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二月の巻

雪中動静

二月の巻

58. 雪中動静


 季節の分かれ目というのは、期せずして象徴的な出来事があったりする。予測が立っている分、まだいいのかも知れないが、今度のクリーンアップ予定日は、週間予報では「雪」。前日になって、その気配は益々濃厚となる。耐寒だ体感だ、などと暢気なことを言ってられなくなってきた。

 センターの三人は、ランチタイムミーティングを経て、それぞれのツールで明日の案内業務にとりかかる。漂着モノログの掲示板には、「降雪時は、クリーンアップは見合わせ、下見は決行」の旨、掲載され、KanNaのセンター主催行事コーナーにも、同様のおことわり文が一筆付け足される。文花がコツコツと作り上げてきた想定会員向けメールサービスでも、明日から来週にかけての行事案内などが、寒中見舞いを兼ねる形で配信された。商業施設ご関係者には、雪予報が出た時点で冬木から連絡してもらっていたので、失礼がない状態にはなっている(と思われる)。延期の場合の日時について予告しておくのも手だったが、九日の講座参加者の希望や都合に応じて決めた方がよかろう、ということで今回は見送り。あとはとにかく明日になってからである。

 空模様を案じつつも、データカードなどの持ち物を点検する櫻。文花はそれを見て、あるいいものを手渡す。これも明日に備えて、ということらしい。

 「これってやっぱり自家製、ですか?」

 「町内会で準備してたのをおすそ分けしてもらったの。明日は私行けないから、ご挨拶代わりってことで」

 「かしこまりました。でも、屋外でやる分には、ウチもソトもないですねぇ」

 二人が談笑するのを何とはなしに聞いていた千歳だったが、「そうか、節分と言えば...」 こちらも何か思いついたようである。


 そして翌朝は、まさかの大雪!である。堤防上や河川敷は除雪されることはないので、降ったら降っただけ積もる。少なからず歩行者やランナーはいるので、何となく雪分け道のようなものができてはいるが、足取りは重い。河原桜近くに来たところで、不覚にも定刻の十時を回ってしまった。

 千歳がもたついている間に、櫻は一足先に現地に到着。しかし、すでに先客がいたもんだから、姉ながらビックリとなる。

 「な、なんで? 起きたらいないから何処行っちゃったかと思ってたら」

 「雪が降ったら集合、ってことにしといたんだ。ね、小梅ちゃん?」

 「エヘヘ、早起きは何とやら。蒼葉さんに手ほどきを受けたくて。あ、そうそう、いい知らせがあるって話...」

 ケータイつながりではないながら、約束を交わし合って、しっかり実行しているこの二人。微笑ましくていいのだが、そのいい知らせというのが引っかかる。小梅には先に予告が届いていて、姉が蚊帳の外、というのはどういうつもりなんだろか。

 「そうねぇ、教えたいのはヤマヤマだけど、櫻姉が来ちゃったから...」

 「あら、失礼しちゃうわ。いいわよ、一人で下見してっから」

 櫻はブツブツ言いながら、その場を離れる。干潟アクセス通路の方へ行ったのを見届けると、蒼葉は小梅にヒソヒソ話。

 「エーッ! 入選? しかも準大賞...」

 「シー!」

 と、そこへノロノロと千兄さんがやって来た。

 「あれ? お二人だけ?」

 「千兄さま、ちょうどいいところへ」

 今度は小梅をその場に残し、蒼葉は千歳を引っ張り出す。

 「姉さんのことだから、どうせちゃんと決めてないですよね。十四日って、お約束してます?」

 「空けてはあるけど、これと言ってまだ...」

 「やっぱりね。ちなみに十五日のご予定は?」

 「突発的な時事ネタが来なければ、在宅勤務かな」

 「了解。その日も何となく空けておいてもらえるといいことあるかも、です」

 思わせぶりな蒼葉の発言に、久々にソワソワ感が高まる千歳である。小刻みに吐いた息が白く漂うも、そこにセリフはない。音のないスピーチバルーンが浮かぶ図とはこのことだろう。と、そのバルーンを破るように雪球が飛んできた。

