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大冒険に乗り出す「私」のデータ

イタリアで新しい漫画を作る大冒険ってどういうことかと言うと…

漫画というのはほぼ世界中にある表現方法ではある。ただし、ページはコマで割ってある」、「絵があって登場人物の台詞がフキダシで表現される絵と文を組み合わせた表現であるというのが共通点で、その構築法は各国によって時には微妙に、時には大きく違う。

 

大きく違う構築法をもつものは我が日本の漫画だ。

 

しかしながら、日本の漫画は世界中で受け入れられている。漫画がもてはやされる前は、アニメが放映され、アニメ人気で漫画も受けるのだろう、と思われていた。アニメになる漫画以外にも漫画がたくさんあることが発見されてからは、アニメ以外の漫画も発行されるようになった。つまり、アニメの全国ネットテレビ放映という、紛れもない大宣伝のおかげだけで日本の漫画が受け入れられた訳ではないということだ。

 

つまり、日本の漫画の構築法は普遍的である、ということだ。

 

ここ、イタリアで見る漫画家志望者や、イタリア漫画界が小さいので少しましなフランス漫画界で仕事をする漫画家の絵の質の高さは相当なものがある。

 

質の高い絵と普遍的な日本の漫画の構築法をミックスして新しい漫画を作ろう、その作業の実況中継をしていこう、というのがこの本だ。

 

日本の漫画とそれ以外の構築法の違いとか、新しい漫画を作る方法などについては別の章に譲る。とりあえず、この大冒険に乗り出した筆者が誰なのかから始めたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


マンガと一緒に成長

私は昭29年(1954年)に生まれた。かの昭和30年代に幼少時を過ごしたわけだ。字を比較的早く覚え、家に下宿をしていたお兄さんが「ぼくら」とか「少年」とかの漫画雑誌を購買していたので、しょっちゅう部屋に遊びに行って、頭がくらくらしてくるまで漫画にひたった。紫電改のタカという、ちばてつやの漫画を衝撃をもって覚えている。

 

当時、貸本屋という商売があり、通っていた銭湯の真ん前に一軒あった。父とお風呂に行くと、本好きの父は必ず貸本屋に寄ったので、私も一緒に本を借りた。文学作品も借りたし漫画も借りた。下宿のお兄さんの少年漫画や母に買ってもらう少女漫画と全く違う毛色の劇画があって、白戸三平の忍者漫画で人が切られて血が飛び散る表現に驚いたりした。血が飛び散ると言っても、筆の先でチョンチョンと付けたような、黒く小さな点がたくさん集まったような描き方をしていて、今の表現から見たらシンボリックで恐ろしくはない。

 

小学生低学年の時に講談社から少女フレンド、集英社からマーガレットという二大少女向け週刊紙が創刊された。中学時代に少年ジャンプが永井豪を筆頭に若手漫画家を起用して、少年マガジン、少年サンデーとは違う作品群が登場した。永井豪のハレンチ学園が大ヒットし、それまでにはなかったことだけれど、漫画家のプロマイドがジャンプに付録としてついた号があった。若き永井豪の写真を、私は丁寧に雑誌からはずして、勉強机の前に貼ったりしたものだ。

 

高校時代はガロやコムという、それまでの商業誌には見られなかった前衛的な作品を掲載する雑誌が登場し、少年サンデーのオバケのQ太郎が大学生にも読まれていると新聞沙汰になり、少年マガジンでは劇画家を採用したシリーズを掲載し、巨人の星、愛と誠、など、太い物語を持った作品が登場して漫画の世界が大いに広がるのを見た。そして、24年組と呼ばれる女性漫画家達が登場し、それまでのお涙ちょうだいや、ふわふわの恋愛ものではなく、本格SFで少女漫画の枠を大いに広げてくれたのを同時進行で体験した。

 

大学時代になると、漫画家達も私と一緒に成長し、出版社もそれに気がついて青年漫画雑誌

 

