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空も一緒に泣くから

 衣装合わせと進行説明会を一度に片付けることにしたその日は、とにかく早起きした。
 始発電車に飛び乗って、乗換駅の売店でジャムパンを買って、新幹線の中で朝食代わりにかじった。それから、また在来線に乗り継ぎして……最後は、市内巡回コミュニティバスで、祐久市役所西館へ向かった。

 梅雨が明けたとたん、夏空はてんてん干しで、日傘を広げても目が回った。市役所前のバス停を降りて少し歩くだけのちょっとの間でも油断大敵と思っていた。私は色白だから、紫外線にはすごく弱いの。うっかり焼くと大変な目にあうから、日焼け止めを塗りたくって、真っ黒な日傘を持ち歩いていた。

 自動ドアを通り抜けた先、西館の一階ホールは、エアコンが良く効いていて幸せだった。何とか、約束の時間までに辿り着いて、ほっと、ひと息ついたところで、ちょっと芝居がかった声に後ろから呼ばれた。
「お疲れ様です。手鞠姫《てまりひめ》さま」
 振り返ると、私の担当者をしてくれることになった祐久市観光協会の青井さんが、銀色眼鏡の向こうでにっこり。私は、ぷいっと膨れて見せた。
「橘智菜《たちばな ちな》です……こんな場所で、そっちの呼び方はやめてください」
 青井さんは、困って見せた顔で、それでもへらへら笑った。営業スマイルっていうの。大人ってずるいなと思った。
「長旅でお疲れのところ、恐縮ですが、早速、衣装合わせをします。こちらへどうぞ」
 私は、もう一回、膨れて見せた。

 市民のみなさんによる手作りのお祭りだから、出演する私の衣装も、地元の服飾専門学校で縫製やデザインを学んでいるお姉さんたちが作ってくれていた。何でも、約七十年ぶりに手鞠姫が代替わりするから、今年の雨乞い夏祭りについては、準備に関わってくれたみなさんの気合いの入り具合がいつもと違うらしい。

 菊子おばあちゃんの遺言だから仕方ない。それでも、すっかり、おもちゃみたいに、いじくり回されるのには疲れた。
 最初に案内された部屋は小さな和室。観光協会が招いたお客さま向けの控え室らしい。そこにステージ用の巫女さん衣装みたいなのと、浴衣がそれぞれ複数パターン用意されていた。仮縫いされた衣装に袖を通すと、専門学校のお姉さんたちに取り囲まれた。
「ちっちゃいね、本当にあなた、中学生なの?」
「細いね……ウエスト、もう少し絞ろうか」
「髪飾り減らした方が良いわ。多過ぎると、お稚児さんになっちゃう」
 お姉さんたちは楽しそうに、くすくすと悪戯笑い。
 失礼なことを言われている気がしたけど、みんな悪気はないし、変に気を使われない方が楽だから我慢した。

 昼食は西館二階の職員食堂で済ませた。そのまま同じテーブルで、夏祭りの説明会になった。とにかく時間が足りないから、本当に大忙しだった。つまり、夏祭りの実行委員会の人たちに取り囲まれて、次々と会場配置やタイムテーブルを詰め込み勉強させられた。
 例えば、ちょっとゴッツイ感じの機材担当さんからは、
「注意事項というかお願いですが……当日は十時三十分までは雨を降らさないでください。メイン会場の演出に花火を使用しますから」
 と釘を刺された。張りぼてか何かに少量だけど花火を仕掛けるらしい。どういう演出なのかは理解できなかったけど、濡れると困るのは確かみたい。
 それからと、今度は進行係さんが、タイムテーブルを印刷した資料を私の前で捲りながら続けた。
「十三時から中央運動公園Aグラウンドで保存会による火縄銃の演目がありますから、この前後も雨は避けてください」
 他にも三味線や大正琴の演奏時間も楽器が濡れるからダメとか。こんな感じの説明が延々と続いた。私が雨を降らせてもいいタイミングは、雨乞い夏祭りっていうのに意外に限られていた。ちょっと心配になった。おばあちゃんから手鞠姫の役を引き継いだばっかりの初心者だから、私、指定時間を避けて都合良く雨を降らせるなんて、できる自信がなかった。
 とにかく間違えないように資料を蛍光マーカーで塗りながら確認した。他にも来賓のみなさまへのご挨拶とか、恥ずかしいことにパレードにも参加させられるとか。チェック用の蛍光マーカーを握ったまま、おもちゃにされているような気がして、ため息が零れた。
 こんなに詰め込み学習なのは、私が帰りに乗る新幹線の時間が決まっているからだった。

 最後に、大急ぎで仕上げてもらった衣装を身にまとってのポスター撮りになった。
「ミス祐久のみなさんのポスターがあるんだから、本番まで一ヶ月ないんだし、今更、私のバージョンを用意しなくったっても……」
 と、すねて見せても、青井さんに手馴れた様子で切り返された。
「いえいえ、良くお似合いですよ、手鞠姫さま」
 絶対、この人、私のこと、小学生扱いしてると感じた。それから、手鞠や扇を持たされて、いっぱい写真を撮られた。カメラマンは地元商店街の写真屋さんだった。「こっちを見て」と視線を指定されるたびに、カメラの傍でクマのぬいぐるみを振られるのは、微妙な感じだった。

