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ルード…………………セルアンディル(土の民)の力を得た少年。
                聖剣ガザ・ルイアート所持者
ライカ…………………銀髪を持つアイバーフィン(翼の民)の少女。
              翼はまだ持たないものの、風を操る力を持つ
ハーン…………………タール弾きで剣の達人。漆黒剣レヒン・ティルル所持者
  
ケルン…………………ルードの親友。スティン在住
  
〈帳〉………………… 森の民エシアルル。かつての大魔導師
  
サイファ………………フェル・アルム国王“ドゥ・ルイエ”
  
ルミエール……………サイファの従姉。近衛隊長
  
エヤード………………近衛兵
  
マルディリーン……… イャオエコの図書館、司書長
  
デルネア………………フェル・アルムを影で操る人物。
               〈要〉(かなめ)の名を持つ歴史の調停者
ディエル………………次元の隙間からやって来た少年
  
ジル……………………次元の隙間からやって来た少年

 一.

 ユクツェルノイレ湖。
 それは、フェル・アルム北部と南部を隔てるようなかっこうとなっている湖であり、フェル・アルムの創始者、神君ユクツェルノイレをたてまつっている聖なる湖でもある。千年前、フェル・アルムに秩序をもたらしたユクツェルノイレ。
 しかし実はフェル・アルムの千年の歴史が偽りのものである、などと誰が信じようか?
 ユクツェルノイレ湖から流れ出るフェル・クォドル河の流域は、二十メグフィーレ四方、広大かつ肥沃な平野となっている。それゆえフェル・アルム南部域には数多くの町や村が点在し、町と町を結ぶ街道には人の行き来が絶えない。
 春を迎えて二ヶ月あまりが過ぎた。すでに初夏の日差しが降り注ぐようになったというのに“中枢都市群”と称される南部域は、帝都アヴィザノを中心に置いているため、未だに建国千年祭が華やかに催されていた。

 鉱山都市オルファンもそんな街の一つだ。
 中枢都市群の南はずれに位置し、農業が産業の中心となっている南部域にあって、唯一鉱業が盛んな街である。
 今夜は十日ぶりに祭りが行われているものの、鉱山を閉めるわけにもいかなかった。ラーリ鉱山は良質の鉄を産出するためだ。町の男達の何割かは不平を漏らしながらも、今日も坑道に潜っていた。
 後《ご》六刻も過ぎになると男達はようやく仕事を終え、めいめいの家に戻る。活発な者はその後で祭りに参加するのだろう。
 そして彼らは感謝を新たにするのだ。今ある平和に。そして、この地に平穏をもたらした神君ユクツェルノイレに。
 今日一日も平穏に終わるものと、誰も信じて疑わなかった。

* * *

 彼は、目の前の光景が未だに信じられなかった。狂気の一歩手前の冷静さ。怯えきった自分の息遣いのみが、やけにはっきりと聞こえる。叫ぶことも、逃げることも出来ない。自分の身が死に直面している、というのに。
 のそり。地を這いながら、“それ”は暗闇から現れた。夜のとばりに包まれているというのに、球状の漆黒が存在しているのが彼にも分かった。
[うわあああああ!!] 
 男の精神はとうとう破綻し、狂気が彼を覆い尽くした。這い出てきた異形の“それ”を間近で見てしまったがために。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されないもの。
 男の奇声は次の瞬間止んだ。ぐしゃり、という鈍い音とともに。男の頭を“それ”の腕がつぶしていたのだ。首を失った男の胴体が、どさり、と無造作に倒れた。
 爛々《らんらん》と輝く三つの赤い目を細め、“それ”は天に向かって吼えた。その鳴き声は人のものでも、獣のものでもない。大地に響くような低音と、空気を引き裂くような高音。双方の入り交じったこの世ならざる声は、人気(ひとけ)のないラーリの山中にこだました。
 “それ”はしばらくして、元あった暗闇の球の中に還っていった。しかし漆黒の球は消えることなく、ゆっくりと、動き出したのであった。
 この夜、空が星一つない空虚な暗黒に包まれていたことを知る者は、ごくわずかであった。




 二.

 ぽつり……。
 雨の滴が金髪の青年の頬に一粒、二粒落ち始めた。それまで寝ていた青年はびっくりしたように声をあげて飛び起き、彼の馬のところに走った。
「まさか、眠りこけちゃうなんてね……」
 青年は馬の荷物からテントを取り出すと、早速テント張りを始めた。

 ハーンが〈帳〉の館を旅立ってはや一週間。遙けき野越えは今日無事に終わり、夕暮れ時には緑で覆われた草原に辿り着いた。安心感からか彼は草の中でまどろんでしまったのだ。おそらく今はすでに“刻なき夜の時間”――深夜になってしまっているのだろう。
「まずいね……風邪引いちゃうなぁ」
 テントはひとり用の小さなもので、すぐに組み上げられた。
 彼は次に、聞き慣れない言葉で二言三言つぶやいた。すると彼の周囲のみ、雨が避けて降るようになった。ハーンが時折使う魔法――“雨よけの術”である。幸いにもこれは通り雨のようだが、ハーンは、雨粒がテントを叩く音を好きではなかった。
『ハーンって、変なところで神経質なんだもんなぁ』
 館に残してきた友人のぼやきをふと思い出し、ハーンはほくそ笑んだ。そして、完成した術によって雨が避けていくのをハーンは満足げに見回し、テントに入ろうとした。
(……何!?)
 刹那、寒気が彼の全身を通り過ぎた。かつて、一度だけ味わった悪寒である。ハーンは空を見上げた。その顔が急に険しいものになる。
(まただ……)
 頭上の空は雲に覆われているが、西のほうは雨雲から天上が時折見え隠れしている。その空はいつになく黒く、星をまったく映さない。あるのはただ、空虚な暗黒のみ。
 その時、彼の腰にある漆黒の剣“レヒン・ティルル”が、かすかに震えているのがハーンに分かった。闇の波動に包まれた剣は、暗黒の空の存在を喜んでいるかのようだった。もし剣に意志があるとするのなら。
「違う。あの空はお前のためにあるのじゃない。同調してはいけないよ。あれはお前などには過ぎる暗黒なのだから……」
 幼子を諭すかのような口調で、彼は剣に話しかけた。
(太古の“混沌”……か。さすがにあれには太刀打ち出来ないな。ルード君とガザ・ルイアートに賭けるほかない……)
 ハーンは剣の柄をなでながら、想いに耽ていった。 
 大きなあくびが出る。
「だめだ……疲れちゃったよ。……もう、何にも考えないでとっとと寝てしまおっと!」 
 言うなり彼はテントの中に潜り込んだ。また明日考えればいい。星なき空も、そしてデルネアのことも……。




 三.

[またしても星が消えた……か。〈隷《れい》の長《おさ》〉よ、我《われ》を尖塔に呼びだしたのは、これを見せるためか?]
[はい、〈要〉《かなめ》様。空をご覧下さいませ。空間に“変化”の兆しがある時は、決まってこのような空になっております]
[……ふん。見ていて気色のよいものではないな。しかも、このひと月半のうちに二回も起こるとはな。外界からの干渉が未だ収まっていない、というのか……。“疾風《はやて》”のひとり――北に向かった者の消息が絶っているそうだな? その後、何かつかんだか?]
[いえ、かの者からの報告は……スティン高原の麓、ベケットからが最後です。『確信に近づいた』……と。おそれながら〈要〉様、私はそれ以上存じません]
[ふん。……隷どもを統率する貴様がそのていたらくとはな、失態としか言いようがない]
[……は……申しわけございませぬ]
[あとの“疾風”どもは? 何かしらの情報をつかんでいるのか?]
[は、そのほかの者は全員帰還しておりますが、何も……]
[ふむ。……では、“疾風”どもをみな北に回せ。スティン周辺を徹底的に調べ上げる必要がある]
[承知いたしました。早速その旨連絡いたします] 
[安穏とはしておれぬぞ、〈隷の長〉。“疾風”より、逐一状況を受け取るよう、体制を整えておけ]
[はい。ほかの隷達を総動員いたします] 
[……貴様、今の状況を甘く見ておるのではあるまいな? 我が世界がほつれつつある、というのだぞ]
[承知しております]
[……〈隷の長〉よ、次の失態はないぞ。失敗をした時は貴様は無くなるものと知れ。……我は森へ戻る]
 〈要〉――デルネアは自らの下僕にそう言い放つと、身を翻し、ひとり塔を降りていった。

 塔と宮殿を結ぶ渡り廊下からは、帝都アヴィザノの様子が一望出来る。デルネアはしばし留まり、眼下に広がる深夜の街を眺めた。
 数刻もすれば、いつもと変わらない朝がやってくる。デルネアは自分の寝所に向かっていった。途中、“せせらぎの宮”の中庭で、王宮付きの使用人らしき女と出くわした。こんな深夜に出歩くことは、王宮の人間であっても許されない。それを分かっていてか、女は急ぎ足でデルネアのすぐ側を通り過ぎていった。まるでデルネアが存在しないかのように。
 女が彼を無視したのではない、デルネアが自らの気配を完全に消していたため、彼女は気付かなかったのだ。たとえ人の行き交う昼間であったとしても、気配を消したデルネアに誰ひとり気付くことはない。
 “天球の宮”直属の、デルネアに絶対服従する術使い――“隷”以外、デルネアの存在を知る者はいない。それがフェル・アルム国王――ドゥ・ルイエ皇であってもだ。
 要――物事を動かす要所。デルネアは自分の呼称をたいそう気に入っていた。 
 せせらぎの宮に入る前に彼はふと足を止めた。
「我が世界がほつれつつある……か」 
 デルネアは再び頭を空に向けた。それまで空虚だった空は、幕が開けるかのように、東から西へと順に星を映しはじめた。
(〈帳〉……)
 恋い焦がれる想い人を呼ぶかのように、デルネアはかつての友人の名をそっと心の中でつぶやいた。
(今の我の心境が分かるとしたら、お前は笑うか? この世の危惧を初めて感じている我を。だが我は我の為すべきことを為す。この平穏な世界を、永久に存続させるためにな……)




 四.

 市街を取り囲む城壁から陽の光が市内に射し込む。帝都アヴィザノは朝を迎えようとしていた。
 前《ぜん》一刻を知らせる鐘が鳴り、城壁に立つ四つの砦からラッパの音が市内に響く。人々の生活がまた始まるのだ。
 『せせらぎの宮』と称される石造りの宮殿には、フェル・アルムの政を司る王家の人間達が居住する。朝のラッパの音を聞きつけた宮廷付きのタール弾き達は静かに、めいめいの旋律を奏で、中枢の人間達に朝の到来を告げるのだ。

* * *

 彼女は朝の日課として、例のごとく図書室で歴史書を読み耽っていた。凛とした瞳が文字を追う。漆黒の髪を掻き上げる動作にすら、知性を感じさせる。年齢は二十歳をようやく過ぎたころで、少女という世代から脱却しようとしていた。
 名をドゥ・ルイエ。六年前亡くなった父王からその座を引き継いだ、フェル・アルムの王である。
 美麗な顔と黒髪。切れ長の瞳は知性と情熱を醸し出している。ただ、女性にあまり似つかわしくない言動が、令嬢としての気品をわずかながら失わせている。もっとも、それに異を唱える者など存在しなかった。王としてのカリスマが、言動すらも魅力に変えてしまっていたから。王になる前も、なったあとも、宮中を抜け出しお忍びで町を歩き回ることしばしばで、気さくな態度から、民からは慕われていた。
 ふと彼女は入り口に人の気配を感じ、視線を本からあげた。
[ようございますか、サイファ様]
 戸口のところに立っているのは、乳母のキオルだった。ルイエが本名を呼ぶのを許している人間は、そう多くない。ドゥ・ルイエとはそもそも、神君ユクツェルノイレの息子の名前であり、フェル・アルムの主が代々受け継いでいるのだ。
[構わぬ、入るがいい]
 ルイエは少し顔をほころばせながらキオルを招いた。
[今朝もお元気そうで何よりです] 
 キオルは朝の挨拶をした。
[そう見えるか……?]
 ルイエはそう言って大きくあくびをしてみせた。
[……陛下、はしたのうございます]
[ああ、分かっている。でも、どうもここのところ夢見が悪くてな、ろくに寝つけぬ] 
 ルイエはそう言いつつも、もう一度あくびをしてみせる。キオルは少し眉をひそめながら見ていたが、思い出したように話し出した。
[そうでした。陛下、司祭様が陛下に話をしたいとおっしゃってます。身を整え、空の宮にお越しくださるようにと]
[司祭殿が!?]
 司祭の名を聞いた途端、ルイエの表情が厳粛なものに変わった。司祭。有事の際、神より神託を受け、ドゥ・ルイエにその旨を伝える存在。司祭の地位は、高位の大臣と同格のものではあるが表だった活動を行うことはない。それゆえ存在を知る者は宮廷でも限られている。
[分かった。すぐに向かう] 
 言うなりルイエはすくと立ち、キオルを従わせながら、身支度を整えるために自分の部屋へと向かった。
(一体……なんだというの?) 
 嫌な予感がしていた。サイファが王となってからの六年間、今まで司祭と会ったことなど無かった。ところがついふた月ほど前、彼と初めて対面したのだ。
『“神”は不穏な動きを感じ取られています。“疾風”を全土に展開していただきたい』
 あの時、司祭はそれだけ言い残すと去っていった。いくらドゥ・ルイエであるとはいえ、司祭の告げる神託は絶対であり、腑に落ちないながらもルイエは、“疾風”――中枢の陰に生きる、刺客――を総動員させたのだった。
 あれからそう時間が経っていないというのに、また自分を呼び出すのはなぜか? ルイエは不安に苛まれた。

 せせらぎの宮を出て、二十フィーレほど北に進んだ小高い丘の頂上に、空の宮はある。玄関を入ると、こじんまりとしているが天井の高い部屋がある。ステンドグラスが周囲を囲むほか、全く何もない真っ白な宮。司祭は一体ここで何をしているというのか。
[陛下、よくお越しくださいました] 
 しゃがれた声を出しながら、司祭は両手を広げ、ルイエを歓迎した。一見恭しい態度にみえるが、その実、冷徹な感情をにおわせている。司祭という立場抜きで、ひとりの人間としてみた場合、ルイエはこの老人に嫌悪の情を抱くだろう。
[世辞はいい。あれからふた月も経っていないというのに……また何かご神託が降りたのか?] 
 ルイエはぶっきらぼうに言い放った。 
[左様です、陛下。私はかつて、あなた様のお父上に神託を申し上げました。もう十三年も前になりましょうか……]
[ニーヴル――反逆の徒を討つために“烈火”を――中枢麾下の精鋭の戦士達を出撃させた、と聞いている]
[そうです。そして、私は陛下にまた一つ、重要な神託を告げねばなりませぬ]
[……司祭殿、一つ私のほうから質問をさせていただきたいが、よろしいか?]
[何なりとどうぞ]
[二ヶ月前に貴殿からの神託を受け、私は疾風を各地に送り込んだ。だが結果、特に異常は無しと聞いている。あの時の件と、貴殿が今言われようとしている神託と、何か関係があるのか?]
[大いにございまするぞ陛下。また、陛下は一つ失念しておいでです。疾風のひとりが北方スティンにおいて消息を絶っていることを……表沙汰にはしておりませぬが、これは捨て置けますまい]
[そうであったな、失礼をした。確かに忘れていた]
 ルイエは憮然と言う。
(細かいところをちくりちくりと刺してくる……苦手な男だ)
[では、神託を申し上げましょう]
 司祭があまりに唐突にその言葉を言ったため、ルイエの胸は締め付けられた。罰を申し渡される直前の罪人は、このような感情を抱くのだろうか、彼女はそんなことすら考えた。ルイエの胸中と裏腹に、司祭――〈隷の長〉は語り始めた。
[大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]

 そして、中枢が動いた。




 五.

