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第二章 ためらい

「あんた、土曜日やいうのに仕事に行くの?」

 亜希子は、朝食を終え、ダイニングテーブルで新聞を広げていた息子に不機嫌そうな顔を向けた。

「ああ。須磨店の土日の様子を把握しなあかんから。明日も朝から行くつもりや」

 新聞越しに彼が答えると、亜希子は五十過ぎの下がった頬を手で持ち上げるように、ダイニングテーブルに頬杖を突いた。

「美紀さんは?」

 かさりと新聞が半分に畳まれて、眉根を寄せた息子が目を向ける。への字の口元が、亜希子の問いを拒もうとしているが、母親としては我慢できない。

「まだ東京に行ったわけではないんでしょ? 美紀さん」

 きちんと畳んだ新聞をポンとテーブルに置くと、溜息まじりに短い言葉が返ってくる。

「今日と明日は、東京で家捜ししとる」

「美紀さん、東京なん? あんたもついていったら良かったのに」

「あほいうなよ」

「あほはあんたやない。結婚考えてる人が遠くへ行くいうのに、そんなに落ち着いていていいん?」

「本人が決めてるのに、どうにもならんやろ」

「あんたは男やから三十になろうが四十になろうがいいやろうけど、彼女はそういうわけにいかんでしょ! 高齢出産は恐いんよ。ちゃんと話はしてんの?」

 息子は疎ましそうに顔をしかめて立ち上がると、隣の椅子に掛けていたスーツの上着に袖を通す。亜希子は睨みつけるように、その様子を見ていた。

「話はしたって、昨日も言ったやろ。美紀は結婚云々より、新しいチャンスに掛けたいんや。そのためにいままでがんばってきたんやから」

「あんたはそれでええん?」

 向けられた矛先が余程的を射たのか、息子が息を詰まらせるのを亜希子は見て取った。しかし大きく溜息を零しただけで、上着のポケットを確認して、さっさと出かけようとしている。

「歩!」

「先のことはわからん。とにかく行ってくる」

 亜希子はブリーフケースを肩に掛けた息子が玄関から出て行くのを見送った。玄関ドアが閉まる音がすると、亜希子は大きく溜息を吐いた。

 二年まえに娘を嫁に出したときと勝手が違うとは思うが、大学時代から付き合っていた美紀を四年ほど前に紹介されてから、息子の嫁は彼女だと疑いもしなかった。結婚をいつ言い出すかと心の準備はしていたのに、当の本人から彼女が東京へ行くなどと平然と言われ驚くばかりだ。美紀が息子に不満を持っているのかも知れないと案じる。いつも冷静で思いやりもある自慢の息子だが、自立して男と同等に働いている美紀からみたら、頼りないのかも知れない。亜希子の前でも二人は、恋人というよりは気の置けない友人という風にも見えた。

「そりゃあ、十年以上も付き合っているんやから」

 亜希子はもう一度溜息をつくと立ち上がり、朝食の食器を片付け始めた。

 流しで洗い物をしながら、嫁と一緒に台所に立つ自分を思う。同居は考えてはいないが、息子を大事に思ってくれる女性がいるというのは嬉しいことだ。なのに息子を放って、仕事だからと東京行きを決めた美紀に少し腹が立った。好きな人の傍に居たくないのだろうかと疑問が湧く。ずっと専業主婦だった自分には考えられないことだ。

「長すぎた春なんかねえ」

 思わず一人ごちると、綺麗に洗い上げた茶碗を拭きながら、亜希子はまた溜息を吐いた。

 

 週末の香櫨園駅のホームは、人影もまばらだった。スーツ姿の乗客は流石に少ない。高遠はいつもの場所に立って、腕時計を確認する。須磨店に着くのは、十時過ぎで開店早々の時間だ。

父が早朝から淡路島へ釣に出かけた後、きっと母が昨夜の続きを言い出すと思っていたが、「あんたはそれでええん?」と睨みつけられ、返事に困った。良いわけがないが、どうしようもないではないか。高遠は駅の屋根から覗く、晴れ上がった空を見上げた。

 三つ違いの妹を嫁がせるまで母の意識はひとり娘に注がれていたのに、夫の転勤で名古屋へ引っ越してしまうと、途端に息子がクローズアップされてしまったわけだ。母親というものは家族の誰かに意識が集中していないと、落ち着かないものらしい。

 高遠はバッグから一冊の単行本を取り出した。本屋大賞の一位の文芸書はずっとバッグの中で嵩張っていた。三田店のオープンの忙しさで読む暇もなかった本を、須磨までゆっくり読みながら行くつもりだった。売れ行きは好調で、流石に読み応えはありそうだ。