 今日の日程を何とかこなしたときには、帰りの新幹線の時間がぎりぎりだった。近くの駅まで車を出してもらって、その後はとにかく走って、発車間際に駆け込んだ。

 帰りの新幹線の中でため息をついた。まるで不思議な物語の中に迷い込んだように感じた。
 この前まで大丈夫だって思えたのは、菊子おばあちゃんが傍にいてくれたからだった。
 おばあちゃんにお願いされたから、手鞠姫の役目を引き継いだ。けれども、本当に、私、おばあちゃんみたいに、上手に雨を降らせたりできるのかな? 車窓を流れる景色を眺めながら、そう思った。



 私が泣きたいときは、空も一緒に泣いてくれる。

 そう思うようになったのは、小学校五年生の夏休みだった。学校の中庭に小さなウサギ小屋があって、そこにそれぞれのクラスで一匹づつウサギを飼っていた。
 私のクラス、五年二組では「リン」と名付けた真っ白な雪ウサギを飼っていた。
 私は、一年生からずっとウサギの飼育係をしていた。不思議な色合いをしたウサギたちの目が、私の左目に似ている気がしたから。
 私、左目だけ、ほんの少しだけど青色がかった色をしているの。それにすごく色白だから。
 だから、幼稚園の頃には、先生が「智菜さんは、ウサギさんみたい」って可愛がってくれた。それが嬉しくって、ウサギが大好きになった。

 だけど……リンが死んだの。

 夏休み中だったから、連絡が取れて教室に集まれた子だけで、リンのお別れ会をした。
 お花を入れた小さな段ボール箱が用意されても、私はリンを取られないようにぎゅっと抱いて、すすり泣いていた。
「智菜さん、そろそろお別れを……」
 先生の優しい声が肩をたたいた。
 それが合図だったみたいに、私は声をあげて泣いた。
 リンを見送った後も、ウサギ小屋の前で泣き続けていた。

 そうしたら、雨がぽつぽつと降り始めた。

 何となくだけど、私の気持ちが空まで届いた気がして……もっと、もっと、いっぱい雨が降ったらいいと思った。そうしたら最後は、土砂降りになってしまった。泣き疲れて、雨にぐっしょり濡れて帰った私は、結局、夏風邪をひいて一週間も寝込んでしまった。
 私、もしかしたら「雨女」かも知れないって思ったのは、その時が初めてだった。


 次に私が、思いっきり雨を降らそうと思ったのは、去年の初夏のことだった。
 理由は、恥ずかしいけど、失恋だと思う……たぶん。
 中学校にあがって、すぐ、まだ部活をどこにしようかって迷っていた頃だった。
 お母さんが厳しかったから、私はピアノや習字など幼い頃から色々と習い事をさせられていた。油彩画のことも、ほんの基礎だけど、自宅近くの教室で習っていた。そんな繋がりで美術部へ見学に行った。
 そこで、私は先輩に見初められたの。
「君を描かせてほしい」
 背が高くて知的な人で、眼鏡越しの視線が不思議だった。だから、うっかり「はい」と即答してしまった。
 それから一ヶ月の間、放課後は毎日、美術部の部室へ通った。廃部寸前の美術部で、ちゃんと活動しているのは、先輩ひとりだけだった。
 だから、先輩とふたりきり。
 それに、「描く」といっても……私は、椅子に座ってぼんやり雑誌を読んだり宿題を片付けたりするだけだった。先輩が一生懸命にキャンバスと格闘しているのに、私はぼーとしてた。それなのに先輩は雑談の相手もしてくれたし、宿題も見てくれた。
「あれ、先輩、おつゆ描きはバーントシェンナーとかじゃないんですね。ビリジャンですか?」
 ひょいとキャンバスを覗いたら、先輩は木炭描きの上に、緑色の絵の具で描き始めていた。テレピン油で茶色系の絵の具を薄く溶いて使うから、おつゆ描きっていうのに、なぜ? と疑問を感じた。
「特別な絵だから。いつもと違うやり方をするんだ」
 つぶやいた先輩の声は少し低くて、追い詰められているみたいで、ちょっとだけ怖かった。
 後から知ったけど、三年生の先輩は、進学先を決められずに悩んでいた。それで、担任の先生から県主催の美術展に入選したら美術系の専門学校へ行ってもいいって言われていたらしい。
 だけど、何も知らなかった私は、その時はごく暢気《のんき》に気のせいと思った。

