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第一章 一番目の神様

 阪神香櫨園駅の上りホームは次第に混み合ってきた。神戸方面へ向かう会社員や学生が、八時台の電車に乗るために続々と構内の階段を上がってくる。駅は途端に人であふれる。

 

 

 高遠は改札からホームへ上る階段が最も近い、七人ほど並んだ列の最後尾に立った。朝のひんやりした空気を吸い込み、ブリーフケースのベルトを肩に掛け直しながら見慣れた朝の光景を眺める。

 香櫨園駅は幅三メーターほどの夙川に架かる高架駅で、川の土手は桜並木の続く遊歩道になっている。もうすぐ薄桃色に埋め尽くされ、ため息が出る程美しい時期を迎える。駅周辺には静かな住宅街が広がっている。阪神間という位置にありながら六甲山と瀬戸内の海に挟まれた街は緑も多い。

 特急電車が風を巻き上げながら、通過して行った。この後、五分ほどで須磨浦公園行の普通電車が到着する。神戸の中心地三宮まで、二駅先の芦屋駅で特急に乗り換えて三十分ほどだ。電車の去った方向を見ていた高遠は、腕の時計を確かめた。

 

 

 背後のエスカレーターをタンタンと駆け上がって来る足音がして、高遠は何気なく振り向いた。特急の通過した音に慌てたのか、上がってきた若い男がホームでホッと息を吐いている。そして不愉快そうに後ろを一瞥した。男の視線に誘われ、エスカレーターに目を向ける。そこにパンツスーツ姿の若い女性が現れた。やっと着いたと言わんばかりに足を止め、大きく息を吐いている。男はこの女性に行く手を塞がれたのだろう。焦っているときは何に対しても苛立つものだと思いながら、視界に入った女性を見る。二重のはっきりした大きい目が印象的で、笑みを浮かべ、持ち上がった頬にはえくぼが出ている。長い髪を後ろで束ねているので、白くほっそりとした首筋が目をひいた。OLなのだろうかと、彼は眉を上げる。綺麗な子だが、濃紺のパンツスーツに薄化粧で地味な印象だった。それに落ち着かない様子でホームを見まわしている。

 ようやく一歩踏み出した彼女に、高遠は一瞬眉をひそめた。小ぶりのリュックを背負い、いからせた肩に腕を突っ張っている。手には黒いステッキの柄がしっかりと握られていて、スニーカーの足が歩みを進める度に、かくんと左右に体が揺れる。左足をかばうように歩いているのだ。

 足が不自由なのか――高遠は、慌てて視線を線路に戻した。

 背後をこつんこつんとステッキの音が響き、彼女は隣の車両の列へ並んだ。高遠は何気ない素振りで、二メートルほど離れた彼女を再び窺った。左手のステッキで体を支えながら立つと、右手に掴んだものをじっと見つめている。こげ茶の磁気面が見えたので、それが定期券だと分かった。彼女はそれを見ながら、にっこりと笑った。

 その時、駅のアナウンスが普通列車の到着を告げた。彼女は顔を上げると、大事そうに定期券を上着のポケットに仕舞い、また強張った表情に戻った。不安そうに唇を引き結び、ステッキを握り直している。

 可愛い子なのに気の毒にと、電車の来る方向を見ながら、高遠は心の中で呟いた。

――「普通電車、須磨浦公園行きの到着です。危険ですので、白線まで下がってお待ちください」

 アナウンスが終わると、電車がゆっくりとホームに滑り込んで来た。キキッと金属音がして、重い車体がエネルギーを徐々に放出する。ドアが目印の位置に正確に止まると、混んだ車内で扉の開くのを待ちわびる人が見える。高遠はいつものように、降りる人に道を開け、ドアが開くのを待った。

 シュッと油圧の音がして、ドアが一気に開くと、人が固まりになって降りて来る。学校の多い地区なので、この時間は学生も多い。乗る者は端に寄り、列を乱さず前に詰める。高遠の列が乗り込み始めた時、「キャッ」と小さな悲鳴が聞こえた。見ると、隣の車両のドアから降りてきた人が戸惑っている。あの足の悪い女性が降りてきた人に押され、高遠の方へ近づいてきた。女性はよろけて、今にも転びそうになっている。

「何やってんのや」

 つっけんどんにそう呟くと、高遠は躊躇うこともなく彼女の腕を掴んだ。目を見開いて驚いた顔が、彼を見上げる。

「道を開けないと、降りた人が通れんよ。ほら、こっちに並んで」

「あ、はい。すみません」

 真っ赤な顔になった彼女は、引っ立てられる罪人のように腕をつかまれ、横に立たされた。口を引き結んだ彼が、乗り込む人を見つめていると、

「あ、あの、電車に一人で乗るの初めてで。すみません」

 と、彼女はちらっと視線を向けしょぼくれた様子で言った。

「はじめて?」

「はい、一人ははじめてなんです」

 高遠は呆れた顔で、彼女のきりっと束ねた髪の垂れるうなじを見下ろした。恥ずかしそうに俯いた横顔は、きゅっと唇を噛んでいる。

 ホームに発射を告げる電子音が流れ、アナウンスが響いた。高遠は乗りかけた彼女を支えるように右腕を掴んだまま、混みあった車両へ押し込んだ。背後ですぐにドアが閉まる。

「大丈夫?」と、おどおどと落ち着かない瞳の彼女に、腕を放して声を掛けた。

「はい、大丈夫です」

 彼女は乗客の背に押しつぶされるようになりながら、軽く頭を下げた。長身の高遠にはなんでもないが、小さな女性には出入り口の混雑は堪らないだろう。特に足の悪い人にとっては。彼は電車の揺れに合わせて動き、背後のドアの開閉スペースに進んだ。再び腕が引っ張られて高遠の意図が分かったのか、壁面に背をつけた彼女は、「すみません」とまた謝って、恥ずかしそうに笑みを浮かべる。高遠は「いや」と短く答えて慌てて目を逸らし、そのまま吊り輪を握って奥へ進んだ。知らない女性に感謝の視線を向けられることに、妙な照れくささを感じた。彼女はホッとしたように壁にもたれ、目を伏せている。

 電車は押し黙った乗客を乗せ、速度を増す。

――「車内混みあいまして、ご迷惑をおかけしております。次は打出、打出でございます」

 頭上からアナウンスの声が降るように聞こえた。高遠は彼女に背を向けた。

打出駅に停車すると、乗ってくる人ばかりですし詰め状態になった。彼は反対の扉まで押されながら、何気なく開いたドアの方を振り返った。開閉スペースに立ち、あの女性が顔を上げ彼のほうを見ていた。そして目が合うと、微笑んで頷いた。頬がほんのり赤くなっている。高遠は無関心なそぶりで顔を背け、前髪をかきあげるとその手でつり革を掴んだ。

 芦屋駅に到着して、押し出されるようにホームに降り立つ。混んだホームで特急待ちの列に並んだとき、もう彼女のことは高遠の頭から消し去られていた。

 

 * 

 

「須磨店の売り上げが予想以上に悪いなあ」

 ブラインドの下りた大きなガラス窓を背にした山本部長が、デスク上に広げたデータのコピーに目を落として、唸るように言った。不満そうに背を起こし、もたれた回転椅子をギッと鳴らす。斜め前のデスクで、キーボードを叩いていた高遠が顔を向ける。

「徒歩圏内に大型書店が出来ましたからね。最悪の状況でしょう」

 そう応えて高遠は立ち上がり、山本のデスクの横に立った。須磨店の売り上げデータの下に赤いマーカーで線が引いてある。一月前にオープンした競合店に客が奪われているのは一目瞭然だった。売り上げの数値は昨年対比を三〇%割っている。部長は眉根を寄せると、高遠を見上げた。銀縁眼鏡の奥の目が、困惑したように細められる。

「野山をカバーして、何とか手を打つ算段をしてくれんか。このままだと、競合店に飲み込まれる。三田市の新店はもう店長の幸田君に任せても大丈夫やろ」

「分かりました。須磨店の野山に状況を確認して、店の様子を見てきます」

 高遠はデスクに広げられたデータをつぶさに見た。気にはなっていたが、先月オープンの三田店の指導にずっと時間を取られていて、まだ店の様子を見に行ってはいない。

 五年前に大手スーパーの二階にオープンした二〇〇㎡の須磨店は、高遠が担当する兵庫地区の要といえる一店舗だ。それが徒歩圏内にできた、駐車場を持つ大型書店に押され、売り上げを落としている。

