちょっと待て、』

『君は、ハードボイルドに生きると決めたんだよな』

『だったら、食べる卵もハードボイルドじゃなきゃ』

『私を撃ったら』

『そんなところを妥協するようじゃきみはいくらかかってもハードボイルドになんかなれやしない』

『五つ数えただけじゃ半熟にもならないぜ、』

 

 

 

 

 

 

 少年は、最後に初老の猫に話しかけるのです

 

「きみの知る、一番幸せな猫ってどいつなんだい?」

『わからない、私以外の誰かさ』

「じゃあ、この世でいちばんうさんくさいものは?」

『アイデンティティさ』

 

「きみと別れるなんて辛すぎる」

『私もだ』

「ぼくはきみが大好きだ」

『わたしも君が大嫌いだ』

「うーん、『さよなら』」

 

 

 

 

 

 

([]内は、田中啓文 著『銀河帝国の弘法も筆の誤り』より引用)


猫へ、町へ

猫へ、町へ     ジョージ

 

 

「それから」

と、猫は付け加える。

「できるならエベレストにも登ってみたいと思う」

それを聞いた僕は少しだけ驚きながら、次の言葉が紡がれるのを黙って待った。

「というよりもね」

猫は何歩かワルツを踏んで、僕を見据える。

「登らなくてはいけないと思うんだよ。……だってね、信じられるかい?」

そこまで言うと、猫はまた他のことを始めた。良くない癖だ。今度は天窓のある屋根裏では珍しい、蜘蛛を見つけたらしい。

「話の途中じゃなかったかな」

たしなめると、猫は尻尾を振って答えてみせた。

「ああすまないね。……それで、君は信じられるかい?もしエベレストに登らずに死んだら、僕は世界で一番高い地面を踏まないまま……」

「人生を終えるわけか」

僕は猫の言葉を途中で奪った。

猫は不満そうに、目を細める。

「猫だから人生とは言わないよ」

それもそうだな、と思って、僕はふさわしい言い方を考えてみる。

だが、たっぷり五分ほど悩んでみて、僕は思考を放棄した。蝉の煩い八月の終わりに考えるには、少しばかり難しい命題だったから。

 

「どっちかにしよう」

僕は、話題を戻して、そう提案した。

あと一週間くらいしかないことを考えると、両方は無理だろう。

「できれば……」

「町がいいな」

猫が言い終える前に言葉を重ねる。

「エベレストの方はあんまり現実的じゃないように思えるよ」

そう続けると、猫は意外にも満足げな顔をした。振り向くようにして後ろ足の足元を確認して、座り込む。

「僕もそう言おうと思ってた」

喋りながら猫は喉を鳴らした。よっぽど気分がいいらしい。

「……もしかしたら、町にはエベレストよりも高い建物があるかもしれないからね」

その言葉を聞いて、僕は笑いそうになってしまった。

「忘れそうになるけど、君は猫なんだな。物知りでも、猫だから、時々おかしなことを言う」

「……物知りではないよ。知らないことだらけだ。哲学者だからね、僕は」

答えながら、猫は棚を眺め始める。

「あと、関係ないんだけれど、僕ら二人、一人称が仝なのはよくないと思うんだ」

話題を変えたのは猫なりの照れ隠しなのかなと思い、僕は気を利かせて、煙草を渡してやった。

「いらないよ。僕は真剣に話してるんだ」

「だったらまず、その僕って言うのをやめたらどうだい?そしたら……」

煙草を差し出そうとした左手を引きつつ、僕は反論してみる。猫は普段は冷静だから、こんなことは珍しいのだ。

「全く……」

僕が楽しんでいるのに気がついた猫は、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。

「……私がエベレストより高いところの話をしたのが、そんなに面白い?」

僕は、一瞬、耳を疑った。

「今のは、君が言ったのか?」

猫はそっぽを向いて、返事だけ投げつける。

「……一人称を変えろって言ったのは君じゃないか」

 