 絵がもうすぐ描きあがる頃になって、急に先輩の様子が変わった。
「ありがとう、もう、明日からは来なくていいよ」
 えっ……?
 ぶっきらぼうな言い方で、絵が完成したという雰囲気じゃなかった。気持ちが途切れたみたいな言い振りに驚いた。キャンバスを見ると、ほとんど絵はでき上がっていた。背景の一部がまだ描けていないくらい。
「あの、もうすぐ、完成みたいだから、明日もお付き合いしましょうか?」
 先輩が首を振った。パレットや絵の具を片付け始めていた。
「まるで描けなかった。この絵はこれで終わりにするよ」
 寂しそうな言葉が痛かった。だから、片付けられてしまいそうなキャンバスの前に廻り込んで両手を広げた。
「こんなに上手に描けてるのにもったいないですよ。それに私、来週も空いてるし……」
 だけど、先輩の声がそれを撥ね退けた。
「もういいって言ってるんだ」
 怒気を抑えきれない声とともに、先輩は手にしていた絵筆を折って、乱暴に床に投げ捨てた。
「何してるんですか、絵が描けなくなっちゃうじゃないですか」
 慌てて床に散らばった絵筆を拾い集めた。まだ絵の具が残ったまま折れた絵筆も仕方なく拾った。
「卒業したら、美術の専門学校に行きたいって言ってたじゃないですか。それなのに、急にどうして?」
 私まで、泣きそうな声になっていた。
「この一枚でわかったよ。僕には才能がない。先生の勧めるとおり普通科に進学するよ」
 新入生の私には、三年生の先輩の気持ちは全然わかってなかったと思う。
「せっかく、上手に描けているのに……」
 そう、ぽつりと言葉に出してしまったのが、引き金だった。
「上手な、じゃだめなんだ。上手って言われるだけじゃ……美術を目指している奴らの中には、特別な絵が描ける奴がぞろぞろいるんだ」
 先輩の声に泣き声が混じった気がした。うつむいていたし、見てはいけない気がした。
 だけど……
「そう、智菜みたいな生まれつき特別な何かを持っていたら……」
 えっ……?
「智菜を描きたいと思ったのは、智菜の左目が特別だからだよ」
 ぶっきらぼうな言葉に驚いて立ち尽くした。
「虹彩異色《こうさいいしょく》とか言うんだろ、それ。小説とかのキャラでは大人気の設定だっていうし。誰もが憧れるものなのに非常に稀にしかないもの。初めて智菜を見たときには、本当に魔法か何かに見えた」
 先輩は描きかけの絵を眺めながら、泣き声混じりにつぶやく。それは、斜め左から見た構図の私の姿。椅子にかけて本を読んでいる様子を透明な感じに描いていた。ちょうど中央に淡く青色を載せた左目が描かれている。
「特別な題材を描けば、もしかしたら僕にも特別な絵が描けるかも知れないと思った。自分にも他の奴らみたいな才能があれば、目覚めるかも知れないと思った。だけど、だめだった」
「そんな……だって、もっと上手くなるために専門学校に行くんでしょ?」
 だけど、私の言葉に答えずに先輩が振り返った。
「智菜の左目は、本当に綺麗だ」
 震えたその声を怖いと思った。
「その目で見たら、僕が見ているのとは、もっと違う世界が見えるのだろう?」
 先輩の視線がまっすぐ私の左目を見据えた。
「あの桜の絵を描いたのは、智菜の瞳が蒼いからなんだろう?」
 すぐには先輩が言う言葉の意味がわからなくて、小首を傾げた。
 すると、先輩はスケッチブックの間から、地元の県立美術館主催らしい美術展の募集要項を取り出した。その裏面に過去の入選作が紹介されていた。そこに小さくだけど、私が描いた絵の写真もあった。
 それは、小学五年生の時に描いた絵だった。
 すっかり忘れていた。写真を見せられて、こんな形で先輩から意識されていたことに初めて気づいた。
「智菜には、誰にも見えないものが見える……特別な色彩感覚があると思う」
 惨めな羨望に泣き濡れた声が言った。
 目眩がするほどに蒼い空の中に、白い桜の花が輝いていた。空の色が花びらに透けていた。だから、桜の花びらを藍色に描いた。私自身では、何でもない絵と思っていた。子供部屋の窓から見えた景色を描いただけ。自宅近くの堤防に一本だけ古い桜の木が毎年咲いていた。
 だけど、面白い絵だからって、絵画教室の先生が美術展に送ったら、佳作になった。絵のサイズの号数指定も緩かったし、年齢制限もなし。そんな美術展だった。きっと、小学生の絵だからって、大甘に評価されているんだと思っていた。だから、すっかり忘れていた。
「特別なんて、何もないです。だって、地元の美術展だし、それに小学生の頃にちょこっと描いただけだもの」
 笑って見せた。それなのに……先輩がパレットナイフを握った。
「それを特別な才能があると言うんだ。僕はこんなにも苦しんでいるのに、智菜は県美に入選することに何の価値も感じないのか」
 怒気を押し殺した声、褐色の絵の具に汚れたパレットナイフが振り上げられた。 
 やだ……
「叶うなら、その左目をパレットナイフで抉り出して、僕の目と交換したいくらいだ」
 私の瞳の中で、先輩の嗤い顔がにじんでいく。
「君は、僕がこんなにも切望しているものを生まれながらに与えられているんだ」
 先輩は力なく嗤った。好きだと思った人だから、身勝手に羨ましがられることが許せなかった。

 謝ってっ!

 短い沈黙の時間の後、私は声をあげた。
「どうして、私のせいにするの。特別って何? こんなものが欲しいんだったら、カラーコンタクトでも入れたらいいよ」
 私、望んで、こんな色の瞳をしているわけじゃない。それに、特別な才能なんて存在するわけない。私は散々に冷たいことを言って、泣き出してしまった。
 先輩は疲れきった声で私に詫びてくれた。そうしたら、やっと、この人を傷つけたことに気づいて、怖くなって、私は美術室から逃げ出してしまった。
 後になって思い返すと、なぜ、あんなことを言ったんだろうって後悔する。きっと泣きたかったのは先輩の方だったはず。美術展に入選することが、先輩の進路決定にとって特別な意味を持つなんて、あの時の私には理解できなかった。
 もう、その後は先輩とは一度も会っていない。進学校に合格したと聞いているけど、今頃どうしているんだろうか? 本当にひどいことを言ったと思う。もう、会えないけど、ごめんなさい。