 本を開いた高遠の後ろで、かつかつとヒールの音がした。彼はふっと顔を向ける。白地に花模様の華やかなワンピースの裾が翻っている。艶やかな化粧の女性が、高いヒールの赤いパンプスで颯爽と背後を通り過ぎた。ブラウンのカールした髪が、歩くたびに肩で踊っている。

 彼はまた本に目を落とした。文字を追っていた頭に、一之瀬杏奈の笑顔が不意に浮かぶ。

 彼女があんな華やかなワンピースを着たら、可愛いだろうな――と、高遠は口元を綻ばせた。髪もひっつめて束ねないで、さらりと肩に垂らして、化粧っ気のない顔に薄く口紅をつけるだけで良い。スニーカーの代わりに、あんなヒール……と、考え、高遠は急に気分が重くなる。老人のようにステッキを突く杏奈の姿が浮かび、胸に痛みを覚えた。年頃の杏奈がおしゃれに興味がないはずはない。小さなピアスが耳に光っていたこともある。笑顔の可愛い魅力的な彼女なら、どんなおしゃれな服も似合うだろう。しかし彼女が注目されるのは、現実にはあの引きずった足なのだ。足は生まれつき悪いのだろうか? それとも事故か何かで? 治る見込みはないのだろうか? 高遠は知り合ったばかりの一之瀬杏奈のことを、あれこれ詮索している自分に戸惑った。でも、彼女に同情せずにはいられなかった。

 ぼんやりとホームを眺める。

 月曜日、杏奈はこのホームにいるだろう。朗らかな声で挨拶し、明るく笑って。

 高遠は文字が頭に入らなくなった本を閉じて、ブリーフケースに突っ込んだ。全く同情という感情は厄介だと、高遠は腕の時計をもう一度見た。

 

 

 *

 

 

 期待通り、桜の花は三割方開花した。細い枝の先に、膨らんだ蕾が重そうに風に揺れている。明日はもっと開くだろうと、高遠は目を細めて、枝を見上げる。遊歩道が一面にピンク色に染められるのはもうすぐだ。そう思うだけで、この町の住人は気持ちが弾んでくるものだ。

 自動改札にカードを滑らせ、そのまま階段を駆け上る。ホームは格子の窓から朝の日差しが降り注ぎ、明るい。

高遠がホームへ上がると、すぐにこっちを見ている顔に気付いた。足早にその列に向かう。

「おはようございます」

 一之瀬杏奈は、思ったとおり明るい笑顔で挨拶をした。丈の短い綿のジャケットに腰にフィットしたベージュのチノパンで、ステッキを見なければ、足が悪いなどと思えないすらりとした立ち姿だった。高遠は彼女の耳に、小さな金色の花のピアスが光っているのに気付いた。

「おはよう」

 高遠は杏奈の横に立ち、にこやかに彼を見上げる瞳に、照れくさそうに前髪を掻きあげた。杏奈は少し頬を染め、明るい声で、

「桜、随分ひらきましたねえ。うちの家の近くの木はもう七部咲きでしたよ」

 と言って、嬉しそうな顔で、ホームから見える夙川を見下ろした。

「花見をしながらの通勤なんて、最高に贅沢!」

 屈託のない杏奈の笑顔に、高遠も釣られるように笑って応えた。

「ここ二,三日のうちに、屋台も出るし、花見の人がわんさか来る。それはそれで住人にとっては迷惑な話やけどね」

「お祭ですね」

「そ、お祭や」

 二人の前を、特急電車が風を巻き上げ通過していった。高遠は体を少し仰け反らせた杏奈の腕を軽く掴んだ。二人で通過したあとを目で追う。杏奈はチラッと高遠の横顔を見上げた。ごく自然に支えてくれた手が、まだ杏奈の腕を掴んだままだ。その手は大きくて、安奈の細い腕に指が余りそうだ。