 中枢が動き始めた、その夜のこと。
 アヴィザノの西、半メグフィーレほどのところに、果樹園――ロステル園があった。小高い丘には一面草木が生い茂り、その所々に果物畑があるのだ。子供にとっては難儀な場所であるのだが、この夜、一つの小さな影が動いていた。
「まったく、ジルのやつめぇ……」
 草木をかき分け、小さな影はとぼとぼと歩いている。十をようやく過ぎたくらいの少年は、まだあどけない声で、二十回目の悪態を付いていた。
「オレのいっちょうら、ずたボロにさせやがってぇ……」
 枝や、いばらの棘などに引っかけたため、少年の服は至る所ほつれていた。
「大体あいつの力が未熟だからいけないんだ。ちっくしょう、“転移”の途中でオレだけ落っことしやがって……ジルは今頃ふっかふかのベッドで高いびきでもしてんだろうなぁ」
 ぶつぶつぶつぶつ、少年の愚痴(ぐち)は続く。
「腹……へったよぉ……」
 半刻も歩き通し、少年がさすがに弱気になった時、ようやく道が開けた。下り坂を装飾するアーチ状の蔦のトンネルの向こう側に、アヴィザノの外壁が見えたのだ。少年は思わず拳をぎゅっと握りしめる。 
「やったぁ! 見てろジルめ、のうのうと寝てたら、たたき起こしてやるからなぁ!」
 少年は変わらずの悪態を付きながらも、顔をほころばせた。
 その時。“闇”が現れた。周囲が夜のとばりに包まれているというのに、それよりさらに暗く禍々しい漆黒が出現したことを少年は知った。暗黒の球は、蔦のトンネルを音も出さずに上ってくると、少年の眼前で停止した。
 のそり。
 地を這いながら、“それ”は現れた。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されない異形のもの。三つの赤い目が爛々(らんらん)と輝く。
「へええ……」 
 少年の口からこぼれた、拍子抜けした声は、恐怖のゆえか、それとも――。
 ぐしゃっ
 一瞬後。鈍い音がした。




 六.

 帝都アヴィザノは次の朝を迎えた。
 晴れた空に靄がうっすらとかかるさまは、何とも幻想的だ。宮廷仕えの楽士達が奏でる朝の音楽も、ゆったりとした心地のよいものであった。今日一日がよき日であるよう、人々は偉帝廟《いていびょう》に眠るユクツェルノイレに祈るのだ。
 だが、鏡の前のこの女性の顔は、憂鬱そのものだった。
[酷い顔……]
 ルイエはろくに寝付けないまま、朝を迎えていた。

 昨日の朝方に神託を聞いた後、ルイエは即座、中枢の刺客達を北方に回すようにと命令を下した。これは異例のものであったが、彼女の姿勢は国王らしく毅然としたものであった。
 しかし。
(私ごときが、人々の命に関わるような決断を下していいものだろうか?)
 その後自分の部屋に戻ってきてから、答えの出ない疑問に頭を悩ませた。自分が発した言動が意味すること、その重圧に耐えかねて、寝屋(ねや)に入った後、ひとり泣き明かした。
 物事を進めるためには、何かしらを切り捨てて行かねばならない時がある。それが非情の決断であったとしても。王という、人々を先導する立場であれば、なおさらだ。ただ、それを理屈で理解していても、感情的に割り切れるようになるほど、彼女は大人ではなかった。

 ばふっと音を立てて、ルイエはベッドの上に横たわる。しばらくうつ伏せのまま、突っ伏していた彼女だったが、
[……決めた!]
 小さく宣言した。

[サイファ様ぁ!?]
[すまぬ、キオル。夕刻には戻る!]
 ルイエ、否、サイファは早足で歩きながら後ろ手に髪を縛りつつ、キオルに言った。キオルは信じられない面もちだった。サイファを起こすために彼女の寝室の扉を開けた途端、サイファがあわただしく出ていくのだから。しかもその格好たるや王族の衣装ではなく、市井の少年のような姿なのだ。
[陛下ぁ!!]
 呼び止めたところで無駄なことは、キオルにも分かっていた。お忍び姿で表に出ようとしているサイファを止めたことのある者は、宮廷広しといえども存在しなかった。
[陛下ぁ……!!]
 廊下には、キオルの情けない声のみがこだましていた。

* * *

 昼下がり。噂を聞きつけた近郊の人々で、ロステル園は異様な混み具合となっていた。化け物がぐちゃぐちゃになって死んでいる、と言うのだ。百人ほどの大人が、果樹園の入り口でたむろしている。
[ほらほら、子供の見るもんじゃないよ! 帰んな!]
 化け物を一目見ようと繰り出した人々の固まりから、十歳を少し過ぎたばかりの少年がはじき出された。
[ひゃっ!]少年は、可愛い悲鳴を上げながら、どつかれた後頭部をさする。
[いたいよ! 大体コブつくってるとこをわざわざ叩くこたないだろが!]
 少年は少し涙目になりながらも悪態を付いた。 
 大きなコブをつくったというのは昨晩遅く、苦労の末やっと宿に辿り着いた兄が、安穏と眠っている弟への腹いせに思い切り殴った、という経緯がある。もっともこれは弟――ジルが主な原因をつくっていたわけであるが。
「くっそう……ディエル兄ちゃんの馬鹿野郎」
 そうは言いながらも少年ジルは、再び固まりの中に入っていこうとする……が、その甲斐もなく、再び押し出された。
 そのまま後ろ足でふらつくジル。こつんと、 背中に何か堅いものが当たって、しりもちを付いた。それは人の脚。見上げると、端整な顔立ちの若者が立っていた。
 しばし見つめ合う二人。 
[なんだよ兄ちゃんは? ……いてっ]
[男に見えるってぇ? 私が……!]
 ジルを軽くこづいた若者は、腰に手を当ていささか機嫌悪そうに言った。
 ジルはズボンの埃を払い、起き上がるとまじまじと若者を見た。服装から見るに、華奢な美少年と言えなくもない。だがその顔立ちと艶やかな髪は女性のそれであり、何より胸の膨らみが明らかに女性を主張していた。ジルは目をしばたかせ、そして一言。 
[姉ちゃん。も少し女らしく振る舞わないと、お嫁のもらい手無くなるよ?] 
 ごんっ
 一瞬後。鈍い音がした。
[いっっってえ!] 
 ジルは頭に二つ目の小さなコブをつくる羽目になった。
[なんだよう?! 子供の可愛い冗談じゃないかよう]
[人が気にしていることを、ざぐりとえぐるからだ]
 黒髪の女性は、ぶっきらぼうに言い放つ。
[しかし……この人混みはなんだというんだ?]
[なんだ、姉ちゃん知らないのか? 昨日の夜、ここで大事件があったんだぜ? なんたって、得体の知れない化けもんが倒されたってんだからなぁ!] 
 ジルは、まるで自分が倒したとでも言うように、胸を張って威張った。実は兄の為したことだというのに。
[で、それを見ようとこの人だまりか。坊やも見に来たのか?]
 彼女は、幾分柔らかな口調でジルに語る。
[坊やだぁ? おいらはジルって名前があるんだ!]
[そう、すまなかったね、ジル] 
 彼女は膝をかがめ、目の高さをジルに合わすと、先ほど自分が叩いた頭をなでた。 
[私はサイファ。ジルも化け物を見に来たの?]
[そうなんだ。でもさ、大人って頭堅いんだよね。『子供の見るもんじゃない』とか言って見せてくれないんだ!]
 サイファは破顔した。ジルが口をとがらせて文句を言う姿があまりに可愛かったからだ。
[そう……見たいのか?]
 サイファはそう言って顔を突きだし、ジルとの顔の距離をいっそう近くした。ジルは照れて、顔をほのかに赤くしたが、次の瞬間には目をきらきらと輝かせた。
[見せてくれるの?]
 サイファはうなずいた。
[男っぽいだの、嫁のもらい手がないだの、金輪際言わないと誓うならね]
 そうは言っても、どうしても口調が男っぽくなってしまうのに気付く。性分だから仕方ないのだが。
[へっ……。そんなこと言わないさ。うん、イシールキアにかけて言わないよ!]
[いしー……なんだって? よく分からないが……まあいい。ほら]サイファは体をさらにかがめると、ジルに催促した。
[え、何?]
[肩車してあげるから、乗りなさい]
[いいの?]
[見たいんだろう]
[う……うん]

[ちょっと、ごめんよ] 
 サイファは少しでも見えるようにと、人混みをかき分け前に進んだ。とは言え、サイファの背丈では前方の男達の背中の隙間から、かいま見るのがやっとである。
 人の列が少し動いた。その時、彼女は一瞬だけ“それ”を見た。人と獣と爬虫類の様相を併せ持ったような、おぞましい化け物の死骸を。
[うわ……] 
 サイファの頭の上からのジルの声も、言葉に詰まり、何を言ったらいいのか分からない様子だ。
 『化け物』と呼ばれている真っ黒なそれは、頭と思われる部分を粉砕され、地面にその巨躯を横たわらせていた。異形の身体はすでに朽ちかけていたが、死体が発するであろう臭気が一切しなかったのが、かえって不気味であった。
 目の前の化け物は〈いきもの〉ではない。“太古の力”の尖兵たる魔物だ。そのことを知っている人間は、この閉じた世界フェル・アルムに存在しない。
[うっ……]
 サイファはその骸の異形さに吐き気を催し、顔を背けた。
 ジルは表情も変えず、化け物を見つめて一言。
「兄ちゃん……倒すにしても、もっときれいに倒しといてくれよな……」 
 ひとりごちたその非難の声は、誰の耳にも聞き取れなかった。今の言葉は、フェル・アルムの言語ではなかったからだ。
[姉ちゃん、大丈夫かい?]
 ジルはフェル・アルムの言葉に戻すと、心配そうにサイファに訊いた。サイファはうなだれ、化け物から目を背けたままだ。
[いいよ、姉ちゃん。どんなもんなのか、おいらも分かったからさ、ここから出ようよ!] 
 サイファはジルの年齢不相応な気遣いに苦笑しつつ、その場から立ち去った。 

 その後の道中で、サイファとジルはすっかりうち解け、アヴィザノ市内で別れた。また会うことを約束して、二人はそれぞれの場所へ戻る。
 サイファはせせらぎの宮へ。
 ジルは、彼の兄の待つ宿屋へ。
 鬱屈した気分晴らしにと、ロステル園まで足を運んだサイファは、そこで出会った少年と息があった。共通点などいくら探しても出てきそうにないその組み合わせは、傍目から見るとさぞ奇妙だったろう。
 これが、ドゥ・ルイエ皇サイファと、双子の少年の片割れジルとの出会いだった。




 七.

 フェル・アルムを包む封印。それがほころびつつある今、それぞれの思惑で前進しようとする者達がいる。
 ルード。
 ライカ。
 ハーン。
 〈帳〉。
 デルネア。
 そして、ほころびをくぐり抜け、二人の子供がこの世界に降り立った。
 ディエルとジル。
 片や異形のものを苦もなく倒し、片や空間を渡る。人ならざる力を持った、しかし無邪気な子供達。なかば気まぐれでやってきた二人が、運命の五人にもたらすものは何なのだろうか? 

