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山吹の門

   1

 中学二年の春休み、僕は祖母の家にいた。
 三学期の終業式を終えると着替えもそこそこに、僕はひとりでここに来た。

「ごめんね竣介、お母さん、会社休めないから……」
 終業式の朝、気忙しい朝食の席で、母は申し訳なさそうにそう言った。
「いいよ、べつに」
 トーストをコーヒーで喉に流し込みながら、そっけなく僕は答えた。母が忙しいのはいつものことだし、実際、もう母親がいなければ何もできない歳でもなかった。体は少し細めだけれど、運動部に所属していないわりにはしっかりしているほうだと思う。母と並べばすでに僕のほうが背も高かった。

 自宅から特急と私鉄を乗り継いで三時間ほど行くと、古神《こがみ》という駅に着く。駅を中心に古い町があり、その周辺には田圃が広がる、多分典型的な郊外の一市町村だ。祖母はこの町の外れで、ひとりで暮らしていた。
 町並みは低く空は高く、自宅近くのような便利さはないけれどのんびりできる。この町には小学校の四年生までいたから馴染みもあった。僕はいわゆる鍵っ子で、この町にいた頃は、放課後を自宅よりも祖母の家で過ごすことのほうが多かった。祖母の家は平屋のボロ屋だったが僕は好きだったし、祖母のことも好きだった。
 だがもう春休みも終わる――明日には母が僕を迎えに来る――それを思うと、僕の心は沈んだ。べつに迎えに来てもらわなくたって、帰宅くらいひとりでできる。だけど母には、祖母に報告しなければならないことがあるはずだった。
 祖母の家からはとある里山が見える。辺りでは「御座《みくら》山」と呼ばれている、なだらかなその山には、何度か祖母と登ったことがあった。当時のこの家は五右衛門風呂で、焚き付けの小枝を拾うのについていったのだ。子供だったからどれだけ役に立ったかはわからない。僕にとっては遊びだった。おむすびなどの簡単な弁当を用意してもらって山頂まで登り、一休みして降りてくるのが常だった。この辺りは標高もそれなりにあって、見晴らしの良い御座山の頂上からは遠くに白く光る海がよく見えた。
 僕はふと、御座山に登ってみよう、と思った。
 祖母は出かけて留守だった。祖母が飼っている黒猫が靴箱の上に寝そべっていた。それは物憂げに耳だけ上げて僕を見送った。

 町中の明るさに比べ、山道はひんやりと薄暗かった。
 この頃は登る人も少ないのだろう、記憶に残るそれより、随分荒れている気がした。雑木が生い茂り、陽の光を遮っている。それでも歩いていると、じんわりと汗が出てきた。僕は着ていたジャケットを脱ぎ腰に縛りつけ、シャツの袖をまくり上げると、上腕で額の汗を拭った。
 ふと目の端に明るいものを捉え、僕はその方向を見た。
 黄色い花。たくさんの黄色い小さな花が涼しげに揺れている。薄暗い雑木林の中で、そこだけが明るく光る波のように見えた。僕はまくった袖を下ろすと登山道を外れ、藪を漕ぎながらその花へと近づいた。
 それぞれの薄い花びらが木漏れ陽を集め、透き通るように輝いている。僕はその花を知っていた。
 山吹だ。一重の山吹。
 子供の頃、祖母に教わったのだ。昔の子供はこの木の芯を抜いて、鉄砲玉にして遊んだという話だった。
 ――地味な遊びだな。それの何が面白いんだろう――。
 僕は多分当時と同じことをまた思った。それよりも花の美しさに心がいった。それは当時とは違ったことだ。子供の頃には山吹の花の美しさなんてわからなかった。
 控えめだけど品のよい、艶《つや》やかな花。僕はふと、四年生のときに同じクラスだった女の子を思い出した。
 たいそう綺麗な子だった。名前は木村伽耶子《かやこ》といった。切れ長の眦《まなじり》に小さな口、素直な前髪を眉の下辺りで切りそろえたおかっぱが、とてもよく似合っていた。肩にかかるくらいの長さの髪が、伽耶子のちょっとした仕草や動きに合わせてさらさらと揺れるのを、僕はいつもこっそり見ていた。
 そうだ。僕は伽耶子が好きだった。
 伽耶子はおとなしい、無口な女の子だった。クラスからは浮いていたと思う。伽耶子が友達と楽しそうにしているのを、僕は見たことがなかった。僕もまた友達のいない子供だったから、伽耶子のことが余計に気になったのかもしれない。僕たちはぽつぽつと言葉を交わすこともあった。
 伽耶子が突然いなくなったのは、僕の家が引っ越す直前だ。
 学校から一旦帰り、その後出かけたまま戻らなかった。田舎町は大騒ぎになり、警察はもとより大人たちで捜索隊などもつくったはずだ。それでも伽耶子は見つからなかった。
 なぜ今、伽耶子を思い出したのだろう。山吹の花が誘うように風に揺れていた。
 山吹の木の前にはちょっとした空間があった。感傷が鼻の奥を突き上げてきて、僕はそこにしゃがみ込んだ。知らずに涙ぐんでいた。
 ほのかに甘い匂いがする。多分、この花のものだろう。僕はそのまま花を見上げた。目の上にある緑と黄色。それは陽の光を透かして瑞々しく、また涙に滲んで夢のように美しかった。僕はふとこの美しさに染まりたくなり、身を預けるように一面の枝垂れた花木にもたれかかった。
 そのとき。ぐらりと身体が傾《かし》いだ。
 思わず声が出た。僕がいた側からはわからなかったが、向こう側はかなりきつい傾斜になっていた。山吹は僕を支えてくれず、僕は立木に引っかかりながらも、数メートルほど転がり落ちたと思う。急に視界が開けた。