「ところで、ギターコンサートはどうやった?」

 高遠はホームが静かになるのを待ちわびたように、杏奈に訊ねた。

「はい、大成功で……とは、言えませんでした」

 杏奈は首を傾けると、がっかりしたように目を伏せた。

「え? 楽しんで貰えなかったん?」

「いえ、最初はギターの音色を静かに聞いて貰えたんですが、ほら一億皆スターっていう時代ですから、聞くより歌うほうが楽しいみたいで……」

「ああ、カラオケのノリになったんやな」

「はい。あれ弾け、これ歌えで、めちゃくちゃです。私も昔の歌、あんまり知らなくて……。瀬戸の花嫁とか、さぶちゃんとかご存知ですか?」

 高遠は顎を上げて、頭を掻いた。

「さぶちゃんっていうのは、北島三郎かな? 瀬戸の? ううん、俺に訊くなよ、まだ三十だよって言いたい気分やな」

 杏奈は困った顔の高遠を見て、さも可笑しそうに笑い出した。

「あはは、すみません。だって、高遠さんって、何でも知ってる大人に見えるから」

「それって、何でも知ってるおっさんに見えるって聞こえる」

「いやだ。おっさんだなんて思ってないですよ。高遠さんの被害妄想です。三十歳でおっさんやなんて」

「繰り返された分、傷ついた」

 高遠が大袈裟に片手で顔を覆うと、途端に杏奈は目を丸くして、慌てて謝った。

「ご、ごめんなさい! 失礼な言い方でした。本当にそんな風に思ってないです。私だって二十五歳ですもん。立派におばさんです」

「え? 君、二十五なの? もう少し若いと思った」

「子供っぽいっていうことでしょうか?」

 杏奈の眉根が寄り、唇が尖った。高遠はくるくる変わる彼女の表情が、とても可愛く見えた。ついからかいたくなるタイプだと、噴き出しそうになる。

「あれ? 若く見られたほうが女性は嬉しいやろ?」

「若いと子供っぽいは違います」

 と、杏奈が不機嫌そうに言ったとき、前に並んだ中年の男性が、疎ましそうにチラッと振り向いた。杏奈は自分の口に手を当てて、恥ずかしそうに瞬きした。

「高遠さん、私たちすごい実の無い話をしていると思います」

「確かに」

 杏奈の小声に耳を近づけながら、高遠は思わず笑った。

 丁度電車が到着した。高遠はずっと掴んだままだった手に、力を入れた。

 彼女に触れたままの手が全く違和感が湧かなかったことを、明確な男と女として成り立った関係ではないからだと思った。彼女は同情を受けてしかるべき存在であって、高遠は人としてのマナー、ついては義務として彼女を手助けしようとしているのだ。

 日本人は得てして、他人へ手を差し伸べることが苦手だ。それは社会として人とのつながりが希薄になったからだといわれるが、高遠はそうとばかりはいえないと思う。誰でも困っている人には手を差し伸べたい思う気持ちは、多かれ少なかれ持っているものだ。ただ、拒否されるのが怖いのだ。事なかれ主義は世の中に蔓延している。彼自身、利害のない他人のために、心を砕く勇気はないほうだ。そう思うと、杏奈の純真で素直な心はありがたいと思う。彼を、疎ましく思っている様子は全く感じないのだから。そして偶然とはいえ知り合えて、今朝のような爽やかな気分を味わうことが出来るのだから。

 杏奈を電車のドアの横のスペースに押し込むと、高遠は安堵している杏奈に言った。

「対策をたてないとな」

腕を壁に突っ張り、背後の圧力から彼女をかばうように立っている高遠に、杏奈はくるっと瞳を向ける。

「対策?」

「そう、次の杏奈セカンドコンサートINやすらぎ苑を成功させる対策や」

 杏奈は口元に手をやり、笑い声を抑えた。

「三宮まで、たっぷり時間はある」

 彼女の顔が嬉しそうに綻んだのを、高遠は満足そうに見た。

 

 

 須磨店のレジに高遠が、どさりと数冊の本を置くと、アルバイトの女の子が奇妙な顔を向けた。

「高遠さん、カラオケの修行ですか?」

「いや、お年寄りが歌える歌を探そうかと」

「ええ? 新しいガールフレンドですか? 年上の」

「その意味深なジョークは却下する」

 二十代のフリーターのレジ係は、くすくす笑いながら代金を請求した。

 全くおかしな話だと、高遠も思う。普通ならただ駅で電車を待ち、同じ車両に乗合わすだけの関係のはずが、彼女のために分厚い懐メロの歌詞本を買っているのだ。須磨店にやってきたついでだと言いながら、仕事帰りにCD屋にも寄ろうかと考えている自分に苦笑した。

「売り上げ、協力感謝します」

 バッグに本を詰め込んでいると、店長の野山がレジのカウンターの中から言った。

「はは、本気で感謝しろよ」

「はいはい。山ほど仕事も頂いたし、高遠さんには感謝の言葉もございません」

「文句ならいっぱいあるんやろうけどな。それより一週間以内に、入れ替えの商品を送るから、準備しといてくれよ。東販には無理を言ってそろえさせたから、遅れさせたくない」

「OKです。で、話題書コーナー、どうします? 今のベスト入れますか?」

「いや、それは全国ランキングに上がってくるだろうし、そうなれば珍しくも無くなる。地元の作家なんてのも面白いと思うが……。少し前に神戸の作家の時代小説、出てただろう」