「どう? 兄ちゃん?」
 アヴィザノの宿の一室にて。ジルが訊いている相手は、彼とそっくりの姿をした少年だった。あえて違いを挙げるとすれば、ジルのほうが髪の色素が薄いという点くらいだろうか。
「……ここは見た感じ平和そうな世界だが……どっかに違和感がある。……見つけたぞ、“力”だ! 一つはこの都市のどこかにでっかい“力”を持つやつがいるな。それから……ずっと北のほうに……これ、剣か? ……すごい“力”を持ってんな……」ジルの双子の兄、ディエルは目をつぶったまま何かを感じとっている。彼が“力”と呼ぶ何かを。
「この世界……今までは封印が強力で行けなかったけど、封印が弱まった今、入ってきて正解だったかもしれないな。なかなかに面白そうじゃないか。おい、ジル!」ディエルは目を開けるとジルに命じた。「オレは剣が気になるんだ。多分よ、オレ達が今まで見たことがないくらい、とんでもない“力”を持ってるぜ、こいつ。……だから、オレを北の……」 と言って、フェル・アルムの地図上、遙けき野あたりを指さす。その場所は的確に、ルードが所有するガザ・ルイアートのありかを示していた。「……このあたりに飛ばしてくれ。ジルも一緒に来るか?」
 ジルはかぶりを振る。「この街にもでかい“力”があるって言っただろ? だったらおいらはここで探りを入れてみるよ」
「とか言ってよ、お前の言ってた姉ちゃんに会いたいだけなんじゃないの?」
「うん」 
 無邪気に即答するジルに、ため息をつくディエル。
「お前って、きれいなお姉ちゃん見るとすぐそれだもんなぁ……そりゃあ、オレも会ってみたいけどな……」
「ダメだよ。サイファ姉ちゃんに可愛がられるのはおいらひとりで十分だもん。兄ちゃんはとっとと……」 
 ジルがこめかみに指をあて、何かつぶやくのを聞き、ディエルは慌てた。
「……! ちょっとまて! 今度は間違わずにちゃんと飛ばせよ! またへんなとこ……」
 ディエルの言葉が終わらないうちに、ジルの力が発動した。ディエルの身体が球に包まれたかと思うと、次の瞬間消え失せていた。
「いってらっしゃーい!」
 ディエルがさっきまで座っていたベッドに向かって、ジルはにこやかに手を振った。

 そして――。
 この日を境に、フェル・アルムの夜空を覆うはずの星達が一切見られなくなった。
 空虚な暗黒はついに、夜空を支配してしまったのだ。

 一.

 漆黒の中、ハーンは馬を駆っていた。すでに夜も更け、“刻無き時”に入ろうかというのに夜空に星が瞬くことはない。
 星なき暗黒の空が、ハーンを不安に陥れる。漆黒の向こうにあるのは、“混沌”か、それとも無か。いずれにせよ、それは破滅を予感させるものであることに変わりはなかった。
 夜空が消えてすでに五夜目となる。さすがのハーンも、安穏としたひとり言をつぶやいていられるほどの余裕はなく、朝早くから深夜まで、ただ馬を走らせるのみだった。このままルシェン街道を行けば、夜明け前にはクロンの宿りに着けるはずである。疲労のため半ば朦朧としていたハーンだが、クロンの宿りの暖かさのことを思うと嬉しかった。 
 そんな時。 
 ハーンは、不意に馬の歩みを止めた。 
(この先に何かいる!) 
 戦士の直感で、ハーンは悟った。そして目を静かに閉じると、術を発動させるため二言三言つぶやいた。 
 いくら町が近くにあるといっても、こんな深夜に移動するのは、何らかの事情を持った者であるとしか考えられない。夜逃げ、野盗、あるいは疾風。もしくは“魔物”――。
 “遠目の術”が完成するとハーンは目を開け、まっすぐ続く道の、さらに先を見据えた。
 小さい何かが、ゆっくりとこちらのほうに歩いてきている。ハーンは精神を集中させ、それが何であるか見きわめようとした。
「え……? ……子供?」
 彼が見たのは背もまだ伸びきっていない、ひとりの少年だった。おぼつかない足取りでとぼとぼ歩き、顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「迷子……かなぁ?」
 ハーンは馬の歩みを進めた。

 一、二フィーレも行くと、肉眼で分かるようになった。やはり子供だ。なぜこんな夜にひとりで? とハーンは訝ったが、それでも子供が警戒しないよう馬を下り、歩いていった。
[どうしたんだい、こんな夜に?]
 ハーンは声をかけるが、その子供は何やらぶつぶつ言っているだけである。ハーンがいることに気付きもしない。数ラクまで近づいた時、ハーンは再び声をかけた。
[坊や?]
[何だよ! オレにはディエルってぇ名前があるんだ! 坊やはないだろうに!?]
 ディエルと名乗った子供は枯れ果てた声で喚いたが、次の瞬間はっとなってハーンを見た。
[……ああ!]
 ディエルと名乗った子供は、驚いたようにそう言うと、真っ赤に泣きはらした目をごしごしとこすって、ハーンの顔をしばし見上げていた。
[……あのう? どうしたの?]
 ハーンは困りながらも中腰になり、少年と目線を合わせた。
[……ひとだあ……やっと……人に会えたぁ]
 言うなり、ディエルの目から涙があふれ、ディエルはハーンに飛びついた。
[わーーん! さびしかったよぉーー!] 
 後はただ泣きじゃくるのみ。ハーンも、ディエルの頭を撫でながらとりあえずこの子をなだめるしかなかった。
 この子供から邪念はまったく感じられない。ハーンは一瞬でもこの子を疑った自分を恥じたが、また同時に、人に会い孤独から解放されたことを喜んでいた。

[……で、ディエル君。なんで君はこんなところを歩いてたんだい?]
 ようやく泣きやんだディエルに、ハーンは話しかけた。
[……くん、なんて付けないでくれ。道に迷わされたんだい]
 ディエルはぶっきらぼうに答えた。泣きじゃくったことが恥ずかしくなったのか、ハーンからは少し距離を置いて座っている。顔を合わせようともしない。
[そうかぁ……]
 ハーンも、子供のあやし方には馴れておらず、そう言って鼻の頭をかいた。 
[ねえ、君のお母さんはどっち行ったんだい?]
[あのね、オレは迷子なんかじゃないからな! ただ……そのう、どこ行きゃいいんだか分かんなくて]
[うーん、……それを迷子って言うんじゃないのかなぁ?]
 ディエルは、うっと唸ると、ばつが悪そうに顔を背けた。[……とにかく! 疲れてんだよ、近くの町までどのくらいかかるんだよ?]
[え? だってさ、クロンから来たんでしょ?]
[クロン? 何それ?]
 話がかみ合わないので、お互いの顔を見合わせる二人。
[クロン……て、町の名前だよ。クロンの宿り。ほら、君がやって来た方向にずーっと歩くと、行き着くんだけどな]
[え? オレが歩いてきたほうに町があったの!?] 
 ディエルは、自分が来た道を振り返った。
[ひょっとして、オレ……逆方向に歩いてた?]
 ディエルが訊く。
[うん。このまま、まーっすぐ行けばクロンの宿り。馬だと朝前には着くよ]
 ハーンが答える。
[でもさ、君どっから来たんだい?]
 ディエルは口を真一文字に結び、わなわなと肩を震わせている。
[……ま、言いたくないんならいいけど、さ]
 ハーンはやれやれ、といった面もちで、ディエルに話を持ちかけることにした。
[じゃあ一緒に行――]
[ジルのやつ! あいつのせいで森から這い出すのに二日! 道をとぼとぼ歩いて三日! 送る場所間違えた上に、まる五日もオレを歩かせやがった! しかも、無駄足ときたもんだ! あいつ、今度会ったらただじゃすまさねえからなぁ!!]
 喚きちらすわ地団駄を踏むわ。沸点に達したディエルの怒りは当分収まりそうにない。
[じゃあ一緒に行こうよ] 
 と言おうとしたハーンの言葉は、かき消されてしまった。
 これがハーンとディエルの出会いであった。 




 二.

 そして朝が来る。
 漆黒の闇は去り、陽の光によって世界は明るく彩られていく。だがハーンにとって、それは仮初めの平和でしかない。
(だけれども陽の光は、闇に同調する漆黒剣と、剣の“力”に怯える僕自身に、ひとときの安らぎを与えるのもまた事実……か)
 だんだんと朱色に染まっていく東方、スティン山地の稜線を見ながら、ハーンは思った。
(レヒン・ティルルは確かに大した剣だ。でも、僕も剣の闇の部分に取り込まれないようにしないと。そんなことはもうないだろうけど、用心はしなくちゃ。〈帳〉は、僕のことも世界の希望の一部だと思ってくれているんだから)

* * *

「ふう……やっとだよ」 
 馬を歩ませながらハーンは言った。東の空が明るくなるにつれ、とりあえずの安息の場所、クロンの宿りの門がぼんやりと見えてきた。 
「この子をどうしたもんかね……。とりあえずあの親父さんのとこまで連れてくしかないか」
 ハーンは、馬の首筋にしがみつくようになって寝ているディエルを見た。結局、ディエルがどこから来て、なぜ迷子になっていたのかは聞き出せずにいた。
(ま、いいけどねぇ。ごく普通の男の子だからなぁ。しかしなんというか……疲れる子だよ……)
 手綱を引きつつハーンは苦笑した。
[おおい、ハーンじゃないかあ?]
 門に辿り着いたハーンに、衛兵のひとりが声をかけてきた。
[キニーかい? 久しぶりだね、朝早くからごくろうさま]
 ハーンが手を挙げて答える。
[こんなとこで会うなんて。戦士稼業はどうしたんだい?]
 キニーは、一年前に知り合った傭兵仲間だった。 
[ああ、……実は俺の親父が一ヶ月前にぽっくり逝っちまってさ。お袋ひとりだと大変だろ? だからお袋とここに住みつくことに決めたのさ。そういうことで傭兵はやめだ。まあ、いい嫁さんでも探すさ]キニーは言った。
[ところで、その子はハーンのかい?]
[だとしたら、僕は声も変わらないころから浮き名を流してたことになるよね]ハーンは笑った。
[……迷子らしいんだ。クロンで、ここ数日で行方不明になった子っているかい?]
[いや、全然。……なあ、知ってるか?]
 キニーは同僚達に声をかけたが、彼もそんな話は聞いてないとのことだった。
[別にそんな話は聞かないし、野盗が出没したっていうのもないな。どこから来たんだろうな?]
[それは僕が訊きたいよ]ハーンは苦笑した。 
 と、馬のたてがみがむず痒くなったのか、二、三回ディエルがくしゃみをした。
[ああ、とりあえず入んなよ。しばらくここにいるのかい?]
 キニーが門を開ける。
[いや、一日もすれば出ちゃうつもりさ]
[そうか、気を付けてな、最近得体の知れない化けもんを見た、とかいうのを聞くからな]
[それは……どこら辺で?]
 ハーンの顔つきが真摯なものに変わる。
[何人かの旅商の話さ。スティンの山道とか、カラファーからダシュニーに向かう山道とかで、でかくて真っ黒な奴を見たっていうんだ……。ま、おおかたそいつら、熊と見間違えたんだろうけどよ]
[……キニー。君の言っている熊っていうのは、間違いなく強いよ。万が一に出会ってしまったら、心してかからないと――死を招く]
[え? ああ、分かったよ。じゃあな]
 ハーンは、キニーとにこやかに別れながらも、内心、確信を持っていた。 
(“混沌”の魔物が、勢力を増している。急がないと!)
(しかし……)と、ディエルを見る。
「この子……どうしようかねぇ……」
 嘆息。

* * *

 〈緑の浜〉。赤煉瓦《れんが》のこじんまりとした宿の厨房では、朝もまだ早いというのにひと騒ぎになっていた。
[ぷぅー……。ごちそうさん!]
 ディエルは、二人前の食事をぺろりとたいらげ、満足そうに言った。
 ハーンがディエルと一緒にやって来たのは、前一刻を告げる鐘が鳴ってそう経たない時だった。折しも朝食の仕込みをしていた夫人は、ハーンから事情を聞くとすぐに寝所へ向かった。夫人に追い立てられるようにして、宿の主人ナスタデンが目をこすりながら現れた。
[ハーンの頼みだったらしかたねえな。俺もかみさんが怖いからよ……]
 などと言いながら、風呂釜の準備をしに行った。ハーンも湯を沸かすやら、朝食の準備をするやらでこき使われたが。
[ディエル……。もういいかい?]
 緊張の糸が解けて、今までの疲れがどっと出てしまったハーンは、生あくびをしながら訊いた。
[うん! 兄ちゃん、どうもありがとうな]
 満足するまで食べて元気を取り戻したディエルは、恩人であるハーンに心を開き、〈兄ちゃん〉と呼ぶようになっていた。
[まったくよ……ハーンも朝から騒がせるなよな]
 そう言いつつ、ナスタデンの顔はほころんでいる。
[悪いね親父さん。ここしか頼める場所がないと思ったんだ]
[なに、気にすんな。俺も久しぶりに子供の世話が出来たんでよかったよ]
[ねえ、ディエル] 
 ほかの客へ食事を運ぶのがひととおりすんで、時間が空いたナスタデン夫人が訊いてきた。
[あなたどこから来たの?]
[うーん……]ディエルは腕組みをして唸った。
[とりあえず、ずうっと南、かな。王様のお城みたいなのがある、でっかいところ]
[お城っていうと……アヴィザノかしらね? あんなところからひとりで来たのかい?!] 
[う……ん。まあね]ディエルは言葉を濁す。
[じゃあ僕はなぜ、クロンに行く道で出会ったんだろう?]
 ハーンが言った。
[アヴィザノっていったら、ディエルが歩いてきた道と、まるで正反対だからね]
[まあ、勝手に連れてこられたっていうか……]
 ディエルは言った。
[人さらい?]一同、声を揃えて言った。
[うーん、似たようなもんかな……あ、でも心配しないでくれよ。オレは全然大丈夫だったんだから!]
 ディエルは両手を振り、元気そうに笑って見せた。
[でも、親御さんは心配じゃないかねえ?]と、ナスタデン夫人が心底心配そうな面もちで訊いてくる。
[親はいないんだ。弟がお城の街にいるんだけどさ。……すっごく、会いたいんだ。あいつには!]
 強い感情を込めて、ディエルは言った。もっとも、彼が会いたいわけは、転移にまたしても失敗したジルをどつきでもしないと気が収まらないからであるが。
[かわいそうにねえ……でも、安心おし]
 ナスタデン夫妻はそろってハーンの顔を見た。
[この兄ちゃんが、連れてってくれるよ]
[僕が?]自分を指さして、素っ頓狂な声をあげるハーン。
[そりゃあ、これからスティンのほうには行くけどさぁ……]
[じゃあ、話は早いじゃねえか! そこからちょっと足を延ばしてくれりゃいいんだから]
[こんなことあんたしか頼めないんだよ。ねえ、お願いだよ]
[うーん……]
 夫妻の頼みごとを聞き、ハーンは頭をぼりぼりと掻く。 
[………分かったよ。分かりました。アヴィザノまで連れてきましょう]
[ほんとかい、ありがとう兄ちゃん!]
[うん。支度が出来たら行こうか、ディエル]
[おいおい。まさかもう行くのか?]と、ナスタデン。
[うん。僕の旅も急がないといけないからね]
[でも、急ぐにしてもハーン]夫人が声をかけた。[あんた、今のままじゃあ、行き倒れになるよ? それにこの子も。少し休んでいきなよ] 
 ハーンは自分が焦っているのを知っている。世界に変化が如実に現れ始めた今となっては、時間こそがもっとも貴重なものだから。だが、自分の疲労が極致に達していることも分かっていた。このままではスティン高原に辿り着くまで体が保つかどうか怪しい。ハーンは体を休めることに決めた。
 今夜宿泊する客は普段より幾分か多いようだ。ダシュニーへと向かう商人の一団が泊まるらしく、あいにくディエルの分まで空きがなかったため、二人は一緒の部屋で休むことになった。