 

「出掛けよう」

 

 

そうして、僕らは、一歩目を踏み出した。

 

 

 

†††††††††††††

 

 

 

僕が猫に会ったのは、七月の半ばだった。

その日は汗を誤魔化すための香水だけもって、街を歩いていた。

シャツの裾を掴んでパタパタとやりながら、分かれ道で暫し悩んだ僕は、中央通りの方へと曲がった。中央通りなんてひどく適当な名前だと思うが、この小さな街では、中央通りというと誰もがこの通りだと分かった。

中央というわりには交通量の少ないその道を進んでいくと、やがて公園に行き着く。

僕はこの公園が好きだった。

もしかすると、ここに来たくて、無意識に中央通りを通ったのかもしれないな、と思った。

僕はそこで、猫と出会った。

 

 

 

†††††††††††††

 

 

 

限り無く希薄にしたような生物の気配で、僕は意識を取り戻した。

一、二、三。野生の生き物とは明らかに異質なテンポで、猫のようなそれは足踏みをする。儚く、心地よく、軽い。ワルツのリズムが空間を支配していた。

消していなかったテレビの声に気付き、僕は時間を確認した。午後5時10分。散歩に出掛けてから、4時間半。記憶は途切れていた。状況を理解し始めた全身の細胞が、警鐘をならし出した。

目の前にただずむそれが何なのか、僕には分からなかった。理解を越えた事象が不安を加速させていく。公園で出会ったのであろうそれの姿は限り無く猫に近かったが、確信が持てない。

そんな沈黙を先に破ったのは、僕ではなかった。

「猫だよ」

窓から夕日が刺す。

僕は、ああ猫なのか、と納得した。自分でそういうのだから間違いないのだろう。

喋る猫というのはどうにも珍しいから、生きているうちに会えたのは幸運なのかもしれない。

相変わらず公園からの記憶はなかったが、それは諦めることにした。話の中で、理解の外側にある部分のしめる割合が大きくなると急に、諦めたように納得してしまうのは僕のよくない癖だと思う。が、一度納得すると、案外気にならないものだ。

さきほどの恐怖はどこへやら、当分は僕の家に住む気らしいその猫へ、僕はせっせと寝床を用意し始めた。

 

 

 

†††††††††††††

 

 

 

猫が家に来た二週間後に彼女の一人称は私に変わり、その翌日に僕たちは町へ出かけ、その一週間後に僕は死んだ。

 

この短い追憶を締め括るのは、僕が死ぬ2日くらい前の話だ。

 

 

 

†††††††††††††

 

 

 

僕はもうすぐ死ぬと言うのに、猫はずいぶんと嫌な話をしてくれた。

 

 

北欧の森の奥で、父と二人仲良く暮らす少女がいました。

少女は、とても美しい子でした。

少女と父は、森の恵みによっていきていました。

父は少女に多くのことを許しましたが、自分が出かけている間に家の扉をあけることだけは、許しませんでした。

悪い熊がくると言うのです。

少女はよく言いつけを守りました。

でもある朝、少女の幸せは終わってしまいました。

悪い熊には気をつけるんだよ。

いつもと同じことを言って父が家を出た瞬間に、銃の音が鳴り響きました。

それからすぐに、家の中に男たちが入ってきました。

少女の美しい顔は、恐怖に歪みます。

あなたたちは、誰?

一番前に立っていた男が、答えました。

 

悪い、熊だよ。

 

 

僕はうんざりして、猫を膝から下ろした。

「それで。可哀想な少女は奴隷にでもされてしまうのかい?」

そうたずねると、猫は決まりの悪そうな顔をした。

「知らないわ。あなたが決めてちょうだい」

 

会話が途切れる。

 

しばらくして、思い立ったように、猫は口を開いた。

「ひとつだけ、この少女に贈り物をあげていいと言ったら、あなたは何をあげる?……この子が奴隷にならなくても済むには、何をプレゼントする?」

 