 高遠はデスクに戻り、PCに向かうと早速須磨店のデータを呼び出した。店長の野山は須磨店に雇われる前にも、大手の書店で十年間働いていた。今更自分が助言することなどあるのかと思いながら、高遠はデータを食い入るように見つめた。

 高遠の勤めるアバンティ書店は、関西を中心に店舗を展開している。彼は神戸営業所の店舗運営部に属し、課長として山本の下で、兵庫県下の店舗管理を受け持っていた。

昨今の書店事情はいうに及ばずよろしくない。商店街に軒を連ねた小さい本屋は、この業界から締め出しを食らっている。高遠の勤める会社がまだしも業績を上げられるのは、大手のスーパーの中に系列企業として出店しているからだ。須磨店もそうした店だった。

「本部も心配しとる」

 と、山本は鼻に掛かったメタルフレームを指で押し上げると腕組みし、小太りの体を高遠に向けた。高遠は頷いて、またデータに見入った。

 神戸営業所のワンフロアのオフィスは、真新しい駅前のビルの八階にある。本部の出先機関で人数は少なく、五十歳の山本部長をトップに、あとは高遠を含めて五人のスタッフと女性の事務社員が一人いるだけだ。兵庫県下を治めるのは、多忙を極める。今は本部のある大阪や、古い店の多い京都より店舗数が多く、大小合わせ二十店になっている。営業事態は店長に任せることが常だが、数字的なことと、思わぬ事態に備えるのが運営部の責務だった。そして本部の意向を生かすことは、当然彼らの最重要な仕事だ。

 向かいのデスクで、入社二年目の若い田崎が電話を受けている。彼の困惑した様子から、どこかの店舗で問題が起こったらしい。田崎は学生っぽさが残る顔を曇らせ、救いを求めるように高遠を見た。

「代わろう」

 高遠はデスク越しに手を差し出し、田崎から受話器を受け取ると、神妙な顔で耳に当てる。受話器の向こうで、苛立った女性店長が早口に捲くし立てている。どうやらアルバイトが突然辞めたらしい。人繰りがつかず、人件費節約の方針に不満をぶつけている。高遠は明るく返事をしながら、ヒステリックに尖った声を受け止めた。

 

 

 次の日の朝、高遠はいつもと同じ時間に家を出た。

 澄み切った青い空を称えるように、小鳥のさえずりが聞こえる。木々はまだ空に枯れ枝を突き出しているが、暖かい春の日差しにエネルギーが噴出そうとしている。枝を重ねるように続く桜並木は、ちらほらと薄いピンク色の花が開き始めた。駅へ向かう人々の足取りも軽やかに見える。

 しかし、彼の気持ちは快適とは言えなかった。昨晩、悩める後輩の田崎を、気晴らしに三宮の行きつけのバーに連れて行き、最終電車で帰宅したことで寝不足だということもある。つい男同士の気安さから、翌日に残るほど酒を飲んだのも事実だ。しかし一番の原因は、出かけに母に、

「美紀さんとはどうなったの?」と訊ねられたことだ。おまけに、

「もうそろそろ年貢を納めたら? 三十歳過ぎても、親元から通っているなんてねえ」と、靴を履いている背に溜息を吐かれたのだ。

 佐々木美紀は大学時代に知り合い、彼と十年以上つき合っている女性だ。結婚を考えてもよい関係だったが、一月前に思わぬことでそれが叶わなくなった。まだ、母親にはそのことを告げてはいない。

 美紀の名を口にされるのは、彼にとって今は面倒なことだった。母親の口から聞くと、結婚という世間でいう「おめでたい」ことが、彼の身にも現実味を帯びてくる。しかし今まで二人の間で結婚については話を深めたことはなかった。お互い仕事が充実しているからというのは、言い逃れに過ぎない。同い年で三十二歳になる二人は、けじめをつけるには遅すぎるくらいなのだが。

 高遠は母の不機嫌な顔を思い出し、ふんと鼻であしらう。美紀を家に呼んでから、年貢を取り立てようと責める代官は母その人だ。

 自動改札を通り、ホームへの階段をゆっくり上った。いつものように四両目の列に近づくが、高遠はふいに足を止めた。最後尾に昨日の足の悪い女性が、立って笑っている。

「おはようございます」

 と、ゆっくりと近づいた高遠に、女性は軽く会釈した。

「おはようございます」

 そっけない挨拶を返すと、彼女ははにかんで頬を赤く染めた。

「昨日は有難うございました」

 彼女は後ろに立った高遠を振り向き、軽く頭を下げ小さな声で言った。

「いや、礼を言われるようなことはしてませんよ」

 無表情に言うと、彼女は足元に目を落とした。言い方が冷たかったかと、彼女のほっそりとした肩をちらりと見やった。今朝は白い春用のハーフコートを腰のベルトで締め、テーラーカラーの襟ぐりからピンクの薄いセーターが覗いている。昨日よりは華やいだ格好で、うっすらと化粧もしている。でも、黒のパンツの裾から覗いているスニーカーが、折角のおしゃれな装いを台無しにしていた。それに手にしっかり持った黒いステッキも。

 一つ咳払いすると、

「君はお勤め? 何処まで乗るの?」

と、平坦な口調で訊ねた。途端に、しっかり束ねた髪が跳ねるほど、彼女は性急に顔を上げた。

「あ、はい、勤めています。昨日からですが。職場は須磨なんです」

頬が赤らみ嬉々とした表情で答える彼女に、高遠は思わず微笑みかけた。

「昨日から? じゃあ新入社員なんやね。だから緊張してたんやな」

「はい。昨日は電車通勤……、電車に一人で乗るのは初めてで、緊張しました」

 高遠は怪訝な面持ちで眉を上げたが、初めてと言った理由を聞き返えさなかった。何にしても知らなくて良い他人の事情を、逐一聞かされるのは気が重い。こうして見ず知らずの女性と挨拶を交わすことも面倒な気さえする。勤め始めてから十年間、この駅で乗客と言葉を交わすのは初めてのことだった。もし親しくなって朝から話題を気にしながら、電車を待つことを思うと億劫になる。

「すぐになれますよ」

高遠はブリーフケースを肩にかけ直し、腕を持ち上げて時計を見た。そして一歩彼女の後ろへ下がる。彼女の顔が高遠を追うように動いたが、すぐに前を向いた。高遠は電車のやってくる線路の先を眺め、あと数分だと口の中で呟いた。

しばらくして普通電車が走りこんできた。電車がスピードを緩めるのを目で追いながら、視界の隅に彼女の心細そうに動く頭と白い首筋を捕らえた。

車内はいつもより混んでいて、ドアに押し付けられた人が、開くと同時にホームに一気に吐き出された。発射の音楽が流れたが、まだ乗り切っていない。高遠の前で、彼女は動けないでいる。

「発車するよ」

高遠は後ろから彼女の背を抱えるように支え、そのまま自分の体を車内に押し込んだ。ゆっくりと背後で扉が閉まる。

彼女は丁度高遠の胸に抱かれるようにして、乗客との隙間に小柄な体をはめ込んでいる。今朝は身動きできないほどに車両は詰まっていた。彼女の前に中年の男の背が寄りかかっていて、高遠はつぶされそうな彼女を、抱きかかえるように体を挟んだ。

彼女ははっとした顔を向けて、

「すみません」

と呟くと、黒い瞳が彼の視線とぶつかり、慌てて下を向く。不可抗力といっても密着した状態では、彼女の華奢で、その上しなやかな体を感じずにはいられない。回した手は彼女の肩甲骨の上で、呼吸のたびに上下する細かな動きを伝えてきた。

 二駅だけの辛抱だ――と、高遠は背で男性を押しながら、彼女に負担が掛からないようにかばった。

――「次は打出、打出でございます」

 アナウンスに耳を傾けながら、腕の中の彼女から匂い立つ甘い花の香りに息が詰まりそうになる。俺も男だなと、彼は顔を上げる。

しかし電車が揺れるたびに、彼女に回した腕に力を入れねばならなかった。密着して、不快感をあらわにしていないか気になり落ち着かない。彼女は観念した小動物のように息を潜めているが……。高遠は知りもしない女性のために、緊張を強いられている自分に苛立った。そして、つい言葉が口をついて出た。