 そこは石ころだらけの沢だった。僕は呻《うめ》きながらしばらく蹲《うずくま》っていた。
 服は汚してしまったけれども、打ち身と擦り傷の他にたいした怪我はなかった。ようやく起き上がり顔を上げると、目の前に女の子の姿があった。
 僕は息を呑んだ。彼女も息を詰め、瞬きもせずに僕をみつめている。
 同い年くらいだろうか、小柄で色白の、ほっそりした綺麗な女の子だった。春らしい白っぽいワンピースに、生成のニットのカーディガンを羽織っている。胸の辺りでさらさらと揺れる黒髪、長い睫に縁取られた切れ長の眦。漆黒の瞳が吸い込まれそうに美しかった。
「だ……、大丈夫……?」
 小さな、形のよいピンクの唇が動いた。
「ああ、……うん」
 もごもごと答えると、僕は思わず俯いた。先の醜態を見られたかと思うと顔から火が出た。
「もしかして……竣介くん……?」
 僕は思わず顔を上げた。
 一目見て、似ていると思ったのだ。幼かった彼女が今目の前に現れたなら、きっとこんなだろうと――。
「木村……?」
 女の子が微笑んだ。先刻見た山吹の花のような、清楚な笑顔だった。
「やっぱり竣介くんなんだ。どうしたの? なんでこんなところに来たの?」
 その女の子――伽耶子――が僕を、苗字ではなく名前で呼ぶのも以前の通りだ。僕の苗字は久下《くげ》という、この町ではありふれたものだった。当時クラスにも久下姓の男子が僕を含めて三人もいて、区別のためにもっぱら渾名《あだな》や下の名前で呼ばれていたのだ。
「ああ、うん」
 頬が熱い。僕は赤らんだ頬を見られまいと、慌てて背後へと身を捩《ねじ》った。
「山吹を見てたら滑っちゃってさ――」
 語尾が頼りなく小さくなった。目線の先にあったのは細い側道だ。山でよく見る沢沿いの、人が歩くことによって踏み固められてできあがった細い道。下から見ても古い道だとわかる。だが僕は、御座山の登山道の近くにこんな道があるなんて知らなかった。先刻、山吹の前に立ったとき、なぜ真下のこの道に気づかなかったのだろう。沢があると知ったのも初めてだった。
 何か、おかしくないか? 側道のことは気づかなかったとして――この流れはどこへ――御座山の麓に、川なんてあっただろうか……? それに――。
 唐突に僕は気づいた。何十メートルも転げ落ちたわけじゃない。高さは多分、せいぜいあの側道からこの沢までくらいのものだ。それなのに山吹の黄色は、もうどこにも見えなかった。
「竣介くん? ねえ……?」
 伽耶子の不安げな声に、僕は我に返った。
「ああ……」
 と、出てきたのは意味のない生返事だ。
「いや、……ごめん。ちょっと、頭が……」
 僕は伽耶子に背を向けた。心配そうな声に何か答えなければと思ったが、とてもそんな余裕がなかった。
「ちょっと考えさせて……。ごめん……」
 そう言うと、伽耶子もそれきり口をつぐんだ。だが傍らに気配がある。きっと僕が口を開くのを、辛抱強く待ってくれているのだろう。僕は懸命に納得のいく答えを探した。だがいくら考えてみても、不安がますます黒々と胸を塗りつぶしていくだけだった。

 ここ、どこなんだ……?

 伽耶子にそう訊ねたかったが、できなかった。何か、恐ろしい答えが返ってきそうで……。
「竣介くん……」
 伽耶子がとうとう遠慮がちに口を開いた。
「あの……、山、そろそろ降りたほうがよくないかな……」
「ああ……うん、そうだな……」
 僕は顔を上げた。気づけばもう陽も傾き始めている。翳り始めた山道は僕も歩きたくなかった。
「どっからか上の道に上がれるのかな」
「あそこ」
 と、伽耶子が指を指した。
「あの辺に上に上がる道があるよ」
 僕たちは歩き出した。ふたりで側道を並んで下る間、黙っているのも気詰まりで、僕はさり気なさを装って話しかけた。
「でもよかった……帰ってたんだ。木村、四年のときに一回いなくなっちゃっただろ。けっこう、心配してたんだ。お祖母ちゃんちに毎日電話して、木村が帰ってきたか聞いたりしてさ……」
 思いがけない再会に昂揚していたせいか、普段の僕なら決して言わないような言葉が出た。でもそれは本心で事実だった。あのとき僕は、後ろ髪を引かれる思いでこの町を出たのだ。
 伽耶子はしばらく黙っていた。それから僕の言葉には答えずに言った。
「私もびっくりした……竣介くんがここにいるとは思わなかったから……」
「今、春休みだろ? お祖母ちゃんとこにいるんだ。明日はもう、帰らなきゃなんだけど……」
「……そっか。遊びに来たの? 古神にまた帰ってきたわけじゃないんだ」
「……うんまあ……、そういうとこ……」
 なんだか奥歯にものが挟まったような口ぶりになってしまった。伽耶子はそれ以上何も聞いてこず、僕は内心ほっとした。
 再び沈黙がふたりを包んだ。しばらくして、今度は伽耶子が話しかけてきた。
「でも竣介くん、よく私のことわかったね。名前も……もう忘れてるかと思った」
「木村だって。オレのことすぐわかったくせに」
 伽耶子はちょっと目をそらした。心なしか頬が染まって見える。その顔がたまらなくかわいらしくて、僕の頬も熱くなった。
「下の名前も覚えてるよ。カヤコ、だろ?」
「……私だって、竣介くんの苗字も覚えてるよ」
「そりゃオレの苗字なんて、覚えてなくたってこの辺で一番多い苗字言えば当たるって」
 あはは、とふたりで笑った。何年かぶりで会ったのに、ずっと一緒だったような気がした。
 僕が伽耶子の名前を覚えていたのは彼女が好きだったから、ということもあるけれど、その名前の由来が印象的だったからだ。
 同じクラスだった四年のとき、「自分の名前の由来を調べる」という、よくある宿題が出た。その発表に伽耶子が当てられたのだ。当時の担任は若い女の先生だった。なぜおとなしい伽耶子を指名したのか――クラスに溶け込ませようとか、もっとはきはきさせようとか、そんなことを考えていたのかもしれないが――僕は少し腹立たしく思ったりしたものだ。
 案の定伽耶子は答えられず、教室で白々とした視線を浴びた。
「自分の名前の由来とかさ、知らなくたって全然困らないよな」
 放課後、掃除当番でゴミを捨てにきた伽耶子に、僕は焼却炉の前で話しかけた。
 伽耶子はちらっと僕を見、ほんの少しの逡巡の後に小さな声で言った。
「誰にも内緒にしてくれる……?」
「……? うん」
 僕がそう答えると、伽耶子は僕を見ずに言った。
「カヤグムって楽器があるの。私の名前はそれから取ったんだよ」
 それからゴミ箱の底をぱんぱん、と叩き、中のゴミをすべて焼却炉に捨てると、伽耶子は教室へと戻っていった。僕はその足で図書室に向かった。分厚い百科事典を引き、それが海を隔てた半島の、古い国の琴の名であることを知った。
 伽耶子――。彼女自身が持つ儚げな花のような雰囲気と相まって、その名前は僕の心に深く刻み込まれた。
 僕たちはうち解け、たわいない会話に笑いながら山を下った。



   2

 山を下り、町へと入ったとき、僕は呆然となった。
 どこかに予感はあった。だが……。
 山中で伽耶子と再会したときの不安、一旦は小さく固まったそれが一気に膨れ上がり爆発し、胸を真っ黒に染めた。
 町の様子が一変している。山の麓に広がるそれは、僕の知っている古神の町ではなかった。
 舗装されていない、先刻の林道のような、人々が往来することでできあがった『道』。人影はなく、民家も僕が見知っているものよりも明らかに古い。それはまるで祖母のアルバムの、セピア色に変色した写真の中の風景のように見えた。
 僕はとうとう、堪えきれずに吐き出した。
「木村……、おまえ、知ってるんだろ……?」
 伽耶子は顔を背けていた。だが僕はかまわず続けた。
「ここ、古神じゃないよな? どこなんだ? ここ――」
「……ここは、どこでもないところ……」
 消え入りそうな声で、ようやく伽耶子が答えた。
「だから言ったじゃない……私……竣介くん、どうしてここへ来たの、って……」
 一瞬頭に血が上った。伽耶子を睨《ね》めつけた僕の目は多分つり上がっていただろう。僕を見た伽耶子は明らかに怯えていた。
 僕は怒鳴る代わりに大きく息を吐いた。
「そうじゃなくて」
 極力平静に話そうと努めたが、どうにも声が裏返る。人間はこんなにも簡単に、自分を制御できなくなるものなのだな、と他人事《ひとごと》のように思った。
「ここがどこか、聞いたんだよ。答えろよ。木村はここにずっといるんだろ?」
 伽耶子は黙りこくったままだ。僕は切れて手を上げそうになるのを必死に堪えた。
「あ」
 唐突に小さな声を上げると、伽耶子は僕の手を引っ張った。
 急なことに思わず手を引っ込めようとしたが、伽耶子は力一杯僕の手を握ると、物陰へと僕を引っ張り込んだ。
「なにす――」
 シッ……、と、伽耶子が自分の唇に当てて指を立てた。
 伽耶子の目線の先を追う。僕は思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を自由なもう一方の手で覆った。
 向こうからゆらゆらと歩いてくるそれの、朽ちかけた骸《むくろ》以外の何者でもない姿。恐怖と吐き気が喉元までせり上がってくる。伽耶子が手を放した。僕は口を押さえたまま、体を背けた。
「もう行っちゃったよ……」
 僕は伽耶子を見た。さっきまで居丈高に怒っていたのが、女の子、それも好きな子の前で怯えきった姿を見られては立つ瀬もなかった。
 ……それにしても……どうして伽耶子はあれを見て、こんなに冷静でいられるんだろう……。
「何だよあれ……木村はどうして平気なんだ……」
 伽耶子は黙っていたが、しばらくして口を開いた。
「だって」
 言いかけた言葉を伽耶子が呑み込む。物陰の暗がりと相まって、俯いた伽耶子の表情はよくわからなかった。
「だって、……なに?」
 しびれを切らして問うと、ようやく伽耶子が小さな声で答えた。
「もう、……いっつも、見てるから……」
 僕は言葉を失った。言いたいことはたくさんあったけど、もう何も言えなかった。