 「うひゃ!」

 遠くから誰かさんの笑い声が聞こえる。

 「あらら、蒼葉にぶつけようと思ったのに。それ!」

 次は見事、妹に命中。

 「やったなぁ!」

 描きかけのパステル画を枯れヨシの陰に隠すと、小梅とチームを組んで、蒼葉は逆襲に転じる。下見どころではない。雪合戦の始まりである。

 「キャー! 二人でなんてズルイ!」

 「姉さんにはダーリンがいるでしょ」

 「ダメよ、千歳さんスローだから」

 これを聞いたからには、参戦しない訳にはいかない。

 「こうなったら、誰でもいいや。それっ!」

 不用意に放った一球は、事もあろうに櫻を直撃。

 「ひどーい! 護衛になってないじゃん!」

 これで女性を敵に回すことになった千歳は、三姉妹から総攻撃を受けることになる。

 この時、一人の少年が大きな雪玉を転がしながら、合戦場に近づいていた。逃げ惑う三十男を見つけると、大きなのは放置して、小さいのを拵(こしら)え始める。そして出陣。

 「千さん、ダイジョブ?」

 「おぉ、これは六さん。あ、やべ...」

 息つく暇もありゃしない。千歳はとうに反撃を諦めていたようで、とにかく退散。少年は持ち玉で抵抗を試みるも、呆気なく敗退。

さ「何か、張り合いないし」

あ「姉さん、やり過ぎ」

さ「人のこと言えないっしょ?」

こ「あれ? 先生だ」

 残された大玉の傍には、堀之内先生がいらっしゃった。玉転がしを続けながら、ようやく彼女達のもとにやって来て、

 「まぁまぁ、女性陣が強いのか、男性陣が弱いのか、見てて楽しいけど、とにかく休戦ネ」

 今のところ六人。それぞれ挨拶を交わしてはいるが、手持ち無沙汰でもある。まだ誰か来そうではあるので、揃うまでも一つ余興でも、となる。大玉の上に小玉が乗ったら、

 「顔なしダルマだぁ」

 じゃ済まないので、パーツを探しに行くことに。だが、

 「ちょっと待って六月君。もうちょっとで仕上がるから」

 と画家さんに止められては、仕方ない。立ち往生する少年の隣で、千歳はやっとこさ、雪干潟との対面を果たす。

 「って、漂着? 目立ってるし...」

 

 

 降り積もってはいるが、その量の前にはさすがの雪も無力であった。これらを覆い隠すには、さらなる降雪が必要になる、ということか。

 「私もね、ビックリしちゃって。真っ白って訳に行かないのねぇ」

 グランドは辺り一面、白である。それとは対照的な光景が二人の前に広がっている。白が抜けているところは、流木だったり、クーラーボックスだったり。あとは細々した突起物なんかが着雪を拒んでいるのがわかる。マダラ干潟とでも呼ぶべき、不思議な世界。崖地では朽ちたヨシが、なお直立し、侘びの風景を醸し出している。ヨシが目立つこともあって、一望する限りは残念ながら銀世界とは言い難いのである。

 蒼葉はそれでもパステルを走らせていた。白一色なら手間も省けるというものだが、そうなっていないことがかえって刺戟になったようで、むしろ雑多に描こうと努めているように見受ける。小梅は固唾(かたず)を呑んでその描写を見守る。そして、六月はそんな二人の女性を見ているような見ていないような... ドキドキする対象が変移していることがわかってきただけに、余計に胸が高鳴っている。その背後で永代は空気を読んでみる。「そうかそうか、彼もそういう年頃になった訳か」 干潟見物か、単なる雪見か、本日の目的は定かならずも、先生たる者、何よりの目的は教え子の成長を現場で知る、これに限るだろう。つい嬉しくなって、顔なしダルマに向かって話しかけちゃうところが、チャーミングだったりする。


 蒼葉のデッサンはひとまず終了。千歳も記録写真を撮り終えた。

 「じゃ、六さん、気ぃ付けてね」

 待ってましたとばかり、だったが、ここで勢いよく動いてはいけない。聡明な少年はソロソロと旧道を下り始める。残る五人は彼の動きを注視しながらも、同じ方向を見遣っている。と、下流側の崖地に、数羽のカラスが丸くなって留まっているのが発見された。バックが白くない場所にいるのは、バレないようにということだったか。人がガヤガヤいる割には、随分と悠長に構えているものである。

 「彼が近づいても動じないわねぇ」

 「寒くて動けないだけじゃないの?」

 「じゃ試しに雪玉投げてみましょっか?」

 櫻が仕込みを始めたその時である。そのカラスの方向目がけて、白い玉が飛んで行った。

 「ナヌ?」

 二人同時に振り返ると、完全防寒スタイルのルフロン嬢がケラケラやっている。しかも彼女の隣には八広ではなく、冬木。相変わらず人をおどかすのがお上手である。が、驚いている場合ではない。

 この一球で、カラスは退却するも、その啼き声がいけなかった。アーだかカーだかの直後に、

 「キャー!」

 六月を追うように狭いスロープを下りようとしていた小梅は、思わず足を滑らせてしまうことになる。カラスが啼くとろくなことがないのは承知しているが、

 「テヘヘ、すべっ... いけね」

 実姉がここにいないとは云え、禁句を口にしてしまってはそっちの方が禍(わざわい)のもとである。

 「初姉には内緒ね」

 「それより大丈夫?」

 しばらく起き上がれなかった小梅だが、姉様方が手を差し伸べるのを待っていた訳ではない。こういう時は弟分に助けてもらいたかったりするものである。

 「姉御、ホラ」

 「ありがと」

 と、何ともホットな場面を一同は見下ろすことになる。舞恵は頭を掻く仕草をするも、

 「まー、えぇんでないの?」

 シャレで誤魔化すおつもりらしい。だが、

 「ほんと、ビックリくりくり、ルフロンさんなんだから」

 櫻にこう切り返されてはシャレも何もない。


 見下ろす=下見という見方もあるが、やはり現地を踏査しないことには確たるものは得られない。そういう意味で若い二人は実に頼もしい。雪ダルマ用の品を調達しに行っているとは言え、手際は鮮やか。永代は改めて二人の成長ぶりに目を細める。