 夜も更け。ディエルはふと目を覚ました。ハーンは隣のベッドで、ぐっすりと眠りこけている。
「ふう……。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったぜ。全てはジルのせいだ」ディエルはひそひそと言った。
「オレの探していた“力”を持って帰るのは無理だな……。あとはジルのいる町の“力”に頼るか……。悔しいけども、オレのほうはお手上げだな……ジルのせいで! オレの探す “剣”が見つかればなあ」
 ディエルは暗がりの部屋を見渡す。ふと、ハーンの荷物に目がとまった。ひと振りの剣があるのに気付いたのだ。漆黒の雄飛、レヒン・ティルルである。
 ディエルは静かにベッドから抜け出すと、その剣を手にしてみた。背の伸びきっていない少年が持つにはいささか重い。
(こいつはたいしたもんだ! オレが感じたあの“剣”に比べると力がないけど、それでもかなりの“力”が込められているな)
 ディエルは目を閉じ、神経を剣に集中させる。
(『闇』に属する剣か。でもこれを使いこなすなんて、この兄ちゃん、なにもんなんだ? どれ、兄ちゃんのことをちょっと調べてやるか……)
 ディエルはベッドに戻るとあぐらをかき、手を組んで神経を集中させた。ディエルの身体が、淡い緑色の光に包まれる。何かしらの術を発動させているのは確かだ。
 そして、瞬時に光はディエルの身体の奥に消え去った 
(へえ……たいした“力”だよ。これはびっくり、だね……)
 ディエルは、ハーンを見てにやりと笑った。
(予想外のことになったな……でも“力”は手に入りそうだ)
 ディエルは窓かけの隙間から外の景色を見た。
 人々は寝静まり、民家には一つの灯りもともっていない。そして空。穏やかな銀の光で世界を包むはずの月の光も、夜空を彩るはずの星座も何一つ無く、ただ暗黒が支配している。
(この世界は終わりかけてる……。そう長く保ちそうにないな。“力”を手に入れたら、ジルと一緒にとっととおさらばしないと、こっちまで危なくなる)

 ディエル、そして彼の双子の弟ジル。彼らはフェル・アルムの民でも、アリューザ・ガルドの人間でもない。ましてや、アリューザ・ガルドを見守る神“ディトゥア神族”でもないのだ。どれにも属さずに、“力”を求める者達。彼らは――。




 三.

「うわあ!」 
 ハーンの上げた奇声で、ディエルは夢の中から呼び起こされてしまった。寝ぼけ眼で横を見ると、『やってしまった』とでも言いたげな、苦い顔をしたハーンがいた。
[……どうしたんだよ?] 
 寝ぼけた目をこすり、ディエルも起きた。窓から射し込む日の光は暖かく、風を伝って食べ物のいい匂いがしてくる。
[もう昼みたいだな。おはよう、兄ちゃん]
[そうだよ……どうやら丸一日眠っちゃったみたいだ] 
 ハーンは手を顔に当てる。まいったな。そんな感情がありありと出ている。ハーンとしては二、三刻ほど休んですぐに旅立つ予定だった。寝こけるなど思いもしなかったのだ。
[無理ないよ。兄ちゃん、むちゃくちゃ疲れてたし] 
 あっけらかんとした口調で言うディエル。 
[でも、いつまでもこうもしちゃいられない! ……あれ……僕の服は……?]
 ハーンは、がばっと起き上がると、自分の服を探した。
[ああ、兄ちゃんの服なら、おばさんが洗って、ほら、そこにかけてあるよ]ディエルは戸口におかれた籠(かご)を指さした。
[おかみさんが? いつ頃来たの?] 
 ハーンは、籠から真っ白な服を取り出すと、着替え始めた。
[朝方だったかな? オレも服を探してたらさ、おばさんに出会って、オレのと、兄ちゃんのと、服を渡されたんだ]
[ディエルは朝きちんと起きたのかい?]
[ああ、でも兄ちゃんが寝てたから、また寝ちゃったけど]
[……その時、起こしてくれりゃよかったのになあ……]
 ハーンは悪態を付きながらも着替え終わり、ディエルにも着替えるよう催促した。
[丸一日ここで過ごしちゃったんだ。早く行かないと!]
 ハーンと、ナスタデン夫妻に礼を言うと、ディエルを連れてあわただしくクロンの宿りをあとにしていった。

 昼下がりの太陽の光は、奇妙な組み合わせとなった二人の旅人を暖かく包む。クロンを出てからというもの、話すきっかけがないのか、二人は黙ったままだった。
 ハーンは馬を歩ませながら、ルード、ライカとともに高原を目指した、二ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。
 あの頃のことは、今起こりつつある全ての出来事の始まりでしかなかった。ルードはもちろん、ハーンですら、事態がここまで大きくなるとは思いもしなかった。 
 そしてハーンの想いは、さらに過去に遡っていく。
 ハーンは無性に懐かしかった。シャンピオとともに、スティンの高原を訪れた、あの春の始まりが。ニーヴルとしての過去を忘れ、タール弾きとして各地を巡り、時として旅商の護衛となっていた、かつての自分が。
 だが、もうあの頃には戻れないのだ。
 きりりと、胸の奥が痛くなる。ハーンにとっての平穏は、すさまじい濁流の向こう側にしか存在しないのだから。
(……でもそれはルードやライカ、〈帳〉もおんなじなんだ)
 自分とともに歩いていこうとする仲間がいる。それがハーンの支えであった。運命を一人で握ることの怖さを、ハーンは知っているのだ。自分の奥底に眠る、遙か昔の悲しい“知識”によって。
 ハーンは左手で自分の腰のあたりを探った。鞘に収められるは、漆黒剣。鞘を通してすら感じる、かすかな闇の波動。その波動はハーンに安らぎを与えるとともに、戒めをも与える。〈帳〉が自分にこの剣を託した意味を忘れてはいけない。
[どうしたんだよ? へんに落ち込んでない、兄ちゃん?] 馬の首につかまっているディエルが振り返って言った。
[いやぁ、別に。山道に入る前で野営しないといけないと思ってね。もうちょっと僕らが早く出ていたら、山道のちょうどいいところでキャンプを張れるんだけど、まあ過ぎたことを言っても仕方ないかな?]ハーンは平静を装って答えた。
[……兄ちゃん、戦士なの? すごい剣持ってるじゃない]
 ハーンが腰に下げている剣を見据えてディエルは言った。
[まあ、そうだね……戦士といえばそうなのかな? タール弾きでもあるんだけどねえ]
 努めて得意げに言うハーン。他人と話していると、鬱屈しがちの感情も少しは晴れる。
[タールって?]
[僕の持ってる楽器だよ。これがないと、僕は食べていけないんだ。剣を握ることが、そうそうあるわけじゃないしね]
[へえ。じゃあ、兄ちゃんの演奏、聴かせておくれよ。オレ、そういうの好きなんだ!]
[分かった。でも少し我慢してくれないかい? そうだな、二刻もしたら野営地に着くから、そうしたら弾いてあげるよ]
 それを聞いてディエルはうんうんと、力強くうなずいた。
[きっとだよ!]
[分かったよ。僕も路銀が乏しくってね。よし、今日はたっぷり弾いて、道行く人から稼がせてもらおう!]
 ハーンとディエルは顔を合わせ、にいっと笑いあった。
[そんでさ、兄ちゃんの剣なんだけど……すごそうだね]
 ディエルは話を元に戻そうとした。
[ああ、こいつかい?]ハーンは剣を鞘からすらりと抜いた。
[すげえ……真っ黒だ]
 ディエルは食い入るように刀身を見つめた。陽の光があたりを包んですら、この刀身だけは光ることがないのだ。
[なるべくなら、使わずにすませたいもんだけどね、こんな物騒なものは、さ]
 ハーンは剣をおさめた。

 それからというもの、ハーンはディエルに色々話して聞かせた。クロンの宿りに住むナスタデン夫妻のことや、水の街サラムレの剣技会での珍事件。それに、湖畔の街カラファーのうまい食べ物などなど。ディエルも興味深そうに聞き入り、おかしな話にはお互い笑いあった。だが、ハーンやディエルの個人的な話題についてはまったく触れられなかった。
 陽が傾きはじめる頃、二人はスティン山道に入る前の野営地に辿り着いた。
 キャンプの準備をひととおり終えると、ハーンは荷袋の中からタールをとりだし、弦を一本一本張っていく。
 その様子を見ていた一人の老人がハーンに声をかけてきた。自分もタール弾きなので、一緒に弾いて楽しまないか、と言うのだ。ハーンは申し出を快く受け入れ、調弦をすますと、じゃらん、と弦をかき鳴らした。
 二人はそれを合図に、ともにタールを弾き始めた。
 最初はディエルだけが聴き入っていたが、徐々に人が集まりだし、とうとう、今日野営を行う全ての人(二十人程度)が、ハーンと老人の紡ぐ調べを聴くために集まってきた。
 老人の腕前は、『十二本の指を持つ』と賞されるハーンに比べればいささか劣りはするものの、タール弾きを生業《なりわい》とするには十二分であったし、暖かみのある音色は、印象深いものだった。
 一刻ほど後、二人が演奏をやめると周囲の人々は拍手喝采、やんややんや騒ぎ出した。おひねりを集めるハーンと老人は、旅商の一行と食事をともにすることになり、そこでも酒を交わしながら、踊りの曲をいくつも披露した。曲にあわせ、踊りに興ずる人々。その中にはディエルの姿もあった。

 楽しかった宴会もお開きとなり、ハーンは老人と握手を交わした。
[ありがとう。こうも楽しくタールを弾けたのは本当に久しぶりですよ]
 それを聞いて、老人はかっかっと笑いながら言った。
[それはよかった。わしも楽しかったわい。こうやって弾いていると、嫌なことなど吹き飛んでしまうじゃろう?]
[そうですねえ]ハーンは笑いながら相づちを打った。
[なあ若いの。おぬし、悩んでいることがあるな?]
 老人は目を細めて訊いてきた。ハーンはどきりとした。老人の指摘があまりにも的確だったからだ。
[分かりますか?]
[分かるとも。だてに長年タールを弾いてないわい。その音から、弾いてる人間の想いが分かるってもんじゃよ]
 ハーンは苦笑いをした。
[じゃが]老人はにっと笑った。[じゃがな、大丈夫じゃ。人間と同じく、世界そのものにも意志があるとするなら、自分から進んで悪い方向に行こうなどとは思わんじゃろうからな]
[え?!]ハーンは老人を見据えた。自分を見上げている老人が、急に大きく見える。 
[それにぬしが闇の虜になったとしても、おぬしの友人が救ってくれるじゃろう]
 再び目を細めると、老人はタールを手に歩き始めた。
[あの!]ハーンは声をかけた。[あなたは……?]
 老人は振り返って言う。
「わしは、おぬしの“知識”が……封じられた知識が知っている者じゃ。……闇を汝が力とせよ。きっかけを与える者は、すでにおる。まあ多少、手荒にはなりそうじゃがな」 
 語った言葉はフェル・アルムの言葉ではなく、アズニール語――アリューザ・ガルドの言葉であった。老人は再び歩き始めた。「古き友人よ。我が名は“慧眼《けいがん》の”ディッセじゃ」
 その場で、老人の姿はすうっと消え失せた。

「ディッセ……」
 ハーンは老人がいた場所を見ながら言った。
(――ディッセ。ムル・アルス・ディッセ。ディトゥア神族にして、次元の狭間“スルプ”の長)
 心の奥底に眠る“知識”がハーンに囁いた。
 術の力に覚醒した十三年前から、“知識”はハーンの中で時折うごめいていたが、ここ最近、呼びかけが顕著であった。ハーンの奥底に眠る“知識”といわれるもの。それがいったい何なのか、知る者はハーン自身と〈帳〉しかいない。

 そのまま、ハーンはしばしたたずんだ。




 四.