突然の問いに、僕は戸惑う。

「一応言っておくけど、奴隷にならずに済む未来をあげる、なんてのはなしよ」

「当たり前だ。君は僕を馬鹿にしているのか」

「まさか」

 

そうして、再び会話が途切れる。

 

今度は、僕が先に口を開いた。

「過去の少女に贈り物をしてもいいかな」

「……かまわないけれど。私なら、彼女に最新式のピストルでも与えてみるかも」

「それじゃあ、根本的な解決とは言えないな」

そう言うと、猫は不満そうな顔になる。

「こんなのはどうだろう」

「言ってみて」

「……いろいろな肌の色の、いろいろな国籍の兄弟。過去の彼女にね。そして今はもういないんだ」

その答えを聞いた猫は、しばし思案してから首を傾げた。

「つまり……? 」

「彼女の父親こそが、奴隷商人だったんだよ。いろいろな国から奴隷をつれてきて、管理していたんだ」

「じゃあ、男たちは、それを取り締まる警察か何かね?」

「ああそうだ。男たちはこう言う。悪い、熊だよ……君のお父さんはね」

猫は、ため息をついた。

どうも反則くさいこの解答が、気に入らなかったらしい。

「あなたって、思ったよりもダメね」

「君もかわりないさ」

「まともな答えが用意できれば、私の本当のことを話してあげてもいいって、思ってたんだけど」

「興味深いな。一体君は何者なんだい?」

その問いかけに、一瞬迷ってから、猫は笑みを浮かべた。

 

「悪い、猫よ」

 

 

 

†††††††††††††

 

 

 

僕が生まれ、19年後に死んだその町の名前は、意味極町、という。イミハテチョウ、だ。

かつては忌という字が当てられていたが、戦後今の字に変えられたという。

 

 

意味の果てる場所。

平凡な少年と喋る猫には、ふさわしくない、名前だ。


祥子

祥子     やくると

 

 

 開いた窓から流れこむ春の微風にカーテンがふわりともちあがる。上半分が三〇度ほど起こされた寝台に横たわり、カーテンの下にできた隙間からなにもない空を見遣りながら、わたしの頭に浮かぶのはやはり、ここには猫がいない、ということだった。

 

 自分が過ごす空間のどこかに猫がいないと落ちつかない。ともに遊んだり膝にのせたりするわけでもなく、それどころか餌をやる気もなかったのだから猫が好きというわけでもないのだと思う。とにかく猫がいることが重要だった。一人暮らしをはじめて以来いつも何かが足りなくて、自分の性癖に気づいてからは野良や捨て猫を拾い集めた。

 いるだけでよかったのだがそうして拾い集めてみれば餌の避妊のと厄介ごとがつきまとう。すべてを放置していたら、猫は数週間単位で入れ替わるようになった。近所の猫はあらかたわたしの家に収容された経験をもち、そのいずれもが家をでていったことになる。猫にとっては誰もが知る場所であり、やがてわたしの家は猫の集会場になって手間が省けた。慢性的に猫にかこまれ続ける精神の平穏。猫から離れられぬようになったわたしは衣服の交換や摂食も忘れがちで、そのうち家から一歩も出なくなった。

まあまあ広い屋敷に一人暮らしの娘を、元来周囲は気にかけていたらしい。この段になってとうとうなにかがおかしいと声があがり、有志が組んで八人ばかりでわたしの家に向かうことになった。明かりもついていない部屋に踏みこんだ彼らが発見したのは、ときおりなにかをつぶやきながら、机上の原稿用紙にいつまでもペンを走らせるわたしの姿だった。あたりには文字や数式の走り書きと、意味のない波模様やただ塗りつぶされただけの部位とが入り混じった用紙が散乱し、床に腹ばいになった猫たちは、鳴き声をあげることもなくそれをじっと見つめていた。

 

 症状はずいぶんと落ち着いて、いまや鳴りをひそめたといってもよい。ただ結局のところ根本的な治療法は存在せず、わたしの今後の人生から猫を周到に排除するしかないのだという。