「ああ、あれは重版待ちなんです。出版社は今月予定ないって言ってたから、入荷に時間掛かりますね。それよか地震の体験本はどうです?」

「地震?」

 野山は案内するように、高遠を振り返りながら、文芸書コーナーへ連れていった。そして高い棚に表紙を見せて陳列してある一冊を取り出すと、高藤の前に差し出した。

「これです。今更なんですけど……。まだ売れているとは断言しにくいですが、子供を震災で亡くした母親の手記です」

「ああ、これ……」

 渡された本を、高遠は両手で持った。表紙はランドセルを背負った笑顔の男の子の上半身の写真だった。きらきらした瞳が胸に迫るものがある。

「阪神大震災か……」

 高遠がぼそりと呟くと、野山が思い出すように目を宙に向け言った。

「ひどい地震でしたね。僕は大学生で、親元を離れ大阪に下宿していたんで、垂水の実家を本当に心配しましたよ。まあ、神戸の西端の垂水は被害が少なかったから無事でしたけど。高遠さんは家、阪神間でしょ? 大丈夫やったんですか?」

 高遠は表紙をゆっくり開いた。素人の書いた簡潔な文章が、痛いほど素直に状況を語っている。文字を追いながら、野山に応える。

「ああ、うちは大丈夫やった」

「そうですか。でも潰れた家とかあったでしょう」

 高遠は喉に詰まるものを感じ、ごくりと嚥下した。胃に石が投げ込まれたようで、不快な重みを感じる。

「家族は無事やったが、同級生の友人が死んだ……」

「え? 本当に?」

 野山が驚いて、高遠の顔を見た。高遠は本のページを繰りながら、抑揚のない声で続けた。

「助けに行ったが、間に合わんかった」

「お気の毒に……」

 野山の気まずそうな顔を無視して、高遠は手に持った本を棚に戻しながら言った。

「もう十七年も経ってる。話題書というのはどうだろう。近頃じゃあみんな震災のあった一月十七日の追悼が終わると、巷の話に上ることもなくなってきたのが現実やしな。とにかく今回は、俺の言った作家の小説、案外面白いから探してみるわ。須磨の出身やし、興味はもたれるやろう」

「分かりました。じゃあ、また連絡ください」

 高遠の顔が無表情になり、棚に戻した手記をじっと見ている様子に、野山は気楽に震災のことを尋ねたことを後悔した。同じ痛みを持つ人にとって、その手記は痛ましい現実なのだ。興味本位で手に取られるコーナーに並べるには、野山も気が引けてきた。

「今日はこれで帰るよ。入れ替えが始まったら寄るから」

 そういって、須磨店の出口へ向かった。

 高遠は懐メロ歌詞集で膨らんだブリーフケースを肩に掛け、夕刻の買い物客が増えてきたショッピングモールの通路を、出口まで押し黙って歩いた。

おもちゃ売り場で、子供が母親におもちゃをねだって泣いている。ドラッグストアの前で、白衣の薬剤師が主婦に盛んに商品を説明していた。自動販売機のコーナーには部活を終えた高校生が缶ジュースを手にふざけ合っている。幼い子供の手を引く母親。沢山の買い物をカートに溢れさせ、レジに並ぶ熟年代の主婦。ここには日常がある。ありきたりで穏やかな安住の延長が。高遠は正面出入り口の広いガラスドアの前で立ち止まり、眩いほど明るい、物に溢れた店内を振り返った。

 今ここにあの日の惨劇が起こったら、どうなるのだろう。再び立っていられないほど地面が揺れ、建物が倒壊したら……。全ての喧騒が止まり、一瞬ぐらりと足元が揺らぐような気がした。

 十七年前、味わった恐怖を、そして悲しみを、すでに記憶の片隅に押しやって忘れていた自分に、呆然としたまま立ち尽くした。

 

 西の空の一片だけが、燃え跡のように朱に染まっている。電車の窓は夕暮れの薄暗い街を背景に、ぼんやりと顔を映し出した。影絵のような町並みに、ポツポツとともり始めた街灯と車のヘッドライトが、尾を曳いて車窓を流れていく。

 高遠は二人掛けの座席の窓側で、何かを探すように宵闇に沈む風景に目を走らせていた。家路に着き、緊張の糸を解いた乗客の話し声や、足元から響く電車の騒音も耳に入らなかった。

 山名沙織の顔が思い出せない――窓枠にひじを突いて、顎の下で握った拳に力が入った。魔法の鏡のように彼女の顔が浮かんでくるはずの窓には、眉間に皴を刻んだ自分しか映っていない。あの日、絶対に忘れないと誓った記憶は、朝もやのようにいつの間にか消え去っていた。