 美術室を飛び出した後は、誰かに泣き顔を見られたくなくて、屋上に逃げていた。泣いておなかが空いたから、かばんの中に潜ませていたビスケットをかじった。そうしたら、鳩が一羽、寄って来たの。
「あなたもおなか、空いたの? にこにこ動物ビスケットだけど、食べる?」
 そのままだと鳩のくちばしには大き過ぎるから、手の中で握って砕いた。鳩の前に左手を差し出して開いた。鳩は嬉しそうに手の中のビスケットの欠片をついばみ始めた。
 そうしたら、他の鳩も次々と寄って来たの。私はまたビスケットを砕いて、後から来た鳩たちにも分けた。そうしているうちに、ふと気づいた。
 砕けたビスケットがまるで今の自分の気持ちに似ているって。
 見上げると、まだ五月なのに西空はまるで夕立が来そうなほどに暗くなり始めていた。

 私が泣きたいときは、空も一緒に泣いてくれる。

 もしかしたら、私には雨女の才能があるのかも知れない。先輩の言う特別な才能なのかどうかは、わからないけど。でも、今日は、いっぱい泣こう。そう思った。
 だから、手の中にビスケットを包んで、泣きたい気持ちを込めるようにぎゅっと握って砕いた。
「私の気持ち、届けておいで」
 空に向かって放り投げた。私の周りに集まった鳩たちは、一斉に空に舞い上がって行った。
 そして、その夕暮れは、学校のグラウンドが池みたいになるくらいの大雨になった。



 それから二ヶ月ほど後、去年の夏休みのことだった。
 この瞳の色のせいで失恋したって、しょげて失恋後遺症みたいに引きずっていた。
 遠いお母さんの実家から電話があったのは、そんなときだった。その日は夜遅くまで、お父さんとお母さんが何事か話し合っていた。
 次の日の朝、私を、お父さんは遠い実家に連れて行くって言い出した。もちろん、初めはお父さんもお母さんも何を考えているのか、想像もできなかった。
 高速道路を三時間ほど走って、県道をしばらく、さらに山間の林道みたいな細い道をがたごと。着いた先は、祐久市北部の大きな茅葺屋根の農家だった。
「智菜に会わせたい人がいるんだ」
 そう言われて紹介されたのが、菊子おばあちゃんだった。
 軒下に玉葱が吊してある大きな農家、その一番奥の部屋に案内された。襖を開いた向こうは、本の匂いがする書斎のような不思議な和室だった。その中央に、着物姿のおばあちゃんが待っていた。
「その子かい。新しい手鞠姫の御霊《みたま》の宿り先は……」
 菊子おばあちゃんの最初の言葉は、不思議な単語を含んでいた。
「はい。娘の智菜です。十三歳になりました。でも、手鞠姫うんぬんは非科学的と思いますけどね」
 遠慮がちに応えるお父さんを見て、そう言えば、できちゃった結婚だったんだと思い出した。お父さんとお母さんにとって、この祐久の家の敷居はチョモランマよりも高いらしい。大人の事情は良くわからないけど、お座敷に座ったおばあちゃんは穏やかな表情で私を見ていた。
 それにしても、手鞠姫って何?
 私が首を傾げていると、おばあちゃんが手招きした。
「紗枝《さえ》も、あなたも、忙しいばっかりで結婚して以来、顔も見せてくれないんだからね」
 お母さんも仕事があるから、と言い訳して逃げているらしく、めったに実家には帰っていない。お父さんは申し訳なさそうに苦笑いを返している。だからかな。孫娘の私が歩み寄ると、おばあちゃんは目を細めた。
「嬉しいねぇ、私が手鞠姫を継いだ若い頃にそっくりだよ……それに、綺麗な空色の瞳をしている」
 声の色合いに気づいておばあちゃんを見ると、私と同じ淡く青味を帯びた左目をしていた。

 それから、おばあちゃんは一冊の絵本を取り出して教えてくれた。
「この祐久の里には、手鞠姫という妖怪のお姫さまの昔話があるんだよ」

 それは、むかしむかし、遠い都からやって来た手鞠姫という妖術を使うお姫さまが、祐久の里を荒らしていた悪い龍を退治するお話だった。
 手鞠姫は、悪事を反省して謝った龍を助ける代わりに、龍の持つ雨を降らせる妖力を手に入れた。龍が立ち去った後、祐久の里では手鞠姫の子孫たちが代々、雨を降らせているという。

 千切り絵細工で飾られた凝った古い絵本は、そんな内容だった。巻末には、古いお寺に伝わる縁起絵巻物らしい写真も添えられている。
「昭和五十年代に祐久が市になったときに、記念に作られた本だよ」
 私が珍しそうに厚手の絵本を捲っていると、おばあちゃんが教えてくれた。
 それから、ため息をひとつ零してから、居住まいを正した。
「智菜さん、あなたを呼んだのは、その手鞠姫のことです」
 隣に座っているお父さんが、微かに笑ったように感じた。
「あなたに、手鞠姫の役を継いでもらいたいのです」
 えっ?
「ちょっと、急にそんなこと、言われても、困ります」
 驚いて声をあげた私に、おばあちゃんは今度は雰囲気を緩めて笑った。
「わかっているよ。必要なことは、これから教えるし、なあに、手鞠姫っていうのは、隆弘《たかひろ》さんの言うとおり『非科学的』なものさ。お祭り行事ぐらいにしか出番はないよ」
 お父さんまで、おばあちゃんの言葉に調子を合わせてうなずいている。
「で、でも、私、高校受験とかもあるし……」
 さすがに即答はできないから、困って言い逃れをした。
「智菜、手鞠姫になれば、いずれこのお屋敷や財産を相続することになるから、少しくらい成績が悪くても大丈夫だよ」
 お父さんとおばあちゃんの笑い声が座敷に弾けた。ちょっと、驚いた。お父さんってば、いつもは、もっと勉強しろって言うのに…… 