 夜も更けて。ハーンが眠りにつこうとした時、叫び声が聞こえてきた。ハーンは何ごとか、と思い、剣を握りしめテントの外に出た。今の叫び声は人間のものではあるが、悲鳴に近いものだった。
[だ、誰かあ……]
 うめく声が再び聞こえた。それを聞き、周囲の者達もテントから這い出してきた。
[なんだ? 一体]
[危険だから、下がって!]
 言うなりハーンは剣を抜くと、救いを求める声のほうへ、一目散に駆けていった。 
 ハーンには分かっていた。クロンの衛兵キニーが言うところの『熊』が現れたのだ。

 ぶうんっ……
 剣が低く唸り、その波動がハーンに伝わってくる。戦いのためにこの剣を抜くのははじめてだが、剣が意志を持つかのように戦いを欲しているのが分かる。ハーンは、まもなく目の当たりにする魔物のほかに、この漆黒剣の誘惑にも打ち克たなければならない。

 悲鳴の上がった現場には、得体の知れないものを前にした男が、腰を抜かして座り込んでいた。ハーンは、がちがちと歯を震わせている男の前に立つと、目前の敵を見据えた。
 一匹の獣が、しゅうしゅうと不快な息遣いをしながら、赤い目を爛々《らんらん》と輝かせて獲物を屠(ほふ)らんとしている。獣は熊のようにも、大柄な猪のようにも見えるが、その実どちらでもないことがハーンには分かった。形こそ違えど、これと同じ感覚を持つものにハーンは一度出会っているからだ。魔物。フェル・アルムには存在してはならない生物。“混沌”が生み出しし、忌まわしき創造物。
 ハーンは直感で知った。今の自分なら――レヒン・ティルルを得た自分なら、この程度の魔物ごとき、苦もなしに倒せるのではないか、と。迷いもなく、ハーンは地面を蹴った。
 ハーンが剣を薙ぎ払うのと、牙をむいた魔物が突進するのは同時であった。
 うおおおん、と不気味に吼えたのは、魔物か、剣か。
 レヒン・ティルルの刃先は、向かってくる魔物の頭部を見事にとらえた。ハーンはそのまま勢いに任せ、魔物の口元から胴体にかけ、一気に切り裂いていく。勝負あった。ハーンは剣を引き抜くと、とどめとばかり、漆黒の刃を振り下ろし、魔物の首をはねとばした。 
 ずう……ん……
 魔物の巨躯が地響きをたてて崩れていく。ハーンは余りにあっけない成り行きに驚きを隠せなかった。
「たったの一撃で?! レヒン・ティルル、まさかこれほどの力を持っているとはね……」
 次の瞬間、闇の力が剣から彼の身体へと侵入してきた。濁流のごとく襲いかかる闇の波動に、ハーンは必死で抗う。
(……! 力の反動も凄いな……。〈帳〉……このままこの剣を使い続けていたら、いずれ僕は闇に負けてしまうよ……)
 朦朧とした思考の中、先ほどの老人の声が頭をよぎった。 (『闇を自分のものにしろ』……でもそれと、闇の虜となるのと、どう違うんだ……?)
「かはっ……」 
 ハーンの精神はとうとう限界に達し、意識を失った彼はそのまま地面に突っ伏した。 

 ディエルは、少し離れたところからこの顛末を見ていた。
「兄ちゃん……大丈夫かな?」
 ディエルは頬をぼりぼりと掻きながらぽつりと言った。
「様子見にしては、ちょっとやり過ぎたかな?」
 ハーンが演奏に興じている隙に、ディエルはレヒン・ティルルに少し細工をしていた。一回しか行使されないが、ハーンが剣を振るった時に、闇の波動をハーンの身体に入り込むようにしたのだ。ハーンの“力”がどのようなものかを試すつもりだったのだ。
 だが――
「なっ……!?」
 絶句。
 ディエルは見た。気絶したハーンの身体から、天を突くがごとく闇の気の柱が発散されるのを。なぜハーンがここまで計り知れない力を持つのか、ディエルには分からなかった。
 ハーンから発せられた気柱は、闇夜の中で凝縮され、龍のかたちをとる。夜の暗がりよりさらに濃い、闇の龍は空を駆け抜けていった。




 五.

「な、なんだあ!?」
 ルードの部屋は突如、まばゆい光に包まれた。夢の世界に赴こうとしていたルードは、がばりと起き上がり片手をかざして、光がどこから発しているのか探しはじめた。 
 〈帳〉かライカ、どちらかのいたずらかと最初は思った。だが〈帳〉がこのようないたずらをするわけがないし、女性であるライカがルードの部屋に、夜半に入り込むなどというのも考えにくい。
(じゃあ、いったいこれは……?) 
 ルードは光の正体を見つけた。それは壁に立てかけてあるひと振りの剣。土の力を持つ聖剣ガザ・ルイアートであった。
 彼は恐る恐るガザ・ルイアートに触れてみた。別に熱いわけではない。意を決したルードは柄を握りしめ、鞘から剣を抜き放ち、剣をかざした。
 刀身がまばゆく光り輝いている。
(これは……すごいぜ……。これが聖剣の本当の力なのか?)
 ルードはかつて二回、聖剣を手にしたことがあるが、今はその時とは比べものにならないほどの“力”にみなぎっていた。大地にみなぎる活力が、全てこの剣に集結したかのようである。
 しかし、ルードはかつてのような恐怖感を感じなかった。剣が、ルードを所持者として認めているから。それもあるが、運命に立ち向かうことを固く誓った今のルードの精神が強固であることをも表している。
 ルードは剣の圧倒的な“力”を感じ取っていたが、それも一瞬。剣は光を失い、ただ鈍く銀色に光るのみとなった。




 六.

 トゥールマキオの森の大樹の中、自らの居室で、デルネアは二つの“力”がいかばかりのものか、感じ取っていた。
 ハーンが所有するレヒン・ティルル。
 ルードのものとなったガザ・ルイアート。

「我《われ》が予期せぬ巨大な“力”が、この地にあろうとはな……」
 デルネアは言った。
「我《わ》が手に余るやもしれぬが、この“力”を手中に収めるならば、我とフェル・アルムは、確実に永遠のものとなるだろう……。我は神にすら値するようになるのだ!
「我自ら、フェル・アルム北方に赴く必要があるな。……“烈火”とともに」

 “力”を求める者――ディエルにより、ハーンは一時ではあるものの自らが内に秘めた“力”を解き放った。
 それに呼応し、真の“力”を発揮したのは聖剣ガザ・ルイアート。二つの新たな“力”の顕現は、それまで傍観を決め込んでいたデルネア自身を動かすことになったのだ。
 三人目の“力”を求める者――彼の名は〈要〉。
 かくして、デルネアは朝を待たずに森をあとにした。目指すは帝都アヴィザノ。フェル・アルムの歴史上、最大の“神託”を与えるために。

 一.

 ルードはベッドの中で寝付けずにいた。先ほどのガザ・ルイアートの輝きが、鮮烈にまぶたに焼き付いているからだ。それだけではない。あの輝きは、この世界の何らかに対して警鐘を鳴らしていたのではないか。
 何のために?
 そんなことを考え始めると、眠りにつこうとしていた頭がにわかに働きだし、答えの出ない思考の迷宮をさまよう。
 しばらくひとり悶々としていたルードだったが、がばりと起き上がった。手探りでランプを見つけ、灯をともして机に置く。
 カーテンを開けると、まだ空は尋常ならざる闇に覆われている。禍々しい夜。ここ数日、星の輝きを見たことがない。
(星なき暗黒か。ハーンがこれを恐れるのも分かるよな。この空は……何かとても、いやな感じがする)
 虚ろな空を嫌って、ルードはカーテンを閉じると椅子に腰掛けた。
(さて、どうしようかな……〈帳〉さんに訊いてみようか?)
 〈帳〉もライカも眠っているに違いない。しかし聖剣の輝きが何か重要な意味を持っているのではないか、と思うにつけ、いても立ってもいられなくなる。ルードはランプを片手に部屋を後にしようとした。
 その時。あるイメージがルードの頭の中を駆けめぐった。図書館、一人の女性、そして――。
(ハーン!?)
 ハーンが苦悶する表情が映り、すぐに消えた。まるで闇の中に消え失せるかのように。
 ルードは立てかけてあるガザ・ルイアートをつかみ、部屋を後にした。今のイメージで、彼の抱いていた疑念は、一つにまとまった。
(ハーンに何かあったんだ!!)

 ぎしぎしと音の鳴る板張りの廊下は暗闇に支配され、けして気味の良いものではなかった。ルードはその不気味さを払拭するように、大股で〈帳〉の部屋に急いだ。扉の前に来たところで躊躇(ためら)うものの、こんこん、とノックを繰り返した。やがて部屋の中で、がさがさという物音のあと、「だれか?」と、〈帳〉が問いかけた。
「……ルードです」
 かちゃりと扉が開き、〈帳〉が顔を出した。
「何があったというのだ……。まぶしい……」
 〈帳〉は右手でランプの光を避けつつ、起き抜けのくぐもった声で言った。
「あ、ごめんなさい」ルードはランプを後ろ手に持ち替えた。
「実は――」
「待ちなさい。ここでは声が響く。入るがいい」
 〈帳〉はそう言って、部屋の奥に引きこもった。ルードは続いて、〈帳〉の部屋の中へ入っていった。

「……そうすると、ハーンの苦悶に呼応するように、聖剣が光ったのではないか、と、そう言いたいのだな?」
 先ほどの一件をたどたどしく語ったルードに対し、〈帳〉は明快に言葉をまとめ上げた。
「そ、そう! そういうことなんですよ」
 ルードは剣をちらと見る。
「……でも、空が真っ暗になってさえ、こいつは反応しなかったのに、ハーンに対して反応するなんて信じられますか? いくら前の持ち主とは言っても……」
「考えられることだ……」
「え?」
「……何でもない」
 〈帳〉は腕を組み、ルードから目をそらすと、調度が並ぶ壁に目を泳がせた。
「いずれにせよ、ハーンが実のところどういう状態にあるのか、調べたほうがいいな」
「調べるって、どうやってですか?」
「私とて、魔法使いの端くれだ。術が使えるハーンとであれば、きわめて微弱ながら意志の疎通が出来る。彼がどのあたりにいて、無事なのかどうかぐらいはな。もっとも……」 
 〈帳〉は再びルードの顔を見た。
「もっとも、今は無理だ。フェル・アルムの夜は“混沌”に支配されつつある。魔法を使えば、何らかの悪影響が出るやもしれない。下手をすると、私自身が闇にとらわれるかもしれないからな。かつての私であれば抑圧出来ただろうが、今の私では無理だ」
 自らの無力さを呪うかのように、かつて“礎の操者”と呼ばれていた魔導師は弱々しく言った。
「でも、〈帳〉さん。朝になれば術を使えるんでしょう?」
「それは問題ない」
「じゃあ、明日の朝まで待ちますよ。それでいいのでしょう?」
「ああ。夜が明けたら、さっそく術を行使してみる」
 それを聞いたルードは椅子から立ち上がり、剣とランプを持って戸口に下がった。
「俺、待ってます。……すみませんでした、こんな夜更けに起こしちゃって」
「なに、気にすることはない。むしろ話してくれてありがたいと思っている」〈帳〉は目を細めた。
「ルードよ。強くなったな」
 二ヶ月前、漠然たる不安に苛まれていた少年の面影はそこにはなかった。
「〈帳〉さんだって、ここに俺達が来た頃よりも、ずっと生き生きして見えますよ!」
 ルードは笑って言い返した。
「まあ、でも〈帳〉さんに話したら、胸のつかえが取れちゃったみたいです。とりあえず眠りますよ。お休みなさい」
「お休み。……ああ、ちょっと」
 呼び止められたルードは首だけ〈帳〉のほうを向けた。
「ことによっては、さっそく明日、旅立つかもしれない。準備だけはしておいたほうがよい」
「ハーンの返事を待たずに、この館を出るってことですか。ハーン、多分まだスティンには着いてないと思いますよ?」
「そうだ。ハーンの苦悶が聖剣の反応と関連があるのなら、急ぐ必要があるやもしれぬ……。しかし、とりあえず今は休むといい」
「分かりました」
 ルードは一礼をして、扉を閉めた。

 椅子にひとり腰掛ける〈帳〉は、やおら立ち上がり、ランプの灯りを消した。
「まさか、そのようなことはあるまい、と思ったのだが……。剣の持つ闇に捕らわれたか? ハーン……」
 〈帳〉はかぶりを振った。あの程度の闇の波動であれば、自らの力として難なく使えるはずだ。
(それにしても、ルード……。『生き生きしている』……か)
 先ほどのルードの言葉を思い出した〈帳〉はふと、ほくそ笑んだ。
(不思議なものだ。彼らに出会ってから、明らかに私は生活自体を楽しんでいる。今まではただ、死んでいないに過ぎなかったこの私がな……)




 二.

 夜が明けてまもなく。ルードは〈帳〉の部屋を訪れた。
「来たのか……休んでいても構わなかったのだが?」
 読んでいた分厚い本を机に置き、〈帳〉が訊いてきた。まるで物語に出てくるような、と形容すべきか。普段とは違う臙脂のローブを纏《まと》った〈帳〉は、まさに魔法使いそのものだった。
「ライカも一緒なのか?」
「まだ寝てるでしょうね」
 見慣れぬ臙脂の装束をじろじろ見ながらルードが言った。
「あいつ、寝る時は本当にぐっすり寝ちゃうんですよ。……あ、起こしてきたほうが良かったんですか?」
「いや、それには及ぶまい」〈帳〉は言った。
「では、ハーンに呼びかけてみるとするか」
「魔導ってやつを使うんですか?」
 ルードの問いに〈帳〉はかぶりを振った。
「術で十分であろう」
「そうですか……」
 ルードは内心残念であった。かつては偉大な魔導師として名を馳せていた〈帳〉。ハーンの行使した術も驚きに値するものだったが、それを凌ぐとされる魔導とはいかなるものなのか、見てみたかったのだ。
「そう落胆するな。術と違って、魔導とは気安く用いるべき代物ではない。魔導の行使は、世界の構成そのものに干渉することになる。ゆえに魔導を用いる者は、干渉した際、どのような結果をもたらしうるのか見きわめねばならん。何より、己の意志を繋ぎ止め、全てをあやまたずに行わなければならないのだ……それを軽んじた結果、魔導の暴走が起きたのだ。
「……話がそれたな。いずれにせよ、事態が事態なのだから、君も近いうちに魔導の片鱗を見ることになろう。アリューザ・ガルドでは封じられた、魔導の力をな」
 〈帳〉は目を閉じると、顔を上げて異質な抑揚を持つ言葉を紡ぎだした。それはほんの数節からなる言葉で、二回、三回同じ文句を唱えた。やがて〈帳〉の発する声はか細くなり、口を閉じた。〈帳〉はおもむろに左腕を天井に掲げる。すると、身体や四肢の中から浮き上がってきた幾筋かの揺らめく光が、様々な色合いに変化しつつ彼の指先へと立ち上っていき、一つの点となって凝縮した。〈帳〉が指を鳴らすと、それは窓を突き抜け、一条の矢のごとく飛び去っていった。
「今放った光は、一刻もしないうちに私のところに戻ってくる。その時、ハーンの所在が明らかになろう」
 大きく息を吐いて、目を開けた〈帳〉は言った。
「……休んだほうがいいのではないか? あとは私にまかせておけばよいのだから」
「……いえ、ここで待ってますよ。ハーンのこと、やっぱり気がかりですからね」
 二人は、徐々に明けてくる東の空を漫然と見ながら、時が刻まれるのをただ待つのであった。  




 三.