ひ「で、あのお二人さんはいつもあんな感じ?」

さ「えぇ、自分なりの役割ってのを認識して、自発的に動いてますね」

ち「六月君には教わること多いし、小梅嬢にはとにかく頭が上がらないって言うか...」

さ「千歳さんはいじられてるだけでしょ?」

ひ「まぁ何はともあれ、皆さんのおかげでしょうね。アタシからも感謝申し上げますワ」

 六月はカサの柄、小梅はゴム手袋をそれぞれ発掘して組み合わせたりしている。目鼻は各種フタやキャップで事足りる。ミニバケツが出てきたかと思えば、さらには「ヘヘ、炭だぁ!」

 苦笑する千歳を櫻はつついてみる。

 「ホラ、隅田!って、お呼びですわよ」

 「ハイハイ、六さん、呼んだ?」

 いつしか、冬木も舞恵もマダラ干潟をうろついていて、その斑具合が深化していた。

 「なぁんだ、おすみさん、下りてきちゃったの?」

 「そりゃね、下見に来たんだから」

 「下... そうそう、下見りゃいろいろ出てくるさ。それなんかヘビかと思ったら、ベルトだし」

 「何が隠れてるかわかんないから、スリリングではあるねぇ」

 「エド氏なんざ、栄養ドリンクのビン踏んづけて転びそうになったんよ」

 「やっぱ漂着物は除去しとかないとね」

 「隠しちゃマズイってか」


 蒼葉は上流側で、トレイ状の容器を物色中。冬木は若い二人から心得だか講釈だかを受けている最中である。陸に残るは、三十代の女性二人。

 「ところで櫻さん、隅田さんとはいい線行ってるの?」

 「ヤダなぁ、堀之内先生ったら」

 「矢ノ倉ったら、なかなか教えてくんないのよ」

 「その矢ノ倉さんの方がネタとしては面白いと思いますよ。お話聞いてませんか?」

 うっかり口を滑らせてしまう櫻であった。弥生と文花、どっちを応援したらいいのか決めかねていただけに、これじゃ一方に助け舟を出すようなものか。

 「彼女はお節介をするのは好きでも、されるのは嫌がるだろうから、ま、それとなく聞いてみるワ。それより貴女(アナタ)ンとこよ」

 話を逸らし損なって、さらに答えに窮する櫻である。この手の質問だといつもの機転も利かせようがない。「まぁ、三分(さんぶ)、いや五分(ごぶ)... とにかく春になれば、ハハ」


 クリーンアップはお預けながら、雪ダルマを仕上げる材料はそろう。こうも都合よく現地調達できるとなれば、漂着も悪くない? いやいや今日のところは偶々(たまたま)いいのが見つかったからそう思うだけで、雪を掘ればおそらくいつものゴミ箱状態であろうことは想像に難くない。雪中に埋もれているであろう多くの包装類やプラスチック片は、おそらくパリパリ、ということも十分想起し得る。それらは劣化が進めば、さらに微細化して手で拾い集めるのは至難となろう。クリーンアップすべきは、むしろこういう時!なのかも知れない。悪条件を逆手にとって、そのパリパリごと雪で固めて陸揚げさせてしまう、という手もある。

 千歳はまだ斑になっていない辺りを踏み固め、ブロック状にしたものを枯れ枝ごと持ち上げてみる。「お、いけそう?」 だが、合戦後の軍手はまだ水分を含んでいる故、その上に雪の塊が来れば、冷たいのは当たり前。予備の軍手に替えたところで、結果は目に見えている。あえなく、ひとかたまりを引き揚げたところで断念。彼に追随する者もなし。

 「千歳さんたら、しょうがないわね。暖めて差し上げたいけど、私の手も冷たいからなぁ...」

 よくよく見れば、櫻は撥水素材の手袋をしている。雪球を量産するには都合は良いが、冷たいことには変わらない。こすり合わせながら、息を吐きかけている。本人は寒いんだろうけど、隣人はそうでもない。櫻のそんな仕草に温もりを感じ、つい見入ってしまう千歳であった。

さ「ん?」

ち「やっぱ、体動かさないと寒いなぁって思って」

さ「二人きりならよかったのにね。そしたら...」

 とか言いながら、櫻はおもむろに温湿度計を取り出す。見れば、気温四℃、湿度は何と七十%と来た。乾燥していないのがわかったのはいいとしても、その温度の低さに思わず身震いしてしまう二人である。