 高遠は懺悔するように、ひとつひとつ記憶を辿った。沙織はバスケ部の一年生のマネージャーだった。男子部員の背丈の半分しかないような小柄なくせに、声が大きくて男の子みたいで、生意気な口調でポンポンと話した。少し茶色の髪をポニーテールにして、日に焼けた浅黒い顔だった。気さくで明るくて、人気者だった。山名沙織が好きだった……。はじめて、心の全てを占領された女の子だった。

 しかし、彼女の明るい笑顔も、怒った顔も、恥ずかしそうな顔も……、浮かんでこない。朧な月のように霞が掛かっている。

 高遠は両手で顔を一撫でした。額にうっすらと冷たい汗を掻いている。

――「さんのみや、さんのみやでございます。お降りの方はお忘れ物のないようご注意ください」

 アナウンスが車内に流れると、高藤はゆっくりと立ち上がり、ドアに詰め寄る人達の後に続いた。いつもの通り、JR三宮駅は混み合っている。大阪方面へ帰宅する人の間をすり抜け、階段を駆け降りる。残った仕事を片付けるために、オフィスへ戻らねばならない。

 まだ七時前の三宮のメイン通りは人通りも多く、ネオンやショーウインドの煌びやかな照明に、昼間よりにぎやかさを感じた。

 山手の方向へ坂道を足早に上がっているとき、上着の内ポケットの携帯が唸った。立ち止まって取り出すと、表示に「美紀」の名が浮かんでいる。

「もしもし?」

――「あ、ごめんなさい。今オフィス?」

「いや、三宮の駅前や。今から社に戻るとこや」

――「そう、よかった。実は今日休みを取ったの。引越しの準備もあって。週末会えなかったし、うちでご飯食べない?」

 携帯の向こうの美紀の声は明るかった。高遠は途端に気持ちが安らぐ気がした。昨夜遅く、東京から戻ったとメールが着たが、仕事を休んでいるとは思わなかった。高遠はすぐに返事をした。

「分かった。オフィスに寄ったら帰るから、そっちに行くよ」

――「うん、待ってるね」

 携帯を閉じてポケットにしまうと、また急ぎ足でオフィスを目指した。美紀と会えるのは有り難かった。フラッシュバックしたあのときの場面を忘れることが出来る。美紀といる時間は、リアルに自分が生きている次元なのだ。

 平成七年……それはとても昔のことに思えた。でも、誰にも語らずに心の奥底にしまいこんだ記憶は、今でも生々しい。高遠は走馬灯のごとく浮かんでくるあの日を振り切るように、いつしか駆け出していた。

 

 *

 

「元気がないわね? 忙しかったの?」

 美紀が自慢のビーフシチューの皿を片付けながら、椅子に寄りかかる高遠を見下ろした。

「いや、そんなことはないよ。美味しかった。ご馳走様」

 高遠は、表情を窺う美紀に微笑んだ。彼女はホッとした様に「どういたしまして」と言うと、微笑みながらテーブルの上を綺麗に片付けた。外で会う洗練されたお洒落な装いと違い、白いトレーナーと薄手のGパン姿の美紀の笑顔は、学生の頃のように無邪気だった。美紀が就職と同時に、武庫川が望める1LDKのマンションに一人住まいを始めてから、彼も週末に時々ここで朝を迎える。

 高遠は椅子から立ち上がると、自分の指定席のように、ドンと二人掛けのソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを手に持った。流しで水音を立てる美紀に、

「それで、東京の部屋はきめたんか?」

 と尋ねると、チャンネルのボタンをポチポチと押した。

「うん。本社から二駅の渋谷駅に近いワンルーム」

「渋谷? すごいなあ。高かったやろ、家賃」

 BSで洋画をやっていた。高遠はリモコンをセンターテーブルに置くと、ソファに体を預けて、頭の後ろで両手を組んだ。

「それがね、会社が単身用に借り上げてくれたところなの。管理費以外はいらないと思うわ。結構広くて、ワンルームだけどこことおなじくらいあるわよ。休日は千葉の実家へ帰るし、本当に寝に帰るだけになりそうだけど」

 美紀はグラスと氷の乗ったトレイを、高遠の前のテーブルに置いた。

「水割りでいい?」

 そういうと、二人掛けのソファの開いた場所に腰を掛ける。遠慮するようにスレンダーな体をソファの端に寄せ、二つのグラスにウイスキーを注ぎ、氷を落とした。コクコクとミネラルウオーターを注ぐ。ガラスのマドラーで掻き混ぜられた氷が鳴る。