 ライカは、朝食の用意をするために、〈帳〉の館を出て、いつもの小さな牧場へ向かう途中だった。館から牧場へつづく小径を、足取り軽く歩いていく。
 彼女の耳に、風に乗って、ある音が聞こえてきた。唸りをあげて風を切る音。高ぶってはいるが、規則的な息遣い――。“風”の力に詳しいアイバーフィンでなければ聞き取ることは難しいだろうその小さな音は、牧場へ向かう小径から少し逸れた、林のほうから聞こえてくるようだった。
 ライカは躊躇せずに、足を林のほうへ向けた。その息遣いを彼女はよく知っていたから。
 ルード・テルタージ――自分を守ってくれている少年。

* * *

 自分はこの剣を何百回振ったのだろうか? 息が徐々に荒ぶってきているのに相反するように、気持ちは落ち着いてきている。ルードは素振りを繰り返しながら、そんなことを考えていた。手にしている剣は、ルードに活力を与えてくれる。
 ルードがこの圧倒的な“力”を持つ聖剣――ガザ・ルイアートを手にするのはほぼ二ヶ月ぶりだった。瀕死の状態で剣を握った、“疾風”との戦い以来だ。仮に剣に意志があったとすれば、剣はルードに対し従順になったといえる。ルードがかつて手にした時、剣は強烈な“力”をルードの体内に送り込んできた。それは、ルードが所持者たるに相応しいか、試さんとするようだった。
 ルードが力に目覚めたのは、疾風との戦闘後だった。ルードは怪我をすることがなくなった。いや、正確にはどんな深手を負ってもすぐ傷が癒えるようになったのだ。そして、今まで感じ取れなかった大地の息吹というものを、肌で感じ取れるようになった。――ライカが風の力に敏感なように。
『ルードは、セルアンディルの力を手にしたのだよ』
 かつて〈帳〉はそう言った。
 セルアンディルとは、遙か昔のアリューザ・ガルドにおいて土の力を司っていた民だ。ルードは伝説の剣を媒体にして、古《いにしえ》の力を手に入れたのだ。
 ライカの種族、アイバーフィンは風を司る。そして風の世界に赴き理《ことわり》を悟った者は翼を得、鳥のごとくに空を我がものに出来る。土の司セルアンディルは、大地の霊力を自らの力とし、外傷・病気など受け付けない、癒しの力を持つのだ。

 今や剣は自分と一心同体となった。まるで何十年も使いこなしていたかのように、ガザ・ルイアートは意のままに動き、銀色の刀身が朝日を受けて幾重もの光を放つ。
 ざっ!
 ルードは足を踏ん張って、最後のひと振りを振り下ろした。
「はあっ!!」
 そのままルードはぴたりと動きを止める。静かな林の中、自らの息の音と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえている。少し長くなった前髪が汗で張り付く。

 ぱちぱちぱち……
 背後でそんな拍手が聞こえたので、ルードは剣をしまって振り向いた。
「……え……ライカ……か……。いつから……」
 いつからいたのさ? そう言おうとして、息を整えようと必死のルードに、ライカは満面の笑みで駆け寄った。
「すごい! すごいよルード! ハーンだって、今のルードにはかなわないかもしれないわよ!」
「そんなこと……ない……俺はだいぶ……剣……の力に……たよってるから……ハーンは……こんな程度じゃ……息……あがらない……」
「まあまあ、落ち着きなさいな。ほら、そこに腰掛けて?」
 ライカは倒木に座るようにルードを促すと、自分もルードの横にちょこんと座った。
「静かね……」ライカがひとりごちる。物音一つしない林の中を、一陣の風が吹く。
「ふぅー……」ややあって、ルードが深呼吸をする。
「落ち着いた?」
 ライカがルードの顔をのぞき込みそう言うと、こくり、ルードはうなずいた。
「〈帳〉さんは?」
「ええと、そうね、裏の畑でなんかやってたようね」
「そういや、朝飯の準備、途中なんじゃないのか?」
「いいのよ。……ルード、一生懸命だったから、見ててあげたくって、つい、ね」
 ライカはそう言って小首を傾げて見せた。その可憐な仕草に動揺したルードは、ぽりぽりと鼻の頭をかき、照れたように笑って見せた。
「でも、どうしてまた今日はその剣なの? 今までだって、朝の練習は、なまくら剣だったでしょ?」
 剣先を丸くした模擬戦用の剣のことをライカは言っているのだろう。
「ああ……ぼちぼち、こいつに馴れておかなきゃなんないかな、と思って」
 それを聞いたライカの眼差しが、凛としたものになった。翡翠色の瞳が、きらと光る。
「それって……」
「ここから出る時が来たってことだよ」

 ルードはライカに語った。数日前から夜を覆っている闇。光り輝く聖剣。ハーンのイメージ。そして――。
「で、〈帳〉さんの出した光が戻ってきた。ハーンはどうやら今、クロンの宿りにいるらしいんだけど……。〈帳〉さんからの問いかけにハーンが反応しないらしいんだ。そしたら〈帳〉さん、妙に険しい顔になってさ。どうしたのかって訊いたら、〈帳〉さんもよく分からないって言うんだ」
「それから?」ライカは先をうながす。
「今のところはそこまでだ。〈帳〉さんも、出発の準備はしておけって言ってたけど、あの顔つきだと、どうなるかは分かんないな。でも俺はさ、ハーンがどうなっちゃったのか分かんないんだったら、ハーンを追っかけなきゃ、と思うんだ。大体の場所は、〈帳〉さんがつかめるんだから」
「〈帳〉さんが、行くのに反対だって言ったらどうする? 時期を待てって感じで」 
「かけ合ってみるつもりさ。ライカはどう思ってるんだ?」
 ライカはしばらく思案するふうを見せたあと、ルードの肩に頭を預けた。
「わたしもハーンのことが心配。ルードの話を聞いてると、やっぱりここから出たほうがいいかもしれないわね?」
「……多分、危険なことになると思うけど、……それでも……付いてきてくれるのか?」
 ライカは頭を預けたまま、うなずいた。
「まさか、わたしをここに置いていくつもりだった?」
「それもちょっとは考えたかな?」
 ルードの軽口に対してライカは顔を上げて、わざとらしくふくれっ面をしてみせる。
「まあ、でも……、約束してるからな。ライカを、もといた村に戻すって……。だから……」
「だから?」
 横を見ると、ライカが何やら言いたげな眼差しでルードを見ていた。ルードは顔を赤らめて、言おうとしていた言葉を引っ込めようとした。
「ルードはどうしたいの?」
 ライカは納得せずに訊いてきた。もはや言うべき言葉は一つしかない、というのに。
「俺に、付いてきてほしい」
 その一言にライカは破顔した。
「それでこそルードよね! わたしの思ってるとおりの、ね!」
 心地よい風が二人に吹き、林を駆け抜けていく。二人はしばらく、そのままの姿勢で風と、互いへの想いを感じていた。

 ややあってルードは立ち上がる。剣をゆっくりと右に左に振って、その刀身の光るさまを見ていた。ライカのほうを見ないのは照れ隠しのためか。
「なあ、ライカ」
「なあに?」と、どこか楽しそうなライカの声。
「とにかく、俺は今日、〈帳〉さんにかけ合ってみようと思ってる。あの人だって分かってくれるさ。って、……何だ?」
 ルードは耳を疑った。風に乗って、声が聞こえたような気がしたからだ。女性の声。それはライカでも、従姉のミューティースでもない。しかし、どこかで聞き覚えのある声――。
「どうしたの?」
「空耳? でも土がざわめいてる」
 ルードはすくりと立ち上がった。
「こっちに……何かある!」
「ルード?」
 ライカは、林の中へと入っていくルードを追いかけた。草の中を進むルードの歩き方に一切の迷いはなく、まるで見知った道を歩いているように見えた。腰のあたりまで茂った雑草をかき分けるのに苦労しながらも、ライカはルードに近づいていき、彼の肩をつかんだ。
「ルードってば、どこへ行こうっていうのよ?」
 ルードはぴたりと歩くのをやめ、肩に乗せられたライカの手を握った。
「ライカ、俺は誰かに呼ばれたんだ。それがなんなのか……、知っているようで分からない。なんて言うかまるで――」
「夢の中の出来事のような、きわめて漠然としたイメージ……。私はそう言ったわ」
 背後で聞こえた女性の声に、二人ははっとして振り向いた。  今まで薄もやがかかっていたようなルードの曖昧な記憶が、瞬時にして鮮明になる。二ヶ月前、疾風の手にかかって死にかけたルードは、意識のみが飛んでいき、その行き先は――“次元の狭間”――“イャオエコの図書館”――。
「……図書館……本……。そうか、あなたは!」
「お久しぶりね、ルード」
 かつて会った時と同様、神秘的な雰囲気を身にまとう彼女。ルードの進むべき道を知っている、司書長のマルディリーン。
 思いもかけぬ場所での再会であった。




 四.

「どうやらその顔では、なぜ私がこの世界にいるのか不思議がっているようね。違っていて?」
 マルディリーンは会釈をすると、静かに言った。
「そ、そのとおりだよ。あなたは、この世界の住人じゃないはずだぜ?」
 ライカはことの成り行きに戸惑いをみせた。
「セルアンディルになったバイラルの少年と、アイバーフィンの少女が、この閉ざされた世界にいるとは。これは面白い組み合わせだわね?」
 マルディリーンは、事態についていけず顔を見合わせる二人をよそに、くっくっと笑った。 
「ああ、失礼。悪気はないのですよ。そうそう、アイバーフィンの娘よ。あなたとは初対面でしたね? 私はマルディリーン、といいます」
「マルディリーン、ですって?」
 ライカは、ぽかんと口を開けた。
「マルディリーンって、あの、まさか……」
「“真理の鍵を携えし者”。数十年前に私のもとへ来た老アイバーフィンが私をさしていった言葉です」
「はっ……はじめてお目にかかります!」
 動揺を露わに、ライカは深く頭を垂れた。
「……そう萎縮する必要などないでしょう? ルードのように堂々としていればいいのですよ」
「それは……ルードが、あなたのことをよく知らないからだと思います。わたし達にとっては、やはりあなたは……」 
 マルディリーンの目を見ることすら畏れ多いように、ライカは下を向いたまましゃべる。
「ライカ? 俺が知らないって……どういうこと……?」
 ルードはきょとんとして、ライカに訊いた。しかし、ライカは答えなかった。
「……ルード。私は“イャオエコの図書館”の本達をとおして、世界の本質を追い求める者です。図書館を訪れた者に対して、真実を伝える者です。そして、世界の動向を見つめる者――ディトゥア神族のひとりです」
「え? ディトゥア神族? あなたが!?」
 ディトゥアの名は、〈帳〉の館での滞在中、幾度となく〈帳〉から聞かされた。
 世界には二つの神族が存在する。一つは、アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族。もう一つが、アリューザ・ガルドの運行を任されているディトゥア神族だ。
「でも、神様がこんなところにいるなんて。考えられないよ」
「しかしそうは言っても、現に私はここに顕現している」
 と、マルディリーン。
「確かに、フェル・アルムと名付けられたこの空間に住む者は、ディトゥアのことなど知らないはず。しかし世界は人間のみの力で成り立っているわけではありません。自然の力、精霊達のはたらき……何より、それら全てを包括して存在する“色”。そういった人間以外の“力”が折り重なって、世界というものは存在しているのです。この閉じられた世界では、それが認知出来ないのが不幸なのですが、ルードよ、いずれ分かるでしょう。アリューザ・ガルドに来ることによって」
 マルディリーンの言葉は、一つ一つが大きな意味を持つようであった。ルードは不意に、彼女の背丈が何倍に大きく見える気がした。
“神”。
 ルードにとっては未だに途方もない言葉であるが、その偉大さの断片をかいま見たようにも思えた。
「俺がアリューザ・ガルドに来る、か。それって意味深だな」
「なぜ、そう思って?」マルディリーンが言った。 
「俺は、ライカを……この娘を元の世界に戻してやりたい、ただそう思ってた」ルードはライカの肩をつかんだ。
「でもさ、今となってはそれだけじゃ駄目なんだ。このフェル・アルムの全てを、アリューザ・ガルドに戻さないといけない。あなたが今言った、『アリューザ・ガルドに来る』というのはそういう意味だと思う……違いますか?」
「そのとおり。この世界を還元する、というのが我らディトゥアの総意です。私の役割は、この世界を変革しうる人物に、助言を与えることです」
 マルディリーンは、どこからともなく、本を取りだした。さながら、空間の隙間から本がいきなり出現したかのような、そんな奇妙な取り出し方だった。
「……あなた方の行動は、本を通して知ることが出来ました。でも、この後どうなるのか、私には分かりません。『記憶の書』は、現在までの事柄を紡いでいるものであり、未来のことには言及されていないものだから」
 彼女はそう言いつつ、ぺらぺらと頁をめくっていった。
「ふむ、ここね……」
 マルディリーンはその頁を読み終わると、顔を上げた。
「では、ルード、それにライカよ。これからあなたがたの為すべき道を語ります」
 マルディリーンの一言は玲瓏《れいろう》と周囲に響きわたった。その声は、今まで聞いたあらゆる声のなかでも、最も気高いもののようにルードには聞こえた。
「スティンの村――ルードの故郷へ行きなさい。会うべき人がいるはずです」
「会うべき人?」
「ハーンのことじゃないかしらね? ……多分」
 二人は顔を見合わせた。
「マルディリーン様。その人の名前は、ティアー・ハーンというのでしょうか?」
 ライカは相変わらずかしこまったままだ。
「あ、そうですね。名前、名前……」
 マルディリーンは慌てたように頁をめくる。その焦ったような仕草は妙に人間味を感じさせるものだった。
「名前……無いわね。失礼。あなた達と関わり合いのある人の名前が、なぜ書かれていないのかしら? 助言者として、明確な言葉が出せないのはあってはならないのですけれど……とにかくあなたとしばらく前に行動をともにしていた人のようですね」
「じゃあ、やっぱりハーンだ。でも、ハーンはクロンの宿りにいるはずなんだけど?」
「あなた達が着く頃には、おそらくかの地から離れているのでしょう。それ以上は私も分かりません」
「そうですか……じゃあ、ルシェン街道を北回りして、クロンの宿りを通っていったほうが、ハーンに会えるかな?」
「北には行くべきではないわ!」
 マルディリーンは強く言った。 
「それは太古の“混沌”が、ここに至ってついに昼の世界をも蝕もうとしているから。夜を覆い尽くして力を得た“混沌”は、今度は大地を腐らせながら南下を始めているのです」
 そう言っている間に、マルディリーンの身体は徐々に透き通り、足下からうっすらと姿をなくしつつあった。
「マルディリーン様……」ライカが手を伸ばす。
「私がこの世界に干渉出来る時間が、無くなったようね……」
 マルディリーンは自分の身体を見やりながら言った。
「アリューザ・ガルドへ還元するすべと、“混沌”に抗うすべ。それは我らディトゥアの力を持ってしても解が出ませんでした。しかしながら、『二つの大いなる“力”』が来たるべき終末に向けて唯一の救いとなる。“慧眼《けいがん》の”ディッセはそう語ったわ」
「『二つの力』だって?」と、ルード。 
「一つはガザ・ルイアートでしょう……もう一つって?」
「我が父ディッセなら分かるのでしょうが、私には分かりません。とにかくスティンに行くことです。急がねば! 全てが動き出しているから。あなた達ならきっとやり通せる。私はそう思っているわ……」
 もはや姿を無くしたマルディリーン。その声すらも徐々に小さくなり、やがて消え失せた。
「マルディリーン……」
 ルードとライカは、林の中、今までマルディリーンが確かにいた低木のあたりを見つめ、しばしたたずんでいた。
「ことは急がねば……か」ルードはひとりごちた。
「マルディリーン様が来るなんて……やっぱりとてつもないことになってきてるのね……。あの方は、アリューザ・ガルドにだって姿を見せたことがないはずなのに」 
 ライカは考えるルードの横顔を見て言った。そして息を吸い込んで……。
「うん! ……行こう? ルード!」
 ライカはルードの手を取ると、足早に歩き出した。
「ライカ?」
「ことは急がなきゃならないんでしょ? だったら〈帳〉さんのところに行って、かけ合ってきましょうよ、二人で、ね!」
 ライカは目配せをして答えた。 