 私が座布団の上で固まっていると、おばあちゃんは昔ながらの黒電話を取り出して、どこかへ電話を始めた。テレビのドラマでしか見たことのないダイヤルをころころ廻す仕草は不思議に思えた。
 そして、地区の総代衆とか市役所とかに電話した後に、私へ振り向いた。
「決めかねているようだから、試しに雨を降らせてみようじゃないか。このところ、日照り続きだから、あちこちの村の総代衆からもぜひにと、お願いされているしね」
 えっ? 障子を開いて外を確認した。今日も、いい天気で、雨なんて降りそうもない。
「心配しなさんな、あなたには手鞠姫の御霊が憑いているんだから」
 そう菊子おばあちゃんは楽しそうに笑った。もちろん、てんてん干しのお天気なのに、急に雨が降るなんて信じられなかった。確か天気予報でも降水確率はゼロで、「紫外線に注意しましょう」だったはず。
 だけど、本当に夕方には雨が降った。
 といっても、何か特別なことをしたわけじゃなかった。おばあちゃんに言われるまま、実家の伯母さんに手伝われて、気持ちの良い紬の着物姿になって、それから……広い庭の隅にあった小さな土盛の山に、柄杓で水を少しかけただけ。
 おばあちゃんは隣で見ていて、私に作法みたいなことを教えてくれた。でも、本当にそれだけ。お父さんは、嬉しそうにデジカメで写真を撮っていた。学芸会みたいな気分だった。

 その後、おばあちゃんと一緒に住んでいる親戚のみなさんの帰宅を待って賑やかな夕食になった。畑から採れたばかりのトマトやキュウリを盛り付けた冷やし中華は、とても美味しかった。少し涼しく感じるくらいに、雨が祐久の山と街を濡らしている。
 それから、おばあちゃんには、市内の色々な人や所から次々と電話が掛かって来た。
 夕ご飯の途中なのに、古びた黒電話が何度もりんりんと鳴るたびに、おばあちゃんは嬉しそうに電話に出た。そんな様子を見ていると、失恋後遺症で塞ぎ込んでいたはずの気持ちが、なぜか軽くなった。十本近い電話を受けた後に、おばあちゃんは優しく笑いながら私に向き直った。
「智菜さんのおかげだよ。やっと、祐久に雨が降った。六月末からまるで降らないから、断水なんて話も出てたけど。みんな助かったって、こんなにお礼の電話が来たよ」
 そんな、私、本当に、何もしてないのに。
 私が困った顔をしていると、おばあちゃんが冷やし中華にマヨネーズをたっぷりかけながら、いたずらぽく笑った。
「まあ、雨乞いなんて科学的じゃあないけどさ」
 冷やし中華にマヨネーズ、たっぷりって、いったい? 深く考えない方が、いいとこもあるみたいだった。

 その夜は、蚊帳を張った部屋をひとつ貸してもらい、早めに布団にもぐった。雨だれの音は不思議と気持ち良くってすぐ眠くなった。

 どれくらい時間が過ぎたのか。ふと、目が覚めると隣の部屋で話し声がした。誰か尋ねて来たらしい。
 蚊帳の中で聞き耳を立てていると、夕方、電話をして来た村総代のおじいさんらしい。どうやら、雨が降ったお礼にと、お酒を持って訪れたらしいの。キャベツやほうれん草の他に、ナスとかトマトとか夏野菜の名前がいくつか話に出ている。灯りと一緒に、からからと弾けた談笑が襖の隙間から零れている。
 耳を澄ますとお父さんの声も聞こえた。
 私は、蚊帳の中で寝返りしながら、しばらく話し声に耳を傾けていた。すると、おばあちゃんが、大きめのため息をしたように聞こえた。
「やっと、私の面目が立ったよ。それにしても、私ひとりでは雨が降らなくなったってことは、もう、手鞠姫はあの子をとっくに選んでいたんだね」
 急に笑い声が消えて、襖の向こうで、みんな聞き入っている様子が伝わってきた。
「……昭和のあんな時代の頃から、祐久のみんなに良くしてもらって、手鞠姫を続けて来たけど、私もそろそろお迎えが来るのかも知れないね」
 寂しそうな懐かしそうな声は、雨音の中に溶けた。ほんの少しの間だけど、雨粒が庭先で弾ける微かな音だけになった。私は枕を抱いたままネコみたいに丸くなって、おばあちゃんが照れ笑いで沈黙を破ってくれるのを待っていた。

 それから一週間、お父さんには先に帰ってもらい、もう少しだけ、おばあちゃんの家にお世話になった。その間、ずっと、しとしとの雨降り続きだった。
 おばあちゃんは、折り紙が得意で驚くほどたくさんの折り方を教えてくれた。お手玉もしたし、琴も少しだけ触らせてもらった。

 そして、帰る日の前夜、おばあちゃんにいっぱい遊んでもらったお礼を言いに行った。
「智菜さん、どうか、手鞠姫を継いでくださいな」
 おばあちゃんは、私に深く頭を下げた。慌てて膝を突いた。手を握られて、もう一度、後を継いでくださいと、お願いの言葉を繰り返された。かさかさのおばあちゃんの手が、ぎゅっと私の両手を包んでいた。だから――
「そんな、こんなの困ります。私こそ、私で良ければ、手鞠姫、やらせてください」
 おばあちゃんの気持ちがわかったような気がしたから、上手くできる自信はないのに、引き受けてしまったの。