 高遠は綺麗に手入れをされた彼女の指先を見つめた。形良く尖らせた爪に透明感のあるピンクのマニキュアが塗られ、細くてしなやかな指が上品にマドラーを摘んでいる。

 美紀はアクセサリーのようなネイルは決してしない。高遠が好きでないということもあるが、いつも他人の美しさを追及する側だからと彼女は言った。化粧も、他の美容部員たちは自社製品の宣伝のごとく塗りたくっていたが、彼女は派手になりすぎるのを嫌った。美紀は大学で知り合ったときから、自分を見つめることを怠らない、しっかりとした考えを持った女だった。時には高遠よりも年上かと思えるくらいに大人だった。

 その美紀が取り乱した姿を、一度だけ高遠は見た。大学三年の時同郷の先輩だった恋人にふられ、高遠の胸に縋って泣き叫んだのだ。あえて尋ねなかったが、千葉から京都の大学へ入学したのも、その先輩を追ってきたのは間違いなかった。若かったといえばその通りだと思うが、美紀はそれほどに彼を愛していたのだろう。でも、高遠はその後ごく自然に深まっていった美紀との関係を、情熱が足りないなどと思ってはいない。気心の知れた仲間から進展し、穏やかでお互いを尊重し合えるつき合いは心地の良いものだ。美紀を東京に送り出せるのも、信じているからだと思う。

 愛にはいろんな形がある。情熱を曝け出し、所有欲や嫉妬やなどというわずらわしい感情は自分には向かない、と彼は思う。美紀とは思いやって来たからこそ、十年以上もつき合うことができたのだ。

「独身寮って感じなんか? そやったら、俺が訪ねて行ったら拙いんやないか」

 美紀が琥珀色のグラスを高遠の前にコトンと置いた。

「来る気なんてないんでしょう?」

 高遠は一瞬眉をひそめた。美紀は手に取った自分のグラスを揺すって氷の音を立てながら、何気ない様子でテレビの洋画を見ている。

「行くよ。会いに」

 水割りを喉に流し込んで、高遠もねっとりとした笑顔を向ける金髪の男優を眺める。バイオリンの優しい旋律が流れる。画面はヒロインと向かい合っている場面に代わり、男優は途端に笑みを消した。そして低い声でヒロインの名前を呼んだ。美紀は画面を見つめたまま、グラスを口元に運ぶ。その唇が小さく動く。

「本当に?」

「怒るぞ!」

 ムッとして、彼女の横顔を一瞥する。

 美紀はグラスを置くと、険しい顔の高遠の肩に両手を置いた。そして彼の瞳を覗き込むように見つめながら、首筋を撫で付けるように手を回す。

「タカ、もっと怒ってくれていいのよ。どうしようもないカノジョなのに」

 美紀が高遠の口元に、唇を押し当ててきた。彼女の髪に手を差し込むと、頭を押さえつけるように高遠も応えてキスを深めた。絡み合った舌が、官能を刺激する。一気に燃え上がるように、美紀を強く抱きしめる。強張りを解いてゆく彼女の体は、腕の中で悩ましくしなった。頬から耳元へ、ソファの背に彼女を押し付けながら、唇をつける。美紀はうっすらと開いた唇から、ゆっくりと息を漏らす。高遠は邪魔になった彼女のトレーナーをおもむろに引き上げ脱がせた。思ったとおり、ラフな格好の下には、黒の透けたレースのキャミソールとブラをつけている。高遠を悩殺する術を熟知していると言わんばかりに、美紀はその豊かな胸を突き出す。彼は下着の下に手を滑り込ませ、性急に乳房を掴んだ。乳首の高まりが手のひらをくすぐる。

 しっとり吸い付くような柔らかな肌。乱れる呼吸。上がってゆく体温。とろけてゆく理性……。溺れるということはこういうことだと、高遠は思う。女の体に惹かれる本能は、恐ろしいくらいに貪欲で原始的だ。このひと時のために生きていると言ってよいほど、あらゆる思考を消し去ることが出来る。

 引き下ろしたGパンと下着を取り去り、ソファの上に大きく広げた彼女の股間に顔を埋める。敏感な突起を舌で舐めると、美紀は仰け反って声を漏らした。

 彼女を責める。

 本能の片隅にとぐろを巻く征服欲が頭を擡げる。

「ああっ……」美紀が快感に酔うあえいだ声を出すと、彼はソファに押し付けるように、激しく美紀を貫いた。爆発しそうな何かが、美紀を許さなかった。繰り返し繰り返し、責める。