「この車両は一番混むんや。もっと端の車両に乗り込んだら、楽なんやない? 君みたいな体の人には混んだ車両は大変やろう」

 腕の中のほっそりした体が、途端に強張るのを感じた。高遠はハッとして彼女の顔を見下ろした。前髪の分け目から、白い額と伏せられた長い睫が見えた。

「すみません。迷惑をおかけして」

 電車の音にかき消されそうな小さな声で、彼女は詫びた。高遠はあからさまに障害のことを口にした自分を心の中でなじった。彼女を傷つけたと思うと、ますます罪悪感が大きくなる。

「迷惑やなんて……」

 と、綺麗に梳きつけられた彼女の頭に呟いたが、小さく溜息もこぼれた。

 迷惑だ!――高遠は名前も知らない女性に、朝の自分のリズムをかき乱されていると伝えたくなった。困っているから同情しただけだ。他の人のように、知らない振りが出来なかっただけだ。馴れ馴れしく挨拶してきたのは君の方だ。矢継ぎ早に頭の中を、苛立ちが占領する。

彼女は打出駅に近づき電車がブレーキを掛け始めると、高遠の腕の中で体を回し、彼の胸に肩をつけた。そしてドアが開くと、体を無理やりに奥へと突っ込んだ。人が乗り込んできて、高遠も反対の扉まで押しやられた。二人の間に学生風の男が割り込み、完全に遮られた。高遠は手持ち無沙汰になった手に、ブリーフケースを抱え込んだ。

別に彼女に責任を負う必要などない。体が不自由だからと、そんな気持ちを抱く方が失礼だ。彼女がどう思おうと、親切心で言ったことだ。そう思ってチラッと彼女の顔を覗くと、顎を上げた横顔が無表情に強張って見えた。

高遠は動き出した電車のドアの窓から、細めた目で見慣れた景色を眺めた。気分は最低だった。

 

 *

 

 

疲れているのかもしれない――と、高遠は水割りのグラスに口をつけながら思った。スポットライトがグラスの氷を煌かせている。呟くようなギターの音色が響く、薄暗いバーのカウンターにひじを突き、ウイスキーの熱をふっと吐く。今夜はアコーステイックギターの旋律が妙に物悲しく、心の隙間に浸み込むような気がした。

「いい曲ね」

 と、美紀がカウンターの中で、カクテルを作っているマスターに微笑みかける。

「ボンジョビですよ」

 と、白髪まじりの口髭を蓄えたマスターが答える。浮かんだ笑みに、顔の皺が深く刻まれる。

「ここは落ち着くから、好きよ」

 美紀はオレンジ色のカクテルの入ったグラスを傾けた。ストレートのセミロングの髪からのぞく形の良い耳に、黒いひし形のオニキスのピアスが揺れている。ぴったりしたハイネックの黒いニットに、タイトな膝上丈のクリーム色のスカート。ノースリーブの肩口から伸びた、細くてしなやかな腕がカウンターに肘を突いている。高遠はすっと伸びた鼻筋と少し目尻の上がった目が煌く、整った横顔を眺めた。自分と同じ歳の、世慣れた大人の落ち着きのある顔。職場でも、酒場でも、彼女は自分の品格を落とすようなことはない。いつも毅然として、知的で美しい。

しかし仕事帰りの二人の、週に一度のリラックスした時間のはずが、今夜はいつになくよそよそしい感じがした。

「で、どう思う?」

 美紀がカウンターに肘を突いたまま、不意に高遠に顔を向けた。彼女のすっきりした顎に、細い指が当てられている。高遠は覚悟していたというように、こくりと含んだ酒を喉に落とした。

「どうって、東京本社へ転勤なら、いい話やないか。断るつもりはないんやろ?」

 美紀はグラスを置くと、体を抱くように二の腕を掴み、重いため息を漏らした。

「行ったら、私……、もう帰ってこないわよ」

美紀が皮肉るように鼻で笑った。千葉で生まれ育った美紀は、こういう時、いつも関東弁でぴしゃりと言う。冷たく見えるほど整った顔には、そのアクセントが似合っていると彼は思った。

高遠は再びグラスに口をつけた。舌先に苦い味を感じ、すぐに喉に流し込む。どう言えばいいのか、高遠の頭の中にはすでに言葉が出来ているが、それが声になって出てこない。

「貴方っていつもそうよね。自分が責任を負いそうな時はだんまりを決め込むか、気安く同意する」

美紀は顎をしゃくり、乾いた笑い声を立てた。

「まあ、だから学生時代からずっと、こんな煮え切らない関係を続けてこられたのかも」

高遠はシェイカーを振るマスターをぼんやり見る。三宮駅の北側にあるこのカクテルバーに、美紀と飲みに来はじめてから、十年になる。お互い就職をして、はじめての給料でデートし、開かれた未来に祝杯を挙げたのがここだった。あの時のはじけた彼女の笑顔と、グラスのぶつかる乾いた音を不意に思い出す。確かにお互い仕事にまい進していたということもあるが、煮え切らないと言うのは、十年経っても何の変化もない二人に、ぴったりの言葉に思える。

「ねえ、気づいてる? 私たちって喧嘩らしい喧嘩、したことないのよ」

「え? そんなことないやろ」

前を向いたままでうっすら笑みを浮かべた高遠を、彼女は睨めるように見つめた。

「私はいつも起爆剤の役目を果たしたけど、貴方が爆弾処理班として優秀だったからだわ」

「すごい例えやなあ」

 高遠は声を上げて笑うと、目が合ったマスターに肩をすくませて見せた。髭のマスターは眉を上げて、困ったように片方口角を上げた。美紀はまた溜息を零すと話を続けた。

「煮え切らないのは、私のせいだなんて思わないでね」

「そんなこと思わんよ。でも、君にとって仕事が一番やってことは理解しているつもりやけど」

「そうね。おかげで私は、東京本社の新規事業に参加できる切符を手にした」

 美紀はグラスに残ったオレンジ色の酒を、艶のある唇に流し込んだ。ジンをオレンジジュースで割ったカクテルが、彼女のお気に入りだった。

 高遠は、マスターにお替りを頼んだ彼女を横目に見た。そして彼女はもう東京行きを決心しているだろうと思った。行くなと言ったところで、どうなるものでもない。生まれ育った関東へ転勤することに戸惑いなどあるはずが無い。それも間違いなく栄転だ。

 美紀とは大学が同じで、サークルで出会った。高遠が文芸サークルに入ったとき、美紀がすでにいて、それからずっと仲間だった。勿論その美しい容姿に惹かれたが、知り合ったとき彼女にはすでに一つ先輩の恋人がいて、高遠とは気の合う友人にすぎなかった。そんな二人が特別な関係になったのは、美紀の恋人が大学を卒業と同時に海外へ旅立ったからだ。突然別れを切り出され、悲しむ美紀を置き去りにしたままで。

ずっと彼女の近しい場所にいた高遠は、慰め役になった。それがいつの間にか男女の関係になり、同じ関西に職場が決まったことから、ずっと続いているのだ。彼は、きっかけはさておき、惹かれた気持ちは変わらないと思っている。今まで波風の立つこともなく続いたのは、お互い必要とする気持ちが強いからだとも。

 高遠は、女性でありながらいつも前向きに高みを目指す彼女に、敬意さえ抱いている。誰が見ても美人だと思う端正な容姿に、気さくで機知に富み、自分には勿体無いと思うほど魅力的だ。高遠は情熱的に仕事を語る彼女が好きだった。

 転機というものは、突然訪れる。美紀も今、その岐路に立っている。上場企業の化粧品メーカーに勤めている彼女は、神戸のデパートで、広いブースを取り仕切るチーフとして働いてきた。そして、五年後には大阪にある関西支店の販促部に席を置いた。女性社員が優遇される職場とはいえ、美紀の出世は抜きん出ていたようだ。当然のように、今度は本社へ栄転ということだ。

 高遠の頭の中に、結婚という結実がないわけではない。仕事を辞めて結婚しないか――美紀が一月前に転勤の話をほのめかせてから、彼はこの言葉を告げる義務感に駆られていた。十年以上も縛った責任を取るべきなのだと。でも、美紀がこうして傍からいなくなるという今でも、仕事を取り上げることは自分には出来ないと思う。ましてや彼のために家庭に入り、料理を作り子育てをする彼女が、どうしてもイメージできなかった。