 手鞠姫の役を引き継ぐと決めてからは時間が取れたごとに、菊子おばあちゃんの家に行った。お父さんの都合がつけば車を出してもらい、それがムリなら新幹線と在来線を乗り継いだ。お小遣いが電車代に消えてしまうのは正直に言って痛かった。もちろん、お小遣いなんかじゃまるで足りないから、ほとんど、お父さんが出してくれたけど。
 引き継ぎに関わる勉強を急いだ理由は、おばあちゃんの体調が良くなかったから。いつも笑っていたから、初めは気づかなかった。お父さんとお母さんから、「実はね……」と教えられたときも、まさかと思った。
 去年の秋ぐらいから、おばあちゃんの具合がだんだんに悪くなっていたの。初めは、夏の疲れって言ってた。秋には、もう年だからと笑っていた。
 だけど、お正月には布団に臥せったままの日さえもあった。
 おばあちゃんは、それでも私に雨の降らせ方を熱心に教えてくれた。私も、勉強は自信がないけど、それでも一生懸命だった。
 おばあちゃんは、いつも、からから笑っていた。だから、私も笑い返すことしかできなかった。お互いに言葉にはしなかったけど、もう時間がないことはわかっていたから。

 冬休みも泊まりがけで、おばあちゃんから上手な雨の降らせ方を習った。
 それは、まるで、風水占いと、気象の勉強と、祐久の里の地理や歴史の勉強をごっちゃ混ぜにしたような変な勉強だった。

 それは冬休みも終わりの日、夜更け頃のこと。
 火鉢の傍で五行相生絵図《ごぎょうそうじょうえず》と、気象庁の地上天気図とを見比べて「全然、わかんないよ」って、首を捻っていたときのことだった。
 ふっと、おばあちゃんの不思議と優しい声がした。
「智菜さん、あなたは優しい子だから、すぐに泣いてしまうけど、あなたが空も一緒に泣くことを望むと、あなたに宿っている手鞠姫は本当に大雨を降らせてしまう」
 おばあちゃんの指が、木火土金水《もくかどごんすい》と、五行が次々と相手を生み出す順序に絵図を撫でた。木は火の燃料となり、火は灰を残して、つまり土を生む。土からは金が掘り出されて、金は水を生むと五行では説明するらしい。そして、おばあちゃんの解釈では、金性を人と読み換えるから、つまり手鞠姫が願えば雨が降るということらしい。

 おばあちゃんに、すっと抱き寄せられた。着物が擦れ合う音がした。
「陰陽五行での説明は代々伝わる古典的な解釈だけど、手鞠姫が何者なのか私はもう少し違う見方もできると考えている」
 秘密を打ち明けるような声色だった。
「古今東西、時代も国も民族も問わず、人は普遍的に神仏に祈るのは、どうしてだと思うかい?」
 不思議な質問だった。だから、ちょっと考えて答えた。
「神さまがいつも見ててくれるから……かな?」
 おばあちゃんが目を細めて笑った。
「智菜さんは、本当に可愛いねえ。でも、私はそうは思わない」
 抱きくすめられて、耳元でささやかれた。

 ――牡丹雪が軒先から落ちる音がした。

 驚いて見返すと、おばあちゃんが人差し指を立てて、「しっ」と内緒だよの仕草をした。
 おばあちゃんの蔵書は、和紙に筆書きの古文書だけじゃなかった。量子理論や脳科学に関する専門書も混じっていた。
「まあ、年寄りが暇にませてあれこれ考えたことだから、真偽のほどは定かじゃないけどね」
 耳たぶにかかる温もりがささやく言葉は難しくて、後で本を読んで調べ直した。
 おばあちゃんの言いたかったことは……神さまでも仏さまでもなくって、みんなの心と心が絡み合うことの大切さ。それが願い事を叶えてくれる。きっと、そうだと思うの。
「うちの家系は、願い事をする資質に優れた遺伝子を持っているんだと思う。引き換えに、他人の気持ちを思い遣ることがちょっと苦手でね。いつも私は余計なことを口走って面倒を増やした」
 軒先から雪が滑り落ちる音がするたびに、おばあちゃんの視線は遠くを見遣っていた。そう感じた。
「祐久の里の人たちには、だから本当にお世話になったし、助けてもらった」
 おばあちゃんのしわしわの指が私の髪を撫でた。
「智菜さんは大丈夫かい?」
 首を横に振った。私も冷たいことを言って、先輩を傷つけた。視界が潤み始めたら、おばあちゃんが優しく笑った。
「手鞠姫は、泣いてはいけない。泣くと大雨になってしまうから」
 この言葉で気づいた。おばあちゃんがいつも笑っていた理由を。
「あなたはまだ、自分の気持ちと、空の気の流れとが区別できないみたいだから――本当に心の底から泣きたい思うと、もしかしたら洪水を起こしてしまうかも知れない。気をつけるんだよ」
 そして、おばあちゃんは素敵な笑顔でこう言ったの。
「約束しておくれ。もしも、私が死んでも葬式では泣かない。いいね」
 うなずいたとたんに、涙が零れそうになった。
 すすりあげて我慢した。
「大丈夫、手鞠姫はひとりじゃない。祐久のみんなは、次は智菜さんを支えてくれるから」
 この頃、おばあちゃんは病身を押して、私のことをよろしくと、たくさんの人たちに手紙を書いていた。お葬式の後になって、その手紙のことを知ったとき――どうしても涙が止まらなくって、それでも無理やり笑って、私は必死になって泣かない約束を守った。