 町はオレンジ色に染まっている。空はまだ青かったが、もうじきに茜色に変わるだろう。そして――。
 気づいて不安になり、僕は再び口を開いた。
「なあ……ここ、夜とかどうしてんの? 木村の家とかあるの?」
「私の家じゃないけど……」
 そう言うと伽耶子は立ち上がり表に回ると僕を手招きし、玄関の古びた引き戸を開けた。
「おい」
「大丈夫。誰もいないから」
 伽耶子はそこが自分の家であるかのような自然さで上がり込み、僕もおっかなびっくりで後に続いた。祖母の家よりもずっと古いようだ。引き戸を開けるとそこは土間になっていて、畳敷きの部屋は障子と襖で仕切られていた。部屋の中は薄暗く、伽耶子がどこからかランプを持ってきて、それに灯を点した。
「竣介くんお腹空いてる?」
「……あ、いや」
 言われて何も食べてないことに気づいた。けれど身に起こったことで頭がいっぱいで、僕は空腹は感じていなかった。
 それよりも心のどこかに引っかかっているものがあった。多分幼い頃に読んだ絵本だ。
 祖母がくれた本だった。日本の神話をわかりやすく子供向けに書いたもので、なかでも子供心に印象的に刻まれたのは、黄泉の国へ妻を探しに行く男の話だった。何かあった気がする。あの話の中には、今、思い出しておかねばならない大事なことが――。
 だけどいくら考えても、それが何か僕にはわからなかった。
 暗く、テレビもラジオもない夜は、もう寝るしかなかった。だが僕はなかなか寝付けなかった。当たり前だ。これから自分がどうなるのか、それを考えると叫び出しそうになる。
 ランプの光はひどく心許なかったが、それでも暗闇ではないというだけで僕に安心をくれた。僕たちは同じ部屋にそれぞれ布団を敷き、背を向け合って横になっていた。死者の国の、誰が使ったかわからない布団で寝るなんて気持ち悪い、とは思ったが、僕のやわな背中は畳の上では到底我慢できなかったし、体ひとつで寝っ転がるのも無防備な感じで心細かったのだ。予想と違い、布団はよく膨らんでいて清潔な感じがした。
 僕は寝返りを打った。薄明るいランプの灯に、伽耶子の黒髪が目に入った。
「木村……」
 僕は小さな声で話しかけた。
「一緒に、帰ろうな……」
 返事はなかった。僕もそんなもの、最初から期待していない。再び寝返りを打つと、伽耶子のこれも小さな声が聞こえた。
「私……」
 僕は待った。その言葉の続きを。だがそれっきりだった。僕はいつしか眠りに落ちた。

 翌日、僕たちは川のほとりにいた。
 大きな川だ。向こう岸には青々とした茂みが、春に霞んで朧《おぼろ》に見えた。一方こちら側は石ころだらけで、緑といえばところどころに貧相な草が生えているだけだった。その川原を見下ろす土手を歩きながら、ぽつりと伽耶子が言った。
「ずっと帰りたかったけど……」
 僕は伽耶子の横顔を見た。伽耶子の表情は、長い髪に隠されていてわからなかった。
「私は今は……、この川の向こうへ行きたい……」
「向こう岸に行きたいなら、橋とか渡しとかあるだろう……?」
 曖昧にそう言うと、伽耶子がこちらを見た。
「ないの。ずうっと探してるけど、橋も渡しも見たことない」
「え……」
「船は見たことあるんだけど……」
「じゃあやっぱりあるよ、少なくとも渡し場は、どこかに」
「……うん。そう思って、ずっと探してるんだけど……」
 伽耶子は少し俯いた。再び上げたその顔には、すがるような色があった。
「竣介くん、一緒に来てくれる……?」
 僕は答えに詰まった。川に隔てられた彼方と此方。簡単に頷いてはいけない気がした。
 だけど僕にもこの世界でアテがあるわけじゃない。それどころか心細くてたまらない。伽耶子と離れてこの世界をひとりでさまようことなんて、考えられないのだ。
「とりあえず、渡し場を探そう」
 僕はそう答えた。伽耶子はそれ以上何も言わず、僕も口をきかなかった。ただふたり、歩き続けた。
 どれだけ歩いた頃か、ふと対岸を見た僕の目に、黄色い塊が映った。
 山吹だ……!
 その涼やかな黄色を目にしたとき、心にわだかまっていたものが晴れた気がした。ここが死者の国ならば、川の向こうが僕らの国、すなわち『この世』のはずだ。伽耶子が川の向こうに帰りたくなったのも、それで納得がいく。
「川の向こうに、一緒に行こう」
 僕がそう言うと、伽耶子の顔が、それこそ花のように明るくほころんだ。
「本当?」
「うん」
 僕は伽耶子の手を握った。どうしてか、とても親密な気持ちになっていた。
「一緒に帰ろう」
 再びそう言った。伽耶子は答えなかった。ただ、手を握り返してきた。

