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キスキス・モー

「あっ」
 声とともに伸ばした手は僅かに届かず、クッキー缶が滑り落ちていく。
「――っ!」
 予想通りの大音響を目をつぶってやり過ごすと、散乱した床を薄目で確認してため息をつく。散らばったのが粉々になったクッキーではなかったことがせめてもの救いだ。
「なぁーぉ」
 凄まじい騒音に隣の部屋から顔を覗かせたのは、五年前から共に暮らす猫。名前はモー。相当驚いたようで、しっぽが倍に膨れあがっている。
クローゼットの上段を整理していて、死角に置かれていた缶に肘が当たり、落としてしまったのだ。この子が下にいなくて本当によかった。
「ごめんごめん、ビックリしたよね」
 折り畳み式の脚立から降り、白黒模様の頭を撫でて言った。
「さて、と」
 自らに気合を入れて、缶の中身をかき集める。色褪せた映画の半券やスキー場のリフト券、古びたシューズの紐、折れ跡がついた大吉の恋みくじ、萎んでしまった水風船……。
 四季折々の彩りを背景に撮られた写真を一枚ずつ眺めては、また缶の中へと戻していく。
 ――チリン。
 モーが幼い頃に使っていた鈴付きの首輪を手にとると、目の前にいる成長した彼の姿が何だか誇らしく見えた。
 全てを缶に戻したつもりで蓋をしてから、クローゼットの折れ戸の下に入り込んでいた小さな手帳に気が付いた。
 缶の蓋に手を掛けたが、開けるのはやめ、そのまま上から力を加えて固く蓋を閉めるとクローゼットの中に押し込んだ。折れ戸の隙間から手帳を取り出しこたつの上に広げる。
 手帳の中には、三枚の写真が挟み込まれていた。
「大丈夫」
 心配そうな目ですり寄ってきたモーに小さな声で応えると、テレビ台の隅に置かれた卓上カレンダーを見つめる。最後の一枚となりバランスが悪くなったのか、最近よく倒れるようになった。
「もうじき二年……か」
 あのときもこうして、こたつの上に手帳と写真を広げていた。

 雪がよく降る、寒い冬だった。
「待って待って、今見せるから!」
 こたつに前足をかけて身を乗り出すモーを止めながら、二枚の写真を並べた。
「これがね、初めて病院に行ったときにもらったやつだよ。ほら、黒い丸が見えるでしょ? 赤ちゃんが入る袋なんだって! それでこっちが今日もらった写真! ほら、ちいさーく、赤ちゃん見えるでしょ? あとこれが母子手帳ね!」
 モーの鼻先まで持って見せ、ひとつひとつ話して聞かせた。
 初めて産婦人科を訪れたのは、妊娠約五週の頃だった。自宅で検査薬の反応を見てすぐに駆け込んだのだが、あまりに早すぎて赤ちゃんの姿はまだ見えず、予定日も断定できないため二週間後に再診の予約をとった。せっかちな自分が少し恥ずかしくて、診察室では終始早口になっていた。
 次の診察では、週数と予定日が確定し、赤ちゃんの姿と心拍も確認できた。母子手帳発行のための書類を病院でもらうとその足で役所に向かい、たくさんの冊子とともに持ち帰ってきた。
「七週だって。これからどんどん大きくなるんだよ。楽しみだね!」
 大好きな人との結婚。憧れだった、海外への新婚旅行。そして念願のハネムーンベビーにも恵まれた。家族や友人たちからも祝福され、気が早いと思いながらも、名付け辞典まで購入した。人想いの愛らしい飼い猫に、やがて生まれてくる我が子の成長を語りながら、優しい夫の帰りを待つ。妊娠を知ったときの夫の喜ぶ姿を思い出して、くすぐったさのあまりモーを抱き締める。何もかもが順調で、怖いくらい幸せだった。普段気が向かないとすぐに腕から抜け出してしまうモーも、やれやれ、という顔で身を委ねてくれる。それがまた嬉しくて、私はいつもの合言葉を繰り返した。
「キスキス! キスキス、モー!」
 
 ――カタッ。
 物音で回想が遮断される。卓上カレンダーが、過ぎた月の重みで倒れていた。
「ん、またか」
 広げていた三枚の写真をまとめる。あの二枚の写真に加えられた一枚には、そら豆のような赤ちゃんの姿が写っていた。けれどこれで写真はおしまい。赤ちゃんがこれ以上育つことはなかった。
 流産、だった。妊娠九週目の定期検診では、赤ちゃんの心拍を確認することができなかった。動かなくなっていたのだ。知らない間に。小さな命が消えてしまったのだ。私がのんきに鼻歌を歌いながら過ごしていた日々のどこかで。
 苦しくはなかったのだろうか。助けを求めて、私の体に訴えていたのではないだろうか。そうとも知らず、可能性として考えることすらなく、安穏と暮らしていた自分。
 一般的に、一割ほどの妊婦が流産を経験しているという知識はあった。けれどどこかで、自分とは無縁なことのように感じてしまっていた。手帳とともに瞼を閉じると、すぐにあの日の自分に引き戻される。
 