 「雪とか、白いのとか、好きなんだけど、寒いのはねぇ... あら、霰(あられ)?」

 現在時刻、十時四十五分。この刻(とき)まで、何とか小降りを維持していた粉雪は、何やら大きさを増しつつ、水気が多い物質に変化して来た。一同、傘はなくとも帽子なりフードなりで辛うじて濡れずに済んではいるが...。


 蒼葉は、パステルで下書きした上に水彩を施すべく、拾ったトレイにチューブを垂らしてみたり、筆をといてみたりしていたが、どうもしっくり行っていないようだった。そこへこの天からの配剤である。本来なら筆を止めそうなところだが、逆に喜々としているから侮れない。

 「ね、小梅ちゃん、こうやって青とか白とか走らせてみて、そこにこの霙(みぞれ)、かな? ま、空から降ってきたのをそのままなじませると、何か幻想的な感じに...どう?」

 「わぁ... でも、普通ならフニャフニャになりそうだけど、この紙、平気なんですね」

 「ま、雪仕様っていうか、雪景色描く用だから」

 「で、極意はやはり臨場感ですか?」

 「そうね。実際に体感した温度を絵に写すっていうか、空気を閉じ込めるっていうか」

 小梅は、その上物の筆先を見つめる。水分が紙に広がるのが何となくわかるから不思議である。その広がりが止まった瞬間、空気は貼り付く。それと同時に張り詰めた空気が紙面に漲(みなぎ)るのであった。

 そんな空気を察したか、蟹股ながら忍び足で、筆の元の持ち主が現われた。K.K.のおじさんである。

 「おぅ、これは画家のお嬢さん、この天気でご精が出ることで」

 「あ、せ、先生、いつの間に?」

 どうやら気付いていなかったのは、絵描きシスターズだけだった。この雪道をバイクでカタカタ来た訳だが、その音すら耳に入らない没頭ぶりだったのである。

 「てっきり中止だとばかり思ってたら、皆がいたからさ。ほほぉ、白のし潟、いや、そうでもない、か」

 画にインパクトを受けたらしく、釘付けになるも、現実の干潟も似たような色が散らばっているもんだから、言葉を失うしかない。しばらく、遠近を見比べながら唸っていた清だが、ふとあるものが目に留まる。

 「ところで、その盛ってあるのは何だい? お清めかい?」

 「いえ、雪で筆をとくとまた違うんじゃないかと思って」

 「ははぁ、どうりで寒々した色が出てる訳だ。筆にとっちゃ寒稽古ってとこかな」

 「あ、ごめんなさい。大事にしなきゃいけないのに」

 「なんのなんの。春先には生え変わるさ、ハッハッハ」

 小梅も釣られて笑っていたが、末尾が違っていた。「ハッ、クシュン!」


 この間、他の四人は雪ダルマにかかりきり。炭やキャップで顔をアレンジしたり、ストラップバンド片で飾り付けを試みたり、三十代半ばの男女もすっかり童心に帰って、完全な球体に近づけるべく、そこかしことなでまわしている。小梅のクシャミでバケツがずれたが、ともかく完成。ここで、遅まきながらアラサーの二人がやって来た。

 「じゃ、記念に撮りますか」

 「そしたら、あっちの三人も呼ばなくちゃ。おーい!」

 漂着物の中から這い出してきたようなダルマを真ん中にして、八人が並ぶ。最初の撮影係は千歳。次は十月の回同様、永代先生が買って出る。「今回はbeautifulぅ、というよりはwonderful!かしらン」 霙は激しくなっているが、ドラマチックな写真を撮る上では、ここは我慢。

 「ダルマさんも笑ってますからねー。皆さんもマネしてネ。ハイ!」

 ワンダフルでスマイルフルな一枚がまた増える。蛇足ながら、そのスマイルのU字を形作っているのは、どっかの手提げ袋に付属していたと思しきプラスチックの取っ手である。とってもいいアイデア、と誰かさんが云ったかどうかは知らない。

 

【参考情報】 降雪後干潟 / 2月3日は4℃


降りつもる、降りしきる

59. 降りつもる、降りしきる


 集合時刻から一時間超が経っている。この天候からしてとっととお開きにしてもいいのだが、そうならないのが、この衆のいつものパターンである。

 「ところで櫻姉、今日はどうしちゃったのよ。いつから雪女になったん?」

 「てゆーか、ルフロンが来ちゃったからでしょ?」

 「舞恵は雨と嵐担当。雪とか霙(みぞれ)は連れてこないさ」

 「ま、これで櫻さんのクリーンアップ降水ゼロ記録もストップね」

 「来週は? リベンジ?」

 「今度の土曜の講座で希望を聞いてみてから、ってことにしてあるけど、間隔空けない方がいいでしょうね。三連休の中日だけど」

 「また雪だったら?」

 「そしたら干潟で雪玉転がしてゴミダルマでも作るワ。それを運び出せば片付く...んな訳ないか」

 マダラ干潟は、霙が降り注ぐうちに半透明ながらも白さを取り戻しつつあった。突起物が隠れるくらいになれば、玉転がしは可能。櫻の作戦、ひょっとするとうまく行くかも知れない。だが、何につけ、晴れてもらうに超したことはない。小春日和となればなおのこと佳い。