 僕たちは歩きながら、あるいは土手に腰を下ろして、色んなことを話した。伽耶子は元々おとなしかったからあまり会話が弾む、という感じではなかったけど、それでも小学校の同じクラスにいた頃よりは、何倍も話したと思う。僕はいつしか、伽耶子を苗字ではなく名前で呼ぶようになっていた。
 日が暮れればそこらの家に潜り込んで眠り、目覚めては手を繋ぎ、渡し場を探して川の辺を歩く――。それは悪くない旅だった。早く帰りたかったのは本当だけれど、ほんの少しだけ、伽耶子とこうして歩き続けていたい気持ちもあった。
 川を見下ろす土手に座り、ぼんやりと休息を取っていたときのことだ。昼下がりの空は明るく、柔らかい風が心地よかった。
「竣介くんのお母さんやお父さん、心配してるかな……」
 伽耶子の言葉に、僕は前を向いたまま答えた。
「さあ、どうかな」
 竣介なんて、いらない――。
 と言われたことはないが、似たようなことは言われたことがある。
 両親が喧嘩していたときだ。母が、「竣介さえいなければ、あなたと一緒になんかならなかったのに」と言ったのだ。
 父も母も僕には優しかった。このときふたりは、家に僕もいることに気づいてなかったのだ。だからきっと、母は本気だったと思う。少なくとも半分は。
 残りの半分は……喧嘩でつい出た言葉だったのかもしれない。でも僕は当たり前に母のことも父のことも嫌いじゃなかったから、この言葉はショックだった。それまでのかわいがられた記憶があったから、愛されていない――とはっきり思ったわけではなかったけれど、それ以来、僕は両親に自然に接することができなくなってしまった。
 少しは心配すればいい……。
 僕は子供っぽくそう思った。
「伽耶子のお母さんは心配してたよ」
 内心を隠し、僕は言葉を継いだ。
「お祖母ちゃんとこにも来てた」
「拝み屋さんだっけ……」
「もう廃業したけどね」
 答えてから、思い当たった。
 祖母が加持祈祷をやらなくなったのは伽耶子がいなくなった頃だ。すでに引っ越して古神の町を離れていたけれど、しょっちゅう祖母に電話をしては伽耶子が見つかったかどうかを訊ねていたあの頃、祖母が一度、「どこにもおらんものは見つけようがない」と言ったことがあった。僕はそのとき、祖母にひどく失望したのだった。徐々に電話をしなくなったのはそれも原因のひとつだったのだけど、今この異世界で伽耶子に再会してみると、祖母の言葉の意味がわかった気がした。
 ふと川原に目をやると、ゆらゆらと亡者が歩いているのが見えた。
「あの連中、なんであんな姿でうろうろしてるんだろうな」
 僕は伽耶子に、訊ねるともなくそう言ってみた。伽耶子は少し考え込んでいる風だったが、やがて言った。
「きっとあの人たちにも、もうわからないんだよ。どうして、自分たちがああしているのか……」
 言葉の最後は小さく消えた。まだ何か、続きがあるのかと僕は待った。
「私も、ずっと待ってたけど……」
 伽耶子が言葉を継いだ。
「あんまり長い間待ってると、何を待ってるのか、誰を待ってるのかも、わかんなくなっちゃうんだよね」
 そう言うと、伽耶子はまた口を閉じた。
「ただ待ってるだけ……理由も覚えてないのに……」
「もう、忘れちゃったんだ……?」
 笑ってそう訊ねると、伽耶子も笑顔を見せ、
「でも思い出したの。竣介くんと会って」
 と言った。
「私、お祖母ちゃんが迎えに来てくれるんじゃないかなと思ってたの。お祖母ちゃんも、ずっと帰りたがってたから……」
「帰りたがってた、って、どこへ……?」
 竣介くんを待ってた……なんてやっぱり言うわけないか、と少しがっかりしながら、僕はそんな内心はおくびにも出さずに再び訊ねた。
「海の向こう。お祖母ちゃん、海の向こうから来たの」
 伽耶子の口調はあっさりとしたものだった。伽耶子の名前の由来を知っていたから、僕にも特に驚きはなかった。
 子供の頃にはわからなくても、今ならわかることもある。伽耶子のお祖母さんにとって、日本という国は決して生きやすい場所ではなかっただろう。伽耶子にもそのお祖母さんの血が流れている。それは伽耶子が、いつもひとりでいたことと無関係ではないはずだ――。
「お祖母ちゃんもきっとずっと待ってたと思う……誰か、海の向こうへ連れて帰ってくれる人を……」
 とりとめのない考えに耽《ふけ》っていた僕を、伽耶子の声が呼び戻した。
「伽耶子が待ってたのも、『川の向こうへ連れていってくれる人』だったんだ?」
「だって……ひとりで行くのは怖いもの……」
 僕はそれを聞き、伽耶子がいなくなったとき、まだ十歳の子供だったことを改めて思った。
 伽耶子が顔を上げた。とても綺麗な、散る花のような笑顔だった。
「そしたら竣介くんが来てくれた。一緒に行こうって言ってくれた……だからわかったの。私が待ってたのは、本当は竣介くんだったんだって――」
「え……」
 頬が熱くなり、顔が赤らむのが自分でわかった。僕は伽耶子と目を合わせていられず、顔を伏せた。
「嬉しかった。竣介くんが来てくれて……」
 伽耶子の声は本当に嬉しそうだったけれど、最後はなぜだかかすれていた。こっそりと盗み見ると、伽耶子も顔を伏せていた。
「伽耶子」
 啜り上げるように、伽耶子が小さく嗚咽を漏らした。
「泣くなよ……もう、ひとりじゃないんだからさ」
 そう言うのが精一杯だった。僕は所在なく辺りを見渡した。
 土手にはとりどりの花が咲いていた。雑草の類の、名前も知らないどうということもない花だ。
 僕は立ち上がってそれらを摘むと花束のようにし、俯いた伽耶子の目線の先に差し出した。
「これあげるから……元気だしなよ……」
 伽耶子が顔を上げた。そして僕を見、笑った。それは不思議な笑顔だった。ちょっと呆れたような、でも晴れやかな――。
「ありがとう」
 目の縁はまだ赤みが残っていたけれど、伽耶子は明るい声で応えるとその花で器用に小さな腕輪を作り、
「お返し」
 と言って僕にくれた。
 伽耶子のそんな茶目っ気を見たことがなかったから、僕もなんとはなしに嬉しくなり、また立って花を摘んだ。伽耶子も立ち上がった。僕たちはふたりで歩きながら花を摘み、立ち止まって花を編みながら、川べりの土手を下った。
 川には船があった。何度かすでに見かけたことのある、客を乗せ、ゆっくりと向こう岸へと渡る船。それはいつも小さく霞み、白く光っていた。