 愛してないのか?――妙な疑問が湧いてくる。高遠はぼんやりと正面の酒のボトルの並んだ棚を見た。きちんとラベルを向けたボトルは、まるで観客のように二人を見ている気がする。愛していないわけがないと、ボトルに向かって打ち消す。そうではなくて、仕事に情熱を傾けている彼女の人生を、自分の願望に沿わせようと思うことは男のエゴだろう。一介のサラリーマンで厚遇とも言えない実情に、美紀が妻として満足してくれるとは思えない。今の高遠に言える言葉は他にはない気がして、ため息混じりに声を押し出した。

「君を縛り付けるつもりはない」

 美紀の長い睫に縁どられた目が、一瞬細められる。

「君は仕事に熱意も持っているし、優秀な人や。企業の中でちゃんと戦っていける。チャンスをみすみす逃すべきやないと思う」

 暫く沈黙があった。美紀はカウンターの上にしっかりと組んだ手を見つめている。高遠も言ってしまった言葉の重みを受け取っていた。

 美紀がやっと沈黙を破るように、肩で大きく息を吐いた。

「それが答え? でしょうね。タカなら、そういうと思っていた」

「慌てて結論を出すのは止めよう。君が納得いくまで仕事がしたいなら、そうするべきやと思う。お互いのことはもっと後でもいいんやし」

 高遠はそういうと、柔らかな笑みを美紀に返した。

 

彼から顔をそむけ、美紀はカウンターの組んだ手に力を籠めた。薄いピンクののマニキュアの指先が白くなるのを見て、ふっと力を抜き、指を一本ずつ離した。

「そうね。先のことは分からないし」

 美紀は自分の左手を広げて、感情線を手首までなぞりながら、

「やれるだけ、やってみる」

 と、平坦な声を出した。その広げた手を高遠が握ってきた。

「美紀なら頑張れるよ」

 高遠の口角を上げただけの微かな笑みが向けられる。

 美紀は握ってきた彼の大きな手の甲を、一方の手でゆっくり撫でた。この手はいつも暖かくて優しい。離すのは怖い。美紀は唇を噛んだ。高遠は欲しいものはいつも与え、我儘さえ許してくれる。思慮深く、思いやりに溢れた穏やかな恋人。精神的にも、肉体的にも満たされているはずだ。頑張れと送り出すつもりの彼に、違う言葉を期待していた。引き止められても、転勤に応ずる決心をすでに固めているくせに。

美紀は苛立ちを覚え、声を尖らせた。

「今夜は帰るわ。明日朝一で会議だから」

「分かった。送っていく」

 美紀の手は途端に温もりを失った。

 

 高遠は美紀が乗り込む電車の改札で、「じゃあ」と言って踵を返した彼女の背を見送った。プロポーションの良い細身の体。すらりと伸びた足。高いヒールのパンプスがコツコツと靴音を立てる。

 いい女だ――と、高遠は満足して見つめる。体の奥深いところでは、美紀をベッドの上に組み伏せたい衝動が沸き起こってくる。でも、彼女を冷静に見送れる冷ややかな自分がいた。

本当に離れてもいいのか? 別れることになるかもしれない。高遠の口元がきゅっと締まる。だが、呼び止める言葉はついぞ口をついて出てこなかった。彼は一つ溜息を零すと、振り向かずに駅を出た。

まだ春の夜風は冷たい。高遠は肩をすぼめ、ブリーフケースを脇に挟むと、両手をズボンのポケットに突っ込む。そして街の明かりに、星の見えない夜空を見上げた。

 俺は見たいのかも知れない。美紀が俺を必要として泣き叫ぶ姿を。あの時、恋人に捨てられて嘆き悲しんでいたように、必死に求めて欲しいのかもしれない。

 高遠は髪を乱すように、指を立てて掻き揚げた。

「臆病もんやな、全く!」

 タクシーの屋根の灯がずらりと列を作る、三宮のJR駅前の通りを、苦笑しながら足早に渡る。まだネオンが煌々と灯る繁華街を通り、地下の阪神電車のホームへと続く階段を駆け下りた。

  

* 

 

 阪神香枦園駅は、川幅五メーターほどの夙川に渡された高架駅だ。ちょっと洒落た駅名の「香櫨園」は地名ではない。明治四十年にこの地域に開業した香櫨園遊園地が名前の由来となっている。大きな観覧車で名を馳せた遊園地は六年ほどで閉園となったが、印象深い名前だけがこの駅に残ったのだ。

 普通電車しか停まらない小さな駅は、阪神淡路大震災の後に改装されたが、淡い茶色の駅舎は開通時のレトロな雰囲気を受け継いで、格子の窓に三角屋根を持つ一風変わった景観をしている。

 同じく震災後に、護岸工事を施された夙川も、段差のあるコンクリートの川底をすべるように流れている。

六甲山から細々と続く都会の川は、言うに及ばず長い間淀んだ川だった。少ない水量に、生活排水の不快な臭いのする緑色の川だ。そこには赤耳ガメがうようよいて、高遠も子供の頃は、どこの川にも亀がいっぱいいるものだと思っていた。勿論魚が泳いでいるような澄んだ川ではなかった。

 ところが、震災で土手の古い石垣は至る所で崩れた。そのため補修工事が施され、人工的な美しい川に生まれ変わった。コンクリートに固められた土手の上は、遊歩道になり、地震で倒れなかった松や桜が道を覆っている。芦屋市と隣接する香櫨園は西宮市の中でも、あの震災の被害が大きかった地域だ。潰れた家も多く、道路も寸断されひび割れていた。もうあの悪夢の日から、十七年も経っている。勿論街は完全に復興しているが。

 高遠は改札を抜けると、いつものようにゆっくりと階段を上った。ホームの明るさが足元に届いてくると、頭の中に足の悪い女性のことが過ぎる。また同じ場所に並んでいるのだろうか……。足を止めることなくホームを何気なく見渡す。が、彼女の姿はなかった。高遠は内心ほっとした。少なくとも昨日、彼女に言った言葉は非難されても仕方ない。悪気はなくても、あんな傲慢な言い方をしたことを後悔していた。だから余計に顔を合わせ、バツの悪い思いはしたくなかった。

――「お待たせいたしました。到着の電車は須磨浦公園行き普通でございます。危険ですので白線まで下がってお待ちください」

 アナウンスが終わると、まもなく電車がブレーキを軋ませ滑り込んできた。高遠は押し黙ったまま、いつものように順序良く乗り込む。

 車両は静かに動き始めた。彼は締まったドアに肩をつけ、窓から降りた人が歩いてゆくホームを眺めた。

 そして丁度一番先頭車両の停まる位置に来たとき、思わず声を出した。

「くそっ……」

 走り行く電車を、ホームで一人ぽつんと彼女が見ていた。つまり、この電車に乗れなかったのだ。

 アイボリーのジャケットにジーンズ姿の彼女が、高遠の立っているドアを見た。大きな瞳はぼんやりと走り去る電車を映して、溜息が聞こえてきそうなしょんぼりした顔をしている。

 高遠は過ぎてゆくホームに向かって、舌打ちした。自分のせいではないと思っても、後味の悪い思いが残る。周りにいた誰も手を貸さなかったのかと思うと、妙に腹が立った。「すみません」と頬を染めている女性に、手を貸すことなど簡単なことだ。相手は障害があるのだから。だが、誰だって朝から面倒なことに関わりたくない。駅員でもないのに。出社すればそれ以上に厄介で面倒なことは、多かれ少なかれ待っているものだ。だから誰も、通勤時間は自分のリズムを守りたい。彼は具にもつかない言い訳を巡らせては、溜息を漏らした。

 打出駅でドアが開くまで、高遠は浮かない顔で窓を見ていた。

 

 *

 

「高遠さん。言われていることは分かりますけど、あっちはうちよりも広いんですよ」

 須磨店店長の野山は、不愉快極まりないという表情で、高遠を見た。高遠より年上で、本屋の経験も長い彼にとって、本部からやってくる人間は小うるさい蝿くらいの感覚なのだろう。店舗の実情を良く知らないで、データ上の判断だけで文句を言ってくる。うるさいだけで何の役にも立たないと、野山の顔に書いてあるようだ。いつもの横柄な態度を無視しながら、高遠は事務的な口調で応じた。