 我が子の死を告げられ、実感もないまますぐに組まれる手術の日程。別れを惜しむ間もなく翌日には取り出されてしまう、幸せの印。
 すぐに涙は出なかった。自分が持つべき感情もとるべき行動もわからず、待合室のやけに柔らかいソファに体を沈ませ、自分の両手を眺めていた。零れ落ちていく幸せを留めることもすくい上げることもできずに、ただぼんやりと。ふと周りを見渡すと、そこには我が子の成長の経過を楽しみにしている『母親』たちの姿があった。ときにお腹をさすり、ときに話しかけ、待ち時間さえ愛おしんでいた幸福感を、私も確かに知っていた。かつては自分も『あちら側』だったのだ。引かれてしまった境界線を足元に感じて俯いてみると、途端に視界がぼやけて何も見えなくなった。手の震えを誰にも悟られないよう、両手を組んで抑え込む。幸せな想いばかりがつまったその場所で、決して泣きはしまいと唇をいくら固く結んでも、溢れだす涙を止めることはできなかった。
「染色体の異常によるもので、こうして淘汰されることは、受精の段階で既に決まっていた。母体には何の責任もない」
  そんな医者からの説明があっても、私は一割という数字の壁を越えられなかった自分を責めた。
「次は大丈夫だよ」
 周りはそう励ましてくれたが、「この子」が戻るわけじゃない。大丈夫? 何が? 慰めの言葉にもつい刺々しくなっていた。人に気を遣う余裕などなかった。私の体の中で、ひとつの小さな命が消えてしまったのだ。この世界の空気を一度も吸うことなく。鮮やかな景色の眩しさも、抱き締められる胸の温もりも知らないまま。
 私が殺してしまった、守れなかった。何がいけなかったの? 次? そもそも、こんな私にまた幸せの種など運ばれて来るのだろうか? 来たとしても、私はもうひとつの命まで奪ってしまうことになるかもしれない……。
 不安は尽きなかった。何より、夫の顔を見るのが怖かった。言葉では優しく気遣ってくれるが、本心はどう思っているのだろう? 本当は私を責めているんじゃないか? その答えを知るのが怖くて、私は俯いたまま日々を過ごした。
 やがて月日を重ねて少しずつ感情の整理ができるようになった私は、周囲への気遣いも取り戻せるようになっていった。残念がる相手に「ありがとう」と言えるようにもなった。夫の目も、まっすぐ見られるようになった。それでもやはり、胸の奥には底知れぬ不安が燻り続けた。

