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最終更新日 : 2013-10-19 08:37:48

はじめに

 セイバーメトリクスの認知度は、日本でもすこしずつ高まりつつある。その動きに大きな貢献を果たしているのが、米国のノンフィクション作家マイケル・ルイスが 2003 年に発表した作品『マネー・ボール』※ 1 である。

 メジャーリーグの貧乏球団オークランド・アスレチックスのセイバーメトリクスを駆使した経営戦略と、それによって 2000 年代初頭に果たした躍進を描いた同作品はベストセラーになり、2011 年に映画化されると、さらに多くの人に知られることになった。

 しかし、ノンフィクション小説として書かれている都合から、セイバーメトリクスの理論的な部分については、少し極端に記述されているところもある。

 米国のように、用いられたセイバーメトリクスに関するオリジナルの資料を入手できる環境があればそれに気づくこともできる。しかし、セイバーメトリクスについての下地がほとんどない日本のような国では、「『マネー・ボール』こそが、セイバーメトリクスのすべて」であるように思われている節もある。

 一般メディアで『マネー・ボール』や下支えするセイバーメトリクスが取り上げられるときも、「バント・盗塁をせず、四球を大事にする」という話をして終わりがちだ。『マネー・ボール』で、アスレチックスが採用した理論すべてが紹介されたわけではないこと、ストーリーに出てくる理論は作品発表時点の研究成果に基づくもので、日々発展するセイバーメトリクスが現在は既に別のステージにあることは、なかなか伝わらない。

 さらに、そうした視点の欠如から『マネー・ボール』の内容自体が歪曲した形で伝えられることもある。米国では、自由な発想で様々なリポートが発表され、それについて盛んに議論されているセイバーメトリクスを、窮屈な世界に閉じ込めている日本の状況は少々残念に思う。

 そこで、セイバーメトリクス発展の大きな流れを整理し、その中において『マネー・ボール』の内容がどこに位置するものなのかを、紹介する方法を考えてみたい。


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最終更新日 : 2013-10-19 08:39:26

セイバーメトリクスの誕生

セイバーメトリクスの発展

  セイバーメトリクスが発展してきた流れの捉え方には様々な方法があるが、ここではざっくりと「誕生期」「活発期」「普及期」の3つに時代を区切ってみようと思う。このように分けることに厳密な意味があるのではなく、大雑把な見通しを得るためである。

 まず「誕生期」は、文字通りセイバーメトリクスがこの世に誕生した時期で、言うまでもなくビル・ジェイムズの登場がその起点となる。

 ジェイムズは野球の統計的・客観的な研究をセイバーメトリクスと名付けた張本人で、セイバーメトリクスの創始者と言われる。1977 年に『Baseball Abstract』※ 2 という冊子を自費出版し、今でいうセイバーメトリクスの基礎となる発想を世に問うた。シリーズとして発行されたこの出版物を通じ、RC(Runs Created)※ 3 による打者評価、失策数を使わない守備評価など斬新な概念を数多く発表し、少しずつ注目を集めていく。

 ジェイムズの業績は非常に多岐に渡る。具体的な計算法が改訂されることはあっても、その考え方自体が過去のものとなることはなく、多くは現在の研究にも直接的に影響を与えている。あらゆる研究が元を辿ればジェイムズに行き着くと言っても大袈裟ではないかもしれない。

 また、ジェイムズ以外の人間による「誕生期」の仕事には、ジョージ・リンゼイ、ピート・パーマーらによるリニアー・ウエイト・システム(LWTS)の開発がある。

 彼らは「得点期待値」という考え方をベースに、選手のあらゆるプレーを得点価値により測定し評価を行う体系をつくりあげた。この成果は1984 年に『The Hidden Game of Baseball』(ピート・パーマー、ジョン・トーン)という書籍にまとめられ、これは『Baseball Abstract』と同様に初期のセイバーメトリクスのバイブル的存在となった。

 LWTS は走攻守の全てを得点化し選手を総合的にランク付けするものであり、その得点期待値を軸とした総合的な評価体系は、近年MLB で最も重要視される評価指標の1つとなったWAR(Wins Above Replacement)の開発にも生かされている。

 学術研究の方面でも、広い意味でセイバーメトリクスと呼び得る研究はあった。例えば1977 年に発表されたコウバーとケイラーズのOERA(Offensive Earned Run Average)は、確率の理論を使ってある打者が9人並んだ打線が1試合で生み出す平均得点を数学的に計算するモデルである。

 このように誕生期には散発的に重要な成果が生まれていたが、セイバーメトリクスはあくまでもごく一部のマニアのもので、一般的な知名度は皆無であった。

 誕生期の研究の意義として、野球という競技を改めて見つめ、その構造・骨組みや、既存のスタッツが何を意味するかを確かめ、扱い方を捉え直したこと、その上で理にかなった評価手法の土台をつくったことが挙げられる。ジェイムズは、既存のデータしか手に入らなくても、多少の発想と工夫があれば意味のある、そして何より面白い分析ができることを示してみせた。

 誕生期の研究において、細かい計算方法に無理があるところは多い。しかし、「従来用いられてきた打率や打点といった数字の何が問題なのか」「本当に捉えたいのは何か」という野球の本質とダイレクトに向き合う思考は、むしろこの時期の研究に凝縮されていると言える。


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最終更新日 : 2013-10-21 17:46:36

草の根的な研究の広がり・活発期

 『Baseball Abstract』の発表以降、ジェイムズの研究に触発されて野球データの研究を始める好事家が数多く登場した。セイバーメトリクスというムーブメントが活発になってきたこの時期を「活発期」としたい。