「いや、そんなことは分かっている。しかし、目新しさであちらに向いている客を、元通りに取り戻すには引きつける何かが必要やろう」

 狭い事務所のデスクに、野山と向かい合い、広げたデータを指で叩いた。

「何かって、なんです?」

 腕を組んだ野山の口元が歪み、皮肉っぽい笑いを浮かべている。高遠はそれを無視するように、データの一枚を彼の前に突き出した。

「定番の売れ筋と死に筋をデータで出して、総入れ替えをする」

 野山の頬がひくっと動いた。目が険しくなる。

「待ってくださいよ。オーダーベストは入れ替えて、棚はもう作っているのに」

「分かっているが、今までと同じ棚じゃあ、大型店には太刀打ちできん。変化と興味を持たせないとな。ここは専門書以外の商品は十分に押さえられていると思う。だが棚の構成に関してはほとんどオープン時から変わっていない」

「当然でしょ。変える必要もないのだし」

 野山のへの字に曲げた口元を見て、彼は苦笑いした。高遠が本部の人間であっても、五年間この店を動かしてきたのは野山だ。それも順調に売り上げを伸ばし、神戸地区では根幹となる店に育てた。彼の功績は本部でも認めている。高遠もそのことに意義を唱えるつもりはないが、須磨店がかってない脅威に晒されているという事実を知らしめないわけにはいかない。

「三〇%の昨年対比割れは大きすぎる。あっちが広くて目新しいというだけなら、利便性や集客は絶対うちの方が有利だし、同じものを売っていて同じサービスなら十分対応できるはずだ。何とか一〇%まで回復したい。でないと人件費にまで調整がはいるぞ。とにかく早急に棚の見直しを始めよう。ここ一年のアイテム数と販売実績をデータにしてみる」

 野山は高い頬骨を片手で撫で付け、小さく息を吐くと、

「分かりました。データは早めにくださいよ」

 と、諦めたように言った。高遠は人件費を口にした時点で、野山は了解するだろうと思っていた。どの店も、パートやアルバイトが主になって回しているといっても過言ではない。須磨店も、もう一人の若い社員を除いて、後は全てアルバイトだ。人件費を削られれば、それだけ野山の負担は増す。

「明日の午後、持参する。もう一度詰めよう」

 高遠はデータのコピーを整え、自分のブリーフケースに突っ込むと、デスクから立ち上がった。野山は浮かない顔をして、彼に続き事務所を出た。

 正午近い店内は、結構込み合っている。スーパーの袋を提げた客が雑誌を手にレジに並んでいる。手際よく応対する二人のレジ係りの女の子を見ながら、高遠は頷いた。接客態度は申し分ない。客が切れると、レジ係りの二人は緊張した顔で高遠に会釈した。この店の状態は分かっていて、高遠に叱責されるとでも思っているのか、落ち着かない目で見ている。彼は安心させるように微笑んで見せた。

 高遠は新店にかかりっきりだったために、一月ぶりに見る店内をチェックし始めた。ついて歩く野山は、先回りして店内を説明する。棚は整然として、新刊も話題書も問題なく積まれている。十分目の行き届いた売り場が作られている。

「難しいな。何も問題はない」

「そうでしょ。皆、よくやっているし」

 野山はにんまりと笑い、胸を張るように腰に手を当てた。高遠は売り場を見回せる入り口に立つと、独り言のように呟いた。

「少し、遊んでみるか」

 野山は怪訝な顔で、顎に手を当てた彼の顔を覗きこんだ。

 

  *

 

 

 次の日、高遠はいつもより三十分早く家を出た。

 須磨店の改善策を早めに出社して纏めたいという気持ちだったが、少しばかり昨日の足の悪い彼女の、落ち込んだ顔がちらついたこともある。今朝は彼女に会うことはないだろうと思うと、気持ちは軽くなった。些細なことを気にする自分がいやになると顔をしかめ、高遠は階段を上って、いつものホームの中央の列に並んだ。

 三十分早いと、見覚えのある顔はホームにはない。思えば大阪本社から、今の神戸営業所に配属になった四年間、変わらずこのホームの位置に立っている。高遠は三十二歳の平穏な日常に満足感さえ抱いているのだ。

 ふっと美紀の顔が浮かぶ。彼女を引き止めて結婚を口に出来ないのも、この日常を壊したくないのだろうかと、高遠はぼんやりと思った。あと二週間で、彼女は高遠の傍から離れていく。二人の未来を保留にしたことに意味はない。単に結論を先延ばしにして、逃げているとしか言いようがない。美紀を説得し彼女の将来に責任を負うことや、結婚に伴う様々な段階のわずらわしさを思うと、話し合う気分になれなかったのだ。

 わずらわしさ?――彼は眉をひそめた。

 一人の女を幸せにしてやることが、わずらわしい?――高遠は薄い雲が切れ、青い空が広がりつつある頭上を見上げた。もやってくる心に歯止めをかけるように、くっと奥歯を噛み締める。俺は彼女が欲しくないのか? 

「あっ」

 高遠の背後で小さな声があがった。釣られるように後ろを振り向く。

 あの女性だった。思わず高遠も視線を止める。大きな瞳が丸く見開かれていて、エスカレーターを上がったところで立ち止まっている。遭いたくないものに遭ってしまったと、ありありと表情に出ていた。高遠はその表情の原因が、二度出会っただけの自分だと思うと苦笑してしまった。

 彼女はきまりが悪そうにぺこりと頭を下げると、踵を返して先頭車両の着く方へ歩き出した。高遠はステッキを突き立て、肩を揺らしながら歩く背を呆れて見た。彼女の手には身に余る程の大きな黒いギターケースが提げられているのだ。軽いはずはなく、不自由な体はふらつくようにゆっくりしか歩けない。背中にはバッグの代わりに小さめのリュックが背負われている。今日はGパンと黒いチェニックの下にコットンのシャツというラフな格好で、スーツ姿より幼く、そしてか弱く見えた。

 高遠は苛立ちを抜くように鼻を鳴らすと、彼女の後を追った。

 背後の靴音を聞いて、彼女はホームを開けるように壁際に体を寄せたが、横に並んだのが高遠だとわかると、ぎょっとしてまた大きな目を向けた。

「重そうやな」

「あ、えっと、ギターなんです」

「見ればわかるよ。貸して」

 彼女はギターケースに手を伸ばした高遠から、一歩後ずさり、反抗するような目で見上げた。

「け、結構です! 自分で持てますから」

「分かっているけど、これを持って電車に乗る気?」

「勿論です!」

「そりゃあ大変や」

 高遠は、口元を尖らせ目を三角にしている彼女の様子が可愛いくて、思わず微笑んだ。そして、宝物のように身に引き寄せられたギターケースを、無理やり彼女の手から奪い取ると、くるりと背を向けて後部の車両の位置へ進んだ。

「あ、あのう……。本当に大丈夫ですから」

彼の後をついて歩きながら、彼女は困惑した様子で話しかけてきた。

「先頭車両はね。三宮駅で出口に一番近いから混むんや。最後尾なら芦屋を出たら座って行けるよ。説明不足やったね」

 彼女はステッキの音を立てながら、黙って彼についてくる。

「しかし、なんでこんな重いもん持っとうわけ? 趣味でやっとんの?」

高遠が先に最後尾の電車の位置に並んで尋ねると、俯き加減で傍に立った彼女は恥ずかしそうに言った。

「グループホームのおばあちゃん達が聞かせて欲しいって言うので……」

「グループホーム?」

「あ、はい。要介護の人達が共同で生活している施設なんです。主に軽度の認知症の老人なんですが、リクレーションの時間にギター演奏を頼まれたんです」 

「へえ。じゃあ結構弾けるんやな。すごいやん」

 高遠が明るく笑いかけると、彼女はやっと顔を上げて微笑み返した。

「ギターは兄の影響で、中学時代からずっと弾いていました。うまいほうだと思います」

 頬を赤らめて、笑みが零れんばかりの彼女は、自慢気に少し胸を張った。それを見て、高遠も口元がほころんだ。おせっかいを焼いた自分に苛立っていた思いが、ふっとどこかへ飛んでいく。

「お兄さんが先生か。仲の良い兄妹なんやなあ」

「はい。今、兄は東京に住んでいるので、お正月くらいしか会えないんですけど。気晴らしにと教えてくれたんですが、最初はちっとも楽しくなくて、いつも最後には喧嘩になっていました。兄もまだ高校生で、女心を理解できる歳ではなかったですし」