 おばあちゃんが亡くなったのは、今年の四月初めのこと。
 桜の花がしとしと雨に打たれていた。
「最後に、おばあちゃんが雨を降らせたんだ」
 そう思えた。その雨も、お通夜が終わる頃には止んだ。
 翌朝は爽やかな青空だった。
 だから、私はおばあちゃんとの約束を思い出して、とにかく泣き出さないように我慢した。

 遺言には、私を手鞠姫にすると書かれていた。それに、引継ぎに必要な色々な仕来りや挨拶先のリストも用意されている。ひとりになった私が困ることのないように、丁寧な文字で手鞠姫にとって入用《いりよう》な事柄を総て書き出してくれていた。
 遺品や財産は、お父さんと親戚筋の人たちが分け合った。私には、祐久市郊外にある夕立山とおばあちゃんの集めた気象や昔話に関する蔵書、そして古びた手鞠がひとつ譲られることになった。
「えっと……お山をまるごと、ひとつですか?」
 地図を見せられて目を丸くした。何でも市の景観保護条例に守られているから、開発は何もできないけど。頂上に小さな池のある夕立山は、トンボや野鳥の楽園になっているらしい。

 それからは、とにかく大変だった。
 おばあちゃんは、私に泣いている暇を作らせないつもりらしくて、めちゃくちゃに忙しい日程を遺していた。祐久市内に四十五もある地区の総代衆とかいう、おじいさんたち全部に挨拶回りをした。もちろん、ただの挨拶じゃない。地域信仰っていうのかな。慌ただしくって良く覚えていないけど、挨拶を受ける側に色々と仕来りや決まり事があるようだった。
 総代衆のおじいさんたちから、おばあちゃんのことを色々と教えてもらった。
 菊子おばあちゃんは、私よりも幼くして手鞠姫になった。私よりもずっと、やんちゃだったらしい。
 祐久市には古い町並みが多く残っているけど、それはおばあちゃんがこの街を守ったからだって言うの。太平洋戦争の頃の話、空襲警報が出るたびに、馬鹿でかい、かなとこ雲を作り出して空襲を防いだって……
 祐久の里の人たちも、そんなおばあちゃんの気持ちに答えた。
 おばあちゃんは、良くも悪くも、自分にも他人にも嘘を言わない人だから、戦時中みたいな難しい時代では色々とトラブルもあったらしい。だから、何か困り事があるたびに街中から大勢の人たちが集まって、おばあちゃんを守った。憲兵隊を総出で追い返したこともあるとか……
 花曇りの空を眺めながら、総代衆のおじいさんたちが懐かしそうに語る昔話を聞いた。 


 それが、終わってひと段落、やっと自宅に帰れたと思ったら、わざわざ、私の通う中学校まで祐久市観光協会の青井さんは押しかけて来た。授業の途中に教頭先生が呼びに来て、なんと校長室へ案内された。当然、最初は話の事情が見えなかったから、校長室へ行くなんて、びっくりした。
 それなのに……
「今年は、祐久市、市制三十周年の記念すべき年に当たりまして、新生手鞠姫にぜひ、雨乞い夏祭りの主役をお願いしたく……」
 青井さんは、面倒なほどに爽やかな営業スマイルだった。



 お祭りの数日前から祐久の家に泊まり込んで、雨乞い夏祭り実行委員会とタイトルされた資料を蛍光マーカーで塗りながら追い込み勉強した。当日は分刻みのスケジュールになっているし、ステージやパレードで使う台詞を暗記しなきゃいけないし、市議会の正副議長さんとか、商工会議所会頭さんとか、来賓の方々の顔写真も覚えなきゃいけない。

 それに、雨も降らせたい。
 
 祐久市はもともと雨が降りにくい地域だけど、手鞠姫が私に代替わりして以来、梅雨も少なめ、七月に入ってからはカラカラの有様だった。たぶん、用事が済むと、私が新幹線に乗って帰宅してしまうからだと思う。さすがに祐久市から離れてしまうと都合良く雨は降らないみたいだった。
 私のこと、晴れ女だとかあらぬ噂も立っているらしかった。あんなに熱心に教えてくれたおばあちゃんのためにも、やればできる子だって、このあたりで見せておきたいと思った。

 夏祭り当日は頑張って早起きした。ほんの少しだけ時間をもらって、袂にPHSだけを忍ばせて近所のお寺にあるおばあちゃんのお墓に挨拶に行った。
「頑張ってきますね」
 蝉しぐれの中で手を合わせて、たったひとことだけ。いつの間にか、着物姿で歩くことに慣れた気がした。

 お祭りは始まってしまえば、後は勢いだけでイベント日程がどんどん進んだ。
 最初に、本部テントに居並んだ来賓のおじいさんたちにご挨拶した。けれども取り囲まれて、わいわい騒がれているうちに慌ただしく終わった。誰が誰だったのかは、ちょっと、覚えていない。
 駅前公園の特設ステージは、マイクを持ったとたんに、見事にあがってしまって、台詞が全部飛んでしまった。追い込み学習の暗記力には自信があったのに、ちょっとショックだった。パレードに至っては、恥ずかしいので、何も話したくない。
 だけど、普段は静かな小さな街なのに、夏祭りの日だけは特別だった。
 活気があるっていうか、ちっちゃな子からご老人のみなさんまで目が輝いているというか。とにかく、何かが不思議だった。
 おばあちゃんが、この街のことを本当に好きだった理由がわかった気がした。
 同時に、胸の中に今まで感じたことのない気持ちが浮かび上がってきたの。