が次々と創刊された。つまり、漫画の推移、成長、発達経緯を私の成長と共に見てきたことになる。


モーニング編集部とお近づきになって第一歩が始まる。

短大を出た友達が講談社の子会社に就職し、少年マガジン編集部に配属されたことで、講談社に近づくことになる。もっとも、この時は編集者を一人紹介してもらってお寿司をごちそうになったくらいなのだけれども。

 

そして、運命の悪戯でイタリアのローマに赴くことになる。嗜好は、住む場所が違っても変わらない。イタリアに初めて訪れた時から5~6年の間にイタリア漫画界で新ムーブメントが起こった。ちょうどそういう時に遭遇したのだから、漫画の神様は私に漫画に関われと言ったわけだ。イタリアでは次々と新雑誌が創刊になり、それまでのシリアスな絵柄のカウボーイものや犯罪もの等とは似ても似つかない、それぞれの作家独自の絵柄をもった、また、ナンセンスだったり、若者の日常生活だったり、扱うジャンルも多様な作品がどんどん現れた。 

ひょっとして仕事に結び付くといいな、という下心をもってイタリアで創刊される漫画雑誌を全部買って、版型、出版社名、掲載作品のタイトルと作家名と簡単な内容を書いた紙をつけて、紹介された編集者に送った。その編集者が当時の漫画編集部を取りまとめる局の局長、かつての少年マガジン編集長を紹介してくれて、このレポートを局長に送ることになった。局長は外国の漫画にも興味を持っていたので、レポートを送ることをアルバイトにしませんか?と願ってもない申し出を受けて、講談社の漫画編集との関係が太くなった。

 

そして、局長からモーニングの創刊者・編集長を紹介されることになる。

この編集長も海外の作品に興味を持っていた。海外で発表された作品を翻訳するのではなくて、日本の市場のために書き下ろしてくれる外国人作家を探していた。

 

ちょこっと寄り道すると、外国から日本へ書き下ろしのジャンルの中に私もいれてくれたのだった。漫画家になりたかった話をすると、ローマで見聞きしたことを漫画にして描いてみませんか?と言ってくれたのだった。2ページから4ページの、その頃には珍しかったエッセイ漫画「ローマの生活」を2年ほど描いた。

 

本筋に戻る。

探すうちに作家が増えていき、イタリアからは4人参加して私はモーニングローマ支局となった。当時、私のローマ支局以外に、パリ、バルセロナ、ハンブルグ、香港、ソウルにそれぞれ支局があった。U.S.A.ともコンタクトがあったけれど、支局員がいたかどうか記憶が定かではない。支局は1989年から10年間続いた。漫画作品作りを目の辺りにし、編集部と外国人作家がなかなかわかりあえない難しさを目の辺りにし、日本の漫画と日本以外の漫画の構築法の違いを目の辺りにした10年間だった。

不況を理由に海外支局は閉鎖になり、この実験的な企画も中座した。そして、私はローマにある漫画学校に「MANGAセミナー」の講師として迎えられた。

 

あれれ?!

ちょっと待って下さい、と、ここで筆者は思った。

 幼少からマンガを読み始め、読み続けた筋金入りのマンガ読者である。

 10年間外部編集者として漫画制作に関わった。

 2年間漫画家として作品を制作した。

 日本人として日本に生まれ育ち、マンガの構築法を生んだところの日本のメンタリティを持っている。

 イタリアに家族を持ち、イタリア人の中で生活と仕事をして、イタリアのメンタリティを熟知している。

 マンガ学校の講師というイタリアの漫画家志望者を目の前にする機会を得た。

 

世界中で受け入れられているマンガ構築法を、メンタリティの違うイタリア人に説明できる私がこの環境を生かさないではお天道さまに申し訳ないではないか!!

 

かくして大冒険に出発することにしたのであります。


奥付



【2013-09-30】イタリアで新しい漫画を作る大冒険


http://p.booklog.jp/book/77255


著者 : midorom
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/midorom/profile


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この本の内容は以上です。


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