 彼女は首を傾け、肩をすくめて見せた。茶目っ気のある目が、ちらりと向けられると、彼は思わず声を出して笑った。

「ははは、それはそうやろう、高校生じゃあね。俺なんかこの歳になってもわからん」

「え? 奥さんの気持ち?」

「いや、残念ながらまだひとりもん」

「あ、すみません。失礼なことを訊いてしまって。あの、いつもきちんとした身なりをされているので、奥さんがいらっしゃるのかと……」

 彼女は赤くなって慌てて詫びた。空いている右手で、胸元を掴んで、黒い瞳を戸惑ったように、おどおどと動かしている。高遠は既婚者だと思われたのは少しショックを受けたが、不快な気はしなかった。それよりも名前も知らない若い女性との会話が、自然に交わされているのを心地よく感じた。

「身なり? ああ、そうやな。はよう年貢を納めろとせっついてくる、怖い代官の世話にはなっているな」

「はあ?」

彼女は、今度は目を見開いて彼を見上げた。大きな黒い瞳には、彼女の感情が率直に現れるようだ。クェッションマークが浮かんでいる。高遠は微笑んで答えた。

「おふくろ」

「ああ、お母さん!」

 彼女は納得したと頷くと、小さくぷっと噴き出して頬のえくぼをへこませた。高遠は本当に可笑しいという表情を見て、何だかくすぐったい感じがした。

「家はこの駅から近いの? 俺は川添町やけど」

「そうですか、海のほうですね。私は松下町です。阪急夙川へも歩いていけますが、この駅が好きなんで」

「ああ、分かるよ。もうすぐ桜で埋まってしまうし」

「はい。毎日お花見気分で通勤できますね。楽しみなんですよ。はやく満開になればいいのに」

「ほんまやね」

 電車を待っている手持ち無沙汰な時間が、わずらわしいと思っていた女性に埋められていく。彼女は全く高遠を警戒している様子はなく、以前からの知り合いだったように言葉を返してくる。彼は妙に心が弾む気がした。

「ずっと関西にいると、東京は遠く感じるなあ」

 彼女の兄が東京だと言ったのを思い出し、高遠も美紀のことが頭に浮かび、つい溜息が零れた。

「そうですね。今は忙しいらしくて、お正月に顔を見せたきりです」

「そりゃあ、淋しいなあ。東京なんて新幹線で日帰りできるけど、実際会いに行くのは大変やろなあ」

 溜息をつき笑みを閉じた高遠の横顔を、彼女はじっと見つめている。

「どなたか東京に?」

 彼女がそう言った時、構内にアナウンスが響いた。

――「普通電車、須磨浦公園行きが到着致します。危険ですから白線まで下がってお待ちください」

「さあ、俺の前に来て。足元、気をつけて」

 高遠はギターを持ち替えて、その脇にブリーフケースを挟んだ。空いた右手で彼女の腕を掴む。

「すみません」

 と、彼女ははにかんだ笑みで振り向いた。

 滑り込んできた電車は八時台よりも空いていた。高遠は乗客から顰蹙を買いそうなギターを下げ、彼女の後から乗り込んだ。ギターケースを抱えるように二人の間に立てると、彼女は申し訳ないといった顔で、ケースに手を置いた。高遠が、

「危ないから、手すりをつかんでろ」

 と言うと、彼女はおずおずとその手を吊り輪の下がったバーへ伸ばした。高遠は少し話を交わしただけで、まるで彼女の保護者気取りになっている自分が可笑しくて、一つ咳払いすると話しかけた。

「さっき、グループホームって言ってたけど……」

「はい。高齢者介護施設『やすらぎ苑』と言います。そこで介護のアルバイトをしているんです。こんな体なんで、まあ十分に役に立っているとは言えないのですけど……」

 彼女は見上げていた目を伏せた。

「介護か。大変な仕事やね。ギターを聴かせて貰えるなんて、お年寄りにしたら嬉しい事やろ。楽しい時間を提供するのは大事な仕事や」

 高遠の言葉に、彼女は大きな目をパッと輝かせた。

「はい」と、明るい声で返事をして、零れんばかりの笑顔になった。

 車は打出駅を過ぎ、次は芦屋駅というアナウンスが車内に響いた。彼女はにっこりと笑いかけると、

「次で特急に乗り換えられるんですね」

と、ギターケースに手を伸ばそうとした。高遠は車内をぐるりと見渡すと、

「二本早い電車に乗れたから、このまま三宮まで乗っていくよ。重いだろうし」

 と、何気ない様子で告げた。

「え? あの、このギターのためにそんなの悪いです!」

「いや、ゆっくり乗っていくのもええと思っただけやから」

 彼女は戸惑った顔をしたが、高遠が笑いかけると釣られて笑顔になった。

「有難うございます。今日は甘えさせて頂きます」

 他の乗客を気にしながら、頬を染めて頭を下げた彼女に、高遠は心底同情せずにいられなかった。可愛くて申し分ない女性なのに足が悪いというハンディは、彼女を少なからず苦しめてきただろう。世間は障害のある人に心ならずも暖かいとは言えない。彼女に対して自分がそうであったように。

 芦屋を過ぎると、座席が一つ空いた。高遠はそこへ彼女を座らせると、自分はギターを抱えたまま、その前に立った。普通電車は各駅に停車するため、とても長い時間乗っている気がした。三宮までは二十くらいの駅がある。

 そして特急停車駅の御影に着いたとき、彼女の隣が偶然空いた。高遠はギターケースを足の間に持たせて座った。

「すみません。倍以上時間が掛かりますね。お仕事間に合いますか?」

 彼女が眉根を寄せて、彼に顔を近づけた。

「大丈夫や。いつも余裕を持って出勤してるから」

彼女はほっとしたように微笑んだ。そして話せるのを待っていたかのように、

「あ、あの私、一之瀬杏奈といいます。名前も言わないですみません」

 と、ぺこりと頭を下げ言った。

「こちらこそ。高いに遠いで高遠です。そのまんまやけど。杏奈さんって可愛い名前やね」

 彼女は高遠に顔を覗きこむように見られ、頬が赤くなった。彼はからかうように首を傾げて、その横顔を見た。

「苗字より呼びやすいらしくて、みんな杏奈って言います。父がつけたんですが……。学生の時に読んだトルストイの『アンナ・カレーニナ』に感銘を受けて、女の子ならアンナにしようと決めていたらしいです」

「トルストイとはすごいなあ。でも、アンナ・カレーニナって、不倫の話やったよね」

「まあ、概ねそうです」

 彼女の目が天井に向けられた。高遠は不倫の話と言われて、口を尖らせている彼女がとても愛らしく見えた。

「俺も読んだよ。大学が文学部で必要に迫られてだけど。確かにすごい小説や。でも、登場人物の性格を思うと、どっちかというと賢い『キティ』の方が君に合っている気がするなあ」

「ふふ、流石に父もキティとは名付け難かったんでしょう」

 杏奈の唇がほころんで、白い歯が覗いた。

 そんな彼女を見ながら、高遠は学生時代に読んだ、分厚い文学全集の表紙を思い出していた。トルストイは「戦争と平和」を読んでいて、その重厚さに圧倒された。大学の図書館で、『アンナ・カレーニナ』を手に取ったときも、同じく世界観の大きい重苦しい話に違いないと覚悟してページを開いた。予想に反して、それは欲情に溺れる女性のありとあらゆる感情が細やかに書かれた物語だった。夫がいながら青年に恋するアンナを半ば嫌悪するように、そしてそこまで溺れる愛に憧れを抱いて読んだのを覚えている。

 破滅させられるほどの男女の愛なんて、現実にあるのだろうか? 小説やドラマの中の戯言ではないのか? 高遠は十年以上関係のある美紀にそんな気持ちを抱いているのかどうか考えずにいられなかった。

「高藤さん、どうかしましたか?」

「え? いや……。もうすぐ三宮やな」

「はい。本当に有難うございました。ご迷惑かけてすみません」

 彼女は座ったまま、丁寧に頭を下げた。

「大したことやないから、礼はいいよ。それより、どうやって持って帰る気?」

「ギターはこのまま施設に置いておくつもりです」

「そうか、それなら心配ないな。それから……」

 と言いかけて、高遠は少し言いよどみ、彼女を見た。彼女は首を傾けながら、まっすぐに視線を向ける。

「えっと、いつもの電車に乗るんなら、俺が並んでいる列に来ればいい。君を乗せるくらいなんでもないし」

 彼女はステッキを持った手も持ち上げ、手のひらを胸の前で広げて振った。

「と、とんでもないです。見ず知らずの高遠さんに、甘えるわけには……」

 高遠は口元に拳を当てて、噴き出した。

「見ず知らずの『高遠さん』って、ちっとも見ず知らずやないなあ」

「ああ、そうですね」

 杏奈も手を口元に当て、くすくす笑う。

「だったら、ホームにいてください。杏奈さんを気にして、朝から探し回る方が嫌だしね。明日、明後日は休み?」

「はい。土日は休みです」

 一之瀬杏奈は頬を上気させ、大きな瞳を細めて嬉しそうに微笑んだ。ピンク色の口角の上がった唇は、弧を描いて締められ、頬に小さなえくぼを作った。

 電車がゆっくりしたスピードになり、キキッと金属の擦れあう音とともにブレーキが掛かった。高遠は彼女の横にギターケースを持たせかけ、席から立ち上がった。

「じゃあ、杏奈さん。また月曜日に」

「有難うございました。高遠さん」

 杏奈に見送られながら、高遠は開いたドアからホームへ降りた。

 