 思い当たる原因を問われ、おそらく子供時代がいつまでも尾をひいている、ただそれだけのことなのだと思う。しかしすでにたどるべき記憶の多くは入り乱れ、書き換えられている。あるいはあの日、原稿用紙に散らばった文字や記号と結びつき、すでに分かちがたくなっている。いずれにせよ、混線の結果生じた何がしかが治療の役に立つことはなかった。

 

 祥子がいつから家にいたのかよくわからない。ふと思い出した幼い日の歌や童話が、追ってみると気まぐれな飛躍をくりかえしたり、あるいは延々景色を描写するばかりであったり、あれは祥子が語ったものではなかったかと感じられることもあるのだが、もちろん思い出せない。ともかく物心ついたときには家にいた。齢もわからない。最後まで外見はほとんど変化がなかったように思う。身長は百六十とすこし。痩せていたのもあって実際より高くみえたかもしれない。外見に頓着しないたちで、長い黒髪はたいがいほつれていた。衣服もグレーの黒の紫のと地味な色で、ほとんど印象に残っていない。

 外見を気にせずとも問題ないのは社会というところで生活していないからで、祥子はわたしの家に付属しているわけでもなかった。ときどきふらりと出かけて何日ももどってこない。いないならいないでなんの問題も起こらず、わたしたちは祥子などもとからいなかったように過ごしていた。親の変わり身に幼いころのわたしは多少なりとも戸惑ったろうと思うのだが、とんと記憶にない。ただひとつ、いつかに父が「あれは猫だから」と言ったのを覚えている。

 

家にいるときはのんべんだらりとしていた。昼間でもよく寝ていて、本人にも働く気はなかったのだろうが、わたしが祥子についていくことで結果としてはわたしの子守を務めたようなものだった。機嫌が悪くなければたいてい相手をしたし、わたしをどこかへ連れて行くこともあった。ついてくるにまかせてほっつき歩いていた、というのが正しいかもしれない。そんなとき、わたしは不思議に胸をときめかせていたような気がする。

 

 祥子がわたしたち以外の人間を知らなかったかというと、無論そんなことはない。あちこちを歩き回っていたようだから周囲の人々にもある程度知られていて、なかには声をかけたりものをくれたりする人もあった。彼らは親しげではあったが、ときどきわたしがくっついていることなどから、一応我が家が祥子の所在地として公認されていたようである。

 しかし家から離れるほどその認識はあいまいになっていく。その日は朝から祥子と二人で歩き続けていた。おそらくいくつか離れた町まで来ていたのだと思う。たてに並んで進んでいると、不意に「るいー」と声がかかった。見れば四十前後の、きちんとした身なりの女性だった。「瑠衣」ともう一度猫なで声をだして近づいてくる。わたしのことは眼中にない様子だ。

 女性は祥子のまえにたつと、はねた髪を撫でつけたり服の襟を整えてやったりしながらなにやら一方的にしゃべり続けていた。祥子は聞いているのかいないのか、眠そうな半開きの目でぼさっと突っ立っている。女性は最後に軽く肩を叩いてから祥子の手に紙袋を押しつけ、「またいつでもうちにいらっしゃいよ」と手をふりながら去っていった。祥子はそちらを見向きもせずに歩き出す。なんとなく道の端に寄っていたわたしは、追いついてから「瑠衣って名前?」とたずねた。祥子はそっぽを向いていた。

 

 祥子がほかの人と触れる機会として、わたしの家にはごくたまに来客があった。休んでいるときの祥子はソファが定位置であったから、自然応対に同席することになる。とはいえこの場合、何度も顔を合わせるわけにはいかない。ほとんど反応しないのに場にはとどまりつづける祥子にどう接するべきか、客が戸惑うからだ。ときたま祥子の気に入る客もあるのだが、こちらはこちらで黙って満足げに身を寄せてくる祥子に何やら不気味なものを感じて、家によりつかなくなる。そのうち客があるときはわたしとひとくくりにして外へ出されるようになった。