   3

「それ」に気づいたのはいつだっただろうか。
 僕は伽耶子の白い頬に小さな染みを見つけ、自分の頬をつついて言った。
「ここ。汚れてるよ」
 伽耶子は恥ずかしそうに自分の手で頬を拭った。だが染みは取れなかった。僕は手を伸ばし、伽耶子の頬に触れてそれを擦り落とそうとしたが、やっぱり染みはそこにあった。その小さな染み――否、僕が染みだと思ったものが、そのときから伽耶子を蝕み始めた。
 腐り始めたのだ。少しずつ、伽耶子が。あの亡者たちのように。どれだけ頭で否定しても目で見ないようにしても、それを止《とど》めることはできなかった。
 川辺では太陽が向こう岸へと沈もうとしていた。とろりと熟したオレンジ色の円形が、茜色の空に浮かんでいる。燃え立つような朝陽《あさひ》とは対照的に、それは光を内側に閉じこめ、まさに今眠りにつこうとしているように見えた。
 常世の国は陽が沈むところにある――死にゆく太陽に照らされ、茜色に染まった伽耶子を見ながら、僕はやはり川の向こうが『あの世』なのだと悟った。そして伽耶子が、川の向こうへあれほど行きたがった本当の理由にも、ようやく気づいたのだった。
 伽耶子とは、行けない……。僕ははっきりとそう思った。伽耶子と僕では、最初から住むべき国が違っていたのだ。
 でも僕は伽耶子と約束した。だからせめて、渡し場までは一緒に行こう……。僕はそう決心し、自分に強く言い聞かせた。でも伽耶子が差しのべた手を、僕はもう取ることはできなかった。
 伽耶子は僕の仕打ちにひどく悲しそうだった。伽耶子の心は傷ついたと思う。だけど何も言わなかった。黙って手を引っ込めた。そんな伽耶子の様子に僕の心も痛んだ。腐り始めた伽耶子を僕はもうまともには見られなかったけれど、気持ちはまだ残っていた。
 残ってはいたけれど――。
 込み上げてくる嫌悪や不快、そして恐怖はどうしようもなかった。
 僕は自分で思うほど、伽耶子のことを好きではなかったのかもしれない。同じクラスだったあの頃からずっと一緒に過ごしていれば、伽耶子がどんな姿になっても大切に思えたのかもしれない。だけど僕たちにはそんな共有した時間などなかったし、どれだけ頭で考えたところで、現実にムリなものはムリだった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう……。
 思い当たることがひとつあった。いつだったか、川べりに道がなく、林の中を歩いていたときだ。一帯が沼地になっている場所に出た。
 沼には八つ橋が組んであり、僕たちはその上を歩いていた。僕はふと目を落とし――そう、全く何の気もなしに――水面に映った伽耶子の姿を見てしまったのだ。
 息が止まった。心臓をぎゅっと掴まれたかのようだった。慌てて目をそらして――あれはただの気のせい、見間違いだと何度も自分に言い聞かせたのに――。
 そこに映っていたのは、目の前の伽耶子とは似ても似つかない、醜くおぞましい姿だった。
 でもあれが伽耶子の本当の姿だったのだ。今ならわかる。伽耶子は本当は、最初から湖に映ったあの伽耶子だった。ただ僕が気づかずにいただけだ。

 態度を豹変させた僕を、伽耶子はどう受け止めているのだろう。僕にはそのことも恐ろしかった。でも僕には、それを確かめることはできなかった。
 伽耶子が無口なのをいいことに、僕もまた口を閉ざし、顔を背けて旅を続けた。逃げ出すことは考えなかった。否、考えないようにしていた。伽耶子を川の向こうへ送り出す……そのことだけを、必死に考えていた。伽耶子を気遣う余裕など到底なかった。
 どうせ腐った死人じゃないか、脳味噌だって腐ってるんだ、感情なんてあるわけない――そんな風に考えては、つい先日までの伽耶子の様子や自分の気持ちが思い出され、また泣けてくるのだった。


 伽耶子はそんな僕の思いをよそに、どんどん腐っていった。白い肌が赤黒く変色し、やがて融ける。気づいたときには一言も、口もきかなくなっていた。
 足取りもゆっくりと頼りなくなっていて、ちゃんと後ろをついてきているか、見たくないのに僕は何度も振り返って確かめなければならなかった。
 伽耶子の落ち窪んだ眼窩からどろりと落ちるものを見てしまったとき、僕は思わず両手で口を覆った。だが大きく叫ぶように開いた口からは、声は出てこなかった。穴の開いた袋のように、息だけが漏れた。よくホラー映画で人が絶叫しているけどあれはウソだ。恐ろしすぎると声も出ない。
 もう耐えられなかった。僕は駆け出した。
 遠くへ、ほんの少しでも遠くへ。伽耶子から。僕はただ、伽耶子から離れたかった。
 ただ闇雲に走った。伽耶子は追いかけてきたりはしないのに。なぜか涙がボロボロあふれて、前がよく見えなかった。最後には足がもつれ、つんのめった。
 川原には柔らかな草が茂っていて、僕を受け止めてくれた。青臭い空気を痛む肺にせわしなく吸い込んでは吐き出しながら、僕はいつまでも突っ伏したままでいた。
 僕はすでに、あの絵本の内容を思い出していた。初めのうちは忘れていた、でもどこかに引っかかっていたあの話だ。あの神話――黄泉の国へ妻を迎えに行った男は、妻の腐った姿を見て逃げ出すのだ。
 僕はあの話を読んだとき、子供心に男はひどい、と思った。恋いこがれ、黄泉の国にまで迎えに行くほど愛していたんじゃないか。たとえ姿は恐ろしく変わってしまったとしても、男の気持ちが本当なら、逃げ出したりするはずがない。見た目が変わっただけで気持ちも変わるなんて、男の愛は本物じゃなかったんだと――。
「……っ」
 僕はしゃくり上げた。鼻の奥がつんと痛くなり、再び涙が込み上げてきた。
 あの男は僕だ。幼い僕が軽蔑し、怒りを覚えたあの男は、そのまま今の僕自身だった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。僕はどうして、ここへ来たのか。どうしてこんな……悲しくやりきれない、惨めな思いをするためか……。
 滲んで夢のように眼前に広がった、黄色い花。
 手招くように揺れた、あの山吹の花を思い出していた。あのとき伽耶子を思い浮かべたのはなぜなんだろう。もう僕は、彼女のことは忘れて思い出しもしていなかったのに。
 伽耶子が僕を呼んだのか……。
 そう思ったとき、怒りと痛みが僕の胸を刺した。
 なぜ、僕なんだ。
 僕と伽耶子の繋がりは、四年生のときに同じクラスだったということくらいしかない。呼ぶなら伽耶子の父親か母親か、そうでなくても誰かもっと、親しく交わった知人を呼べばいいじゃないか……。
 だけどそんな気持ちもごまかしだ。内心では気づいていた。
 伽耶子と再会し、一緒に旅をするうちに、僕にはわかったのだ。例えば、あの頃伽耶子と仲良くなっていれば、あの日伽耶子と一緒に過ごしていれば、伽耶子はきっと、こんなところに迷い込むこともなかったのだということがだ。
 僕も寂しかったのに。伽耶子が好きだったのに。伽耶子も僕を特別に信頼してくれていたのに。ただ気恥ずかしく、声をかけ、親しくなることができなくて――。
 伽耶子に竣介くんを待ってた、と言われ、晴れがましく誇らしかったあのときの気持ち。一緒に帰ろうと誓った。僕は本気だった。今度こそ、どこまでも伽耶子を守って一緒に行けると思った。それが――伽耶子が、僕の思っていた伽耶子じゃなかったというだけで――。
 自分の身勝手さに反吐が出そうだった。だけどどうしようもない。それもこの旅で、僕が知ったことだ。
 人は弱い。すぐに惑い、あっけなく心も変わる。頼りなく、信じるに足らぬ存在。僕もまた、愚かで卑小な人間だった。
 亡者の列が僕の脇を通り過ぎた。草むらに伏した僕など目に入っていないようだ。僕も何の感慨もなく彼らを見送った。再会したときの伽耶子のように、僕ももう彼らに慣れ、特別な感情を持たなくなっていた。
 いっそ伽耶子に対しても、同じ気持ちになれればいいのに……。
 預かり物の荷物のように、何の思いもなくただ伽耶子を引きずって渡し場まで連れていき、船頭に託せたらどんなにラクだろう……。
 僕は起き上がった。彼らは陽炎のように揺らめきながら、草影の向こうに消えようとしていた。
 彼らはいつもただ歩いていた。彼らはどこへ行こうとしているのか……どこか、目指す場所があるのだろうか……。
 唐突にひとつの考えが脳天を打った。
 ――伽耶子! 伽耶子が亡者の列についていってしまう……!
 慌てて僕は立ち上がり、再び元来た方向へと駆け出した。なぜそんなことをするのか、自分でもわからなかった。伽耶子があの列に加わってどこかへ消えるなら、そのほうが僕には都合がいいはずだ。伽耶子にだって、そのほうがきっといい……僕に疎まれ、恐れられながら一緒に旅をするよりは――。
 それでも僕は、伽耶子の姿を求めて走った。