 暦の上では春を迎える。耐寒だろうが何だろうが、近づく次の季節の足音を聴きながらのクリーンアップは、きっと清々しいに違いない。凍てつく光景を前にしながらも、顔がほころぶリーダーである。


 こちらはさすがに顔が強張ってきている。カモンのおじさんは、呂律(ろれつ)が回らないながらも、千歳にブログの相談を持ちかける。

 「で、隅田君さ、おかげで、し、ひ、日々の由(よし)無し事を綴ってたら、それなりにたまってきた訳さ。ところが、こまっつぁんがおふみさん経由で言うには、コメントだか感想だかをそろそろ受け付けるようにした方がいいんじゃないか、とか、緑のおばさんもさ、カモンとか言ってる割には、見た目、読み手が入りにくい感じねぇ、とか...」

 「ははぁ、読者からいろいろとご要望が寄せられるようになったってことですね」

 「本と違って、中味どうこうよりも機能とかデザインとかの話なもんだからさ。面食らっちまって」

 「次の土曜日、いらっしゃいますよね? その時にでも」

 「よろひく頼んます」

 「よろひ?」

 「ハハ、寒い方がちゃんと発音できるってのはどういう塩梅だろな。えー、やしろ、しきふね...やっぱダメだぁな」


 掃部先生に言わせると、しさよ先生になってしまうんだろうか。その永代(ひさよ)さんは、元教え子と語らいの時を過ごしている。

 「石島さん、もうすっかりお姉さんていうか。色っぽくなった、って言った方がいいかな?」

 「ヘヘ、そりゃ、あのお姉様方と接してれば。実の姉以上に刺激受けますからネ」

 「なーんか全然、ハキハキしちゃってるし。ほんと、よくぞここまで成長したって感じ」

 「先生は? 最近はどうなんですか? 六月クンの話だと、喜怒哀楽がどうとかって。相変わらず、泣かされてるとか?」

 「アハ、今はね、すっかり健全になったのよ。荒れる子がいたら、まずはちゃんと話を聞くように、それを学校挙げて取り組んでみたの。そしたら、家庭とかその子の住む地域環境とかにも原因があることがわかって。で、ご近所の底力じゃないけど、とにかくお節介だろうが何だろうが、周りでその子に声かけしたり、家族みんなで参加しやすい行事をやってもらったり、あとは地域ぐるみで巡回したり地図作りしたりね。そしたらだんだん...」

 「へぇ、地図?」

 「環境版はグリーンマップって言うんでしょ? こっちは安全安心用。色で例えるならオレンジマップってとこかな。一人で歩くと危なそうなところをチェックしたり、逆に子どもたちがのびのび遊べる場所を強調したり、ってね」

 小梅が筆を振るってきたのは、この接点のためにあったようなものかも知れない。その観察眼、端的な描写力は素質のうちだが、蒼葉直伝の体感アプローチが加わったとなれば怖いものはない。堂々と地域デビューできる筈である。何色のマップでも構わない。彼女の目や表現力がかつての学区で求められようとしているのである。

 「そっかぁ、手伝ってもらえばいいンだ。なんか先生、うれし...」

 「なぁんだ、先生のって喜怒哀楽ってゆーか、泣くネタが変わったってことじゃん?」

 永代の目がうるうるしているのは、霙が目に入ったからとかの外的要因ではない。つまり、ちょっとしたお涙シーンな訳である。が、

 「オイラ、よく怒られるけど...」

 六月が割り込んでくるもんだから、穏やかではない。

 「ホレ、またそうやってぇ!」

 「おぉコワ。鬼の堀之内ナノだ」

 鬼だけどウチ? いや、今はすでに外に居るから... とにかく鬼の件はまた別途。


 先刻から耳をそばだてていた冬木と蒼葉が近づいてくる。三人は幾分見上げるような感じになるが、永代は小梅の顔の上げ方が自分と同じくらいということにふと気付く。

 「ここなら平坦かしら。石島さん、ちょっとアタシと並んでみてくれる?」

 「あ、ハイ...」

 「まぁ、同じくらいじゃないでしょか」

 蒼葉の目測では、二人の背丈は一線。永代は小柄な方なので、中学二年の小梅に追いつかれてもおかしくはなかった。

 「ここ一年、特に夏頃からまた伸び出して... エヘヘ」

 快活さを取り戻したのに合わせるように、背も伸びたということになる。逆を言うと、それまでは伸長を妨げる事情があった、ということか。

 「てことは、小学校の頃の背の順は?」

 「小梅、小っちゃかったんです。前から二番とか三番とか。しかも弱虫だったから、今思うと、イジメに近いことされてたな。だから、高学年の頃は、あんましいい思い出ってないの」