 この日もそんなふうにぶらぶらとしていた。歩きながらふと道端の空き地に目をやったわたしは、寝ころんだ動物を発見した。祥子の服のそでを引っぱって、「猫」と指さす。

 祥子はそちらへ向きなおると、黙ったまま首をかたむけてしばし猫を見つめ、それからゆっくり言った。「たしかに猫だねえ」そうしてわたしの手をにぎると、猫のほうへ歩いていく。

 猫はわたしたちが近づいても逃げることなく、のんびりとひなたぼっこを続けていた。わたしはしゃがみこんで目線をあわせてから、そっとひたいをなでた。猫はちいさく鳴いた。

「なにかお話が聞きたい、といっている」祥子が人差し指をきれいにのばして指摘する。

「猫の言葉が分かるの?」

 わたしは手をはなして、猫の横に寝っころがった。祥子も地面に横たわって物語を語りはじめる。例によって妙な話であり、わたしはじきに飽きてしまった。晴れやかな空には雲がゆったりと流れていた。目を閉じると、まぶたにあたたかい日の光が感じられる。耳元でささやくような祥子の声を聞きながら、ひなたと草と猫のにおいに包まれて、わたしはいつのまにか眠っていた。

 

 わたしが成長するにつれて、祥子はどこぞに消えるあいだを除けば家で寝ているだけの存在になった。別に悪いことではない。夜ソファにもたれる祥子の姿などは、なかなかに微笑ましいものがあった。だから祥子の童話は、その後は一度きりである。ふらりとやってきた父の病室で枕辺に語ったものだ。そんなものを聞かされても父も困るばかりだろうが、その日の折よく父は意識不明の状態にあり、物語を聞いたのはわたし一人だった。

 病院を出るとちょうど日暮れ時だった。土手に生えた木の枝の隙間から沈んでいく太陽が見える。歩きながらまえを行く祥子に話しかけた。「ねえ、なんで今日はお見舞いに来たの?」

 祥子はふり向かないままに歩きつづけた。わたしも視線を地面に落として、足を動かすことに集中した。やわらかい橙色になったアスファルト道路の表面を、ぼんやりとした二つの影が滑るようにすすんでいく。

橋の中央まできたところで、ふいに祥子はふり返った。今まさに橋へ踏み出そうとしていたわたしの足がとっさに押しとどめられる。

「父親」

 そういう祥子をわたしは魅入られたように見つめていた。

「あなたにはまだ必要?」

「え?」

 川面を渡る風に祥子の長髪がなびく。それが張りついて隠された顔の残り半分を夕陽が赤く染め上げる。そのなかで瞳だけが、どこまでも黒く輝いている。

 やがてわたしは、ゆっくりと首を横にふった。祥子は軽くうなずいた。そして靴を軽く鳴らしながら橋の向こうへ消えた。わたしはその場に立ち尽くしていた。

 

 父が亡くなるとわたしは一人暮らしになった。家は一人で過ごすには、多少広くて静かである。半年ほども経ったある日、祥子を探しに出た。

 わたしは町を歩きまわった。道端の草むらに目を配り、土管のなかを覗きこむ。町にいるだろうと考えていたわけではないが、他に思い当たる場所もない。見つからないまま時は過ぎて、とうとう夕方になった。

橋を渡ろうとしたところで、帽子をかぶった六十歳くらいの老人に出会った。「猫かい」と訊かれてそうだと答えると、探すのを手伝ってくれた。まもなく猫はみつかった。公園の草陰に隠れていたのだ。黄色い眼をした三毛猫だった。腹をつかんで捧げ持つと、瞳をきらめかせてにゃあと鳴いた。男性に礼をいって、猫を家に連れて帰る。腕にかかえた猫のからだが、ひやりとした風に温い。いつのまにか夜になっていた。