 僕が伽耶子を置き去りにした辺りを少し探すと、伽耶子は簡単に見つかった。少し離れたところに所在なげに立っていた。
「……伽耶子」
 荒い息を継ぎながら声をかけると、伽耶子はぼんやりと僕のほうに顔を向けた。
「ごめんな、伽耶子……いきなり走り出したりして……」
 なぜか切なく、悲しくなった。僕は伽耶子を手招いた。
「……行こう……」



   4

 僕たちはどのくらい歩き続けただろう。目に映る風景も随分変わった。僕が最初、この世界へ迷い込んだときは、風景は古びていてもはっきりとしていた。空には太陽があり、夜が訪れて月も見えた。僕は星座には詳しくないけど星もあった。
 だけど今は――。
 見上げても太陽は見えない。空は変わらず青かったが、磨りガラスを透して見ているように、あるいは青の上に白い絵の具を溶いて流したように霞んでいた。
 地上に目を戻せば、そこも同じようなものだった。描かれた風景の上から薄い黄土色を重ねて塗り込めたような、画集で見た、夕暮れの風景のような……そこに確かにあるはずなのに、静かで遥かに遠い世界だ。
 夜ももう、この世界にはやってこない。僕たちが歩き疲れる頃、世界は翳る。柔らかな草の上で眠り、目覚めればまた明るくなった川野辺を歩き出す。僕自身もまた、緩やかにこの世界の一部になろうとしているのだと思った。
 この国は黄昏《たそがれ》の国――何もかもが穏やかにまどろんでいるのだ。ここで怒ったり泣いたりしているのは、きっと僕だけだ。
 川だけが、くっきりと僕たちの前に横たわっていた。

 僕は道の端《はた》に白い花を見つけた。瑞々しい葉の緑や花の形、それが風に揺れる涼しげな様子が山吹にとてもよく似ていた。
 その花を、僕は短くいく枝《え》も折り取った。
「伽耶子」
 僕は伽耶子に話しかけた。やっぱり正視はできなかったけれど、この頃僕は、また伽耶子に話しかけるようになっていた。どうせふたりで旅を続けるなら、伽耶子を物のように扱うのではなく、人のように接するほうがラクだと気づいたのだ。
 この世界の空気が僕にそう思わせたのかもしれない。僕自身が伽耶子と同じ存在になりつつあるからなのかもしれない。とにかく僕はそう思ったのだった。
 伽耶子はもう、ひどい有様だった。美しく清楚だった頃の面影は、もうどこを探してもない。僕が恐れ、嘆き悲しんで逃げ出したときより、もっとおぞましい姿になり果てていた。
「伽耶子の名前の由来は聞いたけど、オレの名前のことは話してなかったよな」
 白いワンピースもカーディガンも、伽耶子の融けた肉でどろどろに汚れていた。僕は手にした白い花を、伽耶子の乱れて固まった髪に挿した。
「オレの名前はさ、画家の名前なんだ。母さんは色々尤もらしく言ってたけど、そんなんじゃなく、単純に親父が自分の好きだった画家の名前をつけたの。オレの親父、元々絵描きになりたかったんだよ」
 話しかけながら、何本も何本も……それからカーディガンのボタン穴や、ワンピースの襟元にも花を挿した。
「伽耶子のとこも色々あったと思うけど……うちもあんまりよくなかったよ。親父、全然甲斐性なかったからね。お祖母ちゃんともうまくいってなくて、それもあって引っ越したんだ。
 最初に会ったとき、どうしてここに来たのって聞いただろ? 本当は親が離婚の話し合いすんのにジャマだから、こっちに預けられてたんだよ。まあオレは……不機嫌でケンカばかりしてる親と一緒にいるよりは、こっちにいたほうがなんぼかよかったけどさ……」
 なんとなく惨めで恥ずかしくて、伽耶子には話せなかった。でももっと早く、会ったときはムリでも、旅の途中で話しておけばよかった。そうすれば伽耶子の話だって、聞いてあげられたかもしれないのに――。
 伽耶子は教室で、どんな気持ちでいたのだろう。自分が、他の級友たちとは違うと感じていたかもしれない。僕もそうだった。親に当たり前に甘えたり喧嘩をしたりしている友達が、うらやましく妬ましく、そして腹立たしくて――。
 忘れたつもりの感情がじわりと胸に広がった。僕はそれを振り払うように、いつか伽耶子が目の前で見せたやり方を懸命に思い出しながら花を編み、花輪も作った。そしてそれを、伽耶子の頭に載せてやった。
「…………」
 全身を白い花で飾り立てた、腐り果てた死体――。泣けばいいのか笑えばいいのか、僕にはわからなかった。
 一陣の風に白い花びらがはらはらと舞い散った。僕は少し笑った。
 今僕が伽耶子に捧げた花は、早晩萎れ、むなしく散ってしまうだろう。
「大丈夫。また花が咲いていたら、摘んでやるよ」
 それは伽耶子にか、それとも己れに向けての言葉だったか。
 僕はそう言い、また歩き始めた。