 五.

 〈帳〉は厨房で、畑の野菜の仕込みにかかっていた。が、あわただしく館に入ってきたルードとライカの様子がいつもと違うことを察し、朝食の支度を中断して、少年達の語ることに聞き入った。 
 マルディリーン、彼女の提言、太古の“混沌”の侵食――。二人の口からそれらを聞くにつけ、〈帳〉ですら驚きを隠せなくなっていた。
「なんと、マルディリーンとは! 久しくその名を聞いていなかったな」
「知ってるんですか?」と、ルード。
「知っているとも。私がまだ深緑の髪を持つエシアルルだった頃、ディッセの野でたびたびお目にかかったことがあるからな」白髪のエシアルル、〈帳〉は言った。
 エシアルルは森の護り人。彼らはアリューザ・ガルドで生を受けておよそ二百年を経た後に、肉体と魂を分離させる。魂は次元の狭間にある“ディッセの野”に赴き、そこで彼らは百年の時を過ごすのだ。その後再びアリューザ・ガルドに帰還し、肉体を目覚めさせる。――長い人生のなかでエシアルルは幾度となくこの周期を繰り返す。
「マルディリーンがこのフェル・アルムに現れた、というだけで十分驚きに値するのだが、かの方がそのように言われたのであれば……。ライカ、とりあえずあり合わせのもので食事を作っておいてほしい。そのあと、自分の支度に取りかかりなさい。我らは出立する」
「は、はい!」
「ルードは……身の支度を整えたあと、馬を玄関口に連れてくるのだ」
「そうすると、今日から遙けき野越えなんですね?」
 ルードは、あの厳しい道のりの記憶がよみがえった。また一週間近く、あの苦しみを味わわねばならない。それは全く乗り気がしないことである、が、荒野を越えない限り、スティンには行き着くことが出来ない。
 ルードの言葉を聞き、〈帳〉は顎に手を当て考えた。
「……いや、急がねばなるまい。ここはルシェン街道まで、ひといきに移動しよう」
 その言葉を聞き、ルードとライカはぽかん、と口を開ける。どうやったら行けるというのだろうか? 
「つまるところ魔導を用いよう、というのだ。さすれば一刻もかからずに遙けき野を越せるだろう」
「へえ……」ルードは驚嘆の声を漏らす。
「でも〈帳〉さん」とライカ。「それだったら、一度に高原まで行けないんですか?」 
「残念ながら、それは叶わない。枯渇した私の魔力では、遙けき野越えで精一杯だろう。……とにかく今はなるべく急ぐことだ。魔導の行使により私は疲労するだろうが、三人ともに疲れ果てるよりはましだろう。ただ、もし何か起きたとしても、しばらくの間は微弱な術しか使えん。その時はルードの剣に頼ることになるな」
「じゃ、とりあえずわたし、食事の準備をしますから……」
 言うなりライカは機敏に、洗い場に向かった。
「ルードも、はやく支度なさーい?」
「……分かったよ」
 ライカに急かされたルードは急ぎ足で食堂をあとにする。
 〈帳〉もまた、勝手口から館の外へと出ていった。彼が育てた畑の野菜や、牧場の動物達――。『〈帳〉の館』という名の小さな世界の住人達に、おそらく別れを告げるために。それが永遠のものではなく、しばしの別れに過ぎないようにと〈帳〉は世話をし、祈るのだろう。

 三人がそれぞれの支度をし終わり、玄関に待たせていた馬に乗る頃、太陽はすっかり昇って、初夏の日差しをさんさんと注いでいた。しかし――。
(本当にそのかっこうで旅に出るのか?)
 二人の旅装束を見た時のルードの素直な感想である。
 ライカはまだいい。わずかに紫がかる銀髪は、確かにこの世界にはあり得ない髪の色だが、それ以外はいたって普通の少女なのだから。問題は――。
「あのう、〈帳〉さん、こんなこと言うのは何なんですけど」
 ルードは少々恐縮しながら〈帳〉に話しかけた。
「ええと、その格好……かなり目立ちませんか?」
 ルードの言うとおり、雪のように白い髪を惜しげもなくさらした〈帳〉のなりは目立ち過ぎる。エシアルル特有の端正なかんばせを持ちながら、両の目尻から頬にかけては臙脂に彩られた刺青を入れている。そして袖周りに刺繍の施された、ゆったりとした臙脂のローブ。
「問題はなかろう?」
 ことも無げに言う〈帳〉本人は、気にする様子すらない。
「北には行けぬ以上、サラムレを経てスティンに向かうほか無い。サラムレでは、この程度のなりをしていても別段問題ないだろう」
 商人達が多く集う水の街サラムレには、目立つ衣装をまとった芸人が多くいると、ルードも聞いていたが。
「でも! サラムレに着く前、疾風達に出くわすかもしれないしさ……」
「それもあるな……。“惑わしの術”を唱えて、私達の本当の姿を見えにくくしておくか。そうすれば、よほど疑いの眼差しで見られない限り、打破されることはないだろう。デルネアと、彼の麾下《きか》をのぞいて、であるが」
 〈帳〉は、ルードの肩をぽん、と軽くたたく。
「私はかつて、デルネアに会うためにフェル・アルム南端のトゥールマキオの森に赴いたことがある。十三年前、ハーンを救い出した直後の混乱期にな。その時も、このような身なりについて人に問いただされることなくデルネアのところに行けたのだ。おそらくは大丈夫だろう。……それに、私達の姿かっこうをどうこう思う余裕など、人々にはなくなっているかもしれん」
 ルードも、少し心配ながらも、それ以上の言及はやめた。
「さあ、結界を解いて、館の外に出よう。集まりたまえ」
 〈帳〉が言うと、ルードとライカは馬を従えてひとところに集まった。新たな旅の一行となる彼らは、互いの目を見合わせる。決意のほどを確かめるように。
 ルードとライカは目を閉じた。聞こえてくるのは、いつもと違う〈帳〉の声。呪文の詠唱は低い声で、うねるように続いている。徐々に、徐々に、足下の感覚が変わってくるのが分かる。

「……目を開けていいぞ」
 〈帳〉の言葉を聞き、二人は目を開けた。広がるのは二週間ぶりに見る一面の荒野だ。しかし――。
「あ! 見てよ、あれ! ルード!」
 叫ぶライカが指さす方向をルードは見つめる。
「う……」
 声にならない。
 北方。天上の青空とは明らかに異質な黒い空が覆っている。二つの空の境界は、まるで波打ち際に押し寄せる波のようにゆっくりと揺らいでいた。
 自ら意志を持っているとも思わせる黒い“混沌”――。
「見るに耐えんな……。あれこそ、空間の歪みが呼び寄せた“混沌”だというのか……」
 さすがの〈帳〉も眉をひそませる 
「〈帳〉さんの館だと、空はあんなふうには見えなかったのに……。青い空が悲鳴をあげてるみたいで、とっても恐い……」
 両の腕を押さえたライカは、今にも震えそうだった。
「私の館か……。いつの時代にあってもあの場所は、隔絶された安らぎの場所であるからな……」
 そう言って〈帳〉は結界の向こう、館があったであろう場所を振り返った。
「結界のなかの小さな世界、か。結局のところ六百年間、デルネアと同じことをしていたに過ぎないのか? 私は……」
 〈帳〉の漏らした嘆きは、大きな哀しみに満ちているように、ルードには聞こえた。




 六.

「魔導を行使する前に、一つ言っておくが……」
 〈帳〉が言った。
「何が起きても、決して悲鳴や、驚きの声を上げてはならないぞ? 魔導の発動に影響を及ぼすやもしれぬからな」
 二人はとりあえずこくりとうなずいた。何が起きるのか聞き出そうとしたのだが、目を閉じて両の手を高く掲げる〈帳〉を見て、言おうとした言葉を飲み込まざるを得なくなった。〈帳〉が意識を極限まで集中させているのが分かる。

《ウォン!!》
 そう発音されたことばをあたりに凛と響かせて〈帳〉は両の腕を素早く真横に広げる。すると、〈帳〉の両の手から深緑の色を持つ、波のようなものが周囲に広がった。あたかも水面に落ちた石が、波紋を広げるかのように。深緑の波は、二十ラクほどの大きさのところで広がりを止め、上下に少し揺らめきながら留まっている。
 〈帳〉はかっと目を見開き、次のことばを発した。
《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》
 瞬時に深緑は薄い壁となって、まるで天球儀のように三人を包み込んだ。その変化の様子に呆気にとられたルードは、せめて驚きの声は上げまいと、手を口に当てた。
 〈帳〉は複雑な抑揚をもって呪文を唱えていく。すると周囲の岩、土、草木からほんの一瞬ではあるが何かしらの光が煌めく。そのたびに〈帳〉は詠唱を中断し、目を閉じる。おもむろに両腕を天に掲げ、楽師のように細かく複雑に指を動かす。すると先ほど、土や草から煌めいていた光の点は、明確な色を伴って半球に張り付き、〈帳〉の指の動きに合わせて半球上に線を描く。と、それらの線は、やがて二重三重に絡み合い、奇妙な模様をいくつも作りあげていく。
 絶えず色彩が移り変わる、繊細かつ不思議な模様。
 それこそ、魔導の威力を強大なものとする“呪紋”である。

 魔導の行使は絶え間なく続き、どれほどの時が経ったのか、ルードには分からなくなっていた。ライカもまた、馬の背をなでながら目をぱちくりさせ、手を口に当てて周囲をきょろきょろと見回すのみ。二人がただ驚くなかで、〈帳〉ひとりが奇妙な詠唱を続けていた。
 ぴたりと。
 詠唱の声がやみ、二人は〈帳〉の動作を見守る。〈帳〉は二人を交互に見やり――。
 最後の言葉を発した。
《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》
 瞬間。
 半球上の全ての呪紋は、それぞれの持つ色を膨らませて霧散した。大きな半球は一点に凝縮し、それまで三人の周囲にあった全ての色彩、情景が消え失せた。そして凝縮された球は、閃光のように光り輝く。、ルードはまばゆさのあまり目を閉じた。

 ルードが気付くと、彼ら三人とその馬達は、七色に光る球の中にいた。足下にはごつごつした地面の感触はなく、ふわりとした浮遊感に包まれていた。
(この感じ……似たようなのを感じたことがあるような……)
 ルードは正面にライカの姿を認めた。ライカもルードを認め、戸惑っているのか苦笑を浮かべた。
(そうだ。ライカと初めて出会った時、こんな感じだったっけ。もっとも、あの時のほうがとんでもなかったんだけどな……。少しの間だけど、世界を乗り越えちゃったんだからな)
 〈帳〉は、苦しそうに息をしながら膝を抱えてうずくまっていた。それを見たライカが近づこうとしたが、〈帳〉は右手を挙げてそれを制した。やがて〈帳〉は顔を上げて言った。
「私は……大丈夫だ。久々に大きな魔力を解放したので少々疲れただけだ。心配せずともいい」
 そう言った〈帳〉の声は、やはり弱々しいものだった。
「もうすぐ、この球体はなくなる。その時は遙けき野を越えているだろう……」
 〈帳〉は再び顔を伏せた。
 ルードが周囲を見ると、なるほど確かに球体をかたちづくる色が徐々に淡くなっている。色が失せたその時、ルードは再び、自然の持つにおいを強く感じはじめた。
 ルードがふと気が付くと、あたりは一面の荒野ではなく緑の絨毯が覆う野原だった。
「どうにか成し得たようだな、遙けき野越えを……」 
 近くに立っていた〈帳〉が言った。しかし、見るからに朦朧としており、いつ倒れてもおかしくないようだ。
「〈帳〉さん!」
 ルードが駆け寄って、〈帳〉の身体を支えた。〈帳〉は安心したのか、そのままゆっくりと腰を下ろした。
「〈帳〉さん?」と、ライカも駆け寄ってくる。
「大丈夫だ」大きく息をついて〈帳〉は答える。
「転移の魔導は、本来の空間をねじ曲げ、人を瞬時に移動させるもの。魔導の中でも高度な部類に入るものだ。空間の理《ことわり》は、我ら人間には理解しがたいものゆえ、あやまたずに魔法を発動するには、相当の知識と魔力が必要なのだ」 
 ライカが持ってきた水筒の水を飲み干すと、〈帳〉は礼を言ってゆっくりと立ち上がった。
「ともかく、皆が疲れず、かつ迅速にここまで来るのには最良の手段であった。あとは軽くまじないがけをして、私達の身なりを惑わすようにしてから……出発しよう」
 〈帳〉はそう言って、二言三言唱えると、ライカの頭に手を触れ、ついで自分の頭にも手を触れた。“惑わしの術”を唱えたのだ。
「これでいい。さあ、出発しよう!」
 一行は馬を歩ませ始めた。




 七.