道なき道

道なき道     林由翔

 

 

ある町にエスという少年がいた。少年エスは、成績優秀で、運動もでき、見た目もよく、性格もいいというまさに申し分ない少年だった。彼を妬む人もいたが、小学校のほとんどの人から好かれ、慕われていた。幸せそのもの。

小学校を卒業し、いよいよ中学校に入学する前夜。中学校生活への期待と興奮でなかなか眠れない。しばらくぼうっとしていると、ふと気配に気づき、起き上がった。すると、寝室のドアのところに、なにやら恐ろしい姿をした化け物がいるではないか。しかもゆっくり近づいてくる。身の危険を感じたエスは照明をつけようとした。しかし、それ以上体が動かない。助けを呼ぼうとしたが、声も出ない。そうしているうちに化け物はどんどん近づいてきた。呪ってやる、呪ってやるとつぶやいている。ついに化け物はすぐ目の前にまできた。彼は目をつぶった。

少年エスはがばっと起き上がった。背中には汗がびっしょり。心臓が激しく打っている。深呼吸をして気分を落ち着かせているうちに、窓から差し込む光と小鳥の声で、あれは夢だったこと、今は朝であることを理解した。彼は心から安心したが、妙な気分が残った。しかし、自分が寝坊したことに気がつき、妙な気分のことなど忘れ、慌てて朝食を食べて中学校に向かった。

入学式には何とか間に合った。しかし、会場に入るとまた妙な気分がぶり返してきた。エスはしばらく妙な気分のわけを考えていたが、校長の長い長いあいさつを聞いているうちにそのわけが分かった。

「人生は道なき道を進むようなもの。山もあれば谷もあるように、嬉しいこともあれば悲しいこともある。また、決まったルートはないから、一人一人が違う道を歩むのです。ですから、中学生になった皆さんは、親の保護下から少しずつ自立していき、ベストの道を見つけていかなければなりません…」

この「道なき道」という言葉を聞いたとき、少年エスはふと考えた。「道なき道」は道と言えるのだろうか。だがすぐにどうでもいいことだと思い、考えるのをやめようとした。その時、彼はあれだけ付きまとっていた妙な気分が溶けてなくなっていったのに気がついた。彼は、妙な気分がするのは無意識のうちに何かの問題について考えてようとしていたからだと思い、その「何かの問題」はこれだったのだと悟った。そうすると、俄然興味がわいてきた。

家に帰った少年エスは、両親に気味悪がられながらも、直ちに辞書をひっくり返して、「道」の単語の意味を調べた。どの辞書もだいたい、

「〝道〟① 人や車、獣などの通るところ。道路」

といった感じに書かれていた。まず、少年エスは、これをもとに考察しようとした。だが、先生は人生のことを道なき道になぞらえていたから、道路について調べても無意味だということに気がつき、少年エスは、道という言葉の他の意味を調べた。すると、

「…④ その人の進路 。 我が――を行く」

これだ。これをもとに考えていこう、と少年エスは喜んだ。

「④の指すものと、道なき道という語の指すものは、どちらも人生で一致している。よって、道なき道=人生=道、と言える。しかし、道なき道という語自体の中に『道なき』とあるから、道なき道はやはり道ではない。だが…」

この調子で考察はどんどん進んでいった。

しかし、少年エスは考察を学校でもするようになっていったので、優秀だったはずの学業に好ましくない影響が出てきた。学校にいる間中、微動だにしない日もあり、たくさんいた友達はあっという間にいなくなった。そのうち、少年エスはその万能さを妬まれて呪われたという噂が現れた。事実、彼は呪われていたのだ。

 青年エスは、結局高校にすら入らなかった。エスに高校に入るつもりがないことを知ったとき、両親は泣きに泣いた。そして、両親は彼を精神科医に診察してもらうことにした。しかし、結果はよくなかった。