 それから幾日後か幾月後か。僕たちは船を見た。
 彼方に白く光る船じゃない。流れに棹を差し、ゆっくりと向こう岸へと漕ぎ出していくところだった。船頭も、客の姿もくっきりと見えた。川に飛び込めば泳ぎ着けるほどに近かった。
 渡し場が近い……!
「伽耶子、早く……!」
 僕は我慢できずに少し先まで駆けては振り返り、伽耶子をせき立てた。伽耶子の覚束ない足取りがひどく焦れったかった。
 背が高くなってきた草をかき分けながら進むと、唐突に僅かな空き地に出た。水辺に板を渡しただけの、あっけないほどに簡素な渡し場がそこにあった。空き地にこれもごく質素な床几《しょうぎ》が置いてあり、白く薄い髪と鬚《ひげ》を肩の辺りまで垂らした小さな老爺が座っていた。
 老爺は穏やかな表情を僕に向けた。僕は気づいた。これは人じゃない――。
 目鼻立ちも居ずまいも、人と全く変わらない。それでも何かが違うのだ。だがそれは、間違いなく僕がこの国で初めて出会った、「生きている者」だった。
「……こんにちは……」
 僕はおずおずと声をかけた。
 老爺は僕に笑いかけた。僕は少し安心し、言葉を継いだ。
「船に乗せて欲しいんですけど……」
「船に乗って、どうするね」
「向こう岸に渡りたいんです」
 老爺の問いにそう答えると、老爺は「ふむ……」というように鬚をしごいた。
「おまえが、かね?」
「いえ……」
 僕は言いよどみ、後ろを振り返った。伽耶子はそこにいた。
「この子です。この子を向こう岸まで、乗せてやってもらえませんか」
 老爺は目を細め、僕から伽耶子へと、ゆっくりと視線を移した。
「おまえたちはこの川を渡るために、長い旅をしてきたのだね」
 訊ねるともなく、そう言った。
 柔らかな風が優しく頬を撫でる。老爺の背では川面がきらきらと光っていた。
「だがそれを、船に乗せることはできん」
「なぜですか」
 問うてはみたものの、僕は老爺の答えには驚かなかった。なぜかそんな気がしていたのだ。
 僕たちが見た船は白く美しく、乗っていた客も輝いて見えた。黒く腐った伽耶子は、ふさわしくない――。
 でも僕は食い下がった。
「この子がこんなになってしまったのも、ここに長くいすぎたせいだ。この子は本当にもう長い間、川の向こうへ行く道を探していたんです。ようやくここまでたどり着いたのに……それはあんまりだ……」
 ふむ……、と、老爺はまた鬚をしごいた。
「おまえは腐った亡者の列を見たことがあるだろう」
「……はい」
 僕は答えた。老爺が何を言うつもりか、僕にはわからなかった。
「あれはこの世に思いを残した者どもだよ。未練や怖れはみな此岸に捨てていかなければ、船に乗ることはできんのだ」
「でも、この子は船に乗りたがってます。それがこの子の望みなんです。他にはもう何もない。なのに、どうして乗せてもらえないんですか?」
 老爺は再び目を細め、僕を見た。内心を見透かすような視線だったが、それは不快なものではなかった。
「おまえはウソをついているね。おまえはそれの望みを知っているだろう。それの望みは、誰かと向こう岸へ行くことだ。だがおまえは一緒には行けない。だからそれも船に乗ることはできんのだよ」
「……ではこの子は」
 と、動揺を押し隠して僕も続けた。僕は必死だった。
「永遠に船には乗れないのですか。僕がこの子と一緒に船に乗るのでなければ――、この子と一緒に、僕もこの国を旅し続けるしかないのですか?」
「神ならぬ身なら終わりは必ず訪れる。必ず救われる」
 老爺は視線を緩めた。
「さあ、もう話は終わりだ。もう往きなさい」
 そう言うと老爺は僕たちにすっかり関心をなくしたようだった。老爺は再び川面に視線をやり、地蔵のように動かなくなった。
「お爺さん……! どうかお願いします……!」
 もう一度言ってみたけど、もう何の反応もなかった。
 僕と伽耶子は長い間そこに立ち尽くしていた。だが船は戻って来ず、僕たちもとうとうあきらめてその場を去った。渡し場は草に隠れ、すぐに見えなくなった。

 老爺は言った。往きなさい、と。でも、どこへ?
 これまでは渡し場を探すという目的があった。でもその目的は今はもう消えた。これからの長い旅を、何を恃《たの》みに、どこを目指せというのか……。
 老爺の言った「終わり」に向かって? 終わりって何だ? 僕もまた、死んでしまうということか……?
 そこまで考えて、僕はなぜだかおかしくなった。それから涙が出た。
 ここは死者の国。それならここにいる僕も、僕自身の気持ちはどうであれ、死人に決まってるじゃないか……。

 僕たちは目的を見失い、それでも川辺を歩き続けていた。もし僕の他に生きている者がいて今の僕たちを見たとしたら、僕たちはきっと、ただ風に吹かれて歩いているように見えたことだろう。あの亡者たちのように。目的もなく、それでもあきらめきれずにさまよう僕たちは、あの亡者そのものだった。
 川幅が随分広くなった。もう向こう岸も霞んで見えない。僕はふと、このまま歩き続ければやがて海にたどり着くのだろうか、と思った。
 いつか御座山の頂上から見た、彼方に白く光る海を思い出していた。不思議に心が温かくなった。こんな感覚も久しぶりだ。
「もし海にたどり着いたら――」
 と、僕は心に浮かんだことを、独り言のように口に出した。
「伽耶子のお祖母ちゃんが、海の向こうから迎えに来てくれるかもしれないな……」
 伽耶子はもちろん答えない。だが僕はこの考えが気に入った。
 母でも父でもなく、祖母が迎えに来てくれるのをずっと待っていた伽耶子。僕はもう知っていた。
 伽耶子が待っていたのは、本当は僕じゃなかった。伽耶子が帰りたくて、でもひとりでは帰れなかったまだ知らぬその場所は――。
 海を目指そう、と思った。どうせ時間は永遠ともいえるだけあるのだ。
 僕たちはいつか海にたどり着けるだろう。もし伽耶子のお祖母ちゃんが迎えに来てくれなくても、そのときは僕が伽耶子を連れ、海に漕ぎ出してもいい――伽耶子の望むところまで――いつかふたりが海のひと滴になるまで、伽耶子と一緒に――。

 そのとき。
 何か、とても懐かしい声を聞いた気がした。僕は我に返り、周囲を見渡した。

 ミャー

 今度ははっきりと聞こえた。猫だ。甲高い、仔猫が親猫に甘えるときのような声。僕はその声に聞き覚えがあった。
 やがて黒い小さなケモノが草むらから姿を現した。
「みゃー!」
 自分でも驚くような大きな声が出た。あの日、祖母の家の玄関で僕を見送った黒猫だ。雄のクセにやたらにかわいい声の持ち主で、ついた名前も『みゃー』だった。
 黒猫は人懐っこく僕の足元にじゃれついた。僕はそれを抱き上げた。懐かしく確かな重みと温みに触れ、僕の血が再び熱く脈打ち始めた。黒猫はぴくりとヒゲを動かすと僕の腕からすとんと降りた。そしてもう一度ミャーと鳴くとついと離れ、僕を振り返った。
 みゃーはついてこいと言っているのだ。僕にはわかった。でも僕は動けずにいた。また僕は伽耶子を裏切るのか……今僕は――伽耶子と行こうと考えたばかりなのに――。
 僕は振り返った。伽耶子はただ無言でそこに立ち尽くしていた。
「伽耶子――」
 名前を呼んでも、答えが返るわけもない。伽耶子の姿が滲んだ。
「ごめん、伽耶子……」
 再び小さくみゃーの声がした。向き直ると、みゃーはもう随分と遠くへ行ってしまっていた。
 僕は再び伽耶子を見た。どんなに目を凝らしても、目の前の伽耶子にかつての面影を見出すことはできない。だけど思い出の中の伽耶子は、今でも可憐で清楚な一輪の花だ。
 教室でひとりぼっちだった伽耶子。内緒だよと言って、僕にだけ名前の秘密を教えてくれた。手を繋ぎ花を摘んで一緒に歩いた。僕たちにはこの国で、確かに分かちあった時間があり、通いあわせた心があった。
 ――伽耶子――僕は――。
「ごめんな……! ごめん……」
 涙があふれた。僕は駆け出した。
 やはり僕は生きたい。現世へ戻りたい。冷淡でも情けなくても身勝手でも、僕は――。
 僕は振り返らなかった。伽耶子はどんどん小さくなりながら、それでもいつまでも僕の心の中に佇んでいた。