 倒れたカレンダーを直そうと立ち上がる。もうじき役目を終えようとしている最後の一枚を眺め、無意識にお腹をさする。行為を敬遠しているわけではない。しかし毎月のものは、順調すぎるほどに続いている。不妊治療を考えたこともあったが、一度の辛い経験が、それを遠ざけた。まだできないのは、時期じゃないからだ。家を建てる計画だってあるし、その場所で落ち着いたらきっと……。
「なぁーぉ」
 カレンダーを手にしたまま考え込んでいた私の足に、モーが額をすりつけてきた。
 モーと出会ったのは、夫との付き合いが生活の一部として馴染みだしたような頃。ペットショップデートでケージ越しに目が合い、私が一目惚れしてしまった。小さかった当時から柄はハッキリしていて、まるで牛みたい。だから、「モー」。
 元々動物好きだった彼も私の強い推しに負け、近所では珍しいペット可のアパートを探して移り住んだ。そのときから、ずっと一緒。2DKのこのアパートで毎年かなり早めに出すこたつの中が、モーの特等席。
「お腹すいた?」
「なぁーぉ……」
 モーのおやつを取りに行こうとした私を制するように、足元にすりついてくる。8の字を描いて私の動きを止めると、まっすぐ私の顔を見上げた。普段は滅多に鳴かないモー。鳴くのはお腹がすいたときと、晴れて外へ出たいとき。それと――私が落ち込んでいるとき。
「なに? 考え事してるの分かっちゃった? 慰めてくれてるの?」
 屈んで優しく頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らす。
 思えば、この子の存在はかなり大きい。飼い始めた頃から、私たちが喧嘩をすると間に入っておろおろしてしまう優しい子なのは知っていたが、私が一番落ち込んでいたあのとき、モーは私の傍を離れようとしなかった。あっち行ってよ、と冷たい態度で八つ当たりする私にも、愛想を尽かさず体をすり寄せてきた。毎日、毎日。そんな姿を見て、決して人前では見せないような大泣きをした覚えがある。
 子供がいない私たち夫婦にとって、モーはまさに一人息子のような存在だった。もし私たちが二人きりなら、ギクシャクした状態が続いていたに違いない。モーは私たち、特に私にとって、決して欠くことのできない、心の拠り所となっていた。
 こたつに座ってモーを膝に乗せると、額の真ん中を掻くように撫でながら語りかける。
「ねぇモー、パパ、どう思ってるのかな? やっぱり、赤ちゃん欲しいよね?」
 モーの前でだけ、私たち夫婦は互いをパパ、ママと呼び合う。初めは少しくすぐったかった。
「最近さー、何だか自信がないんだよね」
 このときが一番素直になれる。友達にも親にも言えない悩みを、いつもモーに聞いてもらう。
 自信がない。それが最近の悩みだった。
 高校を卒業してからすぐに就職した私は、地元の体育館で行われていたスポーツクラブで七つ年上の今の夫と出会い、付き合い始めた。
 お互いに働きながら交際を続け、二年後には同棲を始めた。初めは反対していた両親も、夫の人柄と、結婚を前提に、という本人からのハッキリとした宣言により、同棲を認めてくれた。それから喧嘩しては仲直りを繰り返し、交際四年目の夏にプロポーズされた。そして五年目の秋に、結婚。会社は寿退社した。
 夫は誠実な人だ。彼の浮気を心配する必要はない。気持ちの在り処《ありか》より、大きさが心配だった。私に対しての気持ちは、萎んでしまっていないだろうか? 二人きりの結婚生活を続けるうちに、私に興味がなくなってきたんじゃないか? そんな思いが、何度かき消してもしつこく脳裏に浮かんでくる。
 特に大きな何かがあったわけじゃない。話を聞かない、こちらを振り向かずに話す、返事が遅い、冷たい気がする――ほんの些細なことだから、強くは言えない。
 そんな小さな不安が、私の中で消えないシミとなっていく。今はまだ目立たないそのシミも、不満を重ねて色濃くなり、広がり続けていったら……? 私は私のままでいられるのだろうか。彼とのこの生活を、続けていけるのだろうか。
 二十五歳。自分の年齢を見つめ直して、よからぬことを考えるときもある。夫は、三十二歳。世間の感覚はよく分からないが、遅すぎることはないにしろ、次を探すには出遅れてしまうかもしれない。そんなことを考えている自分が、たまらなく嫌になる。どうして私はいつもこう、受け身なんだろう――。
 カプッ。
 モーが、いつの間にか撫でるのをやめていた私の手を甘く噛む。
「あ……あはは、ごめんごめん、また考え込んじゃってたね」
 出会った頃より三倍近くなった重い体を持ち上げる。モーは私の気持ちに寄り添うとき、抱き上げられても抵抗することなく身を委ねてくれる。私は彼の視線に瞬きで応えると、その鼻に自分の鼻を寄せ、小さな声で言った。
「キスキス、モー」
「なおぉーーん」
 一度くしゅっと顔を崩し、いつもと違う声で鳴くと、モーは私の鼻の頭をペロッと舐めた。
 『キスキス、モー』――これを言いだしたのは、モーを迎えて一年ほど経ってからだろうか。普段から色んなことを話しかけていたが、特に変わった反応はなく、鳴き声も大抵同じようなものだった。しかしこの言葉を言ったときだけ、いつもと違った声で鳴き、決まって私の鼻をひと舐めする。その鳴き方が何だか牛に似ていて、モーにはピッタリだった。
 元々は「好き好き、モー」と言っていたが、繰り返すうちに「スキスキ」よりも「キスキス」の方が反応がいいことに気付くとすっかり定着し、それ以来、私とモーの間だけでの合言葉となった。夫には単純すぎると笑われたが、この言葉を言っても反応してもらえないひがみだろうと解釈し、フフンと鼻を鳴らして聞き流した。
「モー、すごいね。分かるんだもんね? ふふ……」
 不安を抱えつつも、モーが居てくれるおかげで、それなりに充実した毎日を送っていた。
 