「きわめて強い催眠のようなものにかかっているようです。残念ながらすぐにはどうしようもありません」

両親はまた泣き崩れた。

一方、青年エスの考察は進んでいた。両親によって連れていかれた保養地で、森の中にある、実際の『道なき道』を体験できたからである。もはや青年エスは立派な哲学者となっていた。

一年ほどたったある日、繰り返し治療を試みていた精神科医から、エスの両親にある提案がなされた。

「息子さんのことですが、こちらで預からせていただけませんか? こちらで二十四時間観察して治療したほうが、より確実に治療出来ると思うんです。過去に例のない珍しい症状で、こちらとしても研究対象にしたいんです。もちろん面倒は全てこちらで見ますから」

エスの両親は治る確率が高くなると聞いて、大喜びした。まあ、食べて寝て考え事をするだけのエスを、早く手放したいという思いもあっただろうが。ともかく、瞬く間に引き渡しがなされた。

年月がたち、青年エスは二十歳になった。引き渡しから六年以上たったことになる。しかし、青年エスにかかった呪いは解けず、精神科医は頭を抱えていた。

そんなある日、青年エスからあることを要求された。

「今までにぼくが考えたことを本にまとめたい。そして、出来ればそれを雑誌か本にして出版してほしいんです」

精神科医は、今までの経験から、こういう願いは叶えてあげた方がよいと知っていた。語彙の少ない彼のために、精神科医は編集を積極的に手伝ってあげた。そして、まもなく季刊「道なき道」が発行された。

その雑誌は予想していたより多く売れ、精神科医は思わぬ副収入に驚いた。哲学について書いたものにしては内容が分かりやすく、面白かったからだろう。

季刊「道なき道」は順調に発行され続けた。最初は無名誌だったが、海外の哲学者なども論文を投稿しはじめ、さらに発行部数は増えた。精神科医は医者の仕事を辞め、雑誌作りに専念した。エス氏は元精神科医の男に養ってもらい、男はエス氏の出版物で収入が手に入る。共存共栄が成り立っているのだ。男もこの生活に終止符を打ちたくないので、あえて治療をしなかった。

しかし、この生活にも終止符が打たれるときがきた。季刊「道なき道」の発行開始から実に三三年目の春のことである。

男は、エス氏の毎朝の日課となっていた瞑想を、彼が今日はしていないのに気がついた。慌ててわけを聞くと、『道なき道』問題に対して、ある結論が得られたので、もう瞑想は必要ないのだという。

男は大いに驚いた。エス氏は男にとっては、もはや患者ではなく、金のなる木である。季刊「道なき道」も最終号を出すという。最終号を最後に、もう金がならなくなってしまうのだ。

しかし、男には逆転の発想があった。最終号を感動的な内容に仕立て上げ、丸儲けしたあと、金を取って雲隠れすればよいのだ。

腹の内でそんな計画を練っていた男は、論文を書く時の技術を生かして、これ以上ないくらいの感動的なあとがきを書き、最終号に載せた。予想通り、最終号は第一号以上に売れ、男は巨額の利益を手にすることができた。だが、それまでだった。男は雲隠れの準備中に転倒して頭を打ち、そのまま亡くなってしまったのだ。

エス氏は財産の共有者として、男の遺産をそっくり手にすることができた。男が独身で、身内がいなかったのが幸いした。そしてその財産は、よほど遊ばなければ余生を働かずに暮らせるほどの額だった。

エス氏は一人には広すぎる部屋で、暇をもて余していた。それに、「道なき道」問題の答えを悟ってから、どうも気分が優れない。そこで、何気なくポストを見に行くと、最終号に対する読者からの手紙がたくさん届いていた。エス氏はその一つ一つに目を通していく。すると、一通気になる手紙があった。

「先生は素晴らしい方だ。一つの課題について三十年近くも考えつづけるなんて、人間業ではありません。哲学の神様だ……。」

エス氏はその手紙を手にして考え始めた。人間業ではないことをする人は、果たして人間なのだろうか。

 



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