 自分の感覚に攻め滅ぼされるような、息苦しさが湧きあがる。高遠の下で、美紀が強張った体を痙攣させる。美紀に続いて、彼も体の昂まりを解き放つ。

 美紀の体を、気だるい腕に抱く。俺が男で、美紀が女。これが惹かれあうという現実だろう――高遠は手に力を込めた。

「泊まっていく?」

「いや、着替えもないから、今夜は帰る。明日は仕事だし」

 美紀はソファから立ち上がると、トレーナーを裸の胸に押し当てた。高遠に背を向け、締まった美しい曲線の後姿をさらす。高遠は目を逸らし、テーブルのグラスを持ち上げた。

「わかった。じゃあ、今週の週末、空けておいてね。もうゆっくり会えないから」

 そういうと、美紀はリビングを出た。

 渇いた喉に、薄くなった酒が微かな刺激となって浸み込んでゆく。

 バスルームのシャワーの音が、妙に大きく部屋に聞こえてきた。

 

 高遠は美紀の部屋を出て、最終の電車で香櫨園駅に降り立った。

 森閑とした夜の街に、駅だけが浮いているように明るい。数人の降車客は闇に紛れるように、それぞれの方向に消えて行った。

 家に着くと、両親はもう眠っていて、リビングにだけ明かりが点いている。電灯を消して、そのまま二階の自分の部屋へ上がる。

 音を立てないようにドアを開けた部屋は、カーテンが半分開いていた。その窓から、寝静まった街の闇が覗く。カーテンを引き、部屋に明かりを点けた。

 スーツの上着を脱ぐと、無造作にベッドの上に投げ、学生時代のままの天井近くまである本棚の前に立った。古びた分厚い英語の辞書の隣に、その三分の一の厚さの黒い背表紙に目を止める。高遠はそれを壊れ物でも扱うようにゆっくりと抜き取り、両手に広げた。

『県立西宮山手高校 卒業アルバム』 

 金文字のタイトルは、崇高で清澄な気がした。震災で亡くなった生徒たちへの鎮魂の祈りが、黒の装丁とこの文字に表されている。本当なら卒業式のショットに映っている筈の学生たちを悼んでいる。山名沙織はこの中に眠っている。平成七年の震災で、十六歳の生涯を閉じた彼女の顔が、クラスのページの枠外に黒縁の写真で載っている。

高遠は崩れるようにベッドに腰を下ろした。両手で顔を覆う。押さえつけた瞼には、あの震災の朝の光景が浮かんできた。 

 あの日、夙川の遊歩道を自転車で走り、香櫨園駅をくぐり抜けると、そこは爆撃された後のように破壊された街が広がっていた。将棋の駒のように倒れたマンション、屋根だけになった家、斜めに傾いだ電柱、そして呆然と立ち尽くす人々。夙川駅に近づくほど被害は大きくなった。息苦しいほどの恐怖が背を滑り落ちる。

 友人の谷川と二人で、道路の障害物を避けながら、沙織の住むアパートに向かった。

でも、漸くたどり着いたアパートは無残にも瓦礫の山となっていた。周りの家は平然と建っているのに、そのアパートだけが意図的に取り壊されたようだった。数人の人がその瓦礫をぼんやりと取り囲んで立っていた。

「すみません! ここに知り合いが住んでいたんですが!」

 自転車から飛び降り、立っていた男性に声をかけた。

「山名さんが一階に……」高遠の上ずった声に、男性は眉を寄せて答えた。

「ああ、山名さんか! 娘さんが下敷きになって、大けがした。今さっきやっと助け出して、病院に運んで行った。県立病院や」

「大けが?」

「ああ、会いたいんやったら、はよう行ったほうがええ。助かったらええけど」

 男性に礼も言わず、自転車に飛び乗った。それから三キロはある道を必死でペダルを漕いだ。壊れた街に阻まれながら、県立病院を目指した。

 やっとたどり着いた病院の薄暗い病室に沙織を探し当てたとき、高遠も谷川も、薄っぺらなベッドに頭まで白いシーツを掛けられた彼女の姿に息を飲んだ。

ベッドに寄り添っていた彼女の母が二人に気付くと、虚ろな目で呟くように言った。

「沙織……、ミイラみたいなんよ。顔が潰れてしまって、先生がかわいそうだからって、包帯をぐるぐる巻いてくれたんやけど、なんだかミイラみたいになってしもて……ほら」

 母の手でシーツが下げられると、首から上を包帯で巻かれた頭部が現れた。高遠の背筋に戦慄が走り、途端にぶるぶると体が震えた。

「ほんまに沙織なんやろかって思うけど……、沙織なんやね」

 頭部に巻かれた包帯から垂れた髪に触れながら、母は呟いた。そして蒼白の顔を二人に向けた。

「ごめんなさいね。折角来てくれたのに、顔を見てもらえなくて……」

 母親はまた丁寧に頭までシーツを掛けると、肩を落として傍の椅子に腰掛けた。

「でも、暫く生きてたんや。だから、また息をするかもしれへんから、そしたら連絡するね。名前教えといてくれへん? 沙織、気ついたら喜ぶと思うし……」

 折りたたみの椅子に座り、背を向けて話す母親の言葉に、高遠も谷川も何も言えなかった。そして、「すいません!」と叫ぶと病室を飛び出した。まるで創りもののシーンを見せられているようだった。