 一行はほどなく、ルシェン街道に辿り着いた。そして黒い空とは反対の方向、サラムレへ向けて再び歩みだした。
(でも……)
 『奇異に映ることはない』と〈帳〉は言った。ルードは真横にぴたりと馬を付けるライカを見た。
「うん、何?」 
(やっぱり、銀色だよなぁ)
 ルードは、風になびくライカの髪を見た。〈帳〉はまじないがけをしたというが、ライカの髪はルードから見ても銀のままだ。
「どうしたのよ? 変な顔しちゃって」
 怪訝そうにライカが言う。
「いや、あのさ……」
 どうも言い出しにくいルードは、後ろの〈帳〉をちらと見た。〈帳〉も遠目から見て、やはり何ら変わるところがない。
「〈帳〉さんの姿だけどさ。ライカから見て、どう?」
 ルードは小声でライカに訊いてみる。
「どうって……普段どおりよね。あ!」
「俺にもいつもと同じに見えるんだよ。……あと、ライカの髪の色も、変わってないんだけど」
「じゃあ、まじないがけがうまくいってないってこと?」
 ルードはうなずく。
「それ、まずいわよ。このままだとばれちゃうんじゃないの?」
「そうだよなあ……ライカ、ちょっと言ってやったら? 術がかかってないんじゃないかって」
「そんなぁ……そんなこと〈帳〉さんに言えると思う? 〈帳〉さんだって、術がかかってると思ってるわけでしょ? 私が言ったら気落ちさせちゃうわ、多分。……ね、ルードが言ってきてよ」
「いや、俺が言うよりライカが言ったほうがいいと思うぜ」
 館の生活で〈帳〉は基本的に二人の馴れ合いについてはハーンと違って頓着しなかったが、聞こえてくる言葉の端々に自分の名前が出てくるのが気にかかり、声をかけた。
「どうしたというのだ。何かあったのか?」
 そう言って馬を歩み寄らせる。
「あ、いや……」ルードはライカの顔を見る。その顔は、ルードから話して、と言いたげであった。ルードは仕方なく、〈帳〉に言うことにした。 
「その、俺から見て……〈帳〉さんとライカが、普段と変わらないように見えるんですけど……」
 それを聞いて、〈帳〉はほくそ笑む。
「君は私達の本当の姿を知っているから、まじないの効き目がないのだ。他人が見れば、私もライカも、フェル・アルムの住人として、平凡ななりをしているように見えるだろう」
 〈帳〉はそう言って、前方を見据えた。
「……ちょうどいい。見たまえ、ほら……あの人で確かめてみることにしよう。見えるか?」
 ルードが再び前方を見ると、向こう側から人影が近づいてくるのが分かった。
「……確かめるって?」
「挨拶でもしてみるのがいいだろう」と〈帳〉。
「ルード、まかせたわよ。私はここの言葉、分かんないから」
 ライカはそう言って、ルードの後ろについた。

 そうこうしているうちにルード達は、向かってくる人の輪郭までつかめる位置まで近づいた。
 女性がひとり。年の頃は二十五くらいだろうか。一見華奢にも見えるが、長い道のりを徒歩で越そうとするあたり、意外に旅慣れているのかもしれない。
 彼女のほうもちらりとルードに一瞥をくれる。彼女はそっと手を挙げ、挨拶した。
[こんにちは。歩きだと大変じゃないですか?]
 ルードはフェル・アルムの言葉で声をかけた。
[こんにちは。そうでもないわ、歩くの、慣れてるから]
 女性はさばさばした口調で答えると、ルード達のそばに寄ってきた。
[そっちのほうこそ大変ね? 女の子連れ? クロンからは結構遠いでしょうに。まさか駆け落ち、とか?]
 彼女は冗談だと言わんばかりに笑いながら、どこかで聞いたような言葉を言った。
[ははっ、恋の逃避行? そういうのだといいんですけどね]
 ルードにしては珍しく、さらりとかわした。
[サラムレまで、どれくらいあるのかな……まだ長いんでしょうか?]
[あと一日もあれば着くわよ。長旅お疲れさま。あら、そちらは芸人さん?]
[どうも]芸人と呼ばれた〈帳〉は会釈した。臙脂のローブを着ている彼がそう見られても不思議ではない。[サラムレの様子はどんな感じだろうか? しばらくあちらには行ってないんでね]
[そうね……]彼女は顔を曇らせ、あご先に指を置く。
[気を付けなさい。サラムレ……というより、南部中枢から色々変な話が入ってきてるから。もし南方に行こうというのなら、考えなおしたほうがいいわよ]
[変な話……? たとえばどういう?]ルードが訊く。
[それはあたしが言うより、自分の耳で聞いたほうがいいわね。とにかく尋常じゃない事態になってるのは間違いないわ。……見なさい、あの黒い空。この世界中で異変が起きようとしているのよ]
 彼女は顔をしかめて北方を見据えた。そして一言。
[ニーヴル……と言われている連中、聞いたことがない?]
 その声色は心なしか、今までと違った冷たい響きがあった。
[ニーヴルってあのニーヴルですか?]
 眉をひそめてルードは訊いた。
[そう。十三年前に忌まわしい事件を起こした、あのニーヴルよ。彼らが再び現れて、この異変を生み出してるの。奴らは北のほうに集まってるって聞いたけど……何か知らない?]
[知らないな……すまないが、どこから聞いたんだ、その物騒な話は?]〈帳〉が言う。
[サラムレじゃあ、街中の話題よ! 中枢のほうでもそんな話で持ちきりだと聞くわ。……まあ、あたしは行くわ。にっくきニーヴルめ、どこに隠れてるのかしらね!]
 彼女はそう言って再び歩き出した。
[お気を付けて。また会えるといいわね!]
 彼女は手を振って、北へと歩き出した。ルード達も手を振って彼女と別れた。

「ふぅー……」ルードが息をつく。
「ルード、あの人なんて言ってたの?」
 早速ライカが訊いてきたので、ルードは会話の内容を話した。
「よかったねルード、ちゃんとまじないが、かかってるじゃない! ……でも南の噂とか、ニーヴルとか、気になることもいっぱいあったわよね……」
「しっ……」声を出さぬようにと〈帳〉が制した。
「今、アズニール語をしゃべるべきではない。……あの女……間違いなく疾風だからな」
「うそっ!?」
 ライカは驚きの声を上げ、はっとして振り返った。疾風と言われた女性は、こちらを振り向かずに歩いているので、ライカは安堵した。
「……そうなんですか?」
 〈帳〉はうなずいた。
「サラムレからクロンの宿りまでの長い道のり、訓練もしない普通の人間が、あんな少ない荷物で過ごせるはずがない。あとは、雰囲気だな。ニーヴルに対する敵愾心《てきがいしん》の強さが伝わってきた。……ルードは何も感じなかったか?」
「あ……」 
 会話に精一杯で何も気付かなかった。ルードは唇をかんだ。ハーンが自分の立場だったらそうはならなかっただろう。そう考えると、自分の至らなさに腹が立った。
「まあ、そう自分を責めるでない。私とて、話してみるまでは疾風だとは分からなかったのだ。安易に確かめようとした私にも責がある、というもの」
「〈帳〉さん」とライカ。
「あの人、ニーヴルが異変を生み出しているって言ってたのでしょう? それって本当なんでしょうか」
「この世界の異変には、ニーヴルなどよりもっと大きな“力”が働いている。そう聞かせなかったかな?」
「ええ……でも……」
「ライカよ、もっと自分自身の心を信じることだ。君はこう思っているはずだ。一連の事件でニーヴルは一切関わっていない、と。……しかし、疾風がああも断定する以上、これは単なるうわさ話とは言えんな。裏がありそうだ。デルネアが何らかの意図のもと、噂を流布させている、ということも考えられる。……とにかく。サラムレまでそう遠くないところまで来ているのだから、行くとしよう。サラムレで何かしらの話が聞けるだろうしな」
 サラムレ。フェル・アルム中部域に位置する水の街では、どのようなことが聞けるのだろうか? 何より、南部から伝わってきている妙な話とは?
 ルードの横にぴたりとライカが寄り添ってきた。心なしか、彼女にいつもの活気がないようにも見える。
「恐いのか?」
 ルードの言葉にライカはうなずいた。見上げる顔には不安の色がありありと浮かんでいる。いつもの活発な彼女ではなく、か弱い少女がそこにいた。
 ルードは馬上から手を伸ばすと、ライカの手を握った。
「大丈夫だ」
 ライカも小さくうなずき、手を握り返してくる。
「……ありがとう」少し、笑みが浮かぶ。
「……大丈夫」ルードは繰り返した。ライカと、そして自分自身を励ますように。
 焦る心、はやる心を抑えつつも、二人の思いはサラムレへと向いていた。世界に起きている異変を一刻も早く知りたい、という切なる思い。何より、ライカの願いとルードの使命を達成するには、異変を打破しないとといけないのだから。
 あとに続く〈帳〉は後ろを振り返る。北方を包むは、とてつもなく黒い空。
(あの空の下はどうなっているというのだろうか? そしてハーン、あなたほどの人物が、どうしたというのだ……?)

 ルード、ライカ、〈帳〉。彼ら一行はサラムレを目指す。 
 馬達もまた、後方の凶兆を恐れるかのように地を蹴るのだった。




 八.

 同じ頃、七月三日。北方のクロンの宿り。
 大いなる災いはいよいよ現実のものとなろうとしていた。

 昨晩、ハーンはスティン山道の手前にある野営地で魔物を倒したものの気を失ってしまった。その後ディエルは旅商達の力を借り、ハーンを連れてクロンの宿りに戻って来ていた。〈緑の浜〉の主人ナスタデンのもとにハーンを連れていったのは、またしても夜が明けきらないうちだった。寝ぼけまなこのナスタデンは、朝早くの来客に文句をたれるどころか、ただ驚きの声を上げるばかりだった。
[ハーン?! どうしちまったんだよ!]
 馬上に横たわるハーンを見て、ナスタデンが言った第一声である。

 夜が明けて、昼が過ぎ、夕方が近づいてもハーンは目覚めなかった。昼頃にただ一度、何がしかのうめき声を上げたのを除いて。その間中、ディエルはハーンの傍らで様子を窺っていた。
 ただしディエルの心にあるのは、いかにして“力”を入手するか、ということと、いかにしてこの世界から一刻も早く抜け出すか、ということ。滅びを迎えようとしている世界の住民に同情している余地など無かった。

 どたどたと廊下を歩く音が聞こえ、どんどん、と荒っぽく部屋の扉が叩かれた。
[ハーンは? まだ起きてないのか?]
 外から聞こえるナスタデンの声は、どこか焦っているようにも感じられる。
 ディエルはとたとたと戸口に近づくと、少しだけ扉を開けた。ナスタデンは扉を開けてハーンに近づくと、彼の肩を持って揺り動かす。
[頼むから起きてくれ、ハーンよ!]
[無理だと思うよ? 何回も試したけど、全然起きないんだ]
 ナスタデンはハーンを起こそうと色々試したが、やはりハーンは目覚めなかった。
[こんな時なのに、ハーン! お前の力が必要なのに!]
 首を振り、諦めた主人は部屋から出ようとした。
[あんた!]
 朗らかな表情を浮かべた夫人がナスタデンと鉢合わせた。
[あんた、大丈夫だよ。“あれ”はゼルマンが倒したって、今ベクトから聞いたんだよ]
[本当か!? ゼルマンが……ならよかった……] 
 ナスタデンは安堵の溜息をついた 
[ほんと、一時はどうなることかと思ったがな……みんな大丈夫なのか?]
[ゼルマンも、肩を怪我したらしいけど大丈夫だってよ]
 と夫人。
[で、……ハーンはずうっとお休みのままなのかい?]
[ああ、まだだめだ。よっぽど疲れているのか……とにかく一難は去ったんだ、ハーンは寝かせておこう]
 ナスタデンは言った。
[ねえ、一難って……何があったんだよ?]ディエルが訊く。
[得体の知れない……化けもんがな……あれはもう、化けもんとしか言いようがないが――とにかく熊みたいな化けもんがクロンの外壁に突進してきてよ、衛兵が何人かやられちまった。……あんな恐ろしい目に遭うのはたくさんだ! あんな動物がいるなんて、聞いたこともないぜ!]
[化け物だって?]とディエル。
[でも大丈夫だよ]
 夫とディエルをなだめるように、夫人が落ち着いた口調で言った。
[過ぎたことだ。……ディエル、脅かしちまって悪かったね。ハーンのこと、見てやっておくれよ?]
 夫人は、未だ激している夫の背中をぽんぽんと叩きながら、部屋を出ていった。

「化けもんねぇ……。まぁ、並のバイラルが倒せるくらいだから、大したやつじゃあないんだろうな」
 静かになった部屋の中、ディエルはひとりごちた。
「でも、これからこの世界、さらに荒れてくるんだろうな。それだけは間違いない……」
 ディエルの予感はやがて現実のものとなり、フェル・アルム北部を震撼させることとなる。

 遠雷は徐々に近づき、嵐をもたらす。ついに河は決壊し、濁流となって大地を根こそぎ奪い去ろうとする。
 ――その時は間もなくやってくる。


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