 たくさんのイベント企画をこなすだけでも一生懸命だけど、それだけじゃ物足りない。
 この場所にいるみんなのために、私ができること。
 私にしかできないこと。

 もちろん、「雨乞い夏祭りで手鞠姫がすることとは、何?」って言ったら、決まっている。
 雨を降らせよう。

 だから、本部テントにいた青井さんを捕まえた。私は夏祭り会場を離れられないし、色々と目立つみたいだったから。
「あの、にこにこ動物ビスケット、急いで買って来てください」
「へ?」
 高ぶっていた気持ちのまま、言葉にしたら、当然だけど青井さんは理解できなかった。
「あの……ビスケットがないと、雨が降らないの」
 一瞬の間の後、青井さんが笑った。私が、手鞠姫本来の役目を果たすことを思い立ったと、やっと気づいてくれたらしい。というよりも、青井さんはイベント企画に夢中で、この夏祭りの本来の目的が雨乞いだったことを忘れていたに違いない。
 それとも、雨乞いなんて非科学的だから、青井さんたち若い世代の人たちにとっては、イベント企画のためのお題目に過ぎないのかも知れなかった。まあ、私じゃあ説得力が足りないのは仕方がないけど。
「かしこまりました。手鞠姫さま」
 またも青井さんは芝居がかった仕草で、それを言う。もう、小学校の学芸会じゃないのに。呆れてため息をついた。
 ステージはミス祐久のお姉さんたちにお任せして、メイン会場を抜け出した。普段の様子からは信じられないくらいに賑わう駅前広小路通りを歩いた。パレード用の恥ずかしい巫女さん衣装じゃなくって、浴衣姿に着替えていたのに、やっぱり私は目立つみたいで、ときどき声をかけられた。
 それから、ラムネやリンゴ飴や焼きそば、たこ焼きに金魚すくいに……色鮮やかな露店が並ぶ通りや裏路地を眺め歩いて、隅っこの場所を探した。言葉では説明が難しいけど、雨を願うのにも適した場所があるの。
 ここかな? って場所を見つけたのは、広小路通りからひとつ隣の細い路地。ここにもお祭りの賑わいが零れていた。浴衣姿で細い路地の中ほどに立って目を閉じる。左目だけを開いて色彩の洪水のように飾られた路地と、その向こうの大通りを見遣った。
 大丈夫。ほんの少しだけど、雨の匂いがした気がした。この不思議な感覚みたいなものは、おばあちゃんに教えてもらった。だから、大丈夫。

 ビスケットを左手の中に包み、ちょっとだけ涼しくなるくらいに雨を、と気持ちを込める。
 欠片を撒いたとたんに、たくさんの鳩たちが舞い降りて来た。
 再び、左手の中にビスケットを包んで、小さくつぶやいて砕いた。
 羽ばたく羽音が次々と私の周りに舞い降りて来る。
 始めてから十分ほどで、まるで街中に棲んでいる鳩を全部集めたようになった。私の足元や空にも、露店の屋根や、街路樹の枝先や、郵便ポストの上まで、数え切れない数の鳩が群れて、ぽうぽうと鳴いていた。

 生前のおばあちゃんは、こんな私の雨の降らせ方を面白いと言った。祐久の里を離れて育った次の手鞠姫が、こんな方法で雨を降らせるのが興味深いらしかった。
 おばあちゃんが最初に教えてくれた土盛りの小山に柄杓で水をかける作法は、祐久市北部の夕立山に雨が降るイメージを見立てたもの。祐久の里の情景に慣れ親しんだおばあちゃんの心の中にある雨のイメージだった。
 砕いたビスケットに乗せて鳥たちに気持ちを空へ運んでもらう私の方法に、おばあちゃんは可愛いと目を細めた。けれども、魂を鳥に運ばせるのは鳥葬に似てるなんて、ちょっと怖い言葉もくれた。だから、おばあちゃんは私が失敗しないように、雨の匂いやイメージを本当に丁寧に教えてくれた。
 だから、大丈夫。そう、自分の中で言葉にして繰り返した。

 ラムネやチョコバナナを手にしたお客さんたちが、不思議な光景に目を輝かせていた。カメラを向ける人もいた。パレードなんかは恥ずかしくて目眩がしたけど、これなら私の本当の姿だから……大丈夫だった。おばあちゃんが、何度も繰り返し教えてくれた雨の匂いだから、そう大丈夫。
 だから、お客さんたちみんなに、にっこりと微笑んで見せた。
「さあ、みんなのために雨を降らせておいで」
 最後の一握りを空に向かって投げた。
 百羽以上もいた鳩たちが一斉に舞い上がった。観客や周りのみんなからも歓声があがる。ちょっとだけ、自分の変な才能を褒めてあげたい気がした。

 三十分後に、ほんの少しだけど、通り雨がざあーと降った。あっという間にあがってしまったけど、夏祭りの街角に涼しい風が吹いた。
 雨に濡れたのに、夏祭りに集まったみんなは、笑顔だった。お客さんたちも、商店街のおじさんおばさんも、夏祭りの実行委員会のみなさんも。もちろん、観光協会の青井さんたちも。
 つかの間だけど、みんなの気持ちをひとつに絡めて束ねることができた気がした。
 それがすごく嬉しくって、少しだけ泣いてしまった。

 うん、ほんのちょっとだけ。


 了


天菜真祭(てんな・まつり)

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端っこの細かい設定を作ることを楽しんでいるばっかりの異世界ファンタジーと、どこか不思議な嘘を混ぜたお話を書いています。色々と未熟者ですがよろしくお願いします。