 インターネットでつながった米国各地の研究者たちは、趣味の範囲ではあったが議論を行い、様々なアイデアや分析結果を世に送り出していった。数えきれないほどの指標が生まれ、多くはそれほど活用されることもなく消えていった。そこで生き残った重要な成果が、その後のセイバーメトリクスの直接的な下地となっている。技術的な背景としては、パソコンやインターネットの普及により大規模なデータ分析が、専門家でなくとも手軽に行えるようになっていたことも大きかった。

 ボロス・マクラッケンのDIPS(Defense Independent Pitching Statistics)※ 4 もそのような流れの中で生まれたものとして有名だ。「投手の成績を投手自身が管理できるものとそうでないものに分ける」というDIPS の理論は、現在ではセイバーメトリクスに不可欠なものだが、当初は大きな批判にさらされた。

 マクラッケンが理論を提唱すれば、誰かが反論する。また別の誰かが信頼性を検証し、さらに別の人間がDIPS の応用手法を考案する……といった具合に、理論は多くの人間の手によって多角的に検証され信頼性を高めていった。

 セイバーメトリクスの世界にはこのように、誰もが参加できる議論を通じ、その中で有意義な成果を積み重ねてきた経緯がある。この時期はDIPS をはじめとした現在でも活用される多くの理論が、議論を通じ磨かれていった。 

 研究のうねりが高まるのに伴い、『Baseball Prospectus』※ 5 『The Hardball Times』※ 6  などインターネット上のセイバーメトリクス系メディアも誕生し、詳細なデータや分析リポートが発表される場となった。さらに書籍の出版など商業的な動きも本格化していくと、優れた分析者が集う各メディアは、シンクタンク的役割を担い得る体制を築いていった。

 活発期の議論の注目すべき点は、誕生期に生まれたセイバーメトリクスの知見について検証を重ねて弱点を補ったり、応用的な用い方が検討されたこと。また、手がつけられていなかった周辺トピックの研究が進んだことが挙げられる。現在主流となっているセイバーメトリクスの具体的な内容を知るには、この時期の研究を学ぶのが有益だ。

 例えばマクラッケンのDIPS とその応用手法、選手を代替可能な水準と比較することによって評価するリプレイスメント・レベルの考え方、映像記録を使って直接的に守備力を評価するZR(Zone Rating)、そして発展型としてのUZR(Ultimate Zone Rating)などは、この時期に進んだ研究の好例だ。守備力を数字で評価できるかについては『マネー・ボール』発表時にはややぼかされていたが、2000年代後半のUZR の登場により、かなり実用的に使える段階に入っている。

 周辺トピックとしては「捕手のリードを数値化できないか」「選手たちが調子や運の波の中にあっても一貫して保つ能力は何か」「年齢の変化がパフォーマンスにどう影響するか」「走塁能力を得点化できないか」「外野手による進塁の抑止を評価できないか」等々、これまで曖昧であったトピックや、誕生期よりもさらに踏み込んだ野球の原理に関するテーマに光が当てられ、「数字で表せる部分」は大きく拡大された。


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最終更新日 : 2013-10-19 08:29:05

『マネー・ボール』を通じた普及

 2003 年に『マネー・ボール』が発表され、セイバーメトリクスは一般的な知名度を得る。この時期を普及期としたい。

 ただし、『マネー・ボール』にはセイバーメトリクスの理論的側面についても書かれているが、セイバーメトリクスを研究していた人間にとって新しい知見が含まれていたわけではない。何よりも読者を驚かせたのは、それまで机上の分析理論に終わっていたものが、実際の球団経営に縦横に活用され、有効な成果を引き寄せた事実の舞台裏が描かれていたことだ。

 『マネー・ボール』には球界内の守旧的な人々の反発が描かれてはいたが、活発期にナレッジを蓄積し人材を集めシンクタンク化したメディアと関係性の深いアナリストが、アスレチックス以外の球団にセイバーメトリクスのコンサルタントとして雇われ、球団運営に各種の統計が活用されるようになるのにそう時間はかからなかった。比較的短い時間で、セイバーメトリクスと球団運営は切っても切れないものとなっていった。

 対球団だけではなく一般のファンへの普及も進んだ。『マネー・ボール』による認知度向上も手伝ってか、セイバーメトリクスはマニアだけが参考にするものではなくなりつつあった。これには、MLB機構がOPS やWHIP といったシンプルな指標を公式記録として扱うようになったことや、そうした数値を使ったメディアの報道が始まったことも大きかった。

 普及が進むと同時に、分析指標群はより洗練され、体系化が進んだ。各選手の打撃・走塁・守備・投球をはっきりとした形で、総合的に評価するWAR は有名なもののひとつである。WAR があれば球団もファンも簡単に、「その選手にどれだけの価値があるか」を知ることができる。さらにそれを応用して妥当な年俸の検討や、トレードの戦略を立てられる。セイバーメトリクスの議論は、指標の計算方法そのものについての技術的な話から、指標をいかに生かしていくかという実践的な現場での活用に比重を移している。

 なお、端的に現在のセイバーメトリクスで何ができるかを知りたいのであれば、WAR から入ってその計算根拠を適宜調べていくという方法もあるかもしれない。ただし、繰り返しになるが、最新の指標も過去の成果を土台にしているということは重要だ。例えばWAR の構成要素である打撃指標wOBAが利用されだしたのは比較的最近だが、その原理は「誕生期」にピート・パーマーらが開発したLWTS そのものと言っていい。


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最終更新日 : 2013-10-19 08:24:01


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