 小さなみゃーは時折僕を確かめるように振り返りながら、少し前を歩いていく。僕はただぴんと尾を立てたみゃーの後ろ姿だけをみつめ、見失わないよう必死でついていく。
 行く手は徐々に暗くなり、やがてすっかり闇に閉ざされて、みゃーの姿もほとんど見えなくなった。
「みゃー、みゃーどこだ?」
 ひとりではこの闇の中は歩けない。泣きそうになりながら名を呼んだ。振り返ることはしなかった。振り返ってもそこにすでに道はないのはわかっていた。
 ふと傍らに気配を感じ、僕はそちらをおそるおそる盗み見た。
 そこにいたのは若い男――いや、若い男の姿はしているが、川辺の渡し場にいた老人と同じ、人ならざる何かだった。それは黒っぽい服を着込み僕と並んで歩いていて、銀色に光る大きな瞳で前を見据えたまま、僕に片手を差し出した。
 ためらいがなかったわけではない。だけど僕にはすべてを押し包む漆黒の闇の中、ひとりで立っている気概は到底なかった。僕はすがるようにその手を取った。
 それの掌は大きく厚く温かく、僕に安心をくれた。姿はすでに闇に溶け込もうとしていた。瞳はなおも銀色の光を放っていたが、それすら闇に呑み込まれるのも時間の問題だろう。長く伸びたそれの爪が食い込むのを気にもかけず、僕はその手を強く握った。手の中の温もりと痛みだけを恃みに、僕は漆黒の中をただ歩き続けた。


 その闇をいつ、どうやって通り過ぎたのか、僕は覚えていない。気がつくと僕は祖母の家の前にいた。
 目眩がしそうに明るい昼下がりだった。気温は高く、長袖のシャツの下はべったりと汗で濡れていた。雑草が茂り放題の手入れのなってない庭と、見慣れた古びた玄関。僕は引き戸を開けた。三和土を上がった廊下の隅には、いつものようにみゃーの茶碗が置いてある。それはなぜだか伏せられていて、その下に紙切れが挟んであった。ふと興味を惹かれ、僕はそれを広げて読んだ。

 たちわかれ いなはのやまの みねにおふる まつとしきかは いまかへりこむ

 どこからかみゃーが現れて、例の甘えた声で鳴きながら僕の足にじゃれつき、額を擦りつけてきた。
「竣介……!」
 みゃーの声に気づいたのか、廊下の奥の襖が開《あ》き、顔を出したのは母だった。
「母さん? なんで、ここにいるの……?」
「なんでって、あんたは……!」
 母は狭い廊下を転がるように駆け寄ってくると僕を抱きしめ、揺さぶった。母は泣いていた。
「あんたは、もう……! どれだけ心配したか……!」
「……え……と、……あの……」
 母の激しい反応に戸惑っていると、奥の座敷から祖母も出てきた。今度はその足元にじゃれついたみゃーを抱き上げると、
「お帰り、みゃー。ご苦労だったね」
 と頭を撫で、僕にも
「お帰り、竣介。よう帰ってきた」
 と言った。
「……ただいま」
 そう口にすると、ああ、帰ってきたんだな、という実感が湧いた。
 僕は何処《いずこ》か、遠いところを旅してきたのだ。そしてみゃーに連れられここに帰ってきた。
 僕は息を大きく吸い込んだ。
「ただいま、お祖母ちゃん、お母さん」
 もう一度、そう繰り返した。



   終章

 僕がこの世へと帰還した夜、祖母の家へ父も来た。あの国では時間も止まったようで、どれだけの間を過ごしたのかよくわからなくなっていたけれども、実際は三月余りのことだったらしい。
 その夜から原因不明の熱が出て、僕は十日も寝込んだだろうか。熱が下がった後に、その間《かん》のことを母が話してくれた。
 僕が行方知れずになり、両親が祖母を責め互いを責め、最後には自分たち自身を責め始めた頃のこと、みゃーが祖母の夢に現れ、「竣介を連れて帰る」と言ったのだという。その日からみゃーは姿を消した。元々気まぐれな雄猫、母は祖母の言うことなどまるきり信じてはいなかったが、それでもどこか、藁にもすがる思いがあったのだろう、みゃーが僕を連れて無事に戻れるようにと、祖母に教えられて呪《まじな》いをしたのだそうだ。みゃーの茶碗の下にあったあの和歌は、猫返しの呪文だった。
 帰ってきたと思ったら熱を出して寝込んだりして、結局僕の復学は夏休み後、二学期になってからだった。多分それもよかったのだと思う。心配してであれ興味本位であれ、失踪中のことについてとやかく聞いてくる者がそう多くなかったことは助かった。問われても答えようもないからだ。両親にはすまなかったが、世間的には、「親の不和に傷ついた子供の家出」で片がついた。
 僕はあの国で見聞きしたことは、誰にも話さなかった。両親、そして祖母にさえ。もちろん伽耶子のことも……。
 僕はゆっくりとこの世界へ、日々の生活へと戻っていった。



 
 最後にその後についても、簡単に記しておこうと思う。
 両親は結局別れた。僕の「事件」の後、ふたりは良好な関係を取り戻したかに見えたが、やはりそれは有事に於ける一時的なものであったらしい。一度壊れてしまった関係は、多分そう簡単に修復できるものではないのだろう。
 あのとき僕を迎えに来てくれたみゃーは、とっくに猫の国へと帰った。祖母もすでに泉下の人となり、あの古ぼけた小さな家があった辺りには、今は幹線道路が走っている。
 僕は大学入学を機に家を出、以来気ままな独り暮らしだ。三つ子の魂とでもいうのだろうか、人嫌いなわけではないけれど、ひとりが性にあっているのだろう。

 僕はあれからも長い間、人知れず咲いている山吹を見つけると時々潜《くぐ》っていた。だが二度とあの世界は現れなかった。
 何年か前、唐突に母から電話がかかってきたことがあった。
 御座山が宅地造成のために崩されたのだが、そのとき小さな子供の骨が出てきたという話だった。十歳前後の女の子で、鑑定の結果では死後もう三、四十年も経っているらしい、とのことだった。
 多分、その話を聞いたとき、母は僕がその子のようにならなくてよかった……、と、心底思ったことだろう。息子が小学生だったとき、突然失踪した同級生《クラスメイト》がいたことを思い出したかもしれない。母のとりとめのない話を聞きながら、僕は伽耶子のことを考えていた。
 伽耶子もようやく、帰ったのだと思った。骸はこの世に、そして魂は川の向こうへと――。
 もう山吹の花の下を潜ることもない……。
 そう思った。

 山吹の花が咲くところには幽界への入り口がある、そう聞いたのはつい最近のことだ。だがあの花を潜らずとも、生きとし生けるものはすべてがやがてその門に至るのだ。
 それが一年後か五十年後か、あるいは明日なのかは誰にもわからない。人生が旅ならば、それはその門に向かってただ歩き続けるものなのだろう。出会っては別れ、美しい風景もやがてはゆき過ぎる。残るのは一抹の思いだけだ。その儚さはかつて僕が迷い込んだあの黄昏の国の、心許なく揺らめいた風景となんら変わるところはない。
 僕はなぜあの国に迷い込み、伽耶子と再会したのだろう。そしてその伽耶子を見捨て、ひとりでこの世に戻ってきたのだという忸怩《じくじ》とした思いも、小さく滲んだ伽耶子の姿と共に、ずっと僕の心の奥底にあった。だがいずれ門を潜り伽耶子に再会するのなら、そうしたことを気に病むこともないのだろう。
 人が最期まで捨てられないもの。思い出や憎しみ、悲しみ。喜び。愛。全てはやがて終わり、赦《ゆる》されるのだと語った老爺の言葉。僕もまた、あの老爺の水棹《みさお》に送られて、川の向こうへと還っていくひとりなのだ。

 


あんのーん

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ちょっと古風な世界観や少し不思議なお話が好きです。基本的にシリアス指向、多分「ほろにがほのあま微妙に(但R作品除く)エロい」が私の作風。