 

「杏奈ちゃん! 大丈夫やった? 重かったやろう!」

 高齢者グループホーム「やすらぎ園」の玄関に到着するなり、ケアマネージャーの高松洋子が走って来て出迎えてくれた。四十歳半ばの勝気な顔をしかめ、独身の女性マネージャーは、須磨浦公園駅まで車で迎えに行くつもりだったが杏奈から連絡が来ないので心配していたと早口で言った。

「心配掛けてすみません。丁度朝食の忙しいときやし、歩いてくる時間も十分あったので」

「まだ仕事始めたばかりなんやから、無理は禁物やで。まあ、ギター演奏は皆楽しみにしていたさかい、お願いできてうれしいけど」

「はい、私も役に立てれば嬉しいです」

 杏奈はギターを置くと、慌てて室内用のスニーカーに履き替えた。

「朝食手伝いますね」

 ギターをロッカールームの隅に立てかけると、彼女は慌てて壁のフックに掛かった水色のサロンエプロンを身につけた。ロッカーに鍵をかけると、ステッキを握り広い食堂へ向かった。

 コの字型に並んだ食堂のテーブルに、朝の食事がトレイで配られ、二十人の老人が、無言で箸を動かしている。杏奈は「おはようございます」と、明るい室内に飛び込んだ。世話をしている五人のスタッフが顔を上げて、声を掛けた。次いで一番若い入所者の岩崎さんが、茶碗を掲げて、振り向いた。

「ああ、あんなちゃんや。おはよう」

「誰や?」

 と、岩崎さんの隣のおばあちゃんが尋ねる。

「新しいスタッフの人や。忘れたんかいな」

 岩崎さんはずり落ちた老眼鏡の奥から、皴に囲まれた目を細めて、杏奈を見た。

「岩崎さんは何でもよう覚えたはる」

 と、中年のスタッフの典子さんが、大袈裟に感心してみせると、

「わしは婆さんのことは忘れるけど、若い女の子のことは忘れへんのや」

 と、岩崎さんはひゃひゃと気の抜けた笑い声をあげた。

「覚えてもらって有難うございます」

 杏奈はテーブルの端で、老人たちにお茶を用意しながら言った。岩崎さんの冗談に笑ったのはスタッフだけだった。杏奈はもくもくと背を丸めて朝食を食べる老人たちを見回した。

 ここはとても奇妙な「家」だった。まだ建って五年めの施設は、まるで避暑地のペンションのように白木の木造の洒落た建物だ。三角の屋根をした白い外壁の二階建てで、周りには柵が巡らしてあるが、その庭には様々な花が咲いている。病院や公共の老人ホームと違い、ここが老人介護の施設だとは思えない。室内は明るくて、車椅子の人でもトイレや入浴がしやすい設備が備えられている。広い集会場もあり、大型のテレビとゆったりくつろげるソファが置かれたリビングもある。入所者には個室が与えられ、プライベートは守られて、家族との面会も昼間は自由だ。食事や掃除、庭の手入れも、スタッフの指導の下で可能な限り入所者で行う。勿論身体的に制限のある人には無理強いはしない。ここは紛れもなく、支えあいながら人として生活する場所なのだ。

 杏奈はグループホームというネーミングの通り、「家」だと思っている。淋しく不便な一人暮らしよりはずっと快適で安全な、楽しい生活が送れると思っている。

 ただ、我が家での生活と大きく異なるのは、門に夜だけでなく昼間も鍵が掛かっていることだ。入所している老人たちが、認知症を発症しているからだ。身体的には健康を損なっていなくても物忘れがひどく、病気に付随して感情をセーブ出来なかったり、鬱状態だったりと、脳の萎縮による症状は当たり前の生き方を制限してしまう。鍵はあくまでも入所者の安全を考えてのことだ。

 杏奈はまだ颯爽としてスタッフと対等に話題が提供できる岩崎さんが、自分の息子を他人だと言い張った話を聞いてショックを受けた。 

 ここで働くに当たって、所長でもある高松マネージャーが、

「寄り添ってあげる……。そういう気持ちで、接してあげて欲しい」

 と言ったことが、日に日に重みを増してくる。治してあげたいなどという気持ちは、健常者の傲慢に過ぎない。まだ勤めて四日目の彼女にも、ここが社会から切り離された空間であることがはっきりと理解できた。まるで幼子に接するように、入所者のすべてを受け入れる。それは思いやりでしかないと杏奈は思う。

「あなたは少なくとも、介護される立場にもいたのだから、入所者の気持ちは理解しやすいでしょう」

 採用面接の時に言われて頷いたものの、マネージャーの言葉に膝の上の手を握り締めた。否応なしに社会から隔てられる気持ちは、言葉に出来ない辛いものだ。生きている価値がないと言われているようで、人の手を頼って生きるということに、杏奈自身何度失望感を味わったかしれない。幼い自分でもそうだったのだから、人生をしっかり生きてきた老人たちが希望を失くしているのは感じる。たとえ快適な日々が送れても、住み慣れた我が家を離れ、隔離された施設で生きることは辛いだろう。

「登美子さんは歌が好きやから、杏奈ちゃんの演奏、楽しみにしてるんやな」

 車椅子に座ったまま、子供のようにスプーンを口に入れられている白髪の老女に、唯一の男性である介護スタッフの鈴木さんが笑いかけた。若い鈴木さんの笑顔に、登美子さんは皮膚の垂れた頬を少し持ち上げ、皴だらけの口元を開いて笑った。

「一緒に歌いましょうね」

 杏奈はにっこり笑いかけて言ったが、登美子さんは聞こえなかったように、また食事の乗ったスプーンに向かって口を開けた。

 杏奈は暫く登美子さんを見ていた。どんな曲を弾いてあげようかと考える。彼女はこの施設の一番の年長で、もうすぐ九十歳になる。すでに一人で歩くことは出来ず、車椅子で生活している。認知症は重く、話をすることはほとんどない。寝たきりになるのは時間の問題だと、マネージャーから聞いている。そして、この施設で介護できなくなり、老人ホームへ移ることになる。杏奈には厳しい現実だったが、このホームは空きのない老人ホームを待つ間の施設ということだ。いろんな事情で家族の世話を受けられない人は、どうしようもないことなのかもしれない。

 登美子さんの家族も、年に数回息子が訪れるだけだという。本人にとっても介護する家族にとっても、老いだけではなく認知症であるというのは、重い枷となるのだろう。登美子さんは息子を見ても、嬉しそうな顔もしないとスタッフから聞かされた。それがこのホームの現実なのだと、杏奈は胸が締め付けられる思いがした。

朝食が終わり、スタッフはそれぞれに慌ただしく仕事に就く。杏奈は食事の後片付けを手伝うために、スタッフの河合さんとキッチンへ向かった。

「杏奈ちゃん、足は大丈夫なん? はじめての電車通勤は大変やろ?」

 キッチンで朝食の食器を片付けながら、河合さんが心配そうな顔を向ける。杏奈は、施設の近くに住んで、パートとして働く主婦の河合さんが好きだった。ここへはじめて来たときから、娘と同じ歳やと言って、何かと案じてくれる。