 どの程度、荒(すさ)んでいたかは推測しかねるが、永代も一緒に泣いていた、というくらいだから、いわゆる学級崩壊のような現象に見舞われていた可能性は高い。

 「あん時はアタシも挫けちゃってね。力になれなくて、本当ゴメン...」

 「いえいえ、そんな。当時はそれでも先生が頼り。いろいろとありがとうございました」

 「え? 初姉さんとか、支えてくれなかったの?」

 蒼葉は専らインタビュアーである。

 「お姉ちゃんはただ怖い存在でした。ピリピリしてて近寄りがたくって。だから、あとは中学に入るまで我慢我慢、って感じ。でも、期待してた割にはそんなに変わらなかった、な...」

 こうなってくると相槌は無用。とにかく話したいように話してもらえば、それでいい。

 「塾は好きだったんです。で、そのおかげでここに来れて、皆さんと出会って...」

 いつしか、櫻、舞恵、千歳、清の四人も集まっていて、かつての弱虫さんを優しく囲んでいる。

 「今では学校でも怖いもんなし。クラスでも姉御って言われてます。ヘヘ」

 いつしか霙は弱まり、再び軽やかな粉雪に戻っている。そして音を立てずに積もっていく。それは彼女の痛々しい過去を癒すように、そっと、そっと...


 感極まった永代は、幾条(いくすじ)も涙を流しながら、ただただ頷く。千住姉妹はもらい泣き。ルフロンも目頭を押さえている。千歳はやはりこみ上げる何かを感じていたが、それは感情的なものよりも、観念的なものだった。「荒れるのは子どもたちだけじゃない。大人だって、社会だって。そんな心の荒れがゴミの投棄や散乱を招くんだとしたら...」

 その延長で思い出すは、五月に櫻と話したこと。「自分さえよければの成れの果て、って櫻さん言ってたっけ」 初心忘るべからず、と肝に銘じる発起人であった。

 学級が立ち直ったのは、地域の眼差しやつながりのおかげ。とすると、散乱・漂流・漂着ゴミについても、同じことが言えるのではなかろうか。センターでの月例講座、クリーンアップ&グリーンマップは、順序はさておき、やはり大いに連係されるべきテーマであることを千歳は確信する。地域の関わりが何よりの抑制策になるであろうこと、その関わりを取り持つのがマップなら、関わりを実感するのが現地行動、つまり調査型クリーンアップ、ということ。櫻はグリーンマップを思いついた時からこれと同じような着想を得ていたが、As-Isレベルで良しとしていたため、それ以上の策は練っていなかった。先月の協議でTo-Beの話が出て、ようやく積極策(または抑制策)につながる活用法を見出した段である。

 来る講座では、環境行動の一手法としてのクリーンアップを話すつもりでいた櫻だが、翌月のマップ講座と関連付けて、地域行動の側面も打ち出すことを思い至る。仮に探訪部会のテーマとして「地域再発見」を標榜するのであれば、地域の良さを見つけるということ以上に、地域と自身の関わりを発見してもらうことに重きを置くのもいいだろう。その関わりこそが何よりの予防につながり得る。法人名の略称「イイカンケイ」、そのものである。永代と小梅の語らいは、今後の取り組みの主題を導くこととなった。この貢献度は決して小さくない。

 まだ涙目ではあったが、千歳と熱い視線を交わし合っているのは、恋心というよりも、いつもの以心伝心が働いているため、である。声にはしなくとも、相通ずるものを感じる。これをいい関係と言わずして何と云おう。


 清、冬木、舞恵は何やら立ち話をしている。かつての喫煙者、現役喫煙者、年改まってから禁煙を始めた女性という組合せなので、タバコ談議をしていてもおかしくはない。目に見える煙は立っていないが、その是非を巡って結構な口論が展開されていて、今にも煙が立ちそうなほど。一方、他の六人は一斉に息を吐くと、そこに煙霧が立ち込めるが如く白々とした中にいるが、煙たい話は一切なし。話題は春の房総の旅について、である。

さ「卒業式後、春休みの平日ってなると、二十四日ってことになりますか」

む「オイラ、イベント列車に乗りたかったけど、工場が休みじゃ意味ないんだよね」

あ「なら、六月君は泊りがけにしたら? 土曜日曜だったら乗れるんでしょ?」

む「二十二日に快速列車が。でも、全車指定だし、朝早いし... だいたい、一人で土日泊まり?」

ひ「お兄さんがいるじゃない?」

あ「っても、千兄さんは櫻姉さんと一緒だから」

 千歳、櫻ともに、「ハハ...」 って泊まりで出かけるつもりだったのか?