 頭では理解した。沙織は潰れたアパートの下敷きになって、死んだんだと。でも、突然の死に心がついていかなかった。彼女の遺体に会っても、それが前日まで笑っていた沙織だと、どうしても思えなかった。高遠が感じたのは恐怖だった。そしてあまりの凄惨な出来事に、ずたずたになった心だけだった。

 沙織は看護師の母と、夙川沿いの木造アパートで暮らしていた。父親は離別していて、大阪市内に住んでいた。彼女の葬儀は、ライフラインを遮断された被災地域では無理なため、離れていた父親の元で執り行われた。混乱した生活を送らねばならなかった高遠たち友人も、誰一人葬儀には行くことは出来なかった。

 地震の後、高遠一家は着の身着のままで、近くの小学校へ非難した。家は無事だったが、約一月、ライフラインは遮断され、再び地震が起こるという噂に怯えて暮らす日々を送る。沙織の死のショックは、家族を守ることへと意識が向かう中、心の奥底に封じ込めていった。

 地震の一か月後に学校が再開されてから、高遠は通学路を外れて、山名沙織の住んでいたアパートの跡を訪れた。すでに瓦礫は綺麗に片付けられ平地になっていたが、偶然にその向かいに住む家主さんと会った。ぼんやり眺めていた高遠に、声を掛けてくれたのだ。彼が沙織の同級生だと知って、白髪の家主のおばあさんは堰を切ったように当時のことを話し始めた。

「家から逃げようと飛び出たら、あんた! 向かいのアパートの一階がなかったんよ。瓦礫の上にポンと二階が乗っているんやで。もうびっくりして腰がぬけてしもうた」

 おばあさんは、年老いた体を支えるように二の腕に抱いた。

「それから近所の人達と埋まった人を何とか助けようとしたんや。二階の人らは怪我をしたけど皆助かって、出られる車で県立病院へ運んだ。でもなあ、なんせ救急車も警察も、なんもこんのや。ただ素手で瓦礫を取り除いていくしかなかった」

「山名さんのお母さんに、県立病院で会いました。お母さんは無事やったのに……」

 高遠が震える声で言うと、おばあさんは目を拭いながら頷いた。

「お母さんは浜にある回生病院の看護師さんで、丁度夜勤やったんや。沙織ちゃんは一人でうちにいたんよ。たった一人で……。ほんまにかわいそうなことや」

 お婆さんは顔をしかめ、白髪の頭を振る。

「でもな、ごった返してる回生病院から、九時ごろにやっとお母さんが戻ってきてな。そのあと沙織ちゃんが助け出されたんや。もう、ひどい状態やった……。顔は血まみれで、ぐちゃぐちゃや……。だれももう死んでると思った。そしたら、お母さんが必死に呼ぶ声に、手を動かしたんや。それからすぐ県立へ車で運んだ。結局病院で亡くなったけど……。最後にお母さんに会わせてあげられただけでも、良かったと思うたわ」

 高遠は平地になったアパート跡を見ながら、初めて涙が溢れてきた。高校の朝礼で黙とうしたとき、山名沙織の名を聞いても涙はこぼれなかったのに。彼女を助けてやれなかった自分が愚かしくて、歯噛みしながら突きあがる嗚咽に堪えた。

 沙織は生きていたのだ、助け出されたとき……。もしかしたら……、まっすぐに沙織の元へ向かっていたら……、少しでも力づけることが出来たかもしれない。「死ぬな」と伝えられたかもしれない。その思いは何年も高遠を苦しめた。

――高遠君は、私の特別だよ!

 地震の前日に、そう言って恥ずかしそうに笑った彼女の顔が、不意に高遠の脳裏に浮かび上がった。部活帰りの夙川の土手で、一月の冷たい夕刻の風に頬を染めて、笑った顔が。

「よかった……。沙織のこと、忘れてへんかった……」

高遠はアルバムに向かって、呟いた。そして安堵したように、静かに目を閉じた。


この本の内容は以上です。


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