 それから約半年、梅雨の鬱陶しい雨に嫌気がさしてきた頃、急な吐き気を覚える。確かに月のものは予定よりも遅れていたが、ぬか喜びになってはいけないからと、買い置きの検査薬も引き出しに入れたままだった。封を切って慌ててトイレへ向かうと検査薬の窓には陽性の印がハッキリ浮かび上がった。
「で……」
 手を洗うのも忘れて勢いよくトイレから出る。
「できたー!!」
 一人で万歳の体勢をとると、急に開いた扉にぶつかりそうになったモーに睨まれ、すぐ我に返る。もう一度トイレへ戻って手を洗うと、あれほど抱いていた不安も忘れ、モーを抱きかかえて頬ずりする。
「モーも応援してくれてたんだよね! モー、キスキス、モー!」
「なおぉーーん」
 くしゅっ、ペロリ。そのくすぐったさや手にかかるモーの重さ、さきほどまで不快だったはずの雨音にさえ、全てに幸せを感じた。「キスキス、モー」のやりとりを繰り返しながら布団のないこたつに座り、ウキウキと夫の帰りを待った。
 しかし帰って報告を聞いた夫の表情を見て、浮かれた気分はすぐに萎んでしまった。
 もちろん、喜んではくれた。ホントか! やったー! と、私と同じように万歳もしてくれた。問題は、その前だ。私の言葉を聞いた夫の頬が、一瞬引きつって見えた。目にも、不安の色が掠めた……気がした。
 結局そのあと抱き締められうやむやになってしまったが、あれは考えすぎだったのだろうか? もしこの人が、私との子供を持つことに、躊躇いを感じているんだとしたら――? いや、そんなはずはない。私にだって、不安はあるもの。そうよ、ほら、喜んでくれているじゃない。必死に自分に言い聞かせた。

 翌日を待って、産婦人科で診察を受けた。待合室の懐かしい空気を感じ、少し目頭が熱くなる。自分の名が呼ばれるのを今か今かと待っていたのに、診察室のドアに手をかけた途端、動悸が激しくなりだした。検査薬の反応に間違いはないだろうか。もし赤ちゃんがいたとして、心臓はちゃんと動いているのだろうか。またあのときのようにお腹の中で動かなくなっていたら……?  急に襲ってきた不安に、診察台へ向かう足が震えた。自分の心臓の音がうるさくて、カーテン越しの声が上手く耳まで届かない。聞き取ることを諦めて、真っ黒なモニターだけを見つめる。次の瞬間、白いものがモニターに映し出された。これは……?
「うん、元気そうですね。おめでとうございます」
「……え?」
 モニターには、一定の早さで心臓を動かす赤ちゃんの姿が映っていた。トクン、トクン、トクン。せわしない拍動。無音のモニターから命の音が聞こえてくる気がして、愛おしさに涙が溢れた。
 妊娠三ヵ月。前回別れの時となった九週を既に越えていることを知り、ほっと胸を撫で下ろす。その後の定期検診も順調で、毎回もらえるエコー写真をモーに見せては、二冊目の母子手帳に挟み込んでいった。
 日々成長する我が子に愛しさを募らせる。つわりは酷かったが、急につわりが止まることの意味を考えると吐き気はむしろ安心感を与えてくれた。お腹の中の命が確かに存在しているという、証。
 三度目の結婚記念日とともに妊娠七ヶ月を迎える頃には、その辛さもすっかり忘れるほどに落ち着いていた。少し腰がだるいが、愛しい命を支える重さだと思うと、全く苦にはならなかった。時々お腹を蹴る足は思いのほか力強く、物理的な感触だけでなく、気持ちも何だかくすぐったかった。
 夫も事あるごとに膨らんだ私のお腹へ耳を当てては、たわいもないことを語りかけた。その日の天気、夕飯の献立、建築予定の家の話、いずれ連れて行きたい旅の行き先。思い描いていた、幸せな家族の光景。それでも、時折迫りくる不安は拭えなかった。この子は無事に生まれてくれるだろうか……妊娠を報告したときの夫の表情も、忘れた頃に繰り返し脳裏をよぎる。幸せにひたりきれない自分がもどかしかった。
 モーはというと、大きくなるお腹にすっかりメロメロの二人に呆れてか、機嫌の悪い日が続いている。いつもの「キスキス、モー」にも、このところ反応が鈍い。ヤキモチでも妬いているのだろうか。
 そんな様子でモーとは少しギクシャクしたまま、出産予定日まで残すところ一ヵ月となった。
 何かあったときのために、夫の携帯番号を控えたディズニー柄のメモを、磁石で冷蔵庫に貼り付けておいたし、自分の携帯の短縮にはワンタッチで夫の番号が出るよう、登録し直した。これで何とかなるだろう。あとは約一ヶ月、ゆっくり心の準備を進めていこう……そう、思っていた。
 
 週の初め。いつも通りにキスで夫を送り出す。
 前日は雪道に車を走らせ、二人でベビー服を見に行った。生まれてくる子の性別はお楽しみにとっておいたため、無難な黄色や、淡い緑のものを買った。大きなお腹を抱えて店内をまわる自分たちの姿がガラス窓に映ると、溢れる幸せについ頬が緩んだ。その間留守番をしていたモーは、帰宅した私たちをムスッとした顔で迎えた。寂しかったからなのか自分も外に出たかったからなのか、家を空けたあとは決まってそんな顔をした。私は大きいお腹に気を遣いながら屈んで、モーを抱き上げた。
「キスキス、モー」
 鼻は寄せてきたものの、返事はなかった。するりと私の腕から逃れ、奥の部屋へ行ってしまった。
「ま、明日には機嫌も直ってるさ」
 
 そのときは夫の言葉を素直に受け取った。しかしモーは翌日を迎えても、まだ虫の居所が悪いらしい。ご飯のときだけは出てくるが、雪晴れの空に鳴きもせず、こたつに潜り込んだままだ。私はひとつため息をつき、
「ねぇ、モー。仲直りしようよ?」
 そう声をかけながらこたつ布団をまくって覗き込むと、気に障ったのか、モーは反対側から出てそのまま奥の部屋へ行ってしまった。
「モー、待ってよ」
 あとを追おうと立ち上がったとき、下腹部を激痛が襲った。たまらずその場にへたり込む。
「な……に? コレ……いったぁ……」
 そのまま身動きがとれなくなった。初めて経験する痛みに戸惑いながら、顔をしかめる。
 陣痛? ……って、もう来るものだっけ? とにかく夫に電話しようと手を伸ばす。こたつの右端にある、小物入れ。だけどそこには、いつもあるはずのその場所には、ない。私の携帯。
「なん……でぇ?」
 痛みで言葉が切れ切れになる。お腹を両手で抱えながら何とか思考を巡らせると、ひとつのことが思い当たった。――車だ。昨日出掛けたときに携帯を夫の車のシートに置き忘れた。取りに行かなきゃと思っていたのに……。
 このままじゃ駄目だ。外に出て、助けを……お隣さんに、救急車を呼んでもらおう……。這いずりながら台所へ向かう。玄関はその先だ。
 ふと、連絡メモを思い出す。そうだ、あれ持って行かないと……。けれど、痛みでとても立ち上がれそうにない。
「何で私、あんな高いとこ……バカ……」
 いつもは目線の高さである場所に貼り付けたメモが、このときばかりは絶望的に高く見えた。床に張り付いた姿勢のまま手を伸ばしてみるが、それでもメモは腕一本先だ。せめて少しでも起き上がろうと力を入れた瞬間、さらなる激痛が体を駆け巡った。
「ぅあっ!!」
 もう駄目、動けない……苦痛に歪めた顔だけを動かすと、視界に赤色が飛び込んだ。マタニティワンピースの一部が、赤く染まっている。血……? 何で……?
 ――ぼろっと、涙が溢れた。先ほどから痛みで涙目ではあったが、この涙は次から次へと溢れ出てくる。感情よりも先に反応した涙腺に、悟る。
「お別れって……こと? もう無理って……こと?」
 過去の絶望を思い出す。三枚きりの写真、待合室での孤独感、消えてしまった温もり……。
 いやだ……私は……私の落ち度で、この子まで失うの? そんなの耐えられない。いや――
 滲む視界に、白黒模様が動く。モー……!!
「モー、助け……て。いやだよぅ、この子……死なせたくないよぉ……」
 頼んだところでどうにもならなのは分かっていた。でも私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔でモーを見つめ、必死に訴えた。モーは一度首をかしげてから、こちらへ向かって歩いてきた。さきほどまでの不機嫌な顔はしていない。
 私は痛みに挫けながらも、ちょっとだけ救われた気がした。だって、モーが、怒ってない。
 モーは台所へ入ると向きをかえ、私の視界から消えた。と思うとすぐに、くすぐったいものを手のひらに感じる。モーが私の手に鼻をすり付けているのが分かる。
 カサッ。
「モー……? なに……?」
 モーは私の顔の前へまわると苦しむ私をじっと見つめ、見つめ返す私の視線を確認してから顔にくしゅっと皺を寄せた。
「なおぉーーん」
 そして……ペロリ。私の鼻をひと舐めするとくるっとむこうを向き、玄関に向かって歩いていく。
 どこに行くの? モー……駄目だよ、玄関には鍵が――
 力が抜け、目の前が真っ暗になった。あれ? 私、このまま死んじゃうのかな? この子の顔も見られないまま……この子に眩《まばゆ》い世界を見せることもできないまま? 大好きなあの人を……残して――?
 
 真っ暗な中に、写真のスライドショーを見るかのように数々の場面が浮かび上がる。あの人と出会った体育館、初めてのデート、教えてもらったスノーボード、喧嘩をしたとき真っ赤になっていた耳、夏祭りでのプロポーズ、結婚式でのはにかんだ顔、初めて子供ができたときの潤んだ目、私のお腹に耳を当てるあの人の長い睫毛――。
 なんだ、幸せじゃないか。こうして見ると、愛しい想いばかりが溢れる。普段の自分をとてつもなく愚かに感じた。寂しかったなら言えばよかったじゃない。思い切り話し合って、素直に甘えればよかったじゃない。くだらない意地を張って目を逸らしていたのは、私――。
 次に浮かんだのは、モーの姿だった。ケージの中から見つめる、黒く透き通ったガラス玉のような瞳。迎えてすぐの頃の甘えた鳴き声。パーカーの紐にじゃれつく無邪気な姿、困ったときの垂れた耳。泣き続けていた私に懸命にすり付けてきた、額の温もり。
 ……これ、走馬灯とかいうやつだよね? やっぱり私、このまま……?

 くしゅっ、なおぉーーん、ペロッ――
 
 薄れゆく意識の中、私はサイレンの音を聞いた気がした。近付いてくる? そんなワケ、ないか……。
 もう一度、最後のモーの姿を思い出す。二人だけの合言葉。また私に言ってくれたね。最後にモーと仲直りができて、よかっ――

*****

 気が付くと、目の前にはナースキャップを被った中年女性の顔があった。
「先生、意識が戻りました」
 彼女が振り向きながらそう言うと、今度は白衣を着た太眉の男性が視界に入る。
「本村美香さん、ですね? 気分はどうですか? ここは市の総合病院ですよ」
 モトムラ・ミカ。私の名前……総合病院? ここが?
「――あと少しでも処置が遅れていたら、母子共に危険な状態でした」
「え……? ぼ、し……?」
 太眉の医師が看護師に頷く。そこで私はようやく、自分のお腹の変化に気づいた。明らかに、かつてほどの膨らみがなくなっている。まさか、あのときと同じ――? いや……赤ちゃん……私の赤ちゃんは!?
「おめでとうございます。二千二百グラム。少し小さいですが、呼吸器などの機能も成熟していますし、心配ないでしょう。元気な男の子ですよ」
「……え?」
 私の胸の上に、布でくるまれた小さなかたまりが置かれる。あったかい……? 指で布をよけると、手のひらよりも小さい、皺くちゃな顔があった。目元が少し夫に似ているような気がする。
 でも……本当に? この子が私の子なんだと、喜んでしまっていいのだろうか? あとになって夢だったなんて、そんなことは――?
「旦那さんも、もうすぐ着く頃だと思いますよ。先ほどご連絡しておきましたので」
「え? どうやって? 私、メモ……」
「あら。しっかり握っていましたよ、旦那さんのお名前と電話番号が書かれたメモ。ほら、そこに」
 看護師が指す棚の上には、見覚えのあるディズニー柄のメモが置かれていた。端が少し破れてはいるものの、確かにあれは私が書いた字だ。でも、どうして? あのとき届かなかったハズなのに――
「美香!!」
 慌ただしい足音と共に病室へ飛び込んで来たのは、私の夫、康之だった。外仕事の彼は所々に泥の跡がついた作業着のまま、赤い顔で息をきらしている。
「康之……?」
「ああっ美香、無事でよかっ――」
 安心した表情で歩み寄った彼は、直前でピタリと止まった。彼の視線は私の胸の上に注がれている。初めて見る我が子に戸惑っているのか、口が開いたままだ。
 そんな夫の姿を見て、急に実感が湧いてきた。
 ――この人の、子供。この子は、私たち二人の子なんだ。この胸の小さな温もりを、どれほど願い続けてきたか。肌で感じる、確かな命。じわじわと湧き上がるのは、これまで味わったどの感情とも違っていた。さきほどまで強張っていた顔が、思わず緩む。
「ふふ……ほら、触ってあげて?」
 夫は手を出したり引っ込めたりしながら、ようやく我が子の頬に触れた。赤みがかった小さな頬がくぼむのを見ると、夫の目からは大粒の涙がこぼれた。
「――おっ、俺……」
「康之?」
 初めて見る夫の姿に少し戸惑いながらも、これから語られる彼の言葉をひとことも聞き漏らすまいと、じっと耳を傾ける。
「……俺、怖かったんだ。この子を失うのもそうだけど、もしかしたらお前がまた、辛い思いをするんじゃないかって……男の俺は見ていることしかできなくて、お前に何もしてやれなくて。もし、今度はお前の身にも何かあったらって思うと、すごく不安で……でもお前は俺よりずっと大きな不安抱えてるだろうから、こんな弱気なこと言えなくて……」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、必死に言葉を紡ぐ。そんな夫の姿に、私の目にも涙が滲む。なんだ、そうだったんだ。この人も……不安だったんだ。
「……ばかね」
 この言葉は自分自身にも向けられていた。ほんのちょっとのすれ違い。お互いが不安を見せまいと意地を張り、気を揉んで疲弊し、いつの間にか素直に向き合えなくなっていた。ただ、それだけのこと。
 夫は微笑む私の頭をひと撫ですると、耳元で囁いた。
「頑張ってくれてありがとう。――愛してる」
「――っ!」
 夫の口から初めて聞く言葉。「好き」の気持ちは伝え合っても、照れ屋な彼は、その言葉だけは決して口にしなかった。そう分かっていながら、私が心のどこかで求め続けてきた言葉。
 私の中にあったドロドロとした醜い感情が、溢れる涙とともに流れてゆく。これまでの苦悩が嘘だったかのように、全てが浄化され、彼への純粋な愛しさだけが心に還る。
 彼は私の反応を見て照れくさそうに笑ってから、お前もな、と息子の額に自らの額を重ねた。
 その光景に、私とモーの姿が重なる。
「モー……」
 夫に視線を向け、頭に浮かんだ彼のことを尋ねる。
「モーは? ……それに私、どうやってここへ? 救急車、呼べなかったのに――」
 すると私たちの様子を静観していた看護師がこちらへ歩み寄り、それが不思議なのよ、と語りだす。太眉の医師はお役御免と思ったのか、お大事に、と小さくひとこと言い残してその場を去り、病室には一家三人と看護師の、四人だけが残った。
 初めは、別の通報だった。私が意識朦朧としていた頃だ。アパートの前で男の子を撥ねたと運転手からの通報があり、救急車は急いで現地へ向かった。
 怯えて確認できていないという運転手が指さす方向には、恐らく撥ねたあと驚いて突っ込んだのだろう、白のバンが、道端の道路標識にめり込んでいた。救急隊員は車の下や周辺をくまなく探すが、人の姿は見当たらない。誤報かとも思い始めた隊員は、せめて目撃者がいないかと目の前のアパート、最も現場に近い部屋を訪ねる。
 そこが、私たちの部屋。半開きになった扉を不自然に思った救急隊員は声をかけながら取っ手を引く。そして、台所に血を流して倒れる私の姿を発見したのだ。すぐに応急処置が施され、私はこの病院へと運ばれた。
「……? 男の子、は?」
 私の問いかけを予想していたかのように、看護師は、そうなのよ! と話を続ける。
「これは私もあとになって聞いたんだけどね、あらためて警察が調べるとやっぱり男の子なんていなくて、数メートル離れたところに猫の死体が転がってたって。その猫の様子から見て、運転手は猫を撥ねて、人と勘違いしたんだろうって言うのよ。でもおかしいでしょ? 今この話題で持ちきりで――」
 完全に世間話と化した看護師の言葉を脳内で遮り、その中のひとつの言葉だけを反芻する。猫……猫――? 呼吸が乱れ、眠る我が子を抱く胸は上下に大きく揺れる。
「その、猫って、どんな――?」
「ん? 白毛に黒のブチらしいわよ?」
 看護師の信じがたい言葉に、その場で叫び声をあげそうになる。不思議なまでの確信が、私の正気を奪っていく。
 モー――!!
 夫も私と同じことに気付いたらしく、驚きの表情を見せる。
 ああ、何ということだろう!? 私はあのとき、モーに助けを求めた。それを聞いたモーは? 玄関へ向かったわ。それから!? 必死に記憶の糸を手繰り寄せる。サイレンが聞こえた……違う、私は聞いたわ。その前。モーの姿が見えなくなってすぐ。大きなブレーキの音、小さな鈍い衝突音、何かが壊れる音。それからしばらくして、サイレンが……。
 
 降り積もった真っ白な雪の上に浮かぶ、モーの黒。
 
 猫には不思議な力があるって聞いたわ。あの話は年老いた猫だった? でも、もしモーがその力を使ったんだとしたら? 私のために人の姿をして、自ら車の前に飛び出たのだとしたら?
 自分だって寂しかったハズなのに。最後のあのやりとりは仲直りなんかじゃない、別れの挨拶だったんだ! あのメモを私の手に握らせ、これで大丈夫だよって! 私の鼻を舐めて、ばいばい、って!
 そのとき、私は? ……私は何も返してない、あなたにスキスキってすら、言えてない! ああ、モー……モー――!!

「美香……」
 赤ん坊を胸に乗せ、仰向けのまま泣きじゃくる私の頬を、夫がそっと撫でる。
「康之……どうしよう!? 私のせいでモーが、モーが……!!」
 状況をつかめない看護師は、きまり悪そうに口を噤むと医療器具の整理を始めた。病室には器具が重なる高い音と、私の嗚咽ばかりが響き渡る。声をあげて泣き、枕に水溜まりができては消えていく。
「ふぇ……」
 眠りから目覚めた息子が、私と一緒に泣きだす。小さな口をいっぱいに広げて泣く我が子の頭を撫でながら、夫が言う。
「守って……くれたんだな、モーが。お前もこの子も、モーが助けてくれたんだな。……モーには、お礼言わなきゃなぁ……」
 その言葉を聞いて、私は口を結んで固く目を閉じる。そしてゆっくり、しゃくりあげながらも大きく息を吸って呼吸を整える。泣き続ける我が子を見つめ額に触れると、くしゅっと顔を寄せてから泣き止んだ。私と夫は顔を見合わせ、モーみたい、と呟く。涙だらけの自分の顔を袖で拭うと、胸の中で語りかける。
 ねぇ、モー……聞こえてる? あなたのおかげで私もこの子も、命を救われた。それだけじゃない、不安にのまれかけていた私の心まで、あなたは救ってくれたのよ。
 夫は私の手を握ると、二人の腕で我が子の上に橋を架けた。もう一人の息子も、一緒に抱き締めてあげられるように。
 
 帰ったら、凍える体にお墓を作ってあげよう。家が建ったら、その庭に。いつまでもいつまでも家族四人、一緒に居られるように。
 今も……いるよね? ここに。お別れじゃ、ないよね?
 
 瞬きをした目から、最後に一粒だけ、涙がこぼれた。
「……キスキス、モー」

****

 ――夢を見た。君の夢。
 
 君はあの頃と何も変わらない。
 ふくよかな白い体に艶のある黒を浮かべ、透き通った瞳で私を見つめる。
 穏やかなその顔は、笑っているようにさえ見える。
 君は私の手の甲に頬をすり寄せ、私がその体を抱き上げると、鼻先にそっとキスをする。
 そして――
「タダイマ」
 ――玄関が開く音で目が覚めた。真っ先に目を向けたのは、四年前に泣きながら作った君のお墓。君が好むと思って選んだ日当たりの良い庭先が、この家での君の特等席。その名が彫られたプレートの下に、今も君は眠っている。
 夢の中での久しい再会。思わぬ懐旧の余韻にひたっていると、四歳になった息子が私の顔を覗き込んできた。
「ママ?」
「ん、帰ったのね。おかえり」
 さっきの声は、この子のものだったのだろうか?
 あとから夫が顔を出す。両手には新しいおもちゃの箱。二人で買い物に出掛けていたのだ。
 息子を抱えようと手を伸ばしたとき、そのうしろに何かを隠していることに気付いた。
「?」
「あっ、ママ、あのね、んとね……」
 遠慮がちに差し出された小さな両腕の中には、白黒模様の子猫がいた。
 夫は息子のうしろに屈みこむと、さっき拾ったんだよな、と言って息子の頭に手をのせた。言葉につまる私を、息子も子猫も無垢な瞳でじっと見つめる。
「このこ、おうちにいても、いーい?」
 目から涙ばかりが溢れ出て、息子の問いかけに答えることができない。だってその子猫は、幼い頃の君そのものだったから。
 口元を押さえたまま、首だけを何度も縦に振る。
「ママ? どうしてなくの?」
 心配する息子を、子猫ごと胸に抱き締める。……強く、強く。
「何でもないのよ。……ねぇ、このコの名前、ママがつけてもいい?」
 ――また私に呼ばせてくれる? 懐かしくて愛しい、君の名前を。
 あのときのように聞いてくれる? いっそう募った、君への想いを。
「ママが? いいよぉ、なんてなまえ?」
「ふふ、それはね――」

 庭には眩しいほどの光が差し込み、緑の生垣が深い影をおとす。その下の君が眠る場所から、またあの声を聞いた気がした。
 あとでちゃんと応えなきゃ。眠っている君に。そして目の前にいる、小さな君に。あの日言いそびれた、二人だけの合言葉とともに。

 キスキス・モー

  了


睦月カオル(むつき・かおる)

  どんな内容でも、読後にほんのり気持ちが温かくなるような話作りを目標にしています。

 

ひろ - イラスト特別提供 -

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