さ「せっかくだから、東京湾の外側の海辺を見に行けたらなぁってのはある。どう?」

ち「外湾ってこと?」

さ「確か富津岬を越えた辺りの最初の... 六月君、知ってる?」

む「東京近郊はだいたい頭に入ってるけど、近郊の先はちと怪しかったりする」

こ「上総湊とか浜金谷とかは家族で何年か前に行ったけど... そっち方面?」

 上総湊とはまた渋いところに出かけたものである。湊のトーチャンが名前つながりで寄り道した、とも考えられるが、外湾に出やすい駅の一つであることも事実。

む「オイラ、調べてみる。その岬から南で、海の近くの駅だよね」

さ「よろしくネ。じゃあ二十四日を第一候補にして、メーリスでまた呼びかけるとしますか。小松さんにも来てほしいし」

 春の内房、花と海... 想像するだけで暖かくなってくる。束の間ながら、寒さ和らぐひとときを得る六人。ただ、千歳にとっては花粉症に悩まされる時節というのがお気の毒様である。

 「マスク着用で、春の海辺か。冴えないなぁ...」

 漂着ゴミの調査ということであれば、その方が調査員ぽくていいとは思うが、どうなんだろう。


 マスクが呼び水になったか、調査員モードの千歳はいつものようにガサゴソやり出すと、マイカップならぬ「マイ枡」を取り出した。

 「拾い物じゃございませんよ。ちょっとした縁起物です」

 「て、隅田さん、雪見酒でもやるつもり?」 永代先生が軽くツッコミを入れると、

 「そっかぁ、こういう時は熱燗(アツカン)って手があったなぁ」 もう一人の先生がトボけたことを云う。

 「いえいえ、櫻さんがね、いいものを持って来てるはずなんで」

 「あ、そうだ。忘れてた」

 文花から頂戴した福豆を、そのやや大きめの枡に注ぐ。

 「ま、これで鬼ごっこすればあったまるでしょ? ネ、千歳さん?」

 「?」

 用具を提供したのに、再び追われる立場になってしまう千歳である。

 「櫻姉、ズルイ! 私も」

 枡は一つしかないが、入れ物ならいくらでもある。蒼葉は雪を盛っていたトレイに今度は豆を載せ、参戦。小梅も撒く側に加わる。舞恵は半ば呆れつつも、

 「ホラ、エド氏もよ。煙を出す人は撒かれてらっしゃい」

 いつの間にやら、六月も豆を分けてもらっていて、すかさず担任にぶつける。

 「鬼は外! 堀之内!」

 「やったなぁ!」

 「うへぇ、これじゃいつもとおんなじだ」

 何故か退治される方が退治する方を追っかける展開になる。だが、これは学級で繰り広げられているのと同じ光景のようである。

 おじさん先生の方は、そんな鬼ごっこを悠然と見物していたが、舞恵と一言二言話していたら、不覚にも流れ豆の洗礼を受けてしまった。

 「ハハ、カモンのおじさん、大丈夫?」

 「ま、鬼みたいなところはあっかも知んねぇけどよ、年寄りはいたわってもらわねぇとな」

 とか言いながら、雪球を一つ二つ作って早くも応戦。気が付けば、豆だ雪だで大騒ぎ。何となく紅白戦のような陣形になっているからまた可笑しい。こう見えても平和主義者のルフロンは、雪ダルマの陰に隠れて、愛想が良いようなそうでないような顔をしながら観戦している。

 「たく、滑って転んでも知らんぞい。ねぇダルマさん? っとと」

 豆が転がってた訳ではなさそうだが、思わず足を取られるルフロン嬢。ダルマさんが転んだら、それこそシャレにならない。


 ゴミを散らかしてしまうのは、悪い鬼に憑かれているからだと考えると、この豆まきで少しはお祓い、つまり予防になるやも知れぬ。

 「いい運動になったし、スッキリしたワ。これでゴミも減ってくれれば言うことなし!」

 「櫻さんにはかないません」

 「ホホホ。では皆さん、またセンターでお会いしましょう!」

 十一時半を回り、本日の下見、いや節分会、いやいや合戦? 何はともあれ、干潟での行事はこれにて終了。


 永代先生は教え子達を連れ、駅方面に向かった。掃部先生は、再び雪面ライダーに変身して、颯爽と、いや怱々(そうそう)と、ま、とにかく走り去って行った。

 冬木は雪景色を記録するんだとかで何となく残っている。今日はここまで珍しく口数が少なかったが、ようやくいつもの調子で話しかけてきた。

 「ところで今日、彼、宝木さんは?」

 「あれでも夏男なんで、寒いのが苦手なんスよ。雪が降ったらパス、って予告してましたし」

 「そっかぁ、彼にちょっと話したいことがあったんだけど...」

 「ま、この舞恵さんでよければ、承りますことよ。八クンのマネージャー、いや、世話人て自認してますから」

 来場時もご一緒だったが、ここへ来てまた二人して... 千歳と千住姉妹は、ヤレヤレといった面持ちながら、気を遣って距離を置いてみる。

 「はぁ、八クンを。それって、ハンティングみたいなもんスかね」

 「えぇ、彼にその気があれば、ですが」

 春に向け、ちょっとした動きがまた一つ。チームを率いるだけのことあって、実は面倒見のいい人物だったりするのである。そんな冬木はさらなる申し入れを試みるべく歩み寄る。