「ええ、本当は大変やけど、でも良いこともあったんです」

「良いこと?」

 杏奈は恥ずかしそうに赤くなって、口ごもりながら話した。

「はい。今日はギターが重いし、混んだ電車にどうやって乗ろうかって心配やったんやけど、実は香櫨園の駅で二番目の神様が現れて……」

「二番目の神様? 」

「そうなんです。私が困っていると、その人、ギターを持って電車に乗ってくれたの。その前は混んだ電車に乗せてくれたし」

「知ってる人なん?」

 と尋ねられて、杏奈は頬を染めると小さく首を振った。

「全然知らん人」

「へえ! しらん子に手を貸すなんて優しい人やねえ」

「はい、すごい優しい人やと思う」

 杏奈は食器を棚に入れながら、高遠のことを思い浮かべた。乗客の頭一つ抜きん出た長身は、スーツを着ていても目立った。彫りの深い顔に二重の力のある目が少し怖い感じだが、笑うと暖かい表情になる。少し長めで、ラフに掻き揚げた髪型を思うと、仕事は銀行なんかの堅いところではないのかもしれない。二十四歳の杏奈より八つ年上のどきどきするくらい素敵な人。

 足が不自由なことへの同情以外、彼の気遣いに何の意味もないのは分かっているが、「じゃあ、月曜日に」と言って微笑んだ顔を思い出し、熱くなった頬に手を当てた。

「二番目ってことは、一番目の神様もいたん?」

 ぼんやりしている杏奈をからかうように、河合さんが顔を覗きこんだ。

「あ、はい。一番目は震災のとき、助けてくれた人です」

「ああ、杏奈ちゃんは阪神大震災で怪我をしたのよねえ。家が潰れてその下敷きになったって、高松マネージャーから聞いてびっくりしたのよ。足はそのとき怪我したって」

 河合さんは目を細め、辛そうな表情になって杏奈を見つめた。

「ええ。私はまだ八歳で小学生だったし、気がついたら真っ暗な中で身動きできない状態で……。地震だったっていうのも、病院で聞くまでわからなくて、とにかく胸を押されていたから息も出来ず苦しいばっかりでした」

 杏奈はそう言いながら、息苦しさを感じた。呼吸が速くなり、体が強張る。

 平成七年一月十七日の、あの早朝の記憶は今でも彼女に混乱と恐怖を呼び起こす。十七年も経つのに、あの日のことは体の芯に打ち込まれた楔であって、おいそれとは忘れることが出来ない。杏奈の人生が暗転してしまった忌むべき日なのだから。

 まだ夜明け前、二階の部屋で寝ていた杏奈は、突然ベッドが大きく揺れて下から突き上げられた。まるで手の中のお手玉みたいに翻弄されたかと思うと、大きな音とともに闇に閉じ込められた。杏奈はそのまま気を失った。気付いたときには、バリバリと木が裂ける音や、人の叫び声が聞こえたが、視界には闇しかなく体は動かない。声も出せず、微かに息をするのがやっとだった。あまりの苦しさと焼きつけたような痛みのために気が遠くなる。暫くすると悪夢から目覚めようとするかのように、再び意識を取り戻すが、またうつろうように意識が遠のく。そうして何度目かに気がついたとき、明るい光が差し込んでいるのが見えた。丁度顔の上から一メートル半くらいの高さに、ぽっかりと穴が開いていて、そこから眩い光が降り注いでいた。そしてそれを遮る黒い影が動くのが分かった。

――生きてるんか?

 突然その影が声を掛けた。返事をしようとしたが声が出せず、瓦礫の下になっていた唯一動く手を無理やり引き出し、ゆっくり上に伸ばした。漏れてくる光の中を上る手は、幽霊のように手首をたれ、力がなかった。すると上からがっしりとした軍手の手が下りてきて、小さな杏奈の手を力いっぱい掴んだ。

――生きてる! 生きてる! がんばれ!

 上擦った声だったが、杏奈には何十メートルも離れたところから叫んでいるように聞こえた。

――あゆみ! 生きてるんか?

 頭を寄せ合うように、もう一つ顔が覗く。

――大丈夫や! はよう、みんなを呼んで来い!

 声を聞きながら頭を動かそうとすると、突然視界がぐるぐる回った。頭が割れるような気がして、杏奈は目を閉じた。ホッとしたのか、体中から力がなくなっていく気がした。

――あかん! 目つぶったらあかん! あけとけ! 

 手が強く握られた。指が折れそうだと思いながら、覗いている顔を見た。誰だろうと目を凝らす。「あゆみ」と呼ばれたその人の、陽が当たった顔に見覚えはない。だが若い男の人だとわかる。大きな手の、「あゆみ」という名前のおにいちゃん? 杏奈は朦朧としながら、男の人なのに同級生の田中さんと同じ名だとおかしくなった。

 大きな手の、「あゆみ」という女の子みたいな名前のおにいちゃん。

 

「命の恩人なん? その神様は」

 河合さんが、杏奈の強張った肩に手を置いた。

「そうです。家が崩れて、屋根が落ちた下に埋まった私を見つけてくれて……。でも、誰か分からないんです。父も母も怪我をして病院に運ばれたのですが、家はペッシャンコで、私だけ見つからなかったんです。幸運にも怪我のなかった兄が、自転車に乗った高校生くらいの二人に助けを頼んで、その人たちが覆っていた瓦屋根を剥いで見つけてくれたんです。でも私が助け出されたときには、もう姿はなかったって言っていました」

「高校生! よくまあ、見つけてくれたねえ。ほんまに神様みたいな子らや!」

 河合さんは高校生くらいと聞いて、目を丸くした。

「はい。近所の人も救出に手を貸してくれてたようですが、呼んでも返事がないから死んだとみなされたんでしょう。他に何件も潰れていましたから、手が足りないのはどうしようもないし、生きている人から助けるのは当然です。私は諦めなかった兄と彼らのおかげで、それからすぐに助け出されました。あのまま見つけられずに埋まっていたら、出血多量で死んでいたと思います。足はめちゃくちゃでしたし」

 河合さんはぽっちゃりした体で、杏奈の肩を抱きしめた。

「ほんまにあんたには神様がついてるんやね。足が不自由でも、あんたは明るくてほんまにええ子やもん。二番目の電車の神様も、あんたを助けんとおられんかったんやろ。私らも同じ気持ちやで。辛いことは何でも言いや。力になるさかいに」

 そういうと、河合さんは潤んだ目を指で拭い、優しく杏奈の肩を叩いた。

「有難うございます。私みたいな子、何にも出来へんのに雇ってくれたマネージャーにも、迷惑がらないでいろいろ教えてくれる河合さん達にも、本当に感謝しています。くじけんと頑張ろうって思っています」

「ここは人を思いやる職場や。それが一番の仕事やで。大丈夫、杏奈ちゃんなら、入所者さんたちの天使になれるわ」

 と、河合さんは鼻を啜ると、にっこりと笑った。杏奈も笑って頷くと、また食器の片づけを始めた。

 杏奈は自分が今までになく輝いているだろうと思った。足に力を入れてみる。ステッキは必要だが、自分の足で歩くことが出来て、仕事も出来るのだ。それがどんなに嬉しいことか……。世界は果てしなく広がってゆく気がした。車椅子で卑屈になって生きていた頃、自分を閉じ込めることばかりを考えてきた。何も出来ない、何もしたくない、誰にも会いたくない。でも今は違う。何でも出来る気がして、何でもやってみたくて、いっぱい人に会いたい。

 杏奈は家に戻ったら、東京の兄に電話しようと思った。震災のとき救出を諦めないでくれたこと、車椅子の生活にふさぎこむ杏奈にギターを教えてくれたこと、そして義足を付けることを勧めてくれたこと……。兄、恭介の愛情なくして、今の杏奈は存在しない。

「あの二人は、神様仏様や!」と、命を取り留めた杏奈に救出の様子を話してくれたとき、中学生だった兄は泣きながらそう呟いた。それから、杏奈は手を握ってくれたその人を、神様と呼ぶようになった。

 神様はいつも励ましてくれた。杏奈がくじけそうになるたびに、神様の大きな手の感触が力をあたえてくれるように蘇ってきたし、リハビリで辛かったとき、神様の叫んだ「がんばれ」が聞こえた気がした。どこの誰かも分からない少年が、杏奈の支えの一人になっていた。

 人は誰かに、そして何かに支えられ生きていくものだと杏奈は思う。今まで、本当に沢山の人に支えられて生きてきた。両親、兄、命を救ってくれた病院の医師たち、励ましてくれた学校の先生、そして義足の設計士とリハビリの療法士……。あげればきりがない程に、支えられてきたのだ。

 自分も支える人になりたい。いつか……。杏奈は頬を紅潮させて、唇を噛み締めた。

「杏奈ちゃん! さあ、ギター弾いてあげてくれる? 皆、お待ちかねやで」

 キッチンの入り口から、高松マネージャーの張り切った声が聞こえた。杏奈は「はい!」と、大きく返事をした。


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