 「で、これは櫻さんにお尋ねなんですが、今度の土曜日、取材を兼ねて講座に出させてもらえたら、と。構いませんか?」

 「来月の情報誌ネタってことですね。載る前にチェックさせていただけるなら」

 面倒見がいいのは、勿論自分自身も含めて、である。そうした抜け目なさは、櫻も重々承知しているので、断るには及ばない。だが、昨年来、ゴミにまつわる記事の比重が高くなっているような気がするが、それでいいのだろうか。

 「春先からは、エンタメ系とかファッションとかも採り入れる予定なんで。ま、引き続き皆さんにはお世話になると思いますが」

 少々含みのあるご発言だが、期待しないで(?)待つとしよう。ソーシャル某とどう結びつけるのか、その辺も見所である。


 合戦場(かっせんば)に散りばめられた足跡を埋めるように、強めの雪が降りてくる。干潟も銀世界と化した時には、もう誰も居ない。

 そして路線バスの車内には、車線を挟んだ先、干潟を見つけようと目を凝らす四人が居る。漂着物も何もあったものではない。ただ、雪に霞む真っ白な川景色が広がるばかり。さっきまでその白の中にいたことがどうにも信じ難い。急に肌寒くなってきた。

 「この雪じゃ豆まき行事もお預けかしらん?」

 「何よ、ルフロン、豆まきしたかったの? 言ってくれれば...」

 「ウンニャ、撒く方じゃなくて、キャッチする方をネ。ま、そうは言っても行員となると、協賛品を撒く側だから、まずありつけないんだけどぉ」

 「ま、いいじゃない、今日はおとなしく、音楽会♪」

 「おとなし? それじゃ音楽会にならんさ」

 いったいどんな会になるのやら?


 かくして千住宅に新たなゲストが招かれ、昼食もそこそこに、午後は別棟(はなれ)でセッションが繰り広げられる。舞恵のハミングを櫻がピアノで拾う。千歳はそれを聴きながら、ドラム、ベース、ギターと頭の中で重ねてみる。音世界が拡がり、やがて波や潮の動きが感じられるようになってきた。SE(sound effect)で実際の音を入れるのも悪くなさそうだ。だが、何よりもピッタリ来るのはパーカッション。舞恵の意図は正にそこにある。

 「どう? ボサノヴァ調にできればなおいいなって」

 「へ? ボサボサ調?」

 「櫻姉ったらぁ。舞恵の自信作なんよ」

 「ゴメンゴメン。で、タイトルは?」

 「そうねぇ、新作だからヌーヴォーってのを入れたいとこだけど、ボサノヴァでフランス語って変よね?」

 外は雪だが、中では温暖な水辺が再現されている。水辺、川辺、いやその心は、

 「八クンとも相談するけど、やっぱ何とかビーチかな?」

 「干潟もビーチのうち、だもんね。つまりhigata@のテーマ曲? じゃ、歌も皆で?」

 「それもアリだけど、メインはお二人さん。デュエットなさいな」

 「ルフロン...」

 舞恵はアーティストではあるが、なかなかの役者でもある。縁結び役という意味では、二人の方が謝意を示さなければならないところだが、彼女に言わせると、

 「舞恵からの気持ち。二人のおかげでいいこといろいろあったんでネ」

 そういうことなら、余計にしっかり歌のレッスンに励まねば。だが、詞がないことには仕方がない。とりあえずハミングしながらの音合わせとなる。

 受け持つパートについて二人がどうこうやり出したので、自称アーティストさんは、アトリエをブラブラ。暗がりで立てかけたままになっている油絵が何枚もあることにふと気付く。

 「ひょえー、これって...」

 蒼葉画伯の作品に目をパチクリ。その一枚は、かつての漂着静物画をモチーフに、油彩で描き起こしたものだった。そのインディゴのようなラピスラズリのような深い青に深く溜息。アーティストならではの感性が働いたか、画からはメッセージめいたものが聴こえてきて、止まない。同じ水辺でも、視点が違うと訴えるものも変わってくる。それにしても...。

 舞恵はこの日、この一品を拝借し、静々と帰って行った。受けたメッセージに対する答えは、いずれ何らかの形で披露されることになる。


 アトリエでは、引き続きピアノが清らかに流れていた。およそ半年前、櫻が八月病を患っていた頃から暖めてきた「新曲」である。

 「何だか泣けてくるねぇ」

 「千さんだけに、センチになっちゃった?」

 だからと云って、曲名がセンチな某になることはない。作曲者は当時を想って「晩夏」の二字を入れる一存だそうな。詞の方もその線で練っている最中だと言う。冬から春にかけた時節に、夏から秋に得た情感を歌にするというのは難しそうではあるが、逆に想像力をかき立てられるので好都合。そして晩夏に深めたその想いを分かち合いたい人が今、傍にいる。これ以上ないシチュエーションで、櫻は新曲の完成度を高めていくこととなる。

 雪は止んだが、二人の心にはどこか雪のような、純粋で軽やかな何かが舞い、降り頻(しき)っていた。

 

【参考情報】 春の行楽